* この物語はフィクションであり、登場する人物、企業、
団体、一部政府機関の名称は架空のものです(著者)。




第二十五話




 バンコク市の東端、シーナカリンの湿原地帯の真ん中にそのホテルはあった。白亜の外観もさることながら、グラニッツをふんだんに使用した床板といい、シャンデリアをはじめとする数々の調度品といい、市中の観光ホテルに比べてみてもまるで引けを取らない。そんなわけで通りすがりの旅人は、何故こんなところに立派なホテルが建っているのか、ちょっと首を傾げたくなるに違いない。通り一遍の観光拠点にしては話しにならない僻地だが、しかしこのホテルは巨大な工業団地を後背地に控えているのでいつも賑わっていた。必然的に客層は企業関係者が目立つ。ロビーに面したコーヒーショップに屯しているのも、ビジネスマン風のネクタイ族ばかりだった。島崎康士は、そんなコーヒーショップの一角で、ワイシャツとネクタイを身に纏い、あたかも企業駐在員みたいな澄まし顔で日本語の新聞を読んでいた。
 「あれ、島ちゃんやないか。何しとるの、こんなところで?」
 不意に声を掛けられ、島崎が顔を上げると、背中合わせのシートに鈴木隆央が手をかけていた。この男も、スーツを颯爽と着込んでいる。
 「仕事よ」
 「それはそれは、ご苦労さん」
 しかし金の腕時計をつけた短髪の鈴木は、どう見ても関西系の暴力団員といった風情で堅気らしさがみじんもない。サングラスの蔭から眦の古傷をのぞかせる島崎は、不良との関わりを避けるように新聞を広げて顔を隠し、ロビーの様子を伺った。一方の鈴木も同じ仕草を取り繕った。
 「そっちこそ、なんの仕事?」
 鈴木の後頭部も訊ねた。
 「秘密・・・おまえは?」
 「仕事やけど、秘密」
 「じゃあ、話しかけるな。タコ」
 「やかましいわ。ダボ」
 ドクター滝から連絡があり、それとなく、珍しい催し物がひらかれると教えられたのは、ソンクラーン祭から一週間が経った昨日のことだった。柳田征四郎からクラ運河計画の始動を示唆された以上、島崎も、計画に何らかの関わり合いがあるとおぼしき滝との付き合いを軽視出来なくなっていた。
 午前八時。工場地帯で一斉に始業ベルが鳴り響く時刻になると、ホテルのロビーはずいぶん閑散としていた。それでも島崎や鈴木のほかに幾人か、新聞を抱え込むように覗き込んでいる手合いが取り残されている。鈴木の後頭部から、今度は忍び笑いが漏れた、
 「な。見てみい。今ここにいるやつら、どいつもこいつも怪しげな面構えのやつばかりや。ほんま、アホやなあ。頭隠してケツ隠さず、とはこのことや」
 「人のこと言えた義理かい。鈴やんがいちばん柄が悪いぜ」
 「おのれこそ・・・」
 が、にわかに鈴木は声色のトーンを下げた。玄関に出入りする人影を注視していた島崎にも、その理由がすぐに解った。六十歳くらいのよく肥えた紳士が、温厚な面持でロビーに現れた。短く刈ったごま塩頭は板前のようでもあったが、黒縁眼鏡が異質である。
 「日泰興信所の篠塚のオッサンや・・・」
 いつも数人の子分を従えているバンコク裏日本人会の巨頭が、今日に限って単身でやって来た。篠塚は恭しく出迎えたフロア係に案内されて中二階のカクテルラウンジに通じる階段を上がっていった。
 「こんな朝っぱらから営業してるんかいな?ここのラウンジは・・・」
 「しっ」
 今度は島崎が鈴木の言葉を遮った。
 「作詞家の八田英一郎センセイも来たぞ」
 如何にも芸能関係者といった赤いシャツにスーツを小粋に引っ掛ける華奢な体格の老人が、篠塚と同じ部屋へ通されていく。その実、変造パスポート業界の重鎮がラウンジに消えると、続いてどこかで見たような痩身の初老男が回転ドアを潜って来た。
