* この物語はフィクションであり、登場する人物、企業、
団体、一部政府機関の名称は架空のものです(著者)。




第二十六話




 硬く閉じられたドアを乱暴に叩き、島崎はわめいた、
 「老板(ボス)は何処に有りや?島ちゃんは、知らんと欲す」
 青眉の動きが気になり、シーナカリンのホテルからシルクセアタへ直行した。陳本人がいるものと思っていたら、店で寝泊りしているバーテンダー兼業の用心棒がTシャツ姿でまろび出て、煩そうに、それでもあっさりと陳のアジトを教えてくれた。気まずそうな面持ちでタクシーを拾い、ソーイの名前を告げると、
 「”ナンバー・ホテル”へやってくれ」
 と、数字を言った。
 「あそこはよくない。やめときな」
 ルームミラーから訝しげに運転手はいった、
 「コドモはババアばかりだぞ」
 数字がそのまま名称になっているホテルは連れ込み宿である。しかし、その多くは娼婦の置屋も兼ねており、ひとりでやって来る寂しい客に対応している。午前中から鼻息荒くナンバーホテルへ駆け込もうとする島崎が、その手の客と思われても、運転手を詰る謂れはない。
 「いいんだ。おれの趣味は風変わりなんだから」

 場違いなオーベンのを身に纏い、薄暗いカウンターで番をしていた女従業員は、色白だが、顔の造作が大雑把な華人だった。“台湾人の友達だ”と自己紹介する日本人を品定めして、納得し、鍵を片手に煤けた廊下を先導した。
 「陳はいないがすぐ戻る。いまはコドモがひとりいる」
 華語訛りのタイ語が、ドアをあける女の素性を暗示していた。そこは埃っぽい部屋だった。ばかばかしく大きなベッドと壁一面に貼られた鏡が淫蕩なホテルの証しである。
 洗面所から、カぁーッペッ!と汚い音がした。
 年寄りでもいるのか、とのぞいてみると、二十歳前くらいの可憐な乙女が現れた。
 「老板の友達だから、心配いらない」
 カウンターの女は温州の言葉で島崎という日本人の来訪を告げると、部屋を出て行った。娘は人見知りしない性格らしく、来訪者にソファを勧めると、にこにこしてベッドに這い上がり、天井から吊るされたテレビを観る。タイ語はさっぱり解らないが、他に何もすることがないので、ひねもすブラウン管を眺めているのだろう。そうするうちに、渋い面持で陳が戻って来た。
 「この姐ちゃんは、誰?」
 挨拶代わりに島崎は訊いた。
 「わたしの外甥女(姪)」
 「うそをつけ。顔に”中華人民共和国謹製”と書いてあるぞ」
 こんな可愛い顔をして、あんな物音を立てれば、”お里”が知れる。出身地は、温州か福建あたりであろう。
 「そう。”ブタの人”」
 案の定、北米大陸への不法入国をめざす密航者、ルークムウ(仔豚)だった。バンコクにはこの種の待機者が大勢“走”の日を待っている。
 「姪という触れ込みで、トロントの空港まで連れて行く」
 「トォシャン(投降)か?」
 ふつう、大陸系中国人はアメリカに入りたがる。しかし合衆国の各州は軒並み亡命を認めていないので、他国の変造パスポートや入国カードなどの正規書類を整え、通り一遍の入国手続きを経て、潜り込む。その際、贋物であることが露見すれば、もちろん振り出し地点へ強制送還される憂き目を見る。しかしカナダの場合だと、政治亡命を認めている州がほとんどである。トロントを州都とするオンタリオ州も例外ではない。さしずめこの女ルークムウは、カナダ到着後、イミグレーションの手前にあるトイレに飛び込み、所持していた台湾護照(パスポート)や航空券など、かりそめの身分証明書や渡航履歴を割り出す手懸りを完全に処分しながら息を潜め、数時間後、おもむろにイミグレーションに出頭するのである。
 身柄をおさえられても、どのみち英語を流暢にしゃべれない彼女は黙秘を決め込めばよい。すると間もなく、予め密航組織が手配しておいた移民法専門の弁護士があらわれ、亡命手続きを踏み、投降者は釈放されて娑婆に出る。あとは二重底トレーラーに押し込められて、国境を越えるのだ。
