* この物語はフィクションであり、登場する人物、企業、
団体、一部政府機関の名称は架空のものです(著者)。




第四話




 琥珀色の室内灯が紫の煙を緊張感といっしょに手繰り寄せる。くわえタバコをくゆらせながら、おなじみの黒い長袖シャツを着こなす鈴木隆央は、鮮烈なスポットライトに照らされて、緑のテーブルに寝そべるような姿勢でキューを構えた。意気込む余り、金色の腕時計がずれて、手首に刺青がちらりとのぞく。立ったまま冷めたネスカフェを飲み干すと島崎は、おもむろに間延びした口調で切り出した、
 「あのさ鈴やん。ひとつ訊いていいかな?」
 「やかましいわ、おのれ。おれはいま勝負に全神経を集中させているのや。マナーをまもれ、マナーを」
 鈴木の恵比寿顔は、たとえ賭け金がたいしたことなくても勝負事に臨むと殺気を孕んでネズミのような顔になる。
 「これだから性根の貧しい野郎と付き合うのは厭なんだ。無駄口叩きながらじゃスヌーカーも出来ないのか、おまえは?」 
 島崎は、バンコクの東端、シーナカリン地区のスヌーカー場に来ていた。昼間なので、埃っぽい店内に誂えられた二十卓ばかりのテーブルのほとんどにはカバーがかけられて、見るからに閑散としていた。
 苛立たしげな横顔で、黒シャツのプレーヤーは挑発にのっかった、
 「なんじゃい。言うてみい」
 いつになく照れくさそうに島崎はいった、
 「お前は奇蹟を信じるか?」
 「奇蹟だあ?」
 素っ頓狂な叫び声をあげて、鈴木はキューを白球にスリップさせた。白球はジャンプボールとなって、赤球の一個と軽く触れて止まった。
 「四点」
 大真面目な顔で島崎は転がり込んだ得点を告げ、間髪入れず、センタースポットの
あたりに転がる茶色い的球を狙い、上首尾にポットすると、
 「もう四点、追加」
 今度はタイ語でいった。つまらなそうな面持で女の従業員が黒板の数字を手早く書き換えた。日本語が解らない女の注意は、もっぱらゲームだけにふり向けられている。
 「こら、島ちゃん。おのれ悪党の分際でやぶから棒に神妙なコトバを口にするな」
 妨害を受けた男は詰るコトバに行き詰まり、
 「汚いで」
 「なにが汚いんだよ。スヌーカーの語源は“あっかんべえ”だぞ。真面目くさったストロークの得点なんて、そもそもゲームの本義から外れとる」
 言いながら島崎は青球を狙った。
 「もっぱら敵のファールで稼ぐってわけか。まっ、バンコクでせこく生きている夜光虫のおれたちにはぴったりの球遊びってわけやな」
 白い球は青球に届かなかった。
 「ざまあみろ、ボケ」
 小躍りして、鈴木が青球を仕留めた。
 「とりあえず、五百バーツは回収させてもろた」
 ふたりとも腕前はそれほどわるくない。よそのテーブルから休憩がてら見物に来たのだろう、よれよれのTシャツを着た坊ちゃん狩りの若者がひとり、口元に愛嬌のある笑みを湛えながら、日本人同士の対決を観戦していた。
 「見てみい。アホが見物しとるで」
 「本当だ。バカが来た」
 年のころ二十歳前後、華奢な感じだが北東タイ出身者とおぼしき浅黒い肌に精悍な眉が印象的な若者の笑顔に変化はない。プレーヤーたちが母語でかわした自分に対する侮蔑を理解していないようだ。いかがわしい日本人同士のなまなましい会話は続いた。
 「ボロ儲けの話がある、ってどういう仕事よ?」
 呼び出しの電話で鈴木が開口一番に切り出したのは、スヌーカーをやろう、という無邪気な誘いではなかった。
 「やばい話しやで」
 ゲームは膠着状態に陥っていた。
 「お前が持ってくる話はいつも危なっかしいじゃないか」
 「危なっかしい?奇蹟の電波がきているおっさんに言われたくないわ」
 「話してみなよ、やばい儲け話って何だ?」
 自分もいっしょになって遊んでいるくせに、こんな不良仲間に有佳のことを話す気はおこらなかったけれど、数日前に体験した驚異の感慨をそこはかとなく誰かに伝えておきたかった。しかし、やはり相手がよくなかった。そもそも、鈴木は発想が現実的過ぎるのだ。ささやかな羞恥心を、挑戦的な無駄口で切り捨てた、
