* この物語はフィクションであり、登場する人物、企業、
団体、一部政府機関の名称は架空のものです(著者)。




第四十六話




 バンコクに比べると、東京の風景はいかにも老人的で、穏やかなぶん控えめな色調だった。新宿駅の西口でリムジンバスを降りると、正面に聳え立つツインビルに、有佳は目を見張った。
 「あのちっちゃいのは日本のペトロナスタワー?」
 「ちっちゃいとは失礼な。あれは東京都庁だよ」
 「都庁は丸の内でしょう?」
 「ここは平成です」
 「そうね。これが未来の東京か」
 有佳は安堵とも、がっかりともつかないため息を漏らした。
 「たいして変わっていないだろう。自動車は相変わらず四つのタイヤで地面を走っている。しかしまあ、キミの気持ちも四分の一ばかり、おれにも理解できる」
 島崎の視線が地べたを這った。
 「あれはなんだろう?」
 通学途中の女子高校生たちがはいている崩れた格好のくつ下が異様だった。もちろん島崎と有佳は、ルーズなどという名称を知らない。若者の風俗は、めまぐるしく様変わりしているように見えた。
 「勝手知ったる外国に来た気分だな」
 浦島モードの男と少女は、しばし無言で佇んだ。
 「ねえ、康くん」
 「なんだい、有佳たん」
 「やっぱりバンコクに帰ろうよ。ここ、やっぱり東京じゃないよ」
 「なにをいうか。見ろ、安田口の通気孔はいまだに健在だ。ここは間違いなく新宿だぞ。ええ、まったく!そういう言い方をされると、おれまでおかしくなるじゃないか」
 仕方なしに有佳は納得した。
 「征ちゃんは吉祥寺にいるの?」
 「五月だ。国会の会期中だ。選挙区に帰っているとも思えんし、なんともわからん。ただ、わけあって、議員会館や赤坂界隈の私設事務所は顔を出す気にならん。おれとしては吉祥寺の東京第二事務所へ参りたい」
 そこが、チャトチャクに送られて来た郵便の差出人住所でもあった。
 「国会議員になると、すごくいっぱい別荘が出来るんだね」
 「これで中途半端な賄賂でも受け取れば、マスコミの奴らがもう一軒、飯代のかからない別荘を誂えてくれるんだがな。体験上、あまりお勧めできない」
 「あたし、吉祥寺がいい」
 下りの中央線は比較的空いている。幾つも荷物を抱える帰国者たちは、さほど後ろめたい思いをせず、車両の隅へ乗り込むことができた。サラ金の広告を指して、有佳は言った、
 「あっ。あの女の人、キャンディーズの人でしょう?・・・可哀想、本当におばさんになっている」
 前の座席で新聞を読んでいた団塊の世代風の五十男が、怪訝そうな眼差しで自分たちのアイドルを扱き下ろす少女を睨みつけた。
 「もうよしなさい。浦島ごっこはおしまいだ」
 咄嗟に父親に成りすます島崎は同級生の素朴な驚愕を封じ込めた。
 吉祥寺の駅がひとつひとつ近づくにつれ、有佳は黙して慎重に窓の景色を覗き込むようになった。西荻窪を出ると、いよいよ食い入るように様変わりした町の詳細をあらためた。
 「タイガー薬局の看板も、映画館も、昔からあったよな?」
 島崎が有佳の肩をたたくと、列車は吉祥寺のプラットホームに滑り込んだ。公園口の自動改札に切符を呑み込ませると、沈黙する有佳は、重い足取りで骨格を辱知する街へ通じる階段を下りた。
 「なにをぼんやりしている?おれは五年ぶり。おまえは半年振りじゃないか。さあ、行った、行った」
 新しくできたインターネットカフェの看板を確かめると、他に街の変貌ぶりに目もくれず、島崎は御殿山動物園の方向へ歩き出した。
 「誰も知らないよ・・・」
 きょろきょろする有佳は今にも泣き出しそうな鼻声でいった、
 「みんな、知らない人ばかり」
 「おれにおまえを説教する資格はない。悩み事は、クアラルンプールで眠るからゆきさんたちに相談してくれ」
