* この物語はフィクションであり、登場する人物、企業、
団体、一部政府機関の名称は架空のものです(著者)。




第二十八話




 チャトチャクの市場で有佳とわかれると、島崎は客を降ろしたばかりのトゥクトゥクに潜り込み、タロから指定されたラマ九世通りの高級ソープランドの名を告げた。運転席から振り返るにきび顔の男は、にんまりとして、希望する料金を切り出した、
 「三十バーツ」
 如何に道の空いた日曜日といえ、距離からすれば七、八十バーツが相場である。
 「八十やるよ」
 島崎は不貞腐れた顔で釘を刺した、
 「その代わり風呂屋の前でおれを降ろしたら、マネージャーとコミッションの交渉なんかしてないで、さっさと次の仕事に行くんだぞ」
 バンコクで“ソープランドへ行く”というのは、一概に女遊びを意味しているとは限らない。建物自体に淫靡な印象がつきまとうけれど、これらの店には軒並み照明を暗くしたレストランやスヌーカー場などの施設がくっついている。夜の世界の住人たちが、額をつき合わせて密談を交わすには最高のロケーションだ。白茶けた客の反応を受けて、運転手は黙ってアクセルをまわした。
 郊外型の大きなショッピングセンターを彷彿させるあけっぴろげな外観の風呂屋は、当然のように広い駐車場を備えている。時間帯のせいで、がらがらだった。トゥクトゥクを降りて見回すと、隅っこに、タロのオートバイが停まっていた。玄関を潜ると、正面にある雛壇は閑散としていて、鮮烈なピンクの明かりに照らされる女は四、五人しかいなかった。勤労意欲に欠ける女たちは仲間同士のおしゃべりに興じていて、周旋係の男も寄ってこない。カウンター係の女にいたっては、ナムプラーの匂いも強烈な弁当を黙々と食べていた。コーヒーショップも空いていて、ひとりで何種類もの料理を注文して飯を掻き込んでいる蟹顔の若い男はすぐ目に付いた。
 「忙しいみたいだな」
 タロは仕事用のサファリをぴっちり着込んでいた。
 「兄貴、メシ食ったかい?」
 「ああ。すこしだけ」
 「だったら、食べよう」
 どのみち伝票は島崎にまわってくる。白米を取り寄せると、目ぼしい料理が盛られた皿を引き寄せながら島崎は訊いた、
 「イサカさんがフクハラと手を結ぶ、ってのは本当か?」
 それが、島崎が有佳を市場に置き去りにした理由だった。
 「シリアスになるほどのことじゃない」
 薄ら笑いを浮かべてマイルドセブンをくわえるタロは冷静だった、
 「向こうのほうから持ちかけて来た話だぜ。イサカさんはビジネスマンだ。すこしでも有利な条件を引き出して色目を遣ってやるのが親切というものだろう?」
 「そりゃそうだが、あの人も性格が悪いね」
 井坂が誠心誠意、福原の軍門に下ったとは最初から思えなかったけれど、島崎は釈然としなかった。表立った関係ではないが、滝から金銭を受け取り、情報を交換している自分とは、立場上、敵味方に分かれたことになる。
 「これは日本人同士の抗争とわけがちがうぞ。おまえはどうするんだ、タロ」
 従業員だからと言って、何も自分の人生を左右するような決断まで社長に従わなければならないという理屈はない。島崎の問いかけは、そんな了解事項の先にあった。
 「おれには関係ない。ま、しかしイサカさんがスパキットを蹴散らす側にまわってくれたのは、気分がいいね」
 局面において、とは言え、スパキットや沢村が島崎の味方で、井坂やタロが敵方というのは、ずいぶん皮肉なめぐり合わせだった。どこの国でも、愚連隊は極道の傘下にはいるか、しからずんばパルチザン的な敵愾心を燃やすかのどちらかだ。タロのスパキット観は、あきらかに後者に属していた。
 「頼みたいことがある」
 複雑な笑みを浮かべて、島崎はスプーンとフォークをテーブルに置いた。
 「カネになることだったら何だってやるぜ。殺してほしい人間でもいるのか?」
 「まあ、似たようなもんかも知れん」
 そして悪びれることなく、依頼を切り出した、
 「青眉のことは、知っているな?」
 「中国人の組織だな?」
 「やつらは今度の一件でおまえらの側、つまりフクハラをサポートする密約になっている」
 鈴木隆央の話は出鱈目ではなかった。ナコンサワンでモントリーの荼毘が行われた日、島崎は陳から青眉にまつわる幾つかの有益な情報を聞き出していた。
 「ちょっと耳を貸せ」
 囁きは長かった。左右に拡がったタロの目が、猜疑心の色を湛えてきょろきょろ動く。
 「両方を敵に回す気かよ、チマ兄貴?」
 ふんぞり返って、島崎は言った、
 「ばか。声がでかいぞ」
 同じ姿勢でタロも言う、
 「まあ、やれるだけやってみよう。でも、“きれいな仕事”になるかどうかは保障できないよ」
 きれい、とは倫理上の話しではない。タロや島崎はどちらも、痕跡を残さない完全犯罪をそんなスラングで呼ぶ人種だった。
 「バレたらバレたで仕方ない。とにかく、やってみないことには話が先に進まない」
