* この物語はフィクションであり、登場する人物、企業、
団体、一部政府機関の名称は架空のものです(著者)。




第四十一話




 マレーシア国旗をあしらった門扉を越えると、もうそこはタイではない。屋根と手すりのついた歩道が緩い下り坂となって五百メートルばかり続き、マレーシア側のイミグレーション、ブキット・カユ・ヒタムの鉄骨を組んだ施設が控えていた。
 「ちくしょう。どうして反対側にはあるのに、こっちにはないんだ?」
 「なにが?」
 「デューティーフリー。タバコが切れたから買いに行きたかった」
 あきれて、有佳は唇を尖らせた。
 「妙なことを口走っていたな、あの中佐。スタンプをくれたのは有り難いけどさ」
 島崎のふてぶてしい言葉に、有佳は弁解するように答えた、
 「ヌンさんのお友達なの。あたしも、あの中佐さんには何度か会っているの」
 「おまえが思っているほどおれは馬鹿じゃない。あの若さで空港をひとつ仕切っているんだ。チュラ大の法科って顔に書いてある。色男の最初の一言で事情はおおむね察しがついた。おれが言っているのはそんなつまらんことじゃない」
 「じゃあ、どんなことよ?」
 「陳さんは入管にマークされている。今度タイに戻ったら捕まるよ」
 「教えてあげる方法はないの?」
 にべもなく、島崎は言った、
 「ない。天意に見放されたら捕まる。それだけのことだ」
 そして自嘲した、
 「どっちが足手まといなんだか・・・おまえのお陰で助かった」
 俯き加減に有佳はいった、
 「手をつないで」
 「どうして?」
 「手をつないで」
 「ああ」
 うろたえながらも島崎は徐々に感覚を失いつつある左手で、しっかりと有佳の小さな掌を握りしめた。
 「これでいいのか?」
 「うん」
 いきなりキスをしてきた有佳は、やはり別の人格だったのだろうか?ただ手を握るだけで、見かけとは裏腹な慎ましい気立ての少女は、泥で汚れ、無残に腫れ上がった頬をほのかに紅潮させていた。
 「こんなところへ、康くんに連れて行ってほしいって、ずっと前から思っていた」
 マレーシアのゲートの前に設けられた路側帯で、先にタイを出国したジフリーが何十年来の知己を出迎えるように手を振っていた。
 太陽が頭上へにじり寄ってくるように感じられるのは、赤道へ着実に近づきつつある証拠かも知れない。左右は相互の監視のため、見通しよく森が伐採されて荒地になっているけれど、はるか前方は、碧落までつらなるゆるい丘陵に、プランテーションのゴムの木が渦を巻くよう規則正しく植栽されていた。だが有佳はいま、大きくなった康士といっしょに、どこの国家にも属さないわずか数百メートル幅の境界線を横断していた。ささやかだったけれど、そこは有佳にとって約束の地の、雛型だった。


 アレックスはメルセデスの後部座席に陣取り、チョンブリの湿地帯を貫くうらびれた県道を走っていた。ギャングのあいだでは、死体遺棄にお誂え向きの場所として重宝されている区画である。ものの五日で惨たらしい人間の抜け殻をきれいな白骨に変えてしまう嗜虐的な太陽が照りつける日中と言えども、この不吉な界隈を往来する一般車両はほとんどない。
 官憲の介入によって、タイ国内に点在する青眉のアジトは虱潰しに手入れを食らっていた。こうした好機に恵まれて、スパキットは浮き足立っていた体勢を立て直すべく、バンコクで抗争の指揮を執っていたアレックスを急遽呼び戻したのだ。
 「ボスがこんな土地に不動産を手に入れていたとは意外だな」
 助手席の側近も、訝しそうに首をひねった、
 「俺たちが知らないのはまだしも、おやっさんまでご存じなかったというのは、ボスも少々焼きが回ったとしか言い様がありませんぜ」
 電話で大雑把に指示された会合地点は、まだしばらくこの道を走り続けなければならない位置にあった。
 タイ警察の矛先は、必ずしも外国勢力のみに向けられているというわけではない。