 「あれは誰だっけ?見覚えがあるけれど、名前が出てこない」
 「片岡。下の名前は善吉という、悪党や」
 鈴木が安定した調子で説明した、
 「せんにパッポンでガキを一匹追い込んだやろ。あん時のクライアントさまよ」
 「ああ。思い出した。そう言えば、戸川とかいったよな、あの時の坊やは。あいつ、本当に内蔵を抜き取られたんだろうか?」
 島崎は、ふと、戸川の末路が気になったが、気を取り直して頷いた。
 「なるほど、あのオヤジが運びの仕切り屋だったのか」
 「日系の”お馬ちゃん”軍団は他にもいくつかあるけれど、裏日本人社会でいちばん発言力があるのは、やっぱり片岡やろな」
 片岡というのは、日本人の運び業界で現場を取り仕切る大物”馬”だった。もちろん、”トバシ”もお手の物だ。なかなかの食わせ者である。
 「鈴木さんは本日も片岡さんの関係でこちらにお見えになったの?」
 「ちゃうちゃう。あのオッサンとは、それほど深い付き合いはないで」
 「それじゃ、何のためにここへ来た?」
 「おまえこそ、何でここへ来てるんや?」
 「それは言えん」
 「それなら聞かん」
 細かい詮索は、差し控えるのが悪人同士のマナーだった。しかし、いずれにしても、鈴木がこのホテルへ来たのは、とどのつまり、島崎と似たような目的のためらしい。
 「あれ?ドクター滝やで」
 明るいグレーのスーツを着た旧華族はちらりとコーヒーショップを伺い、取り澄ました顔でラウンジの階段を上がって行った。
 「いま、こっちを見よったな、ドクター」
 「知り合いがいると思ったんじゃないの?」
 長いコメントは無用だった。それだけ言うと、島崎は口を噤んだ。
 「おかしいな、ドクターもラウンジへ入ったで。滝と篠原は犬猿の仲やろ。なのに、どうして?」
 「何が起きても不思議じゃない。それがバンコクだ」
 そして最後に現れたのは、目深に帽子を被る眼鏡の中年男だった。その面長の顔を確認して、島崎は鈴木を冷やかした、
 「・・・・それでもって、“さるお方”だ」
 神経質そうな面持で、ゴルフ用のシャツやパンツで身繕いした沢村秀一は、足早にラウンジへの階段を上がって行った。
 「からかうな。いまは敵や」
 もちろん鈴木は、稲嶺なる謎の青年から所在を知らされたプーケットの森山のことや、森本経由で沢村へ送りつけた郵便物について話すことはなかった。
 「平日なのに、あんな帽子を被ってたら却って目立つんじゃないの」
 島崎の軽口を聞き流し、鈴木は唸った。
 「いったい、どういう風の吹き回しやろ?バンコク中から日本人悪党が大集合しよったわ」
 おまけに全員、仲が悪い。呉越同舟のラウンジは、沢村の到着を以って、ドアが閉じられた。
 「いまあのラウンジに爆弾を投げ込めば、この街の日本人社会もだいぶ健康的になるよな」
 言いながら、島崎は気がついた。ラウンジに勢揃いした顔ぶれには、福原が含まれていない。
 「篠塚や滝は別格としても、福原は八田や片岡よりも大物だろう?それがどうしてここへ来ていないんだ?」
 おぼろげながら、福原グループを潰しにかかった裏日本人会の構図が読み取れた。
 醒めた笑みをふくんで、鈴木は言った、
 「戦争がはじまるのや。今日は福原の攻撃をどう防ぐか、って作戦会議やな」
 「ばかばかしい」
 直感めいたものが働いて、島崎は挑発をこめて故意にとぼけた。
 井坂に接触したあたりから、福原の態度はじつに不敵だった。しかし各派の戦力比率を十で分けると、篠塚と滝がそれぞれ三、八田と片岡が一と一。そして福原に割り当てられる数字は、せいぜい二程度のものだった。