 「ふたつのトランクに四億円詰め込んで日本から持ち出す芸当も、まぁ、言ってみりゃ奇蹟に違いないよな」
 点数は取れなかったが、島崎はコーナーにへばりつかせたピンクの手前に黒を転がして、スヌーカーをつくった。鈴木は渋い顔をしていた。ゲームの成行きのせいではない。島崎の揶揄がきつ過ぎたのだ。鈴木の白球は、黒球にあたった。
 「下手くそなカマをかけるな」
 「まわりくどい話は好きじゃないけど、鈴やんがもったいぶるから仕方ない」
 島崎は鮮やかな手並みでピンクと黒を次々と誘い落としてから、訊いた、
 「ようするに、その四億円がらみのお話しかえ?」
 執拗な挑発を受けて憮然とする顔に、思い直して猫撫で声で問い掛ける、 
 「もう一回戦やろうか?」
 黒星のネズミが相好をくずし、薄気味わるい恵比寿顔になった。
 「すこし休もう」
 ふたりが傍らの棚にキューを置くと、若い見物人も背中合わせのシートに座を占めてビールを注文した。挙動から見て、別のテーブルのプレーヤーというわけではないらしい。恐らくは、この街ではたいして珍しくもない、ひねもす盛り場でふらふらしている兄ちゃんの類いだろう。プレー中はテーブルの照明が強すぎて気が付かなかったけれど、薄暗いところで伺うと、右側の二の腕には、緑色の紐みたいな刺青がさしてあった。すくなくとも、話しかけて値打ちがある相手とは思えなかったので、島崎はそれ以上の関心を若者に振り向けるのはやめにした。
 日本人たちのシートでは、黒い人工レザーのパンツで決めた厚化粧のタイ女がひとり、さっきからポテトチップを肴にコーラを啜っている。鈴木がいつも連れ歩いているあからさまな商売女だった。夜になると、この界隈の風俗パブに働きに出るらしい。
 「アナタたち。もう、かえるか?」
 褐色の顔はどこか稚なかった。
 スヌーカーに無関心な女は、舌足らずな日本語をしゃべるけれど、あくまでも片言の域を出ない。鈴木がつれなく、
 「マイチャイ(違う)、休憩や」
 と答えると、ちょっぴり拗ねたような表情をした。
 「ごめんなさいね」
 女言葉で島崎が愛想をいうと、ストローを咥えたまま女は小さくうなずいた。二十歳くらいだったが、まだそれほどすれている風でもなかった。

 タイはその昔、浅黒い肌の人の国・シャム、と呼ばれていた。麗しい国名ではないので、ラマ八世の時代になって「タイ」と改められた。タイという国号は、“自由の大地”を意味する古語である。ところが逮捕に結びつく犯罪情報の提供者には警察が謝礼をくれるようなお国柄。権謀術数は為政者の伝統として定着し、面従腹背が人々のあいだでお家芸となって根を張るこの国は、剣呑な密告社会の側面も持ち合わせている。あまつさえ、バンコクというアジア世界の十字路には世界各地からさまざまな種類の悪党が集まっているものだから、悪事を企む外国人はおしなべて中途半端な秘密主義の空しさをわきまえ、あけっぴろげであるわりに、計画の詳細がほかへ漏れることを極度に警戒するのである。
 女のニックネームがプイというのは前から知っていた。鈴木のようなプロのゴロツキが当たり前の危機管理を怠るはずもなかったけれど、念の為、島崎はその情婦の身上もざっと鑑定してみた。顔立ちは輪郭がくっきりした目と口は大きくて、下唇も厚い。淡い褐色の肌をしていておおむね美人ではあったけれど、整形手術の痕跡がない団子鼻が愛嬌だった。骨相と訛りから推断して、北東部かラオスの出身者だろう。あまり教養を感じさせない瞳の透明感は、彼女の学歴がせいぜい義務教育の小学校卒業で止まっていることを伺わせる。だから女が口にする日本語は、意味もほとんど咀嚼せずに丸暗記したものであろう。日本に出稼ぎに行ったことのある女なら、多かれ少なかれ風俗の影響を持ち帰っているのが普通だから、化粧の仕方、わけても眉の曳き方が他の淫売と違ってくる。しかし、鈴木に甘える女の黛は醇乎としたバンコク流だった。
