* この物語はフィクションであり、登場する人物、企業、
団体、一部政府機関の名称は架空のものです(著者)。




第四十四話




 夕方だった。バンコクから一台のポンコツセダンがチョンブリへ乗り込んだ。ロココ調と中華様式が入り混じったスパキットの屋敷に着くと、運転席からアレックスが半身をのぞかせ、あっけにとられる門前のチンピラをどやしつけた、
 「何をしているんだ!私だ。さっさと門扉をひらけ」
 数人の男たちは戸惑う顔を見合わせ、とにかく幹部である男の命令に従った。
 「おう、いったいどうしていたんだ?心配したぜ、アレックス」
 庭先へ、ワインレッドの絹製ガウンに身を包むスパキットが友好的な笑顔で現われた。年齢はまだ六十にも達していないボスは、しかし長年の悪事がその面貌から豊かな肉を風食し、わずかな皮膚がへばりついた頭蓋骨に猛禽類の眼球を移植したような顔をしていた。
 「色々あったよ、ボス」
 背中で答えながらアレックスは、セダンのトランクをあけると中からロープで縛り上げた下着姿の男を引きずり出した、
 「こいつがシーナカリンのパウダーを焼いた野郎だ」
 中国人傭兵の一件に触れることなく、スパキット一家の幹部は虜囚のいわれを紹介した。捕らわれの稲嶺は、大理石の上に蹴り転がされた。スパキットの陰険な目が炯った、
 「中国人の仕業ではなかったのか?」
 なんら後ろめたさも示さず、ふてぶてしい男は振って湧いたような新事実に色を失った。
 「ああ、この日本人が仕掛け人だ」
 日本人と聞いて、暴発しかけていたスパキットの憤りは一旦沈静化した。だが、恐るべき男のこんな態度は、決して寛恕を意味するものではない。より残忍な計算が生じただけである。
 「背後関係は調べたのか?」
 「調べたよ。そうしたら、なかなか面白い筋書きがわかった。だから捕らえたその場で始末せず、ここへ連れて来た」
 「ふん。感心な心がけだな、アレックス」
 組織の中で、唯一スパキットと対等な口が利ける男は、疑わしげに周囲を取り巻く連中を一瞥した、
 「この男の利用方法について、ボスとふたりきりで話がしたい」
 「すいやせん。アレックスさん」
 すこし知性的な顔をした男が手を差し出した、
 「いちおう、仕来りですので」
 「ああ、わかっているさ。私が作ったルールだ」
 アレックスは両手を掲げ、男のボディーチェックに身をゆだねた。ボスと一対一で面会する者は、なんぴとたりとも丸腰確認の洗礼を受けなければならない。これが済むと側近たちは外へとどまり、意識を失った日本人を引きずるアレックスは、スパキットに従って屋敷の奥へ足を踏み入れた。
 居間でスパキットは切り出した、
 「では、背後関係を聞こうか」
 淡々と、アレックスは言った、
 「ングーキヨウは、息子も同然だった」
 穏やかならぬ沈黙が、陳列された豪奢な調度品の間を埋め尽くした。ボスが切り捨てたはずの若頭が舞い戻ってきた。スパキット一家の若い衆は、こぞってふたりと捕虜が消えた扉の前に集まっていた。誰もが、話の成り行きに興味があった。高圧電流が流れる門扉の前にいた数人も、役目を忘れ、母屋前にできた群れに加わった。だが、全員の顔に共通しているのは、一種の迷いだった。もし、スパキットとアレックスのあいだに何らかの軋轢が生じたら、自分たちはどちらに従えばいいのか?屋敷を警護している面々は、いずれも名うての悪党である。しかし、辛うじて保たれている
仁義の中で、長年仕えてきた側近をいともあっけなく抹殺しようとする男と、部下や弱い立場の人間を慈しむ男を事新しく天秤にかけようとする者はいない。当座の実入りを優先するか、それとも新しい秩序の構築を歓迎するか、タイ極道たちは、誰言うともなく、真剣に考えはじめていた。
 「いや。組織の人間だ」
 先ほどまで寛いでいたスパキットは、ガウンの中に拳銃をしのばせていなかった不覚を悟った。沢村の依頼で島崎暗殺に差し向けたングーキヨウの件を持ち出され、空回りする殺意を取り押さえつつ、穏やかに言った、