 「おれは算数が苦手だったが、まともにやれば福原に勝ち目がないのは解る」
 「高等数学なら答えも違ってくるで。どこの世界にも勝算がない戦争を仕掛けるやつはおらん」
 大勢を敵に回して喧嘩を売ったのは福原側だった。何らかの策がある。そして鈴木は計略を熟知している自信をのぞかせていた。
 鈴木は福原と組んだ__?島崎はおおむね事情を把握した。
 「それじゃ福原組には、強力な援軍がついたと言うのか?」
 川本、という名前が登場することを期待しての鎌かけだった。
 ところが鈴木は平然と意想外の回答を投げて寄越した、
 「青眉や」
  「ほう」
 漢方薬めいたきな臭さが、島崎の鼻腔粘膜を刺激した。青眉は、大陸中国に本拠を置く黒社会の一派だった。揚子江の流域を主な縄張りとしていて、香港の蛇面とは仲が悪く、派手さはないが、日本で最大の広域暴力団を凌駕する勢力を誇っている。
 「えらく物騒な連中と手を結んだもんだな、あの喫茶店の親父」
 ”川本”の左右対称の字面がそこはかとなく気になったが、それより島崎は情勢の再認識を優先した。青眉が福原と連帯したとなると、勢力バランスはまったく逆転してしまう。沢村の呼び掛けで参集している四派が結束したところで、歯が立たない。
 「そうなるとキーパーソンは、有力土豪のスパキットや」
 「なるほど。なんだか格好いいな。まるで戦国時代か三国志だ」
 釈然としない相槌を打ってから、島崎は言った、
 「しかし、日本へ女を売り飛ばす商売じゃスパキットは沢村と組んでいるけれど、どうなんだろうね、利ざやはパウダーのほうがずっと美味しいだろう?そうなると、ブルガリアのマーケットを握っている青眉は最高の見込み客だ。スパキットも福原・青眉連合に荷担するんじゃないのか?そうなりゃ、この街のクズ日本人はほとんど壊滅だよ」
 藪から棒に東欧ルートの話を持ち出されて、鈴木はにんまりした、
 「そう。つまり、どうやってスパキットを味方に取り込んでおくか、って議題が、いま、あのラウンジじゃ話し合われているわけや。篠塚の御大がこれから日本に行商に出かけるかもな」
 だいぶ大掛かりな話になっているが、根底に日本の資金や技術力で牽引されるであろうクラ運河や非帰属地区の利権が絡んでいると思えば、中国人やタイ人が積極的に乗り出して来る筋書きにも充分説得力が備わってくる。バンコクの裏日本人会など、彼らから見れば取るに足らないちっぽけな勢力にすぎないが、介入の切り口を見究めるために優遇してくれることも考えられる。
 島崎は首を回して話し掛けた、
 「あのさ、鈴やん」
 「なんですかの」
 「例の四億円を盗み出す、って勇ましい話は、その後どうなったよ?」
 「今更古い話しを持ち出すな」
 鈴木はあっさり言った、
 「あれな、間尺に合わんから、やめたわ」
 「なんだ、計画倒れか。ま、そんなところだと思った」
 加担を断った以上、島崎は計画に無関係な人間である。よしんば継続中であっても、鈴木が現状を語ることはないだろう。
 「ふん、見くびるな。じつは、お宝が隠してありそうなところへ忍び込んでみたが、そこにはおれがタイに運び込んだ現金はなかった。しかしな、代わりにどえらい品物を見つけたで」
 「アンコールワットの石仏か?」
 「アホ。そんな抹香臭いガラクタなど要らんわ。ブツは日本で捌けば、ざっと末端四千億の白いお宝よ」
 パウダー(ヘロイン)だった。
 「分量が多いさけ、全部は持ちきれなかったが、ほんのちょびっとくすねてやった。なんやかんや言うてもな、そいつをバックパッカーや観光の団体客相手に商ったら、しめて百八十万バーツ儲かったで」
