* この物語はフィクションであり、登場する人物、企業、
団体、一部政府機関の名称は架空のものです(著者)。
第三十六話
スピードボートの終点・プラカノンは発展途上国の秋葉原と言っていい。煤けた軒を連ねる電気屋の店先で安いFMラジオを買い求め、雑貨店でチューインガムを箱ごと仕入れると、島崎はトゥクトゥクを拾ってスクムビット101/1の下宿屋へ赴いた。 おかみさんが不在だったのは好都合だった。裏の広い空き地には、井坂から処分を任されたバックホウとトレーラーがそっくり置かれていた。シリンダーは相変わらず歪んでいたけれど、向かいに住むトゥム親方がきちんと点検整備しているらしく、ユンボは最後の突撃に耐えそうである。搬送用のトレーラーもバッテリーが上がっていず、イグニッションをまわすとエンジンはすぐにかかった。クラッチはすべるものの、チョンブリまでなら充分に走る。燃料は片道分でよかった。二台の車両は問題ない。部屋に入ると、島崎は群がる赤蟻を払いのけてマットレスに寝転がり、ラジオのスイッチを入れた。英気を養うため、うたた寝をはじめて間もなく、突然甘ったるい女子アナの声が雑音にさえぎられ、上っ調子の男の声がリスナーに呼びかけた、 『こちらはNGOタイ国倫理協会。われわれはタイの健全なる社会建設事業に水を挿す日本人の陰謀を告発する。良識ある日本人も悲しんでいる。これから流す声にピンときた方は日本領事館のミスター・サワムラまでご連絡を。正解者には査証を特別手数料五万バーツでお売りくださるそうです。チャオ!』 沢村と戸川の会話が流れ始めた。日本語だが、タイ人リスナーにも、そのただならぬ雰囲気はしっかり伝わっていることだろう。 「そのまんまじゃないか。ぜんぜんシャレになっていないよ」 ため息交じりの独り言を呟きながら身を起こすと、島崎はマットレスをのけて床板をはがした。せんに有佳が手を触れて、思わず怒鳴ってしまった床板である。 非常事態に直面した沢村は、問題をうやむやにするまで、領事館にも、自宅にも立ち入れなくなる。マスコミの追求も再燃する。しかし宮仕えの身である以上、短期決戦でまとめなければならないのが二等書記官の宿命だ。部外者を完全に寄せ付けない要塞に転がり込む。 ラジオを聴きながら、島崎はカモフラージュの砂を払いのけた、 「スパキット以外に避難場所を提供してくれる友達を作っておくべきだったな」 床下には棺桶のような木箱が安置されていた。蓋をのけて湿気防止の油紙で厳重に包装された大小、長短の物資を次々に引っ張り出して無造作に床へ並べていく。最初の長い包みをひらくとロシア製のAK47突撃銃があらわれた。たっぷり塗りつけたグリスをボロ布で丁寧に拭い、次いで弾丸をありったけの弾倉に詰め込むと、のこりはポケットやスポーツバッグに分けて仕舞った。突撃銃の点検が済むと至近戦に有利なM11サブマシンガンと三十六弾入りの弾倉が六つ、その傍らに並べられた。 手製のリモコン装置が転がり出て、さらには丸めたタイ陸軍士官の軍服と「根性」と書かれたキーホルダーが出てきた。キーホルダーのほうは捨て、軍服も変装の必要がないので箱に戻す。 作業しながら島崎は矢継ぎ早に噛み終えたガムを一塊にしていく。 ポリエチレンの小袋に詰めたTNN通常火薬が一包み、同じく信管が数本。これにチューインガムや持ち込んだ電子ライターを組み合わせると、簡単なプラスチック爆弾が出来上がった。木箱の底には八個入りの手榴弾が二ケース。使い捨てバズーガ砲が二門、あとは防弾チョッキの裏側にダイナマイトをぎっしり縫い付けた不吉な衣類が仕舞われていた。 島崎はこれにドッグフードの缶詰を付け加えた。スパキット邸ではいつも用心棒が三十人ばかりが詰めているほか、数頭のドーベルマンが番犬として放し飼いにされているからだ。 殴り込みの作戦は至って大雑把なものだった。まず、犬に餌をやって大人しくさせておき、裏塀にガムでこしらえたプラスチック爆弾を仕掛ける。