* この物語はフィクションであり、登場する人物、企業、
団体、一部政府機関の名称は架空のものです(著者)。




第十五話




 コンドミニアムの駐車場に、フォレスターはまだ見当たらなかった。
 眠気を訴えて有佳がゲストルームに引き篭もると、島崎は久しぶりにひとりきりの時間を満喫した。居間の照明を琥珀色のスタンドにおとして、スリリングな曲調のフレンチポップスをBGMに、タバコを咥えてベランダに佇むと、生温い夜風を浴びながら、東南アジア屈指の大都会をぼんやり見つめた。ばかばかしいハードボイルドごっこだが、気分は冷め切っていた。有佳のことも、過去の記憶も、未来への夢想も、島崎の人生の裾野はブラックホールの特異点に収斂されて、視界は卑属な項目へ絞り込まれていく。沢村秀一や鈴木隆央といった名前が間歇泉のように噴き出して、これに福原が加わり、未知なる川本を取り巻きながら、頭の中で乱舞した。
 ___ 川本とは一体誰なんだろう?
 バンコクは、そこで生きる日本人にとって、狭い街だった。ここで踊り狂う面々には、かならず何らかの因果関係がある。夜景を前にする島崎は、時が経つのも忘れて生身のジクソーパズルに没頭した。
 日付が変わる直前になって、カーディガンジャケットを肩に引っ掛けるステファニーが帰宅した。ベランダの人影を見咎めて、
 「タバコを吸っているの?」
 と、間延びしきったあばずれ調子で訊く。
 「うん」
 振り向きもせず、島崎はぶっきらぼうに返事する。暗がりの中からステファニーは翌朝のサイアムポストを差し出した。
 「キョクトウ化成はコウの告訴を取り下げるわ」
 月明かりは、英字新聞の活字を拾い読みするのに不足がなかった。渡された日曜版の一面には、
 『チョンブリ県の海の畸形魚を検証する』
 と、大きな見出しがあった。しかも、本文とは関係ありません、と但し書きを打ちながらも、豪快なイメージ写真に使われているのは極東化成チョンブリ工場の遠景だった。
 「大学時代の友達が記者をしているのよ」
 「いやらしいお節介を焼いてくれて、どうもありがとう」
 「どういたしまして。でも、先方は泣き寝入りをするんだから、コウもならず者の所業を差し控えなさい」
 英字紙に写真が出てしまった以上、極東化成は世間の手前、余計ないざこざを避けなければならない反面、恐喝を受ける理由も霧散する。一方の島崎はタイ司法当局による追求から逃れる代わりに、数ヶ月を費やして進めてきた仕事を徒労と弁えなければならなかった。
 「やれやれ、明日からバーテンダーの仕事を探すとしよう」
 「いいわね。友達を連れてごちそうになりに行くわ。ヌンが好きなカクテルはブラッディマリー。覚えておいて」
 「店に来たら、オーダーしてくれ。不吉な名前は、なるべく覚えていたくない」
 「ヌンも同じよ」
 夫の皮肉をさらりと受け流すステファニーが段取りしたのは、極東化成との、暗黙の示談だった。


 クリスマスイブの夕方だった。鈴木隆央の事務所は、いつになく人の出入りがはげしかった。今週にはいって突然、経営の傾いた飲食店を数軒、現金で買収したのだから無理もなかった。早速擁立されたお飾りのタイ人経営者がは、夜が更けても応接スペースで税理士や会計士と話し合いを続けていた。
 社長室、と銘打たれた仕切り壁の内側には、下のフロアから武藤が尋ねて来ていた。
 「なあ。福原さんも、あんたには本当に情れないことをした、って悔いている。ここはひとつ、おれの顔を立てると思って、一緒に福原さんのところに身を寄せてはくれないか」
 応対する鈴木は涼しげに問い質した。
 「おれの店にポリ公を差し向けていたのは篠塚さん、やなかったか?」
 しゃべり過ぎたと悔いる武藤は、卑屈に笑って取り繕った。もっとも、鈴木は意に介さない。
 「しょせん、この世は持ちつ持たれつ。一匹狼と突っ張ったところで、入って来るゼニは高が知れている。ええで、過ぎたことは水に流そうやないか」
 鈴木隆央が四億円と再会した、という噂が、まことしやかにタニヤ界隈で流れていた。根拠はなかったが、沢村は地方出張の名目で領事館を留守にることが多くなり、一方の鈴木は羽振りがよい。これまで、その四億円目当てに沢村との関係を固めようと、鈴木攻撃の急先鋒に立っていた福原は、手のひらを返して懐柔策を模索した。
 鈴木と親しい武藤を差し向けたのは、そのためである。対応は迅速だった。
 閉店時刻が迫ったサリカ茶房では、恰幅の良い初老男が、にこやかに鈴木を待っていた。
 「押忍、おやっさん。連れて来ましたぜ」
