* この物語はフィクションであり、登場する人物、企業、
団体、一部政府機関の名称は架空のものです(著者)。




第四十二話




 助手の女が島崎の身体に包帯を巻く。老女は凄惨な情景に目を覆ったまま失神してしまった有佳を横目で追い、淡々といった、
 「あたしははじめ、てっきりその娘がおまえを案内して来たのかと思ったよ」
 恐怖漫画に出てくるミイラ男さながらの負傷者は訊いた、
 「なんでさ?」
 「日本人だとは思わなかった。どこかで見かけたような気もした。なにより娘の骨相は唐人のものだ」
 美形は誰でも同胞と決め付ける。浮世の中華思想を島崎は聞き流した。痛感神経のことごとくを切り開かれたのだから、まともに取り合っていられない、と言ったほうが正鵠を得ているかも知れない。頭部に出来た軽い傷の処置が終わると老女は言った、
 「二三日は熱が出る。この路地の奥に我が家の倉庫がある。昔は旅社として使われていた建物だから、当座人が寝起きできる部屋もある。おまえの体力なら一週間もかかるまい。包帯が取れるまで、大人しく身体を休めるがいい。酒は厳禁だよ」
 働き者の助手は、有佳の顔や腕にできた虫刺されや樹木の枝にひっかけた掠り傷に、緑青色の軟膏を塗りつけていた。
 「おれはイスラム教徒だ。アルコールはやらない。それに明日の朝一番で吉隆坡(クアラルンプール)へ行かないといけない。今夜は大人しくすぐに寝るよ」
 「その傷で旅を続ける気かえ?生命を喪うだけだよ」
 つまらないでまかせを憫殺する人生の練達者は、男と少女の旅行の目的をおおよそ看破していた、
 「大事を控えているなら尚更だ。荒波の海にボロ船を漕ぎ出したところで転覆は目に見えている。順風を待つがいい」


 黄色い裸電球を頼りに、漢方薬の木箱が堆く積まれた暗くて陰気な廊下を通り抜けると、水色のタイルとベニヤ板を組み合わせた壁の小部屋があった。実用本位の安っぽい普請に加え、何十年も掃き掃除だけで片付けられてきたような部屋は飾り気がまったくなかったけれど、二階の天井まで貫くたっぷりした吹き抜けが快適な印象を抱かせた。南に向く大きな明り取りの窓も好ましい。往年のゲストハウスでは最上等の部屋だったと見え、手洗いを兼ねたシャワー室も併設されていた。
 島崎に肩を貸し、有佳を従えてきた老女医の息子は、ブリキを張った安定のわるい机に部屋の鍵を置くと、ぶっきら棒に注意事項を並べて行った。顔を迷彩色にした娘が、固い寝台に倒れこむ包帯男に声を潜めて訊いた、
 「あのひと、なんて言ったの?」
 「広東語だ。おれもよくわからない」
 「飯は自分たちで買って来て食え。服は新しい物に取り替えろ。男の傷が治るまで、娘は外出の時、必ず部屋に鍵をかけろ。・・・この部屋は禁煙だ」
 ベッドの下に灰皿を見つけ、案内人から掏り取ったマルボロに火をつけながら島崎は拍手した、
 「おおかたそんなところだろう。最後の一項目は外れだと思うけど」
 唇を尖らせて有佳は壁のスイッチをいじくりまわす。高い天井で大きな扇風機が回り始めた。
 「こういうのもいいな、って思う」
 タバコをくゆらせながら、ミイラ男は穏やかな声色でいった、
 「ざまあみろ、ってか?」
 迷彩娘は頷きながらベッドの隅に横になった、
 「ゆっくり、色んなことが話せるでしょう?」
 「うん。ところで、上の明り取りだが、どうして南に向いていると思う?」
 見上げる空は夕暮れで赤く染まっていた。
 「このベッドの位置だと、正午前に直射日光が顔にあたる。前の晩に飲みすぎて熟睡している客もお天道様にはかなわない。慌てて跳ね起き、早々に退散する、って寸法だ。宿屋はそれだけ効率よく部屋を運用できる。これが華僑商法だ」
 有佳に指先で左肩を突っつかれ、島崎の声にならない悲鳴が部屋の空気を震撼させた。
