* この物語はフィクションであり、登場する人物、企業、
団体、一部政府機関の名称は架空のものです(著者)。




第四十三話




 田園から湧き上がるミルク色の朝霧が、金色の陽光を乱反射させて椰子の疎林を洗い清めていた。鳥のさえずりが頭上で煩いばかりに錯綜する。湿度は高いけれど、灼熱の昼間がはじまるまで、まだ暫くの時間があった。昨日ショッピングモールで買ってきたノースリーブのワンピースに身を包む有佳は、気持ちよさそうにわずかなりとも土地鑑を育んだジットラの街路を歩いていた。淡色で纏め上げられた緑溢れる南国の田舎道を、ほっそりした後姿が行くさまは、平凡で優しげな水彩画のモチーフを思わせた。
 「どう?久しぶりに外の空気を吸った感想は?」
 ストローをくわえる横顔が島崎を省みた。小さな案内人は、青いココナッツの実をかかえて果汁を啜っていた。
 「かったるい夏休みだ」
 手術から五日が経っていた、傷は快方に向かっていた。身体中に巻かれていた包帯も半分の量に減っている。タイを脱出するとき、島崎の下半身は無防備だったけれど、ングーキヨウは腿に数条の手傷を負わせただけで、それ以上の攻撃を見合わせていた。足を狙っても致命傷は与えにくいし、動脈が通る内股を狙えば間合いが詰まって島崎に有利にはたらく。歩く上で支障はなかったけれど、沈着な判断力を備えていた若い強敵の死が、島崎に索然と複雑な虚脱感をもたらしていた。
 「夏休みか」
 有佳は屈託なくいった、
 「一度だけ。四年生の夏休みに、カブト虫やクワガタを捕まえに行く時、連れて行ってもらったことがあるよ。そうね、こんな感じの霧が深くて明るい朝だったわ」
 「そんなことあったっけ?」
 立ち止まる島崎に向き直り、有佳はのんびりした口調でいった、
 「二十年も経つと忘れちゃうんだね・・・でも、康くんにしてみれば、珍しくも何ともないイベントだもん。仕方ないか」
 赤いラテライト土壌が剥き出しになった路側帯で、浅黒い肌をした二歳くらいの男の子が丸裸で佇み、大きな目でじっと見慣れない二人連れを観察していた。インド系かマレー系かは定かでない。
 「プールで康くんたちが集合場所の打ち合わせしているのを聞いて、その朝、偶然散歩に出てきたようなふりをして、なし崩しで合流しちゃったの。康くんは”へんなやつを入れるなよ”とか言って、むすっとしていたけれど、他の男の子たちがあたしの仲間入りを認めてくれたのよ。それでも、解散した後、自動販売機のハンバーガーをおごってくれたのは、康くんだった」
 安易に幼児の頭を撫でるのは、タイもマレーシアも禁忌である。聖霊を追い払わぬよう、手馴れた仕草で男の子のやわらかな顎を撫でると、有佳は締めくくった、
 「とてもおいしかったよ」
 「見え透いたお世辞を言うもんじゃない」
 白けて、島崎は首をかしげた、
 「あの頃は、あんなブヨブヨにふやけた代物でもハンバーガーそのものが珍しかった。自動販売機のレンジに一分くらい待たされている時間が楽しいんだよな。・・・はあ、思い出したぞ。おれはネギの前で通人ぶりを気取りたかったんだ。馬鹿な餓鬼だ。まあ、恩に感じているなら朝飯をおごりなさい」
 いつの間にか狭い町を一巡して、目抜き通りに戻っていた。有佳にせかされ着の身着のまま散歩に出た島崎は、現金の持ち合わせがなかった。軒先を通りかかった食堂は、月の印がついたイスラム系だった。 
 「ナシレマでいい?もう少し先へ行くと美味しいロティチャナイの屋台が出ているけれど」
 土地の料理の名前をすぐに覚えてしまう有佳の才能は、もはや島崎をいちいち驚かさなくなっていた。
 「歩くのが億劫だ。近いほうがいい」
 かりそめの身体障害者が回教徒食堂に入ろうとすると、有佳は腰に巻いていた新品のカーディガンを露出した肩に引っ掛けた。異教徒の娘なりの節度らしい。居合わせた男ばかりの客は、はじめ猜疑心と興味が入り混じった眼差しで色白の有佳を値踏みしたが、カーディガンで示した常識感覚に敬意を払い、視線をそらした。
