* この物語はフィクションであり、登場する人物、企業、
団体、一部政府機関の名称は架空のものです(著者)。




第四十八話




 隠密裏に周到なお膳立てがなされ、ひとつのプロジェクトが実を結んだ。
 “初代冴木有佳”は昭和五十九年で、民法第三十一条[失踪宣告の効力]に従い、民法第三十二条[失踪宣告の取消]を請求することなく、あくまでも死亡させることにした。
 その一方で、年数回のタイ渡航歴を持つ冴木幸恵は、昭和六十三年にバンコクを訪れた際、“二代目・冴木有佳”を出産。帰国の時点で生後間もない女児を伴わず、ナコンサワンの父・モントリーに養育を委託した。ただし、あわただしい日程の中での出生手続きに不備があった。いまとなっては誰のミスだかわからないが、いずれにしても、バンコク生まれの娘は日本とタイのどちらにも住民登録されることなく、すくすく成長していく・・・。
 冴木幸恵が冴木義成と正式に離婚するのは平成二年のことだから、辻褄を合わせは容易だった。
 “二代目冴木有佳”は、“ユワディー・スントーン”という現地名を用いながら、従姉で弁護士のステファニー・スントーンと同居し、ルンピニの私立学校に通い、現在に至る。学校で撮影したスナップや落雷の写真で表彰を受ける模様を掲載したタイの教育新聞が有力な根拠になった。なにしろひとつの人格をふたつの人生に分割したのだ。水面下でどんな荒業が用いられたのか、想像に難くない。しかし柳田に任せた以上、島崎は一切口出ししなかった。いずれにしても、如何にもタイ仕込みのはぐらかしと欺瞞工作が前向きに転用されて、有佳には『十二歳の少女』の立場が確定したのであった。



 残暑が厳しい午後だった。日本の景気は相変わらず芳しくない。ところが、いつも受身のタイ国から能動的な出資話しが持ち上がり、立ち上げられたクラ運河採掘調査委員会の日本事務局は赤坂に置かれていた。もっとも、この事務所で働くスタッフであっても、タイからもたらされた『Rice For Grandchildren(子孫のコメ)』と隠語で呼ばれる秘密資金の謂れを知る人間は、ごく一握りだった。
 「九月も終わりだというのになんて暑さだ!バンコクへ避暑に帰りたいくらいだ。まったく、世の中、狂っているよ。“メコン組”の横槍がなんだ。死ぬ気で予算をぶん捕れ」
 空色の事務服に身を包んだ島崎は、喧嘩腰で電話口にがなり立てていた。
 「おれは騙された。オリジナルのパスポートは返してもらえたけれど、何が一週間の事務局立ち上げだ。ぜんぜん段取りがわるい。いつから日本は発展途上国になった?」
 帰国して、すでに四ヵ月が経っていた。
 「怒ったって、しょうがないよ」
 ソファで胡座をかき文庫本を読みながら、すっかり黒髪に戻った有佳があきらめたように言った。電話を置きながら島崎は憤りの矛先を少女に向ける、
 「おまえはいったい、なんだ?就学年齢のくせに、ひねもすこんな場所でお茶を濁しているんじゃない。行儀も悪い」
