* この物語はフィクションであり、登場する人物、企業、
団体、一部政府機関の名称は架空のものです(著者)。




第二十九話




 有佳を乗せた井坂のセドリックがラチャダピセクの路上に溶け込むと、間髪入れず、エレベーターから髪を濡らした柳田がのっそりと現れ、まっすぐコーヒーショップへはいって来き。テーブルはまだ片付けられていなかった。あわてて島崎は有佳が飲み残したオレンジジュースを手元に手繰り寄せて啜る。そしてむせいだ。有佳が注文したのは、ジュースでなく、橙色のトロピカル・カクテルだった。
 「なにをやってるんだ?」
 「いやいや」
 シャツの袖で口元を拭いながら、島崎は哀しげに笑って見せた、
 「冷たいものが欲しいと思ってオレンジジュースを頼んだのに、これ、酒がはいっているよ。・・・まったく、しょうがねえな、タイだから」
 子供に酒を売るほうも売るほうだが、有佳はアルコールの気付を必要とするほど緊張していたのだろう。
 「稲嶺は七時過ぎにマーブンクロンに出て来る、と言っていた。いま、ノンタブリで渋滞に引っ掛かっているそうだ」
 部屋から稲嶺の携帯に架電したらしく、柳田は淡々と言う。タイやバンコクの地勢を、虎視眈々とこの国に関わる利権を狙う政治家は、当然のように頭へ叩き込んでいた。そこはかつて、マーさんとブンクロンさんという一組の夫婦がはじめた市場だった。バブル期のショッピングモール開業ラッシュによって、いささか影が薄くはなっているものの、マーブンクロンはバンコクの庶民にとって最も身近な近代的よろず市場である。
 「あそこへ行くなら、フリーマーケットでも見てみるか?全館冷房が効いているし、不健全な散歩にはちょうどいい」
 立ち上がると、まだ飲み物を注文していない柳田の肩をたたき、島崎は愛車が停めてある駐車場に歩き出した。
 「クラ運河のことは車で話したい」
 「車中じゃノートが取れないな」
 「萌草会ドメスティック班じゃメモが許されたのかい?」
 柳田は舌打ちして学生時代の顔つきになった、
 「仕方ない。ぜんぶ暗記させてもらおう」
 テナントの日系デパートを素通りして、マーブンクロンを上階まであがると、派手なディスプレイも置かず、おのおの一坪程度の店に乏しい商品をならべる人びとを眺め回して柳田は言った、
 「この人たちは純粋の露天商じゃないな。明るく振舞ってはいるが、バカにはなりきれない、という顔をしている」
 観察力は鋭かった。頷いて島崎は解説した、
 「会社が潰れたり、リストラを食らった連中が、こうして不要品を持ち寄って売り捌く。儲かったら今度は利ざやで新しい商品を仕入れて売る。景気回復の見通しは真っ暗だが、とにかくそうやって日々を生き抜こうとする。シロム通りには、昼飯時になるとサンドイッチを売り歩いている元石油プラント会社の社長もいる」
 およそ大小を問わず、タイの企業は経済成長の波に乗って経営の多角化を計り、通貨危機で一様に甚大なダメージを受けていた。
 「タフなんだな、この国の人間は。安易に中央線に飛び込もうとする輩に見せてやりたい」
 「柳田がそれを言ってはいけない。自殺する連中は政治家の無策を恨んでいるぜ、きっと」
 すると売り言葉に買い言葉、柳田は低い声で哲学めいたことを言った、
 「幸福を知らない人間が不幸に苦しむ理由はない。飢餓の国に生まれた人間は、いかに腹をガスで膨らませようと、ひもじいのが当たり前。ひょっとしたら幸福な国の人間が想像するほど、彼らは自分たちを不幸とは思っていないかも知れない。無間地獄なんて考え方は矛盾しているんだ。おれが思うに、康さんの無感動は、とどのつまり、理想が高すぎるから起こるんじゃないのかね」
 「問題発言になるよ」
 「いつの間にか、康さんのほうがおれより常識人になっちまったらしい」
 そして、にわか露天商の群れに向き直り、英語で演説をはじめた、
 「私が諸君に進呈できるものは、飢え、欠乏、進軍につぐ進軍、死以外の何ものもない。しかし若き諸君が生死を託して私に従うならば、私は必ず諸君を勝利と自由とに導くことができると確信する!」
 もはや呆れきった面持で、ぽかんとする露天商の同情を求めながら、島崎は口を挟んだ、
