* この物語はフィクションであり、登場する人物、企業、
団体、一部政府機関の名称は架空のものです(著者)。




第十四話




  【第二章】


 島崎が語るソムチャイ・ポラカンの一代記には、あたかも煙たい舅を揶揄するような調子がこめられており、荘重な哀惜はまったくなかった。興醒めを強いられて、有佳は物憂い面差しで口をつぐんだ。
 「日が暮れたから、うちに帰るよ」
 暮れなずむ西の空には、仄かな紅色に染まった雲のかけらがスポンジのように横たわっていた。有佳は暇乞いするように水浴びを続けている野原の象を見つめながら頷いた。所有者が大のタバコ嫌いなので、BMWの車内は禁煙である。チャトチャクに着くまでニコチンを絶やさないよう、乗車に先立ち島崎は意地汚くその場で二本を吸い継ぐと、軒先で佇むおかみさんに手を振って車のドアをあけたが、ふいに動作を止めた。空気の流れを嗅ぎわけながら静かな口調で有佳に言いつけた、
 「おまえは下宿屋に引き返せ。そしたら門扉を内側からしっかり閉めるんだ」
 塀際の物陰から異様な殺気が迸っていた。息を殺して佇む人間の影がちらついている。しかし助手席の開錠を待っていた有佳には島崎の意図が呑み込めない。男のいつになく沈鬱な低い声が、佇む少女を急き立てた、
 「ぐずぐずするな。さっさと言われたとおりにするんだ」
 何を遠慮していたのか、小さなほうの人影が門扉へ逃げ込んだのを見計らい、格子模様の綿布を顔に巻きつけた男が電柱のうしろから飛び出して、島崎に襲い掛かった。身のこなしはかなり速い。握り拳が鼻先を掠め、かわしたところで俊敏なキックが島崎のわき腹を痛撃した。咄嗟に腹筋を固めたが、ダメージは決して小さくなかった。島崎の背中が目立って深く前へとのめり込んだ。
 「康くん!」
 有佳の悲痛なさけび声は、呼吸を読んで当身をくらった当事者にしてみると、大袈裟だった。
 「さわぐな」
 身体を低く崩しながら島崎は見切っていた。第一撃で露見した襲撃者の技は一本調子のムエタイである。足払いをかけると計算どおりに外された。男はまんまと島崎の懐に踏み込んできた。間髪いれず、防戦者は肘鉄、膝蹴り、張り手、小気味よいキックを順繰りにはじき出し、背負い投げで罠にかかった襲撃者を路面に熨していた。格闘の合間の深呼吸。腋臭がツンと鼻を衝いた。島崎は手刀を相手の喉にあてたまま、おもむろに相好を崩した、
 「しばらくぶりだな。ずいぶん腕を上げたじゃないか、タロ」
 殺されかけている暴漢は、ふてぶてしい忍び笑いを漏らした、
 「ずっとどこへ行ってやがったんだよ、チマ兄哥?」
 覆面を毟ると、蟹を連想させる眉間の広いニキビ面が現れる。鼻血を流しながらも懐かしそうにふやけた。門扉の中からおかみさんが身元の割れた通り魔を叱り飛ばした、
 「なんだい、タロかい。おどろかすんじゃないよ」
 スクムビット101/1で名前が通った札付きのろくでなしは、渾名をタロという。タロとは、本来“喧嘩”を意味するタイ語だが、語呂がよいので島崎はかくべつこの若者に、「太郎」という日本名を授けていた、
 「この暴力小僧め。いつまでも寝てないでさっさと起きろ」
 島崎は尻餅をつきながら、仰向けのまま呼吸を整えるタロの額をしたたかに小突いた。
 「まだ兄哥には勝てないなあ。くやしい」
 敗者は口走りながら、のそりと身を起こした。
 「しかしおまえ、堅気になったのか?偉いな」
 お守りのクルアン(仏像のペンダント)がはみ出す作業着の胸元に自動車メーカーのワッペンをみとめながら島崎がクロンティップを差し出すと、
 「タイのタバコは不味いからいらないよ」
 と、タロはつっけんどんに自分の国の製品を小馬鹿にし、自前のマイルドセブンを咥え、くたびれた作業着を省みてぼやいた、
 「この服をくれた修理工場なら先週つぶれたよ」
 工場の倒産など時節柄、とくに珍しい話しではない。
