* この物語はフィクションであり、登場する人物、企業、
団体、一部政府機関の名称は架空のものです(著者)。




第三十九話




 空港からコンドミニアムに戻ったステファニーは、棚の上にピンクの定期入れが置いてあるのを見つけた。出発直前に慌しく荷繕いした有佳の忘れ物だった。
 無邪気ないたずら心から子供時代の夫を見たいと思って拾い上げると、もう一枚、別の写真が挟みこんであるのを見つけた。
 手にとってみると、それは動物園の象舎の前で写したものだった。
 四歳くらいの幼い男の子と手をつなぐ有佳が中央に立っていて、うしろに一組の男女が並んでいる。ありふれた構図の家族の写真だった。
 しばらく若い両親の顔を見つめていた女は、やおら身震いして口をひらいた、
 「そんなっ!」
 立ち竦んでいていては、そのまま床にへたり込んでしまいそうな衝撃を、静謐を保つ運命の一葉はしきりに主張していた。たまりかねてベランダに駆け出すと、ステファニーは天空を南にのびる一筋の飛行機雲を見出し、放心したまま呟いた、
 「日本でとんでもないどんでん返しがあなたを待っているわよ...コウ」


 七時十五分。定刻より十分遅れてハジャイ行きのTG231便は離陸した。綿のような雲が足早に駆け抜けていくその下に、白々と輝くバンコクの街並みがひろがっていた。寺院の黄金の尖塔が光り、幹線道路ではいつもの渋滞がはじまっている。説明がつかない因業に導かれて迷い込んだこの巨大な都会で、気がつくと半年を過ごしていた。未来なのに、自分が生まれる、はるか以前の遠い過去へ旅したような懐かしさが有佳の眼差しを丸い窓へ吸いつけて離さなかった。知り合ったたくさんの人たちの顔が思い出された。自分が去ろうとしているのにありふれた朝の営みに活気づく街の様子が切なかった。惜別の想いに胸をしめつけられる有佳の頬を、静かな涙が糸をひいた。大地を緩やかに撓って蛇行するチャオプラヤ川を越えると、飛行機は濃密な雲の中へ潜り込み上昇をつづけた。諦めたように有佳はコーヒーの香りが漂うキャビンを省みた。
 「頭が痛いの?」
 通路側の席で感傷とまるで無縁な島崎は、濡れたタオルを目に被せてぐったりしていた。身につけている衣類も、昨日からそのままで、いかつい防弾チョッキが汗臭かった。
 「そんなにお酒に弱かったの?あたし、五年生のときにブランデーを一本明けたことがあるよ」
 「妙なことを自慢するんじゃない」
 タオルの端から血走った右眼がジロリと睨んだ、
 「その変な色の髪の毛、なんとかならないか?やっぱり気になって仕方がない」
 凄味に気圧されて、有佳はつとめて可愛らしく顔を引き攣らせた、
 「わかったよ。康くんが慣れるまで、バンダナを巻いておくね」
 「一生巻いとけ」
 ふたたび男は瞑目した。雲の上に出ると空は成層圏まで吹き抜けた。水平飛行に移ると、下の雲海も途切れて窓に銀波さざめくタイランド湾が広がった。ボール紙の箱に詰められた軽い朝食も、ここで配られる。
 「あれ?」
 バンダナを取り出した有佳が、ポシェットをまさぐりながら言った、
 「定期入れをチャトチャクに忘れて来ちゃった」
 オレンジジュースを一口飲むと島崎は幾らか生気を取り戻した、
 「いまさら国鉄の定期券なんか取りに戻っても仕方がないだろう。有効期限はとうに切れているぞ」
 「大事なものが入っているの」
 「あとでEMSで送ってやるから心配しなさんな」
 有佳にしてみれば定期券など、どうでもよかった。ピンクの定期入れに何が入っているのか、康士は知らなかった。
 チュンポン沖の上空に差しかかると、遠い陸地の山並みにひときわ凹んだ谷を見つけて島崎は有佳を小突いた、