 「柳田。おまえどこかわるいんじゃないのか?こんどは何を言い出すんだよ、いきなり?」
 「チャンドラ・ボースの真似」
 言われなくても、それくらいはわかっている。
 「いまの日本には、そういったことを言える政治家が必要だね。おまえさんがなればいい。今度の議会で同じ科白をぶってみな」
 「まだ当分落選するわけにはいかないさ」
 口調を切り替えて、島崎は最初の手紙を受け取ったときに抱いた疑念をぶつけてみた、
 「ところで、おれの住所を、あんたは何処で調べた?」
 すこし口篭もって柳田はさも意味深長に答えた、
 「秘書が大使館に問い合わせたら、すぐに教えてくれたらしい」
 在留届は提出していない。また、在外公館は通常、そんな邦人の所在をいちいち調べたりしないものである。ところが、島崎のチャトチャク住まいは把握されていた。大使館と領事館はセクションが異なる。おそらくは、領事館の関係者が島崎の所在を突き止め、コンピューターに入力した情報を、事情を知らない大使館員が議員事務所の求めに応じて提供したのだろう。予想されていたことではあるが、沢村も反撃の支度を着々と進めていたことになる。
 稲嶺が合流したのは、それから間もなくのことだった。機内食が少なかったと不平を洩らす議員は、同じ建物の中にあるフードセンターで安い汁かけメシを貪り、満腹すると、対座する青年海外協力団員に切り出した、
 「君がここで会おう、って言うから、例の連中にもここへ集まるよう指示したよ。八時に六階の『魚市』に座敷をとった」
 秘書がやるような雑務を自らまめにこなす柳田は、ある種の器用人でもあった。
 「あそこならいつも空いていますからね。お誂え向きでしょう」
 苦もなく甘い泥水アイスコーヒーを飲み干して、稲嶺は明るい面持で言った、
 「あとは、島崎さんに仕切ってもらえればずいぶん仕事がやりやすくなります」
 ところが柳田はあっさり答えた。
 「いや。それは考えていない」
 しばらく言葉の意味が飲み込めず声を失う島崎に、柳田は涼しい顔でいった、
 「パスポートを盗まれた新聞記者から事情は聞いている。康さんを、目下の前線から無理に引き離すつもりはない」
 日本領事館の取材に来た友永という記者は、柳田の密偵だった。だが、そんな告白などどうでもいいほど重大な宣告が続いていた。あっけにとられたのは島崎ばかりではなかった。
 「柳田さん!」
 稲嶺が窘めるように声を上げた。
 「島崎さんはクラ計画の先任です。この人を人事から外してしまったら、いったい誰が現場の指揮を執るんですか」
 「うん。それは承知している。領事館の不正が根絶やしになり、康さんの手が空いたら、あらためてお願いする。それまでは、これから集まるスタッフで乗り切ろうと思う」
 ずいぶん気の長い話だった。卒然と眼前に広漠たる曠野があらわれたような気がして、島崎はしばらく夢と現実の境界線を見失っていた。しかし、一方の柳田は優渥な面持で付け加えた、
 「アドバイスに従い、井坂さんにも相談役として参加してもらうことにする。実務に秀でた長老が欲しいからな」
 ホテルで井坂が言わんとした言葉の意味がわかった。日本料理屋・魚市の軒先に、先刻の通産省が『柳田組』を従えて待機していた。マスコミで知られた顔、バンコクに長い者と、事新しく紹介されずとも島崎には素性の察しがつく面々だった。地質学者、経済アナリスト、三光物産の現地法人駐在員、港湾工事に強い七洋建設の技術者、柳田を座長とするシンクタンクの平均年齢は三十代。どの顔も若かった。
 自分の預かり知らない場所で、堅実なスタッフが集まり、クラ運河計画は着実に動き出していたらしい。 
 「これから我々は康さんがくれたデータを叩き台にしてミーティングをはじめるんだ。感謝する。久しぶりに会えて、楽しかったよ」
 と、柳田は右手を差し伸べた。島崎は情報を求められただけで、プロジェクトそれ自体ではすっかり蚊帳の外に置かれていた。
 「うん。それじゃ、これにてお暇する」
 置いてけぼりにされた結末を認めたくないのは自尊心のせいだろう。つとめて陽気に、島崎は言った。稲嶺は一団に同席しないで島崎を追いかけて来た。
