* この物語はフィクションであり、登場する人物、企業、
団体、一部政府機関の名称は架空のものです(著者)。




第三十四話




 日が沈んで、だいぶ時間が経っていた。
 入国管理局南部支庁のアンポンは、打ち合わせのため首都を訪れていた。金融システムが崩壊したいま、タイはさしあたって以前のように世界中から観光客を誘致して糊口を凌がなければならない。それなのに昼間から街中でマフィアが銃撃戦を繰り広げているようでは、困る。タイ警察局は国益の見地からいよいよ重い腰を上げた。その第一手として、治安悪化をもたらしかねない禍々しい外国人は、すべて水際で入国を阻止する方針が打ち出された。
 本局で配布されたぶ厚いブラックリストを持たせた秘書を先に任地へ帰すと、アンポンはそのまま市中へ回り、ゼネラルホスピタルへ赴いた。殺された福原と近しい関係にある日本人が、つい数分前まで自分が居合わせた場所で狙撃に遭うという事件を忘れていなかったからである。頼りない電気スタンドの明かりの下で、ベッドの井坂は新聞を読んでいたが、何の前触れもなく個室に現れた見舞い客の服装を見て、突然もんどりをうった、
 「あたた・・・痛い、痛い。死にそうや。とてもインタビューには応じられん。何も知らんで、わしは」
 ところがそんなとぼけた芝居を、新しい花をさしたばかりの花瓶を抱える有佳が廊下で見ていた。病室に足を踏み入れると、あまり驚いた様子もなく、有佳は佇むアンポンの後姿に声をかけた、
 「中佐」
 これを受けて来訪者も落ち着き払った態度でいった、
 「きみとはいつも妙な所で会うね」
 「ヌンさんが夕方に迎えにきてくれる予定だったんだけど、急用で来れなくなったの。それでビッチュウの秘書の人が来るのを待っていたのよ」
 「いつも僕は彼女に避けられているみたいだね」
 毛布をかぶり、有佳と警察中佐のやりとりを聞いていた井坂は、おもむろに身を起こし、けろりとした顔でいった、
 「なんや、このポリ、有佳ちゃんの知り合いか?」
 「ええ。アンポンさんといって、入国管理局の中佐さん。ヌンさんのお友達よ」
 「知らんうちに、あんたもずいぶん顔がひろくなったもんや」
 入国管理局と聞いて頭を抱える井坂は、何のために銃撃された現場で有佳との関わりを否認したのかわからなくなっていた。ところが井坂のそんな憂いなど何処吹く風とばかりに、パスポートを持たない少女はあたりまえのような顔で中佐を見上げた、
 「あの日、中佐が帰ったあと、偶然井坂さんが来たんです。”お父さん”のお友達なんです。それでおしゃべりしていたら、撃たれちゃったの。ユウカ、びっくりしちゃって、何もしてあげられなかったけれど」
 舌足らずなタイ語を無邪気に話す有佳は確信犯だった。日本人の社会は狭い。おまけに何らかのつながりが必ずある。タイ人はみんなそのように認識している。洒落者の中佐は野暮な問いかけを封じ込められていた。
 「ミスター・イサカ。あなたがフクハラと組んで仕事していたのは承知している。何も知らないはずがない」
 矛先を自分に向けられ、心なしかほっとした面持ちで井坂は格式ばった文書用語を話した、
 「私とフクハラの事件の因果関係を聞き出そうというのなら、無意味だろう。仕事上での付き合いがあったとは言え、フクハラの敵が必ずしも私の敵とは限らない。条件がよければ、私はいつでもタキと手を組む用意がある。この街では日本商社の連中も、会社の経理を通さない個人ビジネスで小遣い稼ぎしている。四十人の社員の暮し向きに責任を負う企業経営者たる者、無節操呼ばわりされるいわれはないように思う」
 頷くアンポンも口語を控えた、
 「それはそうだろう。タイはその程度の背信行為でいちいち鉛弾が飛んでくるほどわかりやすい国ではない。あなたを撃った男は直後に殺されている。身元を明かすものは何一つ所持していず、どこの組織の人間なのかもわからない。知っていることがあれば洗いざらい話してしまうことだ。ひいてはそれがあなた自身の身の安全につな