 「おまえは環境への適応が早いね」
 「ノイローゼになる女の子のほうが可愛い?」
 「いまヒステリーを起こされては困る」
 「そんな場合じゃないもんね。密航中なんだから」
 ココナツミルクの炊き込み御飯は一食ずつ新聞紙で包まれ、笊に山積みされていた。島崎はふたつ拾い上げ、一個を有佳に手渡した。
 「それで、カブト虫やクワガタは何匹獲れた?」
 片仮名発音で事足りるマレー語は、日本人にとってタイ語より学びやすい言語であろう。有佳は初歩的な現地語を使って店番の少年にテータリーを注文した。
 「全部で七匹。でも、あたしだって見ているだけだったのに小さなクワガタを一匹もらったけれど、康くんは半分以上自分でつかまえたのに、自分は一匹も持って帰らなかったの」
 「飼ったら毎日餌をやらなければならないだろう?あいつは昆虫と知恵比べするのが好きなんだ」
 「けっこうニヒルなんだね」
 「お陰でおれはいつも儲け損ねている」
 生姜入りの茶葉を煮出し、甘いコンデンスミルクと混ぜ合わせた飲み物が運ばれてきた。信じられないほど甘いが、マレーの気候風土の中で飲む限り、不思議と美味しく感じられるお茶だった。
 「婆さんの退院許可が下りたら、今日の午後、クアラルンプール行きのバスに乗ろう」
 北緯五度のジットラから北緯三度の首都まで、道のりにして約五百キロ。走行時間は正味六時間程度であるが、途中でいくつもの町に寄り、休憩時間も挟むので、到着は深夜になる見通しだった。ところが有佳は持ちかける、
 「ペナンに寄って行こうよ。観光」
 ペナン、厳密に言えば本土側のバターワースの町は、ここから僅か百キロ少々。クアラルンプールへ行く途上にあった。半島を南北に往来する長距離バスにとって、重要な中継基地でもあった。
 「何を考えているんだ、おまえ?遊びに来ているのとわけがちがうぞ」
 「高野美咲さんはタイとマレーシアに遊びに来ているの。だから、いいでしょう?」
 香辛料の利いたナシレマをテータリーで胃袋に流し込むと、有佳は豪快にいった、
 「観光地に少しお賽銭を落としていかないと、ジフリーさんを見逃してくれた税関のオッサンに申し訳ない、って思わない?」
 陳も適度に遊びながら密航しろと言っていた。もし日本の空港で、マレーシアのどこを見てきたか、と訊かれ、有佳が返答に窮するようでも困る。
 「評判ほど面白い島じゃないよ、たぶん」
 「日本人がアジアで歓迎されている理由はシビアなのよ」
 いつもなら島崎が言いそうな台詞を口走りながら有佳はおもむろに席を立ち、軒先を通りかかったインド菓子の行商人を呼び止めると焼きたてのロティを物色しはじめた。養生でさんざん時間を空費した以上、いまさら慌てたって仕方がなかった。



 白いアオザイを着た女子高生が、自転車を並べ、黄色い声でおしゃべりしながら往来を風のように駆け抜けていく。目線がつい彼女たちの下着が透けて見える腰に釘付けになってしまうのは、男の習性上、止むを得ない。
 「こらっ!どこ見て走っているんだ!」
 ベトナム語の罵声がとんだ。陳はホーチミンの旧市街をスーパーカブで駆け回っていた。ラオス国営航空でヴィエンチャンを発ったのは二日前のことだった。徐旭芳のチケットは既にラオスで入手した。彼女をホテルの部屋に待機させ、自分のカナダ行き航空券を買うため、陳はひとり、ホーチミンに住む親戚からオートバイを借りて、条件のよい店を探していた。”仔豚”と”馬”は、通常、別々のトラベルエージェントで同じ路線のチケットを揃える。もし道中、素性が露見しても、こうした小細工によって、僅かながら、無関係と言い逃れる余地が生じるのである。たまたま空港で同じ路線に乗る一人旅の語学が不得手な同国人と出会い、これを親切心からケアした、と申し開きすれば、多少胡散臭く感じても、チケットの購入経路が異なっていれば、担当職員は馬を見逃さざるを得ない場合がある。たいがいの国では、密航者本人よりも、これを誘導する業者のほうに重い罪を課している。失敗した時は、とにかく馬は自分のことを優先し、仔豚を見捨てて逃げなければならなかった。もちろん仔豚もその時点でゲームオーバーとなるが、土地の刑務所へ収監されるケースはめったになく、たいがい出発地点へ送還され、そこで現地官憲と馴れ合い関係を持つ組織末端の段取りによって保釈を受け、「密航すごろく」は振出へ戻るのである。
