* この物語はフィクションであり、登場する人物、企業、
団体、一部政府機関の名称は架空のものです(著者)。




第十六話




 有佳の機嫌が直るのに、一週間かかった。気分転換のきっかけは、年も押し迫った十二月三十日の午後、鈴木からはいった電話だった。
 『ちょっと来てくれ』
 「明日は大晦日だぞ。これから二万バーツの集金に行かないといけない。さもないと年が越せない」
 『小一時間でええのや。俳優にしてやる。そしたら、餅代をやる』
 いつになく、鈴木は慌てていた。
 「幾らの餅が買える?」
 『だいたい、二十万円』
 下がった口角を凍結させて、島崎は携帯電話の電源を切った。
 「ネギ。すまんが、おれの代理で備中興産タイランドへ集金に行ってくれ」
 井坂はバックホウとトレーラーの処分料を月末に支払うと約束していた。スクムビット通り101/1ソーイの奥深くに置かれた現物は、土方の親方のトゥムが舗装工事の締固作業に使っているけれど、それはあくまでも土地の人間の廃物利用と片付けてよい。
 「おつかい?・・・いいけど、大金なんでしょう?」
 「小切手だよ」
 銀行はすでに休みにはいっていた。小切手の現金化は、どのみち年明けにならなければ無理である。
 「おれの名前が明記してある。もしおまえが落っことしても、拾ったやつも換金できない。気楽に行って来い。もちろん、タダで働けとは言わない。額面の半分はお前にやるよ」
 偽善的な調子が持続しない男を哀れむように少女は訊いた、
 「康くんは?」
 「急なビジネスが入った」
 言いながら島崎は千バーツ紙幣を有佳に手渡した、
 「トゥクトゥクで往復しても、たっぷりお釣りがくる。今夜はおれも遅くなるかもしれない。残った金で年越そばでも食いなさい」
 「大晦日は明日でしょう?」
 有佳は問い返したが、二十万円に目の色を変える島崎の姿はすでにドアの外にあった。
 初めての単独行動だった。トゥクトゥクに乗るには、まず運転手と話し合わなければならない。きちんと行き先を告げ、料金交渉をまとめる自信がない少女は、一律三.五バーツの赤バスを乗り継いで行くのが無難だった。幸い、備中興産タイランドへはシロム通りからプラトゥナム経由のバスで行ったことがある。クリスマスイブには、チャトチャクからプラトゥナムまで赤バスで移動した。効率的なコースかどうかまではわからなかったけれど、バスの番号は覚えていた。歩かずにラマ九世通りまで行けそうである。
 不安な気持ちで車窓の渋滞模様をうかがうこと六十分。ようやくバス専用レーンにはいると、二十分。康士に連れて行かれた伊勢半デパートが見えてきた。垂れ幕には、わずか数万人の購買力を当てこんで、“タイ国限定・お歳暮セール”と、大きな日本語の文字が躍っていた。ふと、居候先の家主、ステファニーの顔が思い浮かぶ。気を使いすぎる少女は、バスを乗り継ぐ合間、衝動的にデパートへ駆け込み、洒落たハンカチと小壜に入った香水を見繕うと、プレゼント用に詰め合わせてもらった。しめて、八百三十バーツ。往復のバス代十四バーツを千バーツから差し引いても、夕方になって空腹を抱える心配はなかった。
 「クン・イサカ・ユー・マイ・カァ?」
 初めて話したタイ語を、有佳はふたたびティウに使ってみた。
 「マイ・ユー(いません)...トォンニィ、パイ、タナカーン、チャ」
 島崎の姪が話す自国語を歓迎して、ティウはにこやかに答えた。
 「は?あの、タナカさんじゃなくて、イサカさんです」
 流れるようなタイ語にうろたえた有佳は、英語に撤退した。
 「ボス・イズ・ゴーイング・バンク・ナウ」
 井坂が銀行へ行っているのは分かった。
 「...すぐに戻ってきますよ。今日は銀行が混んでいるけれど」
 あやふやに言って、ティウは有佳が抱えている包みに目を留めた、
 「ユウカさんも参加するんですか?」
 言うが早いか、受付嬢はすばやく少女の荷物を引っ手繰る。バスの車中での出来事がふと有佳の脳裏をよぎった。