 「ご覧。あれがクラ地峡だ」
 言われるままに、有佳は窓のパノラマ風景を凝視した。一帯は遠目にも深い森で覆われていて、地形の起伏もはげしく、正確に地峡のありさまを把握するのは難しかったが、ひとまず有佳は頷いてみせた。
 「二十一世紀になったら、柳田たちがあそこに運河を掘るんだぞ」
 真一文字に掘られた大地の溝へアンダマン海とタイランド湾の海水が同時に濁流となって注ぎ込み、中間点で交じり合う。青々とした樹海で数十万トン級のタンカーが悠然とすれ違っていく。臨海地区にはいつも旅客機が発着している超大型の空港が設営されている。運河の両岸十二キロにひらかれたたビザが要らない”非帰属地区”には、あらゆる国から活きた人間たちが集まってて来る。若々しいエネルギーは二十世紀が置き忘れていったあらゆる植民地時代の歪みを払拭して、アジアに尊厳ある王道楽土が出現する___ 傍らの男の病的な瞳には、そんな光景がありありと映し出されているのがわかった。慄然とこみ上げる恐怖心を振り払い、有佳は単刀直入に切り返した、
 「核爆弾を使うのかしら?新しい工事方法って聞いたけれど」
 「ほう。どこでそんな話を聞いた?」
 はたとした面持ちで我に還りながらも、計画から外された男の詰問は間延びしていた。島崎は単調に説明した、
 「それはPNE(Peaceful Nuclear Explosives)、平和目的核爆薬と呼ばれている爆弾のことだろう。かくべつ新しい工法じゃない。旧ソ連では河川の改修工事などでよく用いられていた」
 的確な回答に男の正気を確認した有佳はひとまず胸を撫で下ろした。
 「康くんは“カキなんとか”って名前の国会議員を知っている?」
 あきれたように島崎は口元を緩めた。
 「柿沼省吾。核爆弾と聞いて、真っ先に名前が思い浮かんだ。今話したインフラ工事に携わっていたソ連ロビイだよ」
 島崎の脳裏に卒然と留学生の三宅の顔が浮かんだ。柿沼省吾と、推測される三宅の背後の政党名が符号する。
 「なるほど、そういうからくりだったのか・・・」
 新しい仮説にひとり合点する島崎だったが、有佳の問いかけは足踏みしていた。
 「よくわからないけれど、そんなに有名な人だったの?」
 「小学生の浦島花子にあっさり理解できたら平成の大人は形無しだよ。今はわからなくてもいいから、とにかく聞いておけ」
 島崎は続けた、
 「柿沼さんは、だいぶ前に死んだ栃木県出身のダミ声で有名な大物代議士にくっついていた議員として東南アジアに住む日本人のあいだで有名なのだ。親分が死んだ時、じっとしていりゃいいものを、政界再編の流れに浮かれて新党に鞍替えしちゃったもんだから大いなる遺産を掠め損ねている・・・知る人ぞ知る、“東シナ海に浮かぶ六百億円”をな」
 「六百億円?」
 「ネギが留守をしているあいだ、中国が対越庸懲、つまり生意気なベトナムを懲らしめると息巻いて大胆な侵略戦争を仕掛けたことがある。独立国を相手にずいぶん失礼な話しだが、それが自称宗主国の論理なわけだ。まあ、前線に押し出した十万の人民解放軍は迎え撃つわずか三万のベトナム機甲師団に惨敗を喫した挙句、一万人の戦死者を出して膠着状態に陥ったわけだが、どんな大義名分をぶち上げようと、中国人の戦争目的なんて、所詮は外貨の獲得だ。のちに係争の海域として浮上する南沙諸島の領有権を中国人が力ずくでベトナム人に主張している本質を疑わないアジア人はいなかった。もっとも当時ほとんどの日本人は中国に遠慮がちなマスコミが報道しないものだから、戦争があったことすら知らなかったみたいだけれどな。しかしソ連通の柿沼さんは確信犯だから、ベトナム人脈を手土産にして、その頃インドネシア利権で力を蓄えていたダミ声オヤジを担ぎ出すと、中越の仲介にしゃしゃり出た。その方策として莫大な緊急ODAをでっち上げたのだ。かくしてベトナムに七百億円、中国に三千億円、何も知らない日本国民の税金が投下された。華々しいインフラの介入によって、ベトナム人も中国人も面目を保って兵を引き、日本の政治家たちはまったく自らの腹を痛めることなく、六百億円という常識はずれのキックバックを取り付ける運びとなった」