 「それだけ旨い話を教えといて、分け前はいらない、ってのはどういう了見なんだよ?本当はヤバい話しじゃないのか」
 「ヤバい話しだよ、本当に。それで、分け前も本当に要らない。おれは、タロが仕事に成功すれば、焼け跡からがっぽり稼げる。それにな、同じタイのワルでも、スパキットよりおまえのほうがなにかと話しがし易い。だから、おまえにはくだらないチンピラでなく、いずれ親分になってもらいたいと思っている。どっちにしろ、上にあがるにはべぼうな額のカネが必要だ」
 呆れた面持で、しかし嬉しそうに、タロは溜息を洩らした、
 「おれに“堅気”になれって言ってビッチュウに入れたのは、どこの誰だよ?」
 「日本には“三つ子の魂百まで”という諺がある。イサカさんの下でタロが真面目に働いている、とティウから聞かされた時、おれは嬉しかった。猫をかぶる、という技能は抜き身の暴力より高等だ。おれはおまえが一段上の悪党に成長した、と思った」
 ふたつの忍び笑いが交錯した。満足そうにタロは言った、
 「おれはおれで勝手に戦争する。まあ、兄貴を切ない目に遭わせるような真似はしないから、まあ、見ていてくれ」


 笠置は水割りを飲み干すと、得意の斜に構えたポーズを決め、声を潜めて言った、
 「アユタヤの北に大きな工場を持ってる常盤製作所。着任してくる社員はみんなこの国の女を孕ませて帰国するんですよ」
 タニヤ通りのカクテルラウンジは、社用族の利用も減り、どこも客足が遠のいている。笠原をこの店に案内してきた常盤製作所のライバル家電メーカーの現地法人責任者は、大勢のホステスに囲まれながら、苦虫を噛み潰したような顔で話を聞いていた。
 「アントン県には、常盤マンの落とし種をかかえた母子家庭がたくさんありますよ。道義上、何らかの救済が必要でしょう」
 こんな話は、ひとえに常盤に限ったことではない。事実、このマネージャーからして、隠し子がいた。
 「わかりましたよ」
 家電メーカーは言った、
 「敵わないな、笠置さんには。仰せの案件、署名しましょう。でも、その前に、ちょいと失礼します・・・」
 と、化粧室にたった。書類を用意する笠置は、おどけてブリーフケースを覗き込む女たちに邪険に言った、
 「おう。おまえ等、見るんじゃない」
 まるで犬や猫をあしらうような口調の客に、教養こそないけれど気位の高い女たちはむっとして、示し合わせたように席を離れていった。店内に、他の客の姿はない。家電メーカーはトイレに入ったまま、なかなか出てこなかった。そうするうちに、閉じられていたドアが開き、まったくの別人があらわれる。タクシーの運転手らしい男は、客を案内したコミッションでももらいに来たのか、幾ばくかの現金を手にすると、ふたたび同じドアに消えた。
 ___ はかられた!
 それは、トイレではなく、通用口のドアだったのだ。
 「あの電子レンジ屋め・・・!」
 舌を打ち鳴らして笠置が店を出ようとすると、青いタキシード姿の用心棒を左右にはべらせた鈴木隆央が現れ、往く手を阻んだ。
 「おう、ずいぶん久しぶりですなぁ。笠置はん」
 いつもの黒シャツをまとう男が馴れ馴れしく笠置に歩み寄ると、女たちは素早く左右の物陰へ姿を消した。
 「なんの用だ、鈴木。どうしてお前がこの店にいる?」
 タバコに火をつけながら、鈴木は笠置が座るソファの肘掛に腰掛けた、
 「この店はの、潰れかけていたさかい。気の毒やからおれが先週権利を買うたのや」
 まんまと危地に連れ込まれた。笠置は自分が福原側の仕組んだ罠にかかっていたことをようやく理解して、身体をこわばらせた、
 「あんたみたいなインチキヤクザに縄張をうろちょろされては迷惑や。早よう渡すもん渡して、お家に帰って姐ちゃんのおっぱい、吸うたれや」
 げらげら笑って経営者はお客の耳にタバコの煙を吹きかけると、伝票を摘み上げた。
 「お連れさんが先に帰られはったから、オッサン飲み代払うてな。タダ飲みはあきまへんで。・・・ええっと、だいたい十万円ですな。言っとくが、うちは現金しか受け取らないよ」
 顔見知りのぼったくりにわなわな震える笠置は、鈴木と目つきの悪いタイ人ボーイに啖呵をきった。
 「おまえら、おれを舐めるなよっ。おれはな、し、CIAだぞ」
 「なにがシーアイエーじゃい。おのれは“篠塚のインキン・アヌス”やろが」
 精一杯粋がってみせたが、頭を小突かれて、ブリーフケースを抱きかかえるCIAの目に狼狽がさした。
 「もう知れ渡っとるで。三光の酔いどれ支店長をまんまと神輿にのせたそうやな。
えげつない真似するな。ボーイに酔っ払った銀行屋をアヒル呼ばわりさせて逆上させて、殴らせる。写真には成行きまで写らんさかい。上手い絵を描いたもんやで」
 笠置は最後のあがきに陥った、
 「言い掛かりだ。無礼はゆるさんぞ。それに、三光銀行は署名に応じていない」
 「ほな、これは何ですかの?」