 「あたしは”死者”だから北枕でもかまわないけれど、それならお客さんが自分でベッドの向きを変えればいいことじゃない。それが日本流でしょう?」
 失踪による死亡宣告を受けている娘は、声色を落ち着かせた、
 「もっと、普通の話しをして」
 鈴木隆央の死体写真をホテルの朝刊で見てから、まだ三十五時間しか経っていなかった。しかしその間、タクシーと飛行機ですこし休んだものの、睡眠はまったく採っていない。目を開けていると、扇風機といっしょに天井やベッド、部屋そのものが勝手に回っているような気分になる。
 有佳も、島崎の饒舌が極度の疲労に根ざしていることを知っていた、
 「でも、今日は眠ってね。おばあさんもそう言っていたでしょう」
 本格的に熱が出て来た。傷口に直接塗りこまれた怪しい漢方薬の作用だろう。まぶたを閉じても、色とりどりの油幕のような歪が視界を十重二十重に被覆していく。
 「いつの間に中国語も勉強したんだ?」
 「そんなことを言っているような気がしただけよ」
 そんなことを言っているような有佳の声が、次第に聴覚から遠ざかっていった___。


 『サラ金地獄』が流行語となって数年が経っていた。
 この時期、都立高校に通う島崎康士の母親は、自宅の一階で経営している美容院の売上げ不振に頭を悩ましていた。隣接した都下でも指折りの繁華街には個性的な店がいくつも進出し、馴染み客の多くを持って行かれた。小奇麗な店でなくては流行らない。新手の美容院に圧倒される母親は、改装資金の融資を受けようと大手の都市銀や信用金庫へ足繁く通ったが容れられず、苦肉の策と知りつつも、高利貸しに手を出した。
 やがて返済計画も行き詰まり、母親は絵に描いたような熾烈な取り立てに晒された。
 不憫な母親を想う気持ちがなかった、と言えば嘘になる。しかし日々、鬱病のように煮えたぎる怒りと憎悪に苛まれ、健やかな目的意識もなければ、色恋沙汰とも無縁の高校一年生は、かがやかしい暴力の欲望に誘われるまま、家に押しかける業者と戦争してみようと思い至った。ただ、本来なら少年の目に最大の悪玉と映ってしかるべき、伝法口調で母親を恫喝する取立て屋には興味が持てなかった。この手合いは軒並み委託業者か下っ端である。腕に覚えある天邪鬼は、本能的に彼らを敵として役不足と判断したのかも知れない。
 果たして、眦に傷痕がある少年は学校をサボり、金融会社の最高顧問の自宅を調べ上げると、その翌朝には、ボディーガードを伴って車に乗り込もうとしていた、しかめっ面の老人を襲った。ガレージの屋根から飛び降りながら、石を握った拳でボディーガードを倒すと、その背広から拳銃を奪い、老人に車のハンドルを握らせた。
 「坊やは島崎といったな?」
 東京港のコンテナ埠頭だった。車を海に沈められ、重厚を背中に押し付けられる老人は、不自由な右足を引きずりながら、太い声で念を押した。
 「いまどき感心な孝行息子だ」
 あらかじめ目星をつけておいたバラックに落ち着くと、少年は素っ気なく答えた、
 「そんなご大層な理由じゃないよ。おれはただ、いま世間から鬼のように恐れられているサラ金業者という連中が、実際どれくらい強いのか、自分のやり方で確かめてみたかった」
 「おっ母さんの借金はそのままでもいいのか?」
 「そりゃ、利子を棒引きしてくれたら、それに越したことはないけどよ。いや、ぜひそうしてくれよ、爺さん」
 老人は自分を誘拐した無欲な少年に、或る種の人間に備わっている独特の素質を嗅ぎ付けていた。
 「あきれた小僧だな、貴様。たったそれだけの理由で、犯罪者になって、おっ母さんの苦労を増やす気か?」
 「爺さんみたいな業突く張りと相撃ちするなら、まあ、それくらいの親不孝は認めてくれるんじゃないの?」
 「高校生か?将来がある身じゃないか」
 「学校には未練がない」
 シニカルなポーズを決めた。ところが最初から隙を伺っていた老人は、年齢不相応な鋭い手刀で少年の手首を一撃し、床に落ちた拳銃を俊敏に拾い上げた、