爆発はリモコン操作でおこなう。用心棒の多くは、火の手があがった裏庭へ駈けて行く。門前は手薄になる。ここで襲撃者はバックホウに乗り移り、ロココ調の門扉をひき潰しながら邸内に侵入し、挨拶代わりに母屋へバズーガ砲弾をぶっ放す。茂みの中から応戦してくる者は手榴弾で吹っ飛ばし、バケットで壁を突き破って屋内へ侵入する。抵抗する者は射殺する。沢村も見つけ次第、同様にあしらう。戦闘行動は所要時間四分間。そのあいだに決着をつける。最悪の場合は、沢村に抱きついて腹に巻いたダイナマイトで自爆する計画だった。 自爆用防弾チョッキを身につけても、悲壮感はまるで沸いて来なかった。萌草会工作員と通常の兵士の違いは、技能より、感情を制御できるか否かで分類される。島崎の脳髄は、この部屋に並べ置かれた兵器と対等の一部品に過ぎなかった。 「康くん」 出し抜けに背後で有佳の声がした。 「電話のあと、ポチに餌をあげようとしたら、ドッグフードがひと箱足りなくなっていたの」 幽霊でもなければ幻覚でもない生身の有佳が、ドアにもたれかかって立っていた。封印を解かれた道具類をことさら無視して、有佳は丸めたコートからはみ出している犬の顔が印刷された缶詰を一瞥する。 「なにをはじめる気なの?」 黒光りする戦争機材は、無視したくても、とぼけることができない。 「なぁんも言わないで、見送っておくれ。ネギちゃん」 「沢村さんを殺すの?」 ラジオの音声に耳を傾ける有佳は、まばたきもせずに島崎を睨んでいた。 「殺さなきゃ、こっちが殺される。サルでもわかる因数分解だ」 爆弾の配線に余念がない男は、手を休めることなく、鼻歌を歌うようにうそぶいた。 「今、あたしが後ろに近づいても、康くん、声をかけるまで気づかなかったね」 さりげない言葉が辛辣だった。如何に生命がけの配線作業に没頭しているとは言え、有佳の接近を許した自分は、あきらかに戦闘員としての資質を欠いている。これでは殺す前に殺される。有佳は淡々と続けた、 「間違っているよ、そんな考え方は」 「人間はぜんぶ間違っている。是非は問うな」 「理屈を言わないで」 言うが早いか、有佳の小さな掌が島崎の頬ではじけた。 「あたし、今度ばかりはほんとうに康くんが嫌いになったよ。だって、こんなに弱い人だなんて知らなかったから」 涙顔でしゃべる少女に、前代未聞の平手打ちをくらった男は相槌の言葉を見失った。 「あたし日本に帰ることにする。征ちゃんに手紙を書かないで、自分の力で帰る。ちゃんと帰れるかどうかわからないけれど、帰ったら、もう、ぜったい康くんのこと、思い出したりしない。・・・元気でね」 きちんとシャツの第一ボタンをかけてウィバパディ通りのあずまやに現れたような有佳だったが、それがいつしか第二ボタンを外しても様になる貫禄を備えている。しかし、根が真面目なのでブレイクにも所詮限界があった。 「ちょいと待ちな」 下宿屋の門扉に手をかける有佳を島崎の声が呼び止めた、 「おまえひとりで帰るのは無理だよ。普通の旅行じゃない。第一、パスポートがないのに、どうやって飛行機に乗る気だ?」 「あたし、日本まで、歩く。ジャングルの虎に食べられたって、歩くよ。鱶がいる海だって、泳いで渡るんだから」 「聴いちゃおれん」 床に抛りだされたAK47突撃銃が深く溜息をつく男の降伏を代弁していた、 「ひょっとして、おまえはおれ以上の馬鹿か?」 「そうよ。あたしはバカなの」 脳髄へ通常どおりの血液が行き渡り、殴り込みへの意気込みが嘘のように萎んでいくのがわかった。 「いいわ、康くんのやり方で。あたしを日本へ連れて行って」 スクムビット101/1ソーイは懐が深い。下宿屋から表通りまでの数キロに及ぶ細い歩道を有佳は大股で闊歩した。レインコートを肩にひっかけてあとに従う島崎が、赤茶けた雨雲の群がる南の空を見つめながら投げやりに言った、 「無様なもんだ」 FMクリッサダーの放送復旧はいつもに比べて迅速だった。