 「あの、それは」
 人を傷つけない否定の言い回しを考えあぐね、有佳が口篭もっていると、ステファニーに贈るつもりだったプレゼントは、ティウの手から幹事役のOLに渡り、番号が手書きされた紙切れをその場で貼り付けられてしまった。
 「それじゃ、六階へ行ってね」
 ゼスチャーをまじえてティウは天井を指した。
 バンコクの会社では、新暦の御用納めの日に社員がおのおのプレゼントを一個持ち寄り、これを預かる幹事が番号札をつけて、籤を引く。不公平が出ないよう、プレゼントの金額はあらかじめ大雑把に取り決められており、備中興産タイランドの相場は五百バーツ見当だった。だが、小切手を受け取りに来ただけの少女に、そんな慣習などわかろうはずもない。はからずも、有佳は打ち上げに飛び入り参加させられることになってしまった。いつもは使用されていない六階フロアには、すでに運び込まれたプレゼントのほかに、タイ料理とお菓子がふんだんに用意されていた。全員が揃うと、籤を順番に引いて、社員たちは受け取ったプレゼントをその場で開封する。ハンカチと香水を取り上げられた有佳が引き換えに手にしたのは、動物がダンスを踊る子供じみた絵柄の体重計だった。メイドインジャパンの文字が、見るからにいかがわしく、タイ語を操れない有佳の不平感を募らせた。
 「こんなの、ヌンさんにあげられないよ・・・」
 山と盛られた料理を腹いせに食べていると、部屋の一角で、
 「オーイッ!」
 と、どよめきに続いて、けたましい笑い声が上がった。
 見れば、有佳が提供したプレゼントを引き当てた女社員が複雑に苦笑いし、取り巻きが彼女を冷やかしている。
 「ハンカチや香水は、プレゼントとして不適切なのよ」
 包装紙をおぼえていたらしい。そっと忍び寄ってきたティウが、声を潜めて、聞き取り易い英語で耳打ちした、
 「タイでは、ハンカチのプレゼントは、“涙を拭け”という意味になるの。それに誰もが匂いを大切にしているから、香水は“あなたが嫌い”という拒絶の意思表示よ。いずれにしても、贈る相手の不幸や機嫌を損なうよう、願っていることに変わりがないけれど」
 「あの...あたし」
 外国人との接触が多い商社で働いているティウは、有佳に周到な悪意を取り揃えて示すほどの知識がないことを承知していた。様になるウインクをして、落ち込む異邦人の少女を地元の娘は慰めた、
 「ビッチュウなら、ジョークで済むでしょうけれどね」
 ステファニーとて、外国人の認識不足に起因した非礼には寛大でなければならない身分のタイ人ではあったけれど、目下の有佳の立場は非常に微妙だった。良かれと思ってした行いが、どんな形で新たなトラブルへ飛び火していくか、まるで予想が立たない国である。日系企業でかいたささやかな恥は、却って余計な波風を立てたくない有佳にとって、僥倖だったかも知れない。それに、ティウからプレゼントの作法を習いながら、もうひとつ感じたことがあった。いつしか有佳は、漂着した国や都会への愛着を暖めるようになっていた。タイとバンコクについて、もっと色々な事が知りたい、と思うようにもなっていた。そんな観点から省みると、ここへ来て、康士による過激な基礎教育がひとまず終了し、土地の人や他の日本人と直に接触して、認識や体験の裾野を広げていく実習段階が始まった、と弁えていいかも知れない。
 自ら学習する習慣を性癖にしている少女がそんなことを考えた矢先、銀行から井坂が戻ってきた。

 備中興産タイランドで有佳が体重計をつかまされた頃、島崎はトンブリ地区の、ゲストハウスを併設したマンションの駐車場で鈴木隆央と落ち合っていた。
 「あそこで飯を食っているのが、牛窪や」
 壁際に身を隠しながら、開口一番鈴木が言った。
 「あいつ、鼻を整形しているな」
 島崎は通り過ぎる極端に美形な住人の女を眺めていた。
 「この国じゃ珍しくない。それよりこっちの話を聞け」
 「へいへい、ボス」