 「組織を発展させていくには、止むを得ない犠牲だった」
 「その通りだ。大切なのは全体だ。だから、あんたが上に立っていたのでは肝心な判断を誤り、組織は滅ぶ」
 床に転がっていた稲嶺は、すんなり縄抜けすると、素早く拳銃を構えた。ロープでぐるぐる巻きにされた肉塊は、ボディーチェックの対象から外されていたのだ。
 「あんたを排除する」
 アレックスの死刑宣告が済むと、スパキットの後頭部から白い脳漿が飛び散った。
 銃声がした。玄関前に集まっていた男たちは、不吉な予感の的中を察して、屋敷の中へ突入しようとした。が、その時、施錠を忘れ、電流の途切れていた門扉が外から鈍い音とともに押し破られた。夜陰に出現したのは、運転席を細心に鉄板で防護した、大きなクローラー式のバックホウだった。
 「いったい何だ!」
 色めき立つ男たちは、屋敷の中の確認を後回しにすると、いきおい持ち前の闘争本能を剥き出しにして、拳銃を乱射しながら悪意ある建設機械に殺到した。ところが異変はがら空きになっていた裏手からも起こった。ものすごい音がして、塀を突き破り、大型トレーラーが邸内に突入したのだ。フロントが潰れ、惰性で走るトレーラーは、荷台からバラバラと人影をこぼしながら母屋に激突し、大爆発を起こした。
 湾曲したシリンダーを振り回すユンボの運転席で、タロは母屋の背後から立ち上る紅蓮の炎をみとめると、拳を上げて歓声をはなった、
 「オーイっ!さすがは日本人。見事なカミカゼ・アタックだぜ、ツルマキ...」
 自爆寸前でトレーラーの運転席から転がり出た弦巻は、荷台に乗せてきたタロの手下を掻き集め、二手に分かれ、庭で暴れるユンボに釘付けされたままのスパキット一家を左右から包囲した。

 「あいつら、派手にはじめたなぁ」
 赤々とした天然の照明を頼りに裸同然の稲嶺は、使用した拳銃を死んだスパキットの右手に握らせながら呟いた、
 「資材は有効に使い切りましたよ、島崎センパイ」
 火の手は計画どおり、厨房からあがっていた。トレーラーに積んであったTNN火薬が爆発し、プロパンへ次々と誘爆したため、居間はもはや廃墟であり、数分前の豪奢をみじんも留めていなかった。
 「さあ、行こう」
 壁がゆがみ、開かなくなっていた扉をこじあけて、アレックスが声をかけた、
 「城が陥落して城主は自害。ボスの幕引きは、じつに東洋的だ」
 「無血クーデターを避けられなかったのは、近代のタイ人にあるまじき非情さだ」
 稲嶺の軽口が終わらぬうちに、新たな爆風が居間の壁を粉々に吹き飛ばした。
 「暢気な事をやっている場合じゃない」
 埃まみれの稲嶺は、身を起こしてさけんだ、
 「こんな骸骨親父と三途の川を渡るなんてまっぴらだ!」
 「だったら、早く来い!」
 アレックスは手近にあったバスローブを投げながら怒鳴った。床を這う火炎に追い立てられて男たちが玄関を飛び出すと、そこでは武器を足元に捨てて両手をあげるスパキット一家の面々と、これを取り囲む一党の姿があった。
 「全員、恭順の意向を示している」
 無精髭が生えた顎をなでながら、弦巻が日本語でいった。ユンボの運転席から重いドアを押し開けると平家蟹のようにタロが這い出した、
 「第一ラウンドは終了だな」
 一斉に勝ち鬨があがった。どういうわけか、降伏したスパキット一家の側からも、同じような雄たけびが続いた。ややあって消防車が駆けつけ、だいぶ遅れて警察もやって来た。
 「何が起きた?」
 スパキットに手懐けられている警察署長は、なかなか鎮火しない屋敷を見つめながら、顔見知りのアレックスに訊いた。
 「見てのとおり、殴り込みだよ」
 「誰がスパキット一家に喧嘩を売ったのだ?」
 「私はクルンテープで警備会社を設立中なんだ。ところがある筋からボスを襲撃しようとする連中がシーナカリンで建機を盗み出した、という情報を聞きつけた。そこで日本人のスーパーバイザーや集めたばかりの新入社員を連れて来たのだが...遅
かった」