 「いつ出発するの?」
 「いつでも飛べるけれど、まだ決まっていない」
 仏頂面の陳はブリーフケースをベッドに投げた、
 「タイ人の組織が失敗ばかりするから、空港のガードがまた厳しくなっちゃったよ」
 一般的なタイ人エージェント組織はどこもこじんまりしている。ボスがいて、アシスタントがひとりかふたり、そして必ず顧問面した警官がスタッフに混ざっているものだ。彼らは以前、タイ産の”雌鶏”を西欧諸国やオーストラリア、それに日本へ送っていたが、顧客の国への入国基準がやかましくなると「持前のノウハウ」を活かして中国産の”子豚”を扱うようになった。
 そもそも、一般の中国人民が本土から直接空路で先進国へ潜り込むのは不可能である。そこで、一旦政府が観光旅行を認めているタイへ出国し、ここを振り出しに成功するまで何度でも”走”を繰り返す。一度や二度の失敗で懲りたりはしない。理屈はすごろくと同じだった。ところが、タイから北米へ行くルートもかなり複雑だ。用心深く、幾つかの経由地をまわりながら、すこしずつ接近していかなければ成功は覚束ない。
 「タイ人のボスは、一度成功すると、毎日同じルートで飛ばそうとする。ところが空港の人もばかじゃない。すぐ防禦を固めて道が潰される。台湾人や日本人の組織だったらきれいに百人くらい飛ばせるルートも、タイ人に使われると十人でクローズだ」
 ”馬”兼業の変造パスポート屋は、ベッドの娘から目をそらすように言った。 
 「姐ちゃんもかわいそうにな。一日もはやく飛びたいだろうに」
 「うん。大陸のポームウ(父豚=元受)も、毎日ニューヨークにいる彼女の親戚からしきりに催促されているらしい」
 「シナ人にしちゃずいぶん気が短い一族だな、そりゃ」
 およそ靴を履いている人類の中で、大陸中国人ほど現代世界の一般常識から乖離した感覚を持つ国民はいないかも知れない。だが、それだけに行動パターンは面白いほど単純だ。密航を冒しての移住についても、例外ではない。彼らは目的地を決めると、まず一族の中で最も優秀な者が自力で潜り込む。そしてがむしゃらに働き、ある程度の資力ができると、二番目に賢い働き者を招く。今度は二人懸かりで三番目を呼び寄せ、さらには三人が四番目を招聘する。こうしてニューヨークやロンドン、それに東京といった都市には、あっという間に幾千幾万組の中国人家庭が移住してしまったのである。こうしたパターンから容易に推測できるのは、密航する者が順を追って程度が低くなることと、反比例的に各国の警戒態勢が高度化することだ。必然的に、エージェントの存在理由はいよいよ高くなる。
 密航者とその家族が支払う金銭の相場は三万ドル。たとえば在ニューヨークのエージェントが支払能力のある保証人を確認すると大陸で業務を取り纏める大エージェント”父豚”は、指定を受けた密航予備軍を合法的な観光旅行でバンコクへ送り出す。
 ドンムアン空港で”子豚”で引き取るのは、たいがいタイ国籍を有する華人エージェント。そしてこれを実行部隊である地元のエージェントに分配する。バンコクから目的地に入るまで、”子豚”のケアは一切タイ人エージェントの責任となる。待機中の諸経費、航空券、捕まった場合の保釈金、これらすべてを負担しなければならない。だから、少しでも手堅く金儲けさせてくれそうな、つまり手早く密航に成功してくれそうな子豚を歓迎する。こうして各エージェントに配分された中国人は、年齢も性別も関係なく、バンコクの人目に触れにくい安ホテルやアパートに一緒くたに押し込められ”走(出発)”の日まで、ひたすら待機する。
 「わたしはエージェントが本業じゃないからね」
 陳はいった、