直接的な圧力は掛かっていないにせよ、悪徳を憎む王室の権威が介在している以上、スパキット一家も陣容をあけっぴろげに再生することができなかった。活動の拠点も、これまでのように邸宅ではなく、人里離れた隠れ家に移すのが無難といえば無難である。ただ、第一級の幹部であるアレックスにまで、新しい牙城を隠していたスパキットの態度は腑に落ちない。あたりは行けども行けども、深い葦の茂みだった。
 ___ どうも様子がおかしい ___
 アレックスがそう思った矢先、後ろを走っていた護衛のピックアップトラックが地響きのような破裂音とともに火柱をあげ、視界から吹き飛ばされた。地対地ミサイルによる攻撃だった。次いで人間の背丈ほどもある一面の草の中から銃撃がおこり、メルセデスを運転していた男が断末魔もあげずに絶命した。
 「おやっさん!こいつは罠だ」
 助手席の側近は次の瞬間、脳漿を車内に飛び散らせ、何も言わなくなった。木っ端微塵にされたピックアップに生存者はいない。拳銃を構えてスクラップと化したメルセデスを転げ出ると、これを遮蔽物にアレックスは弾丸の飛んでくる向きを観察した。冷静な顔つきの中国人の一団が五六式突撃銃を撃っていた。青眉にしては、上品であり、高等な戦術である。
 ___ 人民解放軍? ___
 応戦し、立て続けにふたりを射殺したが、敵は一向に怯まず、よく訓練された接近術を駆使して標的に漸近してくる。三八口径の拳銃では、とても歯が立つ装備ではなかった。背後からも殺気がつかみかかった。
 「撃つなっ!」
 日本語が飛び、ピックアップの黒煙を掻い潜って、自動小銃を抱えた稲嶺庄之助が転がり込んだ。三人が稠密する茂みに手榴弾を投げ込み、敵の照準に死角を確保すると稲嶺はいった、
 「手を貸すぜ」 
 「ありがたい。しかし、騎兵隊にしては出来すぎのタイミングだ」
 「あんたの首をもらうつもりで尾行していたが、気が変わった。さあ、話はあとだ。後退しよう。敵は二十人くらいいる」
 言いながら稲嶺は背中に吊るしてあったM11サブマシンガンを年配のアレックスに投げ渡した。手足の千切れたボディーガードの死体を横目に数十メートル退くと、潅木の影にバズーガ砲が転がっていた。稲嶺はこれを拾い上げて身を伏せると、追いかけて来る敵の中央にメルセデスの残骸を狙い、引き金を引いた。爆発は四五人を巻き添えにして、ガソリンの炎があたり一面に飛び散った。直射日光で水気を失い、萎びていたあたりの草は、たちまち勢いよく燃え始めた。敵の進路を炎で食い止め時間を稼ぐと、呉越同舟の男たちはさらに百メートルばかり下がる。稲嶺の手には電子ライターを改造した起爆装置が握られていた。
 「逃げながら敵を消耗させていく。宮本武蔵の戦法だな?」
 「緻密に刀を隠している時間はなかった」
 一呼吸置いて、稲嶺はスイッチを押した。叢を迂回して前進し、狙撃ポイントに落ち着こうとしていた幾人かが、両脇からせり上がる地面に飲み込まれて沈黙した。
 「このままバンコクへ戻るかい、おっさん?」
 「ああ。しかし、その前に捕虜をひとり捕まえる」
 「そうこなくちゃ」
 稲嶺とアレックスは反撃に転じた。炙り出された一団も、一斉に飛び出しはげしい銃撃戦が繰り広げられた。乱戦の中で二人の狙いは正確だった。銃弾は確実に目標を仕留めていく。弾が尽きると倒れた襲撃者の小銃を拾い上げて応戦し、これの弾倉も空になるとさらに次の銃を手に取り、間断なく弾幕を張り続けた。あっという間に数を半減させた襲撃隊はジリジリと撤退をはじめた。
 「どうもひっかかる。青眉の連中だろうか」
 深追いは手控え、硝煙が立ち込める県道に生存者を探しながら、アレックスは言った。どの死体も、人相に黒社会特有の険が希薄だった。
 「おれもそこに興味がある。ヤクザと言うより、むしろ傭兵の戦いぶりだったからな」
 咳き込み、黒い血を吐き出している者がいた。アレックスが華語で問い掛けた。
 「正直に話せば、病院に連れて行ってやる。おまえたちは青眉の襲撃隊なのか?」
 男の頬骨に力のない希望がさした、
 「不是...泰国人に雇われた」
 「なんという名前のタイ人か?」