 「華人総会の葵大人の紹介だ」
 漢字の看板を掲げるトラベルエージェントの扉を開けると、変名を名乗る陳は窮屈なカウンターに座る無愛想な娘に言った、
 「トロント行きのフライトを予約したい。大西洋を回る」
 ホーチミンから大西洋経由でトロントへ行こうとする客は、正体を明かしているのと変わらない。娘は身を乗り出した、
 「エールフランスは避けたほうがいい。今は瑞士(スイス)航空でチューリヒを回るルートが安全だよ」
 「スイスはシェンゼンの査証では入国できない。あの国は、自分たちの国に数日間滞在する旅客しかお客様扱いしない」
 パスポートのシェンゼン査証を見せて陳は言った、
 「フランクフルトだ」
 「すると、ルフトハンザ?しかし、ドイツの飛行機はホーチミンから飛んでいないし、あの空港のトランジットは危険だよ」
 「フランクフルトへ寄る。しかし、トランジットはしない」
 卓上にあった藁半紙の受注票に、陳は勝手に空港や航空会社のレジコードを殴り書きして突き出した。秘密めいた注文を受けると、服務員の娘は、奥に陣取る父親らしき社長に受注票を回し、陳のあとから入ってきた二人連れの男たちに向き直った。
 「あー、メイ、アイ、クエスチョン・・・?」
 会社員風の男の一人が日本人特有のイントネーションを含んだ英語で訊いた、
 「こちらでは、小型ジェットのチャーターを取り扱っていると聞いたのだが」
 「何時ですか?」
 「六月に入ってすぐ」
 「人数は?」
 すると男は日本語で連れに尋ねた、
 「何人になるんだろう?」
 チケットの発券を待つ中国人をまるで警戒せず、もうひとりの男が答えた、
 「柿沼事務所が言って寄越したのは内地から四人。ベトナム共産党から書記長とその秘書。バンコクから滝さんとジラパン下院議員の二人が合流する。あとは我々ふたりだ」
 耳を欹てる謎の中国人は、油断しきって母語の会話を交わす日本人の挙動を一部始終観察する。
 「呉越同舟ならぬ、”泰越同舟”か。こんな奇妙な顔ぶれじゃ、とても系列の旅行代理店には頼めないな」
 「だったら会社の名刺を使うんじゃない」
 言われた男は一旦出しかけた日商石井のロゴが入った名刺を引っ込め、ホテルカードに部屋番号を書いて差し出した、
 「連絡先はこのホテル。費用は全額キャッシュで前払いしよう。人数は都合十人。回ってもらう国はメコン川流域の五カ国だが、入国等の手続きは自分たちで行うので、飛行機だけ手配してくれればいい」
 陳へのアドバイスといい、この店は元々怪しいお客が集う性質らしく、服務員は黙々と言われた通りの旅行手配をはじめた。
 「しかし本当に大丈夫なのかな?」
 日商石井が言った、
 「クラ運河建設の触れ込みで集めた資金を、メコン開発に流用するというのは、少々でかすぎる詐欺かも知れないなぁ」
 すると語学が苦手なひとりが言った、
 「いずれにしても環境破壊は避けて通れない。我々関東電力にしてみれば、運河を掘るより発電所を建設したほうが仕事になる。だから柿沼先生に誘われて、うちの専務はメコン計画に荷担したのだ」
 発言者は自ら自身の所属企業を明らかにした。
 「日本人の核アレルギーがクラ運河を再び夢想の世界へ押し戻す」
 日商石井は腕組みした、
 「メコン計画が前進する。インドシナ諸国は工業力を飛躍的に発展させる。物資、とりわけて原油の需要は弥増す。パワーバランスは狂う。中国が黙っているはずもない。待ち受けているのは、パラセール(スプラートリ)・・・南沙諸島の争奪戦だ」
 関東電力も同じ姿勢をとった、
 「中越戦争は海上に持ち込まれる。日本人は自分たちの核アレルギーが新しい戦争の伏線になるとは考えないだろうなぁ」