 「依頼人はいない。牛窪は、おれが昔かかわっていた偽装結婚斡旋業者の手下でな。茨城県でバスの運転手をしておったそうや。あいつはいま、このゲストハウスに泊まっている」
 「なんでわかる?」
 「あいつは昔、このマンションで女と暮らしていた。しかし、いまでもこうして根
城にしているのは別れた女への未練ではのうて、土地鑑が極端に乏しいせいや。自分
ひとりじゃ、他に泊まれる場所を探せんほど、タイ語も英語も、まるで駄目」
 「そんなヘナチョコだったら、鈴やんひとりで格好つくだろうが」
 鈴木は頭を振って笑った。牛窪と顔を合わせるわけにいかない事情があるようだ。
 「それで、俳優とは?」
 島崎は質問を変えた。
 「日本大使館の領事になってくれ」
 言うが早いか、鈴木は千バーツ紙幣を四枚と沢村秀一の名刺を押し付けた。
 「いま、友達のおまわりを呼んだ。この前、つまらない仕事を頼んだ連中でな。五時きっかりに来れば“本当の依頼主”が二千バーツずつ謝礼をくれる、とはまでは言ったが、他は何も因果を含めていない。おれは牛窪に顔が割れているから、島ちゃん、俳優ついでに“本当の依頼主”の役もやってくれ」
 つまり、友好的な含み笑いを浮かべる地元の警官をうろつかせて、脅す相手をさらに牽制してしまおうという腹積もりらしい。いずれにせよ、警官たちの見ている前で莫大な日本円をやり取りするのも感心しない。彼らがやって来る前に、交渉を纏め上げなければならなかった。腕時計を見ると四時をすこしまわったところだった。一時間以内の勝負である。
 「いつも厄介な仕事はこっちへ回してくるよな」
 陰険な男から、しかし島崎は仕事を請け負った。
 「なにをいう。おれの情報がなかったらシノギそのものが成り立たへんがな」
 「それで、バスの運転手の脛には、どんな傷があるの?」
 それを知らなければ脅かしようがない。
 「偽装結婚のつもりで一緒になった雌鶏、つまりここで一緒に暮らしていた女とやりまくって、ガキを孕ませた挙句、遁ズラした。女はモグリの産院でガキを堕したもんやから、いまは箱(刑務所)に入っている。ところが、牛窪のアホときたら、また新しい女を求めて、のこのこ舞い戻ってきた。おれはたまたまこのマンションに住んでいる別の日本人のところへ集金にきて、牛窪を見つけたのや」
 年末は、みんな集金で忙しい。鈴木は行きがけの駄賃とばかり、牛窪を強請る計画を思いついたらしい。これだけ聞けば、事情はすっかり呑み込める。あとは牛窪と話し合いながら適宜ストーリーを組み立てていけばよかった。
 「分け前は五分と五分だぞ。それ以上は鐚一文やらないからな」
 「ああ、得した。島ちゃんに七割取られても仕方ないと諦めとったのに。おまえは、本当にええやつや。わかった、五分と五分で手を打とう」
 「いつかそのキツネみたいな目ん玉を引っ叩いてやるから、覚えとけ。・・・しかし、どう考えても、こんな所へ領事が出て来るなんて不自然な話だ。普通に強請ったほうが手っ取り早いんじゃないのか?」
 「わかりっこないって。言ったやろが、あいつは女たらしのただのアホや。もう一度言うが、タイ語はおろか、英語だってろくすっぽしゃべれん。孤立無援であることは本人がいちばんよく承知しとるがな。おまけに身に覚えがある容疑さけ。島ちゃんが大学出らしく、警察や、と言えば、ぶるって他のことは何も考えられなくなる。さあ、行った、行った」
 物陰へ身を隠しながら、鈴木がしきりにけしかけた。
 「失礼ですが、牛窪さん?」
 「ふあ・・・?」
 焼き飯を貪っていた貧相な顔つきの男は口をあんぐりあけて、下衆ばった前歯をのぞかせた。
 「ちょっとお話したいことがありましてね、座っていいかな?」
 「はあ」
 牛窪はすでに腰をおろした相手に頷いた。
 「ああ、申し遅れました。私は警察庁から在バンコク領事館へ出向している者で、沢村と言います」
 島崎は名刺入れから他人の物を抜き取り、差し出した、