 「何を考えているんだ、あの人は?・・・すみません。おれ、東京で話を聞かされた時、てっきり柳田さんは島崎さんを誘う気でいるんだと思って。早とちりでした」
 「それを言うなって。汚れ過ぎているんだよ、おれは」
 自嘲するより他になかった。誰あろう、島崎自身からして、柳田に近寄ってはならないやくざ者だったのだ。すこし冷静に考えれば、企業ゴロが堅気でないことくらい、すぐにわかりそうなものだ。
 「それより、稲嶺さん。あんたこそ、柳田と一緒にいないとまずいんじゃないか?」
 組織の統制を乱し、さんざん好き放題にやって来た自分が、いまさらまっとうな仕事を期待するほうが料簡違いだったかも知れない。しかし、ただひとつはっきり言えるのは、島崎の口から有佳の保護を柳田に依頼する機会が消滅した、ということだった。


 「あら、早かったのね」
 チャトチャクに戻った島崎に、寛大な女房のような言葉をかけたのは有佳だった、
 「征ちゃんと一晩中遊んで来るのかと思った」
 「そんな優雅な身分じゃありませんよ、わたくしは」
 どのみち沢村一派はこのコンドミニアムを知っている。こそこそ逗留先を替えながら騒ぎを仕込んでいく暮らしにもはや意味はなかった。
 「ほれ、ネギ。鉄火巻きを買ってきてやったぞ。ヌンにはやらんでいい。なにしろあの女は自分が”生もの”を受け付けないもんだから、鉄火巻を電子レンジでチンしちまうんだ。タイ人に侘び寂びなんかわかるものか」
 「酔っ払って・・・なんか、いるわけないよね」
 折り詰めを受け取りながら、有佳は自暴自棄なくらい明るい男の顔を覗き込んだ、
 「お酒、ぜんぜん受け付けないんだもんね」
 「おまえこそ、ホテルでおかしな飲み物を注文するんじゃない」 
 冷蔵庫の牛乳で一息つくと、島崎はテンションを下げて、言い訳した、
 「征ちゃんから宿題を出されちまった。まずは目の前に転がっているゴミをすべて片付けなきゃならないんだとさ」
 「康くんが征ちゃんから掃除当番を押し付けられたの?」
 有佳は、これが何らかの不本意なレトリックであることを見抜いていた。だから、それ以上、何も尋ねようとはしなかった。夜も更けていた。奥の書斎の明かりが消えて、白いニットのサマーセーターとデニムのジャンバースカートを身に着けるステファニーがあらわれた。有佳ばかりでなく、こちらの女も服の趣味にも変化が生じている。
 「珍しいわね、コウ。仕事、うまくいかなかったの?」
 痛いところをぐさりと刺された。
 「ヌンさんも少しは一緒に考えてくれよ。日本領事館の一件は、おれの国だけの問題じゃないんだぜ。タイの姐ちゃんたちが借金してでも身体を売りに行こうとするから、こういう事態になるんだ」
 ところが糠に釘、ステファニーは平然といった、
 「そういう人たちが何をしようと、ヌンの関知したことではないわ」
 「あのね、奥さん」
 前置きして島崎は身を乗り出した、
 「とある日本の婦人団体の小母さんが、タイの大物国会議員に詫びたそうだ、”わたしたちの国のあさましい男どもが、お国の娘さんたちを慰み者にして、ごめんなさい”ってな。すると政治家は何て答えたと思う?まずは自尊心をいたく傷つけられて激昂したそうな。そして言い放った、”斯かる下賎の女郎めら、如何なる関わり余にありや!”ってな。総括しちまうと、こいつらは両方ともバカだ」
 「それがタイの社会的慣習よ。日本人が心と裏腹な善意を歓迎しあうのと同じでしょう?」
 柳田の友好的な態度を思い出しながらも、島崎は食い下がった、
 「あんたの旅券の表紙を見てごらん。“PASSPORT”と“THAILAND”しか書かれていないだろう。これだけ漫画みたいな国だというのに、お大尽や貧乏人といった国内的な階層には言及していない。よえするに、タイと無関係な外国人から見れば、パッポンのゴーゴーバーで踊っている類人猿も、ヌンさんも、同じ“タイの女”なんだよ」
 「そう。ヌンが賢明な日本の男なら、タイの女とははじめから関わらないでしょうね」
 「そういう受け取り方をするな!」
