* この物語はフィクションであり、登場する人物、企業、
団体、一部政府機関の名称は架空のものです(著者)。




第四十七話




 モントリーの荼毘のとき、とぼけた僧侶は飄然と有佳を眺めながらいった、“さて、どんな訳があるのやら愚僧には窺い知れぬが、今日、ここへ来たことは、この子にとって生涯最大の供養となったに相違いない”。宗教家は、小さな影に誠実な合掌をささげていた。その時はさして気にもとめなかった情景だったけれど、いまになってみると、きわめて意味深長に思われてならない僧侶の預言であった。
 ステファニーは法律事務所の仕事を四時で切り上げると、大急ぎでチャトチャクへ向かったが、渋滞のおかげで、約束の五時直前に、ようやくコンドミニアムの駐車場へ転がり込んだ。
 「ヌウ」
 駐車場で待っていたキャタリー・スントーンが娘を呼ばわった、
 「思ったより、早かったわね」
 冗談めかせているが、その声はどこか強張っていて、いつもの能天気さにほど遠かった。ステファニーは母親の背後に控えている日本婦人をあらため、合掌した。どこの誰とは聞かされていなかったが、それはステファニーが推断していた通り、サイアム新報の社主・マダム幸恵だった。切れ長の、あたかも有佳のそれを熟成させたような眼差しは、静かな狼狽を含んで若い女弁護士に向けられていた。
 部屋に入るなり、キャタリーはソファに腰掛けながら言った。
 「こちらがあなたがこの前想像していた、モントリー精米所の相続権がある人。サチエさんは、母さんの異母姉よ。つまりヌウにとっては伯母さんね」
 モントリー・スントーンには日本人の前妻がいた。葬儀の席で他愛のない立ち話を交わした夫の雇い主に、直感めいた仮説を暖めていたステファニーにとって、母親の紹介はさして驚くにあたらなかった。
 「やっぱり、そうだったの」
 ムスクの香りを漂わせるマダム・幸恵は、釘を刺すように冷たい声色で姪に言った。
 「ご心配なく。わたしにはモントリー精米所を相続する意志などありませんから」
 モントリーが亡くなって、そろそろ半年になる。マダム幸恵が遺産分配の話で呼び出されたと思い込んでいても不思議はなかった。
 「そんな用事じゃありませんわ」
 姪は毅然とした口調で、事務的にしゃべる夫の上司に言った、
 「じつは、“伯母さま”に見て頂きたい物があるの」
 戸棚の一番奥にしまってあったピンク色の定期入れを取り出し、何も言わずに手渡すと、しばし首をかしげていたマダム幸恵は、みるみると顔色を蒼褪めさせた。発作的に中身を改めると、すばやく一枚の写真を取り出し、ややあって嗚咽を漏らしはじめた。
 「どこで、これを?」
 ステファニーは慈悲に満ちた眼差しで伯母を見つめていた。
 ふるえる手が摘み上げたのは、御殿山動物園の象舎を背景に撮影した或る家族の写真だった。農林水産庁官吏の夫、現在通産省に勤務している息子がいて、二十二年年前に失踪した娘と幸恵自身が写っていた。
 「どうしてステファニーさんが、これを持っているの?」
 有佳の母親は、狂女のような眼差しで、姪を問い詰めた。
 「...従姉妹だったのね、ユウカとヌンは」
 静かな調子でステファニーは呟き、ラチャダピセク通りのホテルで写した写真を差し出した。そこには島崎康士といっしょに、自ら腹を痛めた直感が、まぎれもなく娘と識別する少女が佇んでいた。
 「伯母さま。わたくしは信じていませんでした。ほんの十五分前までは」
 二十二年前に失踪した娘は、つい十日前まで、同じ都会の空気を吸っていたのである。幸恵は言葉を失っていた。面持ちを改めて、ステファニーは告解するようにいった、
 「でも、本当にユウカは過去の日本からやって来た女の子だったのですね」