 「ま、こう申し上げれば、どんな用事で、私があなたに声をおかけしたのか、わかって頂けると思いますが」
 唐突にこんな相手が現れたら、たとえ品行方性を自認する人士であっても大いに面食らうのが当然だ。牛窪の半開きになった口から、入れ歯のような音がカタカタと漏れた。
 「は、はあ。しかし、私には特に思い当たる節がありませんが」
 男は必死に平常心を取り繕う。
 「そうですか」
 一呼吸置いて、島崎は前かがみに身を乗り出した、
 「あなたはタイ国第一審裁判所の告発を受けているんですよ。昨日、空港に降りたでしょう?裁判所から協力を要請されているイミグレーションポリスは、問題人物のあなたを、その場で拘束しないで、入国させたのです。・・・つまり、あなたは泳がされている」
 牛窪は、だいぶこたえたようだ。
 「そんな・・・慰謝料ならちゃんと払っていますよ。何かの間違いではないでしょうか?」
 これを受けて、領事を名乗る男は淀みなく指摘した、
 「ご存知でしょうが、この国では堕胎は刑法犯罪になります。女ばかりでなく男も罰せられますよ。すでにあなたの入国を嗅ぎつけた現地官憲が動き出しています。すみやかに手を打ってください」
 子供は授かりもの、という文化認識は、法曹界にも成文化されて根を張っており、つまりタイでは如何なる理由があろうと、堕胎は男女ともに刑事罰の対象となる。前科者の烙印が押された上に、入籍して外国人の姓になっているため、牛窪の旧妻は公民権が停止し、土地や車が買えなくなったばかりか、就職にも支障が生じているという。刑法犯罪と聞いて、男のひからびた頬骨に緊張が走った。ちなみに第一審裁判所は民事が中心である。聞く人が聞けば、ただちに化けの皮が剥がされるところだった。
 「手を打つ、と言いますと?」
 「不本意でしょうが、一刻も早く示談金を支払って先方の女性に供述内容を変えてもらうことです。正規の離婚届にも署名しなければなりませんよ。所轄の警察署長に同行してもらいましょう」
 「そればかりはご勘弁を。できれば・・・つまり、沢村さんのほうで、内密に片付けてもらえないでしょうか」
 「どうしてです?」
 「えへへ。タイには毎年、日本から、あたしら庶民が一生かかっても拝めないような援助金が流れていますよね。つまり、ここはひとつ、お国のご威光で、便宜を取り計らって頂ければと・・・」
 尊大と卑屈が入り混じった牛窪の態度に心底虫酸がはしった。島崎は本気でテーブルを叩いて怒鳴った。
 「ふざけるな!これは本来官庁が介入するような話じゃないんだ。わかった。領事館は金輪際介入しないから、自分の始末は自分でつけてみろ」
 降って沸いたような恫喝に縮みあがり、牛窪は涙顔で訴えた。
 「ころされるんれす・・・」
 「ほうら、見ろ。やっぱり身に覚えがあるじゃないか。よろしい。これからやって来る所轄警察署の人に、あんたの護衛をお願いしよう。きちんと先方の女性と話をしなさい。ここは仏教国だから、殺されることはないと思うよ」
 まるで論理的でない気休めを与え、突き放そうとする権力者に、いったいどんな悪さをしたのやら、恐怖に駆られた牛窪はしなだれかかるように言った。
 「どうかおねがいです。後生ですから、沢村さんのほうから話してください。示談に必要な費用はいくらでしょうか?ありったけお出ししますから」
 思い通りのリアクションだった。しかし、ここの演技が正念場だった。島崎は気難しく腕組みしてしばらく男の顔を観察した。
 「私が手助けしたことは忘れて、すぐにタイ国外へ退去すると約束できますか?」
 そして重々しく言った、
 「イミグレーションのオンラインから二十四時間だけ、あなたのデータを抹消するよう、内密に手配するのはできない相談ではないが」
 「約束します。お願いします」
 冷静に考えれば、いくら外交特権が付与された公館職員であっても、当該国の刑事事件にこんな立ち入り方などできるはずがない、と解ろうものだが、鈴木が予見した通り、怯えきった男に疑念を抱くゆとりはなかった。言うがままに、牛窪は急いで出国すると宣誓した。八千円相当のバーツ、それに一万円冊が五十六枚と、五千円と千円がそれぞれ三枚並べられた。