 敵意をふくんだ眼差しで島崎を一瞥すると、ステファニーは何も答えずに寝室へ引き篭もった。どこか湿った眼差しでステファニーのやりとりを見守っていた有佳は、長椅子に身を横たえた島崎に囁きかけた、
 「征ちゃん、すっかり変わっちゃった」
 悲しそうな笑顔を見上げて、島崎は無表情にいった、
 「すまんな。大きな口を叩いてばかりで、おれは何一つ、ネギのためにしてやれない。柳田は偉くなったけど、おれは未だにチンピラだった」
 「あたしはいまのままで、幸せだよ」
 そして有佳は自身の考えをのべた、
 「あたしの帰国のことなら無理しないで。柳田くんについて行けなくてもいい。いつか康くんが里帰りするとき、方法を考えようよ」
 「ネギって、もともと偉かったんだな。それを聞いて、今夜はぐっすり眠れそうだ」


 タイは朝野をとわず、コネ社会である。
 たまたま学窓を共にした皇女がいれば、たとえ市井の弁護士であっても、宮廷に入り込むのはそれほど難しい相談ではない。翡翠色の水面に白い蓮の花が鮮やかに咲き乱れていた。チトラダ宮は、東京で譬えると、さしずめ赤坂御所に該当しようか。
 洋式の白い礼服に身を包むステファニーは、謁見の間に通されると、チークの床に女座りしてしかるべき婦人の来臨を待った。まもなく宮女にかしずかれてあらわれた赤いマニキュアのつま先をみとめ、ひれ伏しながら、合掌した。
 それから日をまたず、タイで最もやんごとなき女性を総裁にいただく婦人団体が、これまで鼻薬を嗅がされ大勢のじゃぱゆきさんの不法出国を見逃してきた空港警察に圧力をかけはじめた。外国で売春を「強要」されているタイ女性の人権を守る、という大義名分が高らかに謳われていた。


 六時の開店まで、まだいくらかの時間があった。大阪、宗右衛門横町の会員制ピアノパブで、ひとつの商談がご破算になった。ワインレッドのシャツを小粋に着こなす男が憤りを押し殺して、吐き捨てるように言った、
 「妙な雲行きになって来たね。こういうのって、非常に困るんだよ、篠塚さん」
 スパキットを繋ぎとめておくため、日本の市場にヘロインを売り込みに来た篠塚だったが、自分が留守している間にバンコクの情勢は一変してしまっていた。まず、スパキットと青眉のあいだで抗争が勃発した。これによって、特別スパキットのために立ち回る必然はなくなったわけだが、折角商談を纏め上げたというのに肝心の商品が灰になってしまっている。こうなると、内地の取引先の手前、篠塚は支離滅裂な狂言回しに過ぎなかった。
 「まさか、こんな事態になるとは・・・」
 もともと寡黙な篠塚ではあったけれど、今日の弁明は、際立って歯切れが悪い。
 タイマフィアと中国黒社会の全面戦争の幕が切って落とされたチョンブリやパタヤの街では、白昼から短銃の射撃音が響き渡っているという。なまじ関係を深かめていてしまったために、総帥不在の篠塚グループもバンコク戦線を担当させられる格好でずるずる引きずり込まれて右往左往しているらしい。日系の組織から早くも落伍者が続出しているという。ひそひそ声でカウンターの電話に話し掛けていた部下のひとりが受話器を置いて歩み寄り、篠塚に耳打ちした、
 「なにっ!滝が・・・?」
 「はい。留守の連中が片岡さんや八田さんと話し合って、一時的ですが、滝を総代に担ぐと決めたそうです」
 「くそうっ、やられた」
 一時的は、永続的と言葉の意味に大した違いがない。ここへ来て、城代家老くらいに見なしていたドクター滝が、事実上、篠塚の組織を併呑してしまった。地団太踏んでも、バンコクは四千キロの南南西の彼方にあった。羽織袴をまとい、奥のボックス席でふんぞり返る総髪の老人が、白けつつも穏やかな口調でいった、
 「いずれにしても、ブツがなけりゃ今回の話しはすべて無しや。運河の件も、しばらく成行きを見てから返事させて貰うで」
 老人の言葉は絶対だった。反駁は許されない。かつて、バンコクで最大の日本人侠客集団を率いていた男は、本国において、すっかり面目を失っていた。


 バンコクは、まだ四時になったばかりだった。