 「いま、この女のエージェントが警察に捕まっているから面倒をみているけど、ドンムアンから出られる日がいつになるか、ぜんぜんわからないよ」
 「ボーディングパス一枚もらうんだって大変だろう?」
 タイの出稼ぎ娼婦の流れを追っているジャーナリストは相槌を打った。問題ある旅客を搭乗させると、航空会社もただでは済まされない。直接的な責任が問われる。不法入国を計られた国は、国際航空協定に則って、エアラインに数千ドルのペナルティを請求するのだ。訳ありな旅客にとっては、しかめっ面でカウンターにふんぞり返るイミグレーションの係官より、にこやかな笑顔で旅客の体臭を嗅ぎ分け、パスポートの真贋を即座に鑑定してしまう職員の方がはるかに手強い相手なのである。
 「最近は、片言の日本語でルークムウに話し掛ける空港職員が大勢いるよ。日本の”本”を持っているのに返事ができなければすぐに捕まる」
 陳は続けた、
 「だから、台湾の”本”で飛ぶのが一番安全だ」
 「そればかりじゃないだろう?あんたたちが日本のパスポートを敬遠する理由は」
 日本のパスポートには仕掛けが多い。ブラックライトを照射するとそれ自体が特殊なラミネートフィルムに浮かび上がる桐紋や携帯人の写真、あるいは変則的な綴じ糸のパターン、作成された時期や地域によって活字の大きさが異なる、などという細工も、真贋を判定する材料の一端に過ぎない。タイプが多くなり過ぎて、外務省旅券課の職員でさえ判断できなくなる事態も、笑い話でなく、しばしば起きているのだ。
 つまり一見如何に精巧につくられた変造パスポートであっても、完全ということは有り得ず、イミグレーションに疑われ、厳密に調べられたらゲームオーバーとなる。
 「島崎サン、勉強したね。わたしの助手になるか?」
 ブリーフケースから緑色の台湾パスポートの束を取り出しながら、陳はテーブルで検分作業をはじめた。
 「考えておくよ」
 島崎はしゃべり続けた、
 「そもそもパスポートなんてものは先進国のご都合主義の産物だ。自分にとって、より好ましい土地へ移動しようとするのは人類の習性だからな。しかし先住民を駆逐してできた新興国の中には新しい移民を制限しているところがある。そりゃ筋違いだ。な、そう思うだろう、陳さん」
 「うるさいなあ」
 神経を集中させていた男は、すこぶる迷惑そうに言った、
 「私は華僑だからね。天気と政治の話しは泥亀としてよ」
 「ああそうね、失礼しました。はいはい」
 言いながらベッドの娘に向き直り、軽い調子で名前を訊いた。思いがけず、得体の知れない日本人の口から発せられた北京官話に中国娘は相好を崩し、徐旭芳 と紙に書いた。猜疑心の塊みたいな人間が圧倒的に多い中国庶民の中で、旭芳は稀有な明るい娘だった。島崎が連発するつまらない冗談にも、笑い転げて反応する。この子だったら日本人に化けても誰からも疑われず、密航も成功するかも知れない、そんな好ましい印象をいだいた。
 陳の冷め切った横顔が尋ねた、
 「ところで、島崎サン、何しに来たの?」
 島崎は、自分がここへ青眉の情報蒐集に来たことを思い出した。


 寺院に設けられたスントーン家の席に座るのは遠慮した。参列者のなかに見覚えのある肥満体があった。黒い喪服で身を固める井坂は、暑苦しそうな笑顔をのぞかせた。
 「どうして井坂さんが?康くんの名代ですか?」
 「まだそこまで落ちぶれてへん」
 有佳を小突くようなポーズを見せて、井坂は懐かしそうに言った、
 「モントリーさんには中古農機をぎょうさん買うてもろた。葬儀には間に合わなかったさけ、それで今日来たのや」
 井坂と一緒にいた物静かな老人が怪訝な表情で有佳をみた。
 「こちら、日本のお嬢さんなの?」
 無理なからぬ話しではあった。土地の小学校の制服を着ている以上、面識がない人にしてみれば、有佳がしゃべる流暢な日本語こそ異様である。