 慰めても問題は解決しない。島崎は腕を差し出した。有佳はしばらく意図が読めずにいたが、藁にもすがるような面差しで、そっとしがみついてきた。繁華街を抜け出し、街路樹が青々と頭上を被う公園通りをしばらく歩いた。ゆるやかなカーブを描く幹線道路は、動物園と大きな池のある自然観察園を貫いた先で玉川上水とまじわり、遊歩道と十字路を結んでいる。有佳にとって、奇妙な巡礼の旅の波止場となった野趣あふれる一角も、いまではこざっぱりと整備され、拡張された舗装道路がまっすぐはしっている。しかしふたりは、動物園の手前で歩調を止めた。
 「ここだ」
 島崎は赤レンガ風の外観を呈するマンションを見上げた。東京は選挙区ではなかったが、代議士にとって縁の深いもうひとつの地元である。政策研究所と銘打たれて設置された事務所の入り口には、クールに微笑む本人の顔と、“柳田せいしろう”と名前をひらいて横書きしたポスターが数枚貼られていた。
 「ネギはここにいな」
 廊下で腕を解くと、因果を含めた、
 「へたすりゃ柳田の手下と乱闘になる。巻き添いをくわせるわけにはいかない」
 念を押す男の目を見つめながら、有佳は黙って頷いた。
 「おう、兄ちゃん。征四郎先生はいるかい?」
 突然ドアが開けられ、意表を衝かれて、あたふたと応対に出る私設秘書風の青年に訪問者は訊いた。
 「アポはお取りでしょうか」
 「火急の用だ」
 島崎はかまわず仕切り壁のドアをあけた。
 「あっ!お待ちください・・・」
 奥の部屋では見覚えのある好青年が背広姿で新聞を読んでいた。柳田をバンコクのホテルで待っていた官僚風の男である。
 「おや?あなたは」
 「いつぞやは失礼。ちょいと柳田に会わせてもらうぜ」
 ソファから立ち上がると長身の若者は来訪者を見下すように言った、
 「いったいどんなご用向きでしょう」
 「センセイに直接話しする。いるのか?いないのか?」
 言うが早いか、島崎は強引にいちばん奥の部屋へ踏み込もうとした。
 「ちょっと、待ちなさいよ。あんた」
 語気を荒立て、若い男は扉の隙間へ身をねじり込んだ。多少は腕に覚えがあるらしい。だが、島崎は低い声で警句した、
 「怪我をしたくなかったら道をあけろ、小僧」
 「理非のわからん人だな。通すわけにはいかない」
 声色は上擦っていなかった。一触即発の嫌悪なムードが張り詰めた。するとそこへ洗面所から柳田の声が割り込んだ、
 「なんだい、朝っぱらから騒々しい。や?その声は康さんか?」
 顔を洗っていた代議士はメガネをかけていず、ワイシャツにネクタイといういでたちで見せると、応接室へ手招きした、
 「いいよ。入ってくれ」
 食傷気味に睨みつける青年を押しのけて、島崎は構わず書斎を思わせる代議士の私室へ足を踏み入れた。 
 「日本へは、いつお戻りなすった?」
 応接ソファに身を崩すと、島崎は投槍に答えた、
 「二時間前に着いたばかりだよ。お疑いならパスポートを見せようか?おれのじゃないが・・・」
 苦笑いして、机に足を載せる議員はいった、
 「それには及ばん。真っ先に会いにきてくれるとは光栄だ。さて、どんな用かな?」
 来訪者はテーブル上の名刺ケースからタバコを拾い、備え付けの大理石のライターで火をつけた、
 「おれの用事じゃない。ちょっと面倒な相談に乗ってほしい人間を連れて来た。外の廊下で待たせてある」
 「どこのどなたか知らないが、まあ、他ならぬ康さんの関係者とあってはお目にかからないわけにもいくまい。こちらにお通ししてくれ」
 島崎の行く手を阻んだ青年が退室し、ややあって声が響いた、
 『あのう、廊下には女の子がひとり立っているだけですが』
 「女の子?」
 柳田は怪訝に眉間を狭めた。ふたたび神隠しが起こらなかったことに内心ほっとして、島崎は頷いた、
 「そう。そのオンナだよ」
 島崎が叫ぶと、仕切り壁の裏側で青年が呼ばわった、
 『お嬢ちゃん、こっちへはいっていらっしゃい』
 『はい。すみません、お兄さん』
 『・・・あれっ!きみは』
 『あっ!あの時の・・・』
 ホテルのコーヒーショップで、じっと見つめていた者と、見つめられていた者のささやかな再会劇が繰り広げられていた。あたかも物質と反物質の融合である。しかし、島崎にはどうでもよかった。声を聴いて、瞠目する柳田の湯呑茶碗を持つ手が止まった。核融合直前である。もはや、島崎にはどうでもよかった。栗色の髪をした少女が、弁解がましい上目遣いで現れた。どうにでもなれ、といった面持でふんぞり返る島崎に、うら若い来訪者の顔をあらためて、柳田は殺意をはらんだ眼差しを向けた、
