* この物語はフィクションであり、登場する人物、企業、
団体、一部政府機関の名称は架空のものです(著者)。




第三十三話




 福原はスクムビット通りのトレーディングホテルにチェックインした。部屋は奥行きあるスイートルームだった。シャワーを浴びて人心地つくと、誰かがドアをノックした。ソムタム売りの母親に連れられて、十三歳の少女がやって来たらしい。
 「おお、おお。ロオサックルウ、チャ(ちょっと待ってちょうだい)」
 踊るような足取りで、気ぜわしくドアをひらいた。
 ところがドアの外に立っていたのはホテルのボーイだった。
 「フルーツバスケットをお持ちいたしました」
 「誰なら?」
 あからさまに不愉快な調子で訊いた。
 「あいにくですが、私は日本語が読めません」
 ラップの中に挿し込まれたカードを一瞥し、人懐こい笑顔で、ボーイははにかんで見せる。おおかたどこかの現地法人がVIPの投宿を聞きつけて段取りした胡麻磨りの類いであろう。つまらない真似をする、と冷笑しつつも、果物は子どもをあやすのに役立つかも知れない、とも思った。福原は、ボーイを招き入れた。テーブルを前にカーペットの床に膝まづくと、ボーイはバスケットにかかったラップを取り除き、甲斐甲斐しくリンゴの皮剥きをはじめようとする。
 「こら。余計なことはせんでええ。用がすんだらとっとと出ていかんかい。これから大事な客が来るのじゃ」
 苛立たしい口調で福原はボーイを叱咤した。そして一旦取り出した百バーツ紙幣を吝嗇な仕草でふたたびしまいこみ、代わりに引き抜いた二十バーツ札を恩着せがましく押し付けた。
 「チップなら、ほれ、やる。やるから、余計な真似をしないでさっさと出て行け」
 しかし終始微笑を絶やさないボーイが手にしていたのは果物ナイフではなかった。にじり寄った男は、刹那、目を見張った。それは黒いグリップがものものしい、鋭利な格闘用ナイフだったのだ。
 「おのれは?」
 息を詰まらせて後ずさりする福原は、信じられないものを見つめるような眼差しで天井をあおいだ。せり出した腹は鮮血に染まっていた。あまりの早業に、刺されたという感触を覚えていない男は大声をあげた、
 「何処ぞのもんじゃっ!」
 密室の中、回答はない。ボーイに扮した殺し屋は手馴れた仕草でラップを獲物の顔に押し当てると、とどめの一振りを太い首筋めがけて煌めかせた。福原の頚動脈はすっぱり切り開かれた。黒ずんだ血飛沫が赤いカーペットを席捲し、風きり音を残して倒れ伏す男の身体を生温い異臭が包み込む。
 「あんたは正しい。死神は生涯に一度の大事なお客さんだ」
 痙攣する日本人の亡骸にングーキヨウは懇ろに語りかけた。


  オフィス街の屋台に立ち寄る客は、ほとんどがテイクアウトである。出勤時間の朝はなおさらだった。
 「福原が殺されるとはまったく予想外だったなあ」
 「予定が大幅に狂いました」
 念のため置かれたような唯一のテーブルを占めたものの、食が進まず寝不足の目を擦る島崎に、二杯目の朝粥をすする稲嶺は感傷のかけらもなく言った、
 「バンコクにいてもやることがなければ、自分はしばらく田舎へ引っ込みますよ」
 そして腹を打ち明けた、
 「萌草会のインドシナ広報要員は六人います。現在、三人はあの世にいて、二人がここにいます」
 「残るは一人。三代目の先輩だけだな。おれたちは名前を知らないことになっているが・・・あんたは知っているの?」
 「確証はありませんが、心当たりがあります。現場組を離れたあと、民間企業に潜り込んだようですが・・・やっぱり、暴走したみたいです。その人、現在はタイにいるものと思われます」
 “第三の男”と接触する気でいるらしい。
 「戦争を押し売りするわけじゃないが、自分はどうしても柳田さんの判断に納得がいきません。もうひとりいれば、死んだ福原のシマを乗っ取っることができます」
 稲嶺は、暗に島崎に滝を倒して第三の男と合流するよう、提案していた。
 「誰と戦争する気なんだよ?」
 バンコクの日本人社会が、萌草会の脱走兵によって仕切られてしまえば、本国の柳田も否応なく計画を見直す必要に迫られる。
