* この物語はフィクションであり、登場する人物、企業、
団体、一部政府機関の名称は架空のものです(著者)。




第四十五話




 
 シンガポールは赤道直下に位置しているが、チャンギ国際空港は、南国風の飾り付けがむなしく、寒々しく感じられるほど広かった。過剰な数の免税店もそんな印象の一因だろうが、羽を伸ばしたコンドルのようなサテライトは、端から端まで移動すると、実質的に途方もなく長い距離を歩かなければならなかった。
 「まったく面倒くさい空港だよ」
 六時間の暇を持て余す島崎は、清潔感のあるうぐいす色のカーペットが敷き詰められた長い廊下を足早に歩きながら、いまいましげに毒づいた。
 「いっそ、タバコをやめたらいいじゃない」
 「絶対、吸ってやる」
 足繁く空港で唯一の喫煙ルームへ通う男に付き合いながら、頭に赤いバンダナを巻く有佳は、心底辟易した調子で言った、
 「でも、シンガポールって淡路島くらいの小さな国なんでしょう?それなのに、どうしてこんなに大きな飛行場があるんだろう?羽田より、ずっと大きいよね」
 「成田空港の三倍だ」
 事務的に言いながら、島崎はやっと辿り着いた喫煙ルームへ転がり込んだ。有佳も一緒に入ってきた。
 「いいよ、おまえは外で待っていれば。ここはな、世界中の虐げられた愛煙家たちが肩を寄せ合うコミュニティーセンターなのだ」
 有佳は興味深そうに紫煙たなびく密室に寄り集い、しばしの安逸を楽しむ顔を眺め回した。東洋人、白人、黒人、インド人にアラブ人、いろんな人種がタバコという媒介のもと、つまらない諍いを起こすこともなく、自然に共存している。一服する島崎は、先ほどの苛立ちから打って変わって穏やかな口調で言った、
 「どうだ?おまえやヌンのような圧政者にはなかなか理解できまいが、じつに平和な世界だろう?この部屋でユダヤ人とパレスチナ人が刃傷沙汰を起こしたという話はたえて聞いたことがない」
 「刃物が持ち込めない空港の中だもんね」
 有佳はあくまでも愛煙家の美徳に懐疑的だった。ところがおもむろに、
 「あたしにも、一本ちょうだい」
 島崎の胸ポケットからタバコを抜き取ると、口にくわえて火をつけた。咳き込むか、と思いきや、それなりに様になったふかし方をしてみせる。その風情は、ヒッピーのでき損ないだった。
 「どう?少しは大人っぽく見える?」
 十九歳を演じなければならない十二歳は、試金石として、タバコに挑戦したようだ。周囲の異民族は、誰一人として有佳を好奇の目で眺めなかった。
 「スバン空港をあっさり突破したじゃないか。合格だよ」
 日本人には喫煙者が多い。当然、この部屋にだって、かなりの数の日本人がいるはずだった。声を潜めて有佳はささやいた、
 「預けた荷物が多かったからね」
 「うん。密航するやつは少量にまとめた荷物を極力すべての機内に持ち込もうとする。・・・さてはあのばかばかしい浪費は、計略か?」
 有佳は口元を緩めた。いい面構えだった。
 「負けた。おまえの勝ちだ」
 「成田の飛行場から出るまでは、油断できないよ」
 猫背になって、島崎は頼もしそうに頷いた。
 「やっと四時間だよ」
 タバコが半分になると有佳はそれを灰皿へ押し込んで、真新しい腕時計をのぞいた。二十二時になろうとしていた。クアラルンプールからのフライトで、ここに着いたのが十八時だった。「どうしてこんなに待ち時間があるのかな?」
 「いま離陸したら、日本に着くのは午前四時になってしまう。騒音問題で空港はたちまち閉鎖に追い込まれる。だから日本や韓国へ飛ぶ便は、午前零時台に集中しているんだよ」
 二人が喫煙ルームを出ると、新たに到着した旅客の比較的小さな群れがいくつもサテライトに見受けられた。シルクエアの乗客であろう。シルクエアはシンガポール航空の系列会社だが、保有する機体はいずれも小型で、近隣諸国の、相対的に旅客が多くない空路をカバーしている。八時から九時のあいだは、シンガポールや、より遠くの国へ向かうトランジット客を回収したシルクエアがチャンギ空港へ降りてくる時間帯でもあった。