がるだろう」
 「知らないものは知らない。言えることはそれだけだ」
 最初から好意的な反応を期待しているほどアンポンも青くはない。井坂が読んでいた地元紙を摘み上げると見出しを拾い読みしながら言った、
 「あなたほどタイに長くいる人なら事新しく言わなくてもわかるはずだ。この国の人間は日ごろ日本人の目には愚かしく映っていることだろう。しかし、ひとたびタイ人が陰謀を企てはじめたら立場はたちまち逆転する。これまであなたが築き上げてきた事業を横取りしたがっているのは何もフクハラやタキのような日本人ばかりではない。用心するに越したことはないな」
 難しい顔で押し黙る井坂に、アンポンは折り目正しく釘を刺した。
 「今日はもう少し厳しい質問をするつもりで来たのだが、気が変わった。友人の友人を、友人同様に遇してしまうのがタイ人の困った習性だ。私とて例外ではない。考える時間を進呈するから、何か思い出すことがあれば、教えてほしい」
 有佳の顔を立てる格好で、中佐は井坂の追及を差し控えた。しかし、空港へ戻る道すがら、中佐は有佳をチャトチャクまで送ってくれると言い出した。夜でも会ったし、”友人の友人”なのだから、断れば心証をわるくするかも知れない。目線で井坂に意見を求めると、沈着な眼差しが同行を認めていた。最近とみに治安がわるくなったというバスの帰宅を見合わせて、有佳は中佐のエスコートを受けてみることにした。
 駐車場に運転手つきの車が待っていた。後部シートに並んで座ったものの、アンポンはいつものプレーボーイめいた笑顔を見せようとしない。相変わらず、静かな厳しさを保っていた。 
 「いまクルンテープではタイ、中国、それに日本のヤクザが三つ巴の戦争を繰り広げている」
 井坂に対するのと同じ口ぶりで、国王から国境のひとつを任されている責任者は少女に語りかけた、
 「ミスター・イサカはチンピラ同士の遭遇戦に巻き込まれて流れ弾に当たったのだろう。どんな悪党もビッチュウ興産は活かして利用する、と考え及ぶのが普通だ。フクハラのようにテロルの的に上げられる人種ではない。さて、私が立ち去ったあと、きみは現場を見た。こわくてよく覚えていないのは理解するけれど、どんな様子だったか、記憶している範囲でかまわないから話してくれないか」
 家まで送ると言い出したのは、単純なフェミニズムの発露ではなかった。形式を変えた事情聴取である。有佳が黙っていると、アンポンはそのまま続けた、
 「たまたま近くを通りかかった男が狙撃手を追いかけている。その男が狙撃手をそばの廃墟になったショッピングモールの駐車場へ追い詰めて刺し殺したもの、と警察局は推測している」
 思わず有佳は唇をひらきかけていた。あの時、ビアガーデンでピストルを撃った男がすぐに殺された。しかも手を下したのは追いかけた男だという。つまり康士だった。有佳は初めて慎重に尋ねた、
 「どうして追いかけた人が行きずりの人とわかるんですか?」
 「ミスター・イサカの関係者なら、まず撃たれた彼を気にするはずだ。きみのようにね。ところが目撃者の証言によると、その男はイサカを省みることなく走り出したそうだ。だから関係者ではない・・・と、警察局は説明している」
 何かがひっかかる。口調からアンポン自身は警察局の推理に懐疑的であることが窺い知れた。領事館の上階で聞かされた沢村の指摘を思い出す有佳は、背後でうごめくキナ臭い人影の容喙を感知せずにはいられなかった。
 「そう簡単に犯人を決めてつけてしまっていいんですか?」
 冒険的ではあったけれど、ここであっさり康士とおぼしき人物の犯行説に同意してしまうわけにもいかない。当り障りのない範囲で、精一杯の弁護を試みておこうと思った、
