* この物語はフィクションであり、登場する人物、企業、
団体、一部政府機関の名称は架空のものです(著者)。




第三十話




 ゆうべは“ラブホテル”で若い美女とふたりきりで過ごした島崎だが、よしんば彼が稀代の好色漢であったとしても、旭芳には指一本触れるわけにはいかなかった。得体の知れない人間と寝床を共にすることには抵抗がなくとも、国ぐるみの倫理の強要が徹底した中国人民は、そこから一歩逸脱してしまうと、おそるべき制裁を加えてくる。密航者とてそれは同じ事、徐旭芳を無事カナダへ送り込んでも、陳は報酬を手に出来ないばかりか、莫大なペナルティを支払わなければならなくなるのだ。
 もっとも、井坂を撃たれ、戸川を始末された島崎に、そんな気など起こりようもなく、珍しく向上心を備えた密航予備軍の英語の練習に付き合ったりすることで、血生臭い葛藤をまぎらわせた。だが、ここでの平和も長続きしなかった。カーテンの隙間から外の様子を伺っていた島崎は、いつものように忙しなくパスポートの束をあらためる男に言った、
 「おい、陳さん。囲まれているぞ。見るからに大陸系のガラの悪いやつらが駐車場をうろうろしている」
 青眉の連中だった。彼らは蛇面の女ボスの足取りを調べているうちに、この連れ込み宿へ辿り着いたらしい。陳は平然とうそぶいた、
 「あの人たちが用があるのは島崎さんだよ」
 劉に稼がせる代わりに彼らを犠牲にし、スパキットのヘロインに火を放って抗争を煽った日本人にしてみれば、ずいぶん後ろめたい相手である。
 「敵中突破をかける。場合によっては、すまんが、陳さん、おれと一緒に死んでくれ」
 「わたし、関係ない、って言ってるでしょ。わたしは華僑だよ。“華僑自殺せず”という言葉を知らないか?」
 「じゃあいいよ。あんたはひとりでここに残れ」
 はじめて不安そうに陳は訊いた、
 「わたしはどうなるのよ?」
 「悪者華僑のくせに、そんな簡単な結末も想像できないのか?攫われたらただじゃ済まない。明日の朝にはチャオプラヤ川に浮かんでいる」
 「やっぱり、いっしょに逃げる」
 「よし。それじゃこうしよう」
 部屋には、華奢な体型の徐旭芳にはサイズの合わない女物の服がたくさんあった。こういった場所にある衣類は、たいがい密航者本人のものではない。台湾のパスポートを使う者には台湾人らしい服を組織が与えるのだ。黒いレース生地をふんだんにあしらったいかがわしいブラウスを摘み上げると島崎はいった、
 「これを着て、口紅をさすんだ」
 剽悍な青年を演じる島崎は、女の格好をした丸っこい体型の中年オヤジ陳と寄り添って、廊下をうろつく青眉から露骨に視線を反らしつつ、脱出した。あまりにもグロデスクな同性愛者に、青眉の面々は哀れがましい眼差しを向けただけで、誰も近寄ろうとはしなかった。だが、外の路地に出たところで、福建訛りの叫び声がきこえた、
 「いま出て行ったピエンタイ(変態)だ!」
 島崎は舌打ちした、
 「しまった。もうバレたらしい」
 「バレるよ、これじゃ。どうするのよ?」
 「ええい、逃げるしかないじゃないか。陳さん、気持ち悪いから、はやくそのごっつい手をどけてくれ」
 島崎に腕を振り払われると、陳は走りながら唇を拭ったブラウスを路上に捨てて、ズボンの前をもっこりさせていたTシャツを着込んだ。
 「遅いぞ」
 省みて島崎は叫んだが、背後を見て、目の色が変わった。一方の陳は、何かに躓いて転んでしまった。
 「それでいいんだ、陳さん」
 島崎も路面に身を投じた。ホテルの門前にならんだ十丁あまりの銃口が、一斉に火を噴いた。コンクリートの路面が着弾ではじける。つぶてを浴びて、いつも冷静な陳が涙声でさけんだ、
 「殺されちゃうよ」
 「あんなへなちょこ弾、あたるもんか」