 ホーチミンから飛んできた便から吐き出される旅客の中に、見覚えのある中年男と若い娘の姿があった。
 「康くん、あれは・・・」
 有佳に小突かれて、島崎はつぶやいた、
 「陳さん・・・?それに旭芳じゃないか」
 「無事だったんだね」
 彼らがシンガポールに現れたのは、ハノイからパリを経由するエールフランスのルートに問題が生じた、という意味である。二組は目線を合わせたが、嬉しそうに微笑んだのはどちらも娘のほうで、陳と島崎は仏頂面で無関心を装った。本来なら、お互いそのままやり過ごせばよかった。しかし島崎は、サダオで顔を合わせたステファニーの先輩が漏らした情報を思い出した。
 「なあ、美咲。ちょっと、そこのスポーツバーでお茶でも飲もうか」
 「うん」
 有佳は陳の冷たく光る目を直視してうなずいた。二人がボックスシートに腰を落ち着かせると、すこし遅れて台湾人の叔父と姪も現れ、近くのカウンターに並んで座を占めた。
 「まいったよ、美咲。例の出版社が版権を無視して出版した本があっただろう?ぜんぶ公正取引委員会は知っているんだ。社長はいま外国だけど、帰国したらひとたまりもないぞ。ほとぼりが冷めるまで、帰らないほうがいいぜ、あの小父さん」
 支離滅裂な台詞に有佳は調子を合わせた、
 「そ、そうだね。帰ったら捕まっちゃうもんね。あははは」
 アンポン中佐は、シルクセアタをパスポート変造屋と名指しした。その上で、シルクセアタの支配人の作品を携行する有佳と、彼女を護衛する男の出国を見送ったのだ。
 カウンターの台湾人は、背後で交わされる日本語の会話に耳を欹て、しかるのち、姪に華語で話し掛けた。中国語はどれも賑やかだ。背中を向けられた者にも、はっきり聞き取れる。
 「...メコン川の水力発電所は、日本の日商石井と関東電力が手がける。柿沼という代議士が、泰国のジラパン議員と越南共産党の幹部を巻き込んで、六月に秘密協定を結ぶそうだ」
 あまりのストレートさに、島崎は毒気を抜かれた。もっとも、華僑の大風呂敷は珍しくない。こそこそ喋るより、かえって安全だった。周辺にいた中国系の人々は、まったく無関心である。
 「...日本人は、南部泰国のクラ運河プロジェクトへ回される予定の秘密資金をごっそりメコンへ誘導するそうだ。在曼谷の滝博士という大尽が仕切っている。間違いなさそうだから、我々も各国の親族に参入を呼びかけなければならない。...兄は男児に恵まれなかった。だからおまえが話をする。私は後見人なのだから、今回は一緒に行ってあげるが、以後、宛にしてはいけないよ」
 インドシナから欧米へ旅立とうとする華人の一族には、それらしい立派な大義名分ができあがっていた。台湾人は姪に命じた、
 「ああ、ラオス温州総会の葵大人にお礼の電話を架けておきなさい。番号は...」 
 旭芳をカナダへ届けたら、陳はラオスへ身を隠す決断をくだしたようだ。考えてみれば、彼らの旅行費用は島崎が出資している。真面目に潜伏先の電話番号を暗記すると、島崎は有佳に言った、
 「買い忘れた土産物はないな?」
 警句は伝えた。一方、メコンプロジェクトの構造をひとくさりしゃべった陳も旭芳に言った、
 「あとは、自力で努力、対処しなさい」
 二組は、華人組から先に席を立った。一般に中国人は図々しい。叔父が会計しているあいだ、姪は手近なテーブルに荷物を載せて靴の紐を直した。彼女が立ち去ると、島崎と有佳のテーブルの上には、手首に巻く紐が残されていた。
 「縁起物だ。旭芳はおまえの幸運を願っている。有難くもらっておけ」
 旭芳が去った廊下を眺める有佳は、紐を手首に巻きつけた。
 「フランクフルト経由トロント行きのシンガポール航空・・・か」
 フライト案内を見上げる島崎は、二十三時四十分の便を発見し、華人組のルートを推断した。陳たちとの再会が、淀んでいた時間の進行を早めた。島崎は空港警察の事務所に近い免税店で、しばらく商品を物色した。もっとも、その目線は陳列棚ではなく、もっぱら厳しい事務所の扉付近に注がれている。果たして、二十三時四十分を過ぎてもなお、陳と旭芳が現れることはなかった。搭乗に成功したと、判断していい。
 一安心したところで、有佳がシャツを引っ張った。