 「もっと複雑なストーリーじゃないと、つまんない」
 それが関の山である。対するアンポンの切り返し方は具体的だった、
 「現場にパトカーで急行した警官がヒットマンの死体を発見した直後、隣のデパートに設営されていた催し物のテントに落下してきた男がいる。状況を考えれば、そいつを第二の殺人犯とみなしていい。ところがよほど特殊な訓練を受けているらしく、四階から飛び降りたというのに、かすり傷ひとつ負わず、おまけに唖然とする目撃者に愛嬌を振りまきながらめちゃくちゃに破壊したテントを離れていったそうだ」
 被疑者の不謹慎な態度は、まぎれもなく康士のものである。あまりにも不利な状況証拠が揃いすぎていたが、しかし、いくらなんでも康士が狙撃手を刺し殺すとも思えない。
 「真犯人であるかどうかはともかく、警察局ではその推測に基づいて、逃走した重要参考人の割り出しを急いでいる」
 アンポンは意味深長な鑑識結果を耳打ちした、
 「駐車場で死んでいた若い男は日本人と見られているが、身元はまだ確認されていない。ただひとつ判ったことがある。凶器はフクハラを殺害したナイフと同じ物だった」
 思い余って、有佳はいった、
 「クラ運河ですよね?その人たちが争っている理由は」
 一方的に康士を犯人と決め付けられた気がして、アンポンが身にまとっている制服に向かって反論していた、
 「本国から応援が来なければ、いまタイで争っている外国人のグループは消耗する一方ですよね。そうしたら誰が、どこの国が漁夫の利を得るのかは、わたしでもなんとなく、わかります」
 「おどろいたな。きみはいったい、いくつなんだ?」
 「それが、ユウカもよくわからないんです」
 有佳は切実な本音を言っただけだったが、真顔で”冗談”を言う少女を、壮年男はさも頼もしげな横目で追った。
 「”娘”という触れ込みは信じなていないけれど、ひょっとしたら、きみは本当にヌンさんと血を分けた姉妹じゃないか、と思えてくる。それくらい、きみと彼女はよく似ている。辛口だ」
 容貌はまるで違うが、醤油もソースも色は似たようなものである。
 「そう。ユウカの言う通りかも知れない。そうやって他国の力や対立を利用しながらタイは近代の世界史を生き延びてきた」
 自嘲めいた調子で祖国を論じるタイ人が、有佳には珍しかった。謀略の介在をほのめかせ、アンポンは少女と語らうにはいささか適切を欠いた話題を打ち切った。
 「もうじきコンドミニアムに着く」
 あたりは見慣れた夜景だった。
 「部屋まで送ろう」
 車が停まると自らも助手席に手をかける中佐に有佳はさりげなくいった、
 「”お母さん”なら遅くまで帰って来ないわよ」
 少女に冷やかされた大人は軽く受け流し、いつもの白い歯を見せた、
 「僕はきみをエスコートすると言ったように覚えている」
 エレベーターホールにはいったところで、中佐の携帯電話が鳴った。
 「...本局からだ。例の狙撃者殺害犯のモンタージュが出来上がったらしい」
 ひょっとしたら、アンポンが会いたがっているのはステファニーでなく、その夫・康士なのではないか、と有佳は思った。しかしプレーボーイは屈託がない、
 「明日の朝までクルンテープにいなければならなくなった」
 国内線の飛行機は二十時台の離陸でほとんどが打ち止めになる。今日中の任地への帰還を見合わせると、アンポンは急に気楽な顔になり、
 「ヌンさんは留守なんだろう?だったら、ちょっとそこのガソリンスタンドまで歩かないかい?」
 と、言い出した。
 「ガソリンスタンドに何があるんですか」
 「夕食だよ。学生のころ、それにドンムアン空港で勤務していたころ、よくこの近くのガソリンスタンドにくっついた食堂でご飯を食べた。大して旨くはないけれど、そこの料理が僕は好きなんだ」