 「友達の娘ですわ。この子の親父というのがえらい変わり者でしてな、かわいそうに、こうしてタイの学校に通わされております」
 背筋がしゃんとした老人は、深く頷いただけで、余計な詮索をしようとはしなかった。紹介者が体の向きを変えた、
 「こちらは中谷アルンキットさんと言われてな、大きな家具工場の会長さんや。在タイ六十年、言うなれば在留邦人の最古参。わしや島ちゃんの大先輩であらせられる」
 そして身を屈めると、うら若い娘に耳打ちする、
 「・・・島ちゃんにはまだ紹介してへんのや。あいつが本当に真人間になったら頃合を見計らって引き合わそうと思っていたんやが、あのドアホ、今日は悪い仲間の会合を覗きに行っとるさかい、わしの寿命が尽きるほうが先かも知れん」
 ずいぶん偉い人なのだ、背の高い老人を見上げる有佳は思った。
 柔和な笑みを絶やさず、年老いた紳士は井坂のひそひそ話しが終わるのを待って、言った、
 「ちょっと井坂さん。私は半世紀も前に日本人じゃなくなっているんですよ。なにしろ自分の子どもをタイの学校へ通わせた変わり者ですからね」
 「や。これはしたり、失礼しました」
 話しによると、この元日本人は戦前旧制中学を卒業すると三光物産に入社してバンコクへ赴任、現地女性と結婚したため、敗戦後はタイ国籍に帰化していた。
 「社命だったんです。タイ国籍の妻と結婚したのも、引揚げ船を見送りながら、事業再開の布石としてバンコクに居残ったのも。それが日本の復興にとっていちばん正しい道だと信じていましたからね」
 中谷アルンキットは井坂の話しを遮ると、薪が堆く積まれた広場を見つめながら数奇な人生を振り返っていた、
 「しかし、敗戦国の国民がまともな職にありつけるほど、世の中は甘くありませんでした。モントリーさんはね、そんな私によく仕事を回してくれたんですよ。そればかりか、時代が流れて、私が三光からお払い箱にされた時、たまたま潮州の人が経営するホテルで使う家具の製造を打診されていたモントリーさんは、その計画をそっくり私に任せてくれたのです」
 「利用するだけ利用して、あとはポイですか。えげつない真似をしますなぁ、三光さんは」
 弱小商社を率いる男が苦々しげにコメントすると、日系タイ人は屈託なく言った、
 「空襲で、私の生家は丸焼けでしたからね。家族も全員死んでいた
し、日本に帰るところがなかったというのが・・・バンコクに残った最大の理由だったかも知れませんよ」
 刹那、有佳は唇を半分ひらき、真摯な面持で中谷アルンキットの身の上話しに聴き入った。千紫万紅の花で飾り立てられた棺に、導火線が勢いよく種火を運んだ。現世に於ける、モントリー・スントーンこと林鉦文の物語がいよいよ幕を閉じようとしていた。
 僧侶の読経がひとしきり済むと、火葬が完了するまで、一般の参列者には飲み物や食事が振舞われる。井坂は有佳に声を掛けた、
 「冷たい物でも呼ばれに行こうか」
 歩きながら、つれづれ有佳が言う、
 「亡くなったモントリーさんが、会ったこともないあたしのためにいろんな素晴らしい人を呼んでくれているみたい」
 「参列者はみんな、楽しそうにしているやろ」
 相槌を避けて、井坂が広場を振り返った、
 「タイ人は、輪廻転生を信じているから、葬式は新しい人生への門出を祝う儀式でもある」
 設営されたテントには、近所のホテルがケータリングしたビュッフェも用意されていた。もちろんそれらはすべてタイ料理だった。
 「たくさん食べなはれ。有佳ちゃんがお腹いっぱいになればお棺のモントリーさんも満腹する・・・そういう、生きている者にとってまことに有り難い考え方や」
 さらりと言ってから、口調を重く切り替える。
 「島ちゃんから話は聞いた」
 遠く燃えさかる炎を見つめたまま、井坂は言った、
 「是非の判断は百年後のアジア人にまかせるとして、この時代に生きているわしらは、とにかく計画を前進させたほうがええと思う」
