* この物語はフィクションであり、登場する人物、企業、
団体、一部政府機関の名称は架空のものです(著者)。




第二十七話




  裏日本人社会は、にわかに人の動きがはげしくなっていた。もっとも、地殻変動が始まっているのは偏に日本人の世界に限ったことではない。地元タイはもちろんのこと、中国・台湾系、韓国系、欧米系、ユダヤ系、それにインド系やアラブ系の似たような勢力や政府機関が、バンコクの街をモザイク状に分け合って、来るべき決戦の準備に取り掛かっている。
 ただ、第二次世界大戦がはじまる以前から「幻のクラ運河構想」は、“日本の主導で推進すべし”といった青写真が、フランスやイギリス、あるいはアメリカのアナリストのあいだでおおっぴらに申し送りされている代物だった。漠然とした原則ではあったけれど、いまのところ各国の組織は、ひとまず日本人の動きを静観する姿勢を崩していなかった。
 バンコクで最大の日系興信所を経営する篠塚は、大勢の側近を引き連れて日本へ飛び、ペッブリ通りの高層ビルにオフィスを構えるドクター滝のもとへは、連日毛並みの異なる金融業者が入れ替わり立ち代り出入りする。片岡や八田の組織は、人数や資材を集める作業に余念がない。シーナカリンで結成された連合軍は、それぞれの特技に応じた役割分担をこなしている。これに対して福原の側は、水面下で相手方と同じような段取りを踏みつつも、表立っては相変わらず泰然自若とした態度で、表社会に展開する日系企業の取り込みに没頭していた。
 非合法すれすれの手荒な遣り方は、短期間で巨大プロジェクトの実現に漕ぎ付けるための要諦だった。一見裏社会の風下に立たされているかにみえる表社会の住人も、その実したたかで、見方を変えれば多大な消耗を余儀なくされる前哨戦を乗り切る楯を、如何に安く仕入れるかのような心持で、やくざな一団を品定めしていた。


 ナカタニ・ファニューチャー・インダストリーの本社は、プルンチット通りの比較的大きなソーイに立ち並ぶ高級住宅街に位置していた。事業の主導権はすでに長男の社長に移っているが、自宅を兼ねているので中谷アルンキットはいつもここにいた。
 「いまごろになって、とんでもない亡霊が現れたね」
 創業者は、応接室にあらわれるやいなや、涼しい顔で言った。
 「まったくですよ」
 ソファで会釈する井坂はいった、
 「クラ地峡にいよいよ運河を掘るか・・・。まあ、これでどうして福原が急にウチに色目を使い始めたのか、ようやく合点がいきましたがの」
 「福原くんのビジネスセンスもなかなかのものじゃないか。井坂さんに目をつけるとは、この街で粋がる日本人にしては発想が柔軟だ」
 「ええ。侮るわけにはまいりませんな、あの男も」
 備中興産タイランドの経営者は、襟を質して諾った。
 「たいがいの日本人は本国のほうを向いているが、井坂さんの場合、南西アジアや中近東が商売相手にされているでしょう。それで、福原くんはあなたの会社を手に入れたがっているわけだね」
 「どうもそのようです」
 現在マラッカ海峡を航行している船舶が、クラ運河を使用するとなると、ここで落とされる通行料は莫大なものになる。
 独立以来、東アジア世界にフリーポートの役割を担ってきたシンガポールは、権益の喪失を意味する運河建設に難色を示して来たものの、近年のめざましい金融立国への脱皮を受けて、リークワンユー政権の末期には、有望な投資対象と認識をあらため、構想に賛成を表明するまでになった。シンガポールのケースは、いわばアジア各国の思惑の典型象徴といっていい。とは言うものの、慢性化した経済不況に喘ぎつづける国が大勢を占めるなか、着工を可能とならしめる大口の出資国を探しだすとなると、おのずと視線は産油国、すなわち湾岸諸国に向けられることになる。
 プロジェクトを仕切ろうとする者が、アラブ世界と太いパイプを誂えておかなければならないのは、いたって平明な命題であった。
 「滝くんも独自のルートで同じ情報を入手した。あの人もアラブやインドに強いからね。そうなると、どういう出方をするか注目しなければならないのは、この方面じゃ素人同然の篠塚グループだろうか。何をやらかすか皆目見当がつかないが、いずれにしても大方の群小組織は篠塚に従う。主将の見識なんかどうでもよい、長いものには巻かれろ、寄らば大樹の陰・・・それが言うなれば日本人の習性だからね。ある程度、流れにまかせてみるのもひとつの手だろうね」
 井坂が目をしょぼつかせた、
