* この物語はフィクションであり、登場する人物、企業、
団体、一部政府機関の名称は架空のものです(著者)。




第三十七話




 店の前の公衆電話から有佳に連絡を入れてみた。
 『井坂さんの病院に電話したわ』
 「そうか。もうベッドから起き上がれるようになったか」 
 『うん。元気だった。それでね、すごく心配してくれて、”どうやって帰るんや?”って聞くから、・・・ラオスから帰る、って答えちゃった』
 ここしばらく音信を絶っているにもかかわらず、井坂は有佳に帰国の挨拶を急がせた島崎の目論見を正確に読み取っていた。
 「お前は口が軽いなあ」
 思わず口元を緩めて島崎は言った。
 「敵を欺くにはまず味方から、っていうだろう?」
 『ごめんなさい』
 「まあ、吐いた唾は飲み込めない。これからは気をつけるんだぞ」
 『うん』
 電話を置いて店に入ると、島崎は陳支配人の姿を認めて手をあげた、
 「旭芳ちゃんはお元気?」
 「元気ないよ」
 陳は退屈そうに言った、
 「元受エージェントが行方不明で資金が来ない。ニューヨークの家族はきちんと払う、と言っているけど、大陸の父豚は保証しない」
 「どんどんアメリカが遠くなる。可哀想にな、姉ちゃん。でも、陳さんが費用を立て替えてやればいいじゃないか」
 「私は華僑よ」
 どれほど親しい人間でもビジネスではけじめをつける、という意味らしい。島崎は身を乗り出して訊いた、
 「陳さんが徐旭芳をニューヨークへ連れて行って、もし、彼女の家族がきちんと清算したら、父豚と元受への配当は不要だな。あんたの手許には、幾ら残る?」
 「三万二千USドル」
 島崎は以前にドクター滝から受け取った百万円入りの封筒をテーブルに載せた。
 「すべて上手くいったら、おれに一万六千ドルをくれ」
 徐旭芳の家族が報酬を払わなかったり、陳がとぼけてしまえば提供した資金はフイになる。島崎の投機を初めて目撃する陳だったが、驚きもせず、口を閉ざして”出資の条件”を促した。
 「急な話しで申し訳ないんだが、明日、有佳を連れて日本へ発つ。ついては”本”の加工と、そちらの日程を我々に合わせて頂くよう、お願いしたい」
 しばらく考え込んで、陳は百枚の一万円札を八十五枚と十五枚に分けた、
 「配当は一万三千六百ドル。どうだ?」
 十五万円は、陳のパスポート加工賃らしい。
 「わかったよ。さすがは華僑だ。いいよ、手を打とう」
 すると陳は十五万円を島崎に押し返し、
 「島崎さん。日本人のくせに日本円を全然持っていないと変だよ」
 有佳の写真を眺めながら、釈然としない面持ちで慨嘆した、
 「あなたは旭芳、私は有佳と会って自分のルールを曲げてしまった。私たち、どっちもばかだなあ」
 「恩に着るよ、陳さん」
 十五万円が島崎の懐に納まるのを見届けて、陳はジャズクラブ支配人の温厚な顔から、変造パスポート屋の蔭ある顔になった。
 「オリジナルの本は?」
 「これからシロムで仕入れる」
 「信用できるか?」
 「わからない。でも、若い娘のパスポートなんて、娑婆じゃ簡単に手にはいらないもんな」
 これを受けて陳は淡白にいった、
 「ルーティングは?」
 この相手に、有佳に対するような嘘をつくわけにはいかない。
 「ドンムアンから国内線でハジャイへ飛ぶ。ハジャイ空港から車で直行して一時間。サダオのゲートからマレーシアへ抜ける」
 「仔豚だったら反対するけれど、本物の日本人が”二番”で通るだけなら、わるくない。・・・それから?」
 「クアラルンプールに寄りたいところがある」
 場違いな発言に陳は異論を唱えなかった。最も危険とされるタイ国境を出たら、のんびり数日間の滞在を挟んだほうが、パスポートを見る者たちを納得させやすいからである。島崎は続けた、
