* この物語はフィクションであり、登場する人物、企業、
団体、一部政府機関の名称は架空のものです(著者)。




第二十四話




   【第三章】

 南のハジャイへ向かう夜汽車が、およそ東南アジアらしからぬ無機質な緊張感をはらんだ轟音を残して走り去った。バンコクから三百キロも赤道へ近づけば、のどかそうに見える列車も、幾分か国際常識を弁えるのかも知れない。踏み切り周辺の路上だけが、オレンジ色のナトリウム灯に照らされて、漆黒の闇に浮かんでいた。昼間であれば、ここは東に向かって茫洋とした湿原が広がる地方である。車が走れる舗装道路や踏切があること事態、通りすがりの旅人は訝しく思うはずだ。だが、どんなに僻地であろうとも、三百六十度を見回せば、必ず誰かが暮らしている家屋の明かりが転々と認められるのも、タイという国の特徴だった。
 そんな家々の中で、ひときわ孤立しているのが、玄関前に三本の椰子の木をはべらせた廃屋だった。流石に誰も住んでいないだろう、と思いきや、月の明かりを頼って除いてみれば、倒壊しかけた納屋には巧みにバンコクナンバーのピックアップトラックが隠してある。人はいる。母屋の玄関をくぐると蒸し風呂のような熱気とともに、発酵した糸埃の塊と青黴の臭いが鼻を突く。さらに入り混じるのは、虫除けを兼ねて炊かれる麝香の淫蕩な煙だった。そして、壁のチーク材がところどころで剥がれ落ちた板の間では、青い自然光の中、一対の男女が激しく情を交していた。だが、仮に出歯亀を決め込もうとする好色漢であっても、その秘め事を目撃したら、彼はこれまでの卑俗な期待感を無残に打ち砕かれ、背筋に冷たいものが走るのを禁じ得なかったであろう。褐色の暴力的な筋肉と、見事に均衡の取れた生白い凝脂が汗だくになってせめぎあい、貪り合う様は、男と女のいずれもが獰猛な瞬発力と生死を超越した肉欲の権化に他ならなかったからである。なまめかしさとは裏腹な猛毒を吐き散らす白蛇が、ぬめぬめした光沢を放ちながら、絡みついたキングコブラの毒を吸い尽くそうとのたうちまわった。
 「...だめ、来て、来て、来て」
 高潮にともない、体力が極限に達するのを自覚したノックは、古ぼけた合皮のマットレスに仰臥する稲嶺庄之助の腰にまたがり、形の良い乳房を天に向けて震わせながら、がむしゃらに長い髪をかき乱した。
 「溺死させてやる」
 攻撃に転じた稲嶺は、呼吸も乱さず上体を起すと、板の腐食した床へ鷲掴んだノックの顔半分を押し付けた。
 「いいザマだぜ、売女」
 冷酷な憎悪の結晶は、眼光を凶悪に輝かせると、痙攣が波立たせる腿の片方を担いで突きまくった。
 「本当に、死んでもいい」
 断末魔にも似た女の絶叫を最後に、ふたりの躍動が止んだのは、それから数分後のことだった。
 汗でゴミが付着し、四谷怪談のお菊のような形相になったノックは、そのまま稲嶺の胸板に汚た頬を密着させる。
 「あんたって、本当に変な場所でするのが好きなんだね」
 ふたりが最初に関係したのは、さる年末、パワラットにあるオーキッドスクエア・ホテルの女子トイレだった。
 「おれは別に自分をノーマルな男だとは思っていない」
 稲嶺の趣味が介在していないとは言い難い。しかし、こんな人里離れたあばら家で密会しなければならない必然を、ノックもよく理解していた。
 「シマザキコウジと接触したよ」
 ノックは稲嶺が咥えたタバコにライターの火を近づけ、次いで自分も一本吸う。
 「シマザキは、イナミネが投げた餌に食らいついたの?」
 「まだだよ。しかし、錘が動くのは時間の問題だろう」
 せせら笑うようにノックは言った、
 「たったそれだけの経過報告をするために、私をこんな所へ呼びつけたの?」