 「しかし、やるしかないだろう。我々はその紛争の隙を突いて、南沙諸島の海底油田の権益を確保する。どんなに奇麗事を言ったって、エネルギーの供給が止まれば、日本はたちまち枯渇するんだから」
 午後三時。南シナ海からの風が途絶えたホーチミンは、溶鉱炉のような金属質の暑さに包まれていた。



 国土面積はいずれも日本の九割程度。ベトナムとマレーシアはどちらもタイより一時間早く、互いの時差はない。
 午後三時。アンダマン海からの風が途絶えたバターワースは、潮のにおいに排気ガスが入り混じった、粘着質の暑さに包まれていた。バスターミナルと鉄道駅、それに連絡フェリーの桟橋を合体させた支柱の目立つ巨大な建造物がバターワースのランドマークである。ジットラからアロルスターを経て、同じバスでやって来た乗客は、半数以上が黒ずんだ空中通路を経てフェリー乗り場へ流れ込んでいく。
 「ここがマラッカ海峡?」
 乗船の順番待ちで仕分けされ、長い列を作る車やオートバイを尻目に、一般客用の二階ゲートをくぐった有佳は、眼前に広がったミントグリーンに淀む海を食い入るように眺めた。
 「これはペナン水道。海峡は島の向こう側だ」
 「すごい。町がくっきり見える」
 一階は、まず車が乗り込み、次いで数十台のオートバイが堰を切って雪崩れ込み、扉が引き上げられる。黄褐色の二階建て箱型フェリーはひっきりなしに往来しているので、混乱はまったく起きない。
 ペナンは、どのガイドブックでも過去のイギリス人に倣って、”東洋の真珠”と紹介している。対岸の州都ジョージタウンは、主要部分が円柱型のコムタタワーを要に、西へ扇形に拡散していた。
 航海は三十分とかからない。ベンチに一度も腰掛けることなく、手すりにもたれかかって底抜けに明るい海を見つめているあいだにペナン等へ到着した。
 「傷はだいじょうぶ?」
 「リハビリ中」
 「歩いてもいい?なんとなく」
 フェリーを降りると、島崎と有佳は、ゆるやかに曲がりくねった古い路地をそぞろ歩く。植民地時代以降に建てられたものが珍しい、漆喰の町並みだった。華人が住民の大多数を占めるため、漢字の看板が街を埋め尽くしている。石板で蓋をされた暗渠と暗渠を繋いで、澄んだ汚水がさらさらと底を這う深い側溝には、灰色の水蘚が揺らめいていた。
 何を思っているのか、有佳はほとんど口を利かず、炎天下のもと、普通の旅行者なら見過ごしてしまいそうな庶民生活の痕跡をまるで探し物をするかのように追いかけていた。自分の奇癖をつぶさに観察している男に少女は媚態をふくめていった、
 「ここ、はじめて来たの」
 「そうでしょうな」
 「それなのに、こんな町の雰囲気が、とても懐かしいの」
 「そういうことをしたり顔で言うから、きみは康くんからババア扱いされてしまうのです」
 既視感に年寄りも子どももないが、できればエアコンの効いたコーヒーショップで一息つきたい半病人は、健康な好奇心の所見がうとましかった。
 「ビーチに行かない?」
 「行きたくない」
 「それじゃ、港は?」
 「なお、行きたくない」
 「タクシー、拾ってくる」
 「勝手にしろ」
 有佳は強引だった。通りかかったタクシーを停めると、コムタの政府観光局でもらったリフレットを片手に年配の中国系ドライバーと、英語で交渉をはじめた。早口でまくしたてる小娘に、初老男も食い下がる。
 「康くん、お金ちょうだい。安くしてもらう代わりに前金になったの」
 「タイの女か、おまえは?自分が行きたいと言い出したのに、請求書をちゃっかり男にまわすな」
 「お母さんが病気なの。弟の学校の月謝がはらえないの。わたし、お金ないよ」
 「・・・ったく、誰が教えやがった?そういう見え透いた嘘を」
 仕方なしに、島崎は真新しいジーンズやシャツのポケットをまさぐり始めた。
 「優しい!康くんって、やっぱり日本の男なんだね。本当にこういう嘘にひっかかるんだ」