 白いブラウスに濃い紺のスカートをはく有佳は、越境入学という形をとり、都心にある公立の中学校の一年生に潜り込んでいた。
 「学校、つまらないの。世代が違うから、話題も合わないし」
 「めったなことを申すでない」
 書類上、この有佳はかつて御殿山小学校に通っていた有佳とは別人なのである。昭和の記憶は、必要に応じて消していくよう努めなければならなかった。
 「時代感覚の調整だと思って、我慢しなさい」
 「自分はいつも我慢できずに喧嘩しているくせに」
「やかましい。柳田が悪いんだ。おれが折角、柿沼一派の動きを封じ込めたのに、まだ東シナ海から六百億をサルベージして来ない。これではいつまで経っても、調査委員会のままだぞ」
 島崎は貧困が続くメコン川流域の開発を否定しているわけではない。国境を接し、久しく敵対関係が続いていた複数の国家の思惑を調整する難しさを認識すればこそ、クラ運河の成功実績を発言権に取り込まなければ挫折する、と弁えていた。
 「だからこそ、征ちゃんをフォローしてあげないといけないんじゃない?」
 「チームプレーは昔から苦手なんだ」
 「知っているよ」
 反抗期が始まっていてもおかしくない年頃だった。有佳が唇を尖らせると、電話が鳴った。年配の女性事務員が受話器を取り上げ、二言三言、英語をしゃべる。
 「座長」
 と、島崎を呼ばわった、
 「バンコクの病院からですよ」
 「病院?誰か事故にでも遭ったのかな?」
 島崎は訝し気に電話に出た。
 「はろー・・・」
 『おめでとうございます!』
 知らない女の声だった、
 『可愛いベイビーですよ!』
 「はあ。あなたがですか?」
 『わたしは看護婦ですよ。いまさっき、あなたの奥さまが元気な男の赤ちゃんを出産なさいました』
 ステファニーが男児を生んだ。妻の妊娠を知らなかった男は、しばし呆然と佇み、空港で最後に見かけた女のジャンバースカート姿を思い起こした。
 「どうしたの?」
 有佳は男の顔を覗き込んだ。久しぶりに耳にする島崎のタイ語だけでは要領を得なかったのだ。
 「ヌンに、ガキが生まれたらしい」
 「やったじゃん!おめでとう、パパ」
 そう言う有佳の父・義成は、六月に入ってまもなく帰幽していた。中学生の姉は今、通産官僚の弟とふたりで暮らしている。
 「おれの子だろうか?」
 半信半疑で島崎は首をかしげた。逆算すると、思い当たる節があった。バンカピのゴールデンゲートアパートメントで、有佳の妖しい誘惑にさらされた直後、ステファニーが現れた。チャトチャクへ連れ戻された島崎は、有佳をゲストルームに残し、手荒な手段で驕慢な妻をものしている。子種はどうやら、その仕込まれた時らしい。
 「まあ、誰のガキでもいいや。喧嘩相手には、お誂え向きだ」
 意味不明の独り言を聞きとがめ、有佳ははたと思いついた、
 「“ケンカさせてください”か・・・コウ、タロ?ね、康くん。赤ちゃんの名前、“康太郎”がいいよ!」
 有佳はこの瞬間、島崎とステファニーの間に生まれた男児の名付け親になっていた。