 「不知道...大きな組織の老板だ」
 そこまで聞いて、稲嶺は中国人の頭を撃ち抜いた。
 「肺に血が溜まっていた。病院へ運ぶ前に、さんざん苦しみぬいて、確実に死ぬ」
 アレックスを襲わせた黒幕の正体は、あらためて口にする必要もなかった。強いて言えば、これまで恃みにしてきた軍師が、急に煙たくなった者の策謀である。稲嶺は手にした中国製の小銃を道端に捨てると、歩きながら、おもむろに話題を切り替えた、
 「島崎康士は今しがたタイを出国したよ。ングーキヨウは死んだぜ」
 アレックスはトレードマークのサングラスを外し、虎のような目を露にした、
 「あのふたりは戦ったのか?」
 「あんたが指図したんだろう?」
 「ばかな。私はこれまで幾人もの人間を葬り去ってきた。しかし一度として、ングーキヨウに人を殺せと命じたことはない」
 稲嶺は歩調を停めた、
 「聞こうか」
 「ングーキヨウはサンカブリの難民キャンプでこの私から財布を掏った。それで気に入った。息子として立派な男に育てようと思ったんだが、気がついてみると、あいつは殺し屋になっていた。お袋は妾だった。私は父親の愛情を知らない。他人を真人間にするなんて、とんだ料簡違いだった」
 こみ上げる悲憤を包み隠して、アレックスは自嘲気味に言った、
 「私の首がほしい、と言っていたな。遠慮しないで持って行け」
 「おれが欲しいのは憎たらしい悪漢の首だよ。いや、こちらの仕事をくだらない料簡で邪魔しようとする近視眼的な愚か者の首と言ったほうが誠実かな。しかし、哀れなリストラ親父の首に用はない」
 稲嶺は弾倉が空になったベレッタを見せびらかした、
 「あんたは息子の仇が下宿屋に残していった武器弾薬で命拾いしたんだよ。これも因業というやつだろう」
 「島崎か。憎くないといえば嘘になる」
 煮え切らない調子でアレックスはいった、
 「あいつは日本人なのに、私の父親から積年の夢をそっくり相続してしまった」
 稲嶺の顔からシニカルな趣が消えた。
 アレックスは南の空を見上げて呟いた、
 「十五の母親と私を捨てた男は、ソムチャイ・ポラカンという名前だった」


 マレーシアは、広い割に人口が希薄なボルネオ島北辺の東部と、本土と呼ぶべき半
島の西部にわかれている。ブキット・カユ・ヒタムから南下しているルートは、重工
業地帯が集中する西海岸に沿ってペナン、そして首都・クアラルンプールへ達してい
た。度重なるハプニングに半ば疲れ、つい自分たちが偽者であることを忘れていた島
崎と有佳は、ベルトコンベアーに乗せられたかのようにマレーシアの入国手続きを済
ませると、税関で検査の順番待ちをさせられているジフリーに近づいた。インド系マレーシア人はふたりの姿をみとめると、突然悲しげにさけんだ、
 「おおっ、見てくれ、傷ついた異国の友よ。私は君たちを一刻も早く医者に連れて行きたいのだが、この有様だ」
 「あのインド人、なかなかの役者じゃないか」
 島崎がつぶやくと、有佳は女優気取りの高野美咲らしく、ジフリーのトラックの前に二十台も並んでいる車を見て、島崎の腰に手を回すと、絶望的な金切り声を上げた、
 「ああ、神様!死んじゃうよ。こんなに待たされたら!」
 半分は演技でなかったが、島崎も足をもつれさせてその場にへたり込んだ、
 「諸君。聞き分けのないことをいってはいけない。たとえこの身が朽ち果てようとも、決められた規則は守らなにゃならんぞよ」
 先頭のトラックを緩慢な仕草であらためていた青い制服の男たちが振り返る。そして口髭を蓄えたマレー人係官が面倒くさそうにいった、
 「ああ、おまえは毎日通るタイピンの魚屋だな?そいつらはおまえがタイから連れて来たのか?」
 「そうだ。日本人だ。見ての通り、たいへんな怪我をしている。早く病院へ連れて行きたい」
 係官は有佳に微笑んだ、
 「コンニチハ」
 「こんにちは」
 片言の挨拶で旅行者の国籍を確認すると、どこかサダム・フセインに似ている男はインド系に顎をしゃくった、