 細かいことに気を使いすぎるのは有佳の気質だが、一旦開き直るとてきぱきと行動に移るのも彼女が平成の異国で萌芽させた性格だった。灰汁どいふざけ方も、また然りである。
 「日本に帰ったらすぐ郵便局に行って、耳をそろえて返すわよ。あたし、お小遣いやお年玉をほとんど定期貯金してあるの。きっと利息が貯まって何倍にもなっているわ」
 「おまえは知らんだろうが、日本は未曾有の低金利時代を迎えているよ」
 辛うじてくしゃくしゃになった色鮮やかな裸金を取り出すと、島崎は有佳と華人親爺を見比べていまいましそうに言った、
 「多少銭(いくらだ)?」
 古いベンツを駆るドライバーが要求した金額は、旅行者としてまずまず納得できるものだった。ふたりの乗車に先立ち、初老男は割安のチャーター料金に条件をつけ加えた、
 「但し、エアコンが壊れている」
 マレーシアの道路環境はおしなべて良好である。開け放たれた窓から吹き込む温い潮風は、却って好ましい趣があった。かつてイギリス軍が造営した砲台の遺構が並ぶ海岸線をひた走り、トロピカルムード満点のジャングルを抜け、緩やかな丘陵を上り下りしていくうちに、目の前にマラッカ海峡が現れた。
 「康くんのお父さんが亡くなったのは、どのあたり?」
 リゾートホテルが立ち並ぶ一角で、有佳は訊いた、
 「遺骨、日本のお墓にはいってないんでしょう?」
 「よく、人ん家のつまらない事情を知っているな」
 「だって、”四年前”のことだもん。近所のおばさんたちが話しているのを聞いたのよ・・・そうか、結局見つからなかったんだね」
 「事故現場は北の岬のあたりだよ。もっとも海流の影響で、爆発で吹っ飛ばされた人間の骨はそこいらじゅうの海底に散らばっているはずだ」
 祥羽丸事故は、島崎にとって、ひとつの歴史事実に過ぎなかった。ついに遺骨が回収されなかった父親やその同僚についても、民族が織り成す壮大な叙事詩の作中人物に組み込まれ、私情はすべて決着がついていた。
 「島国民族ってのは、見方を変えたら海洋民族でもある」
 だが、島崎は脈絡なく口走った。
 「灯油なんかなくったって、隣近所のやつらで集まって、おしくら饅頭していれば暖はとれる。日本の寒さなんてタカが知れてるんだ。便所紙もなくなりゃ、盥の水で洗えば上等よ」
 「四国で、お父さんが言ったのね?」
 呼吸を察して有佳は島崎の受け売りを見抜いていた。
 「遺言にしちゃ格調が低いけれど、まあ、倅がこれだ。仕方あるめえ」
 坂本竜馬の真似をしていたのか島崎康介は、いつも眩しそうな顔をしていた。ほとんど航海に明け暮れていた父親の風貌を、島崎はよく覚えていなかったが、声だけは今でも精彩を放つ。子供心にもずいぶん無茶を言う父親だと島崎は思ったものだが、父親がトイレットペーパーを買い漁る同国人の見苦しい姿に腹を立てていたことだけは確かだった。
 「一週間、康くんは学校を休んだのよ。どんなことがあったの?」
 適当なビーチでタクシーを停めると、有佳は白い浜辺に向かって歩き始めた。気まぐれに付き合って、島崎も車を降りた、
 「温泉にはいって、酒飲んで、急性アルコール中毒でぶっ倒れて病院に担ぎ込まれていた。それから酒をまったく受け付けない体質になったわけだが、とんでもない親父でね、”目を離した隙に息子がいたずらで酒を飲んだ”と医者に調子よく説明しているんだよ。おまけに健康保険証を忘れたとか言っていた。とどのつまり、べらぼうに高い治療費の請求書に書かれている名前は偽名だった。それで退院前夜、でかいトランクを持って来てだな、ベッドで寝ているおれを叩き起こして、その中に隠れろ、
だと。踏み倒しはまんまと成功した」
 「ひどい。康くんのお父さんって、康くんより格好いいけれど、同じくらいムチャな人だったんだね」
 「うん。だが、いま思うに、あの開業医は脱税のプロだ。悪徳の神さまがエゴイストに悪者の仁義を守らせてくれたと考えればいい」
 「本当に都合がいいんだから・・・それじゃ、シロム通りのホテルで無銭飲食するのも同じこと?」
 「古い話を持ち出すな」
