* この物語はフィクションであり、登場する人物、企業、
団体、一部政府機関の名称は架空のものです(著者)。




第三十八話




 安ホテルの隠れ家を追われた徐旭芳は、シルクセアタの二階に設けられた作業場の長椅子で寝息を立てていた。
 「このパスポートは珍しいタイプだよ」
 加工が難しい、と言わんばかりの困惑顔で、陳は高野美咲のパスポートを摘み上げた、
 「”JAPAN”の活字が従来のタイプより大きくなっているし、・・・」
 ブラックライトで照らすとラミネートフィルムの上には桐門の他に、高野美咲の顔写真が幽霊のように浮かび上がっていた。
 「どれも同じような外観だけれど、日本ほど複雑な仕掛けを施したパスポートを何種類も用意している国はない」
 慣れた手つきで縫い糸を外しながら説明が続いた、
 「写真の交換はなんとかなるけれど、バーコードの中にナノサイズのチップが埋め込まれているはずだ。しかし、これをコントロールする技術はまだ見つかってない」
 日本の外務省は天晴れだった。ガードが固い。最先端技術を駆使して、如何なる国のパスポートでも自在に操るバンコクの変造屋たちを泣かせる世界で唯一の政府機関と言ってもいい。日本人の矜持と差し迫ったピンチの狭間で、島崎はただ苦笑いするよりほかになかった。
 「もう、別の古い本を調達しいる時間はない。国境突破は自力でなんとかするから、とにかくそれを加工してくれ」
 捨ててしまっては、高野美咲があまりにも気の毒だった。
 「わかった。しかし数字の改竄は避けたほうが無難だよ」
 とどのつまり、有佳は19歳を演じなければならなくなった。不安は補いようもなかったが、そもそも準備万端などという概念は幻想である。じわじわまわってくるアルコールに激しい頭痛を覚え始めた島崎は、いきおい開き直った。
 「ちょっと夜風にあたって来てもいいでしょうか、陳先生」
 デスクスタンドの明かりの中に真摯な横顔を浮かべる変造屋は、すでに解体作業に没頭していて返事をしなかった。正面に不利な材料が浮上したら、せめて側面や後方の備えにに梃入れしておく必要がある。陳の作業場を抜け出すと、島崎は公衆電話から鳥越の携帯に連絡をとった。鳥越はサイアム新報の編集室で残業中だった。島崎はふらつく足取りでシロム通りへ赴いた。

 「書き溜めた原稿とは?」
 一列だけ燈された蛍光灯が、閑散とした編集室に漂う生ぬるいインクの匂いを眠たげに照らし出していた。
 「掲載の是非は鳥越さんにおまかせします」
 簡潔に言って、島崎は鈴木隆央に渡し損ねた原稿を机に載せた。
 「全部実名かよ?こりゃ、相当ヤバい記事だ」
 過去十年に亙る日本領事館が手がけた査証不正発給の顛末を前に興奮しきった鳥越は、ややあって落ち着きを取り戻した、
 「いったいどういう風の吹き回しですか?」
 「日本へ行きます」
 「電話をもらった時にそんな気がした」
 さして驚いた様子も見せず、鳥越は他に人影がないのを承知で、声を潜めた、
 「日本に着いたら、農林水産庁の”ヨシナリ”って官僚を探してみてください。五年前に島崎君が追いかけていた人物ですよ」
 鳥越はコメ騒動の黒幕を知っているらしい。
 「意地が悪いなぁ。どうしてもっと早く教えてくれなかったんです?」
 「この領事館の記事を見せてもらって、ようやく耳打ちする気になったんですよ。だって、島崎君がどこまで本気で官僚連中と喧嘩できる御仁なのかよく見極めてからでないと、こんな危ない話しは切り出せないでしょう?」
 「ごもっとも。ここはバンコクでした」
 どすの利いた軽口を受け流すと、鳥越は腰砕けな調子で続けた、
 「確証はひとつもないんだ。でも、ちょうどあの時期にマダムが電話でヨシナリ氏と話しをしているのを聞いちゃったんです」
 「マダムが?」
 意想外の展開に島崎は耳をそばだてた。