 「なんだ、それじゃこれからは太郎の上にプゥ(蟹)をつけなきゃならんな」
 日本語とタイ語を掛け合わせた駄洒落を理解できる者は周囲にひとりもいなかった。ひとり受けして、島崎は声をあげて笑った。
 「ひどいじゃないか。笑ってないで何とかしてくれよ。このままじゃ、おれ、またワルに戻らないと食っていけないよ」
 タロの理不尽な他力本願は、この国の人間である以上、特筆される性格ではない。
 「おまえの身の振り方なんか、おれの知ったことじゃない」
 善きにつけ悪しきにつけ、他人が置かれた境涯への無関心も、また然りである。島崎は、郷に従った。
 「つれないことを言うな。給料がいい日本企業がいい。どこか兄貴の知り合いの会社で求人しているところ、ないか?」
 腹が立つほど、虫のよい就職斡旋要求だった。
 「ない」
 言い捨てて、島崎は続けた、
 「そういう軽薄な料簡が気に食わない。サイアムの神さまはちゃんと非国民の腹をお見通しだよ。常日頃、タイ人のくせにメイドイン・タイランドを馬鹿にしている報いだ。ざまあみろ」
 ここで気後れするほどタイ人のスタンダートは奥ゆかしくない、
 「頼むよ。どこか紹介してくれよ。カクテルラウンジの用心棒でも、クスリの運び屋でも、どんな仕事でも真面目に励むからさ」
 笑いかけた顔を氷結させて、島崎は空の胸ポケットを覗き、まだよく事態が飲み込めず門扉の中で顔を強張らせている有佳を省みた、
 「ねえ、彼女。おれの携帯電話、そこらへんに落ちていないか?」
 有佳は足元に転がっていた電話を拾い上げると、門扉をあけ、コンクリートに胡座をかく野蛮なボスに、いそいそと新米の秘書のような仕草で差し出した。
 「おまえみたいな総合バカ指数百パーセントを雇うお人好し企業なんか、広いクルンテープを見渡しても一軒しかないぞ」
 唇を閉ざした有佳に相談するわけでもなく、日本語でぶつぶつ言いながら島崎は番号を押した、
 「井坂さん。活きのいい兵隊一匹要らない?」
 『いらない』
 「工業専門学校を退学になっている奴なんだけど、つい最近まで自動車の修理工をやっていたらしい。月給はローカル相場の四千バーツぽっきり。過労死させても家族はいないので、補償無用」
 『過労死させられるくらい繁盛してりゃ苦労はせんわ。そいつ、英語はしゃべれるのか?』
 島崎は、口篭もった、
 「ワン、ツー、スリーまでなら数字を数えられるんじゃないでしょうか」
 『はなから期待しとりゃせん』
 「だったら何も無体な質問をすることないでしょう。とにかく頭の程度はブルーカラーモードで“中の下”。だけど愛飲するタバコはマイルドセブン。タバコ嫌いの姐ちゃん社員たちから総スカンを喰らっている社長にとっては、良き従僕たりえます。体力と腕っ節なら小生が保証します」
 『しょうがないな。それじゃ兵隊に週明けの月曜日、事務所に来るよう言うてみ。使い走り兼任の整備係でよかったら、まあ、一匹くらい飼うてやってもええわ』
 電話を切ると島崎はそわそわしているタロを冷ややかな横目で追った、
 「鉄は熱いうちに打て。来週と言わず、オッサンの気が変わらない今夜のうちに鎹を打ち込んで来てやるから、いますぐ履歴書を書くんだ。いいな、間違っても特技欄に"FAX"なんて書くんじゃないぞ。おれまでバカにされてしまうからな」
 「どんな仕事だ?チーフエンジニア?それともマネージャー?」
 嬉しそうに身を乗り出す若者の額に、島崎は道端に転がっていた栄養ドリンクの空き瓶を叩きつけた、
 「足軽奉公に励んでしばらく頭を冷して来い」

 BMWは、平日の同じ時刻より渋滞が大人しいスクムビット通りを西に向かって走った。
 「よもや、二日続けて井坂のオッチャンと顔を合わす破目になるとは思わなんだ」
 タロに書かせた履歴書を井坂のマンションへ届けるため、帰路は首都高速を外し、一般道路を選んだ。会社はひなびた新開地に置いているけれど、井坂の住まいは昼夜を問わず賑やかなスクムビット通りのソーイ五である。
