* この物語はフィクションであり、登場する人物、企業、
団体、一部政府機関の名称は架空のものです(著者)。
第五話
居候はベッドに腰掛け、部屋の主が所構わず積み上げている文庫本の中から選び出した一冊を読んでいた。活字に飢える、という日本人にありがちな生理現象を、島崎は知っていた。外国で戦争するようになった近代日本の将兵たちは、内地から送られてくる貴重な新聞を、商業広告の文面に至るまで貪るように読んだという。未来という前線にひとり送り込まれた昭和の少女も、それによく似た反応を示した。なにしろ時間がある。もともと読書好きの有佳は、男の部屋に置いてある本や雑誌、古新聞、手当たり次第に目を通すようになっていた。 「何を読んでいるの?」 貧弱な蔵書の中には、本帰国した邦人仲間が置いていったポルノ小説も混ざっていたようなおぼえもある。気になって少女の手許を覗いてみると、派手な表紙に滑稽なくらい真面目くさったゴシック体で「実録!官僚赤裸々白書」なるタイトルが書かれていた。内地ならさしずめコンビニエンスストアに置かれているような、官界スキャンダルをまとめた軽薄な文庫本だが、小学生が目を通すにはいささか不釣合いなテーマである。もっとも昭和の世界では大人が舌を巻くような読書量が美質であり、また欠陥でもあった少女なればこそ、島崎本人は事新しく驚くことがなく、清水も、島崎にならって無関心を装った。 「電話は何処からもかかって来なかったよね?冴木さん」 抑揚を欠いた否定の疑問符に、有佳は黙ってうなずいた。怪しい職種の日本人は、たとえ人畜無害と思われる相手に対しても、決して自分の自宅を教えたりはしない。まして同業者ともなると、なおさらである。だから島崎の部屋に架かって来る電話などめったにない。せいぜいたまに間違い電話があるくらいだった。もっとも、タイ語のわからない有佳が受話器を取り上げたところで、応対などできるわけもなかったが。 「清水さん。お仕事、たいへんなんですね」 「趣味を仕事にするのは不幸のはじまりだが、仕事を趣味にできれば、これほど幸せなことはない。用は気の持ちようです」 居候の義理めいた労いを受け流し、島崎は白手袋をつけてディパックからビール瓶を抜き取り、素っ気無い面持で机の引出しから耳掻きによく似たダスターハケと白い炭酸鉛粉末を出す。有佳が首をのばして訊いた、 「なにやっているの?」 「見ればわかるだろう。指紋の採取だよ」 「清水さんって刑事だったの?」 「まあね。だが、すべては過去の話だぜ」 そそくさと灰皿から摘み上げた吸殻を口角にはさみこみ、島崎はシニカルに答えた。 「どうして警察をやめたの?」 「まあ、いろいろあってね。いまじゃ知る人ぞ知る幻探偵。世間の口さがないやつらはおいらを“木枯らし無宿のジョー”と呼んでいるぜ」 「なんだか探偵というより、殺し屋みたいね」 手際よくゼラチン転写用紙に指紋を採取する仕草は、しかし他愛のないでまかせにもっともらしい説得力を与えていたらしい。得体の知れない若者の指紋をファイルに閉じ込むと有佳の問いかけも止んだ。ぎこちない会話の流れは止むを得ない。同居人と語らいをそこはかとなく避けているのは有佳ひとりではなかった。彼女のヌードで初めての夢精を体験した過去をもつ男は、後ろめたさからベランダへ逃がれた。ところがいざトマトに水をやろうとすると、プランターの土はすでに水分をたっぷりふくんで黒くなっている。 「お水なら、あたしがあげておいたわ」 有佳の声が追い縋ってきた、 「この国の土は赤いのに、この鉢の土は水をあげると黒くなるね」 意想外に鋭い有佳の観察眼だった。所在無く如雨露を片付けながら島崎は答えた、 「だって、これは日本の土だよ」 金属質の赤いラテライト土壌は、このインドシナ半島からユーラシア大陸を同じくらいの緯度で総なめして、いったん大西洋に沈み、はるかキューバでふたたび地表に浮上する。 「担ぎ屋の小父さんに頼んでわざわざ仕入れてきてもらった。タイの土だと、小さいやつしかできないんだ」 土は重いばかりでまるで儲けにならない。