 「おれが用件を切り出す前に、すぐ行く、と言って電話を切ったのは誰だ」
 「私の家にはングーキヨウがいる。あの子の勘は普通じゃないよ」
 「考えすぎじゃないのか?おれが知る限り、ングーキヨウの関心事はただひとつ、如何に生きた人間を鮮やかにただの肉塊へ加工するか、だ。しかし、シマザキは、突然、接触して来たおれを無条件で歓迎するとは思えない」
 「あんたほど、シマザキという男は賢くないはずよ。懐かしい友達と再会したような気分で、真面目に釣り針の餌を本当の餌と思い込んでいるんじゃないかしら」
 ややあって、自嘲めいた男女の忍び笑いが闇の中で錯綜した。
 「いずれにしても、いまのバンコクでおれたちが会うのは危険すぎる」
 うつ伏せになるノックは、傍らで仰向けになる男がくわえたタバコにマッチで火をつけ、同じ火を自分の唇に挟まれるタバコへ運んだ。
 「バンコクのせいではないでしょう。イナミネと私が瀬戸際に立たされているだけよ。しかも、愚かしくも、自分たちの意思によってね」
 「のぼせあがるな。ノックはともかく、おれは善良な海外青年協力団の団員だぜ。おまえの身の安全だけを心配しているんだ」
 稲嶺の要求によって、ノックは沢村に面従腹背するようになっていた。前に密会した時、頼まれた品物も手渡している。これから直接、沢村と対決するのは稲嶺でなく、鈴木隆央と聞かされていたが、それらの品々は、ノックの身の安全が確保されたのちに使用される約束の最終兵器だった。タイミングを外して世に出てしまえば、ノックは破滅する。
 「見え透いた偽善者ぶりだけが、あんたが日本人の男である痕跡ね。自分だけは、安全圏にいる」
 つい数分前までは鳴りを潜めていた穏やかな人格をほの見せて、稲嶺は憎まれ口を叩くノックを抱きかかえ、その細い背中を愛撫した。
 「十五歳の時、スパキットの養女になった。どうしてだと思う?」
 とどのつまり稲嶺の胸に甘えながら、ノックは囁いた、
 「あははは、養女か。こいつは淫靡な想像を掻き立てられるな。悪い養父だ。どう見ても、おまえは外交官の囲われ者などという慎ましい種類の女じゃない」
 「スパキットとの間に男と女の関係はないよ。私はね、十三の時、故郷のパヤオを視察に来た日本人に見初められて、その男のミアノーイになったんだ。家は貧しかったからね、父親も母親も、喜んでまだ子供だった私を、その日本人に売り渡した」
 ドンムアンで仕立て屋を営む女ボスの過去は、稲嶺の月並みな想像よりも複雑だった。
 「日本大使館の、一番偉い人だったよ」
 静かに煙を吐き出す稲嶺に、動揺はなかった。
 「いまは外務省を辞めて、大きな会社の顧問をしたり、沢山の本を書いているそうだけれど」
 「いい仕事を残した官吏なら、その私的な趣味や所業を外野がとやかく論う筋もない」
 ノックの幼い肉体を所有し、弄んだ人物の固有名詞は、すぐに思い浮かんだ。しかし自己弁護を試みるかのように、稲嶺は単調に言い切った。そして手堅い推測を付け加える。
 「おまえが十五のとき、大使閣下は任期満了に伴いご帰国あそばされた。手切れ金も幾らか貰っただろうが、チョンブリのスパキットは、そんなおまえに高い利用価値を見出して、"部下"として召抱えた。図星だな?」
 壁の裂け目から、生暖かくも、それなりに快適な夜風が吹き込んでくるようになった。肯定もせず、ノックは自分のペースで話を続けた、
 「辛かったのは、大使に仕えている時だけだった。わけもわからなかったし、何をどうしていいのか、わからなかった。そんな私を、スパキットは、それから二年ごとに着任する領事館の、然るべき男たちに、世話係としてあてがった」