 「なにを物欲しそうに見とるんですか、あんたっ!」
 力任せに島崎はテーブルを叩いた。
 「ひえっ!・・・えへへへ」
 物欲しげな顔で巻き上げられた紙幣を覗き込む牛窪は、慌てて首を竦めて卑屈に笑った。ご機嫌を取り結ぼうと、あわてて小銭入れをまさぐりはじめた不憫な男を偽領事は制止した、
 「小銭はしまっておいていいよ」
 「はあ。おそれいります」
 唇は笑っていたが、有り金をすべて巻き上げられて、途方に暮れる目は泣いていた。どうやら牛窪はばかっ正直に有り金のすべてを差し出したようだ。宿代は前金で払っている様子だったが、いますぐ出国するにしても、空港使用税やそこへ行くまでのタクシー代といったささやかな物入りが残されている。帰国したら自宅までの交通費も必要だろう。哀れに思い、島崎は黙ってバーツと五千円札を一枚押し返した、
 「とても相場には及ばないが、・・・あなたが心から反省している、と先方には誠心誠意お伝えしておきましょう」
 聞かされていた以上の大漁だった。手にした約六十万円を島崎が懐にしまうと、絶妙のタイミングで二人連れの警察官が舌なめずりしながら現れた。彼らの目当ては”本物の依頼人”がくれる小遣い銭であったけれど、牛窪は大いにひるみ、微笑する現地官憲から、しきりに視線を外そうとしていた。
 「失敬」
 偽領事は落ち着き払った仕草で立ち上がると、ふたりの警官に鈴木から預かった四千バーツを二枚ずつ分け与え、
 「ミスター・ウシクボは今夜の飛行機で日本へ帰らなければならない。しかし席の予約がないので空港で難儀することが考えられる。すまんが諸君は制服を着たまま彼を空港へ連れて行き、カウンターの係と交渉し、確実に飛行機に乗せてやってくれ」
 と、新しい依頼を切り出した。
 「かしこまりました」
 慇懃無礼な口調でひとりが頷く。制服を着たまま、という指示がウシクボという日本人のいかがわしい立場を底意地悪く説明していた。だが、警官たちには毎度のことらしく深い事情を探ろうとはしなかった。そして、ややくだけた口調で依頼主に質した、
 「いまは年末だから、日本行きの飛行機はすべて満席かも知れないよ。その場合はどうする?」
 「大丈夫だよ。どこの航空会社でも国際線というのは本国政府や大使館の緊急要請に備えて席をひとつやふたつ空けているものだ。ファイナルコール直前に警官随行で駆け込めば、たいがいの場合乗せてくれる。諸君はカウンターの係員に”非公式の強制送還だ” と因果を含めてくれたら、それでいい」
 訝しそうにひとりが言った、
 「それでは、パスポートは機長預かりになるぞ」
 贋領事は淡々と答えた、
 「それくらい脅かしておいたほうがいいんだよ。本人のために」
 最後の最後まで牛窪は怯え続けることになるが、相方の女は堕胎の罪で服役中だ。お灸としては聊か甘いほうかも知れない。
 「・・・牛窪さんね」
 日本語に切り替えて、島崎は俯く男に声をかけた、
 「彼らはあなたを逮捕しに来たのだが、私のほうで空港まで送ってもらうよう話をつけた。いまから素直に彼らの指示に従って行動すること。もし、逃げたり、外部と連絡をとったら、ただちにあなたは刑務所へ送られる。堕胎罪は最低三年の懲役だ。言っておくが、この国の刑務所は冷暖房完備、風呂つきの日本とは違う。文字通りの灼熱地獄だよ。お上から下される食費を牢番が着服しているので、雑居房になると食事も人数分の半分しか出されない。そいつを囚人同士がボコボコに殴り合って奪い合う。麻薬不法所持で挙げられたムエタイの選手崩れが同房にいたりすると、あなたのような人は、まあ三日で干からびてしまうだろうな・・・約束は守れますね?」
 いつしか自身の体験を熱く語りはじめている男に、牛窪は合掌しながら必死の形相で叫んだ、
 「守ります!守りますってば!」