 「どうせ積荷はいつもの安い干物ばかりだろう。申請書類を窓口に置いて、さっさと病院へ連れて行け」

 ゲートを出ると手入れの行き届いた高速道路が、白々と、まっすぐ南へ延びていた。はげしく翻る破れかけた幌の隙間から覗く景色は、ゴムやオイルパームのプランテーションから、やがて鮮やかな緑の穀倉地帯に移り変わった。椰子の木さえなければ日本の農村にも通じる風景だった。
 「疲れたか?」
 「すこし」
 「面白い語り草になるだろう」
 「うん。ダンプまで運転しちゃった」
 数十秒おきに左肩を激痛が襲った。関所破りで見せた軽薄な態度とはうって変わって、寂びしげに下唇を噛み締める有佳は、ミネラルウォーターに浸したタオルで、とめどなく脂汗が滲み出る島崎の額や下顎を拭き続けた。
 「でも、クラスのみんな、大人になっているんだもん。康くんといっしょに冒険したこと、誰にも自慢できないね」
 「大人になって、みんな平和な生活を送っているんだ。おまえみたいに肝が座っているやつの話を聴かせたって、常識が違うからどのみち感情移入はしてもらえんよ。あきらめな」
 「いいよ。クルンテープの人達や、これから出会う人たちに思い切り威張って話すから」
 前向きな有佳の強がりは、島崎にとって一服の鎮痛剤になった。覗き窓からジフリーが荷台の様子を省みた、
 「もう少し我慢するんだ。ここいら辺でいちばん大きなゼネラルホスピタルはケダ州のアロルスターにある。なにしろドクター・マハティールのお膝許だからな。設備は立派なものだ」
 マレーシアの首相は、もともとアロルスターの町医者である。島崎が突然身を起こした、
 「アク、ラパール!」
 と、有佳の知らない言語で口を挟んだ、
 「出血は大したことない。マレーシア・リンギットの持ち合わせがないし、久しぶりにテータリーも飲みたい。この先に両替所つきのドライブインがあったはずだ。タイピンへ急ぐあんたにこれ以上迷惑をかけるわけにはいかない。そこで降ろしてくれ」
 「なんだ、友達。おまえはマレー語を話すのか」
 インド人にとって、多種多様な言語の使い分けは、かくべつ賞賛の対象となる才能ではない。そこまで英語で言うと、ジフリーも当たり前のように言語をローカルなものに切り替えた、
 「しかしあそこはまだぺルリス州だ。田舎だし、満足な医療機関は整備されていないぞ」
 「ジットラの町に医者の心当たりがある。ドライブインに屯しているタクシーをつかまえるから心配しないでくれ」
 「その身成りじゃ、タクシー野郎はみんな気味悪がって誰も乗せちゃくれないだろう」
 「報道番組でインドの殉教者祭りを見たことがある。みんな今のおれみたいな姿をして楽しそうにしているじゃないか」
 ハンドルを握るヒンドゥー教徒は真顔で答えた、
 「それは本土の話だ。マレーシア・インディアンにあんな過激な真似をするやつはいない...オーケー。おまえたちが両替しているあいだに、おれがタクシーと話をつけてやる」


 半年前、放浪癖のある夫がバンカピのアパートにユウカという同国人の少女を匿っているのを見つけた。その瞬間、かねてより夫の浮気を嫉妬できる女たちに嫉妬しする自己の性格的欠陥を自覚していた女は、これをコウジの世間並みな無軌道と決め付け、臍を曲げてみようとつとめていた。最初から、ユウカに夫を誘惑した小娘という烙印を押す気にはならなかった。今思えば、彼女が自分にとっても何か大切なメッセージを携えていると直感していたのかも知れない。やがてユウカとはあたかも見えない糸で引き寄せられ合うかのように急激に親しくなった。
 そして今朝、彼女はコウジに連れられ、嵐のように故国へ旅立っていった。ふたたび自分はひとりになった。感傷に浸っている時間はステファニーに与えられていなかった。互いの距離が狭まるうちに、徐々に常識では考えられない体験を明らかにし始めたユウカであるけれど、もちろん頭から信用したわけではなかった。日本人はいつも荒唐無稽な発想を導き出す。大切なのはユウカであり、その謎めいた素性ではなかった。ところが、空港で彼女と別れて自宅に戻ると、これまで情緒に流され棚上げしてきたテーマが驚愕すべき痕跡とともにステファニーの前に踊り出た。