 「KL(クアラルンプール)でMH(マレーシア航空)の日本行きの片道チケットを買って、NRT(成田)或いはKIX(関西新空港)へ飛ぶ」
 記号が混ざると陳の頭脳は俄然、聡明になった、
 「KLからSQ(シンガポール航空)に乗って、チャンギ空港トランジットで、深夜発の成田行き。チケットはオープンで往復買う。・・・そのほうが安全だ」
 陳のアドバイスは、自作の変造旅券の品質保証と言っていい。 
 「それで、私と仔豚はどうするか?」
 「ラオスだ」
 島崎は夕方プラカノンの旅行代理店で買い求めた、タイ航空国内線のチケットを四冊ならべると、真摯な眼差しで言った、
 「ウドンタニ空港からリムジンバスでノンカイへ向かう。ノンカイに着いたら、メコン川のカンガルー橋を渡るバスに乗り換えてヴィエンチャン入りしてほしい。あとは陳さん次第だ。いずれにしても、マレーシアルートと違って、大陸中国にくっついたラオスは豚さんにとっても広き門と聞いている」
 南部の主要都市ハジャイとラオスに程近い北東地方のウドンタニ。ふたつのベクトルは明確に背中分かれしている。陳はアマチュアの判断を是認して、頷いた。合格印をもらうと島崎は、二組に分けた四冊の表紙をそれぞれひらき、説明を続けた、
 「ドンムアン発の国内線は朝の六時五十分にウドンタニ行きのTG002便、そして七時五分にハジャイ行きのTG231便のフライトが揃っている。ボーディングゲートは、
いつも隣り合わせだ」
 自らはウドンタニ行きの組を拾い上げ、ハジャイ行きを陳へ押し付けた。陳が覗き込むと、ウドンタニ空港行きは島崎と有佳、ハジャイ空港行きは陳と旭芳の本名が明記されている。
 「チェックインはあべこべだ。搭乗券はターミナルの中で交換する」
つまり陳と島崎、旭芳と有佳が入れ替わって飛行機に乗り込み、タイの空を飛ぶことになる。やけにもったいぶったトリックである。疑り深げに陳は言った、
 「ウドンタニ空港で何か問題が起きるんじゃないか?」
 口篭もりながらも、島崎は明るく答えた、
 「チャトチャクの家は電話が盗聴されているはずだ。有佳がラオスへ行くってペラペラしゃべってくれたからね、今ごろ敵方の刺客がウドンタニへ飛んでいるはずだ。
しかし、心配するな。やつらの狙いはこのおれの首だ。馬や仔豚を苛めている暇はない」
 黒社会の男が、犯罪組織の合理的な思考を理解するのはたやすい。陳は納得した。そして時針が七時をさす腕時計をのぞかせた、
 「女のパスポートなら年齢に拘る必要はない。私がよい仕事をするために欲しい時間は、五時間だ」
 マレーシアからシンガポール経由で成田、これが付帯する条件である。ブラックマーケットの開場は午前零時。今すぐ行っても物は手に入るが、少しでも鮮度が高いものを購入しようと思ったら、あと五時間待つしかない。ギリギリの勝負だった。

 有佳は壊れたベッドで、バンコク最後の夜を過ごすことができるけれど、島崎にはこれから夜もすがらの作業が待ち受けていた。そうなると握り飯だけでは腹が持たない。あらためて胃袋を満たしておこうと思った。
 そうは言うものの、同じ日に二回、『食いの国』へ寄り道したのは単なる気まぐれだった。
 『食いの国』はいつになく賑やかだった。暖簾をくぐると、カウンターを占拠する四人連れのバックパッカーがはしゃいでいて、常連は隅っこのテーブルで不愉快そうに傍若無人な若者たちを睨んでいた。
 四人がけのテーブルに一人で座る電機メーカーの駐在員と目が合った。満席なので、島崎は相席した。
 「なあ、島ちゃん。なんなんだよ、あのガキどもは。四人いるならこっちのテーブルに座りゃいいじゃねえか。カウンター席ってのは、そもそもひとりで来る客のためにあるんだぞ」
 電機メーカーの反感が常連客の総意らしかった。こんな些細なことでカリカリしている邦人連中が、今夜は妙に懐かしかった。予定通りに事が運べば、明日のこの時間、島崎はマレーシアという別の国にいるのだ。