 「やだ。あれ、なあに?」
 水色の制服をまとう空港警察に囲まれて、連行される粗野な風貌と不釣合いな背広を着たバングラデシュ人の群れがぞろぞろロビーの中央を横断していく。
 「どいつもこいつもアホ面を晒しやがって。不運なやつらよ」
 「あの人たちは何なの?」
 「ボーディングゲートでストップがかかった。仁川(ソウル)行きのシンガポール航空に乗せてもらえなかった連中だよ」
 韓国とパキスタン、バングラデシュのあいだには、政府同士の取り決めとして査証免除協定が結ばれており、これを恃みに不法就労へ赴こうとする者は後を絶たない。
しかしながら、旅客の入国の是非を最終的に判断するのは彼らと直接顔を合わせるイミグレーション係官である。韓国の上陸許可印には入国審査官の個人番号が添えられており、入国後に問題を引き起こした外国人とは連帯責任を負わされる制度になっている。歴然と判定される識別能力に欠けた係官は、出世が滞り、退職後の年金まで削られるので、胡乱な者が所持するパスポートにスタンプを捺すことは決してない。また、おかしな旅客を乗せた場合、航空会社にもペナルティが課せられる。シンガポール航空に降りかかる災いを見過ごすほど、この国の官憲はお人好しでも無能でもなかった。
 いたずらに眠気を誘うような照明のもと、搭乗者の列から摘み出された不遇な行列を眺めながら、有佳は不安そうに訊いた、
 「あの人たちは、これからどうなるの?」
 「親戚、友人、知人から借金している。下手を打ったエージェントが弁償することは、まずもって有り得ない。まあ、本国へ戻されても、家の敷居は十年間、跨げないだろう」
 一団は、搭乗直前の時間を惜しんで、免税店めぐりに狂奔する韓国人のおばさんの群れとすれ違った。
 「持たざる国と富める国。あの人たちがお互いの常識を認知し合う機会は永劫訪れない」
 「なんだか、かわいそうだわ」
 これを受けて、島崎は言下に言ってのけた、
 「暢気な同情をするな。国が貧しいのは、国家の建設に不誠実な国民自身の責任だ。立派な大義名分を掲げて独立戦争をしていながら、然るべき建国の義務を怠り、安易な出稼ぎに興じているバングラデシュ人がわるい。しかし、いくら知性が乏しくても連中は死に物狂いなんだ。平穏が当たり前と思ってうかうかしていると、いまにやつらに足元を救われるぞ」
 またしても刺々しい思想教育にさらされる有佳は、口を閉ざして島崎を見上げた。
 「いいか。日本人みたいに、どこの国でも歓迎してくれるパスポートを持っている国民というのは、世界人口の二十%にも満たない少数派なんだよ。大部分の地球人類は、まだまだ”非常事態”におかれている。ところが僅かな人間たちは、自分たちの果報をあくまでも標準値と思い込み、世界常識の枠組みを決め付けようとする。先進国と後進国のあいだで、ややこしい軋轢が生じるのは当然の帰趨だ」
 成田行きのファイナルコールがアナウンスされた。島崎と有佳が乗る飛行機も、だいぶ前からボーディングがはじまっていたのだ。
 「行かないの?」
 話の腰を折って有佳が訊いた。
 「まだ早い。ゲートが閉まる直前に慌てふためいて駆け込む」
 密航者は、なるべく早く飛行機へ乗り込もうとするのが習性だ。それにシンガポールの空港では、先進国へ向かうフライトの場合、ゲート前で空港警察によるパスポートチェックが行われている。しかし、ファイナルコールで名前を呼ばれた者が、デューティーフリーの袋によろめきながら、すいません、を連呼して走りこめば、チェックは等閑になる。
 島崎は荒々しい演説を続けた、
 「旭芳を見てみろ。あんな気立ての好い姐ちゃんでも、中華人民共和国という威張っているわりに、からきし信用のない国に生まれてしまったがために、わざわざ敵国のパスポートを使わなきゃ何処へも行けないじゃないか。しかし、おれたちが留意しておかなければならないのは、いざともなれば、あんな小娘でも危険な旅路へ飛び出していく中国人の精神構造なんだよ。すぐ隣にあんなに凄まじい十億人が住んでいるというのに、ぬるま湯に浸りきった我が一億人は、大の男だって、あんな真似ができるやつはなかなかいないぞ」