 大きな橋が架かるプラカノン運河の船着場を通過したところで、車窓を流れるあかるい雑貨市場を眺めながら、有佳は能動的な調子で訊いた、
 「康くんの友達なの?さっきの乱暴な人」
 「見くびるな。タロは舎弟。おれのほうが格上だ」
 「そんなに、いばらなくてもいいよ」
 「茶々をいれるな。タイに来たばかりの頃、いっぺんあいつと大喧嘩してな。おれだけブタ箱に抛り込まれたわけだが、それ以来、なんとなく仲良くなった」
 対向車のライトに照らされる有佳の顔に表情はなかった。
 「あんな現れ方をされちゃ、おまえでなくとも驚くな」
 「康くんでも、そう思うんだ」
 「おれは常識があるからな。しかし、あれでこそ、格闘技マニアの挨拶というものだ」
 「康くんも格闘技マニアなの?」
 必然性のない暴力まで習慣と決め付けられては、純粋な格闘技ファンが迷惑するかも知れない。
 「おれは違う。生きるために必要な程度は嗜むけれど」
 フロントガラスを正視したまま、有佳は言う、
 「すごくこわかった」
 「おれもびびったよ」
 言葉とは裏腹に、有佳の眼差しは醒めていた、
 「暴力がじゃなくて、あのタロって人が、康くんを、どこか遠くの世界へ連れて行ってしまいそうな気がしたの」
 思春期の少女にありがちな情緒不安定は感じられなかった。むしろ、薄気味悪いほど落ち着き払った声色だった。


 東京からバンコクへ移り住んで間もない島崎は、ぼったくりのカフェでコーラを一杯ひっかけた。メニューに三十と書いてあったコーラの清算をしようと二十バーツ紙幣を二枚出したところ、三十USドルを請求されて激昂し、店の用心棒グループを相手に大立ち回りを演じている。なにしろ、自暴自棄にすさびきっていた時期だから、やることなすこと、すべてがめちゃくちゃだった。
 タロは、そんな徒党のリーダー格だった。思いがけない反撃に面食らった子分が全滅しても踏み止まり、パトカーが駆けつけるまで島崎とお互い血まみれになって殴り合った。どんなに正当な言い分があろうと、外国人は決して地元民に勝てないように設定されているのがタイ国の法体系であり、かてて加えて、喧嘩相手のうちの四人が救急病院に担ぎ込まれた以上、島崎の過失は覆うべくもなかった。
 保釈に際してソムチャイ・ポラカンが島崎の身元保証人になってくれた。そして巷の喧嘩沙汰にはずいぶんお門違いな法律事務所を取り仕切る友人をさびれた警察署へ送り込んできた。所長弁護士が別室で警察署幹部との折衝にはいると、鞄持ちとして同行して来た学生服を纏うコーカソイド風の娘が小脇にファイルをかかえ、面会室にあらわれた。
 こざっぱりした襟元に重たい大学のバッヂをぶら下げる見習い法律家は、面会室の硬い長椅子に腰掛けて、檻から引き出された野獣を上目遣いにあらためると、金属質な声色で、「Could you ....」 と言いかけ、「タイ語、しゃべれますか?」 と、やわらかな土地の女言葉へ切り替えた。収監者は、「うん・・・」と、日本式に唸って頷いた。日本人にとっては何の変哲もない朴訥な応答だが、その語感はタイ人、とりわけて若い女の母性本能をくすぐる効果がふくまれているらしい、
 「ウンッ!」
 可笑しそうに口真似すると、細い指でペンを執り、保釈申請書類のフォーマットに向かう女学生は面持を引き締めた、
 「チマ、サキィ、コチ?」
 と、まず氏名を確認する。
 「シマザキコウジ、でございます」
 慇懃無礼に、島崎はまだよくこなれていないタイ語で反駁した。
 「スィマズァキ...なによ、あなたの苗字は発音が難しいわね。名前は、コォチィ」
 言いかけて、バタくさい容貌が不釣合いなほど初心な娘は赤面した、
 「やだっ!」
 自分の名前を呼ぶ不正確な発音が導き出した下品なタイ語に、島崎は思わず吹き出した。“コォ”という所望の動詞には、「下さい」の他に 「〜させて下さい」の意味がある。そして、“チィ”は「小水」をさす。