 稲嶺本人の矛先は、明確に永田町へ向けられていた。
 「どうしていまごろ、その人を墓穴から引きずり出す?もしかすると、平和な家庭を築いて幸せに暮らしているかも知れないじゃないか」
 それ以上のコメントを島崎は控えた。どんな人物かもわからない第三の男が福原にとって変わる、と言い切る稲嶺の態度は、ずいぶん幼稚であり、荒唐無稽でもある。しかし、確証はないが心当たりがある、という言い方が味噌だった。もったいぶってはいるけれど、稲嶺はすでにその人士をおさえこんでいるのであろう。なればこそ、言うべき言葉は何もなかった。


 スクムビット界隈の日本居酒屋は、どこも福原暗殺の話題で持ちきりだった。バンコクの日本人社会は、飛び交う方言こそちぐはぐだが、情報伝達は人口四万人の小都市と同じくらい速かった。『食いの国』も例外ではない。午前中に稲嶺とわかれ、午後はマッサージ屋で時間を潰した島崎が開店間もない暖簾をくぐるといつもの常連がボックスに寄り集まり、ひそひそ言葉を交わしていた。カウンターの隣では、ビデオ屋が俯く不動産屋をしきりに慰めていた。ご多分に漏れず、彼らも福原がどうのこうのと言っている。身を乗り出して島崎は訊いてみた、
 「ねえ、おじさん。だいぶ落ち込んでいるけれど、死んだ福原さんとそんなに仲が良かったの?」
 するとビデオ屋があきれ果てた顔を島崎に向けて首を振った、
 「さっきから、”次にやられるのは俺だ”って、同じ独り言を繰り返している。つまりびびっているんだよ」
 そしてふたたび不動産屋の肩に手をかけると、明るい声色でいった、
 「おい、オヤジ、元気だせってば。常識で考えればわかるだろう。いったいどこのおっちょこちょいが、あんたみたいな三流詐欺師を好き好んで血祭りにあげるって言うんだ?ん?」
 ここで島崎を省みて、
 「サスペンスドラマばかり観ているからこうなるんだよ。まあ、うちはビデオを借りてくれれば御の字だけどさ」
 「やかましい。こっちの気も知らないで・・・おれは福原とゴルフで一緒にまわったことがある。敵は情け容赦のないプロだ。明日にでも、やつらはおれの家へやって来る。今夜かも知れない。この店を出たところで刺客がブスリと。なあ、ビデオ屋。タクシー代はおれが払うから、今日はいっしょに帰ろうや。いや、警察を呼ぼう」
 「わかったわかった。でも敵はあんたをバラす前に百人以上殺さなきゃいけないから、まだ当分先の話しだよ」
 ビデオ屋が不動産屋の背中をなでていると、いつ店に入ってきたのか別の客が背後から声をかけた、
 「島崎康士サン、てのは、おたくさん?」
 口髭をたくわえる目つきの鋭い男が佇んでいた。作業着を兼ねているのか、よれよれになったカーキ色のサファリスーツがみすぼらしい。過去にどこかで会っただろうか?そんな第一印象をいだいて怪訝な顔をしめす島崎の眼から視線をそらすことなく、男は名乗った、
 「新倉といいます。警察庁の者です」
 それまでの侘しさはどこへ行ったのやら、嬉々とした声色で、”オイ、火付け盗賊改めだ”などと囁きあう傍らの二人の反応とは対照的に、島崎のふたつの瞳孔は、にわかに小さく絞り込まれた。新倉と名乗った男は声を潜めるでもなく、
 「萌草会の島崎さんだよね?」
 と非凡すぎる固有名詞を付け加えた。話を聞かないわけにはいかない相手だった。島崎は立ち上がり、カウンターの奥で無心に焼き鳥を焼く店主に声をかけた、
 「大将、奥の座敷は空いているな?移るよ」
 部屋を変えると、開口一番、島崎は慇懃に言った、
 「上九一色村では最後の最後まで、どうもご苦労様でした」
 「なんだい、あんたもおれのことを知っていたのか。それなら話は早い。言うまでもなかろうが、おれは領事館の人間ではないから安心してくれ」
 いつもバンコクにはODAで警察庁からタイの警察局へ技術指導に派遣されている職員がいる。通常は二年任期で、鑑識の専門家をはじめ、各種分野の捜査官がタイの治安維持に必要なノウハウを携えてやって来る。
 タイにおける新倉は写真技術の指導員だったが、本国では数々の異常事件で実績をあげた現場の捜査員でもあった。