 居並ぶスパキット親衛隊に異論を挟む者はなかった。そればかりか年配のひとりが歩み出て、
 「ボスも襲撃を知っていた。だから若い者たちを全員パタヤ街道へ迎撃に差し向けてしまった。ところが、やつらは、思いがけない道からチョンブリへ潜入して来たのだ」
 スパキット一家が青眉と抗争している図式は今なお健在だった。最大のスポンサーを失った署長は、彼らの証言を全面的に信用するしかなかった。
 「火が止んだぞ」
 絶望的な廃墟を見つめながらアレックスは署長に言った、
 「できれば我々の手でボスを助け出したいところだが、あんたたちが来てくれた以上、ここで仏陀の加護を祈るのが筋だろう」
 「おまかせください」
 スパキットの死を確信する警察署長は、新しい金蔓に姿勢を正して返事した。現場検証がはじまると、アレックスの周囲には稲嶺、タロ、弦巻、それに寝返ったばかりの中年幹部が詰め寄った。
 「タロが言った通り、計画の第一段階は完了した」
 稲嶺を省みて、アレックスは薄笑いを浮かべて問い掛けた、
 「次はどうする?」
 「さあね。あんたの父親が最後に育てた弟子の指示を待とうか」
 「稲嶺」
 不機嫌な声色をはなつ男のレイバンが光った、
 「おまえは何故、それほど島崎を立てようとする?私が見る限り、組織を作り、その頂点に立つ資質はおまえのほうがずっと優れている。島崎はあくまでもワンマンプレーヤーだ」
 これを受けて稲嶺は青年らしく、さわやかな調子で言った、
 「ならば訊こう。どうしてあんたはスパキットの部下になった?ナンバー2の力学を知っていたからだろう?しかるべき時期が到来するまで、踊りが上手な人間を風除けに立てておくのが上策だよ」
 井坂は数日のうちに退院するらしい。福原の残党や旧篠塚陣営の反滝派は、稲嶺が見つけてきた”もうひとりの萌草会”の手によって糾合が進展していた。アレックスやタロと関わりがあるタイの群小勢力も、合流の気配を見せている。さまざまな思惑を内包しながら、ソムチャイ・ポラカンと島崎康士が描いた夢想を実行に移す基幹部隊は、ここに立ち上げられていた。



 マレーシアは人口二千万。総人口の六十パーセントを占める主要民族はブミプトラ(土地の子)と呼ばれるイスラム教徒のマレー人だが、これに近代史の中で、労働力として連れて来られたタミール系のインド人、福建・広東を原籍地とする華人が加わり、複合民族国家の礎を形成していった歴史がある。
 「ずいぶん眠っちゃったみたい」
 外は闇だった。目を覚ますと有佳はペットボトルの水を一口飲んで横でじっと腕を組む島崎に訊いた、
 「いま、どのあたり?」
 「だいぶ前にぺラク州のスリムリバン・インターチェンジを通過しているよ。おれもそのあとうとうとしていたから、セランゴール州もほとんど走り尽くしているんじゃないかな」
 「地名を言われたって、わからないよ」
 「だったら“どこだ?”なんて訊くな」
 言いながら島崎は、はるか前方に輝く金色の岩肌に目をとめた。高速道路は、岩盤を刳り貫いた切り通しへ吸い込まれていく。夜間のライトアップは、抉られた岩を赤みがかった金色に映えさせているのだ。切り通しを通過すると、忽然と林立する超高層ビルの煌く夜景が視界いっぱいにひろがった。光の洪水に歓迎されて、有佳は珍しく子供らしい歓声を上げた、
 「きれい!ここは、おとぎの国ね」
 「ちがう。クアラルンプールだよ」
 島崎は淡白だった、
 「昼間見たら面白くもなんともない“緑と太陽の国”の首都だ」
 錫の廃鉱に建設された都会、クアラルンプールとは、マレー語で“濁った川の合流点”という意味をなす。歓喜に水を挿された有佳は頬をふくらませ、島崎の無粋なコメントをやり過ごすと、ふたたび声を弾ませた、
 「高い建物がみんな面白い形をしているわ。双子のトウモロコシもいる」
 「あのペトロナス・ツインタワーは日本円にして百六十五億円の総工費によって、一九九五年の竣工から僅か三年で完成したマレーシア経済の象徴」