 すると有佳は高野美咲のパスポートをちらつかせ、不敵な面構えでいった、
 「中国人の旭芳さんは十七歳でしょう?あたしはまだ十二歳よ。日本人はね、こんな小娘でも、やるんだから」
 例外は意気軒昂だった。
 「ネギは幸運だぞ。恵まれた十億人がなかなか見ることのできないハングリーな五十億人の視野を、いま、ほんのちょっとだけ覗いているんだから。学校の授業より気が利いた勉強になるだろう?」
 「はい、はい。先生」
 「よし、いい子だ。それでは、なんでも好きな物を買ってやる」
 「わあ!ありがとう、島崎先生」
 空々しくはしゃぐ生徒に、個人教授は釘を刺した、
 「但し、軽くて、かさばる品物だよ」
 「もしかして、搭乗口のカモフラージュ?」
 「イエス」
 「そんなところだろうと思った」
 箱入りのチョコレートをどっさり仕入れ、支払いをしていると、空港のアナウンスが清水和彦と高野美咲の名前を呼ばわり、搭乗を急ぐよう呼びかけた。
 「覚悟はいいな?」
 「うん。絶対にゲートを突破しようね」
 「そうじゃない。機内の通路を歩くとき、他の客から冷ややかな目で見られる」
 閑散とした搭乗口で、走ってくる男と少女を怒ったように手招きする水色制服は、かさばる手荷物を片っ端からエックス線感知機へ放り込み、パスポートもあらためようとしなかった。
 

 夜間飛行の機中で出された海鮮炒麺は、美味だった。
 「たべないの?」
 コーヒーばかりをお代わりし、一向に食器のアルミ蓋へ手をかけようとしない男に有佳は訊いた。
 「空港の売店で売っている握り飯でいい。日本のコメが食いたい」
 五年ぶりの日本が次第に近づいてくる。最終決戦が控えているというのに、柄にもなく、島崎は軽いホームシックに罹っていた。
 「だったら、これ、あたしが食べる」
 かつて康士少年におにぎりを取られていた少女は、島崎のトレーを素早く掠め、代わりに空になった自分のものを置いた。
 「成田って、羽田より大きな新しい飛行場でしょう?管制塔が浅間山荘みたいに乗っ取られたり、いろいろもめていたけれど、ちゃんと完成したんだね」
 食欲旺盛な少女は、周囲の日本人乗客を気にしようともせず、かなり際どいことを言った。
 「世界の首都で、いちばんアクセスが不便な空港だよ」
 四杯目のコーヒーを飲み干すと、島崎はやや生気を取り戻した、
 「普通の国民は知らなくていいことだけれど、成田の空港建設はおれたちが御殿山で知り合うずっと以前から、防衛施設庁が絡んでいたんだよ。いずれは羽田を大幅に拡張して、本来の国際空港の面目を戻し、レーダーサイトとか、ナイキやホークを隠すのに適した山に囲まれている成田は、平地で裸同然の百里基地に代わる航空自衛隊の主要基地にする計画だったのだ。反対派を煽っているアジテーターはそれを知っている。よく勉強しているよ。日本の円滑な赤化をめざす職業左翼としては本物で、真面目な連中と言っていい。しかし、肝心のソ連が消えちゃったからな。空港を作ったほうも、反対するほうも、自分たちの本来の目的を見失って困っているんじゃないの?おれも、彼らの悲哀まではよく知らない」
 「変なこと、よく知っているね。ねえ、本当のことを教えて。この二十二年間、あたしが留守しているあいだ、康くんの身にいったい何が起きたの?」
 エンジン音のおかげで、男の胡乱な暴露情報と少女の怪しげな問いかけが他へ漏れることはなかった。
 「片時も忘れず、きみが帰って来る日を待っていた」
 「うそ。ずっと忘れていたくせに」
 トレーが片付けられると、映画が始まり、機内は消灯された。
 「ねえ、康くん」
 ヘッドホンを使わず、映画の画像だけを眺める有佳は、早々とブランケットに包まる男に訊いた、
 「“インバイ”って、なんのこと?」
 「すけべ」
 目を閉じたまま、島崎はそれだけ答えた、
 「そうかも知れませんね、あたし」
 いまやお馴染みとなった二重人格の声色で、しかし有佳本人はしゃべり続けた、