 この理論的な中佐にも思い出深い場所がある、という一事が、有佳の郷愁にも似た共感を誘った。それに夜更けのガソリンスタンドで、康士の好敵手めいた色男と話をするのは、ちょっとしたサスペンスのヒロイン気分が味わえそうだ。有佳に断る理由はなかった。
 ガソリンスタンドで火を使う、という発想は、さすがに昭和の少女にもすこぶる危険な試みに感じられたが、そのあたりはタイ人である。来客のピークを過ぎた食堂では、暖かい空気に溶け込んだ気化したガソリンの匂いを肴に、疎らな人影がぐつぐつ煮えるトムヤムクンを幸せそうに囲んでいた。調理場の隅に置かれたメモ用紙に、所望する料理名を思いつくままに書き込みながら、アンポンはいった、
 「ヌンさんは学生のころからチャトチャクに住んでいた。ユウカはどうして彼女がこの界隈に住みたがるのか知っているかい?」
 かぶりをふると中佐は慈悲深い笑顔をみせた、
 「北バスターミナルがあるだろう。クルンテープじゃ、ここがナコンサワンに一番近い場所だからさ」
 間髪いれず、有佳が切り込んだ、
 「中佐はどうしてこのスタンドでよくご飯を食べていたんですか?」
 おくびれもせず、アンポンは答えた、
 「僕もむかしはここに住んでいた。だからはじめは偶然だった。しかし法学部のゼミナールで新入生の彼女と知り合い、上っ面ばかりでない芯の強さに魅了されてしまった。彼女がこの町に住んでいると知って、ボディーガードになったつもりでここへ通い詰めたんだ。いまじゃ、国家の衛兵になっているけれどね」
 ありふれたタイ男の横顔をのぞかせる中佐は、淡々とした面持ちで、グラスに氷をいれてコーラを注ぎ、有佳の前に置いた。
 「かわいそう。そんなにヌンさんが好きだったのに、”お父さん”が横取りしちゃったんだ」
 「気にすることはない」
 きっぱり否定する声色は悟りきっていた、
 「入国管理局の命令で、アメリカ連邦警察に数年間の研修留学に行った。運命はそのあいだにすっかり変わっていた。いや、こんな結果に落ち着くのが、彼女と僕の運命だった、と言うべきだろう」
 出来すぎの映画だ、と呟いて、アンポンはミネラルウォーターを飲み干した。自分が留守をしている間に、好きな相手が別のパートナーを見つけている。これはアンポンひとりの悲劇ではない。傍目に幼い有佳ではあったが、鏡に映したような人生の機微はなまなましい。
 男は厳しい真顔で締めくくった、
 「しかし時代は変わっていく。北バスターミナルはもうすぐマーケットの裏側へ引っ越してしまうし、彼女がただひとり心を許していたモントリーさんはもういない。いつまでも過去に縛られていては、新しい時代の孤児になる」
 これはアンポン自身に手向けられた痛烈な自戒だった。身を乗り出して、有佳はきいた、
 「ステファニーさんが日本人と結婚すると聞いたとき、落ち込まなかったですか。
あの人の夫になる日本人を憎まなかったんですか」
 さしもの警察中佐も、よもやふたつめの問い掛けに、ピストルの男を殺した嫌疑がかけられている男、というきわめて政治的な意味がこめられているところまでは洞察できなかったようだ。思春期の少女に、誠実な返答が寄せられる、
 「警察を辞めて、寺にはいろうと思った。しかし反省もしたよ。タイしか知らなかったころの僕は、どんな女性でも優しくすれば必ず答えてくれると自惚れていた。でも、彼女の場合はちがう。まったく次元の異なる世界をいつも見つめて、そこへ一歩でも近づこうとしている。彼女が必要としていたのはペットの孔雀ではなく、どんな宇宙へも飛んでいけるエンジンだったのだ。...まだ会ったことはないが、おそらくユウカの“お父さん”はその条件に適う男なんだろうな」
 有佳は誇らしくもあり、切なくもあった。アンポンの観察が正しければ、たしかにステファニーと自分はよく似ている。まかり間違っても恋など語らない康士に、どうして自分がひかれているのか、よくよく考えてみればそれ以外に理由が見当たらない。