 半ば意固地になってはしゃぐ有佳の肘鉄が、非力ながらも鋭く島崎の脇腹を小突いた。
 「“百六十五本”のうち、康くんは何本を引っ張ったのよ?」
 口を突いて飛び出す言い回しは島崎譲りで、すこぶる柄がわるかった。しかし有佳が陶然と眺めている景色は夢物語のそれでよかった。ムーア調建築の中央駅はアラビアンナイトの絵本に出てくるエキゾチックな町並みであり、四五二メートルのお化け玉蜀黍を二本立て並たようなペトロナス・ツインタワーは、魔法使いが住む神秘の城そのものだった。 
 「バスを降りるまでの邯鄲の夢よ。せいぜい楽しみな」
 車窓は、外側が曇っていた。北緯三度。盆地でもあり、このあたりは深夜であってもめっぽう暑いのだ。
 「うん。たっぷりお姫様気分を味わっておくわ」
 意固地になる有佳が窓にしがみつくと、バスは無常にも終点のプドラヤ・ターミナルビルへ滑り込んだ。雑然としたコンクリートと汚水の世界が突きつけられた。
 「ゲストハウス、どこもシャッターが降りちゃっているわよ。まだ開いているところ、あるのかな?」
 気を取り直して有佳は敷石の歩道に佇み、ナトリウム灯に照らされる町並みに、それらしい看板を物色しはじめた。ところが島崎は辻待ちのタクシーにもたれかかり、手早く運転手と交渉をまとめると、
 「クアラルンプールでは、ちゃんとしたホテルに泊まるから心配するな」
 ふしぎそうな顔で、冒険好きな少女を窘めた。
 「また無銭飲食するの?」
 「ばかを言うな。日本へ帰る飛行機の切符を買う正念場だぞ。予約の時に連絡先を言わなきゃならない。これはオンラインで空港の端末にも表示されるんだ。素性の正しいホテルにしておけば、空港のチェックインの時に痛い腹を探られにくい。高い宿代は信用料だよ」
 浮かれた調子を改めて、高野美咲は肩を窄めてタクシーに乗り込んだ。清水和彦は、黒光りする運転席のはげ頭をいまいましげに睨みながら、毒づいた、
 「この運転手の野郎、足元を見やがって、メーターの倍額を払えだとよ。規定の深夜料金らしい。そんな規定は嘘だからな」
 「けち。ぼったくられても日本人なんだから死ぬわけじゃないでしょう?」
 かなしいことだが、有佳は語彙ばかりでなく、思想も島崎のそれに近くなっていた。
 「騙されてやるのも相手による。見てみろ。こいつの腕時計はおれのより高いぞ。本来、こういう場合は後から来る日本人に迷惑をかけないよう、断乎とした態度で値切らにゃならん。まあ、今回は立場が不利だ。あまりトラブルを起こしたくない。だからあきらめた」
 有佳の頭脳で、さらに新しい思想が上書きされた。
 「クアラルンプールのほうがバンコクより遅れているのかな?」
 「そんなはずはない。タクシーにメーターを導入したのはこっちのほうが早かった。昔のバンコクのタクシーは、もっと悪質だったな。ところが、気が付いてみると、タイ人のほうが先に紳士になっていた」
 「ぜんぶ、あたしがいない間の出来事?」
 「そうだよ。コンマ数秒の後半だ」
 直線的なバンコクの道路とは対照的に、クアラルンプールの道は唐草模様を描くように曲がりくねっている。人口も少ないので、夜目にも緑の豊かさがわかった。
 「昼間の渋滞の鬱陶しさはどっちもどっちだな」
 島崎がつぶやくと、カーブを曲がりかけたタクシーは突然幹線道路からはずれ、大きなホテルの玄関前で停まった。
 「途中のドライブイン、おまえ熟睡していたから起こさなかったけれど」
 チェックインの手続きをしながら、島崎はレストランを顎でしゃくった、
 「腹が減っているなら、寄って行け」
 寝る前は食べない、と言われるかと思ったが、有佳はマレー凧の子供っぽい色彩で粉飾されたレストランへ嬉しそうにつま先を向けた。
 「おやおや、誰かと思ったら清水氏じゃないの?」
 フレームなしのメガネに会社のロゴが入った半そで事務服を身に付ける中年男が島崎に声をかけた。
 「おお、重さん。ごぶさた」
 軽く手をあげて島崎は訊いた、
 「何やってるの、こんな真夜中に?」