 「どういうつもりだよ、康さん」
 噴火寸前の低い地鳴りのような声だった、
 「悪ふざけが過ぎるぞ」
 「神隠しに遭っていたんだってさ。だから、彼女はまだ若い。理に適っている」
 わなわな震える柳田に言い捨てて、島崎は有佳を省みた、
 「ネギ。おれは説明するのが面倒くさい。直接、このオッサンと話してくれ。代議士はおまえを『そっくりさん』と疑っているご様子だ。何か割符になる言葉があったら、言ってごらん」
 これを受けて、有佳は淡々といった、
 「柳田くんが大事にしていたモーツアルトの四十一番のレコード、借りっぱなしになっているの。ずっと返せなくて、ごめんなさい」
 「ほう、木星とは流石に高尚だね。夏の朝のカブト虫とは雲泥の差だ」
 茶化す島崎の声と重なって、湯呑茶碗が床で砕けた。
 「秋の四重奏コンクール、誰があたしの代わりにヴァイオリンを弾いてくれたの?」 
 柳田は机に載せていた足を下ろした、
 「・・・出場は辞退したよ」
 返事は冷静な声色だった、
 「きみの代役がつとまる子がいなかった」
 しかるのち、柳田は有佳を連れて来た帷幕の側近を省みた、
 「覚えているか。おまえには二十二年前の今日、突然行方不明になったお姉さんがいることを」
 思いがけない反撃で面食らった島崎と有佳は、傍らで首を傾げる若者を凝視した。青年はあらためて有佳を凝視しながら緊張の面持で言った。
 「それじゃ・・・」
 有佳も青年を見上げながら、おそるおそる訊いた、
 「このひとは、もしかして?」
 青年は口腔に溜まった唾液を嚥下して、少女に言った、
 「冴木貴明です」
 と、自己紹介した。押し寄せる周章狼狽の荒波を冴木貴明に食い止めさせて、政治家は態勢を立て直していた。小さな姉と大きな弟の引き合わせが済むと、柳田は温かみのあるバリトンの声でいった、
 「おかえりなさい。冴木さん」
 感極まって、有佳はその場で泣き崩れた。どうして柳田は冴木有佳が消えた日を正確に覚えていたのか?どうして冴木有佳の弟を柳田がいつも手許に置いているのか?成り行きを冷静に見守る男の胸を、新しい疑念が痛烈に突き上げた。
 答えは存外単純な説明で片付くかも知れない。少年時代はまるで対照的な柳田と島崎であったけれど、生まれながらに持ち合わせた美意識は、蓋を開けてみると、すこぶる近いものだった。そして有佳は、優美な気質と普遍性ある美貌を兼ね備えた娘である。現在の生活に、過去の容喙を歓迎してしまうのが男という生き物の習性であるとすれば、文装的武備をきわめた柳田征四郎の心理とて、容易に見えてくる。「冴木有佳」という思い出は、島崎康士の占有物ではなかったのだ。
 ---- おれの役目は終わった ----
 実弟もいる。柳田は決して有佳を悪いようには扱わないだろう。半年間の記憶が陽炎の彼方を駆け抜けて、睡魔に襲われながら席をはずす島崎は、索然と過去との別離を受け入れた。



 その頃。
 片岡善吉は、日本へ向かう雌鳥を連れて、ドンムアンで日本航空機に乗り込んだ。一時期、裏邦人社会を熱病のように席巻した諍いも、主要人物の幾人が消し去られ、もともとグローバルな仕事にそれほど乗り気でなかった男たちは、元の稼業に日銭を求めるようになっていたのである。
 離陸して三十分。キャビンに機長のアナウンスが割り込んだ、「当機はただいまアランヤプラテート上空を飛行中」。カンボジア上空に差し掛かったことを知らせる、妙にこまやかなサービスだった。すると、これを合図に、数人の男がおもむろに座席を立った。
 「片岡善吉サンだね?」
 「そや。何か用かおまえら」
 平静を取り繕ってはいるが、異変に直面した狼狽の色は隠せない。
 「片岡善吉。出入国管理法違反、公文書偽造の容疑で逮捕する」
 男たちは、私服の捜査官だった。