 「プロジェクトが動きだす前にかならず既成組織の淘汰がおこるでしょうな。たとえ幸先がよくても、篠塚に乗っかるのは上策ではありません。目が見えない者は、足元のヘビに噛まれてお陀仏ですわ」
 「漁夫の利をせしめよう、って根胆は通用しないか」
 戯れに瀬踏みしてみせたアルンキットは、安堵したように静かに笑った。
 「それができれば苦労しませんがな。しかし、大きな目で見ると、これほどのプロジェクトに望んでも、ちっぽけな派閥の枠組みに拘って具にもつかない足の引っ張り合いを演じるようではこの街の日本人社会も先が思いやられますな」
 「日本人同士の諍いにかかわずらって肝心なライバルを見落としてはいけませんよ。厄介なのは、タイ最大の株式会社です」
 この国の大きな利権事には、必ず軍人が関与してくる。
 「油揚げをさらうことにかけては天下一品だよ。あの緑の服を着た鳶の大群は。どの道組まなければならない相手ではあるが、将軍だけで五百人いるあの組織の中から、いったい誰をパートナーに選ぶか、それが最終的な成否を決める鍵になる」
 近現代にしばしば繰り返されたクーデターに象徴されるように、タイ人はその独自の歴史を陰謀によって織り成し、彩ってきた。彼らに比べると、日本人の権謀術数など児戯にも等しいかも知れない。今日の権勢家も、明日の立場はどうなっているかわからない。身内に取り込んだ将軍や政治家が或る日突然失脚し、その政敵が台頭すれば、巻き返しは永劫かなわなくなる。どのタイ人と組むか。それが決断の正念場だった。
 「絵を描く人間の力量が問われますなぁ」
 思案に暮れて、井坂は呟いた。


 日曜日とあって、チャトチャクのコンドミニアムからほど近い欧米資本のファミリーレストランは家族連れで賑わっていた。
 「学校、たのしいか」
 気の利いた挨拶が思いつかないまま、島崎は切り出した、
 「ははは、元気そうで、ほっとしたよ」
 くたびれたワイシャツと緩めたネクタイを見つめながら、有佳はあきれ果てた顔でいった、
 「いきなり電話して来て会いたいって言うから出てきたけど、康くん、まるで離婚した妻に引取られた娘とこっそり会ってる父親みたいね」
 「失礼な。おまえ、えらく変わったね。昔はそんなキツイことを言う女じゃなかったのに」
 着ているものもデニムのオーバーオールと、趣味がだいぶ変わっている。口篭もり、有佳はバツの悪い笑顔をのぞかせた。
 「日本語で話すの、久しぶりでしょ。ちょっと思い切ったことを言ってみたかっただけ。気にしないで」
 実際、有佳の成長ぶりには、目を見張るものがあった。話し方も語彙も、ずいぶん大人びている。出逢った頃のステファニーの言葉を翻訳したら、きっとこんな調子になるに違いない。影響の出所は、言わずと知れた。
 「気にするよ。でも、それくらい気丈でなくちゃ、到底この国では生きていけないからな。いつまでもおれの思い出のネギちゃんでいてもらう必要もない」
 「ごはん、ちゃんと食べている?」
 慨嘆めいたつかない島崎の見解を聞き流して、有佳は探るように訊いた、
 「いつも外で康くんが何をやっているのか知らないし、訊きたいともおもわないけれど、それだけが心配なの」
 「やめてくれ。別離れた女から私生活を詮索されているみたいで感じがわるいよ」
 「わかれた女って、どんなひと?」
 「ん。そうだな・・・」
 問いかけを生真面目に受け取り、島崎はしばらく考えて、
 「おれにはないんだよね、そういう色っぽい思い出って」
 投げ遣りに答えた。
 するとテーブルへブレザーに名札をつけた年増女がやって来て、気つけするかのように力強く島崎の肩を叩いた、
 「ハーイ。ウェルカム、マイボーイ。ハウアーユウ?」
 あくどい化粧の華人系タイ人とおぼしき女は、どうやらこの店のマネージャーか、場合によるともっと上級なスタッフらしかった。
 「オウ、マイマム!イエス、ファイン。アンドユウ?」
 がらりと調子を変えて、島崎も大袈裟なゼスチャーとつばめのような愛嬌をこめて応答した。
 「・・・けっこう忙しいわよ。ご覧の通り、チャトチャクに新しい店舗をオープンしたら大入りじゃない。シロムのオフィスでのんびりしているわけにもいかないから、こうして陣頭指揮に来ているのよ」
 「計画性がないな。でも、日本じゃこういうの、嬉しい悲鳴って言うんだぜ」
 「いい言葉ね。覚えておこ」
 本人は二十代の娘の気分でいるらしい。
 「だけどさ、マム。若いスタッフ、みんなあんたを煙たがっているんじゃないの?