 そして、最新のニュースを付け加えた、
 「コウから電子メールが届きました。今朝、このふたりは日本に到着したようです」



 「萌草会の人が訪ねて来てくださったとあっては、棺桶に入っていたってお目にかからないわけにはいくまい」
 病室のブラインドを下げると、かなりやつれた面持ちの島崎は、茶色い顔でベッドに横たわる末期癌患者に冗談まじりの相槌を打った、
 「その誠実さが、高級官僚の証というわけですか?」
 「いまさら、滑稽以外のなにものでもないが、世渡りの習性だろうね」
 若い通産官僚は姉を連れ帰った男を父親に引き合わせると、口を閉ざして廊下へ出て行った。
 「じつは有佳は、純粋の日本人ではない」
 ベッドから身を起こすと、冴木義成は、林鉦文という名の中国系タイ人の存在を、まず明らかにした。これは貴明がタクシーに乗りながら告白した話と符合する。十重二十重の衝撃にげんなりしていた島崎は、無言のうちに次の展開を促した。
 「大学へ入るため九州から出てきた私は、本郷の下宿屋に住むことになった。そこで住み込みの賄い婦として働いていたのは、五十代の女性でね。長崎の出身とだけいった。同じ九州の出ということもあって、いろいろ世話を焼いてくれたよ。だから、亡くなった時は、実の母親が死んだみたいで本当に辛かったものだ。言うまでもなかろうが、その女性には、いつも反目し合っている娘がいた。いつも仲裁していた私は、まあ、若かったものだから、その娘とも変な関係を持つようになってしまったわけだが、つまりそれが有佳の母親であり、現在、サイアム新報という会社を経営している女だ」
 ジャズ好きの、という有佳の触れ込みが疑わしくなるくらい、冴木の口調は事務的だった。しかし、これまで別々の世界に転がっていたいくつもの散漫な物語が、機械的に一本の組紐に糾われていく。
 「マダムがモントリーさんの娘で、しかも有佳サンのお母上だったとはね・・・」
 バンコクのホテルで柳田を待っていた青年は、あの時誰かに会いに行く、と言って一旦席をはずしている。事新しく確かめようとも思わなかったが、貴明は、シロム通りへ母親を訪ねたのだろう。冴木は悪びれもせず、本筋にのっとって自身の罪状を総括した、
 「つまり私は義理の父親とともに、例の一件を仕組んだのだ」
 有佳と貴明は母親似だった。端整な顔立ちと、色白、長身。よくよく思えばマダム・幸恵が往年のモントリー・スントーンから容姿を引き継いでいる、と言えなくもない。一家の中で孤立する風貌は冴木義成のほうだった。骨と皮ばかりになった元次官は、それでも肥後もっこすの覇気をとどめる厳しい面構えを崩さず、どこか嬉しそうにしゃべっていた、
 「告発するかね?私には懺悔する気もないけれどな」
 気を取り直して、島崎はかつて妻に炙り出す、と約束した仇に手を振った、
 「ご自宅を新築なさったわけじゃないでしょう?」
 島崎は有佳の父親でなく、コメ騒動の黒幕と向き合っていた。しかし有佳の部屋はそのまま残されていたという。大金を手にした冴木が、それをどのように遣ったのか、素朴な興味があった。
 「まずはお話を伺ってから、考えましょう」
 冴木は謝意を示すように深く頷いた。
 「あなたと私は“親戚”だね、康士サン。女の身内はなかなか我々の目論見を理解してくれないが、島崎君なら必ずわかってくれると思う」
 島崎は、ステファニーの存在を一旦忘れることにした。死期が迫っている男は、単刀直入に言った、