しばしば電波ジャックされている放送局は、地道に対策を強化していたのだ。沢村の秘密めいた声がバンコクの空を飛びかったのはほんの十数分間に過ぎなかった。沢村にまったくダメージを与えなかったとは言い切れないが、あれでは十分な燻し効果が期待できかねた。 「おまえのせいで、ハードボイルドな人生のクライマックスをフイにした」 「そういうことばかり言っていると、人間が小さくなるよ」 おかっぱ頭が振り返り、冷ややかな眼差しが非難がましく注がれる。湿った風が有佳のやわらかな髪をさらって端正な頬にへばりつかせた。 「そんなに意志薄弱じゃ、攻めていっても反対に殺されちゃうよ。忘れないで。あたしはまだ怒っているんですからね」 「冗談だってば。まったく、最近のネギは、どこかのおかみさんとそっくりの厭味を言うようになった」 雨季の到来を告げるかのように、走りの雨が降り出した。どちらが言い出すでもなく、手近な仕舞屋の庇の下へ転がり込んだ。雷鳴が錯綜して、雨脚はいよいよ激しくなった。有佳は敷石に座り込んで島崎を見ずにいった、 「たったひとりで沢山の人たちと戦争するの、ぜんぜん格好いいと思わないよ。周りの人をはらはらさせていたら、赤ちゃんと同じでしょう」 胸ポケットからクロンティップを抜き取り、電子ライターを近づけると、それは身にまとった爆弾兼用の防弾チョッキに直結している点火装置だった。冷や汗をかきながら喫煙をあきらめると、島崎はにぎやかに鼓動する雨どいにもたれかかって、膝をかかえる有佳の視線を追ってみた。向かいの軒先で、痩せこけた成犬と小さな仔猫が雨宿りしながらこちらを見ていた。 「まるで鏡みたい」 島崎の視線を薄い耳朶で感じ取ったのか、相変わらず前を見つめたまま有佳がつぶやいた、 「なにもできないで、じっと雨を見ている。さっきはごめんね、ぶったりして」 許すも許さないもない。自分に手をあげるくらいに強くなった有佳が島崎には眩しかった。 「この雨はやみそうにもないな」 「やむわよ」 レインコートの襟を立てる男に、少女は晴れがましい面持を向けた、 「覚えている?古今東西やまない雨が降ったためしはない・・・って、あなたがいつも言っていたじゃない。身体は小さかったけれど、そんな台詞を言う康くんが、とても大きく見えたよ」 島崎少年の言行録は有佳の記憶のほうが精度は高い。芝居がかった台詞は父親の受け売りだったに違いない。雨は必ずやむ。そして困窮する事態も、いつかはきっと好転する。昭和の有佳が悟った解釈を、平成の島崎はいまさらながらに理解した。 「あのガキ、ネギをメッセンジャーに立てて、未来の自分に説教を垂れやがった」 「どんな風に変わったんだろう?平成の日本って」 不安に圧迫される好奇心は、乾いた声色だった。 「日本へ帰るにしたってさ、こっちのパスポートも沢村さんに取り上げられちゃったよ。弱ったね」 「ちっともこたえていないくせに。でも、これで康くんもあたしと同じ根無し草ね」 「おれのことは気にしなくていい。問題はお前のほうだ」 無駄口を叩きながら、島崎は有佳の性格の変化ぶりを観察していた。 「おれ流の帰国は、ちょっと荒っぽいぞ」 唇を閉ざして島崎を見上げる有佳の表情は澄んでいた。 「どんな方法でもいいよ。康くんについて行くから」 「違法行為。はっきり言って、犯罪だぜ」 涼しげな有佳の顔に狼狽らしい変化はおこらなかった。 「沢村さんに脅かされたんだよ。康くんが悪い人だって認めなければ少年院に送る、って」 「そこまで言うか、あの小父サン」 力なく、島崎はからから笑い声を上げた、 「それで、そこもとは如何致した?」 「一瞬、どうなっちゃうんだろう、って思って、目の前が真っ暗になったけれど、覚悟が決まったの。正しいと思うことをやって少年院にはいるなら、あたしは後悔しない」 「ほんとうに、有佳はつよくなった」 「康くんがあたしを有佳って呼んでくれるの、はじめてよ」 島崎は小さな肩を力強く掴むと、その傍らに胡座をかいて真顔でいった、 「なにしろ緊急避難だから、若干の他人さまにご迷惑をお掛けするのはやむをえない。