生命からがら物陰に飛び込むと、反対側からも夥しい銃声が轟いた。小豆色の制服にツートンカラーのヘルメットを被った警察官の一団が、自前で揃えたコルトやマグナムといった良い拳銃を構えて不良外国人に襲い掛かったのだ。不審者の群れが現れた、とホテル側が通報していたのだろう。銃撃戦の最中、サングラスをかけた警官のひとりが、孤立し、じっと息を潜めるふたりの男を見つけて訊いた、
 「きみら、大事ないか」
 タイの警察には、ごく稀に、正義感あふれる者がいる。島崎と陳は姿勢を揃えて慇懃に頭を下げた、
 「お心遣い痛み入りやす、ラマ一世通りの旦那さん」
 島崎の発音を聞きとがめ、警察官は使命感も露にいった、
 「外国人か。諸君の身の安全はタイ国警察が保障する。ここでじっとしているのだ」
 「いえいえお気遣いなく。私たちは勝手に逃げますから」
 「そうそう、思う存分わるいやつらをやっつけてください」
 札付きの企業ゴロと変造パスポート屋は愛嬌を忘れなかった。たまたま通りかかった車椅子を楯にして、ひとりの警官が青眉の陣地へ突っ込んだ。
 「おい・・・あの車椅子、人が乗っていたぞ」
 新手を加え、警察側が青眉を圧倒する市街戦の様子をのぞきながら口走る島崎のわき腹を小突き、陳はいった、
 「そんなことはいいから、はやくこの場を離れよう」


 ドクターこと滝基則の事務所は、ニューペッブリ通りの東に聳える真新しいタワービルの上階にあった。
 一ヶ月の家賃が三十万バーツという触れ込みだけあって、バンコクらしからぬ洗練が隅々にまで行き届いた広いフロアと、西洋絵画をはじめ滝自ら選んだ装飾品の数々が、アンコールワットで盗掘されたとおぼしき石仏と同居し、独特の格調を編み出している。滝が執務を行う七十坪相当の会長室は西の端にあり、バンコクの一大パノラマが展開する窓と敷き詰められた鮮やかなグリーンのカーペット、それに机の後ろに控える黒糸威の鎧兜が、訪れる者を圧倒した。
 「篠塚さんには、大人しく身を引いて頂けたようですかな」
 白いスーツをまとう滝が話しかけたのは、日本では作詞家の肩書きを持つ変造パスポート屋、八田英一郎だった。芸能界という華やいだ世界で慣らした八田は、がさつな豪傑タイプが多いバンコク裏日本人会で、洒落者の滝と気が合う少数派の頭目だった。
 「手を焼きましたが、シーナカリンの一件で、本国の取引先から信用を失いました。当分は鳴りを潜めざるを得ないでしょう」
 物静かに語る作詞家は、薄ら笑いをしのばせて、盟主に訊ねた、
 「自分の家の近所で起きた出来事ですが、あの事件は、どうも合点がいきません」
 「と、言うと」
 首に巻いた赤いスカーフを撫でると、八田は表情を崩さずに言った、
 「青眉の仕業なんでしょうか」
 「さあ。巷でそのように言われているのですから、おそらく、青眉の仕事でしょう。いずれにしても、篠塚さんの封じ込めに役立った。我々は余計な詮索をせず、風聞にしたがえば良いのではありませんかな?」
 およその真相について、察しのつかない滝ではない。この町に住む日本人の中には、ああした荒業をやってのける者が何人かいる。該当する知り合いも、いないわけではない。しかし、被害者であるスパキットと滝や八田の関係は微妙だった。平地に乱を求める必要はない。スパキットが青眉に敵意を向けていているうちは、戦況も安定し続ける。
 「なるほど。おっしゃる通りです」
 八田は、その場で好奇心を嚥下した。
 「さて、問題は福原さんですか」
 滝にとっては、敵対している福原も、事務処理級の案件に過ぎなかった。
 「あの組織は、ここへ来て、だいぶ発展したようですね」
 「おもだった事業者の顔ぶれは変わりません。それでも、食い詰めた観光客を大勢かき集めています。所詮は烏合の衆ですが」
 「勢いは、軽視できませんよ。八田さん」
 実態は大したことがなくても、大勢力という自己暗示にかかってしまったら、実力以上の力を発揮しかねないのが人間である。こと、日本人には、そんな傾向が強い。