 武藤はサリカ茶房のオーナーと接する時、福原組の若頭、と言わんばかりの大きな態度をとりたがる。これが余人にとって、彼の軽薄な印象と結びつくわけだが、武藤本人は、すっかり東映ヤクザ路線に浸りきっていた。
 「おう、鈴木くん。えらい目に遭ったのお。しかし、もう心配は要らん。この福原が、あんたの後ろにつくんじゃけん」
 「その節は、小父さんにも、えらいご心配をおかけしました。そやけど、ご承知の通り、辛うじて持ち直しましたわ」
 心にもない挨拶が交わされると、福原は機嫌よく、鈴木を事務所へ誘った。
 「なら、ええがの。よく来てくれたの。ま、こっちへ」
 当の鈴木自身からして、キツネにつままれた気分だった。
 あの、無茶を無茶と思わない男は、五百万バーツの現金を鈴木に預け、店を数軒買収して欲しい、と持ち掛けてきた。ただし、ビジネスの条件は福原と関係を修復し、以後、水面下で自分に協力すること。最終的な報酬は、その実、いまだ行く方のわからない四億円。自分自身は沢村の生命を貰い受ける、と物騒な提案をしていた。沢村の首に、五百万バーツの先行投資と、四億円を丸投げするだけの値打ちがあるとも思えなかったが、夜のバンコクで蠢く異邦人には、それぞれ詮索すべきでない事情がある。いずれにしても、男の目論見は魅力的だった。彼が置いていった手がかりは、鈴木にとって、着実に好ましい転機をもたらしつつあった。

 大量の郵便物を抱えて島崎が部屋に戻ると、ブラウン管を賑わせていた軽薄なワイドショー番組が中断して、国王賛歌が流れはじめた。国歌である。民生に活躍する王族の姿を中心に、僧侶がおごそかに行進し、陸海空軍の勇ましいデモンストレーションがテレビの画面を盛り上げる。国旗の精神を地でいくような“時報”だった。
 「ああ、一日が早い。もう六時だよ」
 レセプションから受け取ってきた郵便物を仕分けしながら島崎はぼやいた。手元には洒落た封筒が目立つ。クリスマスカードの類だった。九割以上は妻宛で、島崎の分は商業的な数通と、知らない女名の一通だけだった。
 「いかん。これは風呂屋の雌鶏だ。ここまで尾行しやがったのか」
 色っぽいタイ美人のイメージが描かれたカードを島崎は慌てて封筒にしまい込み、ベランダから投げ捨てた。見上げる空は紫色になっていた。傍らの一人芝居を無視し
て、目線をテレビに釘付けにしていた有佳が火を噴く速射砲を指しながら訊いた、
 「タイって軍国主義なの?なんだか、どのテレビ局も戦前の日本みたい」
 「戦前の日本には、テレビはありません」
 ステファニーの肩透かしで、極東化成チォンブリ工場を恐喝し損ねた島崎は、しばらく開店休業を決め込んだ。不貞寝といってもいいかも知れない。ゴールデンゲートアパートメントではまったく観る習慣がなかったのに、ひねもすソファにごろ寝しては、つけっぱなしにしたテレビを関心なく眺めていた。温くなったコーヒー牛乳をすすって、島崎は前置きした、
 「平均的な国だと思うぞ。地続きの国というのは昔から、朝起きてみると国境上に隣国の軍隊がうじゃうじゃ集結していた、なんて話しはザラだからな。飛行機がこれだけ飛んでいる時代になってもまだ、外国は海の向こう側、などと認識しているおれたち日本人より、ずっと真面目に国際情勢を読もうとしているよ。国防意識はその結論に過ぎないだろう」
 言いながら島崎は思った。いくらなんでも、テレビ局のほとんどを陸軍が経営しているタイという国は、やっぱり異常な国かも知れない。ちなみにエネルギーから通常の貿易業務に至るまで、あらゆるビジネスフィールドへ組織的に進出している陸軍は、しばしば心ある国民から『タイ最大の株式会社』などと揶揄されている。
 「たとえば公の場でこの音楽が流れると、歩行者も直立不動の姿勢をとって曲が終わるのを待たなければならない。共和国の韓国でも同じ風景が見られるわけだから、それが国民儀礼というものだ」 
 通り一遍の説法を聞いて、有佳がふたたび声をあげた、
 「あ!一休さん、やってる」
 国歌のあとに始まったのは、タイ語に吹き替えられた日本のアニメだった。
 「日本のマンガやドラマはそれほど珍しくないぞ」
 共通の言語を見出した気分で、島崎は解説した、
 「この作品は、おれたちが御殿山小学校で戯れていた頃、モーターボート協会のおじさんが仏教国だからという理由で、タイへ持ち込んだのだ。ところが思いがけず大歓迎されてな、それ以降、毎年何度もこうして再放映されている。おそるべきロングランだ。しかし、宗純和尚に盲目の内縁の妻がいた、なんて判ったらタイの良い子はさだめしショックを受けるだろうがね」
 げらげら笑ってから、島崎は真顔でのそりと身を起こした、
 「夕飯食いに行こう。その前に、タイのガイドブックを買ってやるよ。いちおう外国だしな。そんなものでも、ないよりかはあったほうが便利だろう」