 「それって、汚職でしょう?」
 「おれのように若いうちから政界の裏側を覗いてしまうと、そういった正論は畢竟どうでもよくなる。つまらぬ善悪論はしばしば主観を優先させて究極の意思決定を誤らせるからな。考察はすべからくあるがままの現状認識から始めればよいのだ」
 しゃべらせることによって、まずは早く康士を二日酔いから解放したいと願う有佳は真面目くさった面持ちでうなずいた、
 「でも、栃木のダミ声さんが亡くなって、柿沼さんが他の政党へうつって、その六百億円は、いまどうなっているの?」
 「おまえ、本当にへんなことに興味を持つ女の子だね」
 言いながら島崎は、有佳が先送りしている20年の寿命を意識した。有佳は気心が知れた子供である。だが、彼女に与えられた時間はすなわち島崎自身が到達し得ない未来へ伸ばされた階でもあった。
 「”東シナ海に浮かぶ600億円”って言っただろう?そのカネはいま、日本国内にはない。ふたりいた受取人も片方が死に、もう一方は自動的に権利を凍結されてしまっているんだから」
 「この前バンコクへ来た征ちゃん、あのあとベトナムと中国へ行ったらしいわよ。何か関係があるのかしら?」
 有佳にはステファニーという後見人がついている。そしてステファニーはタイ中枢を牛耳る学閥をそっくり情報ソースに持っていた。余計な詮索をやめて島崎は遺言を託すように説明した、
 「ないわけがないだろう。ずばり六百億円の回収だよ。有体に言えば、柳田は柿沼の取り分を横取りする魂胆だろうよ。もちろん柿沼もおめおめお宝を柳田に引き渡す気などない。当然、インドシナ半島の適当な名士を担ぎ込んで妨害しようと絵を描く。ネギの情報網に引っかかったとなると、やはり柿沼のおっさん、案の定、タイの政治家に接触をはかったというわけか」
 ジラパン・ポンサネー元首相の名前が出ても、島崎はさして驚かないだろう。そんな口ぶりだった。
 「調達方法があくどくても、使い方がきれいならおカネは本当の値打ちを取り戻すんだよね?」
 ステファニーがもたらした情報は、康士の知識と分析によって、たちまち有佳の前に納得に値する答えをはじき出す。感心する有佳はしかし、やけっぱち気味に物語する康士の屈折した心境までは見抜けなかった。若き日の島崎康士は、対ソ工作員として訓練を受け、のちに宇都宮の土地転がしで刑務所にはいり、柳田征四郎を地方政界に送り出している。語られる政界の裏話は知識ではなく、平明な目撃談だった。そしてこの語り部は、いまやクラ運河計画ばかりでなく、こうした動きからもすっかり蚊帳の外へ締め出されていた。
 「そいつはおれの個人的なお為ごかしだ。柳田の言い分は日本に着いたら直接彼氏に訊いてくれ」
 紅茶を飲みかけていた有佳はふたたび窓を覗いた、
 「この下の海に眠っているんだよね、康くんのお爺さん」
 ボーイング734は青い海の上を飛んでいた。チュンポンの町並みは、真西の海岸線に溶け込んでいる。いくら目を凝らしてみても、黒煙につつまれる一式戦闘機の残像が現れることはなかった。島崎が身を乗り出して、眼下の海原へ声をかけた、