 「クラ運河か...」
 未来志向を殊更強調するように、アンポンは笑って話しを蒸し返した、
 「ああいったプロジェクトに情熱を傾けられるようになれば、僕も一人前の男と認めてもらえるのだろうか?」
 顔は笑っていたが、アンポンの目は真剣だった。
 「いまさらきみの“両親”のあいだに割り込む気はないけれど、ちょっとくらいヌンさんを後悔させてみたいんだ」
 「ユウカもやるわ!」
 自分の口を突いて出た言葉にしばしうろたえ、ややあって有佳は納得した。すこしくらいは康士を後悔させてみたい。それはアンポンと寸分違わぬ心情だった。
 「...あたしはまだ当分先のはなしだけれど」
 「慌てることはないさ」
 そこはかとなく愉快そうに中佐が言う、
 「よしんば工事がこの一二年のあいだにはじまっても、運河が完成して事業が本格的に稼動しだすのはきみの時代だよ。施設の運用は建設よりも難しい。ユウカは頭がいいんだから、クラ運河を存分に活用する方法を勉強しておいてほしい」
 ウィバパディの日から半年近くが経っていた。あれからずっと、曖昧模糊とした未来の世界を浮遊していた時空の孤児は、ここでようやく目に見える止まり木に着地したような心地になった。
 「タイ人はずるいよ」
 出し抜けにアンポンが言った。おかずを皿のご飯に盛り付けながら、有佳はじっと話し手の顔を伺い、展開を待った、
 「タイには巨大プロジェクトを推進するだけの原資がないけれど、しかしクラ地峡はこの国の領土だからね。国家と国民に繁栄をもたらすためには、手段を選んだりはしない。ユウカが大人になって、本当にタイで働くことになっても、このことは十分注意するんだよ」
 さり気なく、目下どぶ臭い水面下で進行している大仕掛けな陰謀を示唆して、アンポンは厨房に立つおばさんに会計の合図を送った。


 緑やピンクの豆電球が明滅する玄関の扉は、中から背広姿の店員が恭しくあけてくれた。一見ソープランドと見まごうようなたたずまいのグリニッジヴィレッヂというジャズクラブは、チャオプラヤ川でバンコク中心部と切り離されたトンブリ地区の繁華街にあった。紙幣でつくったレイをかけるバンドがステージに現れて演奏をはじめると、不機嫌も露に沢村が言った、
 「これがジャズと呼べるのかね?ひどい騒音だ」
 バンドメンバーの関係者たちが、けたましくタイ語の歓声をあげている。土地の歌謡曲をロック風にアレンジした代物が好評を博していた。
 「欧米人や日本人はおろか、タイ人のジャズ通も決して足を運ばない店です」
 言いながら川本こと森山は、一枚の選挙ビラをテーブルに置いた。 
 「柳田征四郎?」
 沢村の反応を受けて、森本はいった、
 「柳田代議士は、ほんの一週間前までバンコクに滞在していたようです」
 「ばかな。いやしくも国会議員だぞ。この国を訪れるなら事前に議員会館からかならず公館に連絡がはいる。しかし領事館も大使館もそんな話しは受けていない」
 相手が言いたいことを先読みしながらも、敢えて愚かしい質問を発して優越感を誘い、より多くの情報を引き出すのが沢村の習慣だった。森本はそれを承知している。
 「あの若さで、宮城県議を辞職させられてすぐ次の国政選挙で衆議院議員に返り咲く。よほど強力な支持基盤を抱えていても、なかなかできる芸当ではありません。あまつさえ、柳田が消防団にいたとう話は聞かないし、PTAとはもちろん縁がありません。とかく謎が多い男です」
 「もったいぶらなくてもいい。この男の顔には萌草会エリートと書いてある。あんたもそれを伝えたいはずだ」
 日本に帰れば警察官僚と四億円の横領犯の間柄だが、ここは本庁の取調室ではない。密談場所の選定に難儀する男たちには時間も限られていた。
 「“お忍び”なら捨て置けばいい。僧侶に化けて行方不明になったとしても公館は預かり知らぬことだ」