 他愛のない用事はあくまでも外出の口実だった。こんな理由でもつくって自分を叱咤しなければ、島崎自身が暑くて排気ガスの充満する街へ出るのが億劫だった。出掛けに島崎は二通のクリスマスカードを有佳に手渡した。
 「井坂さんと、うちの奥さんからだ」
 差出人にステファニーの名前を見たときは、どういう風の吹き回しなのか、島崎もちょっと意外な気がした。有佳は平成の時代で初めて受け取った自分宛の郵便物を大切そうにポシェットへ仕舞い込んだ。
 「読まないのか?」
 「あとで、ゆっくり見る」
 バスに乗ると、座席に座っていた乗客の女が、傍らに立った有佳の手元からディパックをひったくった。
 「あ」
 ディパックを大切そうに膝に乗せる女は狼狽する少女と会釈する男に微笑むと、あらためて無関心な面持ちで車窓を眺めた。
 「これ、タイ式の親切。おまえが重そうにしているからだ」
 日本語なので、島崎は声のトーンを変えずに解説した。
 「なんだか、へんなの」
 物珍しそうにきょろきょろする有佳が次に首を傾げたのは、近くの座席に座っていた若者が、乗り込んできた家族の小さな子供に、素早く席を明渡す情景だった。席を譲られた幼児には、腰の曲がった祖父と身重の母親が一緒だった。
 「子供は元気なんだから、お年よりに席を譲らなきゃいけないのに」
 小姑めいた調子で言う有佳に、諦観をこめた顔で島崎は諭した、
 「だから言ったでしょう。日本とは違うの、習慣が」
 この街の人々はバスに乗ると、老人や妊婦、身体障害者よりも優先的に小さな子供に席を譲ろうとする。訳知り顔で言う島崎にもいまひとつ解せないバンコクのモラルだった。
 「親を見てみろ。どんなに行儀作法が悪くても、決して子供に手を上げたりしない。極端に甘やかす。だから生まれてこの方、他人はおろか両親からも叱られたことがない人間が大量生産されてしまう。この国の人間は“畜生!”と罵られると狂ったように怒るわりに、子供を人間というよりむしろ愛玩動物として養っているフシがある。おのずと成人しても人格は子供のままだ。だから、世間を広く達観した見解を持ち合わせる人士とめぐり合うのはなかなか容易ではない」
 「そうすると、ソムチャイさんというガチャ子のお父さんは、ものすごい人だったね」
 「それはどうかな?あの人は天才であると同時に、年老いた赤ん坊だったような気がする。なまじ力があるから、一度むずかると赤ん坊より厄介な存在だったけれどな」
 島崎はスラックスの後ろポケットに丸めて突っ込んであったグラビア雑誌を取り出し、美人女優のインタビュー記事を見せた、
 「好きな男性のタイプは?って質問に対して、この女、なんて答えていると思う?『わたしを愛してくれる人』だと。“タイプ”じゃないだろうが、それは。まあ、一事が万事この調子だ。タイ人というのは、どいつもこいつも自分本位で、頭が悪い。・・・タイ人というのは、まだ完全に人類に進化しきっていないのではないか、と、よく思う。見てみろ。赤ん坊を抱き上げる母親は、決まってまず鼻を近づけ、匂いを嗅いで我が子を識別している。いよいよアニマルライクだぜ」
 周囲の人々が日本語を理解しないのをよいことに、日ごろの鬱憤を晴らすかのように毒づく男の言い分を、少女は冷静に総括した、
 「人種差別」
 「ばかを言うな。いつも不当にあしらわれているのはおれたち外国人だ。毎日屋台のババアに勘定を誤魔化されている。あとで数えてみると、四五品分、余計に取られているんだ」
 「お釣りをもらっても、ちゃんと数えないですぐポケットにしまっちゃう康くんにも問題があると思うよ。テストの答案用紙を返してもらっても、ちゃんと見ないし・・・」
 殊、金銭や重要な書類をよく確認しないずぼらな性格は子供の頃からまるで変わっていなかった。反省の余地があるかも知れない。
 「もっとも、外人というのは、どこの国でも、いつの時代でも虐げられるのが世界の慣わしだから、タイがかくべつ非道な国と言うわけではない」
 結局、昨日に引き続き、今夜も島崎の亜流社会科の実学授業となる雲行きだった。極端な偏見が鼻についたが、さしあたって土地の事情を少しでも把握しておきたい有佳は、伝法を受け入れた。
 夜のプラトゥナムは、クリスマスのイルミネーションが洪水のようにあふれ返っていた。
 「タイにもクリスマスがあるんだね。いつもは烏天狗を信仰しているみたいだけれど」
 バンコク銀行の紋章にあしらわれ羽を広げるガルーダと傍らのサンタクロースを見比べながら、感心したように有佳は言う、
 「南の国のクリスマスか。なんだか冬って感じ、しないね」