 「お〜い、ジジイ、達者でやってるかぁ〜・・・達者なわけないか。ヘドロの中で死んでいるんだからさ」
 「祟られるよ。そういうことを言っていると」
 「余計なことを言い出したのはおまえだろう」
 有佳が腕を叩くと島崎は頭を小突き返した、
 「ところで、ベトナムでずば抜けて力を持っている日本企業は日商石井だ。天下の三光物産も住吉商事も、ことベトナムではライバル会社の日商石井に頭を下げないことにはまったく商売ができない仕来りになっている。結論を先に言うと、六百億円はハノイの日商石井で眠っているんだ」
 柳田の謎めいた行動に有佳も興味がないわけではない。なまなましい実学的な社会科の授業だったが、能動的に質問した、
 「日商石井って会社なら聞いたことがあるけれど、普通の商社でしょう?どうしてそんな力があるの?」
 「この会社とベトナムの繋がりについては、初代支店長の松代という御仁の存在抜きには語れない。松代さんの父上は帝国陸軍の軍人で、母堂はベトナムの良家の娘だ。当の御仁はベトナムの名門ハノイ高校を卒業すると、父の故国へ渡り、東大を出て桜丘衆議院議長の秘書になったわけだが、かねてよりベトナムを狙っていた日商石井の経営陣はこの逸材を見逃さなかった。衆議院議長を口説いて松代青年を引き抜くと、そのまま潤沢な工作資金つきの支店長に抜擢して生まれ故郷へ送り返した。考えてもみろ。日本の名門大学を出て、衆議院議長の元秘書、おまけに資金をたっぷり持っている。これはベトナム人社会から見ても、ものすごいステイタスだよ。生まれつき仲間を思う気持ちが強いベトナム人だ。長じて国家の要職に就いていたハノイ高校の同級生たちは挙って松代支店長を守り立てようと立ち回った。気が付いてみると他の日本企業はおろか、旧宗主国のフランス企業さえ追随を許さない影響力を日商石井は備えていたわけだ」
 「そんなに守りが堅い会社を訪ねて、征ちゃん、六百億円を受け取ることができたのかな?」
 「目星をつけて、一旦引き下がったと思うよ。柳田は勝算が立ったら性急に事を進めてすべてをぶち壊してしまうほど頭の悪い男じゃない。遠交近攻をざくざく打ち出して、その効果をまだ画餅に過ぎないクラ運河へ集中させようとしているはずだよ」
 松代という人物の話を聞きながら、有佳は中谷アルンキットを思い出した。大人でも敬遠したくなるような世の中の内幕を、康士に対する義理からではなく、積極的に耳を傾けておこうと思うようになってきたのは、今後避けて通れない特殊な立場と前向きに付き合っていこうとする気概が芽生えてきたためかも知れない。
 「松代さんは征ちゃんを応援してくれているの?」
 ビデオで観たサスペンスドラマのヒロインが、大人っぽくしゃべろうとする有佳のお手本になっていたかも知れない。
 「おそらくまだ柿沼と天秤にかけているはずだ。柳田は有能に見えるけれど、いかんせん柿沼と違って実績がない。仮におれが松代さんでも、やっぱり金庫の鍵をどちらへ渡すか、悩むだろうな」 
 「ドクター滝という人は二股をかけているみたいよ」
 少女の口から語られるにはあまりにも不穏当な男の名前だった。島崎はポケットに残された十五万円の重みに失笑した、
 「おれにドクターの無節操をなじる資格はないし、偽善者にもなりきれない。しかし、ネギちゃんはいつの間にか、とんでもないエリートになっちまったね。犯罪大学へ飛び級入学できるよ」
 「それって、刑務所のこと?康くんとヌンさんから英才教育を受けたんだもん。ああ、普通の女の子に戻りたい」
 「安心しなさい。君はいま、昭和五十三年の女の子になった」