それについては沖に出たら船頭任せ、金輪際、余計な醇風美俗をごちゃごちゃ持ち出すんじゃないよ」 「どんな作戦?」 もったいぶらずに、島崎は大雑把な計画を打ち明けた、 「タイを出国する時から日本に入国するまで、別人に成りすます」 「どうやって?」 漠然と仮想していた陳の出番が、いよいよ現実のものになる。 「他人のパスポートを手に入れて、写真を取り替える。変造パスポートだ。あとはこいつで航空会社やイミグレーションを煙に巻きながら霞たなびく我らが祖国へ滑り込む」 有佳は島崎の顔を正視していた。 「いちばん高いハードルはタイの出国ゲートだ。この国はいま、入り鉄砲と出女にピリピリしているからな。ドンムアン空港を突破してしまえば、あとは存外ラクにことが運ぶと思う」 だが、殊、有佳に変造パスポートを与えるとなると、島崎も慎重にならざるを得なかった。たとえ新品を扱うとされているシロム通りであっても、ブラックマーケットの商品はとどのつまり鮮度が怪しい。多くの空港に配備されているドイツ製のバーコードリーダーも警戒を怠るわけにいかない難物だった。つまり、すでに紛失届が出されているパスポートでは、オンラインに要注意の手配が回っているので、危険きわまりない。バーコードリーダーは、目に見えない所持人データを忠実に読み取る。旅券番号にはじまり、発行地、氏名、性別、生年月日、交付年月日等の表記事項を組替えるべきではない。ようするに、有佳のために用意するパスポートは、本来の所持人が極端に若い女性でなければならず、少なくともこちらのタイ出国手続きが済むまで、沈黙を守ってもらう必要があった。 「おまえさんがオバサンくさい小娘でよかったよ」 「なによ、それ」 島崎が自身に言い聞かせる気休めを理解できず、むくれる有佳は食べてしまいたいほど可愛らしい顔をのぞかせた。少女の無邪気な美質をしげしげと眺め、男は悄然と肩を落とした。 「化粧すれば高校生に見える・・・いくらなんでも、すぐにバレてしまう」 大人びているとは言っても、所詮は「子供にしては」という前置詞がつく。直線的な腰にはくびれがなく、胸は平べったい。腕についた脂肪もふくよかさにはほど遠くて貧弱である。痩せ方は、大人の女だったら即刻入院を要する病人なみだ。有佳の容姿はせいぜい中学二年生、未熟児と言い訳しても高校一年生が限界だった。流石に日本人学校の生徒が所持する旅券を狙う気にはならなかった。その年限に該当する日本の娘は、バンコクには数えるほどしかいない。 ふたつの条件が、しばし島崎を苦しめた。 「康くん。きれいな虹がでているよ」 雨は上がっていた。空は色あせた灰色だった。そして青々と映える森の上に、七色の光軸が橋をかけていた。 「あの虹をわたって日本へ帰れたらいいのにな」 「こんな時に乙女チックなことを言うんじゃない」 「あたしは乙女よ」 「失礼しました。だけどな、現実の国境というのは空ではなく、この地べたに引かれているものなのだ・・・」 そこで島崎は言葉をとめた。 「そうだ。地平線がおれたちを誘っているぞ。陸路で行こう」 ウィバパディのあずまやで有佳と出会うすこし前、島崎は査証更新のためマレーシアのペナンを訪れていた。出入国時に通ったタイ側の国境は、ハジャイの南にひらけたサダオである。つらつら思い出すに、サダオのチェックカウンターでは、旧式なバーコードリーダーも導入されていず、係官がデパーチャーカードを無造作に引きちぎって、盲判同然に出国スタンプを捺していた。行けるかも知れない、と島崎は直感した。 次の難関は隣接するマレーシアのブキット・カユ・ヒタムだが、タイのイミグレーション係官と奇妙な信頼関係にあるマレーシアの出入国管理官は、旅客の氏素性について、それほど念入りに調べようとはしない。むしろあらゆる麻薬の持ち込みに極刑を以って臨むイスラム教国の役人は、黄金の三角地帯に目を光らせている。