 携帯電話に表示されている日付は、十二月二十四日だった。
 「何を言う。風は涼しいし、ほら、空を見ろ。ちゃんとオリオンの三つ星やカシオペア座が出ている。北半球はれっきとした冬だ」
 島崎は力説するが、脂ぎった風は生暖かいし、煌々としたネオンのため、星空を観察するのも至難の技だった。
 「このサンタさん。なんだかかわいそうだよ」
 足を止めて、有佳が季節限定のディスプレイを見上げた。大きな看板に描かれたサンタクロースはピンク色の目をしていた。コカ・コーラのコーポレートカラーを基調にした防寒衣装が、南国では見ているだけで暑苦しい。
 「うむ、やばい。この目はすでにアチラ側の世界を眺めておる」
 不意に得べかりしシドニー旅行を思った。
 「南半球は夏だから、オーストラリアじゃ赤い海パンをはいた粋筋のサンタクロースが、サーフボードに乗って波の彼方からやって来るんだ。見ていて実にすがすがしい。ところが、いつもは腹立たしいほど無節操なくせに、こういった仕来りの話しになると、タイ人の頭は途端に融通が利かなくなり、杓子定規で凝り固まる。発展途上国の限界だな」
 プラトゥナムの日系デパート・伊勢半には日本書籍を扱う紀州堂書店が入っている。週刊誌も航空便で送られてくるので、最新号が発売日の夕方には店頭に並ぶ。しかし国内の書籍流通ルートと隔絶された店舗なので、返本の利かない買取契約で商品を調達している。仕入れのリスクはおのずと価格に跳ね返り、客はおおむね邦貨の倍近い額面で購入せざるを得ない。島崎に買ってもらったばかりの初心者向けタイ語会話集を小脇に抱え、ガイドブックをめくりながら、有佳が先刻の話を蒸し返した、 「国民の九十五パーセントは敬虔な仏教徒って書いてあるよ。クリスマスカードを交換している人たちは、五パーセントなの?」
 「お宮参りで人生をはじめ、結婚式は耶蘇、死んだら坊さんにお経をあげてもらう。現世では、楽しい行事は、よそ様の宗門のものであっても手当たり次第につまみ食いする。日本人のおれに偉そうなことを言う筋合いはない。まあ、こんな無節操な国で宗教紛争が起こるいわれはない。だから、これでいいのだ」
 「タイ人も、日本人と同じなんだね」
 「連中はバンコク人だ」
 五パーセントの内訳は大部分が南部に住むイスラム教徒で、キリスト教徒は精霊を信仰する北部山岳民族と同じ程度の少数派だ。有佳は破顔一笑した、
 「大人になったね、康くん。プレゼントだけは欲しいくせに、クリスマスはGHQの陰謀だ、とか言って毛嫌いしていた“昔”が嘘みたいね」
 「誰がプレゼントなんか欲しがった?いい加減なことを言うもんじゃねえぞ」
 「図工の時間に、自分の家だけに来ないからケシカラン、とか言って空飛ぶトナカイを捕まえる矢尻を真面目に削っていて先生に叱られたの・・・忘れた?五年生の冬休みが始まる前の授業だけど」
 島崎は釈然としない面持ちで弁明に努めた、
 「じつはな、冒険ダン吉がコーラ会社のCI戦略に則った衣装を纏ってセント・ニコラウスに扮するものの、蛮公に泥棒と間違われてひどい目に遭わされる話しがあった。ようするにクリスマスは戦前から日本の社会に定着していたんだ。だから、おれも思想を緩和した」
 「戦前からあった物なら正しいわけね?やっぱり康くんはぜんぜん変わっていないよ。よかった」
 不機嫌そうに島崎は切り出した、
 「クリスマスイブだから、今夜は好きな物を食わせてやるぞ。何が食いたい?ネギが決めな」
 「急に言われても。・・・いつも行くような屋台でいいわよ」
 「安上がりな女だな、おまえ。エアコンが効いてる、とか、蝿が飛んで来ない、とか、もっと贅沢な希望はないのかよ?」
 「だったら、ここのレストランでいいよ」
 「見くびるな。それにこのデパートでは人目につく」
 「どうして人目についちゃいけないの?かわいい女の子を連れていると噂になるから?」
 「どうでもいいけど、ブレイクし過ぎだぞ、おまえ」
 軽口を叩く有佳に、辺りを伺う島崎は真顔で言った、
 「おれのほうは差し支えないよ。しかし、おれの相棒みたいな顔をしていると、この先災いがネギに降りかかるかも知れない。いいか、ここでも昭和の吉祥寺と同じくらい、おれの評判は悪い。しかも、おまえは、そんなおれとも比較にならないほど不安定な立場に置かれているんだ。なるべく顔が割れないよう、努力しよう」
 因果を含めて、島崎は有佳の肩へ手をかけた、
 「バンコクで一番高いと言われている日本料理屋で豪華にライスカレーを食おうじゃないか。異存はないな?」
 「結局、自分で決めちゃうんだから」
 「団体競技は子供のころから苦手なんだ」
 「知ってるよ」
