* この物語はフィクションであり、登場する人物、企業、
団体、一部政府機関の名称は架空のものです(著者)。




第三十二話




 昼過ぎと呼ぶにはすこし遅い午後だった。
 いつもと変わらない弛緩したドンムアンの日常風景に、突如ものものしいワインレッドのメルセデスが割り込んだ。スモークシールドの高級車は辻の一角で停車しても人がなかなか降りてこない。影のように随行していたピックアップトラックから、サンダル履きの男たちが六七人、敏捷にコンクリート舗装の路面へ飛び出した。あたりを伺う眼はどれも据っている。あからさまに尋常な一団ではなかった。路地で遊んでいた子供たちは、物陰から無言で手招きする毒虫を見るような母親の眼差しに異変を知ってそれぞれの家へ駆け込んでいく。ソーイへ果物を売りにきた行商も、あたふたと別のコースを選んで消えた。
 警備の配置が整うと、メルセデスの後部座席からスパキット一家の若頭・アレックスが姿を現した。
 こういう迷惑な輩の出現に接した時の庶民の対応ぶりに、国民の個性を示すものはあまりない。またおののく庶民を尻目に、いかにも我関せずといった面持ちの関係者が、平然と現場を通り過ぎようとするのも世界の犯罪社会ではありふれた光景だった。
 白いジャケットとパンツで身づくろいする背の高い女が、仕立屋の看板を吊りさけた門扉を押し開けている。
 「出かけるのかい?」
 路上に出たところで声をかけられたノックは、
 「そうよ」
 と、不機嫌な低い声で答えた。
 「話しがある」
 出かける、と返事したのに、アレックスは構わずノックを店へ押しこくった。反抗心も露に男のサングラスを睨みつける女は、眉間に般若のようなしわを寄せると、金属質な小声でまくし立てた、
 「いったいどういうつもり?ここへあんな野蛮な連中をぞろぞろ連れて来たりして。近所の人たちにおおっぴらにする気?ここが何を商っているお店なのか...」
 スパキットの組織はいま青眉と抗争のたけなわにある。現場の指揮官を兼ねた参謀に、単身外出する自由をスパキットが認めるはずもない。事情を察した女は、元の落ち着き払った尊大な態度をとりもどして、とがった顎をしゃくった、
 「手短にお願い。銀行がしまっちゃうから」
 邪険な物言いをまるで意に介さないアレックスは、ふん、と鼻を鳴らすと無遠慮に工房を覗き込みながら訊いた、
 「銀行へ出かけるだけにしては、すこしめかし過ぎじゃないか」
 「普段着よ」
 弁解の言葉尻を濁して押し黙る女にアレックスは穏やかにいった、
 「今夜はランシットプラザでバードのコンサートがある」
 目を見開いて、女は場違いな話題に猛然と噛み付いた、
 「アイドルの歌をどうしてわたしが聴きに行ったりするの」
 「あんたがそこへ行くと、誰が言った?独り言だよ」
 だが、その独り言は、いつもに比べて灰汁がつよかった。そわそわしはじめたノックは、後ずさりするようにプラスチックの椅子に腰掛け、それでもさも手持ち無沙汰といわんばかりに、長い髪をブラッシングする。口元に薄ら笑いをうかべた五十男の問い合せは終わらなかった、
 「ングーキヨウはどこだ?」
 「知らないわ。そう言えば最近、ぜんぜん姿を見せていないわね」
 「“オヤジ”の仕事か...」
 以前、このタウンハウスでとぐろを巻いていた緑蛇は、言うなればアレックスの懐刀だった。ところが白門との戦争がはじまると、チョンブリのスパキットは陪臣にあたる若者を、いつしか直属部隊へ編入してしまったらしい。若い衆の貸し出しを所望する申し出は受けていなかった。
 「スズキに関する情報があれば聞かせてほしい」