 新聞を膝に叩きつけ、島崎は上半身を反転させていた、
 「ひゃくはちじゅうまん?・・・おい、おれも行く。その隠し場所、何処にある?」
 「こんなところで不景気なオッサンたちを見張っていてもおもろうないしな。今行くなら教えてやるで。聴いて驚くな、このホテルのすぐ近くや」
 美味しい話しには裏がある。面持をあらため新聞を手に取ると、冷ややかな口調で訊いた、
 「お前、おれに何か大事なことを隠しているな?」
 「何も隠しちゃいないが、ひとつ言い忘れた。おれが盗みを働いたあと、常時二三十人のチンピラがマシンガン持って資材置場の周囲を固めるようになっての。近づくもんは犬っころだってものの数十秒で蜂の巣になる」
 鈴木はあけっぴろげだった、
 「どこの資材置場だよ?」
 「二三十挺のマシンガンやで」
 「四千億だぞ」
 「そうか・・・ほな、ちょいと耳を貸せ」 
 今度は鈴木が身を乗り出した。
 「その土建屋は、スパキットの企業舎弟だろう?」
 「さすが物知りやな。そう、チョンブリのスパキット大親分が実質的な管理人というわけや」
 白い粉は、殺人や人身売買以上の厳罰が科せられる。島崎は押し込み自体に関心がなかったけれど、沢村の周囲を切り崩す手懸りはひとつでも余計に手に入れておきたい。沢村を追い詰めれば、防御に隙が生じ、鈴木も仕掛けがし易くなる。つまり鈴木はそんな島崎の思惑を承知の上で、情報を気前良く流したのだった。

 ラウンジの会合は、僅か三十分足らずで終わった。沢村がひとり先に帰り、ややあって他の面々がにこやかに談笑しながら階段を降りて来る。
 「党首会談は紛糾することなく合意に達したみたいですなあ」
 「朝っぱらから我々はいったい何しに来たのでしょうか・・・」
 島崎に合の手を入れると、鈴木はしたり顔で頷いた、
 「さもありなん。ここには憲法第九条を振りまわす政党はおらんさけ。生きるか死ぬかの評定やから、結論なんかすぐ弾き出せる」
 開戦前夜、高地に布陣する軍団の物見は、敵陣に翻る旗指物のすべてを嗅ぎまわり、狡猾な揶揄をはなった。
 「弱小国は大国と連合しちゃならない。福原さんはマキャベリを読んだことがあるのかね?おれはサリカのほうが心配だよ」
 ドクター滝から資金の援助を受けている以上、島崎の心情は、皮肉にも沢村を盟主に戴く日本人連合に近かった。そして、いずれ中国人に食われるであろう、福原の無謀を哀れんだ。鈴木は黙ってタバコに火を点けた。その用心深い眼差しがロビーを横切って止まる。
 「あれ、あそこで気障なポーズを決めてるオッチャン、CIAの工作員とちゃうか」
 柱の蔭で立ったまま新聞を読んでいた年配の男が、萎びきった面持で辺りを伺い、一団のあとをつけていく。笠置という、日本人社会ではとかく有名な人物だった。
 「ほんとうだ。CIAだ」
 中央グループという名称で家電修理店やらマッサージ店を経営している笠置は、系列店に洒落たパプ・レストランも持っている。若い頃、神奈川県下の米軍キャンプで働いていたおかげで、英語が堪能な初老男だった。
 「ま、おおかた篠塚に借金の返済を待って貰う代わりにボデーガードを買って出たのやろ。絵に描いたような年寄りの冷や水やで、ほんま」
 ドクター滝から百万円を受け取っている身の上も似たようなものだった。
 「知ったことじゃないよ」
 バンコクの裏通りに蠢く不良外国人で、ウィタユ通りにあるアメリカ大使館文化広報局がその実、CIAの出先機関であることを知らない者はいない。たまたま、そこで働く職員が少なからず自分の店の親しい常連になものだから、笠置もいつしか自身をも諜報員の端くれと思い込むようになったらしい。ご多分に漏れず、笠置も世間の常識からかけ離れた漫画チックな人物ではあったけれど、本人はいつも大真面目に諜報任務に勤しんでいた。