 「そうです。僕が社長室に入ろうとすると、いつも冷静なあのマダムが電話口に向かって叫んでいたんですよ。”ヨシナリさん、モントリー精米所でいったい何を話し合ったの?”ってね」
 「ひゃあ。それは貴重な情報だ」
 マダム幸恵がモントリー・スントーンの葬儀に現れたのは記憶に新しい。コメ騒動前夜、すでに彼女が日本人の屑米買い付けを嗅ぎつけていたのは間違いなさそうである。如何に小便くさい小娘みたいな正論を口走る女でも、ジャーナリストの嗅覚はきちんと備えているらしい。鳥越の話しは続いた、
 「マダムはこんな捨て台詞も言いました、”おコメの不作は、あなた方役人が推進してきた減反政策のツケよ”。だから僕は直感した。ヨシナリという人物こそ、減反政策を推進する官庁に勤務する、平成五年コメ騒動の演出家だとね」
 マダム幸恵が島崎をサイアム新報にスカウトしたのは、ゼネコン疑獄の怪文書がきっかけだった。爾来、見事に反りが合わない社主と契約記者ではあったけれど、『コメ騒動の内幕』の記事は、『象のガチャ子レポート』とともに、たいそう気に入られたという。その理由が、ほんの僅かながらも、垣間見えたような気がした。
 「有意義な情報を賜り、恩に着ます」
 今回の帰国は有佳を家族のもとへ送り届けるのが第一の目的だった。遅まきながらスキャンダル追跡の有益なヒントを与えてくれた鳥越に申し訳なく思ったけれど、島崎は虚無的に礼を述べて、編集室を後にした。
 シロム通りに出ると、島崎は前を向いたまま背後に声をかけた、
 「新倉さん、おれをつけていたんですか?」
 「いや、お忙しそうだが、鳥越氏と会うと踏んでここで待っていた」
 悪びれもせず、捜査官は暗がりから姿を見せた。
 「さっき、プラカノン運河に女の死体が上がったよ。長い髪の、服の仕立て屋を経営している女だ」
 「仕立て屋とは、ドンムアン空港の近くのタウンハウス?」
 新倉にも島崎とよく似た性癖が備わっていた。肯定の返事は沈黙だった。
 「酷い真似をする」
 「あんたはすこし沢村を苛めすぎた。責任がないとは言えまい」
 FMクリッサダで流れたテープは、その女が収録したものだった。裏切り者への報復というより、当局の追及に先手を打ったと見なすのが妥当だろう。
 「苛められているのはおれのほうだと思い込んでいましたよ。なにしろ殺人犯の濡れ衣を着せられている」
 「沢村をかばう気などさらさらないが、しかし、女を殺したのは事情通の誰もが沢村に疑いの眼差しを向ける、と計算した悪党の仕業だろう」
 最初にノックの死を聞かされた時点で、島崎にもそんな気がしていた。
 「女は男よりしぶとい生き物だが、瞬発力ではどうしても男に劣る。男女雇用均等法の時代ではありますが、とどのつまり、女はギャング稼業に向いておりませんな」
 肩を並べて歩く新倉は皮肉をまるで意に介さなかった。そして一方的にしゃべった、
 「モルグが満室というわけでもなかろうが、鈴木は今日、身元不明者として荼毘に付されることになった。死体発見から三十六時間しか経っていないのに何を慌てているのやら、異例の早さだよ」
 時刻は午前二時になっていた。
 「皇后陛下の鞭で尻を叩かれたら、この国の警察だっていつまでも痴呆の真似をしているわけにはいかない。捕り方が本気を出す前に追い詰められた連中は死に物狂いになって証拠の揉み消しを計ろうとするだろう」
 読みはほぼ的中していたようだ。タイ至高の良識が動き出していた。警察官僚たちの馴れ合いは、もはや通用しなくなりつつある。
 「そんなわけで、沢村は夕方から行方不明。これまで沢村の懐刀となって鈴木らをバラしてきたングーキヨウもバンコクから姿を消したよ」
 「やっぱり、あいつか」
 スヌーカー場で近づいてきた若者を思い出すと、にんまりして、島崎はいった、
 「調べました。まだ若いが、その世界ではずば抜けて腕が立つ男らしいですね」