     【エピローグ】


 今年は開花の時期がすこし遅くれたけれど、三月下旬、バンコクに生えているインタニンの樹は枝いっぱいに淡いピンクの花をつけた。満開に咲き誇る花弁はしかし肉厚で、受粉がすむとぼたぼた地面に落下するところが幻滅ものだが、遠目に桜の風情を連想させるインタニンは、この地に住む日本人から郷愁をこめてタイ桜と呼ばれている。

 ランチタイムの『食いの国』では、昼間から酒をあおりに来る客のために、五十絡みの店主が黙々と焼き鳥の串をひっくり返していた。
 「日本の国が、使ってください、と言ってるから、ワシはこんなものを持ち歩いてやっているんだ」
 パスポートを乱暴に掲げてわめく年配者は酔っていた。これを受けて同行していた初老男が相槌を打つ、
 「もう何十年も前からボーダーレスの時代って言われているのにな。政治家どもは何もたもたしてるんだか」
 カウンターの端の席で、ひとりブルーベリージュースを啜っていた二十歳くらいの若者が、煩そうに目を細めた。東洋人だが、どこか泰西の血筋をしのばせる骨相だった。
 「よし。それじゃ一丁我々でパスポート廃止運動でも起こそうじゃないの!」
 「おう!ついでに、重婚も合法化してやろう」
 辺り憚らない下品な笑い声に耐えかねて、ついに若者は立ち上がった、
 「それじゃ、おじさん。こんなものは要らないな」
 言うが早いか初老男のパスポートを取り上げると、ライターの火を近づけた。中綴じのページにぱっと引火して、年配男のパスポートは炎につつまれた。燃え盛る日本旅券を眩しげに眺めながら若者はふんぞり返って言った、
 「天地の恩、親の恩、社会の恩、そして国家の恩。これら四つの恩義に背いたとき、その人間は自身の尊厳をも放棄する。さあ、この青いダイオキシンの炎はおれからのはなむけだ。コスモポリタンは今こそ国籍の頚城を取り払い、どこへなりとも行くがよい」
 「なにをっ、若造!聞いた風な口を叩きやがって!」
 「そうだ、生意気だぞ」
 これを受けて若者は、ことさら生意気な調子でいった。
 「若造から舐められきった年寄りは、貧困な語彙でキャンキャンほえる」
 初老男の取り巻きが殴りかかると若者は難なく拳をよけて、ひょいと足を突き出した。
 「うわあっ!」
 足を引っ掛けられた男は、階段までよろめいて突き進み、やがてものすごい音とともに階下へ転げ落ちていった。すると、入れ違いに軽いヒールの音が駆け上がってきた、
 「やっぱり、あんた?なんて乱暴なことをするのっ!」
 駆け込んできたのは、南国にあって、はっとするほど色の白い三十路女だった。可愛らしい横顔に似合わない長身が愛嬌だったが、身にまとう作業着もずいぶん異様だった。女は若者を叱咤すると、燻るパスポートを手に放心する男に頭をさげた、
 「本当にすみませんでした」
 面を上げると、切れ長の上品な眼差しが注がれた。場違いなまでの美貌だった。
 「でも、へっちゃらですよね?あたしも子供の頃、自分のパスポートがなかったんですけれど、それでもちゃんとダンプカーを運転して日本へ帰ったんですよ」
 首をすくめるワーカー風の女は、大きなハンドルを切るポーズを鮮やかにきめると、早口にでまかせめいた台詞を並べながら、しきりに若者の背中を押しこくった。
突如脈絡なく出現した“建設の女神”を注視しつつも、声を発する者はひとりもいなかった。女は周囲を気にせず、店主に声をかけた、
 「あのー、いちばん美味しい日本のお酒、譲ってくださらない?テイクアウトします」
 口数の少ない店主は、仕入れたばかりの一升瓶を差し出した、
 「これがいいかな。新酒ですよ」
 「ええ。頂きますわ」
 言われるままに、女は財布から真新しい紙幣を取り出した。
 「それでは、ごめんあそばせ」
 愛想笑いを振り撒いて、切り揉みするように剽悍な若者の首筋を猫掴みすると、一陣の風は姿を消した。
 「なんだありゃ?掃き溜めに鶴。やけにいい女だったな」
 しばらく呆気に取られていた外野たちが我に返って囁きあう。口火を切ったのは職探しをして、バンコクへ流れてきて日の浅い浪人者だった。これを受けてゲストハウスを経営する別のひとりが感心しきった面持ちで説明した、
 「写真家のユワディって女、知っているか?」
 「いや。聞いたことがない」
 すると傍らのテーブルから、事情通を気取る男が言った、
 「写真家だって?いやいや。あんな可愛い顔をしているけれどな、あの女は日本の工業大学で土木の博士号を取っているらしいぞ。来月、チュンポンへメインオフィスが移転するクラ運河事業団の新しい事務局長だ。いまひとつ過去が謎に包まれているけれど、タイや日本の政界にどえらい影響力を持っているロビイストで、日本人という噂もある」
 焼き鳥の皿を置いて、在タイ三十年の店主が静かな口調で割り込んだ、
 「日本名は、冴木有佳って言うんだよ」