 「黒社会ばかりか、第七艦隊も出動して来るんじゃないの?」
 つまらない話題を長引かせるのは、鎌かけだった。
 「それはドロンパのおっちゃんがアメ公から本当に相手にされていれば、の話しやね。そやけど事が事や。有り得る話し、かも知れん」
 福原のグループに加わった鈴木は、これが巧まざる平凡な利権争いの類いでないことを熟知していた。情報の伝達がすこぶる速いのは、全世界、あまねく裏社会の特性であろう。
 「やっぱりそうか」
 島崎の呟きに、鈴木は悪びれず、しかし照れたような笑みを投げ返した。
 会議の出席者は全員、多かれ少なかれクラ運河計画始動の情報を掴んでおり、その前提で自分たちより一歩先んじた福原を何らかの口実を設けて追い落とそうとしている。・・・いつもいがみ合っている面々が一堂に会するくらいだから、そう解釈しておくのが妥当だった。つまり、これから始まろうとしている争いは、あくまでも巨大プロジェクト参入の前哨戦に過ぎないのである。
 青眉、ときいて、我田引水を疑りつつも島崎が推断したクラ運河や非帰属地区という権輿は、いよいよ否定し難くなった。裏だけでなく、時には大っぴらに表も巻き込んで、日本人社会では抗争がたびたび発生する。もっともその原因たるや、金銭の貸し借り、店舗や会社の経営権を廻るトラブルといった、軒並み些細なものばかりで、いつも時間が経てばうやむやに沈静化していく。”出た杭”はひとまず日本へ逃げ帰り、とどまり続ける弁証法の実践者たちは、諦観と欺瞞をわきまえて、またそぞろ平常の付き合いをはじめるのだ。
 ところが、今回ばかりは扱われる案件の規模があまりにも大きかった。ひとつ判断を誤れば、永劫再起の機会は封じられる。今後の身の振り方について決断を迫られているのは笠置のような一介の野心家ばかりではない。ドクター滝ほどの大物でさえ、このまま多数派に組するか、身を翻して福原と手を結ぶか決めかねているのである。
 だからこそ、自分たちの動静をじっくり観察させるため、島崎をここへ誘ったのだ。
 笠置が消えると、コーヒーショップにいた男たちも次々と席を立った。どこの組織も、それぞれ所属が定かでない一匹狼を囲い込んではここに配置していたようだ。福原の密偵も、おもむろに腰をあげた。
 「ほな、おれ、帰るで」
 コーヒーショップには島崎ひとりが残った。鈴木が徐々に勢力を盛り返しつつあるのはわかった。福原や武藤のグループはタニヤ通りを縄張りにしている。かつて沢村を取り込んでいたのはこの一派だった。前に会った時は、沢村との蜜月が終わり、経営するカクテルラウンジがタニヤの日本人からそっぽを向かれて潰れかけている、と嘆いていた鈴木だが、処世術には長けている。情勢はまたしても一転したのだ。
 「離合集散は世の習い・・・か」
 呟いて、島崎はむっつりした面持で冷めたコーヒーを啜った。
 かつてソムチャイ・ポラカンと二人きりで描いた絵空事にようやく具体性が伴い始めている。日本で柳田征四郎が動き、バンコクでは、どす黒くも、もっともエネルギッシュな人間の群れが暗闘しようとしている。これに引き摺られる格好で、表側の邦人社会でも入札や投資に絡んだなまなましい相克が繰り広げられるだろう。先覚者が冷や飯を食わされるのは、日本民族の歴史的習性といっていい。だが、この戦いでは島崎には勝ち残る素地が充分あった。自分の夢想に赤の他人が土足で上がり込んでくる、といった感傷的はない。
 さしあたっては、効果の集約を考えなければならなかった。 