 「そんなジジイみてえな理屈は、あいつらに通じねえって」
 島崎がお品書きを覗き始めると、若者のひとりがひときわ大きな声をあげた、
 「べつにどうだっていいじゃないすか、おじさん。ボクたちはですね、あなたたちがゴルフに興じているあいだ、この国の庶民の暮らしを体験してるんだから」
 毛並みの変わった人々に因縁を吹っかけているやつがいた。カウンターの縁に追いやられていた不動産屋が怒鳴った、
 「なにをいうか、貴様。それでもニッポン人か!」
 「こわーい!」
 目を丸くする真中のひとりは、紅一点の女子大生だった。
 「若い人に威張るなよ、オヤジ。脈絡がないぞ。ナンセンス」
 不動産屋の奥から、全共闘世代を代表するかのようにレンタルビデオ屋がいった、
 「そうそう。この国の貧乏人の暮らしを思う存分体験してちょうだい。まず男の子はスラムのギャングに弟子入りして人間のひとりくらい殺しておいで。ギャルはトルコ風呂へどうぞ。そうすりゃいやでもこの国の貧乏がどういうものか理解できますよ。ねえ、君たち。こんなどうしょうもない親父ばかりの店でどっぷり日本文化に浸っていることはないでしょう。いますぐ、その筋のタイ人を紹介してあげます」
 レンタルビデオ屋はこれ見よがしに携帯電話を取り出した。
 「あいつも見かけによらず、暗い性格しているな」
 電機メーカーの感想を受けて、島崎も悲しげにいった、
 「日頃よっぽど悔しい体験を積んでいるんだろうな、あのコンビ」
 「そうよ!」
 突然真中の娘が立ち上がり、情感豊かにしゃべり出した。
 「たしかに私たちは正しくないかもしれない。でも、そんなことはどうでもいいの。旅はいつも新鮮で衝撃的な体験をあたしたちにあたえてくれる。知らない世界との出会いが旅のすべてだわ」
 それまで観光客の世迷い言と、彼らにからむ邦人の因縁を聞き流していた全員が、ぽかんと口をあけて、大形なゼスチャーをくりだす娘を注視していた。
 「ありゃなんだ・・・?駿河台界隈のアングラ劇場の女優みたいだぞ」
 電機メーカーは瞳孔をひろげて呟いた。
 ステージでスポットライトを浴びているような恍惚の面差しで娘はとうとうとしゃべり続けた。
 「これがあたしのパスポート」
 娘はとろけるような眼差しで青い表紙の五年物をかかげた、
 「スリリングな思い出がぎっしり詰まった、宝物・・・」
 島崎の瞳孔もおおきく開いていた。
 ---あれを、もらおうっ! ---
 素性のはっきりしたオリジナルのほうが、ブラックマーケットの商品より手堅いのは当然である。宝物を盗むのは気が引けたが、そもそも旅券は外務省が国民に貸与するものであり、個人の所有物ではない。スリリングのキャリアを積みたい彼女なら利害は合致するし、思い違いも正してあげられる。都合よく島崎は即決して、店主に声をかけた。
 「ちょっと、マスター。おれタバコを買いに行ってくるわ」
 「タバコならうちにも置いてありますぜ」
 レジの脇には、セブンスターとマイルドセブンが並んでいた。
 「クロンティップはあるか?」
 店主は焼き鳥の火加減を覗きながらいった、
 「外へどうぞ」
 プリンセスホテルで食事をしたらまた現場に戻る、とプラセットは言っていた。先刻の歩道は近かった。島崎は転がるように外へ出ると、大急ぎで夜のスクムビット通りを走った。果たしてトタン塀の裏手にジャガーは停められていたが、プラセットの姿が見当たらない。好条件な場所に移動したらしい。歩道橋の上へ駆け上がってみると、プラセットは腹ばいになって演技を続けていた。
 「今日はよく会うな、チマ」
 「プラさん、探したぜ」
 言うが早いか、島崎は勝手に乞食グッズを片付けはじめた。
 「まて、何をするんだ」