 「なにアホを抜かしてるねん。ここはデューティーフリーやで」
 「航空協定は詳しいんだろう?」
 冷やかすように捜査官は言った、
 「飛行機の扉はドンムアン空港で閉められた。そして、ここはすでにタイの領空ではない。ついでに言うと、片岡、貴様には人身売買の疑いもあってな、ようするに刑事事件の重要参考人なんだよ」
 刑事犯を扱う警察権は、飛行機の扉が閉められた時点で目的地・日本へ切り替わっていたが、タイ国への配慮から、無関係なカンボジアの上空で逮捕権を発動した、という説明である。
 「なにさらすねん!わては無実や、冤罪や!」
 あっけにとられる衆人環視の前で、片岡の手首に手錠がくらいついた。 
 「アアッ・・・!」
 初老男の悲痛な叫びが、高度三万三千フィートの機中に響き渡った。


 バナナの葉が覆い茂るシーナカリンの或る豪邸に異変が訪れた。
 門前に警察署のピックアップ・トラックが集結し、へたり込む使用人たちの前を、押収された変造パスポートの束が運び出され、ややあって手錠をかけられた主人の八田英一郎が沈痛な面持ちで連行されていく。タイ国警察局は、いよいよ国内で活動する外国人犯罪組織の一斉摘発に乗り出したのだった。


 白昼のチャオプラヤ川で、華やいだ水上パーティーが開催されていた。岸辺の一流ホテルが所有し、ディナークルーズに使用されるボートをチャーターしている非凡な主催者は、新規のデベロッパー企業を設立したばかりのドクター・滝だった。
 「みなさん、本日はよくぞお集まりくださいました...」
 白いタキシードを身にまとい、流暢な英語で挨拶する滝の前には、盛大な拍手を送る上流階級風の紳士淑女の群像があった。真っ昼間から、カクテルドレスをまとう女の姿が多いところが如何にもタイ的であるが、恰幅のよい欧米人ビジネスマンの姿も少なくない。得意絶頂の滝はもったいぶった調子で、近々着手する壮大な国際プロジェクトをほのめかすと、
 「奇想天外なアトラクションもご用意しております。どうぞ、心行くまでささやかな舟遊びをお楽しみください」
 奇想天外なアトラクションの小手調べに踊りだす手筈のニューハーフの一団に目配せすると、優雅にお辞儀してスピーチを締めくくった。するとその時、数隻のボートが近づいて、メガホンで停船命令を呼びかけた。どやどやとネズミ色の制服を着た犯罪制圧局の一群が乗り移って来た、
 「オウッ!コレハ、エキサイティングナアトラクションダゾ!」
 どこかサクラめいた片言の日本語を操る肥えた白人男が、赤ら顔で狂喜した。ドクター滝は、しかしあっけにとられていた。
 「いったい何事ですか」
 不測の事態に対してもなお冷静な物腰を崩さず、ドクターは訊いた。
 「あなたを保護します」
 歩み出たのは、ひとり、入国管理局の制服をまとうアンポン中佐だった、
 「クラ運河建設を明記した大量の偽造債券が出回っています。これを偽物と知った被害者のあいだで、あなたが発行人であるとの噂が広がっています」
 「オウッ!ソノ債券ナラ、ワタシモ、ドクター滝カラ勧メラレタゾ!」
 先刻の白人が悲鳴をあげると、会場から言い知れぬ不安のどよめきがあがった、
 「ワタシハ、十万ドル、購入シタゾ!」
 「法律を無視してあなたに報復を試みようとする者が出てこないとは限らない。ご存知の通り、ここはタイです」
 立つ瀬のない滝は、それでも余裕を取り繕った、
 「ははは。心外ですな」
 「では、これは何だかご説明願えますかな?ドクター」
 アンポンは、ペッブリ通りの事務所で押収した帳簿を押し付けた、
 「本庁には、十年かかっても計算が合わない帳簿が、すでに数百冊運び込まれているはずです...それと、私は入国管理局の者ですが、さらに膨大な質問事項がある。ご同行頂きましょうか」


 午後、久々に備中興産タイランドへ出社した井坂にティウが泣き出しそうな顔で第一声を放った、
 「役人が来ています」
 裏日本人会への粛清は実体性ある噂になっていた。武藤や今は亡き福原に唆され、その世界へ足を踏み入れた自分も浅はかだった。