日本で鮮魚や牛肉を仕入れては一週間にタイとのあいだを二三往復している担ぎ屋は精一杯厭な顔をのぞかせたが、際物稼業と暴力的な業界のしがらみは根深い。島崎は半ば強制的に日本の黒土をタイへ持ち込ませたのである。 「トマトの実、はやく赤くなるといいね」 無邪気に言いながら、有佳は神隠し以来、はじめて自然に頬を緩めた。 「べつに急がなくていいの」 「観賞用なの?」 「そう。“感傷用”」 はなはだ寒い駄洒落だったが、それが本音かも知れなかった。島崎には、畢竟、祖国の土の養分で実ったトマトを食べる気がしなかった。 「トマトも観葉植物になるんだね」 ふしぎそうに唇をとがらせて、有佳はふたたび殻にとじこもった。 島崎はだらしなく床のレインコートに身を横たえて、スクムビットの古本屋で入手したばかりの法律解説書を早速ひもといた。 民法第三十条以下で定められた失踪宣告の確定には、普通失踪と特別失踪という二つの種類があるけれど、冴木有佳のケースは不在者(行方不明者)が戦地に臨んだ者や沈没した船舶に乗っていた者に限定されている特別失踪ではないので、“生存を確認できた最後の時から七年間、生死が不明である場合、死亡と見なすことができる”ほうの普通失踪にあたる。そうすると、冴木有佳は法律上すでに死亡しているかも知れない。さしあたって、彼女には、身分の復旧という手続きが必要になってくる。 <民法第32条[失踪宣告の取消]> 第一項 失踪者の生存すること、または前条に定めたる時と異なりたる時に死亡したることの証明あるときは、家庭裁判所は本人または利害関係人の請求により失踪の宣告を取消すことを要す。 ___ はたして自分は有佳の「利害関係人」たりうるのだろうか? 考えるまでもなく、そんな資格はない。結局、日本に健在であろう冴木家の人々と連絡をとり、善後策を講じるよりほかにない。しかし、これまで幾度となく家に電話するよう勧めてみたものの、有佳は身震いして押し黙るばかり、一向に「未来の家族」と接触しようとしない。 亡命者には、大人の欺瞞を駆使して、密かに冴木家を探し出す術もなかったので、有佳が厭ならそれまでだったし、無理強いもこればかりは避けたかった。 さて、「失踪」の条項には次のような但し書きがつく。 “ただし失踪の宣告後、その取消前に善意をもって為したる行為はその効力を変せず” 島崎はまがいなりにも法学士である。それなのに解釈がいまひとつピンとこない。刑事訴訟法を専攻していた、と申し開きすれば聞こえは良いが、真面目に大学へ通った記憶もない。いっそ民法の弁護士にでも相談してみようか、と自問しかけ、即座に撤回した。 「いやいや・・・死んでも爬虫類の施しは受けんぞ、べらぼうめ」 「え?」 歯軋りにも似た男の独り言に、有佳は不安そうに振り返った。 青い夜陰に航空燃料の白い貯蔵タンクがくっきりと浮かんでいた。バンコク中央駅へ向かうタイ国鉄の在来線が六両編成で緩慢にすれ違う。刻限はそれが終列車であることを教えていた。平日の真夜中なのでウィバパディ通りもさすがに空いていた。車の流れは順調である。そうするうちに、「貨物(カーゴ)ターミナル」と書かれた緑色の表示が頭上を掠めていった。 「...国際線かね?」 タクシーの運転手がバックミラー越しに訊いた。 「誰も空港へ行け、なんて言ってないよ」 新宿で外国人がタクシーに乗り“ナリタ”と行き先を告げれば、常識的な運転手は真っ先に「空港」を連想するに違いない。“ドンムアン”にそっくり国際線ターミナルを代入していたドライバーの感覚は正常といえた。 「町に用事があるんだ」 ドンムアン地区はバンコク市外の北端に位置している。 「何をしにいくんだ?」 「おまえの知ったことじゃないだろう」 ミラーの中で白い歯が卑猥に覗いた。 「女だろう?」 運転手はしつこい。よくありがちな、ポン引き稼業で副収入を得ている手合いらしい。乗客は突然しなをつくり、思わせぶりな女言葉でこたえた、 「それがね、男なのよ」 運転手はそれっきり沈黙した。高速道路の橋げたが途切れ、間もなく、右手の対向車線がオレンジ色のナトリウム灯に照らしだされた。