 「臨海学校の前の晩にね。お父さんとお母さんが寝室でケンカしていたの。そう、あたしが”失踪”する前の日のことよ。いつも仲がよかったのに。それでね、お母さんが泣きながら叫んでいたわ、“わたしはインバイの娘よ!”って」
 「気にするな。その単語は夫婦喧嘩のとき、哲学者が感情的で手がつけられない妻をやっつけるのに使用する常套句のひとつだ」
 思い出したように島崎はいった、
 「臨海学校の前の日か。おまえ、おれに何か言いたいことがあるんじゃないのか?」
 「・・・・」
 人格が入り乱れていようと、有佳が半年前の体育倉庫を思い起こすのは容易だった。
 「おれの顔なんか二度と見たくない、と思っていただろう?」
 間を置かず、有佳は自然体でいった、
 「思ったよ。上水遊歩道で眩暈をおこしたというのは、本当はうそ。康くんと会うのがいやだったの。臨海学校なんて行きたくない、と思ってベンチに座ったの。そしてものすごく悩んだわ。目を瞑って・・・。そうしたら、ガチャ子の鳴く声が聞こえて、なんだか急にあたりの空気が、ほこりっぽくなって、それで目を開けてみたら・・・」
 一世一代の超能力の結末は周知のことなので、この際どうでもよかった。半分眠った島崎は、箇条書きにいった、
 「ネギは最初から大人だよ。でも、あの康士は悪知恵だけがヤクザ並みの、ただのガキだ。おまえがいなくなって、やっと少し大人になった。・・・クラスの女たちは、泣いていた。男どもは野球をめったにしなくなった。垢抜けないクラスは、暗いクラスになった。卒業文集の集合写真はまるで告別式。上に丸抜きされた冴木有佳ひとりだけが笑っている」
 「みんなに迷惑かけちゃった。小学校最後の年なのに」
 「おまえのエスケープは、四十人に危機管理意識を植え付けた。平和ボケには、いい薬になったと思う」
 「へんなひと」
 「知っている」
 「康くんは、脱線した電車を降りて、歩いている。でも、みんなが何も知らないで乗っている電車は、どんどん速くなりながら、まっすぐ崩れた鉄橋に向かっているのかも知れない・・・」
 島崎は何も答えなかった。しかしまどろみの中では、成田で待ち受ける関門が、安普請のアルミ門扉に過ぎないような気がした。


 早寝の習慣がついていたステファニーは、深夜、サイドテーブルに置いた携帯電話に起こされた。
 『ヌウ、なにをやってるの?』
 「お母さん?」
 非常識な架電者は、キャタリー・スントーンだった。
 「眠っていたわよ」
 起き上がると、男物のTシャツを寝巻き代わりにまとうステファニーは、オレンジジュースを求めてキッチンへ出た。
 「何時だと思っているの?」
 置時計の針は、午前四時をさしていた。
 『ニューヨークはお昼休みが終わったばかりよ。二十四時間体制はビジネスの基本じゃなくて?』
 「ここはニューヨークでなく、クルンテープよ」
 外資系企業のさりげない苦労を聞き流す娘は舌を鳴らし、冷蔵庫をあけ、ジュースを飲み干すと、夫が置いたまま忘れている日本の梅干を見つけ、ひとつを摘んだ。以前なら、到底食べる気も起こらなかった北方民族の食品だが、口腔粘膜に痙攣をおこさせるような、えも言えない甘味を含んだ酸味が心地よかった。
 『明日の夕方、ヌウのコンドミニアムへお邪魔するわ』
 この部屋に母親が来ると言い出したのは初めてだった。
 「何よ、急に」
 梅干の余韻を引きずりながら、あきれた面持ちでステファニーはベランダへ足を運び、深夜から早朝へ切り替わろうとする黎明の空を見つめた。
 『ひとり、ゲストを連れて行くから、ちゃんとお掃除しておきなさい』 
 「ちょっと、待ってよ。ゲストっていったい、どこの誰よ?」
 『この前自分が訊いたことを忘れたの?』
 いつになく、母親の声は真摯だった。
 『あなたが探していた人。アポが取れたのよ』



 着陸許可を待ちながら旋回するシンガポール航空機から、見下ろす成田空港は箱庭のようなたたずまいで、霞の底に横たわっていた。複雑な不安が島崎と有佳に漠然とした沈黙を守らせた。
 「案ずるより生むが易し。しかし、ここが正念場だぞ」
 「うん」
 「日本のカネは持っているな?」
 「うん」
 有佳は財布の中にあった、ステファニーから選別でもらった聖徳太子の五千円札を抜き取り、見せた。