 たとえば、いみじくも島崎が労った事件である。それは何年か前に東京で警察庁長官が自宅マンションの玄関先で狙撃されるところから世間の注目を集め始めた。事件の背後に、富士山の山麓に本拠を構えるカルト教団が浮上した。時を移さず、東京都内の地下鉄でサリンを撒き散らし、一躍世間の槍玉にあがった教団は、相次ぐ反撃パフォーマンスを繰り広げたのち、当局の強行操作によって事実上瓦解した。
 いつしか、未曾有の警察長官狙撃事件はなりをひそめてしまったわけだが、これが公安警察の仕組んだ潜入捜査に対する教団側の警句だったという事実を、日本のマスコミはついに報じなかった。
 警察機構図がどのように記されていようと公安という組織は、内閣に直結している。実際の国際情勢から著しく乖離した理想ばかりが先行してる現行憲法と、危険な意図を持った破壊工作員を三万キロの海岸線から難なく潜入させてくる周辺国の狭間に立たされた内閣は、治安上必要欠くべからざる法案の可決を円滑にしてくれる象徴的な事件の発生を望んでいた。望んでいた、というのは必ずしも正鵠を得ていないかも知れないけれど、政策を善悪でわけようとする暗愚な夢想主義者が少なからず議員バッチをつけていられる国では、ショッキングな情景を見せつけるより他に、国民の合意を得る方法は見つからなかったのだ。いわゆる”ヤラセ”の側面をまじえながら、もともと過激な終末論を唱えていた教団は、演出者として、暗黙のうちに取り込まれていった。
 しかし、髭面の教祖に率いられた教団は、為政者が考えていたよりはるかに強靭な組織と技術力を備えており、おまけに暴力的だった。つまり彼らはやり過ぎたのだ。対応を迫られて、警察庁と防衛庁はそれぞれ然るべき要員を教団へ信者として潜入させていたが、揺籃期から幹部に居並ぶ面々によって警察長官狙撃が行われ、サリンが多くの市民を殺傷した。
 教団に潜り込んでいた警察関係者や自衛官の多くは、「検挙」という手段で回収された。しかし、ブラウン管で観る限りでは想像がつかないほど広壮な教団施設には抜け穴や地下室が無数に隠蔽されれていた。ちょっと目を離した隙に、己の身の危険に鋭敏な教祖が遁走する事態が懸念された。そこで、富士山麓に結集した捜査陣が教団施設へ突入する瞬間まで信者になりすまし、誘導を指揮する生え抜きの捜査官がいた。
 その男が、バンコクへ赴任していた。新倉は遅ればせながら注文を取りにきた女給にたどたどしいタイ語でビールを注文し、グラスをひとつ、所望した。ホスピタリティとはまるで無縁な風情の男ではあったけれど、吝嗇漢でもなさそうだ。つまり新倉は島崎のアルコールを受け付けない体質まで調べていたようである。
 「自分はもう萌草会ではありませんよ」
 島崎が切り出すと、旨そうにビールを呷りながら新倉は手をあげた、
 「ああ訊けば誘いに乗ると思った。萌草会にはあまり関わりたいとは思わないが、怖いもの見たさって言うのかな、そこにいた男とちょっと世間話がしてみたかった。それだけだよ」
 「ご覧のとおり、おれはただの与太者ですよ」
 謙りでなく、気負いから生じる抑圧感から逃れるために、島崎は卑屈に笑ってみせた。ところが次の瞬間、新倉の口から思いがけない言葉が発せられた、
 「あのカメラの女の子はどうした?」
 ”口髭をはやした人が助けてくれたの”。
 有佳のかすれた声が脳裏を過ぎった。沢村に捕らわれていた彼女をアソク通りのビルから解き放ってくれたのは新倉だった。
 「元気にしていますよ。どうもご面倒をおかけしました」
 「生兵法は大怪我のもとだ。無茶はいけないよな。よく教えてあげたほうがいいよ」
 さすがの捜査官も、眼前の男が数日前にその妻と案件の少女と袂を分かって流浪中の身の上であることまでは把握していない様子だった。いずれにしても、日本の警察は民事不介入である。
 「この国の警察局へ技術指導に来たのは去年の話しだが、こちらもあんたのことはずっと前から知っているよ」
 自分のペースで話を飛ばしまくるのが性癖らしい。新倉は目が回るような話題の切り替え方をした。
 「はあ。そんなに有名でしたか」