 経営者の口ぶりは、少女に対するものではなく、”キャリア・ガール”に語りかけるような調子だった。有佳は、平成の大人から人格をみとめられているような気がして、ちょっと身構えた。
 「計画って、クラ運河のことですね?」
 井坂は頷いた。
 「あんな風に遜って本日の主役を立ててはいるがの、アルンキットさんもご自分の腕一本で今日の身代を築いた苦労人や。幾らモントリーさんでも、見込みのない人間の面倒をみたりはせえへんやろ。だからそれだけ、この国の要人たちに手堅いパイプを持っている。クラ運河の研究だって、政治浪人の島ちゃんがソムチャイさんと騒ぎ出すずっと前からコツコツ実業の視点から続けて来はったお人や・・・・味方になってくれたら、またとない軍師だがの」
 そして有佳が身につけている制服を眺めて、付け加えた。
 「うん。しかし、島ちゃんでなく、あんたがアルンキットさんの知遇を得たのは、なんとなくモントリーさんの取り計らいやったような気がするの」
 有佳は声をひそめた、
 「なんだか最近、平成のタイにいるほうが幸せに思えてきたの。会う人、みんな親切で・・・昭和じゃ、井坂さんみたいな素敵な大人の知り合いっていなかったし」
 「それはちがうな。残念やけど、あんたの買い被りや」
 面映さを捨てて、井坂は小さな瞳に野心家めいた光りを迸らせた、
 「わしかてバンコクの日本人や。聖人君子やないし、欲は人一倍あると思うておる。島ちゃんと形は違うてくるやろが、クラ運河計画に参戦させてもらうで・・・」
 生温い風が吹き、不気味な黒い雲が低く垂れ込めていた。荼毘が済むと、人々は急きたてられるかのように、流れ解散する。井坂は言った、
 「いっしょに帰ろか・・・と言いたいところやけど、あんたは弁護士はんといっしょやろ?わし、先にバンコクへ戻るわ」
 「はい。さようなら」
 モントリーの親族は、遺骨をお堂に運び込み、区切りの法要を行っている。タイの仏教にもいろんな宗派があるらしく、モントリーの遺骨はひとまず寺で保管される。いずれは他のひとたちの骨といっしょに粉にされ、新しい仏像の原料になるという。お墓をめったに見かけないタイの埋葬方法のひとつだった。
 有佳は図らずも手に入れたモントリーのカメラを抱えたまま、きらびやかな伽藍を歩き回った。手持ち無沙汰に日本とは趣が異なる寺院を撮りまくっていると、ステファニーがやって来た。
 「ひと雨来そうね。早く行きましょう」
 「はい」
 庫裏に集まる若い僧侶の群れを眺めて、有佳は尋ねた、
 「タイの男のひとって、一生に一度は必ずお坊さんになる、って康くんのガイドブックに書いてあるけど、本当にそうなんですか?」
 「”タイの男”はそうかもね。でも”バンコクの男”には”生臭い奴”、つまり生涯に一度も出家しない人が大勢いるわ。ソムチャイなんて人は典型だったけれど」
 またしてもソムチャイが槍玉に上げられた。亭主と”男の浪漫”を共有する輩は、世の女房族にとって、たいがいいかがわしい悪者であるが、”ガチャ子のお父さん”は、相当な俗物でもあったようだ。また、そうでなくして康士と付き合うはずもない。有佳はにこやかな僧侶たちに目礼して、ステファニーと歩き出した。
 その矢先、
 「縁者か?」
 すれ違う住職が有佳を見て、ステファニーを呼び止めた。
 「いいえ。お友達です」
 「はて、これは面妖な」
 眉毛のない目が、鋭く少女の人相をあらためる、
 「この娘は、前世の因業ゆえ、いまここへ来ておる」
 それでもとぼけた味の僧侶は飄然と神通力の言葉尻を濁した。
 「さて、どんな訳があるのやら愚僧には窺い知れぬが、今日、ここへ来たことは、この子にとって生涯最大の功徳となったに相違いない」
 宗教家は、小さな影に誠実な合掌をささげた。