 二〇二二年四月中旬。
 クラ地峡に開通する運河のテープカットをあくる日に控えた暑季さなかの午後だった。前日まで繰り広げられていたソンクラーン祭りの昔ながらの攻防戦は一段落していたが、躍進する南部地方への大規模な商業機能移転が進展するバンコクは、往来する人の姿も多く、引越し前夜の雑然とした活気に満ちている。チャオプラヤ川に面した昔ながらのクロントイ港しか持たないバンコクに比べ、水深の深い良港に恵まれた隣のチョンブリ県も、アレックスと名乗っていた侠客時代の過去が噂されているひとりの老練な実業家によって“横浜化”され、畸形的なタイの一極集中は緩和されて久しい。太陽エネルギーによる送風機が完備した全天候型スクムビット・アーケードは、初夏のヨーロッパを思わせる涼風が、ヨハン・シュトラウス二世の心地よいワルツの調べを乗せて吹きそよいでいた。
 女帝ラマ十世を頂くチャクリー三百年の王都は、これから政治と仏法の中心地へと街の機能を鮮明化していくことだろう。かつて無秩序な乱開発のすえ、効率性に欠けるソーイが随所で寸断し、重油のような汚水であふれかえっていた水路も、いまではすっかり改修が進み、萌えるような翡翠色の水をたたえていた。
 日本から戻ったばかりの島崎康太郎・スントーンは、久しぶりに会う冴木有佳に訊いた、
 「どうでもいいけれどさ、新任の公団事務局長がバンコク界隈でうろうろしていていいのか?」
 「あたしの就任は来月から、って聞いていない?あたしの身分はまだバンコク事務所の技術スタッフよ。閘門開閉の最終チェックは昨日すべて完了したわ」
 「なんか、とてつもなく下品な話に聞こえるぞ」
 無言で有佳は康太郎の尻を叩いた。緯度に沿って採掘された全長四十三キロのクラ運河は、中米の南北を長大に貫くパナマ運河ほどの干満差を気する必要がなかったけれど、太平洋とインド洋の間に数箇所の水位調整施設が設けられている。有佳は一週間かけてこれらの諸設備を点検すると、この日の朝、チュンポンからホバークラフトでタイランド湾を横切り、バンコクへ戻っていた。
 「インタニンの花が満開ね。東京の桜はどうだった?」
 アーケードが途切れたところで康太郎は歩調をとめ、芝居がかった仕草で頭上に突き出したインタニンの枝を見上げた、
 「おれは半分タイ人だけど、桜の花は日本人の血潮を官能的に狂わせる。しかし、花はふつう女の美しさや可憐さを比喩するものだが、桜だけは例外かも知れない。よく言えないけれど、あれは男性美だよ。男の生き様そのものだ」
 重い花弁が一輪、康太郎の尖った鼻先にへばりついた。
 「そうね。愛する人を置き去りにして、さっさと散っていく自分勝手な男たちそのものだわ」
 新劇女優のような身振りをさり気なく交え、調子を合わせる有佳の皮肉は、あまり若者に受けなかった。丸い花弁をトナカイのように顔へくっつけたまま、若者は哲学的に言った、
 「果たしてそうだろうか?次の年に咲く花を信じているからこそ、桜は未練を残さずに散ることができるんじゃないのか?桜は生死を超越した男の美意識を顕現する花と言っていい」
 彫りの深い顔を眩しげにしかめる表情は、有佳が五十年昔の或る通夜で拝んだ遺影のそれとよく似ていた。この若者の父親は、その祖父に酷似していたというから、島崎家には隔世遺伝の傾向があるのかも知れない。
 「あんた、やけに文学的な男になったじゃないの。見たわよ、公団に提出された康太郎の願書。施設警備が第一志望で、管財業務が第二志望すって?ぜんぜん専門分野が違うじゃないの」
 「有佳たんの真似をしただけだ」
 「誰が”有佳たん”だ?」
 非力ながらもシャープな肘鉄が康太郎のわき腹を抉った。
 「三月いっぱい東京にいてさ、年齢制限で引っかかっていた剣道三段の昇段審査になんとか間に合ったよ。身に付けた芸当はそれだけじゃない。気まぐれで応募したアジア共同防衛機構の予備役試験に合格しちゃってさ、白兵戦のノウハウは言うに及ばず、艦艇や戦闘機の操縦もマスターして来た。どんなもんだい」
  この若者の支離滅裂ぶりには慣れているつもりだったが、有佳は悪意をこめて話の腰を折った。