金網の向こうはドンムアン空港、すなわち、バンコク国際空港である。 「ここいらへんでいいわよ」 路肩に車を寄せると、島崎は用水路の岸辺に降り立ち、淀み水の腐敗臭をたっぷりふくんだ生暖かい風の洗礼をうけた。 十二月も半ばにはいっていた。乾季のバンコクは東京の初秋くらいの気候である。 昼間の気温は三十度を上回っているけれど夜はずいぶん凌ぎ易くなっていた。午前一時をまわっているのに旅客機の真っ黒な影が、無神経な金属音をがなり立てて頭上に覆い被さってくる。住民への配慮も何のその、この時間帯に着陸するのは、もっぱらアラブ諸国やインド亜大陸から飛んで来る中距離の国際線だった。 深夜とはいっても、タクシードライバーや空港関係のブルーカラーが多く住み着くこの界隈では、空き地に立つ市場にも明かりが煌々とみちあふれ、けっこうな活気が漲っている。屋台からあがる湯気にまれ、川魚や鶏肉を焼く煙にまれ、まだまだこれからが稼ぎ時といった貪婪な勢いがある。食欲をそそるガイヤーン(鶏の炙り焼き)の香ばしい煙に誘われて、適当なテーブルに腰を落ち着けると、島崎は小路の入り口を行き交う人々を観察しながら、煤けた鶏肉を肴にもち米を摘まんだ。もっとも、夜食を採りにわざわざドンムアンくんだりまで来たわけではない。手早く腹ごしらえを済ますと、島崎は一葉のコピー写真を手懸りに、ひとりの日本人を探しはじめた。俗に言う、聞き込み調査である。 一口に悪党といっても、肩で風を切りながら糊口をしのいでいくためには、堅気以上に働く必要がある。段取りもいろいろ踏まなければならなかった。今夜の調査も、そんな下準備のひとつだった。 上質紙に転写されたメガネの男は年齢が四十代の半ば、スマートな体格でワイシャツにネクタイといったホワイトカラーのいでたちだった。マイクを握り緊めてカラオケを熱唱しているけれど、面構えはいかにも切れ者然としている。一見すると企業の駐在員。しかし、この国には在留届けを提出している者だけでも四万人からの邦人がいる。写真の中年男の人相は、わけてもバンコク界隈にはゴロゴロしている日本人エリートのステレオタイプだった。 屋台のおやじや物売りの娘ら数人に声をかけて空振りすると、島崎は辻待ちしているゼッケン姿のモトサイライダーの群れに近づいた、 「ねえ、アニキたち。この旦那、ここいらへんで見かけたことある?」 元締め格の無精髭が、 「ああ、そいつならよく来るよ」 と、意想外にもしっかりした調子で答えた、 「マツシバ電機のマネージャーだろう?」 拍子抜けするくらい、あっけなく証言がとれる。 もとより、この男が身分を「マツシバ電機のマネージャー」と偽ってドンムアン地区に出没しているという情報を得ているから、元締めの証言は間違いなかった。 べつのひとりが興味津々な面持ちで首を突っ込んだ、 「日本のタムルアット(警察官)?」 「どっちが?」 うっかり、変な聞き返し方をしていた。 「ああ、おれか?違うよ。日本の私立探偵だ」 曖昧な答えだったが、元締めは納得したようである。 「この男の女房から浮気の調査でも依頼されたんだろう?」 荒くれ男たちはニヤニヤした。 「まぁ、そんなトコだね」 はにかんで見せ、島崎はポケットのマイルドセブンを吸いたい者全員に振舞った。依頼者をあからさまに匂わせる探偵など、どこの国でも三流の部類である。モトサイの男達は、漠然と蟠っていた警戒心を解いたようだ、 「ミアノーイ(妾)の家なら知っているぜ。教えてやろうか?」 若い男が友好的に言った。浮気調査はでまかせだが、その“妾の家”こそ、求めていた物的証拠の核心だった。男と女の繋がりを物語る不動産の存在が決定的になれば、それで今夜は充分な収穫なのである。 「今夜はご無用。でも近く彼の奥さんを連れてくるから、その時はよろしく頼むぜ」 モトサイのライダーは、軒並み教養がないけれど、殊、ソーイ内のゴシップに関しては侮れない情報収集力を持ち合わせている。当たらず触らず、味方にしておいて損はない。 「こいつは流血沙汰になりそうだ」 ひとりが狂喜して言うと、どっと笑い声があがった。