 「悪い芽は、早めに摘んでおきますか」
 八田は退屈を持て余していた。
 「わかりました。私が、分断工作してみましょう」

 八田の攻撃は迅速だった。
 まず、見せしめとばかりに一党の中でも特に威勢の良い若者が、ヘロインの不法所持容疑で逮捕された。本人にしてみれば濡れ衣だった。突然、ゲストハウスの個室に二人組の警官が現れ、家宅捜査をはじめた。一体何事かと、若者が警官のうち友好的なひとりに事情を問いただしていると、浴室に立ち入っていた無愛想な警官が手際よく物件証拠を発見した。プラスチックの小袋に入れられた、カオサン界隈ではおよそ入手できないような高純度のヘロイン1gが、釈然としないで佇む若者を自動的に無期懲役のベルトコンベアに載せていた。
 ひとりが囮となって、被疑者の詰問をのらりくらりとかわしている隙に、もうひとりが隠し持った「証拠品」を、いわゆるマッチ・ポンプの原理で見つけ出す。意図的に罪人を作らなければならない際、タイ警察がよく使う手である。
 なお、在外公館をはじめ、日本政府は相手国のご機嫌を尊重する姿勢を一貫して貫いているものの、不当なあしらいを受けている自国民を救う意識が希薄なので、今でもタイ国内の刑務所には、こうした冤罪によって出口の見えない懲役刑に服している日本人の数は、決して少なくないはずである。おまけに今回は、邦人保護の担当官が、陰謀をめぐらせた側についている。タイではクスリを持っているだけであっても、人を殺すより罪が重い場合がある。捕まった者は、経緯がどうであろうと、救いの手は期待できず、無期懲役を覚悟しなければならなかった。
 もっとも、お縄を打たれる側にも危機管理意識の低さ、という、自己責任がある。
 八田の息のかかった官憲に、真っ先に槍玉にあげられるのが筋の、リーダー格の弦巻は、こんな事態を見越していたらしく、胡乱なアルバイトが始まると同時にゲストハウスを引き払い、サリカ茶房の事務所に寝泊りしていたので難を逃れた。不特定多数の人間が出入りする場所では、如何に悪徳警官といえども、咎人が限定される犯罪を演出するのは難しい。生贄にされた若者は、自分がどれほど危うい綱渡りに参加しているかを理解せず、気ままなバッグパッカーの本分に従ったライフスタイルを崩そうとしなかった。
 八田の打った第一の布石は効を奏し、生半可な心がけで傭兵になっていた連中を震撼させた。多くの者が逃げるように帰国していった。
 一方、バンコクで事業を営む幹部の面々に対しても、単刀直入な寝技が繰り出された。福原に与している、とは言っても、資金の流れは複雑である。国境のない金銭には、当然派閥もなかった。福原グループの事業家に債権のあるモグリ金融屋が集められ、資金回収を急がせた。もちろん、子供騙しの条件がつく。要は福原から離れれば、むしろ融資の面で優遇され、沈黙を約束すればこれまで通りの取引が続く。しがらみゆえに不利な条件をのむ者が多かったけれど、それでも水面下における落伍者や内応者の発生は否定できなかった。勢いに乗ったかに見えた福原の帷幕に疑心暗鬼が漂い始めた。


 いつまでも康士のお荷物でいたくない、という自尊心が、有佳を突拍子もない行動に駆り立てた。昭和の刑事ドラマを参考に、カメラを抱えて日本領事館の張り込みをはじめた。とは言うものの、細かな探偵の技術などはまったく知らない。さしあたって、反対側のビルの敷地でカメラを抱え、領事館に出入りする不審な人物を手当たり次第に撮影した。領事館が入っているタワービルには、一階に査証申請の代行業者やら、国際結婚の相談に応じる業者がテナントを構え、その軒先では、見るからに胡乱な大人たちが、何をするでもなく、白昼からぶらぶらしている。タイ人もいれば、日本人らしい人物もいたが、どれも悪者に見えて仕方がなかった。
 そうして小一時間も経ったころだろうか、男の声が、有佳を背後から呼ばわった、