 「あんた、とうとう日本国籍にしなかったんだってね」
 二十二歳になった時、混血児の康太郎はタイ国籍を取得していた。
 「地理的事由ってやつだな。おれはタイと日本の愛国者だよ」
 タイの国力が成長した、といよりバブル的経済構造を根底から修正した日本の建設的な国力低下によって、両国の較差は昔よりだいぶ狭まってはいたが、不利を承知で生まれ育った国土に仁義を通した青年の選択は、人々の目にまだまだ奇異に映った。
 「頭が痛くなるわ。そもそも康太郎は日本へバイオコンピューターの勉強をしに行っていたんじゃなかったかしら?」
 「言い忘れた。卒論のタイトルは“ラッダイト運動の整合性”に変更したんだよ。ついでに、小学校の教員免許も取って来たぜ」
 康太郎はひねくれていた。血は争えない。おまけに母親譲りの論理性が、父親から受け継いだ屁理屈好きな性格を、とことん補強している。有佳はあらためて頭をたれた。
 「でも、流石に運河の完成は見届けたかったみたいね。わざわざタイへ帰って来るくらいだから」
 これを受けて康太郎はいつになく神妙にいった、
 「結婚したい、と思ってさ」
 何を生意気な、と言わんばかりに、三十路の未婚女は底意地悪く訊いた、
 「ふうん。よかったわね。相手はどんなひと」
 ところが若い男は屈託なく答える、
 「どんな人、って、ここにいるじゃないか」
 自分のことだと有佳が気づくまで、少々時間を要した。
 「ばかね。こんな小母さんをつかまえて。あとできっと惨めになるわよ。第一、あなたはあたしの弟じゃないの」
 「血を分けた姉と結婚するのも古代の貴族みたいで悪くないけれど、姉ちゃんとおれは本当の姉弟じゃないだろう?」
 口説き方が、理屈っぽい。有佳は情緒的に切り抜けようとした。
 「あたし、あの人に叱られちゃうよ。“おれの大事な息子をたぶらかす気か”って」
 「親父なら、間違いなく草葉の陰で笑い転げているぞ」
 島崎康士は十五年前、メコン開発プロジェクトと足を引っ張り合うような紆余曲折の末にようやく漕ぎ着けた運河起工式の翌日、思いがけず発生したトラブルの処理に出かけたまま還らぬ人となった。森に立て篭もる運河建設反対派の武装ゲリラが蜂起し、工期を短縮する政治的駆け引きから導入が決まった平和目的核爆薬の起爆システムを占拠すると、問答無用でその場に居合わせた作業員を皆殺しにしてしまった。バンコク事務所にいた島崎康士はゲリラに投降を呼びかけるため、現地へ赴くと、単身丸腰で森の奥へと赴いた。そして間もなく、岩盤に埋設された核爆弾が突如大地に閃光をはなった。
 「核爆弾で自爆した人類史上最初の男だからな。親父の神経は普通じゃないよ」
 「またそんな無体を言う」
 昔、チャオプラヤ川の船上レストランで康太郎の母親が、クラ運河プロジェクトが抱える矛盾を知りながら、あくまでも建設を強行しようとする夫の屈折した心理を指摘していたことがある。おそらく康士は反対派の過激な妨害工作を予見していたのだろう。それにタイを脱出する際、バンコクからハジャイへ向かう国内線の機中で、康士本人が雇用創出の目論見に反するPNE(Peaceful Nuclear Explosives)に消極的な態度を示していたのを思い出す。事件のあと、早速複数の犠牲者を発生させたことから核爆弾の継続使用は見送られ、手掘りによる気の遠くなる工事が二十年に亙って続けられた。そして工事計画の見直しにより、のべ二千万人の失業者が予定外の職を得ることになった。
 「生命を賭けて訴えたのよ。どうして運河を掘るのか、本当の目的を生命賭けで人々に知らせたかったのよ」
 怒ったようにしゃべる有佳は確信をこめて主張した、
 「でも、誰もあなたのお父さんの遺体を確認していない。だから、死んだとは限らない。ひょっとしたら、そのうちどこかのバス停のベンチにちょこんと座っていたりしてね・・・。あははは、昔のままの顔でさ」
 有佳は笑いながら涙を流していた。康太郎は有佳を“しばしば日本からやって来て、いつしかタイに住み着いた姉のような娘”と認識して育って来た。両親とどんな関りがあるのかまでは知らなかったけれど、彼女の奇天烈な戯言にふしぎな説得力を感じざるを得なかった。