 「モントリーさんは昭和二十五年、腹を空かせた日本人に可能な限りのコメを送って飢えをしのがせた。日本人は誰も不味いなどと文句を言わず、喜んで食べた。誰とも知れない象とコメの贈り主に感謝する素朴な心があった。真剣に生きている人間とは、そういうものではないだろうか?かえりみて、コメが不作の年に、とりあえず口に入れることができたコメについて、美味いの不味いの言っていられる程度の国民に、どんな正気が認められるか?外国の老獪な投資を利益と思い込み、浮かれきり、自国経済の本質を忘れた国民とて同じこと。畢竟、薬にもならなかったが、私と義父は、不味いコメを食べさせたり、相場を吊り上げるのは、両国民にとって、ふさわしい天罰だと思った」
 それは、島崎のみならず、ステファニーであっても納得できそうな犯行の動機だった。
 「この時代の人間は思い上がり、原点をすっかり見失っている。私は未だに良心の呵責を感じない。しかし、我々は未来に対する責任だけはしっかり果たしたいと思った。いつか日本人とタイ人が正気を取り戻した時のため、モントリー・スントーンと私は猫糞した現金に一切手をつけることなく、隠した。・・・しかし、あの資金は遠からず封印を解かれるべきかも知れない。クラ運河の話は聞いている。君ら若い世代が、アジア、ひいては世界の目を覚ますために使ってほしい」
 疲れたらしく、冴木は「失礼」と言って身を横たえた、
 「秘密金庫の鍵は、ルンピニ合同法律事務所のアピチャイ所長が持っている」
 ソムチャイ・ポラカン子飼いの法律家の名前が飛び出した。予想もしていなかった結論に導かれ、島崎の中でコメ騒動が終わろうとしていた。
 冴木義成は、そこで忍び笑いをもらした、
 「父親の通夜の席で胡座をかいて物思いに耽っていたあの小僧がな・・・いや、失敬。いま、死に臨んで、やっと“見えざる手”の前に謙虚になれたような気がする」



 癌センターの前で貴明と別れ、島崎は夜も更けたポプラ並木の道をそぞろ歩いた。歩きながら、明かされた多すぎる事実について、ひとつひとつを吟味し、検証した。
 屑米が生んだ資金のことは後回しにして、まずは女たちの血脈について考えた。それは、熊本藩士の流れを汲む義成、貴明の父子とはあきらかに趣が異なっていた。
 かつて、からゆきさんの胎内にあり、クロントイ港で内地への引き揚げ船に乗り込んだ胎児が、マダム・幸恵だった。“あたしは淫売の娘よ”と叫んだ冴木の妻は、娘時代、けなげに生き抜こうとする母親が許せなかった。有佳の祖母の薄幸を忘れるわけにはいかなかったが、売春をあれだけ目の仇にするマダムの心情が、すこし解ったような気がした。
 東京の夜景は、白っぽいネオンが目立つ。走り行く列車を眺めながら、島崎は有佳が時々覗かせるもうひとつの顔の正体について、自分だけが納得できる仮説を立てていた。
 「あいつは、婆ちゃんの生まれ変わりだったのかな?」
 滑稽な空想だったが、人に話すわけでもなし、それで十分だった。有佳は前世で通りすがりの男を誘い、林鉦文青年と懇ろになると英領マレイから密林の国境を抜けてタイへの脱出を試みた。照らし合わせて思い出せば、それで淫蕩な態度や、つい十日前に垣間見せた“土地鑑あるジャングル”でのサバイバル能力の説明がつく。
 足取がぴたりと止まった。
 「すると、あいつはおれの爺さんと会っているのか」
 独り言にしては大きな声で島崎は言った。ソムチャイ大尉の奢りで島崎康吉曹長は、林鉦文とその妻が切り盛りする安食堂へ足を運んでいる。康吉に日本人と見破られた“前世の有佳”は、泣きそうな顔で店の奥へ逃げ込んだ。自分の弱みを握る相手に媚を含んだ態度に出るのは、人間として決して珍しい処生術ではない。有佳は無意識のうちに自己保存の必要を感じて康士を好きになっただけなのかも知れない。索然と、生ぬるい風がとめどなく暴走する島崎の思い込みを乾かした。