 言うが早いか、鈴木は笠置の小脇から集金袋をひったくり、現金には目もくれず、証書や念書の類いを一枚ずつあらため、問題の一枚をつまみあげた。
 「白紙委任状。これを持って、ドンムアンで尻尾を振って篠塚の御大をお出迎えか。感心、感心。まるで忠犬ハチ公ですのぅ。しかしこれも縁や。なあ、笠置はん、わしと組まへんか」
 「ノウ。答えはノウや」
 一党の者にとって、日本にいる篠塚の支配力は絶大だった。始めから予想された答えににんまりして、鈴木は指を鳴らした。
 「なら仕方がない。ちょっと裏へ来てもらおうか」
 間髪いれず、タキシード姿の用心棒がふたり、笠置の両腕をがっしりと捕まえた。
 「ノウっ!痛い。ユーたち、乱暴はよくない。やめなさい・・・!」
 窮鼠は猫を噛めなかった。抵抗虚しく、身悶えする笠置は後ろ向きに勝手口から引きずり出されていく。ドアが閉ざされると壁の向こうで、鈍い殴打音とくぐもったうめき声が幾度となく錯綜を繰り返した。


金属質の咆哮を引き摺って、鈍重な旅客機が這いつくばるように大空へ駆け昇っていく。ややあって、温風がもんわりと押し寄せる。麦藁帽子をかばうように一陣の風をやり過ごすと、金網に指をからませたまま有佳がいった、
 「飛ぶ飛行機ばかりだね」
 洗い晒しの白いTシャツをまといBMWのボンネットに腰掛ける島崎は、映画俳優を気取っているのか、照りつける太陽を気だるそうに見上げていた。
 「あたりまえだ。コイン占いの確率で墜落されちゃ、乗ってる客がたまったもんじゃない」
 そこはドンムアン空港の国際線ターミナルと国内線ターミナルに挟まれた一画だった。エプロン越しに滑走路を望む進入路の路肩に車を停めて、斜に構えた男と生真面目な少女は飛行場を見守っていた。一般車両は駐停車禁止に指定されているエリアだったが、注意しにやって来た警備員に島崎がめちゃくちゃな英語で対応すると、それ以上立ち退きを迫られることもなかった。
 「ちがうよ。降りて来る飛行機がないね、ってこと」
 すると島崎は淡々と告げた、
 「あと、一機上がったら、しばらくは到着便ばかりになるよ」
 ドンムアン空港は、午後の離着陸ラッシュがはじまっていた。島崎の片方の腿には携帯電話でネットに接続されたB5ノートが載せられている。どんなアクセス方法を用いたのやら、液晶画面にはしっかりフライトインフォメーションが映し出されていた。
 「着陸許可を待っているのが、十数機、さっきから上空をぐるぐる旋回しているだろう」
 「そう?」
 言いながら有佳は島崎の顔からサングラスを毟り取り、それを用いて空を仰いだ。
 「・・・あ、ほんとうだ。一機、二機、わあ、いっぱい飛んでいるよ!」
 「どうでもいいけれど、サングラス貸して、って、一言断って借りたほうがよかったんじゃないの?」
 きょとんとする有佳の小さな顔にレイバンは大きすぎた。それが滑稽であり、可愛らしくもある。とても怒る気にはなれなかった。
 そうするうちに、到着便がゴムタイヤを焼いて滑り込んできた。
 「外国の航空会社は日本ばかりだろう」
 午後三時から四時にかけての時間帯は、その日の遅い朝、ひとまとめに日本各地を飛び立った旅客機が次々と舞い降りて来た。
 「征ちゃんが乗ってる飛行機って、あれでしょう?」
 エプロンに近づく一機の垂直尾翼に描かれたマークを認めて、有佳が緊張を含蓄する乾いた声で訊いた。
 「これで若しあいつが総理だったら、日の丸つきの政府専用機が二機編隊で飛んで来るんだよ。新聞記者と相席になるが、帰りにネギを乗せるくらい造作もない。でも、一年生のお忍び旅行じゃ、せいぜいビジネスクラスが関の山だろう」
 話題から身を反らすように、有佳はターミナルビルを見た、
 「井坂さんも落ちぶれちゃったな。だって、今日は康くんの名代なんでしょう」
 「なんか引っ掛かる言い方だな」
 サテライトでは、井坂が柳田を出迎える手筈になっている。到着ロビーの詰め所にいる顔見知りの警官に幾ばくかの心づけを渡し、入国審査カウンターからターミナルの中に入り込む便宜を取り成してもらう。特例には違いなかったが、こうした私的手続きを経た部外者が空港の内部をうろついているのも、バンコクではそれほど珍しい光景ではない。
 くすくす笑う有佳に弁解するように島崎は言った、
 「いろんな大人の事情があってさ、空港みたいな公の場所で、おれ本人が直接柳田センセイと会うわけにはいかないの。しかし、だからと言って、タイに着いたばかり
の柳田を抛っておくわけにもいかないしな」
 「ふうん。優しいんだ。でも、康くんたちのほうが若いんだから、やっぱり井坂さんに失礼じゃないのかな」