 「まだ若いな」
 老人は俄に態度を豹変させて、少年に銃を向けた。
 「誘拐のやり方を誰から習った?」
 少年は悪びれなかった。
 「誰も教えちゃくれないよ。自分で思いついた。さあ、爺さん、おれの負けだ。早く警察に突き出しなよ」
 「わしは警察などあてにしない」
 老人は撃鉄に指をかけた、
 「無法者の始末は自分でつける」
 殺されるかも知れない、と観念した。
 「学校には未練がない、と言ったな?おっ母さんの借金なら、元金をひっくるめて帳消しにしてやってもいいぞ」
 その時刻、老人の家はパトカーが取り囲み、身元の割れた高校生の犯人を、数百人の警察官が追跡していた。
 「その代わり、貴様は私のところへ身売りする。それが条件だ」
 「なんだよ、おれのケツが目当てか?」
 笑いもせず、老人は言った、
 「貴様の行き先はそんなに生易しい地獄ではない。ただし、先刻のボディーガードを倒した技は見事だった。褒めておく」
 意味不明の台詞回しをする高利貸しの名前は、保田孫一といった。かつて帝国陸軍飛行第64戦隊に所属する整備曹長だった保田は、ビルマにいた頃に空襲で右足を負傷し除隊。満鉄の技術員として終戦を迎え、シベリアでの抑留生活を経て、復員。戦後は絶望の淵から金融業界に身を投じ、縁あって結ばれた世に潜む政策集団・萌草会の中枢を切り盛りする金庫番になった。
 この男が、数奇なめぐり合わせによって邂逅した少年を手許に置こうと思ったのは、ひとえにその実力を見せ付けられたからではない。だが、当の島崎がその伏線を知らされるのは、もっと後になってからの話しである。


 明け方だった。頼りない蛍光灯が点けっぱなしになっていた。横目に色褪せた髪の毛がぼんやり見えた。不眠不休で看護する気でいたのだろうが、有佳も夜半には力尽きたらしく、傍らで寝息を立てていた。着ている物は昨日と同じである。少女の寝顔が淡い靄の中で中途半端に成熟し、花が開くようにほころんだ。
 「じつにいい女だ。おれは遠い昔から、こんな顔の女が好きだった。でも、決して信用しちゃいけない顔だ・・・」
 ミーミョーは、優しげに島崎の胸中を覗いていた。
 「この手の顔をした女は、おれが抱きしめたい、って思う頃には、いつも煙のように消えている。だから、信用してはいけない。おれも間違っている。だって、地べたを這いつくばる虫けらは、天女に恋してはいけないんだ。それがずっと昔からのお約束事だろ・・・」
 「康くん!」
 身を揺する有佳が涙声でさけんだ、
 「お願い。しっかりして。あたしはネギ。ネギなんだから!」
 景色が黄色く淀んでいたが、島崎の視界はタイルとベニヤの壁に囲まれた現実を捉えていた。散漫な思考は、時間をかけて前頭葉に収斂される。
 「いま、おれ、へんなこと、しゃべっていたか?」
 回答に窮して、有佳は話の向きを逸らすことにした、
 「好きな人が死んじゃったの?」
 「どうしてわかる?」
 曖昧模糊としていた思弁は、やはり、うわ言に織り込まれていたらしい。
 「なんとなく、よ」
 「いま聞いたことは、明日の朝までに忘れるんだぞ」
 「無理に隠すことじゃないと思う」
 あらためて身を横たえると、有佳は迷彩色の小さな顔を男の耳に近づけた、
 「何年もかなしい気持ちを持ち続けてくれるのは、亡くなった人にとって、とても幸せなことだと思う。いつもじゃ困るけど、たまにはそんな風に泣いていいのよ」
 哀しいほど軽いけれど、質感ある身体を摺り寄せる有佳は、またしても、年増女の口ぶりになっていた。
 「泣いた覚えはないぞ」
 「心で泣いていた」
 いまでも気圧されているくらいだから、少年時代の自分など、到底歯が立つ相手ではない。
 「二年生の時、康くんも行方不明になったよね?」
 有佳はかすれた声で囁いた、
 「学校にはちゃんと戻って来たけれど」