 「萌草会の人は皆さん利口でいらっしゃるから、よもやあんたが自分から奴と対決するなどとは言い出さないだろう」
 そのつもりでウドンタニ行きを仄めかした島崎に事新しく返すべき言葉はなかった。
 「新倉さんがセコンドしてくれるんだから、おれも果報者です」
 と、言葉尻を濁しておいた。
 「馬鹿を言え。俺はサツの人間だぜ。おまえさんみたいな恐喝屋を好き好んで助けたりするものか」
 にべもなく言って、新倉は口元を引き締めた、
 「”ネギ”か・・・御殿山小学校であんたひとりが彼女をそんな風に読んでいた。
あの子はやっぱり冴木有佳なのだろう。奇想天外な裏話を聴かせてもらえる日が来るよう、願っている」 
 有佳は新倉にとって、二十二年前の黒星だった。迷宮入り事件の幕引きを煽るように手持ちの情報をすべて与えると、最後に盗聴器の存在を仄めかせ、新倉は島崎の肩を叩いて夜陰に消えていった。


 陳は高野美咲のパスポートへ有佳の魂魄を吹き込む作業に没頭していた。長椅子の旭芳は目を覚ましており、島崎を見るとにっこり微笑んだ。
 「素敵な笑顔だね、旭芳」
 と誉めたが、タイ語をしゃべっていたので中国娘はチンプンカンプンだった。代わりに陳の背中が単調に答えた、
 「馬鹿すぎる仔豚は論外だが、なまじ利口な仔豚も考え物だ。賢い者には恐怖が見えてしまう。多少頭が悪くてもいつもニコニコしていられる才能のほうが強力な武器になる」
 意味もなくヘラヘラしている大陸系中国人はめったにいない。たいがいの連中はどこへ行っても仏頂面で一点を凝視するように突っ立っているから一目でそれと判ってしまう。本当に優れたイミグレーション係官は、微笑の仕方ひとつでその人間の国籍を即座に見抜く。表情の素質と演出は、服装の傾向以上に重要なポイントだった。
 やかましい中年男を避けて、島崎は手招きする旭芳の傍らに腰をおろした、
 「紐育(ニューヨーク)に着いたら旭芳はどんな仕事をするの」
 今度は普通の北京語だったので、旭芳は淀みなくこたえた、
 「衣服をつくる。働いて、お金を返しながら、英語を覚えるの」
 「ふうん。それは奇特な心がけだね」
 密航先の国で語学を習得しようと意気込むルークムウはめったにいない。漠然と中華思想を信奉する彼らの多くは、金銭だけが目的であり、異文化への関心はほとんど払わないものである。
 基本的に現代の密航中国人の性質は、故国と永久の別れを覚悟して旅立ったかつての華僑とは異なっている。たとえばアメリカへ不法入国した者は、八年が経つと、アメリカ国内で納付した納税証明書と移民法専門の弁護士、それに複数の証人をつれて移民局へ出頭する。如何なる入国手段であっても、滞在期間を通して犯罪をおかさず、納税義務を果たしていれば、合衆国は国法に則り、出頭した人物を善良な市民と見なさなければならない。かくして元密航者は、年金保証のおまけがついたアメリカの市民権が合法的に取得できる。はじめから十年間の出稼ぎを目途に渡米した面々は、一連の手続きが済むと潔く中国へ帰国する。だが、アメリカ国内では毎月支給される数百ドルの年金も取るに足らない煙草銭にすぎないが、国民一人あたりのGNPが数百ドルの大陸中国で受給すれば、これは端倪すべかざる不労所得となる。先憂後楽。それゆえルークムウは必死になる。剥き出しのバイタリティだけを恃みに、遮二無二、北米大陸を目指そうとするのだ。
 旭芳は訊いた、
 「アメリカに住みたい日本人は、どんな方法で渡航するの?」
 「日本人には、あんたたちみたいにマジメな渡米希望者はいないだろうな。おれは正直言って中国人が好きじゃないけれど、時々あんたたちの理屈抜きのバイタリティが眩しく思えることがある」