 「勘違いするな。これはな、はっきり言って柳田の身柄拘束なんだ。いま、このバンコクには国会議員柳田征四郎になんとか接触したがっているやつが大勢いる。“あのー、議員さんですよね、一緒に記念写真を撮らせてもらえますか”なんて言い寄って来る人間の見極めが一番厄介なんだ。もしそれが純粋な支持者だったら無碍にはあしらえない。でも、腹に一物ある暴力団関係者だったりすると、あとで大変な騒ぎになる。鬼の首を取ったようにマスコミが追求する。へたすりゃ政治生命が危うくなる。柳田には“前”があるだけに、そういう連中を近づけるわけにはいかないんだよ・・・。その点、井坂のオッチャンが用心棒みたいにぴったり張り付いていれば、この街のワルは絶対に寄り付けない。全員面子が割れているからな」
 「いろいろあるんだね、大人になると」
 有佳は、“前”があるだけに、という文節に、かくべつ反応を示さなかった。そして思いつめた眼差しで、
 「やっぱり、今日、征ちゃんに会うのはやめとく」
 言い分が続いた、
 「大事な用事でタイへ来たんでしょう?余計な迷惑をかけたくないの」
 島崎にとっても、今日は柳田とクラ運河について話し合わねばならないという、世俗的な優先課題があった。
 「しかし、ネギを日本へ帰すとなると、それなりに段取りを踏まないといけないからな。あまり悠長に構えているわけにもいかないよ」
 有佳は煮え切らない思いを吐露した。
 「いま、あたしがひょっこり帰っても、みんな困ると思うの。弟の貴明だって二十六歳になっているのよ。お嫁さんだっているかも知れない。お父さんとお母さんは元気だと思うけれど、いまの日本にあたしがいていい場所なんて、あるのかしら?」
 元日本人のアルンキットが終戦の頃抱いた気持ちが、有佳にはいたいほど理解できた。
 これを受けて、島崎も言った、
 「気が重いのはおまえだけじゃない。おれだって柳田に会うのは心苦しいんだよ」
 「どうして?久しぶりに会うんじゃないの?」 
 「あいつを政治家に仕立てたのも、つまらん失策でその地位から引き摺り下ろしたのも、両方とも、おれなんだ。だから、本当は、どんな恨み節を叩きつけられるか、冷や冷やしている」
 男の包み隠さぬ本音ではあったけれど、流石にこのくだりばかりは、有佳が理解できる範疇を超えていた。唇を尖らせて、昭和の少女は滑走路へ顔をそむけた、
 「もうすこし考えさせて。柳田君がタイにいるあいだにかならず会いに行くから」
 醒めた眼差しで島崎は、戸惑う有佳の表情をしばらく観察した。乾いた熱風が前髪を乱していく。柳田に有佳のことを話し、協力を取り付けるのは島崎の役割かも知れない。異常な体験をした少女本人に、非凡な地位の大人になった級友を引き合わせ、自力で解決させようなど、考えてみれば酷以外のなにものでもない相談だった。
 「わかった。ネギの好きなようにしな」
 「ごめんね。わがまま言って」
 「謝るのはおれのほうだろう」
 言いながら、ひとつのプランが脳髄に浮上する。発展途上国の中ではタイの乳幼児死亡率はかなり低い。それでも戸籍管理がやや立ち遅れた地方へ行けば、十数年前に生まれて死亡し、しかしまだ生きていることになっている女児のひとりやふたりは見つかるであろう・・・・。身分は空白だけれど、タイ語の上達ぶりがめざましい傍らの少女に、島崎は極端な選択肢をあてがって最悪の事態に備えようと思った。
 「柳田のホテルに先回りするよ。まずはコーヒーショップに隠れて変わり果てた征ちゃんの御姿を拝むといい」

 ・・・

 日の暮れた宮城県多賀城市は、霙混じりの雨が降りしきっていた。町外れの陸上自衛隊駐屯地では、夕餉を前に泥まみれの野戦服の群れが弛緩した一時を過ごしていた。水気をふくんだ土の匂いはストーブで暖められ、訓練の緊張から解放された即応予備自衛官たちの陽気な冗談と笑い声が錯綜する。そんな情景の中に班長が現れ、全員に呼びかけた。
 「清水一曹はいるか?」
 個人プレーヤー揃いの萌草会の工作員たちは、定期的に自衛隊へ出向し、集団戦闘の技能を磨かなければならなかった。有事の際、現場の主力となる曹官として扱われる。一般隊員に混ざり、ひとり陰気な面持ちでタバコを吸っていた島崎は振り返った。
 「面会だ」
 一礼して指示された売店の前に赴くと、ダッフルコートを着込んだ見慣れない大学院生風の男が立っていた。背丈はずいぶん高いけれど、顔は病人のように蒼白い。面長に銀縁眼鏡という取り合わせも、見る者に冷たい印象を与えた。
 「いま、平河町の本丸から来たばかりでね」
 平河町の萌草会事務局を、組織内部の人間はそう呼んでいる。新しい指令を伝えに来た連絡員らしい。本丸連絡員は工作員より序列は上になる。島崎は同年代の相手に敬礼した。
 「それはご苦労様です」
 すると青年は口元を緩めた、
 「そういった挨拶は無用だよ。本日はプライベート。僕の実家はこの町にあってね。年末年始の里帰りのついでに寄らせてもらった」
 両手をポケットに突っ込んだまま、初対面のくせに馴れ馴れしい口の利き方をする男は口元をほころばせた。
 「外で一杯、どうだい、島崎康士さん」
 仏頂面で手を下ろす兵士は、本名を呼ばれた。