 「日本からお客さんが来ているの。本社の経理監査。今日もPJ(ぺタリンジャヤ)でゴルフのお付き合いだった。鬱陶しいから早く帰ってほしいよ」
 「そりゃ災難。ご愁傷さま」
 島崎を清水と呼ぶ重さんという男は、無遠慮にレストランまでついて来た。
 「あらま。また怪我したの?喧嘩?」
 あっけにとられる有佳に気づかない重さんは、清水の頬の傷を見ていた。
 「現場仕事だからね。毎度のことだよ」
 清水和彦は、マレーシアではかなり信憑性を帯びた地盤を築いているらしい。近視の重さんは、ようやく有佳に目を向けて、声を強ばらせて囁いた、
 「・・・誰よ?めちゃんこ可愛いじゃん。これはあなた、犯罪ですよ。犯罪」
 「うるさいなぁ、久しぶりに会ったのに、もっと健全な四方山話はできないの?・・・この子は小生の姪であります」
 「じゃあ、おれに紹介してよ。もしかして、高校生?好きだなぁ、こういう細身の子」
 鼻の下を伸ばす同国人の語調を島崎は冷静に分析していた。三枚目ぶって少女趣味を仄めかせてはいるけれど、ヘアカラーやアクセサリーで粉飾した娘が小学生だと見抜いた様子はない。
 「な?彼女に名刺を渡すくらいならいいだろう?」
 鼻息荒く胸ポケットをまさぐる男は、どうやら本気で有佳を見初めたらしい。
 「いいよ。でもバレたら姉貴の亭主にぶっ殺されるぞ。義兄は桜木町の“本物”だからね」
 島崎が真新しい頬の傷をなぞると、相模訛りでしゃべる堅気の企業駐在員はそれ以上有佳に色目を使うのをやめ、今度は殊更無視しようと話題を切り替えた、
 「これからブキット・ビンタンで麻雀やるんだけど、メンバーがひとり足りないんだ。姪御さんを休ませたら、来ない?適度なスポーツは怪我のリハビリにちょうどいい」
 「麻雀のどこがスポーツなんだよ」
 日ごろ福建華僑と熾烈な戦いを演じている重さんは強引だった。
 「レートは十リンギット。かわいいもんだろう」
 東南アジアの国々は、おしなべて私的なギャンブルを法律で厳しく制限している。タイでは麻雀をやること自体、警察の許可が要るけれど、マレーシアの場合、金銭が絡まなければ、ゲームしてよい取り決めになっている。もっとも、この種の日本人で、法律を厳格に守ろうとする者はひとりもいない。早口で会場を告げて男が立ち去ると、有佳は冷たくなった紅茶を飲み干しながら恨みがましく茶々をいれた。
 「有佳はおれの女だ、って言ってくれなかったね、今日は」
 「美人だから男が興味を持つ。税金だと思ってあきらめな」
 大人の島崎は追及をかわした。
 「しかし、今時“めちゃんこ”なんて言葉を使っているくらいだから、あの小父さんの海外暮らしは相当長いぞ」
 それは有佳の流行語辞典には載っていない言葉だった。
 「重さんは日本運輸の集荷係でね。航空貨物を扱うプロなんだが、おまえの際どい年齢を見抜けなかった。成田突入は上手くいくかも知れないな」
 近眼の相手だから宛てにならない、と思いつつも、島崎は自分を納得させる思い込みを優先させた。
 「すぐそうやって、まやかしを言うんだから」
 満更でもない面差しで、しかし有佳はささやかな疑念を口にした、
 「あの人、康くんを清水って呼んでいたよ」
 「うん。マレーシアの邦人社会では、おれは最初から清水和彦さんなんだよ。ボルネオの東マレーシアで橋をかける仕事をしていることになっている。島崎と名乗ることもあるけれど、本名のほうが偽名だと思われているみたいだな」
 「偽名が本名で、本名が偽名?ややこしいわね」
 運ばれてきたナシゴレンに有佳はあきれてスプーンを挿しいれた。
 「空おそろしいのは、そういう胡散臭い人間を平気で友人と見なして違法行為の麻雀にまで誘ってしまう南洋邦人のズレきった常識感覚だ。あれじゃ帰国した後が思いやられる・・・」
 「麻雀、行くなら行ってきてもいいよ。あたし、先に寝ているから」
 「そういう科白は将来おまえの亭主になる男に言ってやれ。戦争中だ。おれも眠れるうちに寝ておくよ」