 学校が終わると有佳はステファニーに連れられて、デパートのビアガーデンへやって来た。食べ物や飲み物を売るブースが横一列に軒を連ね、パラソルがついた白いテーブルとパイプ椅子がおおまかな市松模様を描いている。適当な席に落ち着くと、焼きあがるリブステーキの香ばしい煙が時おり漂ってきた。まだビジネスアワーなので、客の姿はほとんどなく、揃いのTシャツとサンバイザーで身繕いした売り子達も仲間同士で談笑に興じるゆとりがあった。
 「これからアンポンさんとコウがここへ来るわ」
 一瞬、有佳は耳を疑った。妙な取り合わせである。
 「中佐はサートン南の入管へ来ているけれど、あまり時間がないらしいの。だからわたしたちも急いでここへ来たのよ」
 前置きして、ステファニーは面談の意図を語った、
 「国会議員のお友達との話し合いは不首尾に終わったんでしょう?コウは何も言わないけれど、雰囲気でわかるわ。“二十二年前の話”はともかく、ユウカがパスポートを持っていないのは本当のことだし、この際だからみんなで善後策を講じておきたいの」
 「すみません・・・」
 相槌めかせて頭を下げながら、有佳が訊いた、
 「アンポンさんにはよく相談とか、するんですか?」
 「ううん。今回が初めてよ。前に一度だけ頼み事をしようとしたことがあったけれど」
 ステファニーは折り目正しく説明する、
 「日本でおコメがまったくとれない年があったでしょう。・・・あ、ユウカは知らないはずよね。五年前は、そんな年だったの。その時ね、おじいちゃんの所へ立派な身形の日本人が足繁く訪ねて来ていたの。顔はよく覚えている。でも、紹介はなかったし、名前もどんな立場の人かもわからなかった。ところがあとになって、恥かしいけれど、おじいちゃん、おコメの値段を吊り上げた罪で警察に捕まったのよ。それで、その日本人も、どうやら不良品のおコメで一儲け企む共犯者だったらしいの。コウと知り合っていなかったら、ヌンはアンポンさんにその人の身上を、調べて貰おうとしたでしょうね」
 「でも、わからずじまいだったんでしょう?康くん、ヌンさんの期待を裏切っちゃったんだ・・・」 
 「正直に言って歯痒く思ったりもしたものよ。でも、コウは自分の国にいられなくなってタイへ落ち延びて来た人でしょう、調べようにもおのずと限界があるわ。ヌンもコウに依存しすぎていたのよ」
 「ヌンさんでも、康くんに頼ることがあったんですね」 
 人の流れを読みながら、ステファニーは区切りをつけた。
 「いいのよ。あのことはもう。おじいちゃんも死んじゃったし、その日本人の事だって憎んでいるわけじゃないから」
 ステファニーの携帯電話が鳴った。
 「お仕事?」
 「ごめんなさい。慌てて出てきたから、大事な書類、机の上に忘れて来ちゃった。ちょっと事務所へ行っていい?すぐ戻ってくるから」
 渋滞が気がかりだったが、ルンピニは歩いても、十五分くらいの距離だった。アンポン中佐が先に来たらどうしよう、とは思いつつも、有佳は気丈にいった、
 「どうぞ。ひとりでだいじょうぶだから」

 果たして、最初にやって来たのは、厳しい制服で身を包む入国管理局のほうだった。アンポンはチャオプラヤー川で会った少女の顔をよく覚えていた。
 「この席で、いいのかな?」
 浅黒い顔の貴公子は、優しげにきれいな歯を見せた。
 「“お母さん”は?」
 ステファニーのでまかせを尊重した問いかけである。
 「忘れ物をとりに、いま事務所へ行きました。すぐに戻ります」
 「ははは、自分から呼び出しておいて。彼女らしい」
 取り繕った寛大さではないようだった。第一印象は見るからに女たらしで“やな奴”だったけれど、人間はそれほど悪くないのかも知れない。むしろ悪徳警官がはびこるタイにあっては、仕事熱心な正義の味方といった風情がある。それにしても、自分の夫とかつて交際のあった男を引き合わせて、いきなり奇天烈な話し合いをさせようとするステファニーという女の思考回路も容易に計りがたい。自分の口から案件を切り出すのはやっぱり憚られた。いますぐ康士が駆けつけてくれるのを期待するしかなかった。
 「好きな男の子はいるのかい?」
 プレイボーイは早速、思春期に差し掛かった年頃の少女に訊いた。
 「・・・いる」
 時間稼ぎも、本音で話せばそれほど苦痛ではなかった、
 「でも、その男の子、他の女の人が好きなの」