 「昭和五十九年十一月以降のお札は、こっちだよ」
 「あ。それもあるよ」
 有佳は珍しい未来の紙幣をポシェットの奥から大切そうに取り出した。五万円あった。
 「物価が上がったとはいえ、吉祥寺までタクシーで行ける。楽勝、楽勝」
 念を押すと、島崎はテレカと一枚のメモを差し出した。
 「柳田の事務所の住所と電話番号だ。もし、空港で何かあったら、おれが係官をぶん殴って騒ぎを起こす。生きたヘビを投げる方法も運びの連中から習ったが、今回はあいにく手に入れている暇がなかったのだ。おまえは構わず逃げて、柳田に会い、お縄になっているおれの救出を依頼してくれ」
 柳田征四郎が保釈手続きをしてくれることなど宛てにしていなかった。有佳を無事に日本の巷間へ送り届ければ、それでよかった。しかし、高野美咲と清水和彦は、帰国審査をいともあっけなく通関した。「どちらから?」と訊かれたので、叔父と姪は声をそろえて、「シンガポールです」と、乗機地を告げた。男の係官は細かくページをあらためたりせず、帰国カードを剥ぎ取り、スタンプを捺してくれた。
 「日本は大丈夫かねぇ」
 ターンテーブルで、クアラルンプールの空港以来離れ離れになっていた荷物を掻き集めると、島崎は不安そうにイミグレーションを省みた、
 「もっと厳格に取り調べないと、やばいよ」
 「いいじゃない。あたしたちは、出れたんだから」
 税関へ進むと、事務所から持ち場へ向かう若い女の係官が閉鎖の札をはずしながら、友好的な調子で「こちらへどうぞ」と、男と少女に手招きした。
 「お。久しぶりに見る、日本の女だ。色が白くて、きれいだな」
 むっとする有佳は、ふらふらと歩み寄る島崎に、仕方なくついていく。
 「どちらから?」
 「はい。シンガポールです」
 しかしこの女係官は、島崎に、他の帰国者とは異なる、まともでない何かを嗅ぎつけていたらしい。連れの少女が自分の鞄をアルミの台に載せようとすると、女はにこやかにいった、
 「お父さんのだけでいいのよ」
 美咲は疑いの対象から外されていたが、パスポートを見られたら十九歳の偽装など、決して通用しそうもない相手だった。顔に傷があり、肉食獣の眼差しが風貌を特徴づけている男は、草食動物のような帰国者の中にあって、ずいぶん怪しげな外観をしていた。女は清水和彦のパスポートを奥まった棚に置くと、ディパックの中から、ごっそり着替えや雑品、雑誌の類を掴み出した。
 「あ・・・」
 美咲の顔から血の気がひいた。島崎も絶句した。陳の工房から持ち出し、ディパックの底にしまったままになっていた台湾の雑誌にぴたりと奇妙な風合いのフィルムがへばり付いていた。日本国と銘打たれたフィルムには、ローマ字で所持人のデータが並んでおり、係官のしなやかな指の隙間から、本物の高野美咲が恨みがましく思い出の詰まったパスポートを奪った不埒な窃盗犯と偽者の少女を睨んでいた。言うまでもなくそれは、陳が高野美咲のオリジナルから剥がし取り、何気なく机の上に置いたパスポートの部品だった。いつもなら、これほど雑な解体部品の管理は行わないはずだが、島崎が作業をせかしたため、ついつい処分が等閑になっていたのだろう。女税関は自分の指先が触れている代物に気がつかない。唇を尖らせ、男好きのするまじめな表情で、障害物をのけたディパックの中身をあらためる。聴覚は、あたりの音声を拾わなくなり、景色はモノクロになった。わずか数秒間の荷物検査が、途方もなく長い祈りの時間に感じられた。
 「たいへん失礼しました」
 女は恐縮した面持ちで、元に戻したディパックとパスポートを返した。
 「いいんだよ。ありがとう」
 プールを潜水しているような面持ちで到着ロビーへまろび出ると、とぼけて握り飯を置いている売店を探しはじめた男に有佳は言った、
 「康くんの、ばかっ!」
 平成十年五月二十六日午前七時。奇しくも武蔵野の一角で冴木有佳という少女が失踪して、ちょうど二十二年目の朝だった。







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