輪廻について、考えた。

 人間の本質は魂魄である。

 死んだ人間の肉体は、抛っておけば、腐る。この国のモルグや司法解剖の現場で、必要最低限の無常観は学んでいるつもりだ。そして輪廻転生を前提とする考察を試みる以上、「魂魄原理主義」は、仮説の核心に持って来るしかない。
 そう。輪廻も、魂魄も、現段階ではあくまでも方程式にぶち込む非理性的なブラックボックスであるに過ぎない。
 だが、まやかしを承知していても、そんな風に信じてしまえば、この世の悲しみ、苦しみ、圧迫感、怒り、憎しみ、嘆き、ほか、ネガティブな感情のすべてが整合化され、反対に喜びや楽しみは色褪せ、諦観や希望を超越した全肯定的ニヒリズムに到達するはずだ。
 自らの不完全さと正面から向き合い、能動的に騙されてみるのは、真の大人の知恵でもあろう。ノーベル賞なんて代物は要らないが、このお為ごかしの自己欺瞞、用い方によっては世界平和に寄与するかも知れないな。

 世迷い言を続けよう。

 魂魄には年齢も性差もない。

 いま、現世で肉体を備えて活動する魂魄の群れが、いったい何時頃発生したものなのか、面倒くさいので、今日は考えないことにする。
 しかし、輪廻というリサイクル運動には、人体の脳味噌では算出しきれない偏差があるはずだ。
 仮に魂魄が細胞分裂のように増殖したものだとすれば、まず、オリジナルに近いもの、末端で発生したもの、真中あたりで生じたもの、といった序列くらいはあるかも知れない。それでも基本的には、すべてが煩悩を克服し、無の境地へ消滅していく本義を与えられている・・・と、考えるのが仏教流の原理主義であろう。


 現世には百八の煩悩があるというが、地獄の数からして暑いのと寒いのが八つずつ、と言ってみたり、それぞれ八つずつ、小さな地獄が付帯している、と言い出したり、とにかく仏典に出てくる数字は軒並み腹立たしいほど大雑把なので、実際のところ、人間の世界に煩悩が幾通りあるのかは、わからない。いずれにせよ、魂魄は新たな肉体を得るたびに、これをひとつひとつ体験し、克服することによって、質を高めていく・・・と考えてみよう。だから、肉体の老朽化は、魂魄の実年齢(=権威)と関係ないし、男と女の違いも、世俗的ノルマの遂行に相応しい乗り物が与えられている、と解釈する。さすれば仏教的総論の前に、儒教や朱子学が説く倫理観や、男女雇用均等法云々などという議論が、きわめて矮小な枝葉末節に過ぎないことも、容易に納得できる。
 ついでに言及すると、ほとんどすべての生涯に性懲りもなく影を落とす欲望は、ゴルフのハンデみたいなものだろう。哲学者が自らのリビドーやフラストレーションをゲーム感覚であしらうのは、造作もないはずである。

 貧富も善悪も、頭や容姿の良し悪しも、長大な修行の課程にもうけられたノルマであって、魂魄の優劣を決めるものではない。前世で旧華族の娘として生まれた美女が、現世では不動産屋のタヌキ親父をやっていて、来世では実直な貧乏サラリーマンになる。その魂魄は、栄耀栄華と美の凋落を学び、現在は強欲の手練手管を研究し、次に報われぬ努力のカリキュラムをこなすわけである。タイ人はよく、現世で功徳を積めば来世はよりよい身分に生まれることができる、と言うが、これは仏教的予定調和説を逸脱したご都合主義なので、相手にしないことにする。
 すべての魂魄が、あらゆる境涯と運命を一頻りこなすと考えれば、世の中に対していだく刹那的な怨嗟や不平等感を自嘲できるようになるはずである。ストレスも、ずいぶん軽減されるだろう。

 蛇足を続けよう。

 寿命の長短も、幸福と不幸の尺度で割り切るのは間違いかも知れない。

 心ならずも夭折する人は、現世に対する執着の有り方を学ぶ魂魄であり、残された家族は、それぞれ子に先立たれる親の苦しみをノルマに課せられた魂魄、未亡人の悲しみを学ぶ魂魄、恋人を失う切なさを知る魂魄の組み合わせと見なすことができよう。もとより、唯我独尊の魂魄には、家族という馴れ合いや呪縛は介在していないのである。
 学ぶべきことを学んだら、さっさと次のサーキットへ移るのが効率というものだ。
 極悪非道の犯罪者は、その生において、修羅の境地を体験する順番にあたった魂魄であり、極刑によって因果にけじめをつける。一方の、無残な殺され方をする被害者は、理不尽を学ばなければならない魂魄だ。彼らを取り巻く慟哭や憤りは、外野の魂魄にとって、教材に該当するだろう。

 自殺する人がいる。
 これも、今回の生涯で、そうした宿命を学ぶ予定になっている魂魄だから、JRのホームで茫然自失としている人を救うのは、大きなお節介というものだ。もっとも、列車が遅れては困る立場の魂魄は、自らのノルマ達成のため、自殺を経験する魂魄のスムーズなシフトを邪魔しようとするのはやむを得ないし、生命や因果を考える相互啓蒙の行事として、自殺に関連する議論もあながち無意味とは言えまい。
 自殺とは、自ら生命を絶つ行為ではなく、自力で現時点の肉体を切り離す手続き、と解釈しておくのが、無難な仏教的思弁かも知れない。








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