 「タムアライユー、ヌゥ(きみ、何をやっているんだ)?」
 立っていたのは沢村だった。心臓がせり出すような恐怖に有佳は身じろぎひとつできなかった。
 アレックスに雇われた失業カメラマンが、ゴールデンゲート・アパートメントで撮った写真を思い出す男の眼鏡は、冷たく炯っていた。
 「何を撮影していたんだ?」
 蛇に睨まれた蛙の心境とは言いえて妙だった。有佳はひたすら言葉に詰まった。
 「カメラを渡して、一緒に来なさい」
 邦人保護を担当する領事は、迷子とも見える少女を先に歩かせて、たむろする人々の挨拶を受けながら、エレベーターに乗り込んだ。日常的な光景なので誰も注意をはらわない。領事館は九階だった。ところが、沢村が押したボタンは先頃入っていたテナントが倒産したばかりの最上階だった。


 仕事のために持ち歩く電話というのは良い話がめったに来ないものだが、かくべつ悪い情報は呼出音でそれとなく察知がつく。タロの番号を表示する島崎の携帯電話はそんな鳴り方をした。
 『兄貴。前にいっしょにプラカノンへ来ていた女の子がサワムラに捕まったぞ』
 「なんだと」
 『でかいカメラを持って手当たり次第にエージェント連中を撮影しているんだ、あれじゃ目立つし、ヤバくておれも声なんか掛けられないよ。彼女はいま、領事館の上の階に軟禁されている』
 タロが選んだ判断と行動は正しい、と思った。どうしてその場で有佳を助けてくれなかった、と喉まで出かかった怒声を飲み下し、井坂狙撃事件に端を発する退避行動の切り上げを即断した島崎は、落ち着き払った声で問いただした、
 「おまえも領事館を張っていたのか?」
 『社長が病院じゃな。会社でも、みんな好きなようにサボってるよ』
 備中興産タイランドは開店休業に近い状態らしい。
 「領事館の監視を続けてくれるか?」
 『もちろんそのつもりだ』
 車やバスを使えば一時間はかかる道程も、ソーイの角で辻待ちするモトサイ・タクシーなら二、三十分で現着する。渋滞が始まっているラップラオ通りの歩道を歩く島崎の足は、控所でタイ将棋に興じるゼッケンの一団に向けられていた。
 「そっちに着き次第、おれは裏の非常階段からかち込む」
 もしタロが沢村と有佳のあいだに割り込んでいたら、事態は更にややこしくなるし、こうして連絡を受けられるという保証もなかった。
 「すまないが、きっかり三十分後にアソク通りで、何でもいいから領事館を混乱させるような“不測の事態”を起こしてくれないか」
 携帯電話で妙なことをしゃべる外国人を、四、五人の浅黒い顔が見上げていた。電話向こうのタロは答えた、
 『不測の事態?時間もないし難しい注文だが、よし、何か考えてみるよ』
 この男の悪知恵はあてになる。電源を切って島崎は男達に言った、
 「いちばん腕が良くて、度胸のあるやつは誰だ?人間の生命がかかっている。間に合わなかったら、バイクに手足を縛り付けて運河に蹴り落すが、三十分以内にアソクへ行ってくれたら一千バーツ払う」
 失敗を考えない男達は、色めき立って全員が手を上げた。 


 一見地道なサラリーマンといった風貌だが、目つきの悪いふたりの男が有佳の見張りにつけられた。領事館は終業時間をまわっていた。沢村が表の業務に区切りをつけるため、一旦九階へ降りて行くと、片方の男が無駄口を叩いた、
 「こんな娘っ子のお守りをさせられたんじゃ、何だかせこい誘拐犯人になった気分だ」
 すると、もうひとりが声を潜めていう、
 「いまは沢村についているがよ、どうもこの勝負、軍配が上がるのは福原みたいな雲行きだぜ。篠塚は滝に追い出されちまうし、片岡と八田はすでにサリカに色目を使っているらしい。スパキットは生き残ったほうと手を組む気でいるからな。だからおれたちも、このガキを手土産に福原側へ寝返るってのはどうだ?」
 ふたりの男は猥雑な忍び笑いをもらした。
 「ばかを言え」