 プラトゥナムからあらためてバスに乗り、ふたりがやって来たのはスクムビット通りの新しいホテルの最上階にオープンした日本料理屋だった。アプローチは、黒いグラニットの床に、紅葉の季節を模した竹林風の演出がほどこされ、行灯の蔭から着物姿の接客係が恭しくお辞儀した。
 「高級な店だから、ここで顔見知りに出くわす心配はない」
 「うん。敷居が高いね」
 立場の自覚も相まって、心細そうに有佳は自分がまとう洗い晒しのTシャツや、ディパックを担ぐ男の見るからに汗臭いポロシャツを眺めた。暖簾を潜ろうとすると、納品を済ませたばかりの担ぎ屋と鉢合わせした。
 「おう、島ちゃん」
 「・・・」
 「さっそく顔見知りに会っちゃったね」
 目をそむけながら呟く有佳を無視して、陽気な顔の島崎は、声をかけた相手に片手をあげた、
 「うっす、先輩。今日の仕事はもう上がり?」
 空のクーラーボックスを見せる中年男は早口に答えた、
 「納品はな。今から仕入れだ。もっとも、商品はタイ人の代理人が買い付けているから、そいつを引き取って今夜の便で日本へ帰る」
 「正味八時間のバンコクご滞在か。よく働くね。ずいぶん無理をしているんじゃないのか」
 タバコを咥えて火をつける担ぎ屋は血色の悪い肌をしていた。
 「担ぎ屋が過労死したって、労災認定されないよ」
 「島ちゃんが労働組合みたいなことを言い出すほうが、よっぽど心臓にわるい」
 珍しい生き物を見るような顔で、男は軽い悪態をついた。
 担ぎ屋と呼ばれる面々は、早朝に築地で商品を仕入れると、クーラーボックスを肩に引っ掛けて成田へ向かい、十時台のフライトで、午後バンコク入りする。ドンムアン空港では、気心の知れた税関職員に幾許かの袖の下を掴ませてスムーズに通関し、まっすぐ市内の日本料理屋へ納品に向かう。かくして夜のカウンターには、その朝築地に並んでいた魚介類が勢ぞろいするわけだが、古式ゆかしい行商人たちは第一段階の仕事が済むと、今度は本国の市場で売りさばく物品をバンコクで仕入れて回る。日本にいる夜の女たちや不法就労者に、故国の食材や週刊誌を供給するのも、担ぎ屋の大事な業務項目だった。いずれにしても、一般の貿易ルートでは対応しきれない商品を扱う稼業は、紀州堂書店に通う人びと同様、お客も割高を承知しているので、価格をめぐるトラブルも起きず、立ち回りが巧ければ、それなりに飛行機代を消化して、採算も釣り合うという。
 「明後日もまた来るよ。忘年会シーズンだからな。シロムにある鉄板焼きの店から霜降り和牛を頼まれてさ」
 「そりゃご苦労さまです。タイの牛肉なんか、口が肥えた日本人にはとても食えまい」
 「あれはビーフじゃない。バッファローだ。まったくのまがい物だよ。まあ、お陰でこちらはいいシノギになる」
 いつもなら、先を急ぐ男との立ち話はこのあたりで打ち切りになる。しかし今日は納品が一段落したせいか、担ぎ屋の立ち居振舞いにもいくらか余裕が感じられた。
 「ところで島ちゃん。この店にどんなご用?」
 「どんな、って・・・飯を食いにきただけだよ」
 「ふうん。てっきり食中毒を罹った人間の示談役に立てられて、慰謝料でもせしめに来たのかと思った」
 日本人の多い界隈である。担ぎ屋は、島崎の傍らにいる有佳を、たまたまそこで親と待ち合わせしている邦人娘と思っているのか、かくべつ深い関心を払おうとはしなかった。お陰で日ごろの所業が暴かれていく。
 「失礼な・・・あんたこそ、食中毒になるような代物を納品しているのかよ?」
 「失礼な」
 あらぬ嫌疑をかけられて、担ぎ屋は語気を強めて反論した、
 「おれが担いで来るのは高級食材のみ。この街に住んでいる不景気な日本人にはとても手が出ないだろうが、たとえば松葉蟹の刺身は、なんと九千バーツもするんだぞ」
 「なるほど。会社名で領収書をもらう駐在員の連中だって、そんなバカげたメニューを注文したりはせんだろう」
 「タイ人の金持ちが召し上がるんだよ。九千バーツだっていうのに連中は、当たり前のようにお代わりだってするぜ。一切れ二千バーツの夕張メロンも彼らの胃袋にはいるんだ。いいお得意さんだよ」
 生きた松葉蟹を一ダースも降ろせば、飛行機代など充分に捻出できるだろう。蟹は食べるが面倒なので、もともと馴染みのある食材ではなかったけれど、松葉蟹という季語には南洋で暮らす島崎にとって、雅致めいた響きがあった。
 「今日は穴子とエノキダケも持って来たぜ。ご当地じゃ貴重品だが、まあ、これくらいなら島ちゃんでも口に入れることができるだろう。品切れだったそうだから、清水の舞台から飛び降りる覚悟で注文すれば新しい物が食えるよ」
 「さて、特上ロースのトンカツでも食おうかな」