 「核爆弾で吹っ飛んだら死体なんか残るわけないだろう。ナコンサワンのお袋はとうに諦めているぜ」
 事件の後、ステファニーは弁護士を辞めて、何年も空席が続いていたモントリー精米所の会長に就任している。めったにバンコクへ出てくることはないが、有佳のほうが頻繁に農村を訪れ、従姉妹の密接な交流は続いていた。
 「何を言っているの。ヌンさんはね、毎朝精米所に出社する前にお寺へ寄って、康太郎のお父さんの無事を祈っているわよ」
 これが女の執念深さであり弱さかも知れない、と有佳は思った。
 「お袋が忙しかったから、親父はいつも赤ん坊のおれを背中におぶって働いていた。おれがいることをケロリと忘れて町のチンピラや飯場の連中と喧嘩をやっていた。だから、ガキだったけれど、おれにはあの日、クラ地峡へ向かう親父の腹が、なんとなく解っていたよ。姉ちゃんやお袋は怒るかも知れないけれどさ、おれは親父の生き様を支持している」
 はからずも生まれながらにしてオイディプス王の境地立たされた康太郎は、それ以上、父親に関する言及を進めようとはしなかった。
 「ところで柳田首相から荷物を預かってきたぜ。大昔の塩化ビニールでできた音盤。レコードというやつだ。なんで一国の総理大臣が一介の公団職員の姉ちゃんに、こんなものをくれるんだ?第一、首相は今夜、タイに来るんだろう?」
 康太郎に自身の人脈を一切つなげなかったのは、島崎康士の教育方針だった。実務家にとって、おのれの器量に見合わない人脈は苦痛である。息子に実力がつけば、人々は自動的に自分の血筋に寄りを戻そうとするはずだ、と康士は常々有佳に言っていた。だから康太郎は、有佳をふくめた親の世代の人間関係について、まったく予備知識がなかった。それでも青年は、付き合う社会の水準を、徐々に父親が生きた世界へ近づけている。ここへ来て有佳はそろそろ若い男に助け舟を出す潮時か、とも考えるようになっていた。しかし、それは康太郎がクラ運河の開通を見届けたあとの話しである。おもむろに立ち寄った菓子屋の店先で小さなケーキを一個買いながら、有佳は涼しげな顔を取り繕って明確な回答を避けた、
 「総理が降りるのは、チュンポン国際空港でしょう?バンコクへは来ないわ」
 実際にはふたつ海岸に設置された最後の発破のボタンを押す儀式だったが、テープカットはラノン側で最大の投資国・日本の柳田征四郎首相が、そしてチュンポン側では、つい先日失脚したタイ政界の最長老、ジラパンに代わって政権の座についた警察出身のアンポン首相がそれぞれ執り行うことになっていた。
 「いつもそうやって姉ちゃんは話を逸らす。どうやらアンポン首相も知り合いみたいだし、どうしてそんな変てこなコネクションをたくさん持っているんだ?」
 肝心なことに答えない有佳の謎めいた態度には慣れていた。訊いても無駄と承知している康太郎は、自問するように呟いた、
 「そもそも姉ちゃんという女は何者だよ?」
 「あたしはただの清掃係よ。二十世紀を駆け抜けて行った子供みたいな男たちが散らかしたままの図工室を片付けて、いまは毎日一所懸命、二十二世紀の子供たちのために床を磨いているだけよ」
 「おれに底が見える普通の女を軽蔑する性質を植えつけた張本人は姉ちゃんだぞ」
 「寝ぼけたことを言っているんじゃないの!」
 寂しげな面持ちをあらためて、有佳は姉らしい口調に戻った、
 「あたしはチャトチャクのテレビで観るけれど、あんたはこれからチュンポンへ直行しなさい。康太郎には明日の開通式に立ち会う義務があるわ。言うなれば開通式は、あなたの成人式。男になっていらっしゃい。話はそのあとよ」
 意味ありげな一升瓶とケーキをぶら下げ、若者の尻を叩く女の頭上には、スクムビット31/1の表示があった。かつてコンクリートの隙間をわずかな緑が埋めていた街路も、色調が入れ替わり、一見公園と見まごうような美しいソーイに変容していた。
 「わかったよ。それじゃ、『非帰属地区』のロケハンに、ちょっくら行って来るぜ」
一般に不利とされているタイ国籍を、いともあっけなく選んだ若者の胸中には、すでに自己の人生を賭けるべき壮大な目論見が育まれつつあった。