パスポートを科学的に鑑定する機械は半年前、中途半端に新しいものが置かれていた。おいそれと交換するとは考えにくいし、陳の作品なら、充分に突破は可能であろう。 マレーシアに入国したら、ペナンなり、クアラルンプールで日本行きの航空券を買う。マレーシア入国管理局のオンラインには、すでに変名がそっくり入力されているから、よほどのことがない限り、出国はスムーズに運ぶだろう。あとは運を天に任せて、一路、日本へあまがけるのみである。 狡猾な口調で島崎は有佳の耳元に囁いた、 「メコン川を渡ればそこは安南国。いまではラオスと呼ばれている」 「御殿山小学校でもラオスって習ったけれど」 頭脳明晰な少女は、内容が伴わないでまかせ話を勝手に深読みして、神妙な顔で頷いた。 雨上がりのスクムビット通りに出たが、バスは乗る気が失せるほど混んでいたし、 空車のタクシーも捕まらなかった。日は高かったが、時刻はそろそろ夕方だった。歩きたい、と有佳が言う。異論がないので、島崎は黙って排気ガスが棚引く喧騒の巷を歩き始めた。それぞれ物思いに耽りながら、言葉を交わすこともなく、歩きにくい歩道をひたすら歩く。 トラベルエージェントの看板を見て島崎は足を止めた。 「ネギ。この先に湿気たデパートがある。紺色の、なるべく地味なブレザーとブラウスを買っておいで」 千バーツ紙幣を二枚受け取りながら、有佳は訊いた、 「誰が着るの?」 「きみに決まっているでしょう」 「康くんは?」 「二三十分かかると思うけれど、デパートで待っていてくれ」 五時を回った頃、島崎はデパートの前で佇む有佳の肩を叩いた。 路面は随所で敷石がめくれ、陥没個所があり、隆起しいてる部分もある。歩きにくさに変わりがない上、周囲はいよいよ賑やかになっていく。我が物顔でテーブルを並べる屋台に厭味たらしく舌を打ち、腹ばいになる犬をよけ、進路を遮る物乞いを精一杯敬遠した。 「康くん。いま、道端で物乞いしていた義足の人、どこかで会ったことがない?」 突如、有佳が呼び止めた。振り返ると島崎は口をあんぐりあけた。 「プラセット・・・だ」 惨めな姿で紙コップを通行人に差し出しているのは、まぎれもなくゴールデンゲートアパートメントの大家その人だった。 「おい、プラさん。いったいどうしたんだ、その足は?」 「ああ!おまえたち...!」 顔に機械油を塗りたくった物乞いのほうも、目を開いた。 「さっきゴールデンゲートアパートメントへ寄ったが、あんたの不幸は誰も教えてくれなかったぞ。誰に足を切られた?誰にアパートを乗っ取られたんだ?」 「そうよ。あたしたちに相談して。コウさんがマシンガンを持っていって悪いやつらをみんなやっつけてくれるよ」 白けた島崎は調子に乗ってしゃべる有佳の頭を小突いた。二人にまくし立てられて、さも迷惑そうにプラセットは眉間にしわを寄せた、 「こら。大きい声で喋るんじゃない。これは副業だ。アパートはいまでもおれのものだ。しかし一日中カウンターに座っていても毎月の儲けははじめから決まっている。先行き不透明な時代だからこそ、こうやってフリータイムのアルバイトをしているのだ」 バンコクには公衆電話の数より物乞いが多い、と言われている。事実、大きな道路の歩道や歩道橋には、必ず数組の汚れた衣装を身にまとう人々の姿があった。しかし卑屈な仕草が板についているが、これはたいがい演技である。彼らは「物乞いエンターテイメント株式会社」とでも呼ぶべきプロダクション組織に所属しており、毎朝、プロモーターによって、組み合わせと配置が決められ、車で現場へやって来る。 「哀れな者に施しするのは仏法の教えである。功徳を積んだ人々はその日一日よい気分になれる。つまりこれはサービス業だ」 居直った口調でプラセットは言い、通行人が途絶えると義足の影に隠していた生身の足を思い切りのばした。義足の中には、一見して勤め人の日当の数倍と思われる大小貨幣が詰まっていた。