 「四国へ行った」
 自身の失踪事件を、島崎は鮮明に思い出していた。
 「二年生なのに、ひとりで?」
 「本州を旅しているあいだはひとりだった。でも四国に着いた後は、ちゃんと保護者同伴だったよ」
 「もしかして、お父さんに会いに行ったの?」
 「きっと虫の報せだったんだろうな。なんだか急に父ちゃん・・・親父に会いたくなってさ。お袋や姉貴にも言わずに家をとびだしていたんだ。坂本竜馬の銅像を観に行った。うちは幕臣なのに、あの男はとことん竜馬贔屓だった。船乗りになったのも、けっこうミーハー的な理由だったのかも知れない。小松島の港でたいして旨くない丼飯をたらふく食わされてさ、波止場で祥羽丸の出港を見送らされた。無責任な親父は、それっきり帰って来なかった」
 ペナンは目と鼻の先だった。有佳は故意に感情を押し包み、顔をそむけて平穏にいった、
 「そういう話をしてほしいの。せめて、ここにいるあいだは」
 窓越しに見上げる暁天に、コーランが響き渡った。
 「アラーは偉大なり。アラーの他に神はなし・・・有佳ちゃん、腹が減った。ブタ肉料理が食いたい。もう少し明るくなったら何か買って来ておくれ」
 「結局あたしが召使い?」
 俄然、普段の調子を取り戻した島崎に、有佳は嫌味たっぷりに舌を突き出した。
 「じつは昨日から空きっ腹なんだ。ジフリーさんにも言ったんだが、まったくインド人ってのは、絶対に人の話を聞こうとしないからなぁ。朝っぱらから牛肉料理を食ってやろうか、ネギ」
 老女医の処置は適確だった。痛みは後を引いていたが、衛生観念上まことに不愉快な腫れぼったさは、一夜にして、嘘のように消えていた。名医が言うように、しばらくここに腰を据えていたほうが、自身の再生作用が傷口を塞ぐのも早まるかも知れない、と島崎は素直に思うようになっていた。
 「明るくなったら、お魚入りのお粥を買ってきます」
 ぴしゃりと言って、有佳はいましばらく一眠りを決め込んだ。

 バンコクは、いつも通りの朝の活気に満ちていた。
 ラマ九世通りでは渋滞が始まり、数珠繋ぎになった満員のバスが、あたり構わず物臭な客を収容し、せっかちな客を降ろしていく。この時間帯、建て売りのオフィスビルばかりが稠密する一角に面した停留場は、新たに乗車する者もなく、あたかも降車専用の観を呈して、どのバスも勤め人の一群を吐き出すと、幾分身軽になって走り去った。
 備中興産タイランドは井坂の不在が続いていたけれど、業務は中断していなかった。ティウが出勤してみると、数人の作業員が組み立て式の仕切り壁の資材を運び込んでいた。ちょっと様子がおかしい。ハンドバッグを抱きしめる勤続四年半の受付嬢は、寝耳に水の異常事態を目の当たりにして、玄関前に立ち竦んだ。
 「これはいったい何の工事でしょうか?」
 声を絞り出して若い作業員を呼び止めた。
 「新しい会社ができるのでございます」
 瞬刻、しばらく家でのんびりできるかも知れない、と思ったが、井坂や仲間に対する同情から、ティウは悲鳴に近い声を張り上げた、
 「ビッチュウは潰れたんですか?」
 「その会社のことは存じません。私たちが作業しているのは六階です」
 社屋は六階建てだった。備中興産タイランドの事業規模だとオフィスは五つもフロアがあれば充分だった。日頃空き室になっている最上階は、社員にとっても、年に一度、年末の御用納めの打ち上げに使用するくらいで、普段はまったく足を踏み入れることはない。時々井坂の知り合いがここで起業を試みるけれど、例外なく数ヶ月で姿を見かけなくなる。年明けにあらわれたスギウラという人物も例外ではなかった。タイの企業は、小さな会社を経営する仲間同士の集合体である場合が多い。新しいビジネスを興そうとする者が、友達の会社に間借りして事業を立ち上げるのも常識だった。日本からまた井坂の知人がやって来て、タイ・ビジネスの小手調べをするあいだ六階を借り受けたのだ、とティウは勝手に決め付け、大いに胸を撫で下ろした。