 藪から棒に言って唇を引き締めるアレックスは、冷静に女の表情の変化を観察した。鈴木隆央の名前が出ると、この女はいつも露骨に不快な顔をのぞかせる。両者を知る人々は、単にこのとげとげしい気質の女が鈴木という癖のある男に生理的嫌悪感を抱いているものと解釈していた。
 「なんのこと?」
 声を上擦らせる女の手元から、ブラシがすべり落ちた。「コンサート」で鎌をかけられ、とうとう核心を衝かれた当の本人は、ただでさえ白い顔からみるみると血の気をひかせていく。鈴木がプーケットの沢村と川本こと森山へ送りつけたカセットテープには、脅迫された二人に加え死んだ戸川健二の会話が録音されていたのだ。会話はすべてこのタウンハウスで交わされたものであり、高度な盗聴技術とはまるで無縁だった。裏切りが露見した女はわなわなと膝を震わせはじめた。
 「痛い腹を探られる時は、痛くない時に探られるより苦しいだろう。当たり前だ」
 ポケットからラークを取り出して一服すると、男は淡々といった、
 「アイドル歌手のコンサート会場か。何千という熱狂した連中は、隣の席で行われる商取引にさえ気が付かない。誰と誰が話をしていようと関心もない。おまけに女の失神者が続出するバードのコンサートなら、欲求不満顔の三十女がひとり倒れたって決して異常な光景ではない」
 内応者というのは用済みになればあとは邪魔者でしかない。鈴木という男はいつもは微笑を絶やさずにいるけれど、億単位の日本円と仕立屋の女主人の生命をわざわざ天秤にかけるほど優柔不断な性格でもなかった。
 「日本人という連中は、いつも忙しくしていないと安心できないみたいだな。よっぽど自分の能力に自信があるのか、あるいは何も考えていないのか。次から次へと、あの手この手の生半可な子供だましを考え出してくれるよ」
 「...」
 処分を宣告することもなくアレックスは、
 「邪魔をしたな。早く行かないと銀行の窓口が閉まる」
 と暇乞いして立ち去った。
 メルセデスとピックアップトラックが載せてきた人員をすべて回収してソーイから出て行く。茫然自失した女は空ろな眼差しで一団を見送ると、へなへなとテラスの床へすわりこみ、ハンドバッグにしのばせてあったコンサートの入場券を憎々しげに引き千切った。
 「...まさか、あのテープをそっくりサワムラに送りつるなんて」
 地の底から這い上がるような声色でノックは唸った。
 「そんな梯子の外しかたをしたやつが、どの面下げて窮地に立たせたこの私をコンサート会場へ呼び出したりする?」
 報酬を受け取ってはいたけれど、これまでさんざん協力してきた自分を土壇場へ抛り込んだ挙句、鈴木は口封じまで目論んでいたという。
 女も渡世人の端くれだった。裏切りに対する仕打ちは、裏切りで報復するだけだった。


 「な、武藤はん。聞いておくんなはれ」
 バンコクで最大の日系馬軍団を率いる片岡善吉は、業績不振のゴルフ用品店を訊ね、その主人に弱々しく手を差し伸べた、
 「わしら、何も最初からあんたたちとコトを構える気なんかまるでなかったのや。ぜんぶ篠塚が沢村にケツをかかれて始まったことや。ところがなんや、気が付いたらすべて滝が横取りしとる。わしら員数合わせに利用された、言うなりゃ被害者やで」
 「おう、片岡よ」
 店の備品で自分のクラブを磨いていた武藤は、年長の相手を呼び捨てにすると、この上なく尊大な調子で言った、
 「おれたちはいま戦争中じゃんかよ。傷を舐め合いたいなら八田とやれや」
 すると片岡は頭を振った、
 「あんたも知っとるやろが。八田は滝の言いなりや」
 「はん。つまり、篠塚がいなくなったいま、お前さんだけ仲間はずれ。だから、こっちの輪に入れてもらおう、って料簡かい。小学生なみの発想だな、まるで」
