* この物語はフィクションであり、登場する人物、企業、
団体、一部政府機関の名称は架空のものです(著者)。




第三十五話




   【第四章】

 島崎は警察病院のモルグを訪れた。一般の来院者がめったに足を踏み入れない殺風景な廊下は、何十年ものあいだ修繕の手が加えられた様子もなく、壁も天井も雨水の染みが幾重にも折り重なり、いかにも異界の入り口といった趣の絶望感を醸し出していた。順路に従って歩くと手前に標本室があり、次に病理室と直訳できる法医学者たちの作業場の扉が配置され、いちばん奥まった薄暗い一角に、人目をはばかるようにその掲示板がかかっていた。黴臭い木製のボードにはびっしりと身元不明遺体の顔を撮影したモノクロ写真が貼り出されている。じつにさまざまな表情が並んでいた。朝刊に載っていた顔はすぐに見つかった。
 あたりに人の気配はない。島崎は標本室まで引き返すと、机で頭蓋骨をいじくりまわしている白衣姿の中年男に声をかけた、
 「階下で眠っている男に用事がある。会わせてくれるか?」
 血色のわるい蒼い顔と赤い唇がやけに目立つ白衣の男は、法医学者の助手を兼ねた病院の職員らしい。貪欲な大きな目でイントネーションがおかしいタイ語を話す訪問者をジロリと一瞥すると、ついて来いと言わんばかりに顎をしゃくった。
 タイのモルグはどこでも遺体に心当たりがあると申し出た者には現物を見せる決まりになっている。来訪者は、タイ国民であればIDカード、外国人の場合はパスポートを事務室に預けて内部に立ち入る規則になっている。冷気と甘酸っぱい臭気が立ち込める階段を地下へおりると、指定された番号のロッカーの取っ手を引っ張った。人型をしたモスグリーンのキャンバス袋が現れ、島崎は自らジッパーをおろした。男の死体が現れた。上唇が乾燥してめくれ上がり、若草色に変色した骨相に、ふくよかだった恵比寿顔の面影はまるでない。
 「やっぱり、お前さんかい」
 それでも島崎は、変わり果てた鈴木の寝顔に語りかけた、
 「ずいぶんあっけなく逝っちまったじゃないか。ええ、鈴やん」
 言いながら、手際よく全身の傷を調べはじめた。目的が完遂されるまでは負傷した味方でさえ省みない。屍になった者はもちろん放置する。その決意に変わりはなかったけれど、関わりが深かった鈴木の死には、攻撃者を割り出し、ひいては自らの生命を温存する手がかりがこめられている。新聞の写真では詳細を知ることができない死因を確認するのが、モルグを訪れた島崎の目的だった。
 果たして、鈴木の首筋は頚動脈がぱっくり切られて切断面が露出していた。ところが見るからに萎縮した筋肉細胞の状態は、ふさわしい薬剤を用いた検査を試みても生活反応が出るとは考えにくい”余分な一撃”と観察できた。致命傷はわき腹に刻まれた直線状の刺切創だった。凶器は細長くて尖鋭な刃物らしい。まっすぐ心臓に達している。失血死であろう。
 案の定、戸川、そして福原の殺され方と酷似していた。下手人は相当の技量をもつプロである。それが、わざわざ自らの残忍性に念を押すかのように、死人の首筋に無駄な切り込みを入れている。あたかも一連の日本人殺しが自分の仕業であるというメッセージを送っているかのように。
  “うしろに注意せい、島ちゃん!”