 腕時計の針から二時間を引くと、バンコクはまだ八時だった。ステファニーには吉祥寺のインターネットカフェから電子メールの報告を済ませたけれど、邦人仲間には、まだ誰にも日本へ着いたことを伝えていなかった。もっとも、ここにいるのは清水和彦であって、島崎康士ではない。数日内にふたたびタイへ潜り込む事を考えれば、あまりおおっぴらにする必要もない。マダム・幸恵が受話器を取ってもいい。手近な公衆電話からサイアム新報社へ架けてみた。
 鳥越が出た。
 『あの記事の掲載は見合わせますよ』
 地元の裏社会で起きたクーデターの顛末を話し終わると、鳥越は、出発前夜に手渡した査証不正発給のレポートの処置を、付け加えるように言った、
 『先ほど、圧力がありました』
 「へえ・・・またですか」
 『ところが、“いつもの”とは違います』
 鳥越はきっぱり言った、
 『国会議員の柳田征四郎本人から、直々にストップがかかったんです。寝耳に水でした』
 どうして柳田が妨害するのか、わからない。明日にでも事務所を訪ね、本人の考えを確認してみる必要があるだろう。
 「そうでしたか」
 島崎が了解すると、理知的な鳥越の声は、ここで砕けた。
 『・・・そう言えばね。マダムも今夜の便で日本へ帰りますよ。今さっき会社に戻って来て、オンラインがクローズになっているのに、えらく強引なやり方で予約を入れていました。・・・なんでも、ずっと昔に行方不明になった娘さんが、どこかで見つかったらしいんです。いつもの冷静さはどこへ行ったのやら、って。ははは』
 一緒に笑って、島崎は電話を切った。いつの日か、本当の笑い話にできる日が来るだろう ___ そんな気もしたが、自分がその場に伝説の語り部として居合わせることは、なぜか、まったく想像することができなかった。



 十四時だった。
 フランクフルトで二時間ばかり翼を休めたシンガポール航空機は、定刻通りにトロントに到着した。カナダの空は薄曇り、気温は摂氏二十一度と告げられた。給油地で乗客の半数以上が華人系の東洋人から、ドイツ語でしゃべる白人客に入れ替わっていた。洋の東西の違いはあれど、どちらにしろ、にぎやかで、気ぜわしい民族である。飛行機はまだエプロンに向けて走っているのに、周囲の客は、勝手に立ち上がっては頭上の手荷物を引き摺り下ろしはじめた。
 「登机牌(ボーディングパス)」
 窘めるように言いながら、陳は旭芳が羽織るジャケットのポケットから搭乗券を抜き取ると、前の座席ポケットへ捻りこんだ。もっとも簡単な証拠隠滅の方法は、機内への置き忘れである。だが、それにも色々な制約があった。
 「不要忘(忘れるな)」
 身を硬くする娘は、最後の指示を注意深く促した。
 「...加拿大(カナダ)の飛行場は時々ブリッジを出たところで到着の旅客に、パスポートのチェックを行うことがある。パスポートの廃棄はその後だ」
 カナダはほぼすべての州において、政治亡命者を受け入れている。空港によっては、わざわざ”トラベルドキュメントをお持ちでないパッセンジャーは係官に申し出なさい”と、英語とスペイン語で張り紙しているところもある。しかし密航者は、厳格な手荷物検査の結果、身元や渡航経路が判明すると、原則として強制送還される。したがって中国人は、到着した空港でトイレへ駆け込み、乗って来た便がうやむやになるまで数時間を過ごす。戦術上、ぎりぎりまで身から離せないパスポートや航空券の処分は、通常個室の中で行うことになる。
 旭芳は伏し目がちに頷いた。
 「だが、この空港は飛行機を降りると、まっすぐ入国審査カウンターに通じる狭い廊下があるだけで、シンガポールのように途中に免税店やコーヒーショップがあるわけではない。トイレも入国審査フロアの横に付いた一箇所だ。入国カードを配るふりをした係官の目がいつも光っている」
 仔豚を緊張させる意図はないが、土壇場で怖気づかれるよりかマシである。陳は穏やかにいった、
