アホな同国人は、しばしば、こうした台詞回しで己の無知加減を露見させる。

 「タイの仏教は上座部だから、大乗の日本よりも本格的ですね」

 ・・・そんなことあるもんか。どっちも、いい加減だよ。


 髪と眉毛、ついでに打ち明ければ急所を守る毛まで剃り落とし、サフラン色の法衣をまとってホワイクワンは○○寺の庫裏に息を潜めること三ヶ月。たとえ益体のないやつであっても、そろそろ母語で毒舌を叩きつけられる日本人が恋しくなってくる頃合だ。

 だが、いま還俗するわけにはいかない。シンガポーリアンなどと呼び名だけ気取ってみたところで、所詮はちゃんころ。債鬼に見つかったら最後。四千年の治乱興亡で鍛え抜かれた敵は、私からフォアグラのように不健康な臓器を引き抜いてでも貸し付けた資金の回収を図ろうとするだろう。
 かかる没義道な背景を知る和尚は、タンブン行脚こそ免除してくれているが、読経は月並みにやれと言う。タイ人の坊主の中で、ひとりだけ般若心経をムニャムニャ唱えるのも、けっこう目立つ。あからさまに異邦人の贋坊主だ。密告者会だけに、本堂に檀家の連中が入ってくるだけでもはらはらする。
 まあ、これも娑婆で好き放題やってきた報いだろう。
 因果応報とはよく言ったものである。

 借金取りに捕まっても、引導くらい自分で渡せるようにしておかなければ、日本民族の名折れである。本腰を入れて、仏教的諦観の世界へ逃げ込むことにしたのは、そんな見栄の所産だった。


 さて、立派な宗教家であるかどうかの議論は別にして、池田大作や大川隆法が、基礎を忠実に踏まえた思想家であることは門外漢の私も認めている。主だった著作はすべて読んだように思う。ゴーストライターの容喙があろうとなかろうと、かかるカリスマたちが傾聴に値することを言っているのは確かである。
 だからといって、彼らの見識を、そっくり創価学会や幸福の科学に代入しようとは思わない。
 その理由を理解できない信者は文字通り、論語読みの論語知らず、である。
 優れた思想家につきまとっていれば救われるほど、仏教の個人主義は寛大ではない。
 「人間革命」は池田個人の探求の精華であり、エルカンターレは大川専用の桃源郷である。信者にとって、これらは貴重な参考書になるだろうが、とどのつまり、著者本人以外の生物固体にとって、絶対ではない。
 はっきり言って、拝むだけで救われたい人は、キリスト教の洗礼を受けたほうがいいだろう。

 梵教の傍系、仏教は、大衆が聖職者から一方的にドグマを習う宗教ではない。
 厳密に言えば、果たして「宗教」であるのかどうかも疑わしい。
 個々が自身の努力によって悟りの彼岸へ至ろうとする、修練の様式に過ぎないのではないか。
 西洋では、「死」より「生」を主体に置くケースが多いものの、同じような精神活動を「哲学」と呼んでいる。



 仏教の究極は、輪廻転生を卒業し、無の境地へ解脱することである。
 「何もない世界」と聞かされて、暗黒の闇を想像する人もいるだろう。あるいは、真っ白の靄を連想する人も少なくあるまい。
 だが、黒も白も、色である。「色彩」が存在する以上、その世界が無であるとは言い難い。
 仏陀は、入滅の直前に、黒くもなければ白くもない空間のイメージを把握したのだ。
 しかるのち、輪廻の連鎖から解き放たれ、涅槃入りを遂げた・・・ことになる。
 黒くもなければ白くもない世界が如何なるものか、もちろん私ごとき俗物に知る由もない。

 ところで、私が本朝の大乗仏教のみならず、金ぴかの仏塔や黄色い法衣が象徴するタイ仏教をいい加減呼ばわりする根拠は、そこにある。
 無の境地を目指そうとする者が、どうしてミニチュア須弥山や極楽の色彩を神聖視しなければならないのか?悟りを開くだけなら、素っ裸で自宅の物置に篭り、座禅を組んでいればよいではないか。いちいち専用の施設を豪勢に普請し、エキセントリックな装束に身を包まなければ到達できない彼岸など、果たして本物と言えるのだろうか。倣岸な持論をぶち上げれば、こんな儀式ばったものは必要ない。わるいが、こうした本末転倒のパフォーマンスには、教団というエンターテイメント産業が固執してやまない利権の匂いがプンプンしているように感じ受けてしまう。
 まあ、それでも、そんなお寺に隠れることによって、私はかりそめの禍を遠ざけているわけだし、この世は持ちつ持たれつ、これ以上辛辣な批判は差し控えるのが仁義であろう。
 西洋美術の源泉は、教会の宗教画である。壮麗な御伽噺の絵巻は、その多くが文字を読めなかった欧州の大衆を魅了し、教会を大いに肥えさせた。同じ権輿で、仏教にも相応のシンボルが必要なのだろう。
 宗教はともかく、芸術家や建築家の優れた技巧を否定するほど、私も狭隘に成りきれない。
 大半は生臭坊主の懐におさまると知りつつも、高い拝観料を払い、京都や鎌倉の寺を慈しむ心情は、インドシナの寺院にも当てはまる。
 そして何より、いい加減を包み込む器量も、仏教の大らかさだ。
 これはこれで、善しとしよう。

 話を元に戻す。
 仏教の教義は、忌憚なくいって、メチャクチャである。
 誰も真髄を理解していないから、百家争鳴が二千五百年間続いている。
 しかし、混沌は決して恥ずべき状況ではない。人間は、ハンパだからこそ、この世に生まれてくるのだ。教義を素直に解釈すれば、完璧な魂魄は、さっさと無秩序な世俗から消えてしまっていることになる。だから、どんなに偉い高僧だって、うつし世の生を背負っている限り、いまだ究極の悟りを開いていない有学の徒なのである。
 澄ましきった顔で聖人ぶろうと背伸びをしたところで必ずボロが出る。
 そんな者、端から俗世にゃ居やしないのだから。

 仏教における僧侶の本義は修行者であり、迷える俗物にアドバイスを与えるのは、教師的な職務でなく、先輩の義務遂行と捉えたほうが無難だろう。見方によってはイスラム教のような規範宗教に比べて自由だが、裏を返せば仏教は、つねに重大な自己責任が問われる、大人向けの宗門なのである。







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