 パワラットのオーキッドスクエア・ホテルは、以前こそなかなかの賑わいを見せていたが、近年著しい高い集客力を持つ大型ホテルの進出にすっかり圧倒されて寂れてしまっていた。閑古鳥が鳴くロビーを時折思い出したように行き交う客は、ほぼ全員があくどい香水の匂いを振り撒くインド人やアラブ人ばかりである。
 「いいこと?」
 洋服の仕立ても年末年始の休暇にはいっている。一人掛けのソファに深く座って長い足を組むノックは、正面の長いすで前かがみになる三人連れの南西アジア人に流し目を送り、驕慢なタイ語でいった、
 「お申し出の件、手配してあげてもいいけれど、その代わり、一口につき三千ドル申し受けるわ」
 黒い顔のひとりが身を乗り出した、
 「それは法外だ」
 ノックは動じない。手入れするマニキュアに目線を落としながら、
 「毎月の割り当ては決まっているの。それに、あたしはタイ人のために便宜を図るエージェントよ。日本へ行きたがっているコドモはタイにも大勢いる。そちらの男の子より、まず、自分のところの女の子を優先するのが当然じゃなくて?」
 別の男が自信に溢れた風貌とは裏腹に、切羽詰った口調で言った、
 「しかし、我々の仕事料は一口五千ドルが相場なんだ。査証に三千払ったら、経費倒れになってしまう」
 「それは、あなた方の事情でしょう?こちらには関係のない話だわ。五千ドルで間に合わなければ、八千ドルを新しい元受相場に設定すればいいだけでしょう。言っておきますが、タイの子は、日本に入ったら二万四千ドルの借金を抱え込むんですからね」
 三人は口を噤んだ。経済大国の日本人が、海外で傲慢な振る舞いをしている、という批判はよく耳にするが、中堅国民の、さらに低い国の人間に対する横柄ぶりは、もっと極端である。この両者の力関係を裏付けるタイと南西アジアに横たわる経済格差は、歴然としたものがあった。
 「よく考えて、返事をしてくださいましね」
 日本査証の横流しをめぐる交渉は決裂に終わった。男たちが虚しく引き揚げると、ノックは軽い尿意をもよおした。暗くて埃っぽい廃材置き場の奥に、ほとんど清掃された様子のない不愉快なトイレがあった。オーキッドスクエアのお得意はイスラム教徒の男ばかりだ。女子トイレは利用者がめったにいない。それでも一応ふたつの個室が用意されており、洗面台の鏡には滑稽なまでに立派な錫の枠がついていた。ノックのあとに異形の人影が続いていた。黒い衣装を頭からすっぽりまとうアラブかイランの女だった。一度にふたつの個室が埋まるのは珍しい。ノックも長身だが、ベドウィンの婦人はさらに大柄だった。
 しかし、ノックが平静でいられたのはそこまでだった。モスリマは突然被っていた民族衣装を脱ぎ捨てた。現れたのは、髪の長い東洋人の男だったのだ。
 「...!」
 三十前後と思しき男は、酷薄な眼差しでノックを睨み据え、
 「騒がないように」
 ネイティブな日本語で余裕たっぷりに言った。彫りが深くて引き締まった褐色の顔は、口さえ開かなければ日本人には見えなかった。
 「アナタっ」
 気丈な女は不埒者に金切り声を張り上げた、
 「私、誰、わかるか!」
 確信犯は真っ黒に日焼けしたごつごつの掌でノックの頬にしたたかな平手打ちを加えた。
 「ひっ」
 ようやく恐怖に蒼ざめはじめた女は、頭をおそるべき力で鷲掴みにされ、頬と乳房を煤けた壁に押し付けられた。
 「あんたに用事があるから、こうして会いに来たんだよ」
 日本語で淡々と話しつづける男は、昆虫標本のように立たされるノックの細い首を片手で掴み直し、もう一方の手でベルトを引きちぎった。
 「話し合いだけで済ますつもりだったが、気が変わった」
 半開きになったノックの唇から、声にならない嗚咽がもれた。
 「男と女が仲良くなるには、やっぱりこれが一番の方法だな」
 凶悪な暴力で声帯を奪われ、貞操の危機に直面する女は般若の形相で抵抗したが、尻が無残に露になると、次第にその動きは緩慢になり、陵辱者の剥き出しになった腰が重なるにおよんで、呻吟は、官能的なため息に変わった。