 「そんな話しは聞いていないわよ」
 明日の朝もまた、満員のバスに乗らなければならない。ボードを抱えて無理矢理エレベーターに身を捻りこむ作業員にささやかな悪態をつくと、水を垂れ流すゴムホースを手にしたTシャツ姿のタロが裏の駐車場から現れた。展示してある重機を洗っていたらしい。
 「ごきげんよう、タロさん。こんな朝早くからよく働きますね」
 通勤用のハイヒールを脱ぎ、社内用のサンダルに履き替えながらティウは身を乗り出した、
 「あの...」
 「六階のことですかい?」
 うら若い先輩社員の機先を制してタロは言った、
 「今度チョンブリにできる警備会社の仮事務所だ。但し、電話や来客があっても、必ず一旦”そんな会社は知らない”と、突っぱねること。それでもなお相手がこのタロ様にお取次ぎを願い出たら、言われた通りにしてくださいな」
 「はあ?」
 タロは一介のメッセンジャー兼雑用係である。ティウはいよいよわけがわからなくなった。ただならぬ会話を耳にして、物置部屋からブルーの作業用ユニフォームを着た中年女がふたり、ひょっこり顔を覗かせた。備中興産タイランドに常駐するメンテナンス会社の派遣スタッフたちだった。突然秘密プロジェクトの担当者に出世した蟹面の青年は言った、
 「今後、六階は賄い婦さんも立ち入り無用だ」
 新たな不安がティウの笑顔を曇らせた。手ぶらの作業員が他愛のない与太話をまじえながらエレベーターを降りてきた。そして、入れ違いに発泡スチロールの弁当箱を二食手にするエンジニア風の男が玄関をくぐって来た。男はまずティウや賄い婦たちへにこやかな会釈を手向け、目線を合わせたタロに無言で頷きかけると、取り澄ました横顔で階段を上がっていった。見かけない顔だったから、六階の関係者であることはわかるティウにも雰囲気で察せられた。
 「いまの人は?」
 「スーパーバイザーの日本人だよ」
 女たちは怪訝に階段を省みた。スーパーバイザーは、顔の堀が深く、肌も濃い褐色だった。てっきりタイ人とばかり思っていたのだ。


 最上階の踊り場から中をのぞこうとすると、仕切り壁とロッカーが上品に視野を遮っていた。
 「どうだい?」
 死角になっていた真横の壁際からピストルが突き出され、太い男の声がした。深追いを試みる者は、この単純なレイアウトの仕掛けにコンマ数秒間戸惑い、生命を危険に晒すだろう。
 「こけおどしにしては上出来だ」
 両手を上げるスーパバイザーの稲嶺庄之助は最低限の自衛策が施された警備会社のフロアに満足した。道端で買ってきた食料から自分の分を抜き取ると、残りの一食を拳銃を構え、スチールデスクに陣取るアレックスに突き出した。
 「それは?」
 「見ればわかるだろう。餌だ」
 三日前に中国人傭兵の襲撃を受けたばかりの男は、しかし安易に手を伸ばそうとはしなかった。
 「溺れる犬には思いがけない利用価値があった。おれに棒で叩く理由はない。毒など盛っていないから安心して腹ごなししてくれ」
 一見したところ、除隊したばかりの連隊長級陸軍軍人。新しい警備会社を立ち上げるのに何の不思議もない風貌を、三日前に親分に殺されかけたばかりのヤクザ者は備えていた。しばしためらったあとサングラスの下で、にわかに輪郭の太い口元が自嘲した。アレックスは発泡スチロールの容器をあけながら外の景色に目を移した、
 「すてきな隠れ家だ」
 若者のように居直ると、汁かけ飯を頬張りアレックスは言った、
 「このような振興のオフィス街が、今のバンコクでは一番安全な場所かも知れない。私も足を踏み入れるのはこれが初めてだ」
 「隠れ家じゃない。前進基地だよ。だからこそ、備中興産の社長はここの使用を承諾したんだ」
 稲嶺は温くなった缶ビールのプルトップを捻った、