 「煮て食うなり焼いて食うなり好きにさらせ」
 覚悟を決めた井坂が社長室に飛び込むと、そこで待っていたのは捕り物のイメージからほど遠い、宮廷人風の人品卑しからぬ紳士だった。
 「王立プロジェクト総務局の者です」
 典雅な合掌を手向けると、男は単刀直入に言った、
 「君命により、クラ地峡に運河を掘ります。日本との共同プロジェクトになりますが、タン・イサカ(井坂様)には、わが国で設置する建設公団の理事をお願いしたい」
 「はて?」
 タイ政府は井坂という日本人実業家がかかえる中東人脈をそっくり併呑する寝技を打ち出した。もっとも備中興産タイランドから見れば、これはまたとない発展のチャンスである。喜んでいいのか、わるいのか。拍子抜けしたトラフグ顔で、意味を咀嚼しかねる井坂は、しばし立ちすくんだ。



 「康士。お客さんよ」
 姉の早苗が階下から呼んでいた。そして声の主が性急に階段を駆け上がってくる音で、島崎は自室の何もない六畳間で目を醒ました。
 「あんたも忙しいわね。いきなり幽霊みたいに現れたかと思うと、夕方には人が訪ねてくるんだから」
 「平日の日中に熟睡していられるんだから、いいご身分だろう」
 四十前の女は、弟から毛布を毟り取った、
 「皮肉に決まっているじゃない。さあ起きた、起きた」
 サラリーマンをしている義兄の本社転勤に伴い、数年前、早苗の一家は横浜から実家の近所へ越してきた。美容師の資格があるので、姉はパートがてら、母親の店を手伝っていた。
 日当たりが悪い茶の間には、島崎の留守中、どこの新興宗教に買わされたものやら、立派すぎる仏壇が飾られている。卓袱台の前で、背広姿の青年が座布団の傍らに正座したまま、頭を下げていた。
 「このたびは、お世話になりました」
 客は冴木貴明だった。
 「やあ、あんたか」
 やぶから棒に出現した若い色男に、島崎の母親はいそいそと玄米茶を運んでいた。母親も早苗も、どんな経緯から康士が帰ってきたのか、まったく聞かされていないのだ。女衆は、よしんば“任務”について話されても、どうせ理解できないから、いちいち尋ねようともしない。それが島崎家特有の暢気な家訓だった。
 「“やあ、あんたか”じゃないでしょう。なにをえらそうに」
 「母さんは黙っていてくれ。お客さんを抛ったらかしにして何をやっているんだ。美容院、潰れちまうぞ」
 風来坊の息子は、額に淡い傷跡をのこす六十女を制した。若い来客に愛想笑いを投げかけ、そして不満顔で母親が店へ戻ると、威厳をくじかれた男は気を取り直していった、
 「いくらか落ち着いたかい?」
 有佳を柳田と実弟に引き渡すと、島崎は早々に自宅へ帰っていた。
 「まだ動転が続いていますよ」
 「そりゃ、当然だろうね。・・・お姉さんは?」
 さすがに有佳のことがいちばん気になった。
 「家へ連れ帰りました。いま、自分の部屋で眠っています」
 動転している、とは言いながら、冴木貴明の説明は要領がよかった。
 「午前中に病院へ連れて行きました。健康診断の結果は異常なしです」
 井坂に叱られたことを思い出し、島崎はうそぶいた、
 「エリートは段取りひとつとっても、如才がない。しかし、部屋が残っていて、姉さんは安心したろう?」
 「彼女にとっては半年前の朝に出たのが最後でしょうが、私から見ると二十二年間の開かずの間でした」
 関係者には、もう少しうろたえてもらわないと自尊心の立つ瀬がない。島崎は冷静な青年の言葉を待った。
 「本当のことを言うと、自分は姉のことをよく覚えていないんです。なにしろ幼稚園に上がる前に別れたきりでしょう。理屈は納得できるのですが、感覚的には、主筋の姫君でもお預かりしているような・・・複雑な気分ですね」
 “いま、あたしがひょっこり帰っても、みんな困ると思うの。いまの日本にあたしがいていい場所なんて、あるのかしら?”ドンムアン空港のサテライトに接続する柳田が乗った飛行機を見守りながら、有佳の発した呟きが、島崎の胃袋を切実に締め付けた。
 「まあ、無理もない」