 これでは歴任の面々が、足を引っ張り合うこともできない。
 「なるほど、大使は異質だが長兄で、あとに連なる領事館シンジケートの全員が兄弟というわけか」
 「末弟はイナミネだよ。こっちも、異質だけれどね」
 ノックは、こうして密航業界の女王に上り詰めて行ったのだ。
 「違いない。おれは、おまえのような悪徳まみれの女が好きだ。本気で惚れてしまう」
 「うそ。私は五回も首尾しているのに、あんたはまだ一度だって終わっていない」
 相手の肉体に溺れているのはノックのほうだった。
 「重症の遅漏でね。そのうち医者に診てもらうとしよう」
 掴み所のない口調で、稲嶺は平然とうそぶく。自尊心を頑なに守ろうとするノックは、反感も露にいった、
 「私が医者になる。イナミネが行く先は予想がつくよ。どうせモグリ診療所でしょうからね」
 そして萎えることを知らない男の股間に顔を深く埋める。ふたたび月光を浴びてくねりだした腰に躍動するメス蟷螂の刺青を、余裕をふくむ稲嶺は心地良さそうに眺めた。


  “神秘の島・たっぷりプーケット満喫五日間”と銘打たれたパックツアーの客が気忙しくチェックアウトしていく。彼らはこれからバンコク行きの飛行機に乗り、ドンムアン空港で最後の日程、機中泊に備えなければならない。
 「お気をつけて。どうぞ、またお越しくださいませ」
 回転扉の傍らに佇み、一見客の一群を如才ない笑顔で見送るのも、日本人マネージャーに与えられた役目である。マイクロバスが飛行場に向けて走り去ると、入れ違いにこの日の郵便物がどっさり届いた。ほとんどはホテル宛の事務書簡だが、長期滞在の西洋人客に宛てられたものもいくつか混ざっている。手持ち無沙汰に仕分け作業をはじめた能面顔の男は、一通のB5のクラフト封筒を手にとって、眉間に険しい皺を寄せた。その厚みがあるEMSは、バンコクで発送された国内郵便だった。
 タイでは毎年、二十人から三十人の日本人が消息を立っている。よんどころない事情から自らの意志で故国とのしがらみを絶ち、混沌のインドシナ社会へ埋没していく者もいるが、大方は何らかの不吉な事件に巻き込まれた挙句の失踪と考えられている。南国特有の解放感から、図らずもつまらない違法行為に手を染めて、現地官憲のお世話になってしまう者もすくなくない。こういった日本人の消息を調べ、たとえ形式的なものであってもひとしきりケアしていくのは、現地公館邦人保護担当官の日常的な業務だった。多くの観光客が訪れるプーケットは、二等書記官・沢村にとって頻繁に足を運ばなければならない土地だった。
 「だいぶ難航したようですね」
 クラフト封筒を片手に、沢村の部屋を訪ねたマネージャーは言った。昔ながらのカーボン紙を使い、複写式の書類を作成していた警察官僚は穏やかな声色で答えた、
 「うむ。どうやら裏町のショットバーで性質の悪い美人局にひっかかったらしい。四十男の軽はずみな冒険心だよ。年老いた母親の捜索願いで動いてみたが、これ以上はもうお手上げだな」
 数ヶ月前から行方不明になっている旅行者の手懸りを追ってプーケット入りした沢村は、ビジネスセンターがしっかり整備されているこのリゾートホテルに逗留していた。
 「ここを訪れる日本人の中には、プーケットがタイという国の一部であることを知らない人がけっこういますよ」
 窓の外には暗雲が低く垂れ込め、雷をともなう雨が降り始めていた。
 「神秘の南の島か・・・それがそっくり国名なら、世話はかからないのだが」
 事務的な沢村の口調に、マネージャーも無気力に受け答えする、
 「警戒心がないものだから、非日常的な誘惑にあっさり負けてしまう。今年に入ってプーケットで消えた日本人はこれで六人目です」