おっかない社長が睨みを利かせていたら楽しく働けないよ」
 「あんた、嫌味を言いに来たの?」
 紫のアイシャドウを曳いた現地法人の経営者は年齢相応の美人だった。興味深々な面持で有佳を見て、
 「まだ三十をちょっと過ぎたばかりなのに。十年早いわよ、こういう趣味に走るのは」
 と、あくまでも流暢な英語で反撃した。鼻にかかるが、悪意までは感じられない。
 「ちょっとママ。勘違いしないでくれ」
 島崎も鷹揚な英語で、女のふしだらな想像を否定した、
 「これは遊びじゃないぜ。ボクは本気なんだから...」
 康士と女の関係がさっぱり読み取れない有佳は、ただ大人しくいかれた英会話の嵐が通り過ぎるのを待つよりほかになかった。
 「まったく、相も変わらず脳天気なオバハンだな」
 店を出ると島崎は有佳を省みた、
 「タイにはよくいるんだよ、ああいう骨の髄からのアメリカかぶれって奴がさ。ま、うちの嬶ちゃんはどう見るか知らんが、おれみたいなバカにしてみりゃ愛すべきキャラだ」
 「ふうん」
 さして関心を払う様子もなく、有佳は唇を尖らせた。
 「ちょっと歩こうか。どこへ行きたい?」
 「ウイークエンドマーケットなんて、どう?」
 近くに、週末だけ開かれる有名な市場がある。蜘蛛の巣状の狭く入り組んだ通路は、人でごった返していた。有佳が一枚のポスターの前で歩調を停めた。
 「この女の人はだれ?」
 それは、通貨危機に見舞われたバンコクの巷間に、にわかに出没しはじめた或る烈女の肖像画だった。
 「アユタヤ時代のスパンカラヤー内親王だな」
 「どんなひと?」
 「ビルマ軍との戦いで弟の王さまが捕虜になったんだ。王さまというのは、のちにタイ式ボクシングの始祖となるナレスワン大王で、つまりそのお姉さん。彼女は緒戦の勝利で油断する敵に不戦を誓いながら自ら弟の身代わりとして人質となったわけだが、間髪入れず、彼女は味方の陣営に激を飛ばしてビルマを討たせたんだ。弟王が率いるアユタヤ軍は大勝利をおさめたが、スパンカラヤーは敗走するビルマ軍に殺された。細川ガラシャを髣髴させる死に方だ」
 説明しながら島崎は、卒然とこみあげる胃液の苦味を堪えつつ、ポスターの皇女と有佳の顔をしげしげと見比べて、首を傾げた、
 「しかしこの“アユタヤたま様”の顔、なんとなくネギに似てないか?」
 皇女の悲運を思えば、以前の儚い風情をたたえた有佳には、とても言えない科白だった。だが、事実そこに飾られた肖像の主は、眼差しといい、眉の格好といい、ずいぶん有佳の容貌と共通する特徴をそなえている。
 「似てないよ。こんなにきれいじゃないもん、あたし」
 「そうかねえ」
 “何年かしたら、そっくりになるだろう”という二の句は、喉の痞えが邪魔をして言葉にならなかった。ビルマという国名に切実なわだかまりがあった。錯綜する記憶を総括するようなスパンカラヤーの肖像から目線をそらし、島崎は有佳の後姿を追った。
 「康くんとショッピングするの、シロムで服を買ってくれた時以来だよね」
 「そんなこと、あったっけ?」
 「新聞社でお給料をもらって、それで買ってくれたじゃない。こっちの世界に来て、初めての外出だったわ」
 「おっと、いけねえ。まだ三月分の原稿料、もらっていなかった。取りにいかないと」
 間口一軒の店先は、どこも脈絡のない商品群で溢れ返っていた。てんでかみ合わない話題をまじえながら、ふたりは雑踏を掻き分けた。
 「これ、チャイヨー君って言うんでしょう?」
 ぬいぐるみ屋の前で立ち止まり、有佳は米俵ほどのサイズがある象のキャラクターを指して言った。押し付けがましい愛嬌を振りまく象の顔が、島崎にはあまり好きになれなかった。
 「そう。今年の暮れにひらかれるアジアゲームのマスコットだな。しかし、この象さんには罪はないけれど、こんなに景気がわるくて本当に開催できるのかね、そんなオリンピックのイミテーションみたいな大会がさ」
 「けっこうタイのことを心配しているんだね、康くんって」
