* この物語はフィクションであり、登場する人物、企業、
団体、一部政府機関の名称は架空のものです(著者)。




第四十話




 無免許運転の少女は、一心不乱に大きなハンドルにしがみついていた。しかし頭の中は完全に現実逃避していた。御殿山小学校の同級生たちが笑い転げ、塾へ通う電車の情景がわずかに現れ、流行歌のサビがじんわりとリフレインする。幼稚園に通う道すがら、遊歩道に咲く一輪の珍しい花を見つけて歓声を上げたところで、なぜか淫蕩な想像がすこやかな記憶の傍らに垂れ下がる。後味の悪さとやるせない自己嫌悪。救われたいと思った。臨海学校ではしゃぐ自分の姿を思い描いて、得べかりし磯採集の成果に満足した。だが、無邪気な自分を覆い尽くそうとする暗雲のようなもうひとりの自分。正体はわからない。
 ほんの数秒のあいだに、有佳は長い夢を見た。昭和の上水遊歩道で目を覚ますことを、ちょっぴり期待したかも知れない。ベンチでうたた寝しているより、自分が大きな車を熱帯の国で運転しているほうが異常な情景なのだ。あまつさえ、疾走するダンプの荷台では小父さんに変身した康士が、得体の知れない刺客と殺し合っている。勝負の成り行きを知る術はない。これは悪夢にちがいない、と有佳は自分に言い聞かせた。いったい何が現実で、何が非現実なのか、さっぱりわからなかったけれど、さしあたり周囲は悪夢の世界に塑像された熱帯雨林だった。いまはひたすら南へ、国境を目指して行くよりほかになかった。

 血液中に残るアルコールのせいで、身体が思うように動かない。おまけにングーキヨウは予想以上に俊敏で、天才的なナイフ遣いだった。奇怪な身体の動きも相まって、一条のエッジが魔術のように増幅し、そのすべてが獲物の肉体を確実に切り刻む。島崎はバールで防戦に努めたが、たちまち全身に浅い傷を負っていた。右の頬に冷たい感触が走り、溢れる生ぬるい鮮血が、焼け爛れるような疼痛を知覚させる。
 「今日は調子が出ない。すまんが勝負は日を改めてくれまいか?さもなくば、痛くてかなわないから、早くとどめを刺してほしい」
 呼吸を乱さずングーキヨウは島崎のバールを一瞥した、
 「ごめんだね。あんたはまだ弱り方が足りない。踏み込んだらこちらが心臓を抉られる...」
 瞬間、突き出されたバールをかわすングーキヨウは、足払いを受けてわずかにバランスを崩した。ナイフの閃光が、島崎の首筋から産毛を削ぎ、切り替えされるバールはングーキヨウの脇腹をしたたかに痛打し、ナイフを握る右手の甲を打ち砕いた。払われたナイフは突風にさらわれて通り過ぎたばかりの路面に落ちた。
 「あんたもなかなかずるい」
 顔をキャビンの屋根に押さえつけられながらングーキヨウは忍び笑いをもらした、
 「彼女に教えてやらなければなけないこと、ないか?」
 ふと前方をみると、道が二股にわかれていた。本線はくの字に曲がっていて、島崎が知らないあいだに建設が始まり、中断した新道がまっすぐ延びていた。
 「まがれ、ネギっ」
 しかし、荷台の叫び声は風切り音に拡散するばかりだ。ひたすら直進と指示されている有佳はハンドルを切らない。バリケードをひき潰して、ダンプは未知なる道路にわけ入った。
 鳩尾にングーキヨウがムエタイ仕込みの膝蹴りを炸裂させた。茶色い胃液を吐く島崎は、後ずさりしつつもかろうじて落下の憂き目を遠ざける。
 「幼いけれど、誰かに似てると思わないか?」
 余裕たっぷりにングーキヨウは運転席の屋根を顎でしゃくった、
 「彼女にミーミョーと同じ運命をたどらせる気かい?」
 はたとした面持ちで、島崎は十年前、サンカブリの難民キャンプで口入屋の元締めの傍らに佇んでいた垢まみれのビルマ少年を思い出した。
 「おまえ、あの時の...」
 「オヤジも物好きだ。せっかく棚ボタで手に入れたUSドルをそっくり寺に財施してさ、坊主にあの姉ちゃんの供養をさせていたよ」
 菩提樹の木陰で古い石仏を前に敬虔な祈りを捧げる娘の横顔を思い出し、卒然と虚脱する男に、目を陰惨に血走らせるングーキヨウは乾いた声で語りかけた、