 「そうじゃない」
 鋭い眼光が放たれた。並みの犯罪者ならこのひと睨みであっさり自白をはじめてしまうかも知れない。しかし、このところ親しい人間たちとの決別ばかりが続いていた島崎は、新倉の朴訥さが懐かしかった。
 「自慢じゃないが、おれは手がけた事件は必ず解決するのが信条だ。まあ、半分以上は気負いなんだろうがな」
 「ご立派な気負いです」
 「ところがだな、いまから二十年以上も昔、とうとう迷宮入りさせてしまった事件がある」
 捜査官は焼き鳥を頬張りながらしみじみと言った、
 「吉祥寺界隈の住宅街で、ひとりの女の子が失踪したんだよ」
 やはり新倉とは初対面ではなかった。第一印象は正しかったのだ。思わず島崎は口をひらいていた。
 「彼女の名前はいまでもよく覚えているぜ。冴木有佳といった」
 あとの話は言われなくてもわかっていた。
 「毎日手配の写真を観ていたから顔もよく覚えている。めんこい子だったな」
 有佳が行方不明になると、クラスメイトはことごとく警察の人から失踪者の行き先の心当たりを尋ねられている。
 「子供だから、女も男もわんわん泣くばかりで大変な聞き込みだった。でもそんな中でひとりだけ、何を訊いても石みたいな顔をして黙りこくるガキがいた。今にして思えば、あいつが本当は一番辛かったのかも知れない」
 ”どんな小さなことだっていい。思い当たることがあったら教えてくれ!”煮えたぎる事件解決への執念をみなぎらせて叫ぶ二十代の捜査官の顔が、新倉の苦みばしった五十顔と重なった。
 「お手数を取らせてすみませんでした・・・と申し上げてもいいんでしょうかね、この際ですから」
 「仕事だ。そんなことはどうだっていい」
 そして予想されきったコメントがつけ足された、
 「カメラの女の子は、二十二年前のあんたの恋人と瓜二つだね。他人の空似にしては、出来すぎだ」
 本人です、と言うのはまだ時期尚早であるような気がした。子供の時と同じように石仏の面持ちで、一方的にしゃべる新倉の顔を観察しつづけた。
 「疲れるだろう?気負いまくって生きるのは。まあ、そんな生き方が愚かだと言えた義理はないが、バカになってみるのも、賢い生き方のひとつだと思うよ」
 稲嶺の期待を裏切ることになろうが、よもや殺されはすまい。自分なりにすこしは平和な生き方を模索してみようか、と島崎はにわかに考え始めていた。


 トレーディングホテルで福原が殺害されて二日が経過していた。もとより営利が結びつけていた一党である。つい二日前までは浮かれきった顔で神輿を担いでいた連中は、リーダーが殺害されるやいなや、葬儀も放り出し、機敏におのおのが生き残る道を模索しはじめるような有様だった。弔い合戦を叫ぶ者はひとりもいなかった。
 一方、この機に乗じて巻き返しをはかる者もいる。
 関西新空港から飛んできた日航機がドンムアン空港のサテライトに接続された。五百人を乗せるキャビンは満席だったが、六時間に及ぶフライトの最中、機内はお通夜のように静かだった。たとえば新婚旅行とおぼしき青年は、終始新妻を窓際に押し込んで黙りこんでいたし、トイレが近い初老男は配られる飲料水を遠慮して極力通路へ立つのを手控えた。
 その原因がキャビンの後部座席をすべて占拠し、関西弁で言葉を交わす男ばかりの団体客にあることは疑うべくもなかった。この面々は、人相風体も尋常でない。一見して暴力団員。その数は百数十人にのぼった。
 ただ、度胸の据わった女ばかりのエアクルーは訝しく思ったかも知れない。この種の連中特有の下卑た野次や狼藉が、今日に限ってまるでない。どの顔も緊張し、静かな殺気をたたえている。すくなくとも、女目当ての能天気な慰安旅行には見えなかった。
 我先にとブリッジへ殺到する堅気の衆を見送りながら、強面たちはゆっくりした歩調で飛行機を降りる。ところがサテライトへ出たところで、淡いベージュの壁を背にして待ち構えていた夥しい数の警官隊が一団の行く手を阻んだ。小豆色の制服を着た男たちは、一般の乗客と胡散臭い手合いを篩にかけながら、
 「サア、諸君はこっちだ」