 「話を飛躍させるな。・・・どれ、それじゃタイの景気浮揚のため、あのチャイヨー君をネギに買ってやろう」
 「いいよ、無駄遣いしないで。持って歩くの大変だし」
 「邪険にするな。チャイヨーとは勝利、万歳の意。縁起がいいんだ」
 ひるむ有佳を無視して、島崎は巨大なぬいぐるみを買った。
 「もし、歴史が変わってネギが昭和の東京に戻ったら、このチャイヨー君をあっちの康くんに見せてやりな。未来のあんたにタイで買ってもらった、って、ちゃんと報告するんだよ」
 「ぬいぐるみを持っていったって、平成のタイから帰って来たって証拠にはならないでしょ。あっちの康くんはきっと病院に行けって言うわよ」
 「わからんぞ。あいつは単純に喜ぶと思う」
 迷惑な物体を押し付けられて、有佳は満更でもない軽口を叩いたが、冷めた真顔で呟いた、
 「もし、あたしが昭和に帰ったら、康くんはいま、タイにいるのかしら?ヌンさんや井坂さん、それにソムチャイさんとめぐり合えるの?」
 「冴木有佳が帰って来たら・・・おれはもう少し、人間や世の中を信用するようになっていただろう。つまらないことでくよくよしながら、平凡な三流サラリーマンの暮らしに人生の幸福を見出していたかも知れない」
 「バンコクにはいないかも知れないね」
 「たぶんな」
 大きなチャイヨーを抱える少女は索然といった、
 「昭和に帰れなくてもいいの、あたし。みんなと遊ぶ時間もなくて、電車に乗って塾に行って、私立の中学校にはいって、そのまま大学行って・・・最近わかってきたんだけど、あたしって、けっこう薄情な性格みたい。御殿山小学校も、あまり楽しい思い出がないの」
 本来自分が在籍すべき学校を三人称で呼ぶ有佳は、あきらかに非凡な留学生活を送る平成娘の感覚になっていた。
 「あっちの康くんはガクッとするぜ、それを聞いたら」
 「康くんなら、平成のタイに呼んであげたい。・・・あ、ここにいたんだっけ?」
 ふたつの時代に居直る少女は、同級生の哀切なコメントをさらりと受け流し、
 「これ」
 と、またしても足を止めた。今度はネクタイやスカーフを商う店だった、
 「わりといい柄じゃない」
 手にとったのは、一本のネクタイだった。
 「康くんに買ってあげるね。タイの景気のためにもなるし」
 「こら、銀座のクラブの姐ちゃんか、おまえは?そんなもの男にプレゼントするんじゃない。無駄遣いはいかんぞ。第一、カネなんか持ってるのか?」
 「失礼な!」
 有佳は売り子に値段を尋ねると島崎の口真似をした、
 「アルバイトをしているのです。・・・クラスの友達で日本語を覚えたがっている子がいるの。お父さんが日本人といっしょに“ジョイント・ベンチャー”という名前の会社を経営しているの。その子のお母さんから頼まれて、ときどき家庭教師をやっているの。わりかしいい“シノギ”になってるわ」
 一般名詞と固有名詞の混乱に島崎は目を瞑った。
 「はあ、そうですか」
 「こんな経験、昭和の日本じゃぜったいありえないよね。康くんの宿題をやってあげてもボランティアだし」
 「はあ、そうでしたかね」
 「・・・それで」
 買ったネクタイを島崎に押し付けながら、有佳は口調をあらためた、
 「柳田君のことでしょう?」
 有佳は今日呼び出された理由を察知していた。
 「うん」
 「あたしも征ちゃんに会わなきゃ、だめなの?」
 「当たり前だろう。いつまでもこんな暮らしを続けているわけにはいかないんだから。タイが気に入ったなら、また来ればいい。でも、まずは柳田に事情を説明して、あいつの段取りにすべてをまかせて一旦帰国するんだ。そろそろ準備をはじめてくれ」
 「うん」
 有佳の胸中には、ナコンサワンで会った日系タイ人、中谷アルンキットの言葉が魚の小骨のように突き刺さっていた。
 ・・・“空襲で、私の生家は丸焼けでしたからね。家族も全員死んでいたし、日本に帰るところがなかったというのが・・・バンコクに残った最大の理由だったかも知れませんよ”・・・。