 「それではご用件を承りましょうかね、社長」
 島崎は声色を変えずに密談に踏み切った。
 鈴木は平然と言った、
 「なあ、島ちゃん。お前、泥棒をやったこと、あるか?」
 「なんだよ、いきなり不躾な質問だな。おれがそんな狡っからい野郎に見えるか?」
 「見える」
 タバコに火をつけて、鈴木はようやくギャングらしい眼差しを見せた、
 「でかい豪邸に忍び込んで金品を盗むお仕事、やってみるか?」
 「やらねえよ」
 「ほんとうは怖いのとちゃうか?」
 「うるさい。だいたいなんだ、そりゃ?“やばい”云々以前の話だぜ、きみ」
 掏りならお手の物だが、島崎には鈴木に自慢できるほどの窃盗体験がなかった。
 「専攻がちがうな。盗みとなると中学生のときにレコードを店で何枚か万引きしたくらいのキャリアしかない。別のバカを誘ってみたら?」
 「レコード?返す返すもケチくさいやつじゃのう、おのれは。もっとスケールが大きな仕事をしたことないのか?」
 「東京のアウトローは格調が高いんだよ。同じ悪さでも関西みたいに泥棒なんてさもしい稼業には手を出さないのだ」
 「悪行に格調もへったくれもあるか。こんじょなし。もう、お前を誘うのはやめにする」
 「ああ、そうしてくれ。お互いの幸せのためだ。おまえに見くびられるとは片腹痛い」
 時節柄、ろくでなしの業界でも各人の懐具合は世間並みに切羽詰っているのが普通だった。少しくらい危険な橋なら誰だって渡りかねない。けしからぬ計画の発案者は、あくまでも島崎が乗って来るものと思っているらしく、元締め然とふんぞりかえった。
 「ようするに、四億円をかっぱらおう、って魂胆なんだろう?」
 島崎もしつっこい。あくまでも「四億円」にこだわり、執拗に踏み込んだ、
 「おれはお前が考えていることくらい、ぜんぶお見通しだぜ」
 鈴木はふてぶてしく沈黙した。本人が口を割らずとも、「鈴木隆央と四億円」の逸話は、「バンコク裏日本人会」の通説になっている。
 数年前に関西地方のさる都市銀行で、森山という行員による横領事件が発生した。森山が職場からくすねた現金は、日本円で四億だった。事件は即日発覚し、届けを受けた大阪府警はただちに全国に森山を指名手配したが、横領犯は張り巡らされた網をかいくぐって高飛びしていた。逃げた先は、タイ南部のプーケットというところまで当局の調べで判ったけれど、森山本人はまだ捕まっていず、四万枚の一万円札の行方も杳として知れない。 
 もちろん、他人に変装して際どい出国劇を演じたであろう森山が、彼にとっては爆弾以外の何物でもない膨大な現金を携行してタイ行きの飛行機に乗ったとは考えにくい。ローディングであれ、ハンドキャリーであれ、空港のエックス線検査でたちまち引っ掛かって、足がつく。つまり四億円は、森山と行動を共にしなかったのである。
 この時、現金の運びを請け負ったのが、鈴木隆央だった。
 広い世間では人間の結びつきなどごちゃごちゃしているのが当たり前だから、森山と鈴木の繋がりなど、この際いちいち詮索しなくてよい。ともあれ、鈴木は、森山から犯罪を引き継いだ。とは言え、出国時の難関は鈴木にしたって森山と同じである。日本の法律では、現金の持ち出しがひとり五百万円と制限されている。それ以上の大金を許可なしで動かすとなると確実に税関でストップがかかる。とぼけた堅気の衆なら、「知りませんでした」で誤魔化せるかも知れないが、一見してヤクザ者なら、確実に身柄を拘束されてしまう。ちなみに、日本の空港に配置されている役人というのは、世界的なレベルから見ても無能ではない。にもかかわらず、鈴木はどういうわけか現金の持ち出しに成功し、恙無くタイに降り立ったのだ。しがないチンピラは、約束の報酬を手にして、これを元手にタニヤ通りで「商事会社」の看板を掲げる便利屋を開業したのである。