 刹那、鈴木の声が聴こえたような気がした。はたとした面持ちで島崎は周囲を見回した。さっきまで階段の扉口に立っていた頭蓋骨の職員が見当たらなくなっている。密室の中で人間がひとり動けば、その気配を察知できない島崎ではない。ホルマリンの入り混じった甘酸っぱい匂いが曲者だった。軽いめまいを覚えて、ある種の幻覚剤が室内に散布されていることに気が付いた。
 鈴木の死に顔へバツの悪い苦微笑を投げかけて暇乞いすると、島崎は大急ぎで階段を駆け上がった。地上の扉は施錠されていなかった。その代わり、廊下に飛び出すと小豆色の制服に身を包んだ連中が所狭しとスクラムを組み、拳銃を構えて島崎を待ち受けていた。
 「チマサキ・コチ!」
 島崎のパスポートを手にする警官が、上擦った声でいった、
 「ショッピングモール跡地のテロリスト殺害の容疑で逮捕する」
 「あ?」
 頭痛も吹き飛んで、呆気にとられる島崎は言った、
 「そいつはとんだ誤解だ。話せばわかる」
 歩み寄ろうとすると、群れをなす警官たちは同じ間合いを保って後退し、怯えきった面持ちで殊更銃口を突き出した。
 「こっちへ来るな!その場でじっとしていろ。言い逃れは無用だ。今朝、お前の手配書がまわってきた。フクハラ、そしていまお前が見てきた男も、お前の仕業だ。図星だろう!」
 「ばかくせえ」
 日本語で吐き捨てるように言った。
 指揮官は部下を叱咤した、
 「油断するな。この男は“日本陸軍”の特殊部隊だ。正規軍が一個中隊で立ち向かっても歯が立たない相手だぞ」
 「何を血迷っている。いまの大日本帝国には陸軍なんか、ありゃせんぞ」
 ようやく島崎は警官たちの不良外国人を相手にするには如何にも大げさな狼狽の理由を見極めた。だいぶ曲解されてはいるが、この連中に自分の過去を伝えた非凡な地位の人間がいる。
 「まんまと踊らされやがって。わかった、わかった。ほら、さっさと、捕まえな」
 両手を差し出すと、なおも裏返しになった怒声がとんだ、
 「その手には乗らないぞ。貴様は人を罠に陥れるのもプロだ」
 「霊安室に神経ガスをぶち撒けておいて、よく言うよ」
 「ええい、だまれ、だまれっ!」
 手錠をかける警官から銃を奪い、それを人質にして脱出しようにも、退路は閉ざされていた。
 「じゃあ、どうすりゃいいわけ?」
 すると人垣の背後から日本語が響いた、
 「私と世間話に付き合ってくれるだけでいい」
 非凡な地位の人間の声を聴いて、警官たちの顔から緊張が解けた。人垣を掻き分けて、ライトグレーの背広をまとう沢村秀一が現れた。
 「わざわざ領事館から面会にお越し頂いたにしては、ずいぶん早いご到着ですね」
 島崎はにんまりして言った。
 「不遇な邦人を保護するのが私の職務です」
 皮肉を受け流すと沢村は、目配せして現地警察官の包囲を解かせて、豪胆にも中庭に面した窓辺へ”日本陸軍の特殊部隊”をいざなった。禁煙の表示もなんのその、丁寧な仕草でマルボロライトを島崎に勧めると、旨そうに煙を吐き出して沢村は落ち着いた調子で切り出した、
 「すこし大人しくしてもらえませんかね、島崎さん」
 人間が何人も死んでいる。査証不正発給に関する取引を持ち掛けられる時期は過ぎていた。
 「あなたにはね、戸川という青年の殺害容疑が懸かっているんですよ。現場から逃走するのを大勢の人間が目撃している。それにあの警官たちも言っていたでしょう、まだ非公式ではあるが、福原と鈴木についても有力な被疑者として、戸川殺しの犯人が浮上している。三人の殺され方は非常によく似ていますからね」
 福原以外の、公式に身元不明と処理されている戸川や鈴木の名前を明言した沢村は、あからさまに島崎を挑発していた。島崎の背後にちらつく日本陸軍の亡霊、すなわち萌草会の関与を全面否定しきれず直接的な反撃に瀬踏みしていた官僚は、ここで挑戦者に如何なる後ろ盾も介在していなかったことを確認して、いよいよ返り討ちの牙を剥いてきたのであった。
 「戸川をおれが殺したって?おれはあいつに生命を狙われたんですよ。二度もね」
 最初の襲撃を終えた戸川が、失敗したとも知らず、その足で沢村のもとへ駆け込んでいたことは、鈴木がくれたテープを聴いて知っていた。だが、島崎のきわどい揺さぶりに動じる沢村ではなかった。
 「では、戸川の死体を発見した時点でなぜすぐに警察へ届けなかった?いくらここがタイであっても、あんたのとった行動はあまりにも常識から外れている。まともな知能を持っている人なら解るだろう」