 「ガギグゲゴとザジズゼゾ...これが正確に発声できるタイ人はめったに居りませんからマイペンライ、お気になさらずに」
 「へんなひと」
 ペンを尖った鼻頭にあて、気を取り直した女学生はくすくす笑った。こんな屈託のない不調和音のやりとりは、過去十年くらいまで遡ってみなければ記憶がない。惨めな亡命者は、切なくも、ほのぼのと天に立ち昇るような気分に浸りながら、手続き上の質問に答えた。書類が整うと弁護士のアシスタントは立ち上がり、島崎は深々と頭を垂れた。ややあって、ソムチャイ事務所から迎えの者が来ると、役目を終えた一組の会話が衝立の向こう側を遠ざかった、
 「こんなところに収監される人なのに、意外とお行儀がいいんですのね」
 「そりゃそうだろう。彼は“礼節の国のサムライ”なんだから...」
 この無邪気な女学生が、のちに島崎の妻になっている。結果的にではあるけれど、この上なく滑稽な舞台を誂えて島崎を初めてステファニーという女に引き合わせたのはタロ達だった、と言えなくもない。だがタロの「功名」は、その間三次元世界を留守にしていた有佳にとって、性差ある友達との別離を決定付けている。成りは半玉でもタロを歓迎できないのが女の本能だった。
 「太郎はくだらないやつだけど、根っからのワルじゃないよ。むしろこの国の人間にしちゃ、拍子抜けするくらいお人好しの単細胞だ」
 対向車線にソーイ五十三の樹木がおおい茂る入り口をみとめながらも素通りする島崎のハンドル捌きは、ぎこちなかった。バンコクの道路は、左右のソーイが奇数と偶数で分けられている。東西をはしるスクムビットだと、大雑把な開発が進む南側が偶数、すでに住宅地と商業地区の住み分けが整った北側は奇数だった。街の中心部が近づくに連れて、ソーイの番号と夜陰が漸減し、間もなくBMWの行く手に華やいだネオンの洪水が満ち溢れた。
 「このスクムビットという道路はめっぽう長くてな、反対側へどんどん行くとトレア村のあるカンボジアだ」
 うしろを振り返える有佳は、陰惨な面持で島崎に訊いた、
 「あの学級新聞のこと、おぼえているの?康くんには大昔の話しでしょう?」
 かつて新聞を読む習慣がなかった少年は自嘲気味にいった、
 「そうだよ、小難しい話が好きなおばさん」
 まず島崎は割符をかねた揶揄を有佳にあびせた。
 「四年生になったばかりのころ、担任の先生が言っていたな、“プノンペンという街が解放されて、ずっと戦争が続いていたインドシナにようやく平和が訪れた”。もちろん当時のおれは興味なかった。ところが五年生になると班ごとに学級新聞を作ることになった。クラスのことだけ書いておけばいいものを、四角四面の女がひとり、カンボジアで起きている虐殺を記事にした。カンボジアの国民が誰にどれだけ殺されようが、おれには関わりのないことだ。しかし五年と二ヶ月を通して、その女が先生に叱られるところを見たのはその時だけだった。だから、よくおぼえている」
 「カンボジアでは、まだ大勢の人が殺されているのかしら?」
 「もうあんな派手な真似をする力はないけれど、おまえが人類愛ゆえに憎んだ連中は、サファイアの原石をタイの商人に売りながらちゃんと生き延びているよ。カンボジアのサファイアは、先進国の小金持ちが高いゼニを払って買うからな」
 無力感につつまれる有佳は、くぐもった低い声で、ふしぎそうにつぶやいた、
 「ここ。あたし、前に来たことがある?」
 島崎はあかるく茶化した、
 「ジャズが好きなパパとガチャ子が好きなママに連れられてバンコクへ来たのか?」
 「ううん。そんなわけないよね」
 かぶりを振って、有佳は言葉尻を濁した。
 「よしんば来たことがあるとしても、二十年も前じゃ景色なんかまるで違っているだろう。なにしろおれが知っている十五年前だって、ここらへん一帯はじつに草深い、いつコブラが出て来てもおかしくない空き地ばかりだった」