 「手伝ってほしいことがある。今日は店じまいだ。日本の女子大生を口説いてくれ。プラさんみたいな苦みばしった中年に言い寄られたら、若い娘はイチコロだぜ」
 「そうか」
 人目もはばからず、プラセットは義足を島崎に投げて寄越すと、猛然と歩道橋の階段を駆け下りた。ジャガーの傍らで着替えを始めるプラセットに島崎は計画の手順を耳打ちした。
 「いかん!」
 男は真蒼になった。
 「そんな大それた悪戯をしたら、特高警察に捕まってしまう」
 盗むだけでは心許ない。パスポートの紛失に気づいてすぐ警察へ届け出られたらお終いである。いくら本人が強がって見せようと、有佳を捕まらせるわけにはいかなかった。パスポートのオリジナル携行人には、島崎と有佳がタイを出国するまで、どこかに軟禁しておくのが無難だった。だが、密航作戦を打ち明けられたわけでもないプラセットがうろたえたのは、これから演技しなければならない役柄のためだった。


 賑やかだった若者たちは、突如現れた、自分たち以上に異質な客を、固唾を飲んで見守っていた。
 「やっぱり、何処かが違うな」
 すっかり毒気を抜かれた不動産屋が言うと、レンタルビデオが頷いた、
 「ああ、流石は王子さまだ。おれも真似してみようかな?」
 「やめとけやめとけ。下賎が真似をしたって危ない奴にしか見えないんだから」
 サングラスをかけ、厳かな仕草で金色ナイフとフォークをあやつり黙々と焼き鳥を賞味するプラセットの姿は、異様だった。 
 「ガーパヂャオ(まろ)は忍びであるぞ」
 ひれ伏して料理を献じる従業員に、上ずった声で懇ろに言うと、プラセットは傍らに立つ島崎を手招きして耳元に小声でわめいた、
 「王族に化けろ、だなんて、たいへんなことになるぞ」
 タイの王族は大勢いる。国王とそのごく周辺の人々はひろく庶民に親しまれているが、すこし離れてしまうと、誰が誰だか、一般のタイ人はほとんどわかっていない。したがって王室の権威はしばしば一人歩きをはじめ、偽者を生み出しては、ささやかな騒ぎを惹き起こした。不敬罪が存在する国では、この法律を徹底するための独立した警察機構が設けられており、偽王族はお縄になれば、もちろん重罪に問われる。
 「おれは一言もプラさんが王族だなんていっていないよ。”たいへんな方が日本食をご所望あそばされている。くれぐれも粗相のないように”って言ったんだ。あいつらが勝手に解釈しただけだ」
 かつて一度だけ、島崎はソムチャイ・ポラカンを、『食いの国』へ案内したことがある。その縁で、のちにタイ首相となる人物が焼き鳥を食べに来た。高級軍人も日本酒を楽しんだ。つまり、この店に集まる面々には島崎の奇妙な人脈の存在を過大に信じてしまうだけの理由があった。
 「おまえはいい。捕まるのはこのガーパヂャオだ」
 「わかったよ。早めに切り上げよう」
 ひそひそ話しを打ち切ると、島崎は恭しくカウンターの娘に話し掛けた、
 「たいへん失礼ですが、殿下はあなたを日本の映画女優ではないか、とお尋ねになられていらっしゃいますが」
 「え?あたしが」
 天に昇るような面持ちだった。
 「女優だなんて、ちがいますよぅ。でも、よく間違われるけど」
 すでに同行の三人は彼女の瞳にボロ雑巾として写っているのがわかった。吹き出したい衝動をこらえて、島崎は解説した、
 「殿下は熱烈な日本映画のファンでいらっしゃいます。大のお気に入りは、『男はつらいよ』でございます。また、『ゴジラ』にも大変造詣が深く、ついにはわざわざ日本からその製作スタッフを招いて独自のゴジラ風作品をお作りになったほどの入れ込みようです。その筋書きたるや、『ブラサガリ』という角の生えたゴジラもどきの怪獣が、バリバリ鉄を食らいながら、このいまいましいバンコクの街をめちゃくちゃにぶっ壊すという、それは溜飲が下がる傑作と申せましょうか、たいそうな抱腹絶倒ものでございますよ」
 「まあ、楽しそうなお方」