 「ミーミョーが懐かしいか?安心しろ。すぐに会わせてやる」
 痛烈なボディーブローが、アルコールで弛緩した肉体を情け容赦なく見舞った。ングーキヨウは仰向けに倒れた島崎に覆い被さると、すかさず掴み取ったバールを喉元へ突きつけた、
 「...ビルマ語を覚えているか?通訳を君に頼みたい」
 血まみれの顔でにやける島崎は、電子ライターを改造した起爆装置を握っていた。職業的な暗殺者は、はだけた防弾チョッキに縫いこまれている仕掛けを瞬時に見破った。
 「はったりを言うな。そいつが爆発したら、あんたの可愛い娘もイチコロだぞ」
 「あいつをこんな密林にひとりぼっちにするほうが没義道だろう?さあ、いこうぜ」
 押さえ込んだ片方の手をはずせば島崎は反撃するだろう。逆に両手をふさがれたングーキヨウの瞳に、はじめて切迫感がはしった。

 荷台の様子がわからない有佳は、ぼんやり目を見開き、うわ言のように口走っていた、
 「どうするのよ?・・・」
 道は行き止まりになっていた。テトラポットとよく似たコンクリートのバリケードが視覚の中でコマ割りされて、ぐんぐん迫ってくる。これは夢ではない。現実だった。
 「・・・たすけてっ、康くん!」
 左の前輪が障害物に大きく乗り上げたダンプは、そのまま反転しながら未整地の密林に突っ込んだ。

 「くそったれ!」
 興奮は激痛の伝播を著しく遅らせていた。投げ出された草叢で身を起こしながら、こわれた電子ライターの起爆装置を捨てると、島崎は横転したダンプを省みた。天を向いたタイヤが、惰性で空回りしていた。
 「ネギ・・・」
 ダイナマイトを仕込んだ防弾チョッキも脱ぎ捨てて、島崎はよろめきながらダンプへ駆け寄った、
 「死ぬんじゃねえぞ、ネギ・・・」
 足元にングーキヨウが倒れていた。事故寸前、上に被さっていたため背中から落下したらしい。叩きつけられたのはコンクリートの路面だった。生きているのか死んでいるのか、一見した限りでは判然としなかったけれど、よしんば生きているにしても、咄嗟に受身の姿勢をとって草の上に落ちた島崎より、ダメージはずっと大きいはずだった。
 ダンプのドアをこじあけると、決まり悪そうな涙まみれの笑顔が、さかさまに島崎を見上げていた。
 「チャイヨーくんが助けてくれた」
 アジアゲームのマスコットはズタズタに引き裂かれていたけれど、その巨大な身を挺して有佳のクッションになっていた。言うべきことは何もなかった。島崎は有佳を引きずり出すと、そのまま胸元に抱きかかえた。
 「道が違うんだよ」
 じわじわと全身を侵食し始めた痛みから目を背けて、島崎はつぶやくようにいった、
 「タイムオーバーだ。これから歩いて迂回してもサダオで逮捕されるかも知れない」
 「だって、真っ直ぐ行け、って言うから」
 「下調べが足りなかった。おれが悪い」
 鮮血が白いポロシャツを朱に染めていく。
 「一旦引き揚げて、出直すか?」
 「捕まったっていいよ。康くんが病院に連れて行ってもらえるなら」
 頭に巻いたバンダナを解き、島崎の頬を拭き始めた有佳の瞳孔がにわかに色を失った、 
 「・・・あぶないっ!」
 ングーキヨウが鉄パイプを槍のように構えて襲い掛かってきた。完全に身をかわす余裕はなかった。左肩で槍先を受け止め、右手で掴んだパイプを手繰り寄せると、島崎は左足の甲でングーキヨウの横面をしたたかに蹴った。
 それが、最後の攻防となった。
 戦い続ける力は、両者ともに残されていなかったのだ。
 呆然と佇む若い暗殺者は、膝まづく島崎の顔を見つめて莞爾と微笑み、おもむろに口から大量のどす黒い血を溢れさせながら、その場に崩れた。ングーキヨウの内蔵は破裂していたらしい。
 ビルマ難民の孤児、そして血塗られた伝説に彩られた若者は死んだ。左肩に突き刺さった鉄パイプを引っこ抜く島崎を無感動に眺めると、頬の泥も払い落とそうとせず、有佳は尻餅を就いて放心したように強烈な陽射しで洗われるングーキヨウの死体を眺めた、