 「この空港が投降に難しいことは相手も知っている。だから、油断がある。小妹ならできる」
 陳は油紙に包まれた剃刀の刃を旭芳に手渡した。トイレに入ったら、これでパスポートを切り刻み、水で流すのだ。そうするうちにブリッジが接続し、長旅が終わって一様にほっとする乗客に混ざり、剣呑な目論見をもつ男と娘はゆっくり歩き始めた。
 「...護照(パスポート)のチェックはない」
 何事もなく鉄色の壁が続く通路に出ると、旭芳は覚悟を決めたように呟いた。オリジナルのパスポートで普通に通関する陳は、最後の直援を果たすべく、無言で自由への回廊を先導していく。一本の流れとなった乗客の群れは規則的にいくつかの角を曲がり、下り階段に差し掛かった。
 「去?(行け)!」
 小声で叫ぶ陳は、正面で入国カードを配る白人女の係官を盗み見していた。恰幅のよい女の背後に、小さなトイレの扉が認められた。
 「謝謝、先生」
 女の傍らをのんびり通り過ぎると、旭芳は決然とトイレに駆け寄り、素早く姿を消した。陳は周囲を観察した。誰も旭芳の行動に注意を払っていなかった。
 「旅行の目的は?」
 「商用だ」
 「何日間カナダに滞在する?」
 「一週間だ」
 間延びした調子でお定まりの質問事項を浴びせる審査官に決まりきった回答を寄せながら、陳は業務提携している移民法の弁護士に旭芳を保釈させる段取りと、夕食はアトランティックサーモンのムニエルを食べるか、ドーナツで済ますかなどと考えていた。メイプルリーフの印があしらわれた上陸許可のスタンプが捺されると、陳は到着ロビーから、華人系カナダ人の法律事務所に電話した。「徐旭芳」という本名を告げ、割り振られた一切の業務を完了した。いまごろ旭芳はトイレの中で陳が作成したパスポートを一所懸命、切り刻んでいるはずだ。そして数時間後、彼女は両手を掲げ、イミグレーション係官の前に姿を現し、身柄を拘束される。取調べに対して、旭芳は黙秘を決め込む。どうせ英語はたいして解らないから造作はない。おもむろに弁護士が空港に駆けつけ、うら若い亡命者の身柄をオンタリオ州の州法に基づいて引き取り、トロント郊外で別の黒社会関係者が経営するトラック輸送の会社に引き渡す。今夜中に旭芳は上げ底のトレーラーに潜り込んで国境を越え、明日の朝にはニューヨークの家族と再会を果たすことになるだろう。
 島崎と有佳の強引な帰国から遅れること、ほぼ二十四時間。地球の裏側で、もうひとつの長い旅が終わろうとしていた。



 新緑が目にまぶしかった。御殿山動物園の象舎の前で、缶コーヒーを啜りながら鉄柵に寄りかかる島崎は、背後に人の気配を察して言った。
 「日本の缶コーヒーはさすがに旨い。どこかの国で売られている砂糖入りの泥水とは大違いだ」
 「さみしいね。五年ぶりの日本の感想はそれだけかい」
 そう言いながらも柳田は、自分の背広のポケットから、島崎が手にするのと同じ銘柄の缶コーヒーを取り出し、プルトップを捻った。
 「ゆうべは眠れなかった」
 「だろうな」
 島崎は柳田の目の周りにできた隅を一瞥し、次の言葉を促した、
 「神隠しなんて、しかし・・・彼女が体験した現象のからくりは、人類が科学に対してもうすこし謙虚になったら、あっさり解明されたりしてな」
 「おれもそんな気がする」
 有佳は薄幸な祖母の生まれ変わり。そんな先入観が抜けきらない島崎は、複合的な不思議に投降していた。この世に未練を残していた有佳の祖母は、魂魄が宿った孫娘の肉体を、時間や空間にかかわりなく彼女を必要としている縁者たちのもとへ送り込んだ ___そんな風に考えてみると、妙に辻褄が合ってくる。
 「わからないことはわからない。それでいいんじゃないの?」