プロの中には、惨めさを演出するため、本当に足や腕を切除してしまう者もいるが、アパートのオーナーはそこまで切実ではなかったようだ。 「今日は邪魔が入った。一旦、店じまいだ」 自分の車で現場へ出勤してくる直行組の男は、背後のトタン塀の裏側に隠した新車のジャガーに歩みより、顔のメイクを落とすとブランド物のスポーツシャツに着替えはじめた。 「帰るのかい、プラさん?」 「稼ぎ時だ。そこのプリンセスホテルで食事をしたら、また夜まで働く」 太い排気音を残して、ジャガーは走り去った。 「ふざけやがって。真面目に施しをしている貧乏人こそよい面の皮だ」 「けっこう儲かっていたね」 乞食はなかなか美味しい商売である。有佳は索然とつけ加えた、 「いつもヌンさん、物乞いの人にお金を上げているよ。でも、だまされていたんだ・・・あのひとらしいけれど」 「油断がならねえ国だよ、まったく。やっぱり、早いところ逃げ出したほうがいいな」 プラセットと分かれ、島崎と有佳はふたたび歩きはじめた。プラカノンから、だいぶ市内に近づいていた。すぐ先に、『食いの国』の看板がぶら下がっていた。朝から何も食べていない。空腹をおぼえたけれど『食いの国』は居酒屋だし、新倉もたまに顔を出す。有佳を連れて行くにはふさわしい店ではない。軒先を素通りして、はじめて島崎はいった、 「弁当を買ってくる。一旦チャトチャクへ戻ろう。ネギに渡しておきたいものがある。コロッと忘れていた」 いましばらく、怪放送の事態収拾に追われるであろう沢村が、チャトチャクへ報復攻撃を仕掛けてくるとは考えにくかった。 「あたしはここで待っていればいいの?」 「時間がもったいない」 島崎は五百バーツ札を有佳に握らせると、並びの写真館を顎で指した、 「さっき買ったブレザーを着て、パスポート用の写真を撮っていらっしゃい」 方針がまとまれば島崎の行動は迅速である。店主がいない開店前の『食いの国』で従業員にチップをやって握り飯を作らせると、モトサイタクシー二台をチャーターして、撮影を済ませて写真館から出て来る有佳を拾い、一路チャトチャクへ急いだ。 「これだ」 いつも有佳が眠っているベッドを引っくり返すと、島崎は箱型の台を叩き壊し、敷板の裏側に固着してあったアタッシュケースを毟り取った。 「どうしてどこでもそういう乱暴な取り出し方しかできない場所に荷物を隠すの?」 あきれた面持ちで有佳がいうと、握り飯を齧りながら島崎は平然と答えた、 「取り扱いを間違えればどれも血の雨が降りかねない品物ばかりでしょう?」 武器なら解るけれど、と言いたげな面差しで握り飯を頬張る少女を尻目に島崎はアタッシュケースの封印を解いた。まず、銀行の通帳が数冊現れ、次いで紺色、緑、赤、茶色、小豆色のパスポートがばらばらとこぼれた。日本、台湾、シンガポール、韓国、英国領の香港、それにタイと、交付国はまちまちだ。 「なによこれ?みんな康くんの写真になっている」 「よけいなことに興味を持たなくていい」 真面目くさった顔で島崎は有佳の頬についた米粒を摘んで自分の口へ放り込む。 「まあいい。先に自分の仕度を済ませてしまおう」 数冊の日本旅券を抽出すると、比較的手垢がついていない一品を選び出した、 「おれの名前は清水和彦。当年とって三十四歳。埼玉県出身」 十八年前、青木が原樹海でゲリラ訓練中の島崎は白骨化した自殺者を見つけた。生まれてはじめて目にした変死体だった。所持品から自分よりひとつ年上で埼玉県下の工業高校に通う若者であることが判明した。氏名は清水和彦といった。 「これを最後の勤めとして、清水和彦さんを成仏させてやろう」 ページの中ほどに、クレジットカードや期限切れの運転免許証が十枚ばかりの名刺と一緒にはさんである。遺骨は東京都内の某所に安置され、いまだに墓場に入れずにいる清水和彦は、萌草会維持会員が経営する大手の建設会社に技術者として就職していた。 「まいったな。