 言いながら、島崎は面持ちを改めた、
 「裏路地じゃ腐りかけた食い物をめぐって貧乏人同士が殺し合っていても、表通りの箱庭ホテルに泊まっているツアー客は何の疑問もなくビュッフェを食い散らかしては、塵芥コンテナを山盛りにする」
 最後に会ったときの鈴木の真摯な台詞が脳裏を離れなかった。
 「中には外の争いに気がつく者もいるが、介入の仕方がわからず、ただ財布の中身をばら撒こうとする。しかしそんな炎のような巷で、現金は油でしかない」
 「自分も外へ出て、泥だらけにならなければいけないよね」
 「どうすればいいのか、おれもわからないよ。いまの日本は、そんな世間から隔離されたホテルのような国なんだ」
 軽はずみな相槌を後悔しながらも、有佳は決然とした意志をこめて質した、
 「でも。康くんは信じているんでしょう?いつかは活き活きした国に立ち直る、って」
 マラッカ海峡は、今日も貨物船や原油を積んだタンカーがひっきりなしに往来していた。穏やかな翡翠色に凪いだ海を見つめながら、たおやかな波打ち際にしゃがみこむ有佳は、昭和四十八年の火災事故で生命を落とした祥羽丸乗組員たちの魂魄に、そっと掌をあわせた。
 どんより晴れた空は海面から大量の水蒸気を吸い上げ、はるかスマトラの島影はおろか、水平線さえ曖昧模糊とさせていた。非合法な旅路をゆく善良な魂の少女は、しゃがみこんだまま、いつまでも飽きることなくトワイライトゾーンのない天地開闢以前の風景を見つめていた。有佳にとって、カオスは正邪を超越する原風景になっていた。腕組みして傍らに佇む島崎も、自身に肉体の組成を与え、いさぎよく消滅していった男が眠る海を、無感動に眺め続けた。
 「なんだか、不思議な気分」
 有佳の声がまろやかに南海の景色にとけこんだ、
 「こうして康くんとマラッカ海峡を見るなんて、夢だと思っていた。またバカにされるかも知れないけれど、康くんと新婚旅行に行くんだったら、ぜったいにここへ来よう、って思っていた」
 「義理の父親にご挨拶か?おまえはやっぱり古風だな。でも、平成じゃ流行らんな、そういうしおらしさは」
 話題を逸らそうとしない島崎の素直な態度が有佳の素朴な驚きを誘った。
 「また、逃げられるかと思った」
 「これだけ記号化が進んだ時代に、恋愛や結婚が昔ほど重要な意味を残しているとは思えない。しかしネギはまだ若いんだ。もっと面食いでいたほうが、将来まともな女になれると思うぞ」
 「やっぱり、逃げられた」
 膝の間に顔をおとし、有佳は自嘲めいた忍び笑いをもらした。島崎康士のつれない性格は、昔も今もまるで変わっていない。
 「ペナンは歴史のにおいがする島ね」
 香料の産地と結びついたマラッカ海峡は、極端な季節風のため、船舶が風だけを頼りに航海していた時代は春と秋で南下、北上を切り替える一方通行の海だった。重要な中継貿易地として古くはポルトガル、オランダ、19世紀にはいって錫利権を狙う英国、そして近代のごく僅かな期間には天然ゴムを求める日本と、しばしば覇権者を変えてきた。頭の中では東洋史のおさらいをする島崎にとって、有佳との語らいは、ささやかなホスピタリティの発露に過ぎなかったかも知れない。
 「ネギはいい女になるよ、きっと」
 有佳も、いつしかこの男が得意とするはぐらかしの免疫ができていた。頓珍漢な相槌を気にとめず、独り言を続けた、
 「この景色、遠い昔から今を飛び越えて、ずっと先の未来へのびている。もしかすると、あたしの神隠しなんて、とてもちっちゃなお伽話なのかも知れないわ」
 小学生にあるまじき諦観を口にして、有佳はふたたび明るい眼差しを傍らの唐変木に注いだ、
 「ステファニーさんと新婚旅行は何処へ行ったの?」
 おもむろに立ち上がると有佳は小姑めいた調子で訊いた。
 「当家は人種が違うでしょう?そんな洒落たロマンスに憧れる人たちとは」
 「やっぱり康くんにとっては、あたしより、ヌンさんのほうが近い存在なのかしら?」