 スヌーカーの腕は互角だが、鈴木は金を作る能力に長け、殴り合いの喧嘩は島崎が一枚上手をいく。鈴木がつねに仕事を持ち込む理由も、突き詰めれば、その腕っ節を買いたいがためであった。よしいかにネチネチ囃し立てようと、まだ鈴木が逆上して掴みかかってくる段階ではない。黙ってタバコを吹かす男に、自身のセールスポイントを知悉する陰険な強者はなおも切り込んだ、 
 「ははあん。さては、さるお方と上手くいってないんだろう?悪党の絆なんて、所詮はその程度のものだ」
 森山と鈴木の二人だけでこれほど大掛かりな事件を計画できるとは考えにくい。わけても、いわくある二人の日本出国劇には、さいしょから、非凡な政治力を備えた黒幕の影が見え隠れしている。島崎は単刀直入に核心へ切り込んだ、
 「お前さんの元バック。そいつが例の絵を描いたんだろう?」
 「みなまで言うな」
 鈴木は慎重に言葉を選んだ、
 「悪いのはジョージ・ソロスや。おれの持ち株、全部紙くずになってしもうた。投機にまわした資金もぜんぶパアや。シノギを立て直さなあかん。まとまったゼニが要る」
 バーツ暴落以前からタイに居合わせ、現地の銀行に口座をひらいていた者は、誰だって多かれ少なかれ、ヘッジファウンドの金融攻撃の流れ弾を喰らっている。反面、強力な外貨を換金しないで抱え込んでいた者は資産が相対的に倍増したのである。
 「他力本願で肥え太った日本円があるところにはたっぷりある、ってわけか」
 「まあ、そういうこと」
 頷いて、しかしネズミ顔は吐き捨てるように言った、
 「大人しくゼニを回してくれたら、おれもこんな荒業を思いついたりせんで。不況のときには企業倒産につけこむ稼ぎ方だってある。“整理屋”や。儲かったら、ちゃんと配当も払ってやるわ。それなのに、あいつら商売のこともよう知らんで、きっぱり出さん、と抜かしよった」
 さるお方と鈴木の蜜月期は過去の話しになったらしい。離合集散は世の倣いと言え、バンコクという街に巣食う連中の場合は、そのサイクルもはなはだめまぐるしかった。
 「用済みってことだな。気の毒に」
 「人をさんざん利用しといて、これや。交渉が決裂したとたん、まずタニヤ通りの連中がそっぽを向くようになってな。シノギもあがったりや。こうなったら、おれの力を目一杯思い知らせてバイバイしてくれるわ」
 話しによると、鈴木が経営するカクテルラウンジには、ここ数日、所轄の警察署から“みかじめ料”を取り立てる下っ端警官が入れ替わり立ち代り押しかけているという。マネージャーが「今月分はもう払った」と言うと、さも友好的に「それは失礼」と詫びながら、カウンターで一杯引っ掛ける。カウンターにおまわりが居座っていては雰囲気がわるいので、一般の客が来なくなる。日本では暴力団がよく使う、いやがらせだった。
 「どや?アガリは山分け。やっぱり、一枚噛みたくなったやろ?」
 盗んだカネだろうと、カネはカネ。もともと金銭絡みの倫理観に乏しい島崎には盗賊という選択肢を頭から拒絶する理由がない。ましてや、悪党から掠めとるのなら、良心はまるで痛まない。すこし真剣に考えた。
 が、ふいに頬杖をつく有佳の面影が脳裏をよぎった。冒険への意気込みが悄然と萎びていった。
 「知っての通り、いま、シャム湾に硫化水素を垂れ流している極東化成のチョンブリ工場を苛めているんだ。四億の分け前に比べたら惨めなもんだけどさ、上手くいけばけっこう毟り取れそうなんだ。こっちのほうもしばらく気が抜けないんだよな」
 「ふうん。極東化成なら、だいぶ前から攻めているんやろ?島ちゃんにしちゃずいぶん段取りがわるいな。あの一件はもうとっくにゼニに化けたもん、とばかりと思っていたわ」
 「盗人猛々しいんだ、最近の悪徳企業はよ。むかしみたいに簡単に膝を折ったりしないんだよ」 
 おおむね事実だったが、歯切れわるく辞退を仄めかそうとする本当の理由は、もちろん他にある。時空の孤児になった有佳は、ひとりで留守番している。三十路の不良少年はそれが忍びなかった。