 「わかった。支度するよ」
 島崎の言葉に従いつつも、張り詰めた糸が切れたように有佳はいった、
 「でも、やっぱり訊かせて。もしかして、康くん、いまものすごく危険なことをやっているんじゃないの?人が死んだり傷ついたりするような、あぶない仕事をしているんでしょう?本当のことを教えて」
 「なんだ、唐突に。それを知ってどうする?」
 「だって、心配だよ。危険な立場の康くんをタイに残して帰れない」
 「おまえに心配される筋合いはないね。いまネギがしなければならないのは、幽霊同然になっている自分自身の身分の回復だ。いちばん大事なことだ」
 「あたしが言いたいのは」
 言葉を区切って、有佳はきっぱり言った、
 「少しはヌンさんのことを考えてあげて」
 いきおい涙が頬を伝わった、
 「ヌンさんをひとりぼっちにしちゃだめだよ、康くん。あんなきれいで頭のいいひとが、どうして真面目な男の人を選ばないで、康くんみたいな不良を旦那さんに決めたのか、考えてみて。攻守同盟とか、むずかしいことはわからないけれど、一緒に観たい夢があったからじゃないの?もっと、あの人を大事にしてあげて。女なんだから。・・・ごめんね、生意気なこと言って」
 「自分が半端な野郎だってことはわかっているよ」
 「べつにそんな意味で言ったんじゃないよ」
 「いいから聞け」
 斜に構える素振りもなく、島崎は有佳を直視した、
 「・・・まず、日本人としておまえに言う。おれたちの爺ちゃんの世代は生命を楯にして国を守った。親父の世代は汗水垂らして国の力を養った。天然資源に乏しい国だから、いつの時代でも苦しい代償がつきものなのが日本民族の宿命なんだ。常に何かを犠牲にしなければ生きていけない国なんだよ。ところがおれたちの世代はいま、どんな苦労を積んでいる?受験地獄?業績不振?オイルショック?・・・サラ金地獄だ?ばかばかしい。そんなものは個人の心得の問題であって、ちっとも他人に威張れる責務じゃないよ。世代全体に課せられた使命とは、そんなみみっちい事柄ではないはずだ。それが見切れず、何を成すべきか悟らず、時代の波にいいように翻弄され続けている限り、おれたちは百年後の日本人から”ひたすら安穏を貪り、父祖の遺産を浪費しただけの石潰し世代”と嘲られるのは避けられないだろうな。おれは見栄っぱりでね、自分ひとりがコケにされるならともかく、同じ国民、同じ時代を生きたいいやつらまでが十羽一絡げに馬鹿にされるのはどうにも耐えられないんだよ。だから、やるべきことは、たとえ孤立無援であってもとことんやる。さいわい、おれは次の世代に引き渡すにふさわしい遺産がどんなものか、おぼろげながらも見えてきたからな」
 「それが、クラ運河を作ること?」
 「ちがう。クラ運河の建設はとっかかりでしかないんだ。遺産の本体は、これを叩き台にして築かなければならない。形はないけれど、運河より、ずっと大きなものだな」
 「どんなもの?」
 「それはネギが平成の日本をじっくり見聞してから話そうと思う」
 「ヌンさんのことは?」
 「ヌンは、おれがそんな因果を背負った国民のはしくれで、ジレンマにのた打ち回っている男であることは知っている。そしてこの宿六が、逼塞した状況を打開するためには如何なる種類のエネルギーでも手に入れようとする人種であることも、共鳴せずとも理解はしてくれている。所詮は金持ちのお嬢さんの道楽かも知れないが、ヌンは自分じゃ実行できない新しい時代の開闢をおれという駒を使って砂被り席から見物しようとしているんだよ。おまえが言う通り、“異床同夢”。はっきり言えることは、あの女もおれも、世間並みの幸福などというあやふやな基準に興味はないし、信じてもいない、ってこと。強いて言えば、先に進むことが幸福なんだ。だから、ネギにも解ってほしい。いま、ここで後ずさりしては、おれにとって、自分の信条に対する造反であるばかりでなく、あらゆる関係者に対する裏切りにもなる、ってことなんだ」
 島崎は長広舌を締め括った、