 冴木義成も同じようなことを言っていた。島崎の投げ遣りな呟きに、柳田は黙って同意した。ふたりの男を前に、ガチャ子は柵の手前に掘られた深い溝へ脚をのばし、ぶらぶら揺すってみせた。春の風が一陣の砂埃を巻き上げると、衆議院議員はのんびりした調子で言った、
 「康さん。受け取ってほしいものがある」
 「なんだね、あらたまって」
 日課の運動に飽きると、不自由な口でジュース状の餌を食む老いた雌象を眺めながら、南洋浪人が間延びした口調で訊くと、柳田は折りたたまれた肥後の守を島崎に投げ渡した。
 「二十一年前、そこの本町通りにあった文房具屋で買った」
 琥珀色に固まったグリスが未使用を物語っていた。鉛筆を削った痕跡もない。
 「いつか、そいつで康さんを殺すつもりでいた。あの雪の日、多賀城の駐屯地を訪ねた時も、コートのポケットで握り締めていたよ」
 島崎は、複雑に相好を崩した、
 「そいつは穏やかじゃない」
 ふたたび前足をぶらつかせるガチャ子を穏やかに見つめて、柳田はいった、
 「冴木有佳が好きだった」
 「そんなことだろうと思った」
 「島崎康士は冴木有佳を理不尽にいじめる。しかし悲しいかな青瓢箪は、よりによって好きな女の眼前で自分をぶん殴った悪党に対して、どうすることもできなかった」
 柔道、剣道、空手。ムエタイの代わりに少林寺拳法。島崎の行く手に必ず現れては、かならず対決を迫ってきた秀才の目論見は徹頭徹尾、計画的だった。
 「そうするうちに、懸想の姫君は行方不明になっちまう」
 「それで後には、おれへの殺意だけが残った、ってわけ?」
 「そうだよ」
 自嘲して、柳田は自問するように言った、
 「おれが政治家になる代わりに、康さんには臭い飯を食ってもらった。視聴覚室でくらった痛烈なパンチは、あれで帳消しだ」
 「ずいぶん高くついた二十二年間だった」
 「お互いにな」
 ふたつの奇妙な人生遍歴の原点にちらつくのは、有佳の半透明な影だった。もしかすると冴木有佳は或る日ひょっこり戻って来るかも知れない。その暁に彼女に自分を男と認めさせたい柳田は島崎に拮抗できる武人になるべく努力を積んだところ、政治家になっていた。一方、何の手がかりもない有佳を探し救出すため、漠然と頭脳を研磨し始めた島崎は、本来の目的と関係のない政界工作員になっていた。島崎のぼやきを聞き流すと、柳田は念を押すように切り出した、
 「せめて彼女の戸籍復旧は、おれにやらせてくれ」
 「はなからその積りだ。おれは新しい変造パスポートを手に入れてバンコクに戻る」
 いい機だったので、昨夜、鳥越から聞かされた話を確かめた、
 「サイアム新報への圧力は、復讐の利息か?」
 柳田は真摯な眼差しで睨み返した、
 「なあ、康さん。もう、つまらない連中を相手にするのはよせ。冴木の母親だって同じ考えだと思う。署名記事が世に出てみろ、あんたの足を引っ張ろうとする連中はゲリラ化するぞ。釈迦に説法だろうが、ゲリラの掃討戦は正規軍を相手にするより厄介だ。おれもあんたの首を取るのをやめたんだ。だから康さんもバカと争うのをやめてくれ」
 島崎はため息をついた。
 「征ちゃんも政治家らしくなった。しかし、おれも食っていかなきゃならないんでね」
 「働いて欲しいんだよ。クラ運河採掘調査委員会を立ち上げる。運河の経営母体として数年後に発足する国際事業公団のパイロット機関だ。着工の暁には継続して総号令を康さんに頼みたい・・・言うなれば、バンコクであんたからプロジェクトを横取りしたのが、おれにとってあんたに対する最大の復讐だった」
 陰険なやり口を率直に認め、柳田は締めくくった。
 「本国の制度規矩の細に煩わされず、自由に、ダイナミックにフィールド・ワークを楽しんでくれればいい」
 「総号令は、土木の神さまを探してくれ」