 「つれないで、そら」
 「それだったら、篠塚の残党と手を組んで、被害者の会でもなんでも作って滝を告訴すりゃいいじゃねえか。ったく、敵方の愚痴まで聞かされたんじゃたまらねえぜ。さあ、うちは忙しいんだ。何も買わないなら、帰れ帰れ」
 「わしらは友達やないか」
 「バカヤロウ」
 中古のグラブセットを見に来ていたただひとりの客が、背後で轟いた罵声に面食らい、そそくさと店の外へ逃げ出した。
 「おっ!こら、お客さん。待っておくんなさい。これはその、つまり違うんでさあ。おい、待てっば・・・!」
 レジカウンターから飛び出した武藤はロビーまで追いかけたが、お客はとうとう戻って来なかった。
 「やれやれ。とんだ営業妨害をしてくれるぜ、あんたは」
 自分で怒鳴っておきながら、武藤はあくまでも片岡のせいにする、
 「どっちにしろ、今ごろ心を入れ替えたって、福原にゃ取り成しできないよ。ま、そういうわけだ。あばよ」
 武藤は福原陣営への帰参を申し入れに来た片岡をにべもなく追い返し、これ見よがしに塩を撒いた。


 「片岡が詫びを入れて来たそうじゃの」
 事務所に顔を出した武藤を見て、まず福原は昼間の出来事について訊いた。
 「ビシッ、とお灸を据えてやりましたよ。あの野郎、真っ青になって逃げていきやがった。はははは」
 「こっちは昨日笠置が、とびきり耳寄りなロシア政府筋の情報がある、とか言って来たそうじゃ。わしは留守していたがの、若いやつにケツを蹴られて帰ったらしい」
 「なにがロシアだ。まだCIAをやっているんですか、あの電気屋は。鈴木にボロ雑巾にされたのに、まだ懲りていないんですかね」
 その程度で懲りるほどなら、バンコクの地下街で何十年も暮らしていられるわけがない。だが、自分たちも紙一重の同類項でありながら、勝利者の予感に奢る武藤の認識はかなり麻痺していた。
 「篠塚が所払いを食わされているけん。滝のもとじゃやりにくいのかも知れんのう。しかし、鈴木のほうがまだ役に立つ。身内にして喧嘩されてもつまらんからの、うちは要らんの」
 「滝のところじゃそれこそ本物のCIAと鉢合わせしかねない。笠置もやりにくいでしょうな。思えば哀れな男よ」
 面持ちを切り替えて、福原は思い出したように言った、
 「さっきも八田からディナーショーの誘いがあったわい。ナントカカントカっちゅう赤毛物の歌を唄う有名なアメリカ人が今晩、カールトンホテルでぶんちゃかぶんちゃかやるそうじゃ」
 やや不安げな眼で、武藤は福原の顔をのぞきこんだ、
 「で、あんたは行くんですかい?」
 「だれが?そがいな歌、さっぱり分からんけんのう。断ったわ」
 梯子を確保して武藤はふたたび上機嫌にいった、
 「八田も馬鹿な男だねえ。福原さんは演歌しかわからねえってのに」
 「余計なことを言うな」
 しかし、事務机の上にぶ厚く積み重ねられた委任状を前にして、福原はすこぶる上機嫌だった。一日中それらをなんべんも手にとっては、あらためているらしい。クラ運河建設に投資を希望する書面には、バーツ崩壊後しばらくお目にかかれなかった桁数の金額とともに、名だたる企業から堅実な個人事業主まで、裾野の広さをうかがわせる固有名詞が乱舞していた。
 笠置、鈴木とふたりの手を経てまわってきた三光銀行の参入が決め手となった。ここへきて、福原は一躍大親分にのし上がったのである。
 それに、井坂は非常にありがたいタイミングで怪我をしてくれた。井坂を撃って死んだ戸川は身元を明かすものを何も持っていなかったので、いまは無縁仏になっているが、彼がかつて片岡の許にいた人間であることはよく知られていた。傍目には、反福原派の仕業にうつる。”滝一党の荒っぽい遣り口”に眉をひそめる表裏の日本人社会は、井坂の負傷を契機に福原贔屓へ流れていた。