 「あいにく酒を受け付けない体質でね」
 島崎は来訪者を値踏みしながら言った。
 「それに、そういった名前の人物は、ここにはいない」
 「では、清水和彦サンと牛タンを食いに行ってもいい」
 苦笑いする来訪者は粘った。
 「よしんば先生付きの書生であっても、おれには名無権兵衛の世間話に付き合う趣味がなくてね」
 踵を返そうとすると、来訪者は乾いた声をあげて笑った。
 「失礼。おれの名は柳田征四郎」
 十年ぶりに御殿山小学校の忌まわしいたたずまいが島崎の脳裏をよぎった。
 「おまえだったのか」
 「満更知らん間柄でもあるまい」
 歩み寄る同級生だったが、二人がまともに言葉を交わすのは、やはりこれが初めてだった。
 「帰省か。本丸は今ごろ、蜂の巣をついたような騒ぎじゃないのか?」
 情熱や希望と無縁の醒めきった眼差しに戻った島崎は皮肉を言った。これを受けて、柳田は賑やかな隊員たちのやり取りに耳を傾けた。
 「帝がご不例だと言うのに、我が陸軍将兵は士気旺盛だ。これが民主主義国家・日本の軍隊のあるべき姿か・・・」
 時に昭和六十三年十二月。ひとつの時代が終焉に近づき、日本は新しい歴史の扉を開こうとしていた。だが、扉は重く、押し開く力もどこか非力で不安感がつきまとっていた。皇国史観に擬した柳田の物言いは、盲目的な享楽に溺れ、時代の先行きに責任を持とうとしない社会風潮に対する面当てだと、島崎には確信できた。この男が国許へ戻ったのは暢気な帰省などではない。漠然と殺気を含んだ意思を察知した島崎は、柳田の落ち着き払った瞳を、獣のように窺いながら言った。
 「この格好では外出しにくい。着替えてくるから、待っていてくれ」
 七北田川の土手を歩き始めると、仙台の街の灯がかすんで見えた。案の定、雨はやがて雪となって舞い始める。
 柳田はおもむろに切り出した。
 「ビルマの件は、残念だった」
 数ヶ月前にタイから戻った島崎は不快も露に、虚脱しきった声色で呟いた。
 「黒星だ。忘れたい」
 「失点は取り戻せばいい」
 街灯の下で立ち止まり、島崎は語気を荒立てて言った、
 「取り戻せないものもある」
 サンカブリで別れたひとりの女の死に顔が、その後の彼を神経過敏に仕立て上げていた。
 「貴様はおれに喧嘩を売りに来たのか」
 「まさか。広報員と殴り合うほど、おれは身の程知らずじゃないよ。・・・あんたのパンチの強烈さを知らないわけじゃないしな」
 過去を忌み嫌う島崎に懐かしいと思える同級生はいなかった。柳田のことも例外ではない。言われてみれば、子供の頃にこの男を殴ったこともあるかも知れない。感じたのは、それだけだった。気を取り直して島崎は初対面の青年に言った、
 「おれは寒いのが苦手だ。用件があるのなら、早めに済ませてほしい」
 街灯のそばに保守政党の広報掲示板が立てられていた。七期連続当選の実績をもつ県会議員のポスターが剥がれかけ、風雪にはためいていた。
 「これは伯父だ」
 柳田とは苗字が違うけれど、地元の権勢家で知られる男は面長で、目鼻立ちも甥を名乗る男と共通する特徴を備えていた。ただし、奢りきった笑顔は、誰の目にも作り物じみて見えた。 
 「伯父さんなら、ちゃんと貼り直しておいてやったらどうだ?」
 「まさか」
 言うが早いか、柳田は初めてポケットから左手を抜き、ポスターを引き剥がした。宙に棄てられた笑顔は吹雪に揉まれ、溺れるように上下運動を繰り返し、暗い川面に落ちると流れて消えた。
 「おれが最初に倒さなければならない相手は、あいつなんだよ」
 島崎は無感動に柳田の顔を観察し、陰惨に笑った。
 「下克上か?今時流行らないぞ」
 「センチメンタリズムだって、今時流行らんよ」
 間髪いれず、柳田はしゃべりだした、
 「民主主義とは、国民の一人ひとりが”小国家”となって初めて具現化する概念だ。如何なる規模であろうと、国家に課せられるのは責任と義務だ。権利や庇護を求める相手はいない。現時点で、デモクラシーを主張している多くの人間は、親に小遣い銭の値上げをせがむ子供と同列に見なさざるを得ず、ひいては現在、人口に膾炙された民主主義とは、共産主義と同様の安易な幻想と断定するしかないだろう。国是を軍国主義の兆候と矮小に履き違えようとする無見識を相手にする気はない。日本が完全に滅亡してしまう前に、いままでの政治家が怠ってきた根源的な仕事を、誰かがやらなければならないと思っている」
 ここで区切り、弁士はたったひとりの聴衆に発言の機会を許した。
 「青臭い書生論だな。わざわざおれみたいな馬鹿にも解る易しい言葉で言ってくれるのは有難いが、理想じゃ国家は動かない」
 天邪鬼はここまで言って、
 「しかし、おれもまったく同じことを考えていた」
 騒擾前のラングーンに置き忘れた笑顔が、島崎に蘇った。
 「伯父さんを蹴落として、おまえさんが県議になる気か?」
 「その根回しのために多賀城へ戻ってきた」