 「あたしの、せい?あたしが、このひとを殺したの?」
 ベルトで肩の傷口をきつく縛りながら、やつれ果てた面持ちで島崎は答えた、
 「だれのせいでもない。このあんちゃんもおまえのことを恨んでいないよ」
 鉄パイプに付着した泥が防衛本能に警戒信号を送っていた。応急処置を終えると島崎は小さな肩に手をのせた、
 「歩けるか、ネギ」
 有佳は立ち上がろうとしなかった。
 「しっかりしろ」
 傍らにしゃがみこむと、島崎の鼻先に、有佳の唇が震えながら近づいた。頭上の木々がざわめき、鳥の啼き声がはげしく錯綜して飛び去った。生気を抜かれた男の唇から顔を引き離すと、有佳は何事もなかったかのように言った、
 「だいじょうぶ。歩けるよ。サダオはどっちなの?」
 迷い込んだ新道は長かった。太陽は真上にある。アナログ腕時計の針は役に立たなかったが、放棄された飯場の屋根に取り残されたテレビアンテナの向きは、中継局が置かれているハジャイの方角を教えてくれた。
 「あっちだ」
 気を取り直して島崎が指したのは、鬱蒼と覆い茂る木々の壁だった。
 「真西へ数キロ進めばもとの国道に出るはずだ。引き返すより、ジャングルを抜けていったほうが早いかも知れない。おまえが決めろ。どうする?」
 有佳は康士のひどい出血が気がかりだった。
 「時間が大事だわ」
 冷め切った面持ちで、しかし島崎は相好を崩した、
 「おれはこの通りの死に損ないだ。先導するのは少々つらい。でもネギが前を歩いてくれるなら頑張ってついて行く」
 作り物の弱気は、ングーキヨウがもたらした記憶のせいだった。ビルマから脱出を試みた時はミーミョーに後ろを歩かせた。そしてミーミョーは死んだ。だから今度は有佳に前を歩かせてみようと思った。因果関係はなかったけれど、これが島崎なりのジンクスだった。不安を隠そうとしなかったが、有佳は力強く頷いた。ディパックから手拭いを取り出すと、島崎はありったけのタバコをほぐして包み込み、紐を作った。
 「こいつを巻いておくんだ」
 言いながら、有佳の細い足首へ縛り付けた。
 「なあに、これ?」
 「蛇はニコチンを嫌う。こんな量じゃ屁の突っ張りにもなるまいが、毒蛇よけの、おまじない」
 軽口を叩いていても、身体中の傷口は早くも腫れぼったい熱を帯び始めていた。
 「行こう。国境まであとすこしだ」
 少女と男は、行き止まりの柵を乗り越えて、昼なお暗いジャングルへ分け入った。


 雨季たけなわに差し掛かれば豊かな水量を取り戻してその面目を回復するはずだったが、東南アジアで最大の大河メコン川も、乾季の終わりは、剥き出しになった灰褐色の川底を白濁に煮詰められた水が申し訳程度のせせらぎを形成しているに過ぎなかった。水量の激減が近年とみに諸方面から指摘されるようになった環境破壊の影響であることは疑うべくもないが、チベット(一部、雲南)、ビルマ、ラオス、タイ、カンボジア、ベトナムのほぼ六カ国をめぐる流域は、度重なる戦乱や社会資本の不足によって、まったく開発の手がつけられていない。
 周辺人口五千万と言われるこの赤貧地域には、しかし、南のクラ運河計画と肩を並べる規模の巨大プロジェクトが眠っていた。メコンデルタの豊富な水資源を活用した八つの灌漑用ダムと年間総計九万三千メガワットが試算される発電所、およびこれに付帯する橋梁などの交通設備を複合的に盛り込んだ開発計画である。
 メコンプロジェクトの魁として、オーストラリアの援助で建設されたカンガルー橋を、恙無くタイの出国手続きを済ませた台湾人貿易商とその姪に成りすます陳と旭芳は、乗合バスで渡りきった。ラオスの入国審査は到着したその場でビザを取り、規定の入国税を支払うだけでスムーズに進んだ。
 「小妹」
 入国印をもらった陳は、一万円札を旭芳に渡して両替所を顎でしゃくった、
 「...学習だ。老国(ラオス)の銭に兌換しておいで」
 「了解。先生」
 無邪気な中国娘は、密航者という立場も忘れて興味津々に国際感覚の修行へ赴いた。