 引き戸に手をかけながら島崎が憎まれ口をたたくと、哀れむように担ぎ屋は言った、
 「間違ってもカツ丼なんか注文するなよ。ここも最近ホウレン草と人参が彩りを添えるようになってしまった」
 けげんなりした顔で島崎は言った、
 「日本人の板前、辞めたのか?」
 「いや、お偉くなって板場に出てこなくなった。タイ人に任せておくと勝手に料理をアレンジされてしまうってのにさ」
 「“色がきれい”とか言って色んな具を混ぜ込みやがるからな、あいつらは。すると、ホウレン草と人参の他に、ベビーコーンなんかも入っているわけ?」
 担ぎ屋は深刻な面持ちで頷いた。
 「それじゃまあ、そういうことで。おれはこれだけ繁盛しているので、もう黒土を持って来い、などという無茶な注文は勘弁してくれよ」
 「いつも、すみません」
 成り行き、有佳は担ぎ屋に頭を下げ、性格の悪い同級生の背中を折りたたむような眼差しで睨みつけ、追いかけた。
 「蟹の刺身を二人前」
 テーブル席に滑り込むと島崎は間髪入れずに注文をはじめた。
 「一匹をせせこましく盛り分けたりせず、ちゃんと二匹の蟹さんを生贄にすること。だって、もとは一匹なのに別々の胃袋に入れられてしまうなんて、あんまりじゃないか」
 「はあ?」
 お仕着せのナイロン和服をまとうタイ人女給は、精神異常とおぼしき日本人の扱いに、刹那、困惑した、
 「とても高いのですよ」
 頬を引き攣らせた愛想笑いが空々しい、
 「それから特上の穴子握りを、そうだな、手始めに三人前もらおうかな。天麩羅も、とりあえず二枚持ってきて」
 「あのう...」
 「そうそう。エノキダケのホイル焼きもください」
 「あのう...」
 「足りなければあとで追加注文するから、そう心配顔をしなさんな。・・・デザートは、あなたのオッパイと同じ寸法の夕張メロンを丸ごと食べてみたいな」
 露骨に食い逃げを警戒する女店員は、いちおうオーダーを承ったが、尻込みしながら引き下がって行った。熱い玄米茶を啜って一息つき、しみじみと店内を見渡す島崎は、
 「や。これはいかん」
 突然衝立に身を擦り付けた。
 「どうしたの?」
 「ここは、おれより上のランクの悪党が来る店だったようだ」
 有佳は無頓着に首筋を伸ばし、衝立の裏側を覗き込んだ。そこには黙々とエビフライ定食を食べる紳士の姿があった。
 「隣の人、悪者なの?」
 声を潜めて有佳が訊いた。すると眉間に皺を寄せる島崎は、目線で入り口に掛かる暖簾を指した、
 「あいつもな」
 有佳はあけっぴろげに背後を顧みた。四五人の側近を従える、でっぷりした猫背の六十男が、日本人店長の恭しい出迎えを受けていた。ごま塩の丸刈りで、将棋の駒を髣髴させる下膨れの顔が特徴的な風貌をしていた。黒縁メガネの奥には一見温厚そうな小さな目が並んでいる。
 吐息を島崎の顔にかけるように有佳が訊いた、
 「あの人たちも、康くんの顔見知りなの?」
 ひょっとこ口の島崎は、衝立に走る檜の木目を数えていた、
 「話をしたことはない。しかし、あいつらは、おれみたいな野良犬でも、ちゃんと顔くらいは知っているよ。それくらい用心深いから、今日まで渋太く生き残っている」
 「ばったり顔を合わせては、何かと不都合なのね」
 子供の頃から島崎の沈黙は肯定を意味していた。バンコクの新参者は持ち前の協調性を発揮して、口を閉ざした。
 最初に挨拶したのは紳士のほうだった、
 「やあ、これは篠塚さん。奇遇ですな。それに、みなさんお揃いで」
 衝立の裏から如何にも気取ったテノールが響いた。すると威圧感のある足音が近づき、低く口篭もるような声がこれを掣肘する、
 「なあ、滝よ」
 年配者の黒縁メガネは、食事中の紳士を呼び捨てにした、
 「どの面下げてスクムビットへ来た、ええ?ひとつ忠告しておくが、わしの所には、お前を殺したがっている若い者が大勢いるぞ。悪いことは言わない。ペッブリで大人しくしていろ」
 「これはご挨拶ですな」
 滝と呼ばれた紳士は篠塚なる人物に切り返した、
 「篠塚さんこそ、田舎で畑でも耕されていたほうが、お似合いですよ」
 「なにをっ!」
 血色ばんだのは篠塚の取り巻きのひとりだった、
 「おう、ドクターさんよ。篠塚さんはな、工業団地の買収をめぐって大損害を負わされた三光物産に、訴訟手続きの待ったをかけて下さっているんだぜ。おれはこの詐欺騒動が、誰の差し金だか、すっかりお見通しなんだぜ」
 地味な灰色の背広をまといメガネをかけた貧弱な体型の初老の男は、苦渋に満ちたような顔を精一杯複雑に歪め、年甲斐もなく不良少年のような仕草で肩を揺すって自分より若い滝に詰め寄った、
 「おれたちの組織をなめるんじゃねえぜ」