 「そうだよね。康くんといっしょにバンコクの街へ出るの、まだ二回目だもんね」
 夜の帳が、潤みだした有佳の瞳をぞっとするほど美しく引き立てていた、
 「へんなの。この景色を見ていると、なんだかかなしくなってくるの。本当よ」
 政治家やヤクザの腹芸は理にかなっているので覗き見も容易である。ところが乙女の心には、海の物とも山の物ともつかないリリシズムの魔物が数多く住み着いている。齢三十を過ぎてふたたび有佳とめぐり逢い、それがよくわかった。迷わず、島崎は逃げを打つことにした、
 「ディジャブ。既視感ともいう。おれにもよくそんな錯覚が起こる」
 実際のところ、島崎にもささやかな思い違いがあった。すでに何週間もこうして有佳と連れ立ってバンコクをふらふらしているような気でいたけれど、なんのことはない、ラップラオ六十四ソーイで象の親子を観たのは僅かに三日前のことだし、シロム通りのホテルで朝食を摂ったのはつい昨日の出来事である。なのに、有佳ときたら、島崎の相棒ぶりがすっかり板についていた。
 「人間の心理とは面妖なものですなぁ...老師」
 バックミラーの奥へ遠ざかる対向車線の31/1ソーイを見送りながら、今し方訪問して来たばかりのような錯覚をいだくソムチャイ・ポラカンの幻影に、島崎は懇ろに語りかけた。
 「ねえ、康くん」
 「はい。あらたまった調子で、何だね?」
 「この前、ううん、むかし南太平洋で見つかった恐竜の死骸があったでしょう?そのことは覚えている?」
 「ニュージーランド沖で日本漁船が釣り上げた“プレシオサウルス”のことか?」
 これは印象深いニュースだったこともあり、島崎は淀みなく言った。安心したように有佳は小声で「うん」と諾った。
 「じつは恐竜でも、他のUMAでもなかったよ。ただのウバザメだったそうだ」
 多くの小学生を落胆させた鑑定結果は、有佳が失踪したあとに発表されている。
 「そうだったの。ちょっと、がっかり」
 しかしその声色は決して暗いものではなかった、
 「あたしの神隠しも、きっといつの日か、どうして起きたのか、わかるよね?」
 「ネギはちゃんとこうして生きていた。だから、永遠に神隠しのメカニズムが解明されなくったて構わない。ウバザメをプレシオサウルスと思い込んでいるあいだは、おれも幸せだった」
 東はカンボジア国境まで及ぶスクムビット通りが、プルンチット通りと名称をあらためる高速道路の下で車をUターンさせると、島崎はいきおいソーイの三へ左折し、クラクションを無遠慮に鳴らしては、歩行者に道を開けさせる、
 「ずっと東南アジアに住んでいた日本人は、帰国するとあっと言う間に免許がなくなるらしいぞ。東京でこういう身に染みついた横柄な運転をやらかそうものなら、すぐにおまわりが赤切符を持ってすっ飛んで来る」
 それでも、白けた調子で付け加えた、
 「日本で取ったおれの免許証はとっくに失効しているけれど」
 有佳は車にも、免許にも関心がない。ただ、島崎に同情するような相槌を打って、路上を往来する異形の大男たちに好奇心をしめした、
 「外を歩いている人たちは、タイ人なの?」
 「違う。タイ国民も少しは混ざっているかも知れないけれど、ほとんどはアラビア半島やインド周辺の国からやって来たイスラム教徒。マレー系のやつも若干いる」
 バンコクには、多種多様な『異国』が点在している。華人系のタイ人の多さゆえ境界線があやふやなチャイナタウンをはじめ、タニヤやスクムビット三十番台の日本人世界があり、韓国人、欧米人やユダヤ人もそれぞれ自分たちの縄張りを持っている。そんな勢力分布の中で、スクムビットの第三小路は、“ソーイ・ケーク(客)”と総称される回教徒やインド人が蠢く異色の横丁だった。そして、こんなソーイの奥まった一角に、地主の屈折したタイ・ナショナリズムを象徴するかのような洋式賃貸マンションが建っている。井坂の住まいは六階だった。中堅ホテルのそれを思わせるロビーの奥のレセプションから、