 「正しいか、間違っているかなんてことは、現在進行形で生きている人間に解りっこないんだ。ただ、よしんば失敗しても、後の時代に生まれてくる連中が、批判をまじえながらも必ずおれたちの努力の痕跡を汲み取って、歪んだ流れを修正してくれると信じたい」
 「つまり」
 有佳は一呼吸置いて、まくしたてるような早口でいった、
 「ぜひの判断は、百年後のアジア人にまかせるとして、平成に生きているあたしたちは、とにかく計画を前進させる、ということ?」
 「そういうこと・・・かな?」
 島崎の主張は井坂の意見に帰結した。
 「でもね。ヌンさんって、康くんが思っているほど強いひとじゃないかも知れないよ」
 「だったらさっさとおれなんか見切りをつけて、優しい男とくっつけばいい。弁護士なんだから、離婚届の書き方くらい知っているだろう」
 「知らないよ。そんなこと言っていると、本当に捨てられちゃうよ」
 立ち止まり、島崎は言った、
 「おまえ、やけに絡むじゃないか。かしましい姑はイカレぽんちのレストラン経営者ひとりでたくさんだ」
 衝撃が走り、有佳の顔色がさっと変わった、
 「ちょっと康くん・・・それ、どういう意味?まさか、さっきの女の人って」
 「あれ?おまえ、知らなかったの?先刻のへんな小母さんはキャタリー・スントーンっていって、ようするにヌンの母親だよ。だからおれを息子呼ばわりするし、こっちもママって呼んでいただろう」
 有佳はしばしあっけにとられた、
 「そんな。だって、ぜんぜん似てないよ」
 「親爺のモントリーや伯父のソムチャイ・ポラカンとも似てないよ。犬や猫だって子どもが必ずしも親と同じ毛並みをしているとは限らないんだから、顔の違いはかくべつ怪しむにあたるまい」
 そしてこじつけた、
 「ネギがおれやヌンのことを心配してくれるのはわかる。有り難いと思う。でも、タフだけが取り得なんだ、おれたちは。だからおまえも安心して堂々と日本へ帰れ。柳田にだって何も遠慮することはないぞ。ふてぶてしく生きるんだ。そうすりゃ、またいつの日か、こうして一緒に遊べるよ。おれはいつまでもネギを待っている」
 おもむろに携帯電話が鳴った。液晶に表示されたのは、備中興産タイランドで働くタロの番号だった。二言三言言葉を交わして電源を切ると、島崎は口元を緩めてネクタイを有佳からもらったものに締めなおし、
 「仕事がはいった。また連絡するから、支度のこと、よろしく」
 言い置くと、踵を転じた。


 中央グループの笠置が、坊主頭の大柄な男と連れだって三光銀行シロム支店を訪れたのは、行員たちの緊張感がもっとも弛緩する金曜日の午後だった。応接室のテーブルに、早速、タニヤの店でボーイに殴りかかるネクタイ姿の男の写真が投げられた。招かざる客の来訪意図をあらかじめ聞かされている写真のネクタイ男は、しどろもどろに言った、
 「あの晩は前後不覚でした」
 タバコを吹かす大男と困惑しきった面持で猫背に身構える笠置に睨みつけられて、
 「しかし、まさかこんな真似をしでかしていたとは・・・遺憾としか申しようがない」
 支店長は自分の非を認めた。乱行の証拠を突きつけられた男の名刺には、支店長の肩書が印刷されている。素面の時は有能なエリート銀行マン、しかし一旦酒が入ると大虎と化す。この支店長の酒癖の悪さは、以前からタニヤ界隈で知られていた。
 「それで、揉み消し費用は幾らになりますか」
 強請られ上手は事も無げに言った。
 「こらっ」
 ドスの利いた恫喝があがり、テーブルが蹴られて写真の一枚が床のカーペットにはらりと落ちた。
 「わいら、恐喝に来たんとちゃうで。日タイの友好関係に水を挿す暴力銀行に人間として当然の公徳心を教えに来たのや。おのれに殴られた兄ちゃんの自尊心はどうなるのや?ええ?まさかおのれ、自分が高給取りなのをええことに、タイの人びとを犬や猫と同じようにに観ているのとちゃうか?」
 「おいマサ、行儀がわるいぞ」