 「中途半端なインテリが支配している界隈はアヒルの小屋と同じだ。儲けはたかが知れているのに騒がれるとこの上なくやかましい。やくざはおろか、小泥棒や警察だって敬遠しようとする」
 エレベーターの扉が開いてタロが現れると、言葉をタイ語に切り替えて稲嶺が言った、
 「面倒をかけて、すまんな」
 「気にするな。チマの友達ならおれの友達だ。しかも本日は上等な兜首のおまけつきだ」
 これを聞きとがめて、アレックスがせせら笑った、
 「ふん。減らず口を叩くな、プラカノンのチンピラめ」
 「いいきみだぜ。親分に捨てられてよ」
 スパキット一家はタロが率いる愚連隊にとって最大の侵略者であり、一方、バンコク東部に陣取る頑迷な一党は、チョンブリの覇者から見れば、首都との円滑な連絡を遮断する魚の骨だった。
 「これだから東南アジアの人間は、ありがたい」
 稲嶺が陽気に口を挟んだ、
 「結束すれば大国に太刀打ちできる可能性があっても、目先の因縁に拘って反目し続けてくれる。一事が万事、この調子だ。タイの利権はこのショウノスケがそっくり独り占めできるというものだ」
 稲嶺の婉曲な自虐に気づかないタロは不機嫌そうに口を閉ざしたが、アレックスは声をあげて笑った、
 「日本人だって同じだろう。特にこの街に住んでいる連中の愚かさは同情に値する」
 合いの手に満足して稲嶺はタロを諭すようにいった、 
 「器が小さな人間は、自分より切れる部下をはじめは重宝するが、やがて煙たくなり、しまいには焼きが回って恐れるようになる。君主が辣腕で知られた宰相を厄介払いするとき、その帝国は凋落する。スパキットも、もう終わりだぜ」
 その時、タロの携帯電話が鳴った。
 「しつこい客?やれやれ、早速おいでなさったか...日本人のツルマキ?」
 一階のティウからだった。稲嶺は頷いた、
 「通してくれ」
 ややあって、弦巻と名乗る無精髭の男が、タイ人の若者を一人連れて現れた。座った眼差しの弦巻には、危険な路地裏を闊歩する人種特有の風格があったが、地元人のほうは、とても警備会社に応募するタイプには見えないやさ男だった。
 「こいつは、どこのウエイターだ?」
 新参の日本人が無口なので、アレックスはまず自分の嗅覚に基づいて、同国人の素性を質した。
 「タニヤ通りだよ」
 にやけてから、稲嶺は面持ちを改めた、
 「ところがどっこい、彼氏はVIPだよ。プラチアプキリカン県で会社を経営している。しかも役員名簿には、三光銀行のバンコク支店長さまが名を連ねていらっしゃる」
 若者は、以前酒癖の悪い三光銀行のバンコク支店長に殴られた男だった。つまり、張子の社長である。
 「笠置、鈴木、そして福原の手を経て、いまそのダミー会社の経営権がおれのところへ回ってきた。弦巻は大学の後輩でね、せっかく就職した石油会社を辞めて、この数年間、第三世界をぶらぶらしていたのだが、つい数ヶ月前、たまたまカオサンで食い詰めているのを見つけた。福原の組織に消耗品の兵隊として潜り込んでもらっていたのだ。そして福原が死んで、その組織は自然消滅した。要領のいい連中は滝に寝返ったが、まだこの街には行き場を失った敗残兵がうろうろしている。中にはこうした火事場泥棒を働くやつもいる」
 「すべてはあんたの指示だぞ、先輩」
 はじめて弦巻は能動的に言った、
 「カモフラージュにカオサンの暇人を大勢連れて行ったのはおれの判断だけれどさ」
 「さて、これから忙しくなるぞ」
 アレックス、タロ、弦巻、プラチアプキリカン出身の若者、その場にいない井坂にも、意思統一の因果は含めてある。ささやかな暴露を稲嶺は受け流した、
 「大掃除がすんだら、アレックスのおっさんにはプラチアプキリカンの会社を叩き台に、タイ側で独自のクラ運河建設のため、合同企業体をセッティングしてもらう。落し種とはいえ、あんたはソムチャイの息子だ。これは正当な事業の継承だよ。それからタロはこのまま備中興産に籍を置きつつ、堅気になりたいスパキットの残党を傘下に加え、工事に必要な人足、資材の手配を担当してもらう。このインチキ警備会社に実体を与えて活用するといい」