 「サワッディカァ(ごきげんよう)」
 と、紺のブレザーにネクタイをつけた係の女が、甘ったるい声色でふたりに挨拶した。カウンターに置かれた内線電話を前にして、井坂のつまらない駄洒落を思い出した島崎は、いたずら心を起こして、有佳の二の腕を小突いた、
 「この姐ちゃんに、“くん井坂ゆうまい、か?”って、きいてごらん」
 もじもじしながらも、有佳は生まれて初めてのタイ語を紋切り型に押し出した、
 「くん、イサカ、ゆーまい、か(井坂さんはいますか)?」
 すると、若い女はにこやかに答えた、
 「ユウカァ(いますよ)」
 それが有佳にとって現地人と交わす最初のタイ語になった。井坂本人は外出していたけれど、底抜けに愛想の好い夫人が不意の来訪者の二人連れを迎えてくれた。タロの履歴書だけ預けて引き揚げようとすると、アヤさん(日本人家庭で働くメイドの総称)が手際よく冷たい日本の麦茶を運んできた。
 「なんでかな?お医者さんの部屋みたい」
 いびつな五角形の居間に通されると、観察力に長けた有佳は、探偵めいた仕草で丸い氷が揺れるコップを手にしたまま呟いた。壁際に並べ置かれた本棚には医学書の背表紙がぎっしり詰まっている。
 「井坂さんは医学部を出ているんだよ」
 言いながら、島崎は勝手に真新しい医学書の数冊を引っこ抜いてぱらぱらと目を通し、説明を続けた、
 「本人はもともと海外へ出たかったらしいけれど、親爺さんが県下で屈指の個人病院を経営していた。家業だから、しょうがない。大阪の医大へ行って、ちゃんとインターンも勤めて、医者の免状を貰った。しかし勘当されても、やっぱり貿易商になる夢を捨てきれなかったんだな、井坂のオッチャンは」
 「見た目よりすごい人なんだね、井坂さんって」
 どこか拍子抜けしたトラフグ顔を思い浮かべて、有佳は驚嘆したのだろう。島崎は単調にいった、
 「それほど珍しい経歴でもないよ。この街で自力で旗揚げしている日本人の中にはけっこういるんだぜ、井坂さんみたいな畑違いの人たちがさ」
 井坂がバンコクの自宅で医学書をひも解こうとするのは、稼業に背を向けた良心の呵責とも思えなかった。どちらかと言えば、高級な趣味かも知れない。本国で暮らしているとつい他人任せになりがちなことでも、ひとたび海を越えてしまうと、自分で片付けていったほうが無難であったりする。病院通いもまた然りだった。もっとも、バンコクの総合病院というのは、どこも近代的な設備を揃え、手堅いカリキュラムを修了したスタッフが大勢いるので、日本人を呆れさせるような医療ミスが発生したためしもないけれど、軽い病気や怪我なら本人が対処できるに越したことはない。熱病の新しい治療方法や雑菌がもたらす疾病の症例をいくつか頭に仕入れると、島崎は本棚の下段へ目を遣った。UFOやらUMAといった、怪しげな見出しが躍る雑誌のムック版がならんでいる。超常現象に手向ける関心は、井坂の子供じみた横顔だった。島崎がこの居間に立ち入るのは初めてではなかったし、これらの書籍もずっと以前からそこにあったはずだが、眼中になかった。
 「見てはならぬものを見てしまったみたいだぞ」
 有佳との再会が、島崎の意識を変えていた。そうするうちに、家の主が帰宅した。
 「なんや、おまえら来とったんかいな」
 歩いての外出だったらしい。肥えた体は汗まみれだった。
 「お。有佳ちゃんも一緒やな」
 ぺこりと頭を下げる有佳は、たいそう井坂に気に入られていたが、話しかける対象はあくまでも島崎だった、
 「福原のオッサンから呼び出しを受けての。向かいのトレーディングホテルへ行って来た」
 タロの履歴書を受け取り一瞥すると、井坂はおもむろに言った。
 「福原?・・・ナコンナヨクでコーヒーを栽培している人?」
 「せや。サリカ茶房の招き狸」