 さて、時系列は数時間遡る。深夜のアジアハイウェイを経て、青い朝霧が棚引く一本道をしばらくゆくと、遠くの疎林から昇る太陽が水蒸気を乱反射させて、穀倉地帯の風景をまばゆい薔薇色に染めた。金銭とはまるで縁がなさそうだが、生きていく分には気兼ねなど要らない。”田に稲あり水に魚あり”と謳い上げられた、豊饒の大地が有佳の行く手に待ち構えていた。ラジオから流れる音楽は、バンコクを出発した時は今風のポップスだったのに、それがここでは北東地方のルークトゥン(田舎の歌)に変わっている。間延びした歌声と不思議な躍動感を刻む打楽器の音色が絶妙な調和を織り成して、あたりの景色に溶け込んでいく。”バンコク”と”タイ”は、まったくの別物と捉えたほうがいいのかも知れない・・・。まだ眠たげな面持で、都会と田舎のペースの違いをありありと体感する有佳は、このささやかな旅行に出て、初めて自分が異国に身を置いていることを実感した。
 「よく眠れた?」
 ハンドルを握る尖った鼻梁の女の影が、助手席の気配を察して抑揚に欠ける低い声色でいった、
 「もうじき着くからね」
 赤茶けた古い木造家屋が稠密する大きな集落が現れた。サフラン色の法衣をまとう僧侶が縦列をなして托鉢行脚にいそしみ、路傍の人々が恭しく供物を捧げて合掌する。托鉢のことをタイ語ではタンブンという。今日びのバンコクではなかなかお目に掛かれなくなったタイの早朝の風物だ。チョーク売りの屋台が点々と湯気を立ち上げるする灰色の舗装道路を行くと、間もなくナコンサワンの中心部に至る。ひなびた市街を通り抜けると、夏草に覆われる濠のような用水路があらわれ、これに沿って白い塀が続くようになった。マンゴーやパパイヤの木々がこんもり植わった向こう側に、
パラボナアンテナを載せるチョコレート色の屋根がちらりと見えた。門の前でフォレスターは停止した。
 「ちょっとまってて」
 身軽に車を降りると、ステファニーはフランス風の門扉に近づき、人を呼ばわった。ややあって、猿股にビーチサンダルをひっかけた半裸の男が恐縮しきった面持でまろび出て、門をひらく。にわかに、敷居をまたぐのが憚られるような悪寒をおぼえた。
 運転席に戻った女に、有佳はいちおう訊いてみた、
 「あの、ここは?」
 「ここがヌンの実家よ」
 日本の社長の月給は、新入社員の僅かに四倍。タイではこの格差が十七倍に拡がる。貧富の違いは極端だ、と康士も言っていた。タイ屈指の精米業者の屋敷は、なるほど桁外れに大きく、こざっぱりと手入れされていた。毛嫌いしなければならない理由はひとつもない。奇妙な恐慌は去っていた。いまの後ろ暗い感触はいったい何だったのだろう、と首を傾げながら有佳はしきりに感心してみせた。
 チーク材をふんだんに用いた居間に通されると、間もなく、無愛想な女中が、練乳のたっぷり注がれた甘いコーヒーと、半熟卵や魚の切り身が浮かんだ粥を運んできた。
 「あいにくわたくしどもが戴いている朝食しかございません。なぜならば、お嬢さまがいつお戻りになるか存じませんでしたので、きちんとしたお食事のご用意ができなかったのです」
 慇懃無礼と思えるほど恐縮した言葉遣いで、若い女中いった。
 「気にすることはないわ。クルンテープの人間は朝からハンバーガーを食べていると思っているの?それは偏見よ」
 なんとなく、気まずい雰囲気である。
 粥に魚醤を数滴垂らして、ステファニーはふてぶてしくレンゲを拾った。ストレスが多い家に招かれたら、無神経に徹していたほうが勝ちである。有佳は康士の仕草を思い出し、殊更不調法に粥を啜った。
 「クンヌウ・レック」
 長年スントーン家に仕える年老いた女中頭が現れ、威圧的な乾いた声でステファニーを”小さなお嬢さん”と呼んだ。