 アンポンは、煩悩を振り払うように手をふった、
 「ユウカを選べないようじゃ、そいつは大して値打ちがある男じゃない。やめなさい、そんな野蛮人を好きになるのは」
 「そんなことない!」
 有佳はいきおい身を乗り出した、
 「頭がわるい若者と、女の扱いになれていない中年。それから、お金がなくてずうずうしい年寄りは、男の中でも最低です。だけど、男をそんな風に磨き上げられない女も最低なんです」
 中佐は、あいた口が塞がらなかった。
 「・・・って、お母さんがよく言ってた」
 ひとまずほっとして、制服の男はかけつけのジョッキを一息に呷り、
 「なんだ。いきなり凄いことを言うからびっくりした。しかし、そんな哲学があるのか・・・ステファニーさんは」
 声をあげて笑った。母親とは、二十二年前の東京に残してきた実母のことだった。“お母さん”が取り違えられていたが、よしんば発言者が康士の奥さんであっても、あまり違和感がない科白ではあった。
 「でもね、ユウカ」
 索然とした言葉が続いた、 
 「初めて好きになった相手とは畢竟結ばれないものだよ。いまの君には残酷な言葉かも知れないが、女の子は男の子よりも先に大人になるんだから、自然の成行きも弁えておくといい」
 「女の子より先に大人になる男の子だっています」
 揚げ足取りに受け取られたかも知れない。しかしアンポンはまるで別のことを考えていたようだ。
 「諦めきれないのは仕方がない」
 しゃべりながら立ち上がった、
 「あの・・・」
 生意気な発言を悔やみ、有佳は言いかけたが、要件は次回に持ち越しとなった。
 「それじゃ、また。夕方までにハジャイへ戻らないといけないんだ。お母さんに、お役に立てることなら何でも言ってくれ、と伝えてほしい」
 さわやかな笑顔を残してアンポンは行ってしまった。
 「大事な話、って何だったんだろう?」
 アンポンが引き上げるのを見計らっていたのではないか、と疑りたくなるようなタイミングで、自分より先に大人になったはずの男の子が現れて、言った。
 「どうしてネギがここにいるのよ?」
 「知らない」
 「何をふてくされてんだよ」
 「だって、遅いよ、康くん」
 「井坂さんと合流してな。一緒に来たんだ」
 見ると焼肉のブースの前で、大きな初老男が料理をさしながらあれこれ注文をつけている。
 「こういう人目につく場所で、第三者をまじえながら、おれと井坂さんが会ってみるのもひとつの手だからな」
 複数の尺度が物音を立てて錯綜し、表裏におよんだ日本人の角逐の中身は、複雑な様相を呈していた。もはや、裏も表もない。福原を誘拐して井坂にその組織を乗っ取らせる計画も、連合軍の総代に滝がおさまったため、しばらく思いとどまる必要が出て来た。下手に動けば、今度は矢面に立った井坂が集中砲火をあびることになる。滝の力に対する過小評価を反省すると、遠からず自ら連合軍を舵取りして井坂と合流する計画を撤回して、稲嶺と別行動に移った島崎は、滝系統の一員として、福原を補佐する井坂と話し合うポーズを考えた。柳田が井坂を選んだ以上、滝派からの擦りよりは、誰の目にも自然だった。
 「あたし、甘い物買って来る」
 屈託がない有佳は、井坂の姿を見て口元をほころばせると、デザートのブースに向かった。小学四年生の夏休み、駄菓子屋へ行ったことがないという有佳を、あきれて行きつけの店に案内した。その時も有佳はいまみたいなうきうきした表情を覗かせている。
 咄嗟に抱いた郷愁は、しかし島崎にとって、一抹の不吉な予感にも思われた。
 大きな皿を手にする井坂がよろよろ歩いて来た。
 「おや、来てんの、有佳ちゃんだけか。オイ、島ちゃん、ボサッとしてないで手を貸さんか」
 「へいへい」
 何気なく皿を受け取ろうと席を立った矢先、島崎は呼吸を止めた。
 銃声がして、肉料理をのせた皿が宙に跳ね上がり、井坂の巨体がやおら地べたに崩れていく。弾丸は井坂の腹部に命中していた。陶器が砕け散る音と重なって、振り返る有佳の悲鳴がとんだ。悲鳴の坩堝と化した巷で、ベースボールキャップの若い男が拳銃を構えていた。スクムビットで建材を落とした男と同一人物らしい。