 一世を風靡したアイドルグループの劇的な幕引きも、平成の有佳にしてみればもはや実感の伴わない歴史の一駒だった。ステファニーから暗に託された伝言を話しが終えると、有佳はあらためて訊いた、
 「康くんは核爆弾の使用に賛成するの?」
 「しないよ」
 島崎はあっけらかんと言った、
 「マレー半島をユーラシア大陸から切り離してまで建設しようとするクラ運河計画推進論者に、放射能がもたらす環境破壊をあげつらう資格などあるはずもない。実際、おれも手掘りするより核爆弾を使うほうがよほど効率が良い工事方法だと思う。しかし、このプロジェクトは長期的な雇用の創出も目的に盛り込まなければ何の意味もないのだ」
 「どういうこと?」
 「今、経済が停滞して困っているのはタイ一国に限ったことではない。どこの国も似たり寄ったりだ。それでは景気回復に有望な手立てがあるか、と訊かれると、その実何もないんだ。無責任な政治家や独りよがりの実業家は派手な腹案を人前でさかしらに披露したがるけれど、彼らのアイデアによって救われるのは、ごく一握りの選ばれた、要領がいい人間たちだけだ」
 「見直したわ。康くんがそれほど大勢の人の幸せを考えていたなんて、ちっとも思わなかった」
 「鳥肌が立つような世辞を吐かないでくれ」
 島崎は悪びれることなく言った、
 「おれも基本的には薄情な連中と同じ考え方をしているんだよ。真剣に生きたいと思うやつは、為政者やブルジョワの気まぐれなんか宛てにしないで、自力でどんどん道を切り拓いていけばいいだけの話しだ。予定調和という言葉が示すように、努力した人間が必ずしも報われるとは保証できないけれど、叩き上げで成功した凡人に苦労した経験がない者はひとりもいない。自然は適者生存という法則を編み出して、つねに自助努力を怠り、他力本願を当たり前と思い込んでいる人種から淘汰していこうとする。太平洋とインド洋を直結させるのが運河建設の唯一の目的だと考えているなら、工期を早めるために柿沼さんも柳田くんも遠慮せずに核爆弾を使えばよろしい。しかしおれにはヘボ船乗りに便宜をはかったり、船会社のコスト削減に貢献しなければならない義理はないからな、もっと自分の主観を優先するぞ。先に言った世間のお偉いさんが豪語している新規事業というのは、どれもバブル時代に見た幻想の焼き直しに過ぎないんだ。そもそも生産が伴わず、きれいな手で紙切れにサインすれば莫大な利益が転がり込む事業など畢竟成立するはずもないのだが、麻薬と同じでかつての常用者をいつまでも虜にしている。張りぼての好景気に浮かれ、未来の収益までをも自分たちの資産と思い込んで食いつぶしてきた反省がどこにも生かされていない。だからこそ、人類はいったん原点へ立ち返って、額に汗をかきながら現代社会の矛盾点をじっくり考える必要があるんじゃないかと思う。言うなれば、クラ運河計画はおれにとって、世界公理に突きつけた宣戦布告状なんだよ」
 もどかしそうに有佳は長広舌をさえぎった、
 「一年生のとき、女の子ばかりで砂場に山を作ってお花を飾っていたら、康くんがやって来て、いきなりてっぺんを崩しちゃったの」
 「なんだ、今度は謝罪要求か?」
 「はじめは嫌がらせだと思った。康くんは文句をいって帰る子たちを無視して、平たくなった頂上に自分で砂をのせはじめたの。山はもっと高くなった。それなのにまたこわして、もっともっと大きな山をつくろうとするの。康くんのやりたいことがすこしわかったような気がして、あたしも手伝った。あの時はあたしひとりだったけれど、今度はもっと大勢の人たちが康くんを助けてくれるよ、きっと」
 いきおい計画から外された立場を忘れてしゃべり続けた男は、自身の道化ぶりに思い至って口を噤んだ。座席の肘掛を払いのけると、有佳は島崎に凭れかかって目を閉じ、囁くようにいった、