 「伯父さんを、スキャンダルの暴露か何かで潰す気か?」
 「愛人関係にあった事務所の電話番女を、まるめ込んだ」
 稚拙な造反工作を自嘲する柳田に頷きかけ、しかし島崎は冷静に言った、
 「政治家というのは暗殺されて初めて仕事を歴史に残す資格を得る。因果な商売だぞ」
 「生命が惜しかったら、最初から萌草会に入れてもらったりしないよ」
 「俎上の鯉になるなら、魚介類らしく、大人しくしていろ」
 評論家は釘を刺した。
 「スキャンダルは下策だ。身内のことだけにおまえさん自身のイメージダウンにつながる。柳田が汚れなければならないのは、永田町へ進んだ後のことだ」
 この年代の萌草会構成員たちは、県会議員を中央へのステップ、という暗黙の認識を共有していた。
 「やるなら、おれも手を貸す。さいわいこの地方は保守地盤が強い。票が割れても国是を軍国主義の兆候ととらえる人種に油揚げをさらわれる心配はない。堂々と、伯父さんの対立候補として出馬しろ。伯父・甥対決は話題作りにもなるし、若い方が有利だ」
 島崎がこれだけ能動的にしゃべるのは、あるいは生まれて初めてだったかも知れない。吹雪の中で、現状打破の意志が覚醒し、一気に熱を帯びていく。
 「戦術は、札びらで片っ端から有権者の横っ面をひっぱたく正攻法でいこうぜ」
 「ふふふ。それが正攻法かよ」
 ピストルを向けられたように、柳田は両手をポケットから出して降参のポーズをとった。
 「おれに任せておけ。柳田はこの町で口をパクパクさせながら待ってりゃいい。じつは最近、栃木県内で某野党議員が絡んだ土地不正売買の尻尾を掴んだ。介入して、あぶく銭を毟り取って来てやるよ」
 萌草会の本丸も感知しない密約が、ここに成立した。世はバブル真っ盛りだった。

 ・・・

 日本の航空会社が経営するニックウ・キャピタルホテルは、ラチャダピセク通りに面していた。以前、ここで宝くじを当てた男の大判振る舞いじみたパーティーが催され、席上、島崎はステファニーから、サイアムポストのトイを紹介されている。普段は閑古鳥が鳴いているけれど、さすがに連休を控えた週末とあって、日本人の客足はいつもより、僅かながらに多めだった。真新しいホテルだけれど、倒産はそう遠くなさそうな風情である。
 見慣れた井坂のセドリックがスロープに滑り込んで来た。運転しているのは社長本人らしかった。車が停まると、助手席から縁なし眼鏡が面長の顔をすっきりと纏め上げる見るからに寡黙そうな男が降り立つ。その白いTシャツ姿にジーンズといういでたちが、回転ドアの内側で様子を伺う島崎のしのび笑いをさそった。
 柳田征四郎は、ひらかれたトランクへ筋肉質な腕を伸ばして大きな登山用リュックを掬い上げる。山岳民族の村々をトレッキングでもしに来た喫茶店の経営者といった風情はあれど、とても国会議員には見えなかった。ドアボーイもかくべつ萎縮せず、ラフな身支度の宿泊客に微笑みかけながら、ありふれたサビースを提供していた。
 ロビーに現れた井坂に島崎は会釈して、
 「よう。しばらく」
 後ろに従う醒めきった眼差しの同級生に声をかけた、
 「一年生じゃ、大使館は迎えもよこさぬか。年寄とは扱いが違うな」
 と、皮肉な軽口も付け加えた。
 「よしてくれ。右も左もわからねえジジイと一緒にするな」
 表情に変化をみせず、生まれつき血色のよくない男は右手を差し出すと、
 「よくもまあ、生きていたものだ。康さんは悪運が強い」
 憎まれ口を切り返して、ようやく相好を崩した。握手しながら、とぼけた面差しの島崎は、観葉植物がこんもり並べ置かれた吹き抜けの一辺を見上げた。中二階の壁に穿たれた空間は、コーヒーショップになっている。有佳はいま、緑の蔭からどんな気持ちで成人した柳田を見ているのか、島崎にはすこし気がかりだった。じっくり眺めると、如何にも冷たげで、やもすれば無警戒な者に剃刀のような印象で受け止められる平成の柳田征四郎は、どのように考えても、少女にとって、とっつき易いタイプのおじさんであるとは思えない。
 「なら、わし、チェックインの手続きをして来ますよって」
 井坂は柳田のパスポートを預かることなくレセプションへ爪先を向けた。予約は備中興産タイランドのカンパニー扱いになっている。
 恰幅のひろい後姿に目礼すると、柳田はいった、
 「信用できそうな人だ」
 「そう思うんだったら、大いに利用してくれたらいい」
 タイ権益を狙う若い代議士とこの地に根を張る老練な実業家が組めば、クラ運河建設推進の最も理想的なパイロットになるに違いない。なりゆき、プロジェクトの露払い役にまわる気でいる島崎にとっては、一番心強い後ろ盾と言えた。
 「つもる話しもよもやまだが、今日は康さん、時間はだいじょうぶかい?」
 妙なことを訊くものである。
 「時間はあけてあるよ。なにしろ自由業だからな。征ちゃんが迷惑でなければ、どこへなりとも案内するぜ」
 「征ちゃん?」
 柳田は目をしばたかせて島崎を見た、