 有佳が差し出した小切手の額面は二万バーツ。島崎は身体中のポケットをまさぐり、六千バーツをかき集めた。
 「いま、キャッシュの持ち合わせがない。四千バーツは後で払うから貸しておきな」
 「べつにいいよ」
 有佳はもじもじして六千バーツすら、受け取ろうとしない。
 「親しき仲にも礼儀あり、だ。渡世の掟をなし崩しにしてはいけない」
 「それじゃ、四千バーツの借用書を書いて」
 「いきなり、シビアな注文だな」
 便箋を用意する島崎は、しかし六千バーツを数えはじめる有佳の成長ぶりが嬉しかった。
 「きっと、康くんは忘れているね」
 「何を?」
 書き上げた念書を引っ込めて、島崎は記載事項を確認した。
 「そうじゃなくて」
 有佳は念書を引っ張った。
 「去年、じゃなかった、五年生の冬のこと。先生が風邪で休んだ日があったの。自習しなきゃいけないのに、クラスの皆はうるさくしていて、見回りに来た教頭先生のカミナリが落ちたの。康くんなんか、用務員のおじさんと落ち葉かきして、焼き芋作って食べていたから、一番先に拳骨されていたよ」
 「ははあ。我こそは学級崩壊の魁か。しかし、教頭ふぜいの一喝で静まり返るとは、御殿山小学校も大したことないな」
 吉祥寺は、繁華街もついているが、基本的に東京二十三区の外殻にへばりついたベッドタウンである。都会と自然が適度に入り混じった界隈は、春夏秋冬を通じて木々の色彩ばかりでなく、風の匂いもめまぐるしく移ろっていく。過去からのメッセンジャーが携える情報を揶揄してみせる島崎ではあったが、故地に一抹の懐かしさをおぼえずにいられなかった。
 「それで教頭先生、『自分の未来に責任を持ちなさい』とお説教をはじめて、将来何になりたいのか、ひとりひとり言わさせられたの」
 「ふむ。して、康くんは何と言った?」
 「康くんは『ヤクザになる』と申しまして、また拳骨三発」
 「先見の明がある神童を殴るとは、とんでもない教頭だ」
 「本当にヤクザなの?あたしには、康くんが悪ぶっているだけにしか見えないよ」
 不良なのは確かだが、悪党と呼ばれるには、島崎は一皮剥けきらない半端な存在かも知れなかった。世の中には、もっと凄いのが大勢いる。
 「忘れてた」
 有佳は伝達事項を思い出した。
 「元旦、井坂さんのマンションで新年会があるそうよ。それで、あたしたちにも来るように、ですって」


 オーキッドスクエア・ホテルの一階化粧室には、淫蕩な熱気がくぐもっていた。塗料がすっかり干からびた合板の仕切り壁にもたれかかり、長い髪をべったりと頬にへばりつかせるノックは、辛うじて立ち姿勢を保ちながら、恣意的な行為を済ませた狼藉男にかすれた声で囁いた、
 「あなた。殺されるよ」
 口では脅しているが、一向におさまらない膝の震えは男の技能が満更でもなかったという、肉体の率直な本音だった。細い首を褐色の掌が鷲掴んだ。
 「その前にお前を殺す方法だってある」
 理不尽な恫喝に理屈はなかった。死刑宣告もせず、薄ら笑いを浮かべながら女を縊り殺すだけの暴力性が顔をのぞかせている。しかし、男は間もなく真摯な座興を撤回し、言語をタイ語へ切り替えた。
 「さて、それでは肝心の相談とまいろうか」
 「ふん。相談ですって?あなたがこんな真似をしてまで日本の査証をせがむ人には見えないけれど」
 男はノックの減らず口を受け流し、単刀直入に言った、
 「サワムラの旦那にへばりついている蛭を一匹引き剥がしてやる、と言ったら、あんたは歓迎するかい?」
 切れ長の鋭い眼差しが男の顔に注がれた。
 「何をはじめる気なの?」
 「共通の利益の提案だ」
 男には殺人者の体臭がしみついていた。
 「つまり、スズキを片付ける、ということ?」
 「彼は利用する。しかし、こちらの用件とは関りがない」
 「それじゃ、チマ?」
 醒めきった眼でノックを睨み付ける男は、タバコに火をつけた。