連中が縄張りにしているソーイの奥に、島崎がマークしている女のタウンハウスは間違いなくあった。道を迂回して、切らしていたタバコを買い込むと、さしあたり女のタウンハウスを一晩見張ってみることにした。 ガレージをはさんだ一階の居間に常夜灯の青白いあかりが伺えるだけで、中に人間がいる気配はない。しかも、妙に整然とした様子で、囲われ女のなまめかしい雰囲気はおろか、生活の匂いも感じられない。つまり、ここには誰も住んでいないのだ。目を凝らして見ると、居間は女物の洋服を仕立てる作業場になっていた。食堂の従業員でさえ店に住み込むのが当たり前のタイにあって、深夜の仕事場が無人になるなどずいぶん不自然な話しではある。とは言うものの、島崎にとってはミステリー性などない。むしろ推論の骨格にいよいよ肉がつき、思い描いた通りに顔の輪郭が現れてくるような気がした。 登記簿によると、所有者の女は、前の年の八月に、このタウンハウスを二百万バーツで購入している。バーツ崩壊以前の話だから当時の日本円に換算すると約五百万円になる。出資者は、もちろんコピー写真の男だ。しかし当座の課題は購入資金の出所だった。 タバコの袋に指をいれると空になっていた。コンクリート舗装の足元には二十本の吸殻が落ちている。東の空にはうっすらと黎明がさしていた。いかに亜熱帯モンスーン地方であっても、乾季の明け方は気温が十月の東京と同じくらい冷え込む。肩をすぼめ、二階建て長屋のあいだに曳かれた一本道を歩きながら、島崎はスヌーカーで競り合った日から一度も鈴木と連絡を取っていないことを思い出していた。日本人に限った話しではないが、この街で胡乱な同国人同士が良好な交友関係を長続きさせるのは難しかった。それほど、裏切りや抜け駈けといった背信行為が多いのである。 ___ネギはまだ寝ているんだろうか? 頭を切り替えると、島崎のかじかんだ心はいくらか生気を取り戻した。いかに常軌を逸した居候が転がり込んで来ようとも、稼業そのものを怠るわけにはいかない。ここ半月余りのあいだ、島崎がアパートで有佳と一緒に夜を明かすことはきわめて稀だった。“超常現象”と分類されている事柄は人類が未だ解明に漕ぎ着けていない自然現象だ。それ以上の何物でもない。こんな冷ややかな割り切り方をしている男には、はるばる時空を越えてやって来た少女を必要以上にちやほや優遇しなければならない理由が見当たらない。 ___おれにホスピタリティが足りないだけの話しかも知れん。 涼しい風がささやかな自己反省をのせて吹き去った。有佳のことを考え出すと注意力がどうしても散漫になる。踵を転じながら島崎はコピー写真の男に暇乞いした、 「今夜は来ないね、沢村さん・・・」 沢村は、ほんの一月前まで鈴木隆央をして“さるお方”と崇められていた人物だった。当事者たちに確認をとったわけではないけれど、その程度の背後関係を洗い出すくらい、島崎のような人種には朝飯前の芸当である。もっとも、タウンハウスの購入資金と、鈴木が運んだ四億円に因縁はない。事情はもっと複雑で、他愛なくもあった。 朝粥を炊きだす屋台が、踏み切りの辺りに並び始めていた。古い板で作られた小さな橋を見つけ、むかつくような臭いが立ち込める水路を渡ると、そこはウィバパディの大通りである。あづまやのないバス停は、まだ閑散としていたけれど、早起きの女学生が数人、おしゃべりに興じている。白い開襟ブラウスに黒いスカートを誇らしげに身につけているから大学生だった。 バンコクの路上にタクシーは四六時中事欠かない。だが島崎は左手の空港施設の群が途切れるまで、しばらく歩いてみようと思った。空港に降りて来る旅客機は、ヨーロッパから飛んで来る長距離便が大勢を占め始めていた。そして、淡い紫のまだら雲の彼方へ飛び発っていく離陸機の一群は、いずれも蘭の花を機体に描いたタイ航空の国内線だった。 「やい、チマ」 アパートに戻ると、だしぬけにカウンターからヒステリックな男の声が飛び出した。黄色と紺のストライプというまるで似合わない派手なポロシャツを身にまとう、生白くふやけた四十男の顔がのぞいていた。 「やあ、社長。