 「初めてだな、康さんからそんな風に呼ばれるのは」
 小学生時代、二人はさして親しい間柄ではなかった。いつの間にか、有佳の癖がうつっていたらしい。
 「まあ、いいじゃないの、そんなことはよう。おれだって、御殿山小学校の同級生だぞ。忘れたか?」
 島崎には、まま、不用意な言葉を使ってしまう悪癖がある。
 「あはは、そうだった。いや、康さんと言えば、おれにとっちゃ萌草会の同期の桜・・・いや、失敬、あんたのほうが先輩だったね」
 「所属部隊が違うんだから、そう厳密に考えることもあるまい」
 萌草会という組織は、べつに秘密機関ではない。機関紙を発行してひろく世間に会員を募っているし、早くからホームページも立ち上げている。一般には社会人を対象とした政策、国際情勢の勉強会として知られていた。しかし、この団体には与野党、中央・地方を問わず、議員バッヂをつけた面々をはじめ、官僚、第一線のビジネスマンやジャーナリスト、社会奉仕活動家、芸能人や芸術家まで、多種多様の社会的影響力をもつ人士が数多く参加しており、おのずとその打ち出す方向性は国家の舵取りと連動する仕組みになっている。とは言うものの、見所のある優秀な若者に特別の教育をほどこして政治家に仕立てたり、さらには情報戦から破壊工作の技術を叩き込んで国益にかなった活動に従事させるのも萌草会の知られざる側面ではある。柳田や島崎は、言うなれば地下で育てられた萌草会の申し子たちだったわけである。
 「赤き心で 断じてなせば 骨も砕けよ 肉また散れよ 君に捧げて ほほえむ男児」
 柳田が突然、萌草会の愛唱歌を唄いだした。
 「ばか。やめろ、こんなところでみっともねえ」
 衆目を気にして島崎が窘めると、柳田はいつになく嬉々とした面持でいう、
 「人前で歌のひとつも唄えんようじゃ、とても代議士稼業なんか勤まらんぞ。うん。しかし懐かしいな」
 「うん、しかし懐かしいな、じゃないよ。しばらく見ないうちにずいぶん人間が変わったね、征四郎さんは」
 「人のことを言えるかい。康さんだってこっちが不安になるくらい人間が丸くなっているじゃないか」
 人格の変化は有佳が原因であることは疑うべくもない。おもむろに中二階の観葉植物の垣根から人影が立ち上がった。島崎は刹那、有佳が感極まって飛び出したのかと思ったが、それは二十代後半とおぼしき、人品卑しからぬ青年だった。ちょうど有佳と背中合わせの席に座っていたことになる。
 「柳田先輩」
 こざっぱりしたカッターシャツを着こなす若い男は階下をみおろすと弁解がましい笑みを浮かべて文庫本を掲げた、
 「すいません。もうご到着でしたか」
 「おう。そこにいたのか」
 ロビーに柳田のバリトン声が反響する。
 「ええ、“三々壮途の歌”が聴こえたものですからさてはと思いまして」
 「いまどきの世間にこんな歌を口ずさむやつがあるものか」
 柳田は降りて来いと手招きする。そして島崎を省みて、
 「大学の後輩だ。彼もタイにつよい男でね。今回は先回りしてもらっていたわけだ・・・紹介しておこうか?康さんの嫌いな人種だけど」
 慌てて会計する男は流暢なタイ語をしゃべっていた。
 「なんだ。それじゃおれの出る幕はないじゃないか」
 「そうむくれるなよ。運河のことは康さんに訊かないと話しにならんしな」
 [三々壮途(さんさんわかれ)の歌]を知っているからには、あの青年とてただ者ではあるまい。島崎はいきなり出鼻をくじかれた。
 「役人か?」
 「うん」
 「それなら紹介してくれなくていいよ。喧嘩したってバカと役人には勝てないからな」
 「そうだな。安易な邂逅は時として悲劇の伏線となる」
 萌草会の者だろうか。柳田の呟きは余韻を残した。裏手の階段をまわって青年がやって来た。島崎に目礼するその顔立ちはたいそう優しげだったが、背丈は意外とある。身のこなしにも隙がない。非凡な実力を秘めた青年は柳田に向き直ると手短に報告した、
 「じつは自分もつい先ほどバンコク入りしたばかりなんですよ。省内がゴタゴタしていまして、抜け出すのが大変でした」
 「いきなり原油価格を引き上げやがったOPECがわるい。ところでご覧の通り、おれはいま友達に会っているんだが、お前さんはどうする?」
 会話の内容から推断するに、どうやら通産省に勤務している人間らしい。
 「できたら、ちょっと先に寄りたい先がありまして」
 決まり悪そうに青年がいった。
 「ああ、そうだったよな。行ってきな」
 柳田は、遠くを見るような眼差しでにんまりした。
 「なんだい。色男は女にでも会いに行くのか?」
 立ち去る後姿が小さくなると島崎は茶化すように言った。
 「まあ、女には違いないが、・・・個人の事情は千差万別だからな」
 柳田はこの地で合流した後輩の話を打ち切り、面持をあらためた、
 「散歩がしたい。これからどこか面白いところに案内してくれよ」
 「なんだよ。結局、道案内が要るんじゃないか」