 そして、元の調子で恩着せがましく言った、
 「もちろん証拠は不十分です。領事館としては、当地の警察局に善良な日本国民の逮捕をしばらく見合わせるよう、いま要請して来たところです。ただ、くれぐれも、外出は控えるように。お住まいもはっきり教えてもらいましょう。たしか、チャトチャクでしたね?」
 有佳やステファニーを巻き込むわけにはいかなかった。
 「いえ。ラップラオのソーイ六十四。ゴールデン・ゲート・アパートメントの四〇一号室です」
 「よろしい」
 取り澄ました沢村は、警官から受け取った島崎の旅券を手持ちの鞄に仕舞い込んだ、
 「あなたはとかくいろんな評判がある人だ。我々としても、タイの捜査当局に納得してもらうため、一応の調査をしなければならない。さしあたってパスポートは真贋が判定されるまで、領事館が保管します。もちろん出国は不可能だが、タイ国内の移動も控えて頂きたい」
 これは宣戦布告というよりも死刑宣告に等しい注意事項だった。これまで着実に、不要になった戸川を片付け、敵対する福原を排除し、自身の不利益を知りすぎた鈴木を始末してきた男は、いよいよ抹殺リストの最終ページに手をかけようとしていた。
 ゴールデンゲートアパートメントに落ち着いている限り、殺されるのを待つだけだった。
 帰宅を認められたが、島崎はバンコクに事実上の足止めをくらったことになる。沢村とて、この程度の法的制裁が島崎に行動の自粛を促すとは考えていない。病院を出ると早速、尾行がついた。狂犬のように目され、警察官でさえ敬遠する日本人の背後を、派手なシャツを着た長髪男は警戒心と程遠い踊るような足取りでついてくる。詳しい事情を知らされず、幾許かの金銭で雇われた地回りのチンピラだろう。絵に描いたような素人ギャングに殺気はまるで感じられなかった。警察病院で沢村と会おうが会うまいが、新聞で鈴木の死を知った時点で島崎が次にとる行動はほぼ決まっていた。沢村が島崎の過去を調べていたように、島崎も沢村の気性や行動パターンを研究している。
 チャトチャクのコンドミニアムはすでに敵方の知るところだった。しかし、ここの家主はまがいなりにも法律家という社会的地位のある人間である。知能犯であればあるほど、危害を加えるのを後回しにしようと考えるはずだ。同居する素性不明の小娘は、不遜な冒険の前科はあるけれど、歴然と島崎の生命を的にかけている者にしてみれば、人質に取ってもお荷物以外の何者でもない。島崎さえここにいなければ、巻き添えになる可能性はきわめて低かった。
 バスを降りて島崎は飄然とコンドミニアムの玄関をくぐった。
 「ネギ!ネギはおらぬか」
 黄ばんだ陽光が差し込む居間では、太った猫と毛並みの悪い雑種犬がきょとんとした顔で自分たちの飼い主と近しい間柄の人間を見上げているだけで、人影はなかった。チャトチャクへ立ち寄ったのは、直接有佳に手渡したい書類があったからだが、或いはひと目、その顔を見ておきたかっただけかも知れない。
 腹いせというわけでもなかったけれど、島崎はおもむろに食器戸棚をあけて、缶詰のいくつかを引っ張り出し、トレンチコートに包み込んだ。そして恨めしげに身を摺り寄せてくる雑種犬の背中をなでる。
 「ちょいと借りるぞ。お前さんの飼い主さまは金持ちなんだから、また新鮮なのを買ってもらえや」
 外へ出ると、尾行者は植え込みの縁に腰を下ろしていた。軽薄な外観に似合わず執念深い性格が取り柄らしい。ふたたびバスに乗りこんだ島崎が二人掛けの席に座ると、にわか探偵は心に驕りがうまれたのか、豪胆にもその傍らに座を占めた。ただ、いざ目標と肩を接してしまうと否応なく無関心な様子を取り繕う男は、マークする相手が薄ら笑いを浮かべて靴紐を結び直しはじめても、不自然な仕草を直視することができなかった。掏りの特技を持つ島崎は、カーブを曲がりきったバスが大きく横揺れしたところで、一見意味のなさそうな挙動を切り上げた。
 沢村に告げた住所に偽りはない。島崎は尾行を引き付けたまま、バスからモトサイタクシーを乗り継いで、ラップラオ六十四ソーイのゴールデンゲートアパートメントへ戻った。駐車場の一角で退屈そうにしていたガードマンが漫画本を置いて、人懐っこく、にこやかに挨拶した、
 「ごきげんよう、チマ兄さん」
 もちろんガードマンはただちに見慣れない背後の男に警戒を露にした、
 「あの男は友達ですか?」
 「私はもうすぐ三十四歳だよ。あんなチャラチャラした友達がいてたまるか。さっきから“甘い上物がある”とか言って五月蝿くつきまとう。あいつはいったい何者だろうか?」