 最初の男が真顔に戻って、机に置かれたカメラを見た、
 「この娘はな、あろうことかこちらの写真を撮っていたんだぞ。沢村は何も言わないが、こいつにはどんなバックがいるかわかったもんじゃない。用心しなきゃな」
 しかし、この男達は何気なく交わした自分たちの軽口を反省するまでの配慮はなかった。
 カタオカって人とハッタって人がフクハラって人と密約?・・・猿轡がなかったら有佳は思わず問い返していたに違いない。階下から戻ってくると、沢村は少女の口を解放し、二人を別室へ退去させて尋問をはじめた、
 「島崎康士だろう、君に張り込みを命令したのは?」
 「ちがうよ。あたしが勝手にやったんだから」
 「なるほど、ネイティブな日本語だ。きみは日本人だったか」
 有佳はまんまと、国籍を確かめようとする沢村の誘導尋問にひっかかっていた。
 「華僑の娘さんではなかったわけだ」
 国際問題の発生は回避された。安心して沢村は続けた、
 「もう一度訊こう。何を撮影していたんだ?ん?」
 「・・・」
 「ふん。黙秘権も教わったか。しかしこのままではきみを家に帰すことはできない。きちんと身元を調べて、日本の女子少年院へ直行させる事だって、できない相談じゃない」
 まるで身に覚えのない「少年院」という言葉が、有佳の視界からしばらく光をうばった。
 「島崎からどんな脅され方をしているのか知らないが、まあ、どうすればきみのために一番いいか、よく考えてみるんだね」
 「康くん・・・島崎さんは、領事さんが考えているような人じゃない」
 搾り出すように、有佳はいった、
 「素直に、自分の気持ちがいえないだけ。やりたくない喧嘩でも、ついつい引っ込みがつかなくて、やっちゃうだけ」
 「ずいぶん大人のことが解っているんだね。しかしそれは何も島崎に限ったことではないんだよ」
 沢村の口調は無機質だった、
 「おそらくきみは騙されている。簡単に言ってしまえば、島崎康士というのは、人間を殺し、国や社会を破壊するために作り上げられた戦争の専門家だ。たとえ近くで仲間が傷ついたって、目的遂行のためには平気で見殺しにする男だ」
 有佳は唇をひらいた。ビアガーデンで井坂が撃たれても、康士は即座に犯人の男を追い駆けて行ってしまった。普通ならば、“井坂さん、大丈夫ですか!”の一言があってもいい場面だった。想像を絶する康士の二十二年が、有佳の頬から紅涙を転がり落とした。
 「わかってくれたようだね」
 少女の涙を読み違えた沢村がボールペンを拾い上げたその時、低い物音が響き、ややあって見張りのひとりが蒼白な顔で飛び込んできた、
 「バキュームカーが、つまりその、ナニを満載した車が、一階のテナントに突っ込みました」
 「島崎か!」
 沢村は立ち上がって叫んだ、
 「被害は?」
 それは備中興産タイランドで働くひとりのメッセンジャーが仕組んだ“不測の事態”だったが、もちろん一党には事実を知る由もなかった。
 「いま相棒が調べに降りました。上から見る限りでは、翻訳屋がめちゃくちゃです」
 篠塚が経営する階下の翻訳センターは、いうなればアンダーテーブルによる査証発給窓口のひとつとなっていた。エージェントにカネを払っていながら出国できない者が大勢いる状況下、或いは領事館でなく、翻訳センターを恨むタイ人の仕業かも知れない。いずれにしても、日本人の店が被害に遭っているのに出て行かないようでは、沢村とて職務怠慢の謗りを受けかねない。有佳に猿轡を付け直し、沢村は残りの男を伴ってエレベーターへ駆け込んだ。ところがだうだろう。明らかに沢村の動きを見計らっていたタイミングで、入れ違いに上がって来たエレベーターのドアが開き、口髭を蓄えた五十男がはいって来た。よれよれのサファリを着た新手の男は、じっと有佳の顔を睨み据え、眦は微動だにしない。そして力任せに有佳を椅子ごと後ろ向きにする。動かされる本人は、恐怖で呼吸が止まりかけた。