 「まあ、そう言いなさんな。班付け広報調査員の視点を垣間見たいんだよ」
 「それなら、あとで稲嶺庄之助くんが来るはずだから、“ドメスティック・プログラムの先輩”なら現役に申しつけな」
 一時帰国中の稲嶺に、島崎の存在をこっそり耳打ちしたのは、他でもなくこの柳田である。柳田はとぼけてタバコをくわえた。チェックインの手続きを済ませた井坂がカードキーを差し出した、
 「代議士。すこし部屋で休まれたらええのとちゃいますか。そりゃいまの季節、東京も汗ばむ陽気になってるでしょうけど、なにせバンコクの暑さは桁違いですからな」
 これを受けて島崎もいった、
 「うん。それがいい。井坂さんとおれはコーヒーでも飲んでいるから」
 有佳をまじえて三人で打ち合わせがしたかった。ところが柳田は、
 「それなら私も一杯付き合いますよ。今し方、後輩がいた店に行きましょうか」
 と、屈託なく言った。
 「いや、それはいかん!」
 島崎と井坂は見事な異口同音で柳田の気まぐれを掣肘した。
 「しのごの言ってねえで、五時まで休憩するんだ。タイ人だってまだシエスタの時間だぞ。うろうろしているとおまわりに怪しまれる」
 井坂が柳田のリュックをひったくり、エレベーターに向かって歩き出した、
 「島ちゃんの言うとおり。さ、不肖私が部屋に案内しますよって」
 ふたりが乗ったエレベーターの扉が閉まるのを見届けると、島崎は中二階に上がった。
 「征ちゃんは?」
 落ち着かない面持で有佳は訊いた。まるで減っていないオレンジジュースは、完全に溶けた氷が透明な上澄みを作っていた。
 「いま、井坂さんが部屋にご案内申し上げた。それより、びっくりしたな。まさかあいつの連れがネギのすぐ隣に陣取っていたとは・・・」
 「さっきの人、あたしの顔をチラチラ見るの。康くんたちの話し声がしているのに、ぜんぜんロビーに関心をはらわなくて。ちょっと怖かった」
 「こんなところに小娘がひとりで座っていたら、そりゃ誰だって気になるよ。通産省くんはそういう趣味の人かも知れないし、いちいち気にするな」
 「康くんの段取りよ」
 「わるかった。しかしおまえに草葉の陰から柳田くんを観察してもらえる場所となると、他に見当がつかないしな」
 恨みがましい口調をやめて、有佳は通りかかったウエイターに島崎のコーヒーを注文し、はじめてオレンジジュースのストローをくわえた。
 「道ですれ違ってもわからないね、平成の征ちゃん」
 「あちらは驚くよ」
 果たして有佳がウィバパディ通りでなく、赤坂の議員会館に現れていたら、柳田はいったいどんな反応を見せただろう?そんな想像をめぐらせながら、思ったより余裕のある有佳の態度に、島崎はひとまず胸をなでおろした。
 「征ちゃんとのご対面なら、当初の予定通り、今日にまわしてもいいんだぞ。これから部屋に押しかけてみるか?」
 伏せ目がちに有佳はこたえた、
 「いいよ、今日はあたしも気が乗らないし、それになんだかまるで別の人みたいで、いいのかな、征ちゃんに相談しちゃっても」
 「これだよ。土壇場になって怯むんじゃないよ。たしかにネギが言うとおり、柳田はむかしの、いわれもなくおれに殴られてじっと堪えていた青瓢箪とはあきらかに違っている。中学は別々だったし、あれから奴の身に何が起こったのか、じつはおれもよく知らないんだが、いずれにしてもいまの柳田は御殿山小学校の秀才少年じゃない。それでも、おれたちにはたまたま権力を握った同級生がいるんだ。おまえをマスコミや世間の好奇の対象にしないで、沢村に引き渡さないでことを穏便に解決するにはあいつの協力がどうしても必要なんだ。わかるだろう?」 
 「ねえ。康くんは日本へ帰らないの?」
 「話をそらすな。帰りたくても帰れないの。おれは」
 話をすりかえる様子に、当事者が気乗りしていないのがわかった。井坂が息せき切らしてコーヒーショップへ駆け込んできた、
 「あんたたちの友達、いまシャワーを浴びているがの、すぐここに来るそうや。いやはや、一度言い出したら聞かん男やな、ほんま。わしは社用ってことにして一旦お暇するがの、どうする、有佳ちゃん?きょう代議士に会うか」 
 「井坂さんと帰る」
 即決だった。それが無難かも知れない、と、ウィバパディのあずまやでおぼえた戦慄をまざまざと思い出す島崎は、喉まで出かかった“いいから、とにかく会っちまえ!”の一言を嚥下した。いまや福原と連合している井坂は、しかし誠実な調子で島崎に言った、
 「ちょっと話さなあかんことがあるんやけど、今日は時間がないさけ、またの機会にしよう・・・人生、いつも思い通りにことが運ぶとは限らんものや」
 「そんな大袈裟なことじゃないでしょう」
 笑って島崎は若い祖父と孫娘のような取り合わせを見送った。






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