 言いながら、有佳の何気ない呟きが引っかかっていた。萌草会の人間がよく使う、本名と偽名の入れ替えには、基本的なパターンがある。たとえば或る目論見から偽名で就職し、任務がすむと本名に戻って社会の深層へ潜り込む。的外れなコメントを挟みながら、島崎は卒然と最後に会った時の鈴木隆央の顔を思い出し、これを打ち消すと、やりっ放しのままバンコクに置いてきた宿題のひとつに驚愕すべき仮説を結び付
けていた。
 「まさか、あの男が・・・?」
 独り言が向けられたのは、萌草会の三代目インドシナ要員を探すと言っていた稲嶺庄之助の面影だった。



 有佳のクアラルンプール観光は、ホテル付近の散策とセントラルマーケットで打ち止めになった。オフシーズンでもあり、思いのほか手近なフライトのチケットが手に入ったのだ。
 「そう、ふてくされるな」
 沈黙を守り、荷物をまとめる有佳に島崎はいった、
 「パックツアーならクアラルンプール滞在二日間なんて普通だぞ」
 「バツー洞窟。見たかったな」
 「勘違いするな。戦争中だぞ。いまは日本へ帰るのが先決だ」
 「ちゃんとしたパスポートを取ったら、また一緒に来てくれる?」
 「それはどうかな?なにしろ島崎康士という男はまだバンコクで足止めを食らっているんだ。おまえは日本へ潜り込めば密航が終わるけれど、おれはバンコクへ戻るまで康くんに戻れないんだぞ」
 「ごめんなさい」
 「謝るひまがあったら、荷物をさっさと廊下へ運び出せ」
 有佳は真新しいボストンバックと藤の籠、そして大きなトランクを重たそうに引き摺り出した。
 「いったい幾ら遣ったんだ?土産ばかり買いやがって」
 タバコを灰皿に押し付けながら、島崎はひとり毒づいた。
 陳のアドバイスに従い、搭乗口の警戒が厳重な先進国への直行便の使用は差し控えることにした。そこでスバン空港から一旦シンガポールへ飛び、チャンギ空港で飛行機を乗り継いで成田へ向かうトランジットのルートを選んだ。マレーシアで一度搭乗に成功している旅客に対しては、シンガポール人の警戒心にもいささか隙が生じる。
それでも何らかの押し問答を想定して購入したオープンチケットは、マレーシアへの”帰路”、シンガポールでストップオーバーする手配になっていた。時間の限られたアジアフリークの叔父と姪が、トランジット地への立ち寄りを次回の旅行計画にふくめて切符を買うという説明に不自然さはない。
 「スンガイブスィ通りの吉隆寺に寄ってくれ」
 ホテルの専属タクシーのトランクに旅行荷物を押し込めると、島崎はいった、
 「それからスバン空港だ」
 「吉隆寺というのは聞いたことがない」
 「ジャパニーズテンプル」
 華人系の運転手は納得したようだ。タクシー市街地を抜け、森の中の幹線道路をしばらく走ると、こじんまりした公園のような墓地が左手に現れた。菩提樹の下には欧米人が眠っていることを示す白い十字架が並んでいた。その奥に、一見お寺とは思えない淡い灰色に塗られた吉隆寺の本堂が縮こまり、さらにその先に鮮烈な太陽のもと、夏草が風にそよぐ日本人墓地があった。
 「静かなところね」
 蝉時雨が聴こえないのか、本堂の前に立つと有佳は言った、
 「こんなに明るいのに、さびしい」
 「墓参者もめったに来ないからな」
 島崎は半袖シャツを着たインド系の老いた墓守に挨拶すると、有佳をいざなった。敷石の左右には、整然とティッシュの箱を立てたような小さな墓石が黒い点線を幾重にも描いていた。どうして自分がこんな抹香くさい場所へ連れて来られたのか、有佳はいまひとつ理解しかねていた。 
 「みんな兵隊さんかしら?」
 東南アジアと島崎康士の関わりは第二次世界大戦に端を発しているように思える。
粗末な墓石を眺めて有佳が抱いた連想は無難なものだった。言いながらも椰子の木陰で歩調を停め、日航機事故の大きな慰霊碑に首をかしげる有佳に、島崎の後頭部がこたえた、
 「ここにあるのは半分以上が、“からゆきさん”のお墓だよ」