 ___ 狙われているのはおれだ!
 判断して、島崎は跳ね起きた。相手の武器は六連装のリボルバーだった。ヒットマンは突撃して来る標的に、立て続けに連射する。着弾は島崎の足元に集中した。
 佇む有佳は、我に返って、井坂に駆け寄ろうとした。
 「来ちゃあかん!じっと伏せてろ!」
 横たわり、腹部からあふれ出る鮮血を押さえ込みながらも、井坂は有佳を睨みつけ、怒気をはらんだ叱咤をあびせかけた。 トリガーが、虚しく空の薬きょうを叩く音がした。島崎は逃亡に転じた男を追い駆けた。襲撃者は振り向きざまに帽子をおとした。“いえ・・・た、タナカですけど”という声が追撃者の脳裏を掠める。キャップの下に隠されていたのは、かつてパッポン通りで邂逅したふてぶてしい面構えだった。
 「戸川・・・?」
 若者は一目散に手近な建造物に逃げ込んだ。改装工事が中断されたショッピングモールだった。自然光だけが映す内部は、引越し中に破損し、放棄された商品が、床一面に散らばっていた。剥がれかけた天井板を払いのけると、埃を被ったワゴン置場の陰で、金属が触れ合う物音がする。身を伏せたところで銃声が反響し、数発の弾が頭上を飛び越えた。
 「こら、戸川!逃げるんじゃねえ!」
 追いすがる怒声に耳を貸さず、足音は階段を上がっていく。剥き出しのコンクリートの階に出た。駐車場である。柵を横飛びして、忍び足で物陰に迫る。ところが、そこで島崎は目を見ひらいた。戸川は仰向けになって倒れていた。鋭利な刃物で胸を一突きされている。目を開けたまま息絶えていた。
 「ばかやろう。だから逃げるな、って言ったんだよ」
 あからさまな口封じである。索然と島崎はつぶやいた。出血は少なかった。死因は肺に血が流れ込んで惹き起こされたショック死らしい。ひろい駐車場に人影はなかった。戸川を始末した相手がもし、自分を狙っていたなら、こうして死をまぬがれたかどうか、保証の限りではない。いずれにしても、この都会で人生の見極めを誤った日本の若者がひとり、この世から去った。パトカーのサイレン音がスロープをよじ登ってきた。階段からも、夥しい靴音と、タイ語の号令が伝わってくる。咄嗟に凶器のナイフを引き抜くと、島崎は有佳と井坂がいるデパートとは反対の方向へ走った。鉄柵から身を乗り出すと、色とりどりの風船が目についた。裏の空き地では、銃声も聴こえないほど賑やかな移動遊園地が開業していた。地上五階の高さだった。眼下に遊戯用の娯楽設備をおさめたテントを確認して深呼吸すると、島崎はその身を空中に躍らせた。

 ビアガーデンは騒然となっていた。
 目の前で井坂がピストルで撃たれた。衝撃はじわじわと押し寄せてきて、ようやく有佳はこれを実体ある恐怖へ置き換えようとしていた。だが、地面の血糊を見つめてしまうと、膝がふるえるばかりで、身体も口もまるで動かない。たまたま通りかかった日本人在留者が、有佳をさして担架の人物に尋ねる、
 「そちらは、お嬢さん?ショックがひどいようだが」
 少女がこの国の小学校の制服を着ているからといって別段怪しむには当たらない。この街に住む井坂くらいの年配者には、若い現地人妻との間に設けた子供を、入学に際して寄付金やその他の事務手続きがとかく厄介な日本人学校でなく、地元の学校へ通わせるケースがしばしば見受けられるからだ。
 弾丸は急所を外れていたらしく、井坂の意識はしっかりしていた。閉じかけた目で有佳に“関わり無用”と合図を送り、
 「ぜんぜん知らん子や。親御さんとここで待ち合わせしていたのやろ」
 関係者となれば警察の事情聴取とも無縁で済まされない。“へんな理屈をこねたりせず、アンポン中佐に相談を持ちかけてしまえばよかった”と有佳はいまさらながらに後悔したがあとの祭りだった。怪我人の意を汲んで、内心いたたまれなかったけれど、ひとまず通りすがりの同国人目撃者に徹して、走り去る救急車を見送った。