 などと口々に叫んだ。一団はイミグレーションカウンターとは逆方向の、職員用の階段が設けられている通路の隅へ集められた。
 「こら、何をするんじゃ、ポリ公」
 肩を突き飛ばされて激昂したひとりが日本語で叫ぶと、おもむろに篠塚が先頭へにじり出た。人垣越しに顔見知りの幹部警官を見つけていた顔役は貫禄たっぷりに、さも親しげなタイ語でいった。
 「これはいったいどうしたことだ、きみ。私だよ。忘れたのかね」
 チーフはいつも袖の下を掴ませては何かと便宜を計らせている大尉だった。言ってみれば飼い犬の一匹に過ぎない。大勢の前で篠塚は、”これは失礼しました”というお詫びと、屈託のない愛想笑いが返ってくるのを期待していた。ところが警察大尉は仮面のように冷め切った真顔だった。
 「パスポートを提出して全員階下の空港警察事務所まで来るんだ。手荷物、貴重品はそのまま携行してよい」
 あくまでも業務口調で通達すると、馴れ馴れしい態度の旅客をつれなく突き放す。
いつもと様子がまるで違っていた。篠塚はしばし声もなく、眼鏡の奥で小さな目を見開いて立ちすくんだ。
 「きこえないのか。全員パスポートを出して、階下へ来い」
 大尉は抑揚に欠ける声色で命令をくりかえした。その腰では、幾度も実戦の場をくぐり抜けてきたとおぼしき拳銃が、黒光りを放って無言の圧力を醸し出していた。
 タイへ入国すれば武器はいくらでも調達できる。また、旅行者にとっての空港は、どこの国家にも属さない中立の非武装地帯である。おまけに篠塚の場合、銃器や刃物の持込が著しく制限された施設は、タイ国内における最も安全な場所でもあった。空港の最高責任者である中将は辱知の間柄だったし、現場の職員や警察官にも顔なじみが大勢いる。スパキット一家を援護する口実で捲土重来をはかろうとバンコクへ舞い戻った篠塚であったが、めまぐるしく急転する情勢は、そんな思い込みを盲点にしていたのだ。
 顔を赤黒く上気させて、篠塚は大尉に詰め寄った。
 「理由を言え、理由を」
 福原死す。この情報に接し、大急ぎで大阪や神戸の暴力団幹部に掛け合った篠塚は、辛うじて数百人の援軍と当座必要な億単位の戦費を調達することに成功した。もとより彼にはその程度の信用が備わっている。それでも、売り込んだ商品の焼失という不名誉が発生した折も折、この進軍は面目を挽回する一世一代の大ばくちだった。
 「どうしてこれほど、不当なあしらいを受けなければならないのだ」
 背後に群がる第一陣の手勢は、スペクタクルのエキストラからレトリックな断崖絶壁へと早代わりしていた。射殺されても已む無し。もはや後がない篠塚は身体を張って食い下がった、
 「中将に会わせろ。直々に話がしたい」
 すると大尉の口から、冷淡な言葉がもれた、
 「あんたには麻薬取引の嫌疑がかかっている。重要参考人に同行している以上、他の者についても取り調べる必要があるだろう。その結果をみて、入国の是非を判断したい。これは司法庁の管轄だ」
 当該国の政府は、望ましくない外国人の入国を拒否できる。いかにその道のプロであっても丸腰では飛び道具と渡り合えない。組織上層部の命令で外国の戦場へ送り込まれた男たちは、はからずも死地から遠ざけられ、むしろ安堵したような面持ちで現地官憲の指示に従いはじめている。あきらかに篠塚の動向を察知した者が、その入国を阻止するよう手を打っていた。混乱している福原の残党に、このような仕掛けを行える者はいない。窓からシーナカリンの方角を憎々しげに睨みつけて、篠塚は唸った、
 「またしても滝の謀か」
 絶望感に縁取られた歯軋りを残し、かつて「総領」と呼ばれた男は、これを最後にバンコク裏通りの紳士録から永久にその名前を消した。
 だが、住み慣れた国の所払いが運命づけられた男は知らなかった。同じ日の朝、中国民航機で到着した約三百人の中国人もまた、同じ口上に接した上、入国拒否のあしらいを受けて本国へ強制送還されていた。ここへ来て、タイ警察局という新しい勢力が抗争に参入していたのである。






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