 本当にアメリカの市民権がほしければ、底抜けに便利なパスポートを与えられている日本人もどんどん中国人と同じ手口で潜り込めばよい。すべからく移住者には苦難が付き物だけれど、アメリカ合衆国の場合、窮屈な生活も八年間と法律で期限が定められている。にもかかわらず、律儀にグリーンカードの抽選を待っていられる東海の紳士淑女は、ルークムウたちにはすこぶる不思議な生き物に見えるにちがいない。
 「島崎さんもやっぱり日本人だね」
 机に向き合う陳が口をはさんだ、
 「私は有佳にこんな本を持たせたいとは思わない。日本人は権利が保障されている国民なのに、あなたは沢村さんに意地を張ってわざわざ危険な橋を渡ろうとする。あくまでも生活のため、非合法と承知で国境を越えようとする南西アジアの男たち、中国の仔豚やタイの雌鶏にはとても理解できない贅沢だよ」
 島崎の内部で何かが音を立てて萎んだ。
 「お客が望めば地獄にだって連れて行く。それが私たちのマンパワービジネスよ」
 富める国民の本質を履き違えた思い上がりは、『食いの国』で息巻いていた高野美咲やその仲間たちの専売特許ではなかったのかも知れない。やもすれば国境の向こう
側にロマンを追い求めていた島崎自身にも、考え直さなければならない感覚のズレがあった。日本に着くまでは、甘えも慈しみも禁物だった。
 空は明るくなっていた。街から立ち昇る水蒸気が乱反射して、大気そのものが薔薇色に染まっている。取り残されたデスクスタンドのあかりの下で変造屋はのそりと身を起こした、
 「この本で失敗したら、いまの世界に使える二番は一冊もないよ」
 自信たっぷりに陳は言い、いったい何処から手に入れたのか、ドイツ製のパスポートリーダーを通して見せた。ピッ、と軽やかな電子音がして、緑のランプが点灯した。下の赤ランプはまるで反応しない。厚いラミネートフィルムに印刷された写真を形成しているドットの粒子も、肉眼ではさっぱり判別できないほど細かい。
 気を取り直して島崎は仕上がったばかりのパスポートを覗き込んだ。紺色のブレザーを着た有佳が緊張した面持ちでこちらを見ている。ブラックライトを当てるともうひとりの有佳がぼんやりと浮かび上がった。
 「よく出来ているな。陳さん、ありがとう」
 褒められても、陳の藪にらみな眼差しは醒めていた、
 「いくら出来映えが好くったって、ちょっと詳しく調べられたら終わりだよ。一等重要なのは、島崎さんと有佳がエアラインやイミグレーションの人たちからインスピレーションで疑われることなく、素早く煙に巻くことだ。旅客をひと目見て、問題なし、という印象を受ければ、誰も本を詳しく調べようとは思わない。”走”は、サイコロジーだ」
 注意事項を繰り返す陳の顔を眺めながら、島崎はテーブルの上に散乱していたもろもろの書類を、かまわずディパックへ詰め込んだ。
 「電話を借りるよ」
 午前五時。最早盗聴されたところで、敵が手を打つ前に飛行機が飛び立つ刻限だった、
 「ヌンさん?」
 島崎は受話器に呼びかけた。
 『何かご用?シマザキさん』
 「時間がないんだ。ふざけていないで、素直に聞いてくれ」
 『ふざけてなんかいませんわよ。こんな朝早くから他人の家の電話を鳴らすあなた』
 喉まで出かかった怒声を嚥下して、一方的にいった、
 「ユウカを連れて、いますぐ空港へ向かってくれ」
 『...?』
 「国内線のターミナルで待っているんだ」
 『...』
 「聴いているのか!返事をしたらどうだ」
 陳が島崎の腕を掴んで頭を振った。冷や水を浴びせられたような面差しで、あらためて受話器に向かうと島崎は呼吸を整えて慎重に言った、
 「おれ、あんたが好きだ。だから、必ずクルンテープに帰ってくる」
 『わかった...』


 早朝のドンムアン空港国内線ターミナルはいつも賑やかである。ラチャダムリ通りからタクシーを飛ばしてきた島崎が建物に転がり込むと、ステファニーの姿はすぐに見つかった。いつもオーベン系の服を着ている女が、白いニットのシャツとデニムのジャンバースカートをまとっているのが意外だったけれど、服装の趣味について語り合っている余裕など、もちろんない。