 蘭の花束を抱える有佳が井坂の収容された病院を訪れたのは、銃撃事件の翌日だった。
 「お加減はどうですか」
 ベッドの井坂は、気難しい面持で天井を睨んでいた。
 「だてに皮下脂肪はつけとらん。弾丸は内蔵に達しておらんかった。撃たれた時にわしはもう解っておったがの」
 医師免許をもつ実業家は冷静に自身の症状を分析していた。
 「島ちゃんはどうした?」
 「昨日はあれっきり。チャトチャクにも帰って来なかったし、連絡もありませんでした」
 「狙われたのは、島ちゃんや。そやけど、弾が当たったのがわしでよかった。世間にも格好がつくしの」
 胡散臭い連中と付き合いがある以上、被害者も何らかの因果関係を世間に印象付けている。しかしまだ、警察が事情聴取にやって来る時期ではなかった。
 「そんなことないでしょう。井坂さんは康くんの身代わりにならなきゃいけないほど、落ちぶれちゃったんですか?」
 「そら、頭に来るで。あのアホがさっさと大盛りのスペアリブを取りに来んからわしがこんな目に遭うたのや」
 咳き込みながらも、井坂は笑った、
 「しかしな、有佳ちゃん。いまやわしかてこの街じゃいつ狙撃されてもおかしくない“顔役”じゃ。鉛弾の洗礼も一度は通らなあかん関門かも知れんのう」
 「“クラ運河”の話なら聞かされています。それに“コメ騒動”のこともヌンさんから知らされました。でも、康くんって、ふだんは何をやっているんでしょうか?」
 「なんや。あのアホ、まだ自分の正体をあんたに話してなかったのか?」
 しばらく言うまいか、と悩んだ様子だったが、井坂は仕方なしに頷いた。有佳は、自分がこの街へ転がり込んだ頃、康士がすでに日本領事館による不正なビザ発給の実態を調べていた顛末を、初めて体系的に知った。それによって、先日康士がステファニーと遣り合っていた議論の意味を理解した。
 「あの素人っぽい殺し屋、日本人かも知れんな」
 戸川という若者が、現場近くの廃墟で死んでいたニュースを井坂はまだ知らなかったが、背景はおおむね把握している話し振りだった、
 「おそらくあいつは領事館内部の不埒者に雇われたチンピラや。あっちこっちのジャーナリストをけしかけ、しつこく領事館を燻している島ちゃんを始末する気でいたのやろ」
 「生命を狙われているんですか」
 探偵小説のモチーフが、ドスを利かせて有佳の眼前の現実ににじり寄って来た。
 「心配するな、と言っても虚しいがの」


 現場で顔を合わせることはなかったけれど、戸川を殺した犯人の風貌は、ありありと頭の中に描き出すことができた。
 ___あいつは、おれを挑発していたのか?
 血糊の付着したナイフから採取した指紋は、以前スヌーカーの店でそばへ寄って来た若者と同一の物だった。
 「ングーキヨウ、か」
 頭を悩ませる島崎は、陳のアジトに身を寄せていた。徐旭芳に頼んで、一晩大きなベッドの隅を借りて休み、今日になっても、そこから一歩も動いていなかった。旭芳は朝早く、元受エージェントが気まぐれで思い立った中国寺への日帰り参拝遠足に、他の中国人たちと一緒に出かけていった。普通、ルークムウというのは出発までの気の遠くなる日々を、安い食材の補給を受けつつ、かび臭い空間でじっと過ごさなければならないものだが、陳と親しいエージェントは、人間扱いせずとも問題のない連中に、わざわざ道教のお寺で密航成就を祈らせてやる程度の心意気を持ち合わせているらしい。






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