 もっとも望ましい帰趨を確信する福原と武藤だった。
 「どうです、親分。これからタニヤでパアッと打ち上げしますか」
 「けっ、おのれのオカマ趣味に付き合うほど酔狂じゃない。それにこれから二万バーツの女が来るのじゃ。今夜はホテル泊まりよ」
 「なんだ。それが八田を袖にした真相ですな」
 このふたりがタニヤ通りの女たちと戯れることはない。縄張りである以上、売り物に手を出さない、という職業モラルとはまた別に、それぞれ色の道については独特の嗜好をもっているからである。
 「あんたも好きだねえ。アレだろう、前から秋波を送っていたソムタム屋の後家・・・の、今度十三歳になる娘か」
 図星だったようだ。突然福原は気味の悪い笑い声をあげ、恍惚の眼差しで告白した、
 「ふほっふほっ、この道ばかりはのう。あのババア、やっと娘を一晩貸し出すことを承知したわい」
 「悪い男だねえ、親分は。痛がっている小娘を無理やりやっちまうのが好きだってんだから。おれはやっぱり、同じガキ遊びならお互いにツボがわかっている男の子のほうがいいけれどねえ」


 ランシットプラザのコンサートは、熱気につつまれて終了した。余韻に浸りきる会場の群集は、なかなかその場を離れようとしない。
 「まるで、でいりの後始末やな」
 興奮のあまり失神し、担架に載せられて運び出されていく娘たちを眺めながら物珍しそうに鈴木が言うと、そのわき腹を小突いて仏頂面の島崎が出口へ向かって歩き出した。
 「こら、まて。まだすっぽかされたと決まったわけやない。探すのや」
 「おれは帰るよ。なんで男が二人してモッコリアイドルの唄を聴かなきゃいけなかったんだよ?ああ、無駄な時間を過ごしてしまった」
 観衆は大部分が女である。男の客は彼女が同伴しているか、あるいはこれ見よがしなゲイ装束に身を包んでいる手合いかのいずれかだ。いちおう鈴木には情婦のプイが寄り添っていたけれど、異郷の言語で声高に語らう二人の三十男は、人ごみの中でかなり目立つ存在と言えた。
 「早くずらかったほうが無難だぞ」
 「そやけどなあ」
 福原派と滝に率いられた連合派閥は、スパキット一家と青眉の派手な抗争の後ろ側で、目に見えない綱引きを続けている。意味を察して鈴木は渋々島崎の言葉に従いながらも、未練がましく会場を振り返った、
 「領事が任地で妾を囲っていた、というゴシップな。どこかの国の総理大臣みたいにえげつない展開になるとは思うけど、攻撃の材料にはうってつけと思うがな」
 「カネをやって女を証言台に立たせようってか?おれはどうせ品性下劣なマスコミ界の下っ端だ。沢村に揺さぶりをかけるためなら、そいつも吝かではないが、肝心の女が現れないんじゃ話しにならない」
 「おかしいなあ。どうあっても、沢村から逃げださなあかんように”囲い込み”をかけたんやけどな」
 「やり方がまずかったんじゃないの?どんな囲い込みか知らないけれど、あまり荒っぽい手口だと、かえって相手に疑心を抱かせる」
 ”沢村の女を引き合わせる”と誘われた島崎の危惧は的中していた。もちろん、その昼間、待ち人のもとへアレックスが現れたことを二人は知る由もない。
 「なあ、鈴やん」
 いつになく意気消沈した顔で、島崎はわけもわからず笑顔を作るプイを見ながらいった、
 「潮時かも知れない。もうよさないか」
 「なにを?」
 「沢村の追い込みだよ」
 歩きながら鈴木は絶句した。