 「まさか本当に日本へ行くとは思わなかった」
 開口一番、ステファニーはいった。
 「ごめん」
 生まれて初めて二日酔いの苦しみを味わう島崎は、口答えする気にもならず、素直に謝った、
 「でも、バカな真似をするのはこれが最後だ。タイに戻ったら、真面目に働くよ」
 母親のように微笑んで、ステファニーはいった、
 「むりやりキャラクターを変える必要はないわ。大きな脱線をしでかしそうになったら、また喧嘩すれば済むことよ」
 白々と自然光が差し込むロビーやチェックインカウンターはどこもかしこも混雑をきわめていた。別のタクシーに乗ってシルクセアタを出発した陳と旭芳のコンビも、この群れのどこかでハジャイ行きフライトの搭乗手続き待っているはずだった。
 「ウドンタニへ行くの?」
 「うん。ウドンタニへ行く」
 しばしの沈黙を置いて、ステファニーは詠うようにつぶやいた、
 「セラマットジャラン(よい旅行を)」
 マレー語だった。計画はすっかり読まれている。島崎は、どうして自分がこのとぼけた混血女を妻にしたいと思ったのか入籍四年目にしてようやく悟ったような気がした。
 「ユウカは?」
 「売店にいるわよ」
 見れば大きなチャイヨーのぬいぐるみが商品棚を覗き込んでいた。
 「あのばか・・・」
 肩を怒らせて、島崎は売店にのりこんだ、
 「荷物は最小限に、って言っただろう!どうして余計な物を持って来るんだ?」
 しかし、黒子のようにぬいぐるみを蔭から抱える少女を一目見て、島崎は後ずさりした。折からの頭痛に加え、栗色のヘアカラーと短いへんてこなポニーテールが眩暈をおこさせたのだ。
 「髪型を変えろ、とは言ったけど・・・何を考えているんだ、おまえは?」
 すると唇を尖らせて変貌著しい有佳はいった、
 「おかっぱにしてあったのよ。あれ以上カットなんてできないよ。だから、こうするしかなかったの」
 いかれた外観の有佳の表情は、しかし島崎に滑稽なほどの安堵感を与えていた。それなりに十九歳の辻褄合わせができている。
 「・・・終電で西所沢に行ったら、こういう痩せっぽちのヤンキー姐ちゃんが駅前にいっぱい落ちていそうだな」
 考えすぎだったかも知れない、と島崎は思った。有佳の容貌や体型の幼さは、身近な人間なればこそ気になっただけで、周囲が事新しく疑いの目を向けてくると思うのは、一種の自意識であろう。都合よく弁えて、島崎は腹をくくった。
 ステファニーは前にタイバーツと交換した聖徳太子の五千円札をハンドバッグから取り出すと、餞別と言って、有佳に握らせた。
 「このお札は、あなたが二十二年前から来たという有力な物的証拠になるでしょう」
 刑事訴訟法の弁護士みたいな注釈を付け加えた。
 「ヌンさん」
 恭しく旧紙幣を受け取りながら、帰国の旅路を実感しはじめた有佳は涙声でいった、
 「本当にありがとう」
 「また、きっとタイへ遊びに来るのよ、ユウカ」
 ステファニーも泣いていた。いくら五六時間で日本まで飛んでいける時代であっても、四千キロの距離は途方もなく遠かった。
 「別れを惜しんでいる時間はないよ」
 チェックインの手続きを済ませた島崎が二枚のボーディングパスをちらつかせて二人の間に割り込んだ、
 「ネギ、行くよ」
 サエキ・ユウカと記された一枚を手渡し、ボーディングルームの入り口に設けられた手荷物検査のゲートを顎でしゃくると、島崎はステファニーに向き直った、
 「ヌンさん、それじゃしばらく留守を頼むよ」
 「毎度のことじゃない」
 薄い瞼も眠たげに、ステファニーは余裕たっぷりに言った、
 「幸運をね。・・・あたしのピーターパン」