ごきげんよう」 カウンターの男は、ゴールデンゲート・アパートメントのオーナーで、名前をプラセットという。潮州系のタイ人で、つまりは華僑の末裔である。 「いい身分だな。朝帰りか」 「ああ。でも女には袖にされたよ」 「はん。いい気味だ」 「あんた、やけにからむな。家賃はちゃんと払っているぞ」 するとプラセットは身をかがめてにじり寄り、小声で詰問した、 「あの女の子は、誰だ?」 有佳のことだ。 「ああ、会ったのか。いい女だろう?あれはおれの小学校時代のクラスメイトだよ。二十二年前に東京で神隠しに遭ったんだけれど、ついこの前、ウィバパディ通りで見つけたんだ」 非力なボディーブローが島崎のわき腹にのめり込んだ。真実はまま硬直した常識によって踏みにじられる。プラセットはまくしたてた、 「明かりが点いていたから、てっきりお前だと思って、パンツ姿のまま部屋に入ったんだ。そうしたら、女の子の悲鳴が上がって...見ろ。このザマだ」 恨みがましく下顎の引っ掻き傷をプラセットはみせつけた。 「ほう。あいつ、なかなかやるじゃないか」 つい日本語で島崎は感歎していた。有佳にそんな戦闘力が備わっていたとは意想外だったからである。 「住人は勘違いしておれを変質者扱いするし、大いに面目を失ったぞ。やい、どうしてくれる?」 「大家が裸でアパートの廊下をぷらぷらしていること自体、そもそもの料簡違いだよ」 しかし、プラセットの表情は一抹の羨望を覗かせながらも醒めていた、 「チマ。私のアパートはちゃんとしたアパートなんだぞ。それなのに、あんな十三歳の娘を囲ったりして。不埒者。お前みたいに風紀を乱す店子は非常に困る」 タイ人の目にも有佳は幾分か大人っぽく映るらしい。 「金持ち華僑のエロジジイと一緒にするな」 ぴしゃりと言って、島崎は付け加えた、 「あの女はな、... まあ信じやしないだろうが、十三歳ではなく三十三歳なんだよ」 「信じない」 漢字を読めないくせに真面目くさった顔で華字紙に視線をおとす潮州系の三世は淡々とこたえた。階段を上がりながら、島崎はあらためて考えた。冴木有佳は三十三歳なのか、それとも十一歳なのか?ともあれ、日本に帰れば、彼女が年齢の調整で苦労するのは確かだった。 そっとドアを開けると、破廉恥漢を撃退して一夜明けた娘はすやすや眠っていた。清純な寝顔は、すくなくとも三十三歳のものではなかった。 「いま、かえったの?」 有佳が乾いた声色で、ぽつりといった。 「起こして、悪かったな」 「目を閉じていただけよ」 青白い自然光の中で薄目を開ける有佳の表情には大人の女の色気がある。島崎はいよいよわけがわからなくなり、ディパックを床に抛り出すと、逃げるようにレインコートにくるまって、寝転がった。入れ違いにベッドの有佳は起き上がり、シャワーを浴びるため奥の小部屋へはいった。土地の人間と交流がないのに、だいぶタイの生活サイクルに馴染んできたらしい。 プラセットの一件を報告しようとしないけれど、これでも有佳はだいぶ“清水”になついてきていると解釈していいのかも知れない。もちろん開き直りも作用しているのだろうが、警戒心もほとんど見せなくなっている。その順応ぶりは、いみじくも昨夜示された応戦能力とともに、島崎の彼女に関する認識に再考を迫っていた。 __有佳を保守的な娘と決め付けていたおれは、彼女に聖母 めいた婦徳を求めていただけなのかも知れない__ 塑像されたイメージは、しばしばひとり歩きをはじめる。 有佳のことなら実害はないだろうが、もしこれが稼業の現場だったら、事と次第によっては破滅的だってもたらしかねない。果たして、これまで自分が下してきた判断の数々は、どれくらい正しく、あるいは間違っていのか?疑問符の解析は、夢の中で試みようと思った。 まどろむ目蓋の内側に、下北半島の蒼茫とした景色がひろがってきた。季節は初冬、荒涼とした原野と低く垂れこめる鉛色の雲。目に入る構造物は、遠くでかすむ原子力発電所が認められるばかりだった。シベリアから吹き寄せる剃刀のような風は、十七歳の肉体から体温を虚空へ運び去り、かわりに官能的な無感動を置いていく。