 「しかし、バンコクのホテルで柳田先輩を待っている時、横のテーブルにひとりで座っていた女の子、写真で見た姉に似ているような気がしたのですが、・・・あの時、若し私が勇気を出して名前を尋ねていれば、その後の流れもずいぶん変わっていたのでは、と思ったりしています」
 「訊かれたってまともに答えないよ。彼女はあんたのことを警戒していた」
 「そりゃそうでしょうね。我ながらジロジロ観察していたように覚えています」
 島崎に揶揄されて、貴明は屈託なく、笑った。
 「その後の流れも変わったか」
 麦茶を飲み干して島崎は皮肉な調子で言った、
 「正念場で余計な“お荷物”を抱え込んだ柳田は、業務に支障をきたし、いまごろは六百億を柿沼にくれてやる結果に直面している」
 一転して貴明は、冷ややかに相手の顔をうかがった。
 「やはり、ご存知なんでしょうね」
 「あたりまえだ。干物にされたとは言え、おれだって“蛇の道”の一匹だぜ」
 昨夜、シンガポールの空港で陳がくれた情報から判断すると、東シナ海に浮かんだ六百億円は、いまのところ柳田有利の形勢で、柿沼と水面下の争奪戦が続いていることになる。もしバンコクを訪れた柳田が有佳に会っていれば、非凡な若手代議士は、ささやかな郷愁と引き換えに、億千万の未来を開拓する鍵を見失っていたことだろう。貴明が有佳との距離を保ったのは、結果的に賢明だった。
 「まあ、つもる話しは後日、あんたたちの気が向いたら教えてくれりゃいい」
 異常な帰国劇を終えたばかりである。島崎は政争の話題を避けたい気分だった。
 “弟の貴明だって二十六歳になっているのよ。お嫁さんだっているかも知れない”。有佳の独り言に則って、島崎は質問を切り出した、
 「貴明さん。あんた結婚は?」
 「維新の志士で、まともな恋歌を詠んでいるのはたったひとりです。自分は柳田グループですので」
 自嘲しながら若者は自己主張を忘れなかった。事務所で睨み合った島崎なればこそ理解も容易だったが、柳田は、郷愁を誘う血筋ゆえに貴明を自陣へ迎えていたわけでもないらしい。
 「ご立派な硬派ぶりですこと」
 島崎は柿ピーを頬張ると、相手にも勧めた。幼い姉は持ち前の常識感覚から、成人した弟のまっとうな社会生活を願うに違いない。貴明の気負いが、島崎にはうとましかった。
 “お父さんとお母さんは元気だと思うけれど”
 「ところで、ご両親は健在かい?」
 「どちらも生きていますよ。自分が中学を卒業すると同時に離婚しましたが」
 息苦しい胸騒ぎが起こった。
 「それで、あんたは?」
 「父親に引き取られ、そのまま武蔵野で育ちました」
 ガチャ子が好きな母親は、家を出て行ったようである。
 「お袋さんは?」
 島崎と逆のパターンの片親青年は、しばらく物思いに耽り、さりげない調子で誘った、
 「すこし、歩きませんか」
 「いいよ」
 日の長い季節とあって、薄暮の吉祥寺の街が日常の営みを見せていた。足早に歩く人びとは整然と隊列を組んでいるかのように歩道の秩序を守り、車道の車もすべてきちんと車線におさまっている。不良のファッションまでもが同じ規格のデッサンでまとまり、一事が万事大人しい。違和感ばかりが先に立ち、懐かしさはあまり感じなかった。
 「如何ですか?久しぶりの吉祥寺は」
 家族の話題を避けるように、貴明は島崎の機嫌を取った。
 「景気が悪そうだね」
 「デフレスパイラル現象の一過程にすぎませんよ」
 「ちがうな。気持ちの問題だよ」
 天邪鬼はにべもなく若者を突き放し、主観的に言った、
 「バンコクにいると毛細血管の隅々にまで生臭い血液が行き渡る。いやらしくても、自由だけは保障されている。しかし東京では空気を吸うにも、いちいち他人さまにお伺いを立てなければならないような窮屈さがある」
 「あちらのほうがお好きですか」
 「バンコクにいると東京が恋しい。東京に帰ってみるとバンコクの喧騒が懐かしい。勝手なもんだ。まあ、どっちにしろ、ユートピアなんてものは無いということだな」
 貴明はおもむろに言った、
 「申し送れましたが、自分は通産省に勤務しています」