 「島崎康士の差し金かい?」
 見た目の凄みとは裏腹に、穏やかな声色で沢村と同じことを訊いた。そしてしゃべりながらも男は手馴れた様子で有佳の縄を解き、猿轡を外していく、
 「・・・・あたしが、勝手に張り込みしたんです」
 フィルムが抜かれたカメラを手にとって男はいった、
 「ニコンか。年代物だが、いいカメラだ・・・これからはデジカメの時代だが、職人芸を追求するなら望遠レンズを使ったほうがいいな」
 自由になった有佳に背を向けて、ずいぶん暢気なことを言っている。
 「おじさんは?」
 「名乗るほどの者じゃないよ」
 カメラを持ち主の胸に押し付けると、厳しい顔で釘をさした、
 「島崎に会ったら伝えておくんだ。携帯電話には気をつけろ、ってな。こう言っては何だが、日本大使館には同時に三千通話を傍受できるからくりがあるんだ」
 「それって、盗聴器のことですか?」
 「人聞きのわるいことを言うもんじゃない。それがあったればこそ、俺は現にこうして君を逃がしてやることができるんだ」
 ペッブリ通りの大使館員らしい。とにかく味方と信じておくしかなかった。
 「裏に非常階段がある。下に降りても決して表通りには出るんじゃないぞ。いま、沢村の手下がうようよ糞水の中を這っているところだ。それから、停まっているタクシーは使うな。ソーイを少し奥へ行ったところで、走っているトゥクトゥクを拾って逃げるんだ」
 言われたとおりに、有佳は非常階段への扉を開けて、一目散に駆け下りた。途中まで降りたところで、上がって来る島崎と鉢合わせした。
 「康くん・・・あたし」
 有無も言わさず、島崎は有佳の頬をひっぱたいた。それでも冷静な口調で囁いた、
 「話しはあとだ。急げ。表通りは敵だらけだ。タロが騒ぎを起こして時間稼ぎしているけれど、もうじきこっちにも手が回って来る」
 島崎の眼差しは、助けてくれた口髭の男のそれとよく似ていた。
 「ユウバンダイっ(階段にいるぞっ)!」
 二階まで来ると、人相の悪い三人のタイ人が見上げていた。
 「離れずに、ついてくるんだ」
 後頭部でしゃべりながら島崎は、踊り場で身構える三人に仕掛けた。両肘で左右の二人の顎を砕き、膝蹴りで真ん中の男の股間を潰した。一瞬の出来事だった。ドブ川を縁取る六十センチ幅の通路にまろび出ると、一列縦隊で襲い掛かって来る敵を次々と腐臭が漂う汚水へ突き落とし、包囲を突破すると橋の上に停まっていたタクシーに迷わず飛び込んだ。
 「康くん。ここに停まっている車でいいの?」
 いみじくも、沢村が指摘した通りの凶暴な破壊力をまざまざと見せつけられながらも、口髭の男の意味不明なアドバイスを思い出して、有佳は恐る恐るいった、
 「トゥクトゥクにしようよ」
 島崎は聴いていなかった。
 「どちらへ?」
 友好的な笑顔がバックミラーから語りかけた。
 「わるいけど、トンブリへやってくれるかい」
 島崎が告げたのは、チャオプラヤ川の対岸だった。
 「お安い御用でさあ」
 渋滞がひどい時刻である。普通の運転手なら嫌がる遠乗りを快諾して、タクシーは走り出した。
 「ごめんなさい」
 有佳の勝手な行動を詰るかのように、否、もうひとつの冷血で暴力的な人格を露にしているとしか思えない島崎は、徹頭徹尾、車内で口を利こうとはしなかった。一時間ばかりのろのろ走り、チャオプラヤー川の橋を渡ると、トンブリの夏草が多い繁った路肩でタクシーは停まった。付近には古ぼけたアパートがぽつんと一軒建っているだけだった。運転手は低い声で確かめた、
 「こちらでよろしいですかい?」
 すると島崎は思いも寄らない行動に出た。突然運転手の首を締めはじめたのだ。
 「なにすんのよっ!康くん」
 泡を吹いてぐったりする運転手を見て、島崎は普段の調子で言った、
 「殺しちゃいないよ。・・・ネギ、運転手さんの右手を見てご覧」
 後部シートからは角度的に見えなかったけれど、その手は黒光りするサブマシンガンの銃把を握りかけていた。