 ガチャ子を見つめたまま、島崎は静かに訊いた、
 「時に、柿沼センセイの動きは掴んでいるのか?」
 「ああ、ドクター滝みたいに足元を掬われちゃかなわない。メコン流域の窮状は理解できる。発電所を作る以前にやらなくてはならない仕事がたくさんあるはずだ。しかも利害の異なる五カ国をまとめて相手にする芸当など、いまの日本人にこなせるはずがない。メコンはクラ地峡で訓練をつんで、はじめて進める領域だよ」
 すでに永田町の水面下で、柳田と柿沼のはげしい相克が繰り広げられていた。柳田にしても政治家である。有佳のことや旧友の誼だけで、一旦捨てた男にクラ運河の陣頭指揮を任せるはずもない。自前のスタッフは企業人や学者ばかりである。柿沼に利権や名誉で誘われたら、造反する者も出てこよう。このような局面で、クラ運河建設に人生を賭ける島崎という人材の執念を活用するのは、賢明な善後策と言えた。



 スパキットが殺され、滝をはじめ、周辺を固めていた面々が次々に検挙されて孤立する沢村は、出張にかこつけてプーケットへ身を寄せていた。
 「FMクリッサダーの騒ぎ以来、大変でしたな」
 川本こと森山は他人事のように言った、
 「私は警告したはずです。ところが、踏み込んではならない竹薮へあなたはご自分の意志で立ち入った」
 起死回生の糸口を模索する警察官僚は黙して何も語らない。リゾートホテルの支配人に身をやつす四億円の横領犯は、淡々と続けた、
 「世間じゃほとんど知られておりませんが、佐藤内閣の時代に実現した沖縄返還は、萌草会の仕事でした。赤旗で米軍基地を取り囲み、島を日本に返還するか、ソ連寄りの琉球共和国成立を認めるか、とアメリカ政府に迫ったのですな。その一方で、地元の青年会議所に大きな日の丸を大量に送り、住民の本土復帰願望を煽り立てた。・・・霞ヶ関の役人は、それを傍観しているだけだった」
 部屋の扉が突然ひらかれ、稲嶺庄之助があらわれた。
 「・・・なっ!」
 初めて沢村の顔に狼狽が走った。これを受けて、森本は紹介した、
 「昭和四十年代、琉球に私こと”川本”が国旗を持って潜り込んだ時、手を貸してくれた本土復帰派のリーダーがおりました。彼は、そのリーダーの息子です」
 森本という偽名で銀行に就職したことりある川本は、萌草会の対アジア政策立案推進部会に所属していた工作員だった。インドシナ班付け広報調査員として、三番目に赴任した男である。
 稲嶺は、軽薄な口調で領事に言った、
 「お嬢さんはたったいま、山手線大崎駅で内回りの六両目、前からみっつめのドアから乗ったそうです。眩しそうに結婚式場の広告を見上げていたとか。ははは、おませな子だ」
 ほとぼりが冷めるまで、去年の暮れに家族を一時帰国させていた沢村は愕然とした。陰湿な千里眼の仄めかしは、咽元に匕首を突きつけるに等しい。稲嶺は酷薄にいった、
 「あんたは福原と戸川を片付け、鈴木も厄介払いした。おれはいつだって生命を捨てる覚悟がある。いまとなっては家族も過去もない。しかし、あんたはどうかな、沢村さん?娘の清らかな花嫁姿が見たいだろう?恙無く定年退官しいだろう?」
 世の中には、政治家や警察権力が立ち入るべきでない日陰の領域がある。沢村はそんな不文律をいま、身をもって思い知った。短兵急な稲嶺を制して、川本は穏やかにいった、
 「損得で物事を勘定している人間は、生死を度外視している人間に、畢竟かなうものではありません。我々にあなたを告発する気はない。これからも、お力添え願います」
 物言いは丁寧だったが、沢村の立場は一転して新しい秩序を仕切る組織の官僚駒に零落していた。






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