 ランサーン王朝の建築意匠を取り入れた出入国審査の建て屋を眺めながら、人心地つく陳はしばし物思いに耽った。ウドンタニの空港で出くわした沢村の存在はすでに過去へ押しやられ、藪睨みの視線はラオスからタイへ向かう中国人の群れを観察していた。ノンカイのタイ・イミグレーションは、流入する旭芳の後輩たちに神経を尖らせ、出る者に充分な注意を払おうとしなかった。そう考えると、タイ出国は僥倖だったかも知れない。
 密航予備軍に付き添う陳と面識のないエージェントたちが、あたり憚らぬ大きな声でしゃべっていた、
 「越南(ベトナム)はもう難しいかも知れない」
 陳は職業病のように耳をそばだてた。
 「そうだ。法国(フランス)のオルセーで昨日、20人が捕まったらしい。ハノイもホーチミンも、エールフランスのゲートは固く閉ざされた」
 「看て、先生」
 困惑したように笑いながら、旭芳は緑色のぶ厚い札束を突き出した。ラオスの通貨・キープはタイのバーツと比較しても四十分の一の値打ちしかない。
 「私、数え切れない」
 タイの田舎町よりひなびたラオスの首都は、ここからメコン川に沿って西へ二十キロ行ったところにある。砂利を敷き詰めた操車場でトゥクトゥクを雇うと、陳はいった、 
 「騙されないように注意しなさい。ベトナムはもっと額面が大きくなる」
 仄聞した噂話をすっかり消化したマンパワーのプロは、あくまでもベトナムを見据えていた。


 密林の中では、むっと吐き出したくなるような桁外れの湿度とやぶ蚊の大群が待ち構えていた。頭上から雨のようにポタポタ降ってくるのは米粒大の蛭である。どんなに衣服の隙間を隠してみても確実に人間の肉体にへばりつく厄介ものだ。それでも地面は思ったほど草が生えていなかった。葉の密度が濃いので、日照量が著しく制限されているためだ。行く手には陽光が簾のように折り重なって暗い灰褐色の空間を貫いている。
 しかしそのような、見ているだけで全身が痒くなるような場所を、有佳は黙々と歩いた。感覚がだいぶ麻痺していた。ダンプカーを運転させられ、恐怖心が呼び覚ました現実逃避の余韻は完全に消え去ったわけではない。むしろ、殺し屋のおそるべき執念を目の当たりにしてその死に立会ったわけだから、高揚する精神状態のまま、いきおい不気味な亜空間へ飛び込んだと言えるかも知れない。逃避の二字にとりつかれて森の中を泳ぐ有佳は、時々思い出したように足を止めると、あたりをきょろきょろ見回して、再び歩き出す。あたかも臍の緒に引きずられて母親の胎内を遡行しているような錯覚をいだいた。鮮やかな三色の縞模様を描く蛇が無感動につま先を横切っても悲鳴をあげようとは思わない。大いなる原始への退行。森の向こう側に、未知なる過去の風景がひろがっているような気がしてならなかった。しばらく行くと、あたりは疎林になり、往来する車の物音が樹々のあいだからかすかに伝わってくるようになった。国道はさほど遠くない。火事場の馬鹿力と言うべきだろうか、何かに導かれるように、有佳は歩きにくい足場を物ともせず、着実に進んだ。
 背後からの康士の声が追いかけてきた、
 「ヌンのお爺さんは若いとき、英領マレイからこのジャングルを反対に歩いてタイを目指したんだよ」
 有佳は胸中に潜んでいた何かを触発されていた、
 「ひとりで来たの?」
 「いや。日本人の女が一緒だった」
 「そんな時代に、どうして日本人の女のひとがこんなところにいたのかしら?」
 モントリー・スントーンの火葬には出席したものの、有佳が林鉦文の話を聞くのはこれが初めてだった。
 「そのひとは、そのあと、どうなったの?」
 マレーシアをコースに選んだ時から、島崎はクアラルンプールで有佳を或る場所に連れて行き、異民族の親族が体験した歴史を踏まえて、この女と仲間たちのエピソードを教訓として伝えようと目論んでいた。ところがどうしたわけか、有佳は涙ぐんでいた。
 「モントリーさんは何か知っている様子だったけれど、おれにも、可愛い孫娘にも何も伝えずに死んでしまった」
 「日本へ帰ったのよ」