轟く金切り音にすっかり馴化した聴覚は、ひたすら天女が奏でる笛の音色をさがしていた。モノクロームと見紛うような総天然色の世界を、若い島崎はゆっくりした歩調で慎重に枯草を踏みわける。 無粋な夢は、有佳がいない時代の、醇乎とした回想だった。ボロ雑巾のような衣類をまとう若者の視界には、しかしすでに五年前に行方知れずになった同級生の面影がはいりこむ余地が残っていなかった。 背丈ほどもある左右の叢が割れた。格闘ナイフを構える防護服の男がふたり、殺気をみなぎらせて飛び出し、素手の少年に踊りかかった。凶器は刃引きされているが、垂直に刺さればもちろんただでは済まない。咄嗟に左右の間合いを計り、近い左翼を手刀で倒すと大柄な右翼の背後に飛び込み、振り返る間を与えずこれを羽交い絞めする。しかし動作は止まらず、巨体とともに一息に身を翻すと背後から忍び寄っていた第三の伏兵に体当たりをくらわせた。さいわい敵の手にあったナイフは構えられる直前で、楯にされた陸上自衛隊員の壮漢は大怪我をまぬがれた。 「評点射撃の成績はいまひとつだが、白兵戦における状況判断力は、まあ、おおむね申し分ない」 陸上自衛隊幕僚本部から出向している私服姿の二佐がファイルを手にしていった、 「しかし、もしこれが訓練でなかったら、おまえは一呼吸置いて羽交い絞めした相手を有効に活用できたか?」 石油ストーブにのせた薬缶がカラカラ蒸気を立てている。土埃と機械油のにおいが染み付いた納屋には、口をへの字にむすぶ十数人の仲間が横一列に整列し、正面で話す男の襟元で光る青い桐のバッチを見つめていた。それは、表向き存在しないとされている“陸幕二課第二班”の紋章である。しかし最年少の島崎をふくめ、どの顔にも青い桐を珍しがっている様子はなかった。 「どんな状況下に置かれようとも生き延びることが貴様たちの第一の任務だ。一瞬の憐憫が自らの死を招く。生き残るためには、そこにあるモノは何でも利用しろ」 「心がけます」 返事をもとめられた島崎は歩み出て無表情に言った。 「実行しなければおまえが死ぬだけだ」 簡潔な指摘を受けた若者は敬礼して退いた。これに合わせるかのように建付けのわるい扉が開き、粉雪といっしょに防寒コートに身を包んだ直属の上役があらわれた。 「そのまま聞け」 無駄な労いの言葉はなく初老の“部会長”は淡々と切り出した、 「おまえたちも知ってのとおり、この演習施設は原子力発電所の拡張地区の名目で政府が確保し、通常は陸上自衛隊のごく限られた部隊が特殊訓練に使用している。専守防衛を謳う憲法に抵触しかねない訓練内容ゆえ、政府・防衛庁にしてみれば富士学校のように公にできない性質の施設である」 口調は物静かだったが、事新しく自分たちが身を寄せている非公式施設の謂れを聞かせる先任者の態度はいつもとだいぶ違っていた。 「当所内に侵入者がいる」 満を持したように異常事態の発生が通達された。 「政府の憲法違反を告発する目的で探りを入れにきた国内セクトの連中ではなさそうだ。柵外を警備していた自衛隊員のふたり殺され、ひとりが重傷を負っている。負傷者の話によると、警務隊を突破した侵入者は朝鮮語をあやつる四名の東洋人。いずれも小型の拳銃を携行している。おそらく原発の破壊をもくろむ周辺国家の破壊工作員だ」 この施設を警備する自衛隊員は、もちろん特殊な訓練を積んだ精鋭である。それがいともあっけなく三人も倒された。しかし表情のない十数名の居候は、沈黙を以って先任者の指示を促した。 「これは間接侵略ではない」 事態はすでに政治が介入する段階ではない、という意味だ。 「軽すぎる装備から見て四名は強行偵察もしくは陽動部隊と推測される。発電所を破壊するだけの兵器を携行した主力が他にいるものと思われる」 指令が伝達された、 「ぜんぶ探し出して始末しろ」 同士討ちを避けるため、演習地の隊員はすべて施設の防衛にまわり、能動的な戦闘は攻撃者としての訓練をつんだ十数名の民間人に委ねられた。もとより立法から厳しい制約を課せられている政府が手を出せない業務をカバーしていくのが、NGOと総称される機関である。