 案の定、役人だった。官僚が特定の代議士の事務所に入り浸っているのは、公になれば大問題だが、現実はさして珍しい話しではない。
 「柳田先輩は大学の政策研のOBでした。人生意気に感じ、免職を覚悟で国造りに加えてもらっています。しかし、知遇を得てから八年間、姉の話しは一度も聞かされたことがありませんでした。だからてっきり、あの人は多賀城の人だと思っていました」
 多賀城は、柳田の選挙区に過ぎない。
 「いまどき、熱い男だね。感心。感心」
 いつしか公園通りを歩いていた。島崎は老舗の焼き鳥屋の軒先で立ち止まり、見繕った十本ばかりを包んでもらうと、ふたたび歩き出した。
 「どうして、おまえさんはそんな考え方をするようになった?」
 すこしはにかんで、秀才はいった、
 「血筋のせいかも知れませんね。うちは維新後、冷や飯を食わされてきた熊本藩士の家系なんです」
 「肥後か。納得。するってえと、おれの家とは敵同士だね」
 冴木家のいわれは初耳だったが、幕臣の末裔はそれ以上話を横道へ逸らそうとしなかった。話すうちに、貴明来訪の意図が、姉や柳田とは一線を画した次元にあるような気がしたからだ。
 「父は、膵臓癌を患っておりまして、分子標的薬剤の投与を受けていますが、末期です」
 散歩の引き金となった質問事項の回答が寄せられた。
 「神仏を信じたことはありませんが、こんな時期に姉が戻ってきたという偶然に、はかりしれない天の意思を感じずにはいられません」
 ふたりは柳田事務所のマンションやガチャ子がいる動物園の前を通り過ぎ、上水遊歩道の真新しいベンチの前に立っていた。
 「座るかい?」
 「座りましょう」
 覚悟を決めて腰掛けたが、男たちが異次元空間へ抛り出されることはなかった。焼き鳥の袋を開き、一本を抜いて押し付けて来る島崎に、貴明は会釈する。
 「お父上に姉さんのことを報告したかい?」
 「はい。お宅へ伺う前、入院先の癌センターへ寄ってきました」
 「驚いていたか?」
 「もちろん驚きました。あんな姿で生きているなどとは夢にも思っていませんでしたから。しかし」
 「しかし?」
 「もちろん姉の件を告げた時は目を見開いて驚きましたが、説明のくだりであなたの名前が出た途端、父は笑い出したのです」
 「ああ、親父の葬式に来てくれたらしいからな。覚えていたんだろう」
 「お言葉を返すようですが」
 官僚らしく、貴明は真顔でいった、
 「島崎さんは萌草会から飛び出し、タイにいらした方です。一口に偶然と言っても、これは少々世間一般のそれとは違う。私が申し上げる天意とは、姉の有佳が見つかったことではなく、姉という手形を手にしたあなたが、死に際にある父と顔を合わせる必然に行き当たった、という結果です」
 そして、意想外な言葉が続いた、
 「農林水産庁の元事務次官・冴木義成。それが父の肩書きであり、氏名です」
 有佳の父親が公務員というのは、たしかに間違いでなかった。だが、バンコクを発つ前夜、鳥越から与えられた情報を卒然と思い出し、島崎は眼を見張った、
 「農水庁のヨシナリ?」
 五年前の或る日、マダム幸恵が電話の相手を苗字でなく、名前で呼んでいたとすれば、平成コメ騒動の日本側黒幕が誰であったのか、まったく疑う余地はなかった。
 「なんてこった!」
 間髪いれず貴明は持ち出した、
 「父と姉の面会は明日を予定しています。せめて父をきれいさっぱりした心境で姉を迎えさせてやりたいと思います。これから癌センターまで、ご同行頂けますか?」
 すっかり夜の帳が下りていた。
 「それにもうひとつ、私は島崎さんにお話しておかなければならないことがあるのです」
 「親父さんの弁護か?その手の話はあまり聞きたくないよ」
 「いいえ。姉と私の身体に流れている血のことです」
 「血?」
 有佳と血を分けた弟の表情は、どこかうしろ暗かった。冷めた焼き鳥を頬張ると、島崎は落ち着いた面持ちで頷いた。






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