 楽しいのにどこか悲しい。そんな不思議と懐かしい記憶を辿りながら道端にしばし佇む有佳は、いくつもの非凡な意志力が収斂する康太郎の逞しい後姿を見送って踵を転じた。そして漠然と、年下の男に見初められるのが、とどのつまり自分にとっては前世からの因業なのかも知れない、と悟った。開業頭初から使用されているスカイトレインの駅へ向かいながら、昨年、基礎採掘が完了した現場で息を引き取った老人のことを思った。病身の井坂は人生の最後を現場で迎えたいと言って聞かなかった。年老いた妻は涙ながらに頷き、有佳は井坂の車椅子を押して土手をのぼった。黄昏の空の下、巨大な空堀を見つめながら、“島ちゃん。見てみい。きれいな夕日じゃな・・・”と満足気に言った。やがて少年の寝顔になって、井坂は時代を超越した仲間たちのもとへ旅立っていった。享年八十歳。渡南の夢をがむしゃらに突き進んだ男の、穏やかな終焉だった。
 備中興産タイランドはクラ運河への建設資材納入で大きく成長し、現在は先代社長の娘婿に納まった弦巻が、アラブ世界を相手に激烈な商売を繰り広げていた。若いころ中近東を放浪していた元アウトローが陣頭指揮しているだけに、手堅く老獪なレバノン、シリアの商人たちとも互角に渡り合っている。本国に拠点を置かない在外日系企業としては勝ち組に分類される業績だった。
 ただ、弦巻を井坂に引き合わせた稲嶺庄之助は、島崎康士が自爆すると、しばらく公団のチーフとして働いたが、続発するトラブルの責任を取って辞任。やがてタイの巷間から行方をくらませた。以後、世界のどこかで政変が起きる度に、バンコクの日本人社会ではまことしやかに稲嶺の目撃情報が伝えられたが、果たしてその生存を確認した者はいない。
 「なんだか、季節はずれのお盆みたい」
 ひとりで住むチャトチャクのコンドミニアムに戻ると、有佳は涙を拭って、二十年来買い換えていないテレビの前にささやかな宴の席をあつらえた。クラ運河開通の瞬間、目には見えないお客たちがここへ集まって来るような気がしていた。買い求めた日本酒は、ソムチャイ・ポラカン、島崎康吉、島崎康介、冴木義成、モントリー・スントーン、井坂保といった男たちにふるまおうと思った。一斤のケーキは、島崎康士のために用意した。みんな人知れず二十世紀という激動の奔流の中で生き、逼塞した時代の公理と闘い、笑いながら歴史の人柱となってこの世を去っていった。全員が、新しい秩序を生み出すために身命を賭けた。クラ運河は彼らの夢の終点ではなく、振り出しである。そしていま、康太郎が立ち上がった。有佳は彼らに有為な後継者の健在を報告し、“ご苦労様でした”と告げたかった。
 手早く宴の支度を整えると、一息つこうとベランダへ出て、下界で繰り広げられる一大市街戦を見下ろした。白々と灼かれる都会のたたずまいは、白々と灼かれる都会のたたずまいは、インタニンの花と緑が多少幅を利かせるようになっていたけれど、混沌とした景色のデッサンは、自分がはじめてこの部屋に連れて来られた時と何も変わっていない。そこで生きる人間たちの顔ぶれもずいぶん入れ替わっているけれど、バンコクという街がかもし出すアナログめいた魔都の香りに魅入られて、この地に住み着き、熾烈な生存競争のすえに、かりそめの安寧を求めようとする群像の愛嬌は、昔とまったく変わりがなかった。

 「いい天気ね」
 独り言を口にすると、

 “暑いね、と言えばいい”

 懐かしくも、へそ曲がりな声がきこえた。
 「小雨が降らなくったって、あたしにとってはいい天気なのよ」
 有佳の頭上には、まばゆいばかりの青空が広がっていた。
 「・・・だからこの都会には」
 空耳をやり過ごして微笑むと、雲ひとつない熱帯の天空を仰ぎ見る有佳はつぶやいた。
 「ときどき、ふわりと天使が舞い降りてくるんだよ・・・康くん」
 
 今日もこの街では、どこかで説明のつきにくい事件が起きているかも知れない。







終劇


      黒象会館タイランド参照

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