 「まだ花も咲かせていないのに、柳田がそれほど世間に対して謙虚な策士だとも思えませんな」
 「彼がタイへ来た意図は、つまり、青風会の”縄張り”か」
 「非凡な野心家です。そのように考えるのが妥当でしょう」
 青風会というのは、昭和四十年代の後半に保守政党に属する当時の若手議員有志が血判を交わして立ち上げた超派閥の政策集団だった。混迷の政局の渦中で青風会はやがて自然消滅していくが、おもにこの顔ぶれの活躍によって大きく進展したアジア諸国との外交関係は、そのまま利権の枠組みを有力な者たちに残していた。
 ところが、日本保守政界にもかつての英仏の牽制を彷彿させるような暗黙の了解があった。ほかの国々に比べて桁違いの利権をもたらすタイは緩衝帯となり、民間人である三光財閥の大番頭にその仕切りが一任されている。
 「この国へ進出している日本企業は今、どこも保身が最優先だ。はねっ返りの国会議員に付き合って秩序を乱そうというビジネスマンがいるとは思えない」
 「あの男の謎は、県会議員に出馬した際の選挙資金に始まっています」
 森山は淡々と言った、
 「二億のカネが使われています。バブルが崩壊して間もないあの時期に、誰がそれほどの資金を知名度がまったくない柳田に渡したのか・・・。旧来の政治家と企業献金という図式は当てはまらないかも知れませんよ」
 沢村の目はそのまま喋り続けるよう促していた。
 「本籍地こそ宮城県ですが、柳田が育ったのは東京です」
 「なるほど。それで?」
 「小学校時代の名簿に例の島崎康士の名前が載っているのです。しかも彼らは同じクラスでした。時代がくだって、柳田が出馬表明するとほぼ同時に、島崎は刑務所へはいりました。ご存知のとおり、栃木県で不法な土地転がしに手を染めて、島崎は二億円を荒稼ぎしたのです。二億円の使途は未だに不明です」
 皮肉な忍び笑いを漏らしたのは沢村だった、
 「友情のために刑務所暮らしか?ははは、麗しい話しだ」
 森山は如才なく受け流す、
 「友情だけでもないでしょう。荒っぽい仕事をしたのです。島崎も娑婆ではすっかり敵に囲まれていました。刑務所というのは、見方を変えれば安全な要塞です。柳田の利用価値を見抜いた島崎は、受け持ちのコースを走り終えた駅伝選手のような心境で、次のランナーにあたる議員にバトンを渡して悠々と一時避難場所へ転がり込んだのでしょう」
 「世の中を舐めてくれる子供たちだ」
 舌打ちして、沢村は結論付けた、
 「タイを隠密裏に訪れた柳田が、もとより企業活動の埒外にある島崎と接触した公算は大きい。それがやつらの戦い方か」
 沢村ばかりか森山までもが、柳田と島崎のあいだに生じている行き違いを知らなかった。
 「柳田はふたたび島崎を尖兵に立てて、党の長老たちからタイを掠め取る腹積もりでいる・・・と見なすのが、最も自然な推論でしょう」
 ステージでは、相変わらずでたらめな英語をわめき散らす自称ジャズバンドの演奏が続いていた。


 深夜、プラトゥナムに建つそのマンションの一室には十人余りの“馬”と呼ばれる日本人が屯していた。
 「まったくおめえはどの面さげてここへ来た?ええ?」
 いつの間にその組織の一員になっていたのか、すっかり幹部面する笠置が、肩を怒らせて息巻いた。笠置の足元には土下座する武藤の姿があった。
 「片岡さん。おれは本当に何にも知らないんすよぅ」
 福原を殺された武藤は、恥も外聞もなく、泣きじゃくって奥のソファにふんぞり返る片岡に命乞いした。
 「まあまあ、武藤はん、お顔を上げなはれ」
 つい数日前、すげなくゴルフ用品店を追い返された男は得意満面な面持ちを崩さず、懇ろな調子で話し掛けた、
 「われわれは友達や。これからも、仲良くやっていきましょう」
 「あっ、ありがとうございます」
 「しかし手土産のひとつも戴かないと、ドクター滝への取り成しも難しいですなあ」