 「ちょっと待てや、島ちゃん」
 レンタルビデオ屋が背後から口を挟んだ、
 「その贋ゴジラを作らせたのは別の国の偉い人じゃなかったっけ?」
 島崎のしたたかな肘鉄が、鈍い音を立ててレンタルビデオ屋のわき腹へ深くめり込んだ。
 「うおっ!どうした、ビデオ屋!」
 不動産屋が白い泡を吹いて床に崩れる男の介抱をはじめても、島崎は女子大生への語りかけをやめなかった、
 「如何で御座いましょう。素晴らしいワインを揃えた店があります。よろしかったらお近づきのしるしに、殿下に、奢らせてください」
 「わしを置いて死ぬなあ!目を覚ませ!こんじょなし!」
 背後ではじける往復びんたの乾いた音がわずらわしい。しかし、島崎は全神経を娘の回答に集中させていた。
 「ええ。よろこんで」
 王族とのアバンチュールの予感が、女子大生の顔を輝かせていた。かどわかしは成功である。本心から頭を下げて、
 「お邪魔でしょうが、不肖、このわたくしめが通訳を勤めさせて戴きます」
 島崎は最初の交渉を纏め上げた。
 「まあ、素敵!」
 スクムビットの灯りがボンネットで揺らめくジャガーを前にすると若い娘は黄色い歓声をはりあげた、
 「殿下の車なら、いくらスピードを出しても捕まりませんよね。あたし、ペーパードライバーなんですけれど、いっぺん外国でこういう車を運転してみたかったの。きゃあ、うれしい!」
 プラセットに通訳するまでもない。島崎はうろたえた、
 「ちょっと、運転ばかりは、まずいんじゃないのかな」
 「やっぱり、だめ?」
 拗ねる女子大生は名前を高野美咲といった。
 「そうね。何事も用心するに越したことはないわ」
 だいぶ常識感覚がずれているけれど、まんざら頭が悪い女でもなかった。ひったくり防止にディパックを落下傘のように胸にかけるスタイルが習慣になっている彼女は、殿下に同行する誉れに浴しながらも、傍目に奇妙な格好を崩そうとはしなかった。こうなるといくら島崎でもパスポートを盗み出すタイミングがなかなか掴めない。狭い後部シートに潜り込んだ男は、ハンドルを握る贋王子を唆してニューハーフショーや市場など、美咲の注意力をそぎそうな場所をいくつか回ってみたが、すべては徒労に終わった。
 「殿下は日本人のビギナーツーリストが行くような場所をお好みのようですね」
 アトラクションは、単につまらなかったようだ。ベテランのバッグパッカーを自認している助手席の美咲は慇懃に突っ込んだ。
 「殿下は・・・」
 少し考えて島崎は言った、
 「ご覧のとおり、実に気さくな方でいらっしゃいます。こうして高貴な身分を隠して直に巷を歩かれ、民情に接せられ、善政に活かされておいでなのですよ」
 「つまり、暴れん坊将軍ですね」
 「天一坊かも知れませんが。まあそれはともかく、輓近ではご存知のとおり、タイは産業が停滞してすっかり経済苦境に立っております。為政者は本来の観光事業に景気回復の期待を寄せているが、資金がないから新しいホテルの建設もままならない。彼らは現場を見ないで物を言っているから、打ち出す政策はどれも非現実的です。そこで英明なる人民の太陽、偉大な指導者であらせられる殿下はね、そんな地に足のつかない政治家どもを諭すべく、こうして梃入れすべき観光ポイントを逐一点検していらっしゃるのです」
 殿様役のプラセットは、馬丁のように沈黙を守ってハンドルを握っている。運転席と助手席の会話は、全然盛り上がらない。設定に多少の無理があったことを、島崎もようやく認めざるを得なかった。FMクリッサダーが二十三時の時報を流した。
 「なあ、プラ様よ」
 島崎が陰険に囁いた、
 「ラップラオ六十四の城に引っ張り込もう」
 「アパートに連れて行くのか?王侯があんな貧乏くさいアパートに立ち寄るのか?そんなことはありえない」