内閣総理大臣が公に意思決定しない限り、防衛出動命令は成立しない。後方へ下がる自衛隊からお鉢を回された面々は、落ち着き払った面持ちで、それぞれ手早く実戦用の武器を身に付けていく。すると部会長はわずかにくだけた調子でいった、 「島崎訓練生は行かなくていいぞ」 あからさまに子ども扱いされたような気がして、島崎ははじめて人間らしい不愉快な眼光を放った。他の仲間より戦闘技術が劣っているとは思わないし、また、「卒業試験場」とあだ名された津軽の地でこの種の戦列から外される程度の能力なら、今まで遍歴してきた数箇所の訓練施設のどこかで確実に落伍しているはずだった。仲間は当初、五十人いたのである。 「この一年間、おまえはわが対ソ政策立案推進部会の人員として訓練を受けてきたわけだが、昨夜急遽、来春の“モスクワ留学”が取り止めになった。いますぐ三沢の在日米軍司令部へ行くのだ」 どこかよその方面で欠員が発生したらしい。対ソ政策立案推進部会は付け加えた、 「代表幹事直々の転属辞令だ」 頂点の判断だった。こうなると転属の理由や新しい任務は部会長にも知らされていまい。言われるままに、小雪が舞うなかで掃討戦へ赴く仲間たちとわかれ、若者はひとりオフロードバイクのキックペダルを踏みおろした。寒い国の人事からはみ出したその行く手に、黄砂が舞う大陸がひろがり、さらには陽炎ゆらめく灼熱の国が待ち構えていることを、島崎訓練生は知る由もなかった。ちなみに、そのあと原発事故発生のニュースは巷へ伝わっていない。事実は恙無く闇から闇へ葬り去られたようである。 目じりを這う冷たくてやわらかな感触にまどろみをおかされた。漠然とした眩しさも手伝って、島崎が瞼をこじ開けると、有佳のシルエットが、あわてて人差し指をひっこめた。 「“バカ”って書くならマジックで書きなよ」 胡座をかく有佳は首をすくめてかぶりをふり、ためらいがちに訊いた、 「それ、いつ怪我したの?」 何の考察も結ばなかった不毛地帯の夢から醒めた男にとって、有佳の清涼な声色は潤いだった。問いかけを咀嚼するのにしばらく時間を要した。島崎の右目の横には古い傷跡がある。 「単車で事故った時だったかな?いちいち覚えていませんよ」 唇をとがらせて、有佳は何もコメントしようとしなかった。 「冴木さん、いま何時でしょうか?」 「もう、お昼過ぎよ」 太陽が高かった。 「夜中も仕事しているの?」 「新聞社がケチでね。夜中もアルバイトをしないと食っていけないんだ」 島崎はドンムアンから持ち越したタバコの空袋をまさぐり、 「タバコを買いに行く」 と言いながら起き上がった。 「あたしもいっしょに行く」 外気を吸ってみるのも、精神衛生上わるくない。ゴールデンゲートアパートメントの斜め向かいに店があった。タバコはもちろん、コメ、食品、新聞雑誌に日曜雑貨まで、何でも扱っているよろず屋だった。店の奥には道教の紅い祠が安置されている。この店を切り盛りしている一家もプラセットと同じ潮州系タイ人だった。そもそも、バンコクの華人社会は潮州人の世界と言っていい。東南アジアで圧倒的な勢力を誇っている華僑といえば、福建系や広東、海南系だが、ことタイにあっては、広東系の一派にすぎない潮州人が、マジョリティをはるかに凌いでいるのだ。 これまで一度たりとも部屋から出ようとしなかった有佳にとって、これが初めての外出だった。白々とした陽光に灼かれる道端でコーラを啜りながらタバコを吹かす清水を尻目に、煤けた店内をあれこれ見て回っている。こんな有佳の気まぐれを見るのは初めてだった。 「ねえ、清水さん」 手招きにへいこら応じてみるのも、悪い気がしなかった。 「タイのおコメって、なんだか針みたい。これがインディカ米?」 「うん。ふつう、タイ米って呼んでいる」 ややあって、“インディカ米”という語彙におどろいた、 「でも、冴木さん」 「はい」 「あんた、小学生だろ?なのに、妙に泥臭いものに詳しいね。この前だって、トマトの土をしっかりチャックしていたよな」 言いながら、島崎は有佳という娘の特異性をひとつ思い出した。同年代の悪童に彼女をことさらおばさんくさく見せていた理由として、その読書趣味が挙げられる。