清水さんはサラリーマンのくせに一年以上もオーバーステイしているよ」 「大丈夫なの?」 「クレジットカードは本物だ。パクられて二年以上の実刑判決をくらうこともない」 昭和五十二年には大人の社会でもほとんど流通していなかったプラスチックマネーだが、ステファニーと付き合っているうちに有佳にとってもそれは普遍性あるツールになっていた。しかし有佳は首を振った、 「そうじゃなくて、パスポートのほうよ」 「ああ、これ?」 島崎はあたりまえのように説明した、 「出国するときに二万バーツの罰金を払えば問題はない」 「ずるいよ、康くん。自分の逃げ道だけはちゃんと用意してあるんだから」 拗ねたように有佳はいった。 「おれのことは気にするな、って言っただろう?」 「パスポートがないの、結局、あたしだけじゃない・・・」 「仕方がない。ネギがこの時代のこの街に現れるなんて、おれは全然知らなかったんだから」 「だって」 「平成に来るなら来るで、事前に連絡くらい寄越せってんだ」 無茶を言いながら島崎はアタッシュケースの底に敷いてあったぶ厚いA4のクラフト封筒を掴んだ。 「閑話休題。これ、顧問弁護士に頼んで、ネギの名義にしてちょうだい」 「なによ、これ?」 「証券類。時価にして一億五千万円以上、あると思う」 一億と聞いて、有佳は頬張った握り飯をのどに詰まらせた。 「いやよ。いらない。どうして、そんな大事なお金をあたしにくれるのよ?」 「気にするな。どうせ悪どい企業やわざわざ外国まで遊びに来る小金持ちから毟り取ったゼニばかりだ。悪銭身につかず、というだろう。おれには縁のないカネだ。しかし調達方法はえげつなくても、使い方がきれいならカネは自ずと本来の値打ちを取り戻し、ちゃんと生きてくるもんだ」 たまたま多額の経費を必要とする道楽や冒険的なビジネスと肌が合わなかっただけの島崎にしてみれば、これはかくべつ倹約生活の結晶というほどのものでもなかった。使い道を考えたことがあるとすれば、それはいつの日にかクラ運河構想が始動しだした時、幾許かの発言権を確保するための自己資金だったが、総工費二兆六千億円と試算されているプロジェクトの前には、哀しくなるほど微々たる額面に過ぎない。そして構想はいよいよ動き出したが、今度は島崎自身が、最も宛てにしていた男に捨てられた。死んだカネというのは、島崎の本心だった。一旦話を区切ると、有佳を傍らの床に座らせた、 「いいか。ネギが日本の市民権を回復するのはたやすい。しかし、それはすべてをおおっぴらにした上でのことだ。果たして、三十三歳の小学生が生まれるだろう。そんなお前が大学を出る時は四十過ぎの小母さんだ。脅すわけじゃないが、書類上では就職先も限られてくる。もちろん日本社会はそれなりに柔軟な対応をしてくれるだろうが、その都度、おまえの扱いをめぐる問題が浮上して騒ぎが起きることになる。マスコミは大喜びで報道するだろう、”神隠しの体験者で昭和生まれの女子大生、冴木有佳さんが募集要項の年齢制限という逆境にもめげず、けなげに就職活動をはじめました”・・・とかいってな」 蒼白な顔で有佳は形容詞に反応した、 「はずかしいよ。そんなニュースになるくらいなら、死んでしまいたい」 「ネギの性格をおれは熟知しているつもりだ」 温和な口調で島崎は本題に切り込んだ、 「日本に帰っても、秘密裏に市民権を獲得しようと思ったら、荒業がしばらく続く。ひょっとしたら、おまえはもう二度と冴木有佳を名乗れなくなるかも知れない。柳田の裏の力を借りて、どこかの亡くなった女の子の戸籍を買うことになるかも知れない。どんな展開が内地で待ち受けているのか今はおれにもわからないけれど、どちらにしろ工作にはカネが要る」 この期に及んでなお柳田征四郎を宛てにしている自分が島崎には滑稽でならなかった。それでも涙ぐむ有佳は封筒を抱きしめた。 「大事なのはカネではなく、それを使う人間の心だ。おれは、ネギに明日の舵取りを委ねたい。