 「そおか、残念やな」
 膝を打って、やけにあっさりと鈴木は誘いを諦めた。
 「な、鈴やん。どうせ泥棒なんて失敗するんだからさ、あまり欲を出さないで計画をカツアゲに変更しなよ、真面目なカツアゲ。それなら安い顧問料で協力するぜ」
 「考えときまひょ」
 大阪人は悪企みを実行に移す気でいるらしかった。時局柄、バンコクには声を掛ければどんなに胡乱な話しでも乗ってくる同国人の半端者がいくらでもいるからである。女店員を呼んでゲームと飲食代の精算を済ますと密談者の習性ゆえに、シートに残る島崎が時間調整のタバコを吸いはじめ、女連れの鈴木がそそくさと先に店を出た。
 「バカが。それほど言うなら、お縄になるとこ見物に行ってやるもんね」
 吐き出された煙といっしょに、独り言も背後に流れていく。そこはかとなく、先ほどの若い見物人が気になった。二の腕に入れられた細長い彫り物は、紐ではなく、蛇だったかも知れない。それと、腕もずいぶん筋肉質だったような気もする。ふりかえると、若者の姿はいつの間にか消えていた。それでも、つい数分前までは座っていたらしく、小さなテーブルの上にはビール壜とグラスが片付けられないまま置かれていた。おかしなことに、壜の中にはビールがほとんどそっくり残っている。島崎はえも言えぬ悪寒をおぼえた。
 おしなべて意地汚いはずの街のチンピラが、こんな場所で、わざわざ飲む気のないビールを注文したりするものだろうか。あの若者には何らかの思惑があって故意に島崎と鈴木の裏側に座を占めた、と推測するのが妥当だった。もちろん意図があって接近して来るほどの者が、つまらない日本語の挑発に乗ったりするわけがない。しゃべり過ぎたと後悔して舌を鳴らした。自分たちの軽薄ぶりを漠然と悔いながらも、島崎は咄嗟に若者の指が触れていた空のグラスをそっとハンカチで包み、ディパックにしまい込んだ。

 ウィバパディ通りの出来事から、ほぼ一週間が経っていた。
 冴木有佳は、自分をおかしな国でかくまう“ヘイセイの日本人”の素性を、まだ知らなかった。まるで誘拐犯に接する人質のようなおどおどした態度はとらなくなったものの、笑顔を見せようとしない肩肘の張り具合は相変わらずである。島崎は、[シミズカズヒコ]という偽名を幼い同級生に名乗っていた。思い切って本名を打ち明けてみようか、といった朴訥な衝動にもしばしば駆られたけれど、自分が島崎だと知れたところで有佳の反応が好転するなどとはとても思えない。如何に大人びていても、有佳はあくまでも子どもなのである。
 つらつら思い出すに、少年時代の島崎が有佳に加えた狼藉の数々には、今更ながらに許しがたいものばかりだった。わけもなく頭をたたいたり、いきなり肘鉄を食らわせるくらいの嫌がらせは朝飯前。卒然と蘇る慙愧の記憶は、濃厚な胃液の苦味を伴っていた。たまりかねて、島崎は歩調をとめた。とりわけて臨海学校の前日には悪ガキの戯れでは済まされない所業に手を染めていたのである。慙愧の念にいたたまれず、つて、独り言がこぼれる。
 「おれ、あいつに洒落にならねえこと、しちゃったんだよねえ・・・」
 移動教室前日の午後、磯採取のカリキュラムに忠実な冴木班長は、岩場における勝手な行動を宣言する島崎班員を全員の前で行儀よく窘め、発言を封じられたエゴイストの恨みを買った。理屈無用の悪童は皆が帰ると小公女を体育館に呼びつけた。無人の倉庫の扉を閉めると、鍵がないのに気が付いて、島崎少年は有佳に着ている服をすべて脱ぐよう命じた。躊躇逡巡しながらも、有佳は理不尽な命令に服従した。くすんだ灰色の密室で真っ白な肌が露になる。少年にとって、それが初めて目の当たりにする同年代の異性の裸像だった。きれいだ、と息を呑んだが、自己主張を押し通すのが最優先課題の少年は内心でさけんだ賛辞を間引きして、「お前は大人しく、おれが、やりたいことをやらせりゃいいんだ」と、凄んでみせた。はたとした眼差しで、身をかがめる有佳は縋るように康士を見上げた。