 本人は恫喝しているつもりなのだろうが、滑稽なだけで、ちっとも怖くない。笑い声を必死に堪える傍観者は、あわてて水を飲んだ。
 「ははは、流石はCIAのエージェント。笠置さんは情報通でいらっしゃる」
 詐欺師の正体を暴かれる博士号を持つ紳士は、笠置という苗字の男を見下すように言った、
 「なるほど、おっしゃる通り、あの一件は紛れもなく私が仕組みました。しかし、タイで三光に騒がれて一番ダメージを受けるのは、彼らが現地人とのあいだで惹き起こすトラブルを栄養源になさっている篠塚さんでしょう?宥めるのは私のためでなく、ご自身のためだ」
 品格ある詐欺師が対峙している相手は海千山千の事件屋だった。
 「私はあの一件で少なからず三光の系列企業を追い払い、その事業を吸収した。若い人から恨まれるのも、納得できます」
 「むう・・・」
 篠塚の唸り声が地響きのように漏れ、滝の弁舌が続いた、
 「彼らには“天下の三光”という驕りがあった。よもや何人たりとも自分たちの行く手に障害をもたらそうなどとは夢にも思っていなかった。つまり、油断ですな。そもそも、今日びの商社マンはだらしがない。欧米人から“エコノミックアニマル”と呼ばれた時も、“自分たちは人身売買と麻薬だけはやらない”などと、つまらない倫理観を矜持に置いて、自分自身を納得させていました。だが、それこそ日本人の弱さの原因と指摘しなければならない。異民族の目など気にせず、稼ぎまくればいいのです。彼らを笑ったアメリカ人やフランス人は過去に黒人奴隷を売買していたし、イギリス人に至っては阿片という麻薬を売り込むために清国へ戦争まで仕掛けている。道徳観念を矮小な線で囲おうとするのは人民や子供たちが自分より賢明になっては困るマスコミと教育者の見解であって、世界を舞台に活躍しようというビジネスマンに似つかわしいものではありませんな」
 学歴で劣るためか、あるいは哲学と乖離した業界の空気を長く吸ってきたためか、篠塚一党には反論の言葉が容易に見つからない。
 「まだまだ甘いのう、うちの奥さんは。ドクター滝の言う通りだ。世界と取っ組み合いをしなければならない連中が、小学校のホームルーム並みの道徳観念に呪縛されて腰砕けになっているようじゃ、世も末だ」
 傍らで開陳される屁理屈に聞惚れていた島崎は小声で快哉をさけぶと、嬉々とした面持ちで穴子寿司を一貫口へ放り込んだ、
 「さすがは大物ギャングだね。そこいらへんのチンケな三下とは料簡が違う」
 井坂から川本という人物の存在を知らされたばかりである。滝や篠塚の言動に何らかの因果関係を見出そうと努めたが、手がかりになりそうな台詞はない。島崎は詮索を諦めた。
 「それって、康くんの言い訳?」
 透明な蟹肉を無心に食べていた有佳は思い出したように言った、
 「感心している場合じゃないでしょう。このままじゃ滝って人、消されちゃうよ。気障な台詞ばかり並べているから」
 どこか非情な有佳の口調が香ばしかった。
 「安心しろ。篠塚も滝も大勢の子分を抱えて反目し合っているが、どちらにも相手を完膚なきまでにぶっ潰すだけの力はない。これを力の均衡という。争いというのは必ず両者の戦力バランスが崩れた時にのみ起こる。だから、あんな風に顔を合わせても、適当な間合いを保って罵り合うだけなんだ」
 「あたしが心配しているのは、お隣の喧嘩だけじゃないよ」
 エノキダケのホイル焼きを平らげて、有佳は一層声を低くした、
 「康くん。お金、いくら持っているの?」
 「あるよ。しめて二千バーツくらい」
 注文した料理は、二万バーツあっても心もとない。
 「日本のお金があるんでしょう」
 「ない」
 「あ、わかった。平成には、クレジットカードっていうお金の代わりになるカードがあるんだよね」
 「平成にはあるけれど、島崎康士サンは持っていないよ」
 絶望と後悔が入り混じった面持ちで有佳は空の皿が並ぶテーブルを見渡した。
 「読めた。また、タダ食いする気なのね?」
 「あのオッサンがわざわざ日本から担いで来た品々だぞ。そんな惨い真似はしないよ。それに、この店の間取りを考えろ。深すぎる。おれひとりならまだしも、おまえが一緒じゃ脱出は到底不可能だ」
 泣き出しそうな顔で有佳は言った、
 「どうするのよ?」
 「大丈夫だ。対策なら、これから考える。ふたりで二年くらい皿洗いするのも悪くないだろう」
 「もう、康くんとは二度とレストランに行かないからね」
 「うるさいなあ」
 危機に直面すると冗談が通じなくなる性格は、有佳の昭和から持ち込んだ欠点だった。刹那、小学生時代の自分に戻ったような錯覚を覚えて、男は胸ポケットに入れてあった清水和彦名義のクレジットカードの効力チェックを、しばらく延期することにした。