 「征ちゃんと何かあったんでしょう?なんとなく、わかるの。でも、クラ運河のこと、ぜったいに諦めちゃダメだよ」
 「うん・・・」
 「早起きしたから眠い。ハジャイにつくまで、寝るね」
 成熟した有佳の自然な声色にたじろいで、島崎は逃げるように腕時計を覗き込んだ。バンコクを発って三十五分が経過しようとしていた。


 TG002便は七時四十五分、ほぼ定刻通りにウドンタニ空港へ着陸した。
 AB6機から直接滑走路に吐き出された旅客の群れは歩いて国内線専用のこじんまりしたターミナルへ向かう。ターンテーブルのわきを素通りして到着ロビーにまろび出ると、陳の背筋に冷たいものが這い降りた。
 ホテルの送迎係や出迎えの者が群がる仕切りの向こう側で、カッターシャツ姿の沢村が佇んでいた。日本の領事は行きつけのジャズクラブの支配人を認めると、不気味に微笑み、くるりと背中を向けた。ングーキヨウをはじめ、同行者はひとりもいなかった。
 島崎の計画は裏の裏まで読まれていたのだ。
 日本の領事館員が台湾人の馬と大陸の仔豚をわざわざタイ警察に売るはずもなかったけれど、自らも爆弾を抱えている身の上では自衛を優先しなければならなかった。TG231がハジャイに着くのは八時三十五分。時間はまだしばらくあったけれど、沢村が目を光らせている以上、おいそれとハジャイの中華街に潜伏している仲間に連絡をとって空港へ走らせることもできない。不敵な面持ちの沢村は公衆電話を背に、じっと男と娘の挙動を牽制していた。島崎に危機を伝える術は閉ざされていた。仕方なしに陳は旭芳を従えてノンカイ行きリムジンバスの乗車券を買い求め、苦虫を噛み潰したような顔で操車場へ向かった。
 「・・・ハジャイ行きのフライトを私の名前でブッキングしたのは失敗だったよ、島崎さん」
 日本語で呟く陳が当座成すべきことは、メコン川を無事に渡ることだった。


 ハジャイの空港は施設の拡張工事で槌音が響き渡っていた。
 「とんだ骨折り損だった」
 到着ロビーを一瞥すると島崎は即座に異臭を嗅ぎ取った、
 「敵さんは、おれたちをすんなり出国させてくれないよ」
 「知っている人がいるの?」
 「うじゃうじゃいるよ。おれたちは名士なんだから、キョロキョロするな」
 島崎はとりあえず自分のサングラスで戦闘に不似合いな慈しみをたたえる有佳の眼差しを封印すると、声を潜めて解説した、
 「・・・レストランの前に二人。階段の横に一人。こちらを伺っているやつらがいる。おまえ、とぼけて町行きのバスの切符を買って外へ出ておいで」
 言われたとおりに有佳はカウンターにならんだ。島崎は大袈裟に深呼吸しながら一足先にバスの操車場に向かう。標的がタクシーで国境に向かうものと決めてかかっていたスパキット一家の面々は、予想外の行動にしばし呼吸を乱され、ある者はどこかへ走り、ある者は携帯電話のボタンを押し始めた。
 「買ったよ、バスの切符」
 悪漢が張り込むターミナルにひとり置き去りにされたサングラスの少女は、逃げるように島崎のもとに駆けつけると、恨みがましく二枚の紙切れを差し出した。
 「バスの発車までまだ時間がある。ちょっと空港拡張工事の現場を覗いていこう・・・しかし、暑いなあ」
 空は快晴である。暢気な物言いに釈然としない有佳だったが、口答えする気分にはならなかった。にわかに始まった胸騒ぎが、喉もとを圧迫していたからだ。まだ九時にもなっていないのに、アスファルトの代わりに敷き詰められたコンクリートの路面からは陽炎がはげしく立ち昇っていく。康士は散歩を楽しむように、複雑に入り組んだ分離帯の緑地をいくつか横切った。そして金網が行く手を遮る。向こう側では新しい建物の基礎工事が行われていた。土埃が絶えない駐車場の片隅で、ジーンズの裾からはみ出したジャングルブーツは足場を固めるように動きを止めた。