黒髪が小刻みに震えだしていた。これを見て、幼稚な優越感を覚える少年はぞんざいに言った、「明日の移動教室はぜったい、おれが仕切るからな。わかったか」。生まれたままの姿で、信じられないような面持ちの有佳は、はじめて蚊の鳴くような声で質した、「なんで、あたしをこんな格好にしたの?」。きょとんとした顔で少年は答えた、「服を脱がせば女は人がいるところへ逃げたりしないだろう?」。羞恥心の何たるかを知らない少年にしてはアンバランスな、合理的過ぎる言い分だった。それを聞くやいなや有佳はさめざめと泣き出した。その情景に下腹部が締め付けられるような疼痛をおぼえたが、生まれて初めて自覚する奇妙な感触をいぶかしむ少年は、本来の目的を果たし、「よし。帰っていいぞ」と、尊大に声をかけた。ところが、せっかく解放してやったというのに、有佳はマットの上にへたり込み、いつまでもいつまでも泣き続けた。少年は鬱陶しくなり、ランドセルを背負うと、「じゃあな」。裸身の少女を突き放すように体育倉庫へ置き去りにしたまま、下校した。非道な行いについては弁解の余地がない。いずれにしても屈辱に打ち震えるその姿が、昭和時代の島崎が最後に見た有佳だった。
 時が流れて中学二年の或る明け方、いつも悪友たちが話す猥談に取り残されていたミリタリーマニアの少年は、すでに手の届かない世界へ行ってしまった少女のほのかに天をつく白い乳房を悶々と夢に描き、官能的な痙攣に襲われつつ自己嫌悪を噴出させて男の肉体機能を識った。まとわりつく有佳の残像は、それからしばらく虚無的に生きる中学生の煩悩を呪縛し、セピア色の体育倉庫へ呼び戻しては悩ませ続けた。果たしてしゃれこうべと睦み合うような自業自得の悪夢は、健康な若い肉体と連動する和魂が夜毎踏み込む無間地獄となった。今思えば、これを断ち切ろうとする荒魂が、青年期に分け入りつつあった島崎の暴走をいよいよ加速させていったような気がしてならない。
 しかし、遠い過去に島崎の風変わりな生き様を醸造するに至らしめた仕込みの狼藉も、有佳にとってはほんの一週間前の被害だった。少年島崎の破廉恥行為が、彼女の心に鮮血まみれの生傷を残しているのは想像にあまりある。あんな真似をする悪童が、さらに三倍の人生キャリアを積めば、想像を絶する極悪人になっていると踏むのが普通だろうし、事実、おおむねその通りの悪者になっている。だから、“おれ、康くんだよ”などと名乗れば、昨日の傷が癒えていない有佳は発狂するか、パワーアップを遂げた悪逆の象徴を一層恐怖して伺うようになるのは想像に難くなかった。そんな事態だけは避けたいと思った。
 小刀細工を考えあぐねて、有佳にはスクムビット通りの古本屋で仕入れた比較的新しい数冊の文庫本とB5のノートパソコンを一台与えることにした。お世辞にも自分自身を賢いとは思えなかったけれど、退屈しのぎを兼ねて平成の感覚を涵養させておくのは、いちおう気が利いたはぐらかし方法と言えるかも知れない。ちなみにパソコンは一ヶ月ばかり前に追い込みかけた日本人から巻き上げたもので、何かの弾みで画面に表示されかねない名義人は以前の所有者のままだった。はじめのうちは悪夢を見るような眼差しで眺めていたパソコンだったけれど、使い方もそろそろ覚えているらしく、拒絶反応は示さなくなっていた。
 常人から見ると、滑稽なまでの用心深さであろう。だが、それは島崎の習性だった。有佳に身元を知られまいとする努力とは別に、ある種の自己防衛的な配慮から、部屋にはもともと、「島崎康士」の名前を記したものを一切置いていない。本名が記された旅券とサイアム新報記者の名刺は、常にディパックの中にしまってあった。“清水和彦”が部屋のドアをあけると、
 「おかえりなさい」
 と、ずっと昔からそこにいるような棒読み調子で、有佳が言った。






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