 「居直るときは、居直るぜ」
 立ち上がろうとして、しかし島崎は慌てて座りなおした、
 「これは天佑だ」
 見ると、高級な背広を身にまとう、握り飯のような顔をした恰幅のよい初老男が、数人の側近をはべらせて暖簾を潜って来た。いかにも華人系の骨相は、幾つもの修羅場を生き延びてきた者だけがもつ、研ぎ澄まされた殺気をほのかにたたえていた。
 「ジラパン・ポンサネー。ついこの前まで首相をつとめていた国会議員だ。前身はタイ最大の株式会社の専務取締役」
 「タイ最大の株式会社?」
 ビジネスマンには見えず鸚鵡返しする有佳に、島崎は軽蔑を含んだ声色で答えた、
 「陸軍の将軍だよ」
 相手は忘れているかも知れないけれど、島崎はジラパン・ポンサネーと幾度か会ったことがある。ジラパン中将は、ソムチャイ元大尉の育てた後輩だった。ただ、ラオス南部と接する北東タイ、ナコンパノム県を地盤としたこの政治家は、とかく利権の匂いがつきまとい、つい数ヶ月前には死に物狂いでバーツ防衛を指揮したにもかかわらず、一般のタイ国民のあいだではだいぶ評判が悪かった。バーツ崩壊の責任を負って首相の座を退いたジラパンは、身軽になったせいか満面の笑顔で日本人の一群に合掌した。
 「タキサン」
 ジラパンの日本語はここで途切れ、タイ語へ切り替わる、
 「...本日は、私がシノヅカサンにも同席をお願いしたのですよ」
 相対立する者同士を同じ水槽へ入れて天秤にかける。ホスピタリティ溢れる欺瞞を知り尽くしたタイの政治家らしい小細工だ。しかし、滝も愛想よく答えた、
 「大歓迎ですよ。では、席をお座敷へ移しましょうか」
 「まさか、滝、きさま?」
 雅致に縁遠い篠塚は、日本語で割り込んだ、
 「わしは元首相に呼ばれて来たのだ。きさま、今度はいったい何をたくらんでいる?」
 ひそひそ話に、島崎は興味がなかった。一同が奥の襖で仕切られた部屋へ消えると、先ほどとはうって変わった真面目くさった面持ちで、和服姿のタイ女を席に呼んだ、
 「会計でしょうか?」
 何万バーツのチャージになるか見当もつかなかったが、島崎はそれについても興味がなかった。
 「わかっているとは思うけれど、伝票はドクタータキのテーブルでまとめておいてください」
 「はあ?」
 女は眉間にしわを寄せた。間髪いれず、島崎は言った、
 「なんだ、聞いていなかったのか?私はタキ先生と、そのご息女の護衛だよ」
 言いながら、さりげなく有佳に目礼する。
 「きみも見ただろう。ジラパン元首相がご到着なさるまでのあいだ、シノヅカたちは隙あらば先生を暗殺しようと身構えていたじゃないか。何かあったら弾除けに飛び出すのが私の仕事だ」
 「お父様がエビフライで、お嬢様が蟹の刺身を召し上がるのですか?」
 「差し出がましいが、チップのつもりで教えておこう。タキ先生はナゴヤのご出身なのだ。そして、お嬢様はホッカイドウで生まれ育った。なにしろ金持ちの感覚だからね。これは金額ではなく、嗜好の問題なのである」
 タイ人は子供をたっぷり甘やかせる。我田引水のカルチャーギャップによって、女店員は多少の理解を示した、
 「わかりました。それではタキ様に確認して...」
 「いいとも。しかし、タキ先生が配置した伏兵の存在を知れば、シノヅカは機嫌を悪くする。いま、あの部屋で行われている重要な交渉は決裂だ。仲介役を買って出たジラパンさんも、大いに面目を失う。きみが責任をとってくれると言うなら、さあ、どうぞ。訊いていらっしゃい」
 ややサディスティックにしゃべる島崎には読みがあった。滝、ジラパン、そして篠塚の三人のうち、一番新しい顔は篠塚である。何を話し合うのかわからないが、篠塚はこの機にジラパン人脈を滝の手元から掠め取ろうと、スタンドプレーに出るはずだ。人数もいる。島崎と有佳が平らげたメニューの何倍もの料理を運ばせるのは当然だし、恩着せがましく支払いを申し出るのは初歩中の初歩である。どの道、時価の会計など店の気分次第だし、悪党に支払いを押し付けること自体、何ら良心の呵責を生む行為ではない。
 完全なタダ食いによって、実を粉にして東京とバンコクを往来する担ぎ屋への仁義さえ曲げなければ、それでよかった。
 「おそらく哲学者に負担をかけることはあるまいよ。せめて篠塚サンタに感謝の祈りをささげましょう。メリー・クリスマス!」
 肩を怒らせてホテルの玄関を出る有佳の背中は、ジャズアレンジした“聖者が町にやってくる”のメロディーを口笛に乗せる島崎の独り言に、何もコメントを挟もうとはしなかった。







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