 「こまります。きちんと連絡してくださらないと」
 「ごめんなさい。仕事が忙しくて...あやまるわよ」
 「まあ!なんて暢気なことを。よろしいですか、大旦那さまは、そんじょそこいらの大尽みたいに無節操な方ではありませんでした。だからこそ、いまこうして妙な隠し子が出てきたりもせず、わたくしどもも心静かにお弔いにのぞむことができるのですよ」
 「ソムチャイさんの時は大変だったものね。ぜんぜん知らない人が何十人も遺産を分けろって出てきたりして。でも、ヌンもそんな見ず知らずの従兄弟が現れていたほうが楽しかったかも知れないわ」
 民事訴訟法の専門家は、ご機嫌斜めなばあやをあやすように言い、ことさら友好的な面差しで有佳を省みた、
 「コウは心服しているみたいだけど、ソムチャイ・ポラカンって人は生涯に奥さんを八人も取り替えているの。子供は認知しただけでも十三人。でもお妾さんも大勢いたから、男の子だけでサッカーチームをふたつやみっつは編成できるんじゃないかしら」
 女中頭の叱咤がとんだ。
 「まあ!なんてふしだらな。よろしいですか、おっしゃる通り、大旦那さまは大勢のお子を残されていません。なればこそ申し上げたいのです。これからモントリー精米所は、いったいどなたが切り盛りなさるんですか?大旦那さまの血を引いているのは、この世で、あなたさまとクンヌウ・ヤイのお二人きりなのですよ」
 「経営者の椅子は、まずお母さんに明け渡すのが筋でしょう?」
 ステファニーの恣意的に生きる行方知れずの母親を、老女は”大きなお嬢さん(クンヌウ・ヤイ)”と呼んでいるらしい。
 「三十年経ったら、ヌンも考えるわ」
 「埒もないことを」
 深く溜息をついて、ばあやはスントーン家の滅亡を憂いた。
 粥を啜り、はらはらしながら成行きを見守っていた有佳は、しかし、母親とも折り合いのわるいステファニーに、一抹の共鳴を抱いていた。有佳にはファザコンのきらいがある。それは歯車の噛みあわない母親との関係が原因だと、本人は感じていたのだ。
 「お寺へ行くは夕方なんだから、すこし休ませて」
 立ち上がってコップの水を飲み干すと、家業にきわめて淡白な女は、バンコクから同行して来た素性不明の少女を誘った、
 「ベッド、ひとつしかないけど広いわよ」
 二階の、涼しい風が吹き込む開放的な部屋がステファニーの私室になっていた。よく手入れされた沢山のぬいぐるみが、総出で久しぶりに戻った部屋の主人を出迎える。
 「この子たち、ヌンさんのおしゃべり相手なんでしょう?」
 「どうしてわかるの?」
 「あたしも、同じだから」
 二十二年も経っていると、自分のぬいぐるみは、ひょっとしたら、捨てられてしまったのではないだろうか。そんな想像に有佳は居ても立ってもいられなくなった。
 「誰にも言えないこと、って、いろいろあるものね」
 言いながらベッドに顔を埋めると、清潔なシーツはジャスミンとよく似た、安心できる匂いがした。
 「よかった。ユウカも同じだったから」
 どちらが年上なのか、よくわからない。しかし、不思議と周波数が合うステファニーという女は、有佳にとって、昭和の日本でも得ることが叶わなかった姉妹のような友達に思えてならなかった。
 「お父さんやお母さんにも、本当の気持ちが言えなかったの。ヌンさんも、ひとりぼっちなんですね」
 助手席でうたた寝していた有佳とちがい、夜通しハンドルを握っていた女は、少女のような寝顔で、ぐっすり眠っていた。






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