 夜の町で働いていた地方出身者の若者は、抗争の当て馬に使われるような自身の不甲斐なさをわきまえていた。銀行マンに殴られ、わけもわからず経営者に担ぎ上げられ、異民族のあいだを盥回しにされた挙句、名の通った侠客に身売りを余儀なくされたわけだが、むしろほっと安心したようにアレックスを仰ぎ見た。スパキット一家は蛇蠍のように嫌われているけれど、反面、タイ人には珍しい男気を備える若頭は面倒見がよく、社会の底辺で慎ましく生きる人間たちから言葉の介在しない人望を集めていた。若者が、以前よりマシな所得の保証と引き換えに、持て余していた椅子を譲る相手として浮上した意想外の同国人に満足したのは自然の数だった。
 黙って聞いていたアレックスが笑い声を上げた、
 「じつに素晴らしい絵空事だ。しかし稲嶺、運河を掘るには途方もない原資が要るだろう?いくら私が大声で叫んだところで、タイにそんな資金はない。それに萌草会に三行半を突きつけたお前が、日本からファイナンスを引っ張れるとは到底思えない」
 「バーツや円にこだわる必要はあるまい。この世には、オイルマネーという”通貨”もある」
 稲嶺はアレックスの嘲笑を遮った、
 「他人の懐を当てにするなら、とことんその路線でやってやろう。いずれアラブの石油は枯渇する。純金のキャデラックで遊んでいた連中も、これからは少し真面目に安定した資産運用を考えざるを得ない。うまいエサをちらつかせて、中近東から金を引っ張るんだよ」
 「なるほど、わが国もサウジアラビアを除けば、湾岸諸国との関係は軒並み良好だ」
 ここで、井坂のアラブ・ルートが意味を帯びてきた。それにかつて第三世界で働き、放浪してきた弦巻はアラブ事情に精通していたし、言語にも堪能だった。井坂と弦巻を結び付けようとする稲嶺の目論見は言わずもがなだった。
 「おまえ自身はどうする気だ?まさか福原の残党を束ねてやくたいもない日本人の一党を立ち上げると言い出すんじゃないだろうな?」
 「日本人をなめるなよ。たとえ今は目を覆いたくなるような無節操ぶりでも、目的がはっきりすれば、死に物狂いで行き詰まった世界のパラダイムをひっくり返す民族だ」
 アレックスに啖呵を切る稲嶺は、これから戦う相手が特定の個人や組織、国家でないことを暗に示した、
 「実は、もうひとり、日本人が訪ねて来ることになっている。アレックスさんとは知らない間柄ではないはずだ。その男が大真面目に福原や篠塚の組織にいた連中の面倒を見るよ」
 知り合いの日本人と聞かされて、渡世人は身構えた。
 「クラ地峡と競合するプロジェクトにメコン流域の総合開発がある。片方が浮上すれば、もう一方も影のように現れる。すでに多くの人間がメコンの大魚を吊り上げようと船を漕ぎ出している。しかしこのふたつを同時に進行すれば、また共倒れになる。クラ運河を完成させてから、メコンに着手するのが望ましい。おれは今しばらくメコン川の岸辺をぶらぶらしよう」
 「なんだい、おれたちだけ働かせてご自分は物見遊山か」
 不貞腐れる弦巻は萌草会とは関わりのない人間だった。謀略や特殊部隊の真似事は、萌草会広報調査員にとって二次的な職能に過ぎない。旧満鉄調査部から引き継いだフィールドワークのスタイルを踏襲する面々は、徹頭徹尾、自らの足で実地を歩き、未来の情勢を割り出し、これに挑戦していく。
 「ああ、その通りだ。おれはメコンを牽制しながら、島崎康士の指示を待つ」
 夢物語の先に、さらにもうひとつの幻想を描く策士の慇懃な姿勢が、居合わせた野心家たちに肩透かしを食らわせた。







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