 するとガードマンは色めき立ち、鼻息荒く小声でいった、
 「それはタチの悪いパウダーの売人です。あいつは兄さんにブツを売りつけてひと稼ぎしたあと、その足で警察へ駆け込む気でいるんです。密告料がもらえますからね。二重の儲けだ。日本人はよく被害に遭うそうです」
 よく聴く話しである。
 「うひゃ。そいつはたいへんだ!どうしよう?」
 大げさにうろたえてみせると、意気込みまくる三流夜警は一世一代の逞しい顔をつくった、
 「まかせなさい、チマ兄さん。私が所轄の警察に通報してあげます」
 所詮は警察を呼ぶのが関の山だった。
 「よろしく頼む。でも、おまわりが来ても、外国人は立場が弱いんだから、決しておれの名前は明かさないでほしい」
 「心得ておりますよ。ご安心なさい」
 戸川殺しの手配書は、すでにバンコク全域の警察署にまわっているものと考えていい。所在確認の報告でもしているのだろう、歩道で身体をゆすりながら携帯電話をかける暢気な男の姿を一瞥し、島崎は自室へ引き上げた。
 部屋の様子は、ほぼ半年前、有佳と暮らしていた頃と変わりがなかった。建付けの衣装棚から二重底の玩具箱を引きずり出すと、五十発の銃弾がはいったボール紙の箱を掴み出し、電子ライターを改造した手製の起爆装置をありったけディパックにつめこんだ。
 この国の警察には、凶悪犯を娑婆に泳がす場合、故意に手荷物検査を控える場合がある。逮捕した際の功名をすこしでも引き立てる演出という場合もあるが、島崎については何らかの抵抗手段を与えておいたほうが、真の目的である「止むを得ない処置」を正当化する。沢村も病院事務所に預けてあったパスポートは没収したものの、島崎が新古品のベレッタをしのばせているディパックまでは調べようとしなかった。
 チャトチャクへ連絡をいれておこうと思った。五月は学校が夏休みである。ほんのすこし外出していただけなら、有佳はもう部屋に戻っているかも知れない。島崎はベッドサイドに置かれた、めったに使うことのない旧式の青いプッシュホンに手をかけた。
 『康くん?』
 有佳は帰っていた。
 「元気にしているかい、ネギちゃん?」
 島崎は上機嫌に受話器へ話し掛けた。
 『いまどこにいるの?』
 無感動な有佳の問いかけを、抑揚を欠いた男の声がしりぞけた、
 「いますぐ柳田に手紙を書くんだ。俺と一緒に写っているスナップがあっただろう。あれを同封してだな・・・」
 『どうしたのよ?急に』
 「征ちゃんご本人がタイへ迎えに来てくれるよう、便箋には愛と真心をこめるよう、懇望する」
 それだけ言うと、島崎は受話器を置いた。
 路上で騒ぎが起きていた。ガードマンの通報で駆けつけた警官たちが、アパートの前でふらふらしていた挙動不審な男を取り押さえたようである。
 「わたしはまったく存じません!」
 「それじゃいったいこれは何だ?いいから署まで来るんだ」
 遠く、そんなやりとりが聴こえてきた。尾行の男はズボンのポケットからヘロインの小袋を抜き取られ、鼻先に突きつけられているに違いない。
 「ふむ、ふむ。じつにいい声だ」
 鼻歌交じりに島崎は片方の靴下の内側に残っていたヘロインの小袋をベランダから裏の空き地へ投げ捨てた。シーナカリンの資材置き場で焼失をまぬがれたサンプルだった。厄払いがすむと、自動拳銃の弾倉に実弾を装填した。
  “あたしが死にます。あなたの夫は、身寄りのないあたしを助けてくれたんです”
 暇を見て手入れは怠っていなかったけれど、この有佳が自殺をほのめかせて胸に突きつけたことのあるピストルに弾をこめるのは、これが初めてだった。
  “...やめなさいっ!どうしてあなたがあんなろくでなしの潔白を訴えてに死ななきゃいけないの!論理に整合性が認められないわ”
 半裸の有佳にしがみつき、うろたえきったステファニーの悲鳴も蘇る。すべてはこの部屋の壁や床に刻み付けられた記憶だった。
 「・・・ったく。どっちも、そそっかしい女だね。でも、よく似ているよなあ、あいつら」
 銃口を外に向けて照準を見測りながら島崎は相好をくずしていた。この部屋で繰り広げられた女同士の揉み合いが、ずいぶん昔の情景のように思えた。
 「平成の冴木有佳か」
 本国では死亡宣告まで受けた失踪者だが、有佳はこの南洋の都会で人格を自由に開花させ、着実に住人としての実績を積み重ねている。故意に突き放したりもしたけれど、すでに島崎を束縛する付属品ではなくなっていた。かつての同級生に対する教育方針は、まずまずの及第点。大きく間違ってはいなかった、と自己採点していいかも知れない。