 「なんだ、ヌンは知っていたのか。おれには教えてくれなかったが」
 国道の路肩にまろび出ると、睡魔に襲われる島崎はくだけた調子でいった。虫に刺されて頬や腕にできた無数の赤い斑点を気にもせず、リュックからジャングルの落下物を払いのける有佳は、しかし、さらに驚くべきことを口にした、
 「日本へ帰る船の中で女の子を生んだの。やがて女の子は母親を憎むようになって・・・」
 はたとした面持ちで、有佳が悲しそうに笑って島崎を見上げた、
 「ああ、痒くて、やだ。よく歩けたよね、こんなジャングル」
 刹那、有佳が見せた人格の豹変振りに、熱っぽい傷がもたらす気だるい催眠効果が消えた。
 「おまえ、どうしてそこまで知っている?」
 ソムチャイ・ポラカンから聞かされたモントリー夫人の物語は、クロントイ港で引き揚げ船に乗ったという推論で途切れていた。その後のくだりについて、島崎は真実知らなかったし、関心もなかった。
 「なんのこと?」
 「なにって、モントリーさんの最初の奥さんの話だよ」
 「いま康くんが言ったひとのこと?あたし、何も知らないわよ」
 「あ?・・・だって、いま、言わなかったか?引き上げ船の中で女の子を産んだとか」
 怪訝な顔で島崎を覗き込み、有佳は頼りない声色でいった、
 「もう少し頑張ってね。マレーシアに着いたらすぐお医者さんに連れて行ってあげる」
 島崎のほうが異常扱いされてしまったが、有佳はまたしてもその肉体に宿るもうひとつの気性をのぞかせていた。これまでまま見せた娼婦っぽい態度に加え、千里眼めいた才能を備えるもうひとりの有佳は、輪郭をはっきりさせつつある。さもなければ、どうやって方向感覚を得たのかもわからない。何も目標物のない林間の道で、有佳は迷わずハジャイの方角から国境へ向かっていた一台の古いトラックを停めると手際よく交渉をまとめ、運転していたインド系の親父に手伝ってもらいながら、傷ついた島崎を荷台へ押し上げた。ボロボロのキャンバスで出来た幌の中には竹で編んだ大きな籠がぎっしりと詰め込まれ、海産物特有の生臭さが漂っていた。
 「一体ぜんたい、どうしたんだね、あんたの彼氏?」
 チョコレート色の顔をしたドライバーが白い目を剥いて英語でいった。マレーシア人らしい。彼氏と聞かれた有佳は、さしあたり男と旅行する年頃の娘と見られている。年齢のカモフラージュはまずまず成功していると言っていい。しばらく死んだ魚の真似をしていたい島崎は、竹篭の隙間に身を横たえたまま、ふたりの英会話を聞き流した。
 「町外れでヒッチハイクした車の人が強盗だったの。金を出せ、って言われて、彼は抵抗したの」
 有佳もこなれた英語で、いい加減な返事をしていた。
 「あいにくだったな。そいつはおそらくイポー界隈のチャイナ野郎だ。あいつらはタチが悪いし、あんたたち日本人はいつも被害に遭う。気をつけなよ」
 独断と偏見で下手人を決め付けるとインド系マレーシア人は運転席に戻り、エンジンをかけた。
 「おれの名はジフリー」
 後ろの覗き窓からひょっこり顔を出して男はいった、
 「ソンクラで仕入れた干物を毎日タイピンの魚河岸へ運んでいるんだ。あんたたち、ペナンに行くならバターワースの波止場まで乗せていってやってもいいぞ」
 この国境地帯をうろうろしている日本人は大概ペナンへ向かうから、ジフリーの問いかけは偏見でなく、純朴なホスピタリティと言っていい。
 「ありがとう、ジフ。でも国境を越えたら一番近い病院に連れて行ってほしいの」
 「オーケー」
 トラックが走り出すと、有佳は寝転がる島崎の顔を見た。
 「親切な人でよかったね。あたし、ギャングに襲われた、なんて言ちゃったけれど、あれでよかったのかしら」
 「合格。殺し屋と相討ちした、なんて言ったら、すぐ道端に捨てられるところだった。まあ、ジフリーさんはマレーシアの税関のお目溢しが狙いだ。見てみろ、この積荷。まともに行ったら検疫にえらい時間がかかる。しかし観光で外貨を稼ぎたい国だから、あの国の官憲は、日本人が見ている前で善良な国民を苛めてマイナスイメージをつくるほど不器用じゃない。おれの怪我も、早くゲートを抜けたい彼には利用価値がある。つまりおれたちは当て馬。渡る世間は、持ちつ持たれつだ」