 「ユウカが過去の世界から来たってこと、見抜かれちゃったのかしら」
 僧侶の後姿が見えなくなると、現実主義者は、大袈裟に目を丸くして冷やかした。
 朝、スントーン家の門前で覚えた不可解な胸騒ぎと何か関係があるのだろうか、きょとんとした面持で無関心を装う有佳は、所在無くカメラを玩びながら漠然とそんなことを思った。空がゴロゴロ唸っていた。
 「でも、あのお坊様、初めて会う相手には誰にでも前世の因縁って釘を刺そうとするけれどね」
 ものすごい破裂音がして、ちょうどファインダーの真ん中に納まっていた大木が二つに裂けた。声なき悲鳴をあげながら、シャッターに添えた指先をはげしく痙攣させた有佳は、落雷の瞬間を撮影していた。


 その名称がかろうじてかつてコメの札差業者が軒を連ねていたいにしえを偲ばせる王宮近くのカオサン通りは、現在、バックパッカーの一大ターミナルとして、世界的に知られている。豊かな国からこの雑然とした安宿外へ吝嗇主義を決め込んでやって来る者は少なくない。かつてホアランポーン駅近くのヤワラート界隈に屯していた狡っからい日本人も、世代の交代にともない、次第にカオサンへその本山を移している。無邪気な旅行者が市内観光に出払っている昼下がり、この界隈に数ヶ月間逗留している無精髭の青年が、仲間の溜まり場へノートの切れ端をつまみながら現れた。
 「なんだかよくわからないけど、変なバイトがあるぜ」
 プラスチックの椅子にだらしなく座ってビールを呷っていた同類項の数人が振り返った。着ている物は有り合せ、どれも髪が乱れ、寝起きといった顔をしている。ひねもすゲストハウスでゴロゴロしながら人生の貴重な時期を空費する人間たちの定番ライフスタイルだった。四月下旬のカオサンは、学生があらかた帰国して、こんな住所不定無職な身分を謳歌する灰汁の強い面々ばかりが残っている。
 「どんなアルバイトだ?」
 食い詰め者を地で行くようなかすれた声色のひとりが訊く。
 「やばい話しじゃないの?」
 別のひとりはへらへら笑った。
 古参格の無精髭はいった、
 「拳銃貸与。ガンチャ吸い放題。週末はトルコ風呂へご招待。それでもって、日当が二千バーツもらえる」
 「ストレート過ぎる」
 奥にいたひとりが、竹を割ったような声を弾かせて笑いだした。常日頃、日本では体験できない種類のハプニングを期待して自堕落に徹している職業的な暇人たちは色めき立った。
 「マジでやばいじゃんか、それ!」
 嬉々とした叫び声があがる。押し黙っていた壁際のレゲエ風が、にんまりした、
 「たしか昨日もそんなバイトの募集があったな。プラトゥナムのイスタナ・リージェントのコーヒーショップに来い、ってさ。でも、そっちは週給五千バーツとボーナスって条件だった。おれ、ホテルに着ていく服がないから断ったけどさ、それでもシンプソンゲストハウスの連中が挙って出かけていったよ。どっちのほうが割がいいかはわからないけど、残り物には福があるというしな。弦巻氏が持ってきたこっちのほうか面白いんじゃないの?」
 「いずれにしても二千バーツは魅力だぞ。本当にやばくなったら逃げりゃいいんだ」
 仕切る無精髭に、お調子者の一人が意気込んで叫んだ、
 「ようし、ツルさんに生命を預けた」
 無精髭は弦巻という。全会一致で方針が決まった。行きがかり上の寄り合い所帯であっても、ただちに運命共同体めいた組織機能を付与してしまうのは日本人の名人芸と言えるだろう。たちまち序列を整えると、戦国時代の浪人気分を味わう仲間たちは、連れ立ってゲストハウスを後にした。空の壜やコップといっしょにテーブルに残されたメモ用紙には、“サリカ茶房”を経営している会社の名前と所在地が走り書きされていた。






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