 遅い昼食を採りに行くような素振りでルンピニの事務所を抜け出すと、人から聞いたシロム通りの或るオフィスビルに足を踏み入れてステファニーは、社名プレートをたしかめ、エレベーターのボタンを押した。訪問先は、近年バンコクやチェンマイに多くの店舗を展開し、不況のさなか急激に成長している外食企業だった。


 水色のロングスカートに白の、チャドルと呼ばれる頭巾を被ったイスラム教徒の女学生が数人、友達同士で島崎を指しながらひそひそ囁き合っていた。ジットラは小さな町だった。歩道の敷石に血痕を刻みつけながら次第に目の隈を色濃く沈ませていく島崎は、こじんまりした二階建てショッピングコンプレックスの前を素通りすると、漆喰建ての長屋が連なる路地裏へ回り込み、固く扉を閉ざした漢方薬問屋の前でおぼつかない足取りを止めた。
 「ここに寄る。歩道と敷居の段差に気をつけな」
 有佳は眉をしかめて胡散臭い漢字の看板を一読し、窘めた、
 「薬ならあとで買えばいいじゃない。はやくゼネラルホスピタルに行こうよ」
 「何を隠そう、ここは病院なのだ」
 黄緑のペンキが剥げた戸口にもたれかかり、島崎は人目を避けるようにノックした。ややあって、地獄の底から滲み出してくるような、しわがれた老女の声が誰何する。しかし、何を言っているのかわからない。
 「我不会説広東話」
 島崎がとぼけた調子で広東語を辞退すると、覗き窓から白内障の濁った瞳があらわれ、苦しそうに来訪者を値踏みした。
 「月?」
 相手は北京官話でいった。島崎もこたえた、
 「霜」
 合言葉が交わされると、重々しく通用口があけられた。閑散とした内部は照明がなく、小さな明かり採りの窓が導く乏しい自然光が黒ずんだ床板を浮かび上がらせていた。
 「おまえは唐人ではないな?」
 黒装束の妖術使いが出てくるものと思いきや、二人に早く中へ入るよう促すのは、地味な支那服に白衣を重ね着する老女だった。
 「日本人だよ」
 埃をかぶった商品棚を物珍しそうに眺めながら島崎はこたえた。
 壁や柱に染み付いた漢方薬の匂いが鼻をつく。奥の暗がりから、老女の息子とおぼしき男達が猜疑心も露に姿を見せた。半ズボンにTシャツといったいでたちの連中は、髪もこざっぱりと短く刈っているが、にこりともせず、えも言えない独特の殺気を漂わせている。
 「どうしてここを知っている?」
 有佳は尻込みしたが、島崎は厚かましく手近な椅子に腰を降ろし、
 「おれの素性なら蛇面の劉大姐に訊いてくれ」
 とふんぞり返った。
 「さがりな、おまえたち」
 年老いたもぐり女医の息子たちは食傷したような能面顔のまま引き揚げ、代わりにどちらかの嫁といった風情の四十女が二階へ通じる階段から手招きした。
 「だいじょうぶなの?ここ」
 軋む階段を上がりながら、有佳の不安な声が追い縋ってきた。
 「先の大戦で日本の兵隊に首を切り落とされた抗日ゲリラの頭目が、この婆さんの神技で見事に蘇ったらしい。恐山のイタコみたいな婆さんだが、信用するよりほかにない」
 白髪三千丈の風聞はさておき、この広東系華人の老女も、ある種の伝説的な外科医とされていた。もし彼女が藪医者なら、親族縁者がとうの昔に隠居させているはずである。西洋医学の世界から締め出されているが、地下に潜った漢方医には、独特の秘伝を駆使してまま奇跡を起こす名医がいるものだ。
 「半日遅かったら、おまえの左腕は根本から切断しなければならないところだった」
 駆け込んでくる怪我人は、ほぼ全員が胡乱な手合いである。傷の謂れは質さなかったが、老女医は腐りかけた筋肉細胞の臭気を嗅ぎ分けて島崎の症状を結論した。
 「そうだろうな。タイを出国する時はもう指先が寒くなっていた。ゼネラルホスピタルへ担ぎ込まれていたら、今ごろ枕元に鋸が用意されているはずだ」