 「いいんだよ。日本には上様がお忍びで羽を伸ばしていらっしゃる『め組』という有名な消防署があるほどだ。ここはひとまずやつらの常識に譲歩しておけば問題はない」
 「チマ。おまえはいったいどっちの国の人間だ?」
 それでも幾分か気が楽になったとみえて、プラセットは軽やかにハンドルを切った。ゴールデンゲートアパートメントに転がり込むと、早速酒盛りが始まった。オーナーである以上、夜警も、食堂を切り盛りする母娘も、カウンターのオペレーターも、みんなプラセットに対して敬意を払う。そんな雰囲気が、タイ語のわからない高野美咲から漠然とした信用を獲得した。ところがいざ飲み始めてみると、美咲は滅法酒が強かった。島崎はアパートの従業員や帰宅する住民たちを手当たり次第に巻き込んで酒を振舞い座を盛り上げてみたが、いくら飲ませても美咲はまったく酔いつぶれる気配を見せない。そうするうちにプラセットが倒れ、床でアザラシのように昏睡してしまった。
 「殿下がつぶれちゃったよお。つまんない。島さん、飲もぉよぉ」
 美咲はとぼけてコーラを啜っていた島崎に矛先を向けた。下戸です、とはとても言えなかった。美咲が注いで寄越したメコンウイスキーを決死の覚悟で呷った。舌が麻痺して、喉と食道と胃が順繰りに焼け爛れた。早速視界が黒ずんで、ぐるぐる回り、冷たい脂汗が顔面から噴出した。いつもの軽口が叩けなくなり、悪性の頭痛を予感する島崎は、自分に苛立ち、美咲の隙を伺った。
 「どうしたのぉ?こわい顔ぉ」
 怪訝に覗き込む美咲の声にエコーがかかっていた。下戸の苦しみなど彼女にはおそらく一生理解できまい。劣等感を裏返したような怒りが込み上げてきた。自己欺瞞の復讐心に凝り固まって島崎は、運ばれてきた新しい料理に関心をうばわれる美咲のグラスに即効性の睡眠薬を入れた。女はものの数分でぐったりした。
 「最初から、こおすりゃ、よかった」
 たった一杯のメコンで平衡感覚を失った島崎は、美咲のディパックからパスポートを抜き取ると、ヤモリがよじ登るように壁を伝って立ち上がり、夜警と下働きの男にいった、
 「あとは頼むよ。明日の昼まで彼女を四〇一号室へ軟禁しておくように」
 ばたつく面々を尻目に、ふらつきながらソーイの歩道にまろび出ると、タクシーを拾ってシルクセアタへ向かった。恐慌のせいで、急性アルコール中毒はずいぶん軽減されていた。後部シートで過ぎ去る街灯のあかりを頼りに高野美咲のプロフィールを追ってみた。西暦一九七八年生まれの十九歳。パスポートの交付は二年前、発行地は奇しくも清水和彦と同じ埼玉県だった。さしあたって、条件は悪くなかった。


 夜半。帰宅したステファニーは、モスグリーンのバンダナで頭をすっぽり包みこんだ有佳を見て、目を丸くした。昭和の東京から持ち込んだ赤いリュックサックを傍らに置き、アウトレットショップやウイークエンドマーケットで買い集めた衣類やアクセサリーを床で選り分けていた少女はもじもじしながら切り出した、
 「明日、日本へ帰ります。ごめんなさい」
 いつになく冷めた眼差しで丸い頭を見つめたまま、ステファニーはワンピースの上から羽織っていたカーディガンを長椅子の背もたれにひっかけた、
 「コウと会ったの?」
 言わずもがなの問い掛けに、有佳は無言で肯った。
 「ほんとうに、行き当たりばったり・・・コウもいよいよタイ人の男になっちゃったのかしら」
 これを受けて有佳は毅然と答えた、
 「帰国は”緊急避難”なんです」
 ところがステファニーは冷静な声色でいった、
 「緊急避難をしなければならないのは、コウでしょう?どうして寄りによってこんな時期にユウカを連れて行かなければいけないの?ヌンは承服しないわよ」
 曖昧な扱いではあったけれども、タイの司法当局で島崎康士は三人の日本人殺害事件の重要参考人と位置付けられていた。