 「無邪気なポン引き雲助にしては、大袈裟過ぎる道具と思わないか?」
 「・・・」
 「こいつはスパキット一家の人間だ。領事館を囲んでいた連中がおれたちを追うのをやめたのは、ようするにまんまと網にかかったと思ったからなんだよ・・・けっ、そんな子供騙しに引っ掛かるかってんだ、べらぼうめ」
 縄を解いてくれた大使館員の警句の意味が飲み込めた。しかも、康士は罠と承知で道傍に停まっているタクシーに乗り込んだようだ。息を呑む有佳を尻目に、一旦立ち去りかけた島崎だったが、にわかに踵を返した、
 「どうしたの?」
 料金メーターを覗き込み、百バーツ紙幣を運転手の胸ポケットに挿し込んで、島崎は言った、
 「料金は、ちゃんと払っておこう」


 嫌悪な空気が重苦しかった。 
 「ヌンが勝手な真似をしたというの?」 
 ステファニーは島崎を睨み返した、
 「いつも勝手なのはコウのほうじゃない!いままで、一度だって考えていることを説明したことがある?自分の思い込みばかりが正しくて、他の考え方はぜんぶ愚かだと言うの?そんなの、日本の言い分そのものよ」
 この家の夫婦喧嘩には、常に互いが背負う祖国の面目が持ち込まれる。島崎がステファニーに、有佳の軽はずみな行動を諌めて欲しかった、と言ったのを皮切りに、その晩の諍いは始まった。
 「いちいち日本を引き合いにするのはやめてほしいね。たとえしがない“亡命者”の身の上でも、こんな場面で祖国をあれこれ論われるのは不愉快だ。おれはいま、“戦争”をしているんだよ。細かな情報は、たとえ味方であっても秘匿しなければならない場合がある」 
 際どい仕事をしている島崎を、ろくすっぽ理由も告げずに呼び出して、挙句、置き去りにした有佳を事件に巻き込ませたステファニーがわるいのか。のこのこ事件を引っ張ってやって来た島崎が悪いのか。おのずと行き着いたビアガーデンの一件では、双方にそれぞれ言い分があった。
 「自分がわかっていたって、他の人がわからなければ、それは横暴以外の何物でもないわ。これだから日本人は、どんなに頑張っても他の国の国民から共感も尊敬も得られないのよ」
 「まだ言うかっ!鬱陶しい観念論はもうたくさんだ」
 とうとう島崎は大声をあげていた。
 軽蔑の面差しで、ステファニーは呟いた、
 「これまでみたいね、私たち」
 口を動かすたびに、自己嫌悪がいや増していた島崎は、聞き慣れた三行半にほっとして、
 「ああ。世話になった」
 と言い、有佳の肩を小突いた、
 「おれたちは日本人だから、ここを出て行くぞ。ヌン先生に暇乞いの挨拶をしな」
 しかし、向けられていたのは冷たい眼差しだった、
 「あたしはヌンさんと一緒にいるよ」
 島崎は口を閉ざした。
 「あたし、康くんと一緒に死にたくないもん」
 年齢を重ねただけの子供と、子供になりきれる大人は同格ではない。前者は後者を自分の同類と見なそうとするから子供なのであり、後者は前者の思い上がりを許せるから大人なのである。脈絡なく、島崎はそんなことを想った。
 「勝手にしろ。じゃあ元気でな、あばよ、お二人さん」
 井坂が撃たれた。有佳もおせっかいを焼こうとするあまり、おそろしい経験をした。島崎に深く関わる人間たちは、およそみんなろくな目に合わない。憎念は、自信のなさが惹き起こす。自ら恃むものがあれば、安易な対立へ暴走するエネルギーも生まれない。喧嘩は、いわば清算の手続きだった。
 クローゼットから薄汚れたレインコートを引っ張り出すと、男はそのまま廊下に出た。
 「康くん!」
 有佳は呼び止めたが、島崎は省みなかった。それでも、自分より、小面憎くもいとおい女を選んだ同級生の判断力に、適正な安定感をおぼえていた。






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