 以前パッポンで追い込みをかけた時、集合場所になった喫茶店がある。その店の経営者は、福原という、曲者揃いの邦人社会でもひときわ灰汁が強い事業家だった。
 「そりゃまた唐突に懐かしい名前が出てきたもんだ」
 島崎は眩しげに目を細めた、
 「何年か前、福原さんの商売に一枚噛んで、おれも新参の日系企業にゴルフ場の会員権を押し売りして歩いたことがありますよ」
 「お前もつくずく節操がない男やな」
 井坂は諦めたように二重顎をのぞかせた。
 「とにかく食っていかにゃならんのでね」
 井坂はさしあたり、島崎が経験を通して培った福原の人物像を持ち合わせていることに満足したようだ。会話が大幅に短縮できる、
 「景気がわるいさけ、群小の日本人企業家で連合体をつくって不況の波を乗り切ろう、って誘われた」
 「ほう。さっそく本性を剥き出しにしてきたか」
 本人に面と向かって持ちかけるくらいだから、それほど悪質ではないけれど、これも一種の企業買収、すなわち乗っ取りである。
 「グループ・カンパニーの思想は、タイじゃ当たり前の経営スタイルですからね。それ自体は理不尽な提案じゃない。それで、条件は?」
 胡散臭いビジネス話しもバンコクじゃ当たり前。騙されて元々、といった前提に立脚して案件は大真面目に検討されていく。
 「うちの経営規模だと、支度金として二千万バーツ、くれるそうや」
 井坂の抑揚を欠いた口ぶりは、福原が”No”という回答を受け取ったことを意味している。島崎は構えて交渉の結末を問わなかった、
 「なかなか良心的な金額じゃないですか。でも、一体誰がこのご時世にそんな大金をポンと出せるわけ?」
 島崎とて、はなから福原本人にそれだけの資金調達力があるとは思っていない。
 「バックは川本だとか、福原は言うとった」
 「何者なの、その川本ってのは?」
 「それがさっぱりわからへんから、今、こうして島ちゃんに話したのや。なんや、おまえもそいつのこと、知らんのか」
 もういっぺん頭の中を漁ってみたが、たしかにそれは島崎の脳味噌リストに記載されていない苗字だった。
 「偽名かも知れないね。本名はおそらく、四万在留邦人の誰もが知っている大物でしょう」
 「そうやな。昨日今日内地から来た資産家が福原のケツをかくというのも有り得ない。そんな美味しいカモやったら、何もわざわざ大して親しくもないこっちに融通したりせずに、自分の身内だけで骨まで平らげてしまえばええ話しやないか」
 しかし、これといった該当者に思い当たらないのは、島崎も井坂も変わりがなかった。入れ替わりの激しい町だけに、非凡な力量を備えた新参者である可能性も否定できなかった。
 ときに、福原グループは、バンコクに数ある”裏日本人会”の中でも、五本の指に列せられるほどの勢力を誇っていた。ところがそんな連中が突然得体の知れないスポンサーを担ぎ出して、備中興産タイランドのような、さして目覚しい業績があるわけでもない商社を手に入れようと動き出したことに対して、島崎ばかりでなく、井坂自身も興味をいだいているらしい。梅茶漬けが運ばれてくるに及んで、二人の男は周波数を切り替えた、
 「やっぱり、自閉症には見えんの」
 島崎の隠し子と紹介されている娘に夕餉を勧めながら、井坂が言った、
 「どこか学校へ行かせてみたらどうや。いつも不良親父と一緒にブラブラしているようじゃ、畢竟、この子のためにならんやないか」
 「はいはい。ご親切なアドバイス、肝に銘じておきますわい」
 帰り際、井坂夫人は帰国した娘が置いていった本や雑誌を有佳に選んで持っていくよう勧めてくれた。とりわけて雑誌類は時代感覚の調整にうってつけの教材である。有佳は社長令嬢と体型が似ているらしく、平成の女の子にふさわしい衣類もどっさり手に入れた。







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