 「いいこと?タイという国は、あなたたち日本人が想像できないくらい危険な罠がそこらじゅうに張り巡らされているのよ。それなのにコウは侮っていた。身から出た錆びよ。かくなる上はユウカの安全を考えて、一人で逃げるのが大人としての分別じゃなくて」
 「日本へ連れ帰って、って、ユウカが頼んだの」
 有佳はスクムビット101/1の下宿屋に隠された武器弾薬類を思い出しながら、ステファニーを見上げた、
 「コウくんは、抛っておいたら本当に人殺しになっちゃう。自分を罠にかけようとした人を全員殺しちゃうわ」
 「それはユウカが一緒にいればコウは悪さを思いとどまる、って意味かしら?可愛らしい猛獣つかいは素敵な絵の構図だわ」
 非常に微妙な問題だった。島崎康士は眼前の女の夫である。自分の居候というあやふやな立場を思い出して、有佳は刹那、言葉に詰まった。
 「コウが本物の犯罪者になるのなら、それはそれで結構よ。本人の問題なんだから、ヌンがとやかく言うことじゃないわ。でも、パスポートがないのに、あなたはどうやって日本へ帰る気なの?」
 心のどこかで正妻と対決するメロドラマのヒロインを気取り、身構えていた有佳だったが、ステファニーの事務的な物言いに思わず拍子抜けした。
 「コウの段取りですもの。おおかた変造パスポートをユウカに使わせる魂胆でいるんでしょうね」 
 図星なので有佳は黙りつづけた。
 「そんなに怖がらなくてもいいわよ。ヌンは判事じゃないんだから」
 後ろめたい旅路も、バンコクに顧問弁護士が控えていると思うだけでずいぶん気楽になる。先刻井坂に話したことを康士に咎められたばかりではあったけれど、ステファニーも真実を知らせておかなければならない関係者のひとりであると、有佳は判断した、
 「いったんウドンタニへ飛んで、そこからバスでラオスに入国するんです」
 誠実な告白に、ステファニーは感心したように頷き、しばし考え込み、ややあってくすくすと忍び笑いを漏らした、
 「それはもちろん、コウが打ち出したプランニングね?わかったわ。帰国のこと、話半分で聞いておきましょう」
 ステファニーはがらりと調子を変えて、しかし神妙な面持ちは崩さず、唐突に切り出した、
 「あなたは日本人だから訊いてみたいの。ユウカは原子爆弾をどう思う?」
 「どうしたの、ヌンさん?急に原爆なんて・・・」
 反射的に井坂の昔話を思い出し、あっけにとられながらも被爆国の少女は悲しげにいった。
 「これから、どこかの国で原子爆弾を破裂させる話が持ち上がったら、ユウカはどう思うかしら?」
 「反対する。絶対にゆるせないよ」
 「そうね。ヌンの身体には半分、ユウカやコウの国に原爆を落とした国民の血が流れている。でも、やっぱり認めることができないわ」
 有佳は察知した。もし自分が気ぜわしく帰国の件を言い出さなければ、ステファニーは何らかの新しい情報を伴う原爆の話しがしたかったに違いない、と。
 「でもね、ユウカ。世の中には核爆弾を平和利用する方法があるんですって」
 ソファに腰掛けて有佳は自分の推察にうなずいた。
 「今日、大学時代の先輩だったジラパン・ポンサネーさんという下院議員から事務所に電話があったの。クラ運河の採掘工事に核爆弾を使うプランがあるそうよ。これによって、工期や工費が大幅に削減できるらしいの」
 痴情にほど遠いクールな空間で生きる女は、淡々とおそるべき話題を持ち出した。
有佳も精一杯、冷静な調子でつぶやいた、
 「コウくんは、どう思っているんだろう?」
 「おそらく、彼はまだ知らないはずよ。ジラパン事務所へ核爆弾の話が持ち込まれたのは今朝のこと。もっとも打診者は日本の衆議院議員の秘書だったらしいけれど」
 有佳は目を見開いた、
 「もしかして、ヤナギダって人の秘書じゃないでしょう?」
 「カキ...なんとか、って言っていたわね。最近日本の保守政党から分裂して結成された党派の人だったそうよ」