だから、預かっておいてくれ」 「ありがとう」 「ばか。泣くやつがあるか」 清水和彦の所持品一式をチョッキのポケットに捻じ込むと島崎はアタッシュケースを閉じて腰をあげた。 「時間がもったいない」 声のトーンの変化を、目元を拭う少女は聞き逃さなかった。 「階下の美容院へ行って、髪形をすこし大人っぽく変えてもらっておいで。井坂さんがくれた娘さんの雑誌があっただろう。あれに載っているタレントの写真を参考にしてほしい。これから手に入れるパスポートは二三年前に発行されたものと想定しておく。そうなると、髪型がさっき写した写真とまるで同じでは、いかにも不自然だ」 おかっぱ頭の証明写真を胸ポケットに仕舞い込みながら、島崎の指示は続いた。 「おれはこれからお前のパスポートを調達しにいく。すべて準備が整ったら連絡する。携行する荷物は最小限度にまとめておくこと。パーマネント屋から戻ったら、この部屋から一歩も外へ出ず、別命あるまで待機せよ。出発は明朝早暁を予定。以上」 いきなり軍人みたいな口調で喋り出した島崎を、しばらく有佳はあっけにとられて見つめていたが、 「明日?急すぎるよ、そんなの。井坂さんにも挨拶しないと」 ちょっと手心を加えてほしいと、微笑した。 「挨拶する必要はない。隠密行動だ」 廊下に出ると、隣の扉から校長先生がひょっこり顔を出した。 「久しぶりにあんたの声が聞こえた」 自室へ手招きしながら、校長先生は唐突に言った、 「ユウカを正式にうちの特待生に迎えたい。それを一日も早く伝えたかった」 先を急ぐ身ではあったけれど、にべもなくあしらっては却って怪しまれる。島崎は仕方なしに寄り道した、 「なんでまた急に聴講生から特待生へ二階級も特進するわけ?そんな功名話しは聞いていないぞ」 「なんだ、知らないのか、叔父さんのくせに」 言いながら校長先生はブリーフケースからタブロイド版のカラフルな新聞を取り出した。日本語をあてがえば、さしずめ「教育週報」といったタイトルの教員向け新聞だ。一面に大きく印刷された落雷の直撃で樹木が真っ二つに裂ける瞬間の写真が目を曳き付けた。 「凄絶な景色だね、こりゃ」 島崎が感心すると、校長は満足気に二重顎をのぞかせた。 「うん、うん。この白い閃光がまるで翼をひろげたガルーダに見えるだろう?まさに奇蹟の一瞬だ」 「それで、この写真がどうしたの?」 無責任な叔父の反応を予見していたのか、校長先生は傍らに添えられている授賞式の写真を顎でしゃくった。 島崎は思わず仰け反った。 小学生写真コンクールで最優秀賞に輝いた”ユワディ・スントーン”という少女が、やんごとなき婦人からトロフィーを受け取っている。しかし、タイ名で紹介されてはいるものの、受賞者は有佳だった。国王自らがジャズマンであり、画家であり、カメラマンでもあるタイ王室は、文化振興への取り組みに熱心である。まさか皇女と向き合っている娘がパスポートのない不法滞在者であるとは誰も想像できないであろうが、時が時だけに、島崎は冷や汗ものだった。 「いくらなんでも、黙っている法はないよ」 日本語で呟き、島崎は壁越しに報告を怠った有佳をにらみつけた。 「でもね先生。そろそろユウカを日本へ帰そうと思っているんです」 隠密行動中なのに、早速本音を打ち明けていた。 「それは残念だな。しかし、ユウカは我が校の名誉だ。せめて名簿上は、うちの生徒としておきたい。どうだろう」 おぼろげながらも、有佳の市民権獲得計画にひとつの手掛かりを見出した島崎に、校長先生の申し出を断る理由はなかった。 「ユワディ・スントーンか・・・」 校長の部屋で足止めをくらった島崎が外に出ると、すでに日が暮れていた。偉そうな言い方で有佳に待機を指示したまではよかったけれど、日本少女のパスポートなど、捜し歩いても見つかるわけがなかった。ひとまずシルクセアタへ向かった。 |
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