 ため息をついて、有佳はあやすようにいった、
 「今日の社会科はもういいから。休んで、島崎先生」
 休めと言われても、サダオはあと数キロに迫っていた。
 出国ゲートの手前に無人同様の税関がある。初めてここを通る人は、閉鎖された市場を思わせるその施設を意味もなく周回する車に乗り合わせ、いったい何の儀式かといぶかしむに違いない。チェックはおろか、係員すら姿を見せないコースをトラックはのんびり流してふたたび緩やかな上り坂になった直線へ踊り出た。
 「ほら。パスポートを用意して」
 島崎は有佳に高野美咲になるよう指示を出した。沿道は古ぼけた商店や宿屋が軒を連ねている。まるで西部劇に出てくるような薄っぺらの町並みが、国境のすぐ手前まで延びていた。
 「清水のおじさんはオーバーステイで引っ掛かる。おれが事務所へ引っ張られてもペナルティを払うだけだから気にするな。イミグレーションのすぐ先にマレーシアの門があるから、ネギはパスポートにスタンプを捺してもらったら一メートルでいい、すぐにそれを跨いでしまうんだ」

 サダオの国境に着いたのは昼前だった。ずいぶん予定から遅れてしまったが、カウンターを覗くとバーコードリーダーはまだ導入されていない。よしんば本物の高野美咲がすでに紛失届を提出したとしても、オンラインの圏外にあるサダオに手配書が回ってくるのは明日の話しだ。余裕をもって逃げ切れる。マレーシア人専用のカウンターに並ぶジフリーと分かれ、清水和彦と高野美咲はにぎやかな欧米人のグループの後ろについた。
 「いったいどうしたんだ、その怪我は?」
 五十歳くらいのイミグレーション係官は、順番が回ってきた若い娘の背中を押し出す男のいでたちを見て、ぎくりと身を仰け反らした。
 「気にしない、気にしない。途中でトゥクトゥクが転倒しただけだ」
 ほんの十数分、横になっただけでも身体はずいぶんラクになった。
 「気になるよ。血みどろじゃないか」
 係官の視線は乾いた血糊で茶色くなったシャツに注がれていた。
 「あちらこちらナイフで切られたように見えるが・・・医者に診せなくていいのか?」
 「あとで考える」
 「いや、それは重症だ。タイの医者は優秀だぞ。ハジャイにもどれ」
 表紙も開こうとせず係官は二冊の変造パスポートを突っ返した。
 「ペナンに知り合いの名医がいる。犬の疥癬の治療にかけてはアジア一の獣医だ」
 「そうか。知り合いならたとえ藪医者であっても葬儀屋の手配はしてくれるはずだ」
 高野美咲に関しては、ろくすっぽパスポートのページもあらためず、係官は出国カードを毟り取り、スタンプを捺した。あっけなかった。
 だが、清水和彦の写真を覗いてつぶやいた、
 「なんだ、オーバーステイじゃないか」
 「タイはまったく素敵な国だぜ。毎日が楽しくて、気がついてみると一年以上が経っていた。竜宮城に二万バーツの入園料は惜しくない」
 千バーツ紙幣を二十枚、それに五百バーツを一枚上乗せして支払おうとする非生産的な日本人観光客の顔を係官は友好的に見上げたが、卒然と緊張感が漲り、事務所へ来るよう手招きした。異変を察知した島崎は、うそぶくように言った、
 「ジフリーさんといっしょに、先にマレーシアへ行け」
 目線で走れと合図したが、出国手続きの済んだ有佳はふてくされた面持ちでついて来る。島崎はつとめて暢気な調子でけしかける、
 「ジフリーさんに迷惑をかけちゃいけない。伝令を頼む」
 有佳は初めて頷き、海産物を積んだトラックへ踵を転じた。
 事務所に入ると、初老の係官はたむろしていた同僚たちに、
 「タイ語がわかる。左眼の横に古い傷跡...」
 と、告げ、不審な日本人を奥へ押し入れた。
 島崎が与えられた椅子に腰掛けると、警官の群れが一斉に逃げ道を塞いだ。そして誰かが言った、
 「こいつが三人の日本人を殺した男か?」
 すると別の一人が付け加えた、