 言いながら島崎は、錆びを拭いた襤褸切れのようなポロシャツを右腕だけで脱いだ。有佳の目は男がまとう奇妙な”下着”に釘付けとなった。乾きかけていたが、それは濡らした新聞紙だった。ぴたりと皮膚に貼りついた新聞紙を島崎は自ら剥がす。無残に傷ついた腕や頬に比べて、胴体にはほとんど傷らしい傷が見当たらなかった。
 「このあたりの雑菌は繁殖力が旺盛だ。日本のように衛生環境が整った国から来たばかりの者だったら、今ごろ大変なことになっている。どんな生き方をしてきたのやら、壊死がその程度で済んでいるのはおまえが持つ抗体のお陰だよ」
 老婆は助手役の四十女が数種類の怪しげな漢方薬を調合しはじめると、拷問器具のような刃物を取り出し、解剖台のようなベッドに仰臥する日本人に訊いた、
 「傷口の肉だけは抉り取らなければならない。痛むよ。阿片は要るかい」
 「我慢する。クスリはやらないって女房と約束している」
 マレーシア政府は、麻薬関連の所持者に対して絞首刑をもってのぞむ。法律上、もぐり医者の老女は、麻薬類を不当に所持していることになる。息子たちを用心棒に仕立て、常に警戒を怠らないのには、まっとうな理由があった。ちなみに、阿片を吸えば痛みは和らぐけれど、感覚が麻痺して傷の状態を正確に把握できなくなる。恐妻家ぶる男の腹の内は淡白だった。
 「阿片は要らないが、手術のあいだ囲碁を打ちたい」
 「ばかなことを言うものじゃない」
 まるで取り合わず、老女はどろどろに化膿した島崎の左肩と向き合った。メスが入ると堰を切ったように膿の悪臭が噴出し、手許に碁盤があろうものなら即座にひっくり返しかねない激痛が全身を貫いた。
 「麻酔が必要なら今のうちに言いな。関羽将軍」
 「ばかを言っちゃいけない。婆さん、あんたはやっぱり天才だ。今の一太刀で左腕の感覚が戻ってきたぜ。お陰で気絶寸前だ」
 血糊の中で、島崎はへらへらしながら左手でじゃんけんする。返り血を浴びた老婆は、皺くちゃの口元をほころばせた、
 「口の減らない坊やだね」


 「アポイントメントのお時間は?」
 藪から棒に現れ、社長に会わせてほしい、と切り出す女に受付係は取り澄ました調子で尋ねた。
 「急用なの」
 「ああっ!困ります」
 うろたえて手を差し延べる受付係を振り払い、弁護士は構わず押し通ろうとした。いつしか夫の荒っぽい遣り口の影響を受けていたらしい。ところが奥のオフィスからも、ブレザー姿の女が外出しようと忙しない足取りでやって来る。
 「ヌウ?」
 どぎつく若作りした社長のキャタリー・スントーンは、信じられない生き物を見るように娘を呼ばわった。
 「クンメェ(お母さん)、話があるの」
 実際は五十過ぎのキャタリーだったが、社員たちはせいぜい三十代後半と想像していたのだろう。大きな娘の出現に受付係は魂が抜けたような面持ちで後ずさりしたまま、沈黙した。
 「まさしく、千年の河清ね。ヌウが母さんのオフィスに来てくれるなんて」
 「べつに来たくて来たわけじゃないわ。よんどころない事態が発生したの」
 「大げさね、この子は。でも、ごめんあそばせ。ご覧のとおり、母さんはこれから外で人と会わなきゃいけないの。新しい店舗契約の話し合いだから、ヌウもいっしょに来ていいわよ」
 「そういう交渉の取りまとめだったら弁護士に依頼したら?」
 ステファニーはエレベーターの前に立ちはだかった。
 「今日はあなたの娘としてここへ伺いました。話が済んだらすぐに引き上げるわ」
 「それなら、ボタンを押させて」
 母親が下りのボタンを押すと、娘はいった、
 「お母さん。この世でモントリー精米所の相続権があるのは、本当に、あなたと私の二人きり?」
 互いに自我を押し通し、暗にその経営責任を押し付け合っている母娘である。問いかけは、すくなくとも世間一般でいう遺産相続戦争の勃発を暗示するものではなかった。にわかに陰がさした表情で、キャタリーは降りてきたエレベーターを一台、やり過ごした。






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