 「これ以上、あんたたちにシマザキ・コウジを関わらせておくわけにはいかないんだ」
 「どうしてあなたがシマザキを消すの?理由を聞かせてちょうだい」
 「おっと」
 苦笑いして男は言った、
 「ずいぶん血生臭い解釈がお好きなようだね。そうした濡れ仕事は、あんたの弟分にまかせておけばいい」
 ングーキヨウの存在を熟知していることを男は仄めかし、話を続けた、
 「誰もシマザキを殺すとは言っていない。ただし、そっちの稼業とは無関係の、死ぬほど忙しいタコ部屋に引き抜くだけだ。おれはあの男を確実にあんたたちの瞼の上から切除するぜ」
 鈴木を利用し、島崎を自分の仕事に引き抜く。ただそれだけのために、どうして沢村陣営にこの上なく危険な方法で接近を図るのか、ノックには男の下心が測りかねた。どちらにしろ、それほど魅力的な提案とは言い難い。
 「その話、ずいぶんそちらに有利なようだけど」
 男はおもむろに百ドル紙幣の束を取り出し、女の頬を叩いた。
 「もちろん。協力してくれたら、相応の謝礼をさせてもらうつもりだ」
 「興味深いお話のようね」
 流し目で札束を追いながら、女は男の口からタバコを抜き取り、くわえた。
 「今夜は時間があるの?」
 唇から紫煙を零すと、女は冷めた眼差しで言う。
 「あるとも」
 「場所を替えてお話しましょう。この汚いホテルはうしろ暗い密会に最適だわ」
 一週間前、タニヤ通りの鈴木の店でも同じような所業に耽っていた強姦魔は、いつしか手錬手管に長けた色事師に立場を変えていた。


  打ち上げ花火が新しい年の到来を告げてから七時間が経つと、薔薇色に染まる南国の朝焼けに真紅の太陽が顔をのぞかせた。本来所属しているべき時代から、また一歩、未来へ遠ざかってしまった有佳は、いつもより早めに目を覚ますと、初日に手を合わせようと思ってベランダへ出た。いつになく、ひっそりしたバンコクの街並みが、清涼な霞の底に沈んでいる。
 「朝っぱらから、何をやってるんだ?」
 新年早々、口から心臓が飛び出しそうになるくらい驚いた。 ベランダの隅では、雑種犬と太った猫にペットフードをやる先客がしゃがみこんでいたのだ。
 「もう!せっかく初日の出を心静かに拝もうと思っていたのに」
 「未熟者」
 大の男はまごつく少女を哀れんだ、
 「一年の計は元旦にあり。本年は平常心を涵養するので、何が起きても決して怒らないことに決めたぞ」
 「エイプリルフールは三ヶ月あとよ」
 ステファニーとしゃべっているのか?島崎は、書き物があるので年末年始をナコンサワンで過ごす、と言って数日前から家を空けている妻の残像と、真顔で皮肉を言う有佳の姿をしばし重ね合わせていた。
 「昼が夜になる。夜が昼になる。そんな一瞬の境界線をトワイライトゾーンという。太陽が健康の象徴なら、月は芳しき退廃と死を司る神秘の証かも知れない。長らく死神を守護神と崇めてきたこのおれは、黒い血潮の呪縛を断ち切って、昼組になることができるだろうか」
 即興詩人は、いつになく素直で頼りない声色だった。
 「後悔しているんだね。いままでの危険な生活を」
 腕組みする有佳がしみじみ相槌をうつと、ぼんやり太陽を見つめる島崎は、しきりに瞼をひくつかせた。不良の改心を見守る学級委員の面持ちで有佳はやさしく声をかけた。
 「きっとできるよ。やり直してみよう」
 あくびをして、間延びした声で島崎がいった、
 「死神には勝てても睡魔にはかなわない。やっぱり、眠ろう」
 背中を丸めて部屋に戻ると、ポチとタマの寝床にならべたダンボールの上に横たわった、
 「夜型人間は一晩中漫画を読んでいたので、これから寝ます」
 「寝正月がご希望なら、最初からそう言えばいいでしょう!」
 口をへの字に曲げ、細い眉毛を逆立てながら目をむく有佳は、近くにあったトイレットペーパーを島崎の背中にたたきつけた。






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