 面を上げて有佳が康士の視線を追うと、路肩に残土を搬出する十トンダンプが停められていた。
 「おいっ!」
 腹の突き出た警官が大きな声でいった。呼び止められたのは、思わず身震いした有佳ではなく、気持ちよさそうに景色を眺める康士でもなかった。
 「この前の水増し請求が堅物のチーフにバレそうだ。しかしチーフは幸いどこかへ出かけている。今のうちに新しいフォーマットにおまえがサインすれば帳尻合わせができるぞ。急いで事務所まで来るんだ」
 ダンプに乗り込もうとしていた運転手が転がり出た、
 「へい、旦那。ただいま...」
 運転手は、ダンプのエンジンをかけっぱなしで管理事務所へ走っていった。
 「ぼやぼやするな。早く乗れっ」
 間髪いれず、島崎はダンプの助手席に有佳をチャイヨーごと抱きかかえて押し込めると、運転席に飛び乗った。
 「いまさらじたばたしたって始まらねえ。行けるところまで行くまでよ」
 「見張りの人は?」
 平然とした面持ちでダンプを発進させて、島崎は答えた、
 「後ろを見ろ。慌てて単車置き場へ走っていくぞ」
 ダンプの停まっていた位置は、横切った緑の分離帯を計算に入れると、オートバイ置き場やターミナルよりずっと空港施設のゲートに近かった。検問所をフリーパスで通過して国道に出ると、島崎は大きくハンドルを左に切り、林間の一本道を国境のサダオに向かった。
 「モトサイから逃げ切れるの?」
 「日本人ならオートバイと言え」
 減らず口をたたいて、島崎はアクセルを踏み込んだ、
 「積載量をかなりオーバーしている。そんなに速度は上がらない。すぐに追いつかれるだろうが、少しでも引き離す」
 サイドミラーを覗き込んで有佳がさけんだ、
 「もう、追い着かれちゃったよ!」
 「なんだ。やつら、三人じゃなかったのか」
 四台のオートバイが追いかけて来た。しかし一党は間隔を保ってなかなか攻撃を仕掛けてこない。ダンプと肉弾戦になったら、確実に死ぬのは単車のほうである。同然といえば当然だった。だが、そうするうちに、行く手のわき道から一台のピックアップトラックが飛び出して、大胆にダンプの進路を遮った。急ブレーキをかけさせるのが意図だった。
 「康くん!あぶない」
 「案ずるな。あれは職業的な”事故屋”だよ」
 声色は不気味なほど落ち着き払っていた。
 「しっかり掴まっていなよ」
 残土を満載した十トンダンプは減速もせず、小型トラックのわき腹めがけて体当たりをくらわた。惨たらしい潰され方をしたビックアップは、はじき飛ばされて大きく宙に舞った。サイドミラーの中で、後方の水路に水柱があがる様子が見えた。
 「ネギ。舌を噛まなかったか?」
 ダンプにとっても、すさまじい衝撃だった。
 「ちゃんとしゃべれるよ」
 抑揚のない声で、有佳はこたえた。
 「目はあけているからね」
 「ミニクーパの毛唐みたいなわけにはいかないぞ」
 元旦の出来事がゆとりを生み、島崎に一撃必殺の戦術を授けた。
 「いま追いかけてきているのは素人の酔っ払いではない。プロのクレージーだ」
 緩いカーブで速度を落とすと、島崎はいきなりダンプアップレバーに手をかけた。
徐行しているにもかかわらず、せり上がる荷台にバランスを失い転倒しかねないほど揺れるダンプを、島崎は力を込めてアクセルを踏んで制御した。路上に零れ落ちた残土の帯へ、三台のオートバイが次々に突っ込んだ。身軽になったダンプは、ここを先途に加速した。 