 有佳の中で、戦慄すべき何かが魂の琴線にふれた。しかし島崎にはそれが判らない。物語は本題へ踏み込んだ、
 「当世は逆の構図になっているが、むかしは日本から女が東南アジアの苦界へ身売りされて来たんだ。衛生環境だって今みたいによくない。だから肝炎やチフスにすぐ罹る。大勢の人が二十歳になる前に死んでいく。本堂に納められている点鬼簿を見ると、享年十九歳なんてのは当たり前、中には十五歳、十四歳という人もいる」
 街にひしめく日系企業の看板を遠望しながら、島崎は淡々と続けた、
 「本名が判っている人はめったにいない。多くは源氏名のまま葬られている。それでもみんな、死ぬまでこの土地で、頑張って生きていたんだよ。それだけは純然たる事実だ」
 鈴木も、戸川も、あるいは福原にしても、みんな南洋の泥沼を這いずり回りながらも精一杯に生き、果たして颶風にさらわれるように消えていった。
 「この墓地は昭和のあいだ、ずっと忘れられた存在だった。金儲けや観光のためにこの街へやって来る日本人はたくさんいたが、この土地で朽ち果てていった先達を省みようとする者はほとんどいなかった。お陰で長い間、一面は草ぼうぼうでな。平成に入ってようやく在マレーシア日本倶楽部の有志が立ち上がり、資金を集めて、改修工事に漕ぎ着けたんだよ」
 沿革の一部を掻い摘み、島崎は締めくくった、
 「おまえはこれから日本で大変な思いをする。おれも経験したことのない苦労になるだろう。処世のアドバイスなんかできない。だから、日本へ帰る前に、いっぺんここへ連れて来たかった」
 有佳は茫然自失としていた。
 「どうしたんだ?」
 「あ、何でもない。うん。わかった。あたし、日本に帰っても、ぜったい負けないよ。心配しないで」
 妙に明るくしゃべる有佳が、島崎には理解できなかった。本堂の観音菩薩に手を合わせ、墓守に心づけを渡すと、男と少女は柵の外で待つタクシーへ向かった。日本人墓地から空港までの三十分のドライブは無言のうちに終わった。
 「まさかおまえとこのスバン空港を最後に使うことになるとは思わなかった」
 いつもの調子で有佳は訊いた、
 「最後って?」
 チェックインカウンターは空いていた。待たずに二組のパスポートと航空券を置くと、島崎は説明した、
 「スバン空港はもうじき閉鎖になるんだよ。再来月にはセレンバンにできた新しい空港へ引越しだ」
 「ふうん。それじゃ康くんにとっては見納めなのね、この空港」
 首都に隣接するネグリスンビラン州にすでに完成し、いまや開港の日を待つばかりの空港は、クアラルンプールインターナショナルエアポートという味気ない名称がつけられているが、日本の著名な建築家が設計を手がけているので、不便なロケーションであるにもかかわらず、邦人のあいだでは意匠に関する前評判は上々だった。
 思い出したように島崎は、カラフルなチャドルを被る女性職員に英語で言った、
 「...窓際の席があったらお願いします。それからチャンギからナリタまでのボーディングパスも、ここで発券して貰えますか?」
 するとモスリマはにこやかに、
 「待ち時間は六時間あるけれど、だいじょうぶですよ。そっちも窓際ね?」
 と、旅客の希望を端末へ打ち込んでいく。
 「OK、ミス・ミサキ、ミスター・カズヒコ。良い旅を」
 あまりのあっけなさに、島崎と有佳は顔を見合わせ、自分たちが密航者であったことを思い出した。イミグレーションは造作もない。ブキット・カユ・ヒタムで挟み込まれたカードが引き抜かれ、二冊のパスポートには三角形の出国スタンプが捺されていた。



 井坂は退院をあくる朝に控えていた。中谷アルンキットが見舞いに訪れたのは、ラマ九世通りから届けられた業務書類のチェックがひとしきり済んだ夕方だった。
 「こんなむさ苦しい場所へ長老にお越し頂くとは、恐縮以前に驚愕ものです」
 標準語を使うとき、井坂はしばしば島崎康士のような言い回しをしてしまう。老眼鏡を顔から除けて、小僧のような身軽さで五十男が身を起こすと、かくしゃくとした日系タイ人は窓辺に佇み、西日を浴びながら物静かな口調でいった、