 「プラカノンでタイの女も殺している」
 ある程度は覚悟していた濡れ衣である。有佳が臨機応変に逃げてくれることを念じながら、島崎は高笑いを響かせた、
 「ばかも休み休み言え。おれはただオーバーステイしただけの不良外国人だ。さあ、解ったらさっさと領収書を書いてくれ」
 「ただの不良外国人にしては、ずいぶん不敵な態度じゃないか」
 人垣を掻き分けて、二枚目俳優のような風貌の中佐が現れた、
 「ひどい怪我だな。治療は面倒を診てやろう。いますぐ君の身柄をハジャイへ移す。取調べの結果如何ではクルンテープへ戻ってもらう」
 島崎は品定めするように中佐を見て、慇懃に言った、
 「お申し出は有難いが、中佐さん。たかがおれみたいな雑魚一匹のために持ち場を離れちゃっていいの?」
 「雑魚か大魚かは司法当局が判断するだろう。それに私はサダオではなく、ハジャイ空港のイミグレーションが本来の勤務地だ」
 「はあ、それじゃ飛行場のチーフさんだ」
 なるほど、堅物らしい面構えだった。
 「留守を任せた部下に水増し請求を誤魔化されないよう、注意したほうがいいぜ」
 「面白い男だ」
 中佐はパスポートに目を通し、
 「シミズ・カズヒコ...」
 と、念を押すように読み上げた。
 事務所の扉が開かれたのはその時だった。小さな人影の出現に、強気な物言いに徹していた島崎は、思わず肩を落とし、呪いをこめた声色を搾り出すように呟いた、
 「・・・こんなところへ、のこのこ戻ってくるやつがあるか」
 だが、数歩踏み入れたところで有佳は口をひらいて佇んだ。薄汚い身なりの娘に警官たちの注目が集まった。そしてひとりが上擦った声で口走った、
 「ユウカ...?」
 声の主は島崎と向き合うアンポン中佐だった。
 「自首します」
 高野美咲のパスポートを机に置いて、有佳は決然とした調子でいった、
 「ショッピングモールでイサカさんを撃った男の人はあたしが殺したの。あの時、あの場所にいたんだもん。あたしにも容疑者になる資格があるでしょう?」
 経緯を知らない面々は突如現れた滑稽なテロリストに声をあげて笑ったが、中佐はひとり、言葉を失った。
 「どうぞ。あたしを逮捕してください」
 出国印が捺された高野美咲のパスポートを事務的にあらためて、吹き出しながら中佐は警官たちに言った、
 「知り合いの子かと思ったが、その女の子はユウカという名前で、黒い髪の持ち主だ。人違いだったらしい。そうなると、この男が凶悪犯というのも甚だ疑わしいな」
 支離滅裂な論法に、警官たちは互いの顔を見合わせた。
 「出国させてやれ」
 すると尉官クラスの中年男が身を乗り出した、
 「お言葉ですが、中佐。氏名は違いますものの、この男はクルンテープの本庁から手配書が回っている殺人事件の被疑者である可能性が大であります。眦にあるという傷痕の位置も一致します。おかしな怪我もしていますし、いちおう身柄を保護して調べたほうが良いのではありませんか?」
 「スタンプを寄越せ!」
 断乎とした調子で中佐は命じた。
 年配の係官が慌てて机から予備のスタンプを取り出して日付を合わせ、別の一人が規定に則って反則金の領収書を認め、残りは全員与えられた部署へ分散していった。
 「シマザキ・コウジという名前には聞き覚えがあった。早く忘れたい、いまわしい名前だった。それが誰だったか、いま、ようやく思い出した」
 スタンプを受け取ると、アンポンは栗色の髪の少女に顎を向けて独り言を口にした、
 「私は殺人犯に生涯の幸福を奪われたとは思いたくない」
 中佐は自ら清水和彦に出国スタンプを与えると、高野美咲へパスポートを投げ返した。
 「もう二度とお目にかかれないジャズクラブの芸術作品だ」
 傍らから五百バーツ紙幣の不自然なつり銭を載せた領収書が島崎に差し出されると、有佳は真心をこめて一同に合掌し、中佐へ深々と頭を垂れた。








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