 数日前、欲求不満に苛立つ顔で自分が何を言ったかも忘れ去り、片岡は陣営の頭目をことさら勿体ぶってみせた。
 「はあ。手土産は、どのようなものを?」
 漠然と命拾いを予感して、プライドの欠片もない男は周囲の面々に卑屈な愛想笑いを振りまいた。
 「決まっているでっしゃろ?首ですがな」
 頭目の言葉を受けて、運び屋のひとりが日本刀を抜いた。
 「ひっ・・・!」
 片岡が、かつて不行跡のあった配下の戸川健一を活用して、本国にいる堅気の親族から資産を根こそぎ毟り取った一件は有名な逸話になっていた。物腰こそ柔らかいが、片岡の報復には情けも容赦もない。その陰険さを知悉する武藤は、仰け反るあまりバランスを失い、床に転がった。
 「そう怖がる必要はこれっぽっちもあらへんがな。わても殺生は嫌いですよって」
 膝を曲げたまま仰向けになる男は、なおも世辞をいう、
 「なんという優しいお方だ」
 どっ、と笑い声があがった。
 「あんたや亡くなった福原さんを背後で操っていた黒幕は誰や?」
 「川本です」
 「その川本はんはいまどこにいてはる?」
 「それが、おれもよく知らないのです」
 “川本”という黒幕には武藤も会ったことがなかった。面識があったのは福原ひとりきりであり、一党にしてみれば架空の人物めいた存在である。
 「こまりましたな。それじゃ武藤さんは小僧の使いやないか」
 一党がまた笑い声をあげた。
 「えへへへ」
 頭を掻いて武藤もこれにこたえる。しかしその指先は恥辱にわなわな震えていた。
笑い者の脳裏に、面目を取り戻すのに格好なひとつの粗筋がひらめいた。事実関係はよく知らないが、その場しのぎでぶち上げるデマとしては、いくつかの根拠が揃っている。
 「川本のことは、鈴木隆央が知っています。そもそも福原のところへこの話しを持ち込んできたのはあいつでした」
 武藤のスタンドプレーを間に受けて、訳知り顔の笠置が復讐心も露に唸った、
 「ふん、やっぱり鈴木の差し金か」


 稲嶺がチェックアウトしたあとも、島崎は場末のホテル暮らしを続けていた。やることは何もない。ひねもすホテルの部屋でゴロゴロして、腹が空いたらルームサービスを呼ぶ。そんな目的意識に欠けた生活だったけれど、最近は几帳面に朝食を摂る習慣がついていた。
 「ごきげんよう」
 顔なじみになった若い給仕に声をかけると、いたずら小僧のようなふくみ笑いを浮かべる若者は、そそくさと島崎のテーブルに朝刊を運んできた。
 「旦那の好きな写真。今日も出ていますよ」
 新聞一面の赤茶けた色彩からおよその内容がわかった。
 「おれはべつに死体マニアじゃないよ」
 毎朝スパキット一家と青眉が競い合って製造している肉塊をひとつひとつチェックしていれば、外野からそんな風に誤解されても仕方がない。どぎつい写真で興味を誘う地元の大衆紙を覗き込むと、一面にパタナカンの連れ込み宿で見つかったという刺殺体の写真がフルカラーで掲載されていた。コーヒーを口へ運ぶ手が止まり、島崎の頬はにわかに引き攣った。顔は老人のようにひからびているが、中途半端に彫りかけた桜吹雪の刺青で死者の身元がすぐに判った。
 「ばかが・・・だから、言わないこっちゃない」
 殺された刺青の男は鈴木隆央だった。
 記事によると、死者の所持品を調べてみたが身元は不明。ただし、刺青の意匠から日本のヤクザであろうと推測されていた。現場にはもう一体、女の死体があったようだ。いつも一緒にいたプイというラオス娘も、その場に居合わせたため、口封じされたらしい。
 島崎はいつものように朝食を平らげながら記事を読み終えると、無言で立ち上がった。だが、その眼差しに潜む静謐は、すでに有佳やステファニーの介入を許さない、荒涼とした亜空間の風景と化合をはじめていた。






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