 「最近、目的がまるで見えなくなってきた。どうしておれは日本領事館のチョンボを告発せにゃならんのかね?規定外の謝礼を受け取ってアンダーテーブルの査証を発給するなんて、この街の大使館はどこでもやっていることだ。いくらおれが目くじらを立てても、本国のやつらは関心なんざ払いやしないよ」
 島崎はこの数年間、生業と平行して自分の国の領事館による査証不正発給の事実関係を追いかけてきた。つきつめて言えば、日ごろ面倒を見てもらっているまともなタイ人の名誉を守りたい、という浪花節めいた心情が権輿だったかも知れない。しかしその間、島崎自身の物の見方はずいぶん変わってきている。いかに日本人が不法行為に関与していようと、タイ人の名誉はタイ人自身が努力して勝ち取るべきではないか、と考えるようになった。努力を怠れば、当然名誉も逃げていく。それはそれで致仕方ない。ただ、意地という代物が厄介だった。なかなか振り切ることができなかった。こうして惰性で調査を進めていくうちに、ひょっこりクラ運河計画が飛び出した。
 これこそ島崎にとって、生涯を費やすべきプロジェクトだった。
 ところが柳田は、主要メンバーから島崎をはずした。領事館という、腐れ縁の案件を抱えていたためである。島崎の内部で、沢村は兜首からうとましく足元にまとわりつく疥癬もちの犬へと、その存在理由を変えていた。
 おもむろに鈴木は言った、
 「そんなこと知るか。おまえが自分で決めたことや。おれはおまえみたいなインテリとは違う。しこたま銭を分捕ってやろうと決めた。そやからおれはとことんやる。おのれが芋を引くのは勝手やけどな、他人にまで屁っぴり腰を強いるようやったら承知せえへんで」
 「うん。芋を引いている。おれは怖くなった」
 立ち止まり、拍子抜けを隠せない鈴木は、しげしげと島崎を眺めた、
 「おまえは変わった」
 「そうか?」
 「ここ半年くらいのあいだに、見違えるほどまともな人間になりよった」
 鈴木の指摘が、有佳の出現と符合しているのは自然の数だった。
 「迷いが生じたら、バンコクにいる限り、あとは食われるだけの存在や。堅気になると言うのやったら、おれは無理に引きとめたりせん」
 ディパックの中には、沢村と、その前任者たちの所業を洗いざらい書き記した数百枚の原稿用紙がいれてあった。何箇所か、証拠がないため空白にしてある行間もあるけれど、鈴木ならそれを埋め合わせることができる。新たな共同戦線を持ちかけられてランシットへ足を運んだ島崎の本当の目的は、鈴木にその原稿を手渡すことだった。メディアに売ろうと、脅迫に使おうと、あとは鈴木が好きにすればいい。
 「島ちゃんは、差別されたことがあるか」
 ところが鈴木は突然奇妙なことを言い出した、
 「実はおれ、生まれも育ちも大阪やけど、ほんまもんの日本人とちゃう。親父が在日朝鮮人の二世でね。差別は小さい時から厭と言うほど、味わった」
 金鐘午という鈴木の本名を、島崎は初めて聞かされた。半島に血筋の原点をもつ男は、しかし自信家ゆえか、日本人に対する恨みを感じさせない調子で苦渋の物語を締めくくった、
 「だがな、おれは日本にいたからこそ、差別程度のことで自分を哀れんでいられたのや。世界六十億人の中で、おれは何番目に不幸な人間や?せいぜい五十億番目くらいのもんとちゃうか。この同じ空の下には、間抜けな国家指導者の尻拭いをさせられて、毎日何百、何千って数の国民が餓死している国だってある」
 やり場の無い憤りに、鈴木自身がはげしく苛まれていた、
 「この女を見ろ」
 視線が傍らのプイに注がれた。