 「やけにからむね。存在なんて難しい話しじゃない。ネギと違って、かみさんもおれも、どちらも情緒的にアンバランスな人間だよ。ようするに同類項なんだろう」
 「いっしょにしないで、って怒られるよ」
 集合の図形からはじき出された少女は、別段傷ついた様子もなく、含み笑いをうかべて栗色の髪に指を通した。
 「ペナンの町はイギリスの東インド会社がつくったのよね?」
 「そうだよ、優等生。せいぜい社会科見学を楽しんでいこう」
 「あまり暢気なことも言っていられないみたいよ」
 有佳が南側の海面を顎でしゃくった。見ると白いレースのカーテンのようなスコールが、怪物のように海上をじわじわ這ってくる。本格的な土砂降りに先立って、小豆大の雨粒がひゅんひゅん唸りながら飛んできた。少女と男は大急ぎで椰子の街路樹が植えられた石畳の歩道へ飛び出し、間一髪のタイミングでタクシーに潜り込んだ。狂ったような大雨が、あたり一面に白い靄を棚引かせた。
 「今日はこれからどうするの?」
 少し髪を濡らして先にタクシーに乗り込んだ有佳は、自分を庇って背中を湿らせる島崎の意思決定を求めた。
 「予定通り、クアラルンプールへ行ってやろうじゃないか」
 「はいはい、了解。ボス」
 長距離バスのターミナルは、コムタタワーの根元にある。薄暗い回廊に、にぎやか
な漢字の看板を並べる中小のバス会社を数件物色すると、十分以内に出発する吉隆坡(クアラルンプール)行きの切符が手に入った。バスはペナン大橋の袂まで、エプロンから滑走路へまろび出る旅客機のようにのろのろ走り、幾つかのバス停でお客を拾いあげて島を出た。あとは途中でいくつかの主要な町へ立ち寄りながら、首都をめざして高速道路をひた走るのだ。
 「けっこう寒い」
 なぜか内側から窓ガラスが曇っていく。濡れた身体に過剰なエアコンが辛かった。島崎はマレー人の交代運転手と掛け合って、夜行便の客に貸し出す毛布を二枚借り受けてきた。
 「風邪ひくな」
 顎までたっぷり毛布をかけられた有佳は、ほっとしたように瞼を閉じた。
 「・・・死んでも康くんのほどこしは受けねえよ、べらぼうめ」
 有佳は目を瞑ったまま乾いた声で島崎風の悪態をつくと、
 「征ちゃんが強くなった。康くんは優しくなっちゃった。・・・へんなの」
 有佳の自問は続く、
 「あたしは、どんな大人になるのかな」
 「おまえが人間である以上、設計図通りの形にならないことだけは確かだよ」
 自らも毛布を被りながら、島崎は食傷したように答えた、
 「おまえがウィバパディに現れていなきゃ、おれは今ごろどうなっていたか知れたもんじゃない。もちろん簡単に殺される気はないけれど、自分を見失ったまま、酒も飲まずに夜の繁華街で、つまらない小遣い稼ぎに興じているだろうな」
 半年前のパッポン通りの夜景が思い出された。鈴木隆央がにやけ、戸川健一がうろたえる。そのふたりは、すでにこの世にいなかった。
 「やっぱり、生きているかどうか、わからない。おれを救ったのは、おまえだ。これも確かだ」
 スモークのシールドが貼られた車窓では、藤色の雨空を背に、水滴がのべつまくなしに斜め下方へ這い落ちていく。
 「ありがとうよ」
 穏やかな寝息が返事だった。熱帯の強行軍は本人が自覚する以上の体力を消耗する。だらけた過ごし方も、このあたりでは生物学的な生存の知恵なのだ。ジットラを振り出しに始まったペナンの半日観光で、有佳は能動的だった分、大いに疲れてしまったのだろう。すこし日焼けした少年めいた寝顔に、かつてサンカブリで別れを告げたミーミョーの安らかな死に顔が重なった。島崎にとって、自分の運命をゆさぶった二人の娘はどちらも天界の住人である。生命反応の有無は問題でない。似通った顔に不吉な印象はおぼえなかった。バスの屋根を叩いていた雨はいつしか途切れ、リクライニングを深く倒す島崎は、スピーカーから流れる洗練されたマレーシアポップスに耳を傾けた。






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