 見てくれからすると、ずいぶんちぐはぐな良識論を喚き散らす大男を、笠置が温厚な仕草で制して身を乗り出した、
 「この店員はね、示談には応じない、どうあっても告訴すると息巻いているんだよ。支店長さんもこの国はもう長いんでしょう?ご存知のとおり、タイの人間は、どんな貧乏人であっても、人前で顔に手を上げられるのは、金銭なんかで丸め込まれるわけにいかない屈辱なんだよ。酔っ払いが優遇されている日本とは事情が違うんだから、よく注意してもらわないと。私は酒乱でして、なんて、畢竟言い訳にならないよ」
 「なあ、おやっさん」
 むすっとした面持で巨漢が口を挟んだ、
 「こんなやくざ者を相手にしたって埒があかんで。東京の本店にマスコミ大勢連れて人事責任を追及しに行ったろうやないの。いますぐこの写真をばら撒いてやったらええのや」
 「おい。言葉を慎め。支店長さんに失礼だろうが」
 怒鳴り役と宥め役。典型的な企業恐喝の二人連れは定番どおりに話を糾わせていく、
 「裁判になったら、ただでさえ外国人に不利な国だ。まして全面的に非のあるあんたは確実に負けるよ。銀行をクビになるのは当たり前、傷害罪で一年や二年はくらいこむ。エアコンもない灼熱の牢獄は日本人には耐えられない代物だよ」
 まず脅かして、笠置は善意の第三者の顔を取り繕った、
 「被害者はプラチアプキリカンの出身でね。被害者の憤りを鎮めるには家族に精一杯甘い汁を吸わせるのが上策でしょう。将を射んとすれば、って言うでしょう?周囲からじっくり言い聞かせれば、あんたが殴った店員だって、体面さえ保てれば、すんなり鉾を収めるよ」
 笠置はなにしろCIAである。シニカルな面持とは裏腹に、この種の謀略を実践している時がいちばん幸せそうだった。支店長にしてみれば、すっかり型に嵌められているのは解っていた。しかし海千山千の脅迫者が仕組んできた事柄だけに、選択の余地はない。また、こちらに利用価値があり、或る程度言いなりになっておけば、この種の不良たちはその利益を守るため、今後一転して番犬に成り下がろうとするものだ。
 「具体的に、何をすればよろしいのでしょうか?」
 支店長は慎重な言葉遣いで訊いた。
 「カネはびた一文払わなくていい」
 支店長は怪訝な顔をした。とどのつまりカネを引き出そうとする普通の恐喝屋と、あきらかに条件が違う。
 「ちょうど私らはいまプラチアプキリカンで建設資材の販売会社を立ち上げようとしていたところです」
 口調をがらりと慇懃にあらため、笠置は得々としゃべりだした、
 「ご存知の通り、ここはタイですからね、たとえ資本の全額をこちらが出しても、五十一パーセントの名義は現地人にしなければなりません。ま、飾りだから誰でもいいわけですが、被害者の父親を社長に就任させてやろうと思います。・・・あなたには、そこの役員に名前を連ねてもらえれば、それで結構ですよ。社会のためになる仕事だし、本店にも兼業を届ければ問題はないはずです。もちろん報酬も出しますよ。どうです、夢のような話しでしょう」
 それが、支店長の狼藉を叩き台にしてつくられた計画であることは疑うべくもなかったけれど、この余りにも鮮やかなタイミングに茶々を入れようとするほど、当事者たちは子供ではなかった。プラチアプキリカンは、南部地方のバンコク寄りに位置する、タイランド湾に面した細長い県である。最近、邦人社会で、にわかに密かな注目を集め始めたチュンポン県に隣接していた。多言を要することもない。笠置は演技めかせて肩を怒らせた、
 「さあ、答えはふたつにひとつ。イエスか、ノウか」
 タイで最も信用のある日本企業群を象徴する銀行関係者による経営参画が何を意味しているか、それが読み取れない支店長ではなかったけれど、選択の余地はなかった。写真が除けられ、代わりに押し付けられた登記書類に、彼は署名に用いる万年筆を取り上げると、真面目くさった面持で向き合った。






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