 本物の高野美咲は今時分、異国の町外れでスリリングな軟禁生活を体験しているはずだ。島崎と有佳のふたりがタイを出国したあと、彼女は解放される手筈になっている。男と少女はグレーのカーペットが敷き詰められた待合室を横切ると、TG002便でウドンタニへ向かうパッセンジャーの群れに紛れこんだ。
 「落とすといけない。ボーディングパスを預かっておこう」
 ベンチに座って島崎は言った。
 「康くんに預けておくほうが不安だけど・・・」
 不承不承、有佳は搭乗券を差し出した。
 「タイの国境から成田空港まで、ネギの名前は高野美咲だ。おれは”叔父さん”だ。最近のこのあたりの国の空港には、けっこう知らん振りしていて、ちゃっかり日本語のわかる係官や職員が少なくないからな、まかり間違ってもイミグレでおれのことを”康くん”なんて呼ぶんじゃないぞ」
 ウドンタニ行きのTG002便と十五分後に離陸するハジャイ行きのTG231便が、おしなべて隣り合わせの搭乗口を使用することは計算済みだった。それに早朝のフライトは満席である場合が多いけれど、統計的にタイムテーブル上の狂いが少なかった。ハジャイ便はウドンタニ便よりエアクラフトが大きく、旅客の数も多いので、搭乗開始時刻にたいした違いはない。ふたつのゲートは、ほぼ同時にひらいた。
 旅客の列が動き出すと、四角いサングラスをかけた満月顔の男があさっての方向から近づいてきた。
 「あ・・・陳さん?」
 「しゃべるな」
 さすがはプロだった。ルールを無視して列に割り込む台湾人は、人波に押されてたまたまそこに並んでいた日本人にぶつかり、「アイムソーリー」と詫びを言って、あくまでも列に割り込んだ。ありがちな情景だった。後ろに従うルークムウの娘もとぼけて身体を捻りこむ。必死なのがよくわかった。
 島崎は突然あわてふためいて、「ここじゃない」と言い放ち、隣の列に飛び込んだ。日本人旅行者のありふれた仕草だった。二組は、ボーディング・ゲートの真正面で誰からも見咎められることなく摩り替わった。
 「ウドンタニへ行くんでしょ?」
 そわそわする有佳が、掲示板を見上げながらささやかな不安を訴えた。
 「作戦変更。南のハジャイへ行く」
 島崎はここではじめて本当の計画を打ち明け、有佳に一旦預かったボーディングパスを手渡した。
 「あたしの名前じゃないよ、これ!」
 それはカウンターで受け取ったボーディングパスではなく、徐旭芳のものだった。
 「人の注意はちゃんと聞いておけ。この空港はな、特に日本語のわかるやつが大勢いるんだ。そういうヤバい大声を出すんじゃないよ。・・・いいの、名前なんか何だってさ」
 いま、このドメスティクターミナルの中では陳が島崎になっていて、冴木有佳は徐旭芳だった。横目で隣のゲートを見ると、陳と旭芳は恙無くAB4機が垣間見えるTG002便のブリッジへ消えていった。
 「果たしてあいつらが無事にアメリカへ辿り着けるか、わからない。でも、同じ覚悟をしておく必要がある。おれたちは普通の旅行者ではない。日本に駆け込むまで、死んだ気になってつっ走るんだ」
 ゲート前に設置された機械は、当たり前のように中国人男女の名前が記されたボーディングパスを飲み込み、半券を吐き出す。係員の事務的な笑顔に見送られて、有佳と島崎はTG231便のボーイング734機に接続されたブリッジを渡った。

 因みに、陳が島崎に仄めかした行程は次のようなものだった。
 ラオスは空路がきわめて狭い。ヴィエンチャンで体勢を整えたらベトナムのホーチミンへ移動し、エール・フランスのチケットを買い求め、パリでトランジットしつつカナダへ飛び込み、徐旭芳は投降する。
 島崎と有佳の日本組より、陳と女ルークムウのチャイナ組のほうがずっと長く、困難な旅路だった。







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