 「本当は昨日にでもお邪魔したかったが、腰痛がひどくてね。まだまだ若いつもりでいたが、忍び寄る馬齢には勝てません」
 「おっしゃるご苦労はよく解ります。この洟垂れ小僧も、38口径の傷口が塞がるのにずいぶん難儀しましたからな」
 井坂には察せられていた。慎重な老人は昨日一日、チォンブリで起きた変事の成り行きを見守っていたのだ。
 「表裏に分かれて取り澄ましていた社会が、この都会では、振り出しに戻ろうとしている。素直な見方をすれば、何の変哲もない世代交代かも知れませんが」
 やはり、スパキット一家の事件にからんだ話題だった。わかりきっていることだから、年配者たちは多くを語り合う必要もない。
 「おっしゃる通り。新しい混沌がはじまりました」
 「ぼくは七十も半ばを過ぎている。世代交代で消えていく対象からもとうに外されているけれど、井坂さんは違う。まだまだ若い人たちの矢面に立って戦ってもらわなければならない」
 井坂は貫禄たっぷりに、子供じみた笑みをのぞかせた、
 「しかしながら今度の一件、もしかするとソムチャイ・ポラカンの亡霊が、いたずらを始めただけかも知れませんぞ」
 チョンブリ・クーデターのタイ側首謀者、アレックスというギャングの血筋を知っていたわけではない。それでも昨日の朝、落ち着き払ったタロから事の顛末を知らされた時、井坂は漠然とソムチャイの体臭を嗅ぎつけたものだ。
 「あの人は八十に近かったけれど、まだまだ暴れる気でおりましたからな。晩年まで、“首相になりたい”と言っておったそうです」
 言いながら、情報が途絶えている島崎と有佳のことを、すこし心配した。しかし不吉な予感をおぼえることはなかった。それでもこんな連想は、中谷の口から卑近な固有名詞をほとばしらせる誘い水になったようだ。
 「私はモントリーさんのお世話になりましたが、あいにくソムチャイさんとは、ついにお会いする機会がありませんでした。それでもクーデターで失脚する前のピブン首相が或る非公式の講演会で言っていましたよ。“戦争に敗れた日本人は、いずれ大儀や理想を見失い、打算と効率のためだけに働く国民となるだろう”と、ね。タイに取り残されたぼくはまだ若かったから、そんなバカなことがあるものか、と笑って取り合わなかった」
 看護婦が体温を測りにあらわれた。日本語が解るとは思えなかったが、中谷と井坂は慎重に沈黙を取り繕った。退院許可を裏付ける検温が済むと、中谷は淡々と話を再開した、
 「スパキットを倒した日本人の連中には、ピブンの話を聞いた時に、ぼくが感じた一抹の不安が理解できるだろうか?」
 「埒もない。連中が倒そうとしているのは、当世の卑屈な同国人の性根そのものではありませんか。しかし、どうしてまた?」
 期待していた通りの意見に、中谷アルンキットは安堵した。来訪の用向きは、核心へ分け入った、
 「モントリー・スントーンさんから、内密の遺言を一通、託されています。わけあって、タイ人であり、日本人でもあったぼくが開封の判断を委ねられている」
 「妙な話ですな」
 井坂は訝しい面持ちで聞き返した、
 「モントリーさんは、タイ人でありながら中国人でもあった人です。その人が、どうして日本人にそれほど荷担なさる?」
 苦労人は事新しく美田をのこすほど、孫娘が伴侶に選んだ男を見くびっていなかった。島崎の影は無視していい。
 「モントリーさんはビジネスマンですよ。同じ目的をもつビジネスパートナーが日本人だった。それだけの話でしょう」
 意味深長だった。遺言は、その日本人ビジネスパートナーと連名したような内容のものであるらしい。中谷は締めくくった、
 「あの人が亡くなって、まだ三ヶ月と経っていませんが、糊の乾ききっていない闇の資産目録を開封する時機が到来したのかも知れません」








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