 物思いを振り払って、拳銃を仕舞い込みながら島崎はおもむろに立ち上がった。尾行者は何も知らない警察官が連行して行ったけれど、長居は無用だった。駐車場に降り、勇敢なガードマンに大袈裟な労いの言葉を織り交ぜながら、部屋で見つけた新品の、ただし賞味期限が切れたマイルドセブンを三個手渡すと、島崎は近くのはしけで十バーツの切符を買い求め、まもなく滑り込んで来たスピードボートへ飛び乗った。

 トラックのエンジンを転用したやかましい小船から眺めるバンコクは、水の都の面影を辛うじて留めていた。椰子やバナナの木々が好ましい日陰を作り、水草が覆い茂った岸辺には、焦げ茶のチーク材で組み立てられた人家がならんでいる。赤い瓦を葺いた急勾配の屋根が、陽光に白くひかっていた。はじめてインドシナに来た頃に見た景色が、川面を疾走するボートのまわりを行き過ぎる風景とそっくり重なり合う。知り合いの中には、井坂もいなければ、ステファニーの名前もない。ソムチャイ・ポラカンとて、この鮮烈すぎるベールで被覆された魔都の底に生息する怪物たちの一員に過ぎなかった。晴れがましい孤立感を満喫して、十八歳の島崎は、きらめく汚水の飛沫に身をゆだねた。あれから十六年が経とうとしていたけれど、この水路を使う人々には、今日も陰湿な悪意が感じられなかった。
 島崎がいかにもうっかりした仕草で携帯電話を水面に落っことすと、後ろに座っていた朗らかな顔立ちの若い女がお悔やみを言うような表情で自分の携帯電話を差し出してくれた。悲しげな照れ笑いを浮かべ、盗聴されていた代物を体よく処分した日本人は、恭しく礼を述べて安全な電話機を拝借した。
 「タロか?」
 スピードボートのコースはラマ九世通りの下をくぐっている。渋滞のない水路だから、時間はおおむね正確に読むことができた。
 「今から二十四分後、ラマ九世の桟橋に接岸するプラカノン行きのスピードボートに乗っている。すまんが、例の図面を頼む」
 コンクリートで縁取られた水路を幾度となく直角的に曲がっていくと、やがて大きなクラフト封筒を抱えてはしけに佇むサファリ姿の蟹男が見えた。タロも船上の島崎を認めたらしい。船が接岸すると、まよわず隣の座席に潜り込んできた。
 「日本人は受難続きだな」
 そっぽを向きながらタロが言う。エンジン音がうるさいので、その声は前後の客の耳には届かない。島崎は何も答えなかった。封筒を島崎の膝に乗せて、タロは細い目を余計に細くした、
 「チョンブリの土建屋で働いていたやつからの貰い物だ」
 「これが一番新しい図面だな?」
 「ああ。去年の夏に改装工事した際の見取り図だ」
 口元をほころばせる島崎は、進行方向で跳ね上がる水しぶきを眩しそうに見つめながら、最後に会った夜に鈴木がよこしたカセットテープをタロに押し付けた。
 「おまえの仲間に無線マニアがいただろう。そいつに言って、いますぐFMクリッサダーの電波に乗せてやれ」
 バンコクの路上で渋滞に巻き込まれているドライバーは、多くがラジオのチューナーをFMクリッサダーにあわせている。このFM局は、車を運転中のリスナーが携帯電話で参加するナマの交通情報で人気を集めていた。
 「放送ジャックか」
 FMクリッサダーの欠陥は、悪意ある無線マニアが割り込ませる電波に弱い点である。
 「やり方次第でお前にも美味しい分け前があるはずだ」
 「で、これ何?エロテープ?」
 「いかがわしさは変わらないけれど、日本人のおっさんたちの密談だよ。クリッサダー局が復旧策を打ってくるまで、構わないからずっと流しつづけてくれたらいい」
 備中興産タイランドの勤勉なメッセンジャーは、愚連隊の一党を率いる頭目の風格を取り戻していた。スパキットの屋敷の図面を求められ、沢村を炙り出せ、と言われれば、事新しく尋ねることはひとつもない。自らのチョンブリへ手向ける野心を触発されて、島崎と利害の共有を確認したタイ青年はほくそえんだ、
 「日本語のわかるリスナーが正確に翻訳してくれたら十万バーツの賞金をやる、って呼びかければ余計に騒ぎが大きくなる」
 「やり方はお前にまかせる。気をつけてな」
 クッションに古タイヤをくくりつけたペッブリ通りの桟橋が見えてきた。タロは身を起こすと、
 「幸運をな、チマ兄貴」
 簡潔に暇乞いして、下船した。






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