 「こいつはラオスの貧乏な百姓の家に生まれたばっかりに、十二歳の時に淫売置屋に売り飛ばされて、華僑の助平爺に水揚げされた。それからというもの、くだらん男どもに下手糞な媚びを売る芸当を磨くことだけが勉強と思い込んで生きてきた。涙しか出てこないほど、無価値な人生やないか。しかしそれにしたってまだマシなほうでな、こいつの弟なんかは、六歳になるかならないかの頃、臓器商人に売られてしもうたそうや」
 鈴木にこの種の弁才が備わっていたのは意外だった。しかし島崎は黙って凄惨な物語に耳を傾ける。会えば必ず罵り合う間柄だったが、この男と親しくなった理由は、存外身近なところに転がっていたように思えてきたからだ。
 「片一方の顔で世界平和なんて御大層なことを抜かしておきながら、いざ自分が病気になって、他人の肝臓を移植できる、なんて選択肢をちらつかされたら、喜んでそれを買おうとする。それが人間の性なんや。最後は銭を持っているやつが生き残る。だから、おれはとことん戦ってやる」
 徹底抗戦を主張する鈴木に、島崎はあくまでも厭戦の理由を告げた、 
 「どんなに懐を豊かにしたって、人間の欲はとどまるところを知らないよ。肝臓を患った人間が素直に肝臓疾患で死んでいける時代が来なければ、畢竟何も変わらないんじゃないのか。おれはな、鈴やん。そんないびつな贅肉だらけの世の中を一旦バラバラにして、真剣に生きる気のあるやつだけが三食に不自由なく暮らしていける社会を創り出せればいいと思っている。最近やっとわかった。おれは青臭い」
 「島ちゃん。あんたは革命家や。そしておれは俗物や」
 目の前に鏡を置かれて自身の滑稽ぶりを見せつけられたような気がした。張り詰めていた糸は切れ、風にゆれていた。
 「すまんが、おれはもう、あんたと一緒に歩くことはでけん」
 ついに鈴木のほうから訣別の辞が切り出された。それでも、声色はいつになく温厚だった、
 「悪く思わんといてな、島ちゃんは偽善者と逆の”偽悪者”や。根っからの悪党であるおれとは住む世界がちがう。せいぜい気張りいや。運河完成のニュース、楽しみにしてるよって」
 つい数週間前まで島崎の背後に横たわっていた運河の幻想はすでに立ち消えになっている。しかし期待感に満ちた鈴木の口調は無邪気だった。
 「餞別に、これをやるわ。もう使うこともないやろが、記念に持っていき」
 と、カセットテープが投げられた。
 「コピーはプーケットに送った。そいつはマザーテープや。おまえの秘密もずいぶん聞いてしもうたが、おれを殺したりするなよ。代わりに教えとく。マイトンビーチリゾートのマネージャーをやっている男は川本って名前や。ところがそいつにはもうひとつ、森山という名前がある。整形手術で顔を変えとるが、おれに成田から四億円を運ばせた張本人や」
 原稿を渡そうと思っていたのに、逆に空白を埋める資料を押し付けられてしまった。これまで暖めてきた推測が、鈴木の投げやりな言葉だけで完璧に裏付けられていく。自分の手で原稿を仕上げる、これが引退に課せられた条件かも知れなかった。
 「ゼニの持ち出しなんか、外交特権の後ろ盾があれば、猿にもできる簡単なお仕事やった。あまりおれを買いかぶるなよ」
 駄目押しの暴露は、沢村秀一の前任者が仕組んだトリックだった。
 プイは再会を誓うように、佇む島崎へ人工的な媚で塗り固めた笑顔をこぼし、暗がりへ消えていく背の君を追いかけていった。
 離合集散も乱世のならい。
 確信犯のヤクザにまで三行半を手渡され、島崎は釈然としない苦笑いを嚥下しながら踵を転じると、プラザに隣接するサッカーグランドの目も眩むような夜間照明を睨み据えて歩き始めた。






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