 柳田征四郎は、昭和時代の有佳も毎日のニュースで名前を耳にしていた大きな政党に籍を置いている。果たして、核爆弾の使用をタイの下院議員に打診した人物は別人らしい。
 「まず衆議院議員の接触意図がわからないのよ。日本人は全員核アレルギーと思っていたジラパン議員はキツネに包まれた気分になっているわ。でも、効率を考えれば、おカネがないタイ政府にとっては検討に値する魅力的な提案でしょう?ジラパンさんはいろんな案件について、コウの意見を聞きたがっているみたい」
 タイは徹底した階層社会だった。この街には、でっち上げられた指名手配など一向に気にしていない人種も存在している。
 「捨てる神と拾う神・・・か」
 有佳の独り言はしんみりした日本語だった。
 「ヤナギダ議員は、コウやあなたの友達だったわね」
 ステファニーは持ち前の業務口調をあらためなかった、
 「この前タイに来たけれど、その後の足取りをご存知?」
 康士と柳田のあいだに生じた不和を漠然と承知していた有佳は、殊更多くを知ろうとする努力を避けていた。
 「小型機をチャーターしてハノイへ向かったわ」
 「ベトナムへ?なんのために?」
 「理由はわからない。でも、その小型ジェット機が中国政府の所有する機体だった点が謎めいているの。おそらくヤナギダはハノイに立ち寄った後、ペキンへ向かったはずよ」
 さっぱり事情が飲み込めず、有佳は次の言葉を待った。
 「”カキ”議員の秘書は下院議員に力説したそうよ、”ヤナギダ議員に惑わされるな!”って」
 自分たちのことばかりに気を取られていた有佳は、目から鱗が落ちた。柳田征四郎も政争という熾烈なドラマの渦中に立たされている。有佳はソファの柔らかな背もたれに身を仰け反らせ、天井をあおいだ、
 「日本へ帰っても一件落着とはいかないみたいね」
 有佳と同じ姿勢になってステファニーはいった、
 「ジラパン議員は軍人上がりなのよ。三十歳の時にすでに少将になっているほどの出世頭だったわ。ところで、タイで最大の株式会社は陸軍、というアイロニーはユウカも聞いたことがあるんじゃないかしら。実も蓋もない言い方をすれば、要領のよいジラパンさんはその次期社長みたいな人よ。いつも若々しい正義感で損をしている警察のアンポン中佐とは対照的だわ」
 アンポン中佐と聞いて、有佳は姿勢を正した。
 「ジラパン議員とアンポン中佐は友達なの?」
 「表向きはね。でも、実際は仲がわるいわ。ジラパン少将は言うなればアンポンさんの後援会を乗っ取って政界に出て行ったような人だから」
 「すると中佐は政治家になるような人だったの?」
 「あら、話さなかったかしら。中佐のお父さんは法務大臣まで勤めた国会議員よ。
でも、当の本人は国会議事堂を利権亡者の伏魔殿みたいに悪く言うばかりで、選挙に出る気など微塵もないの」
 それはステファニーの見立て違いかも知れない、と、有佳は思った。つい先日、井坂の病院から送ってもらった時にアンポンはクラ運河建設に絡んで独自の政見を語っていた。あるいは巨大プロジェクトの始動がアンポンの心境に変化をもたらしたと見なすこともできそうだった。
 「そう。ひとつ注意しておきたいことがあるわ」
 「なあに?」
 「ヤナギダ衆議院議員に中国の飛行機を手配したのはドクター・タキというこの都会に住んでいる日本人よ。そしてジラパン議員にもうひとりの衆議院議員を引き合わせたのも同じドクター・タキ。どちらが勝っても自分の立場はきちんと保たれるよう計算しているらしいわね」
 有佳は陶然とした面差しで耳だけに神経を集中させていた。ステファニーが話し掛けている相手はいつしか有佳ではなく、ふたりの背後にちらつく島崎康士の影になっていたからである。






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