本を読む、と言っても有佳の場合、学校指定図書はそれなりにこなしつつ、一般の子供には難解な大人やもっと高い年齢の青少年を対象とした類いの文学書や歴史小説も当たり前のように読みこなす変り種だった。チャンバラ小説と美少女の取り合わせは、たしかにミスマッチで泥臭い。 「そうかしら」 理科もまた、優等生にとっては得意科目である。風邪気味の康士にすき焼きのネギを食べるよう勧める給食当番は、別段インテリジェンスをひけらかしていたわけではなく、きわめて土俗的なおばあちゃんの知恵を口にしただけだったようだ。 「タイ米って、チャーハンにするとおいしいよね」 「白米のままじゃ、とても食えたもんじゃないけれどな」 あらたに有佳の印象を打ち消すような、苦い記憶がこみあげた。 開襟ブラウスを来たこの国の女学生の肖像が、ふわりと脳裏に描かれる。しかし若い娘の容貌は泰西風、あからさまな混血児の彼女は、前置きなく、舌鋒鋭く切り出した、 --- “礼節の国民、と言われているみたいですけれど、日本人というのは、ずいぶん身勝手で思いやりに欠けた人たちなんですね!” --- 「その人、だあれ?」 「ヌンだよ・・・」 と刹那脳裏に描いた女学生の名前を口走り、はたとして、島崎は壁に向けられた有佳の人差し指を追った、 「ばか!このお方はラマ九世、タイの現国王陛下であらせられるぞ」 怒鳴られて、有佳は身震いした。 「ごめん。叱るつもりはなかった」 疑わしげな上目遣いで清水の顔色を伺い、有佳はいった、 「ううん。いいの。あたしがいけなかったんだから」 聞き分けのよさが、却って島崎をうろたえさせた。 「タイでは王さまが国民からとても尊敬されているんだ。だからどこの家や会社にもこうした“ご真影”が飾られているのです」 ついでなので、社会科の授業を続けておくことにした。島崎は生徒を店の外に引っ張り出して、木々のむこうにある小学校を指した、 「あのポールではためいているのが国旗。タイの国旗は合計五本、青、白、赤三色の横縞からデザインされています。中央を横切る青一本が王さま、そして、それぞれ二本ずつ、内側に白、外側に赤の線がはしっているでしょう。白が仏法、赤が国民の血潮を意味しています。つまり、国民と仏教が王さまをお護りする国柄がそのまま意匠になった国旗なのです」 有佳は神妙な面持でうなずいて聴いていたが、 「あっ!」 と、突然黄色い声をあげた。振り返るとラチャダピセク通りのほうから車道を灰褐色の巨体に長い鼻をたらす獣が二頭、悠々とした足取りで歩いてくるのが見えた。 「あれは、なあに」 「何って、観ればわかるだろう、あれは象だよ」 「信じられない。ここ、町なかなのに」 「縁起担ぎのくだらない興行だよ」 「すごい。こっちに来るよ!」 町中を練り歩く象など島崎にしてみればちっとも珍しい光景ではない。しかし有佳 にしてみれば、ずいぶん新鮮な驚きだったようだ。 「カンボジア国境のほうからスワイ族という土人に連れられてバンコクへやって来るんだ。象つかいに金を払って、腹の下を潜り抜けると幸せになるらしい」 迷信のいわれなど島崎にもわからないが、ひとしきり簡潔に説明した。 「冴木さんも象さんのお腹、くぐってみる?」 「やだよ。こわいもん!」 “清水”にしがみつき、その腕にやわらかな頬を押しつけながら有佳は弾けるように笑った。そんな有佳の甘えた仕草に、島崎は落胆と嫉妬をおぼえずにはいられなかった。彼女がいま、あたかも恋人のような格好でぶらさがっている相手は、素性も定かでない大人の男なのだ。ふしだらである。これは“二十二年前の自分”に対する背徳である。しかし“二十二年後の少年”の気分は満更でもない。またもやわけがわからなくなり、結局やけっぱちで、一緒になって笑った。笑いながら、何が笑うほど面白いのかを深刻に考えた。そしてようやく有佳が明るくなって嬉しくてたまらない自分の気持ちに、気がついた。 バンカピの空は、快晴だった。 |
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