 しかし、カーブの手前で咄嗟に減速した一台が、ぐんぐん距離を詰めてきた。こちらの意図を察知していたのだろう。なまじできる相手は、本腰いれて”ガラ(死体)”にするより他になかった。
 「...すまん。約束をひとつ破るよ、ヌンさん」
 タイ語で独り言を呟くと、島崎は卒然と殺意をこめて併走するオートバイに幅寄せした。
 「南無・・・っ!」
 ところが、寸でのところで追っ手はアクセルターンで攻撃をかわした。焼けるゴムの煙など意に介さず、反射的に態勢を立て直した敵は、ふたたび猛然と追いかけてきた。
 「あいつ、尋常な腕じゃないぞ」
 フルフェイスのヘルメットでスモークシールドが鈍く輝いている。
 今度はたっぷり懐に誘い込んだ、
 「地獄へ落ちろ」
 もう一度、幅寄せした。ところが刹那、敵もダンプに擦り寄った。常人であれば自殺行為である。断末魔のような耳を覆わんばかりの金属音が響いた。単車のハンドルが後車輪の泥除けに引っ掛かっている。火花を散らして、セパレートハンドルが右、そして左と引きちぎれ、回転しながらはるか後方へはじけ飛んだ。さらにフロントフォーク、前輪がもげ、エンジンや後輪が最後に路面に落下し、遠ざかった。
 なのに非凡な生命力を備えるライダーは、しっかり車体にへばりつき、さらには荷台へよじ登ろうとしている。
 __ ングーキヨウ?!__
 おそるべき運動神経と執念を目の当たりにして、島崎は確信した敵の名前を呼ばわった。急ブレーキをかけてみたが、サイドミラーの死神は、柳の枝ように衝撃波をやり過ごし、海老のように身体を撓らせると一息に荷台へとびこんだ。状況が一転し、島崎と有佳は守勢に立たされた。
 床に転がっていたニ尺のバールを拾い上げて島崎は言った、
 「ネギ。運転を代われ」
 「代われないよっ!」
 悲鳴に近い泣き声を発して、有佳は尻込みした。
 「時間がない。ずっと前に下宿屋の裏庭で運転のしかたを教えただろう?道なりに真っ直ぐ行けばサダオに着く・・・たのむ」
 言いながら島崎はドアをあけ、はしごに手をかけた。頼りないアイドリングを続け、惰性でのろのろ進むダンプに、加速する気配はない。島崎はサイドミラーの中で震えている有佳に怒声を放った、
 「はしれっ!」
 数度の空吹かしのあと、ダンプは高回転で唸りながらゆっくり前進をはじめた。
 「やればできるじゃないか」
 荷台に上がってみたが、追っ手の姿は見当たらなかった。しかし助手席側のコンパネの隙間から、ピストルの銃口のぞき、銃声が響いた。一弾が島崎の頬を掠めた。一発を撃っただけで敵は銃を捨て、身を翻して荷台に飛び込んできた。
 フルフェイスのヘルメットを脱ぎ捨てると、おかっぱ頭の人懐こい笑顔が現れた。日焼けした腕に、緑の蛇が這っていた。
 「やっぱりきみかい。いつぞやは下手糞な撞球を見せちまったね」
 そろそろ鈴木の遺体が荼毘にふされる刻限だった。皮肉めいた口調で島崎が挨拶すると、若い殺し屋はにこやかにいった、
 「ずっと昔にも、おれはあんたに会っているよ」
 二十二年前に会話した新倉とバンコクで再開した。しかしングーキヨウにつながる記憶はない。
 「ごめんね。物覚えがわるいんだ」
 「おれは直接あんたと話しをしたわけではないから、覚えてなくても気にすることはない」
 背中から格闘用ナイフを抜き放ち、ングーキヨウは姿勢をかがめた、
 「はじめようか、シマザキさん」
 挑戦を受け、
 「せっかく顔見知りになったのに、かなしいね」
 島崎もバールを正眼に構えた。






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