 「出てこないだろな」
 「出てこないでしょう」
 薄紫に霞む海は陰鬱だった。
 「ところで」
 マネージャーはとぼけた面持で封筒を差し出した、
 「郵便物が届いております」
 「ありがとう」
 が、差出人の名前を一瞥して、領事は酷薄な笑みをうかべた。
 「どうして鈴木隆央が私の居所を知っている?」
 「さて。私をお疑いになりますか?」
 無駄なことを訊いた、と言わんばかりに沢村はペーパーナイフを封印に滑らせた。中から現れたのは、クリップで留められた書類の束と、カセットテープ、そして数葉のモノクロ写真だった。
 「脅迫状だな。かくべつ“幾ら払え”とは書いてはいない」
 ひとしきり眺めて、沢村は断定した。
 「こんなものもはいっている」
 日本国内の交番に張り出されている指名手配書が、書類に挟みこまれていた。コピー写真の男は、彫りの深さが印象的だった。
 「大阪府警が追い駆けている、四億円横領の元銀行員だ」
 マネージャーの薄い唇が、かすかに奮えるのを見て取って、沢村の眼鏡が炯った。
 「海外逃亡の可能性も高いとかで、大阪府警はインターポールにも協力を要請しているらしい。もっともこの事件が起きたのは私がこの国に着任する前だから何とも言えないが、強請られているのは、どうも私ひとりではないらしい」
 鈴木隆央がこれらの脅迫文書を領事館でなく、このホテルに送りつけてきたのは意味深長だった。危険な橋を渡らせ、大した分け前も寄越さず雲隠れした相手に対する恨みつらみがこめられている。沢村は、一瞥した写真をテラスで燃やすと、カセットテープを摘み上げた、
 「何が録音されているかは知らないが、聴いてみようか?誰が私と一蓮托生だかわかるはずだ」
 溜息をつくマネージャーは、人工的な切れ長の目を細め、はぐらかすように話題を切り替えた。
 「ところであちらの一件、踏み込んでみましたが、今お話ししましょうか?」
 「うん?」
 沢村の落ち着き払った表情に変化はなかった。
 「鈴木の相棒のことかな?」
 顎に残った整形手術の痕跡を隠そうともせず、過去に森山と名乗っていた男は報告した、
 「島崎康士は、高校一年生の冬休みに誘拐未遂事件を起こしていますね」
 聞き手は穏やかならぬ高校生の所業に耳を欹てた。
 「新宿百人町で金貸しを営んでいた老人を、車ごと攫っておりまして、その際運転手が顔面打撲の怪我を負っています」
 島崎少年の所業も常軌を逸しているが、被害者にも胡散臭い身上が見え隠れしていた。
 「誘拐未遂どころか、傷害の罪まで冒しているじゃないか。それなのに、どうして本庁のファイルに記録がない?」
 「被害に遭ったサラ金業者のほうが”未成年だから”という理由で、島崎の起訴を見合わせるよう、警察に働きかけているんですよ。また、運転手のほうも被害届を撤回しています」
 「ばかな。刑事事件だぞ。被害者の意向など介入する余地はないはずだ」
 「非凡な力がはたらいたんでしょうな」
 森山の言葉にためらいは感じられなかった。
 「いったい何者なんだ、その情け深い高利貸しとは?」
 「平成三年に死亡しています。もともとは陸軍に籍を置く技術屋だったこと。それに昭和二十年八月に満鉄調査部を解雇されていること以外、経歴がよくわからない人物です」
 満鉄調査部、とう白茶けた名称のもつ響きが沢村を沈黙させた。
 「島崎はこの事件をきっかけに都立高校を中退しています。しかも、彼らのあいだにいったい何が起きたんでしょうな、それからしばらく、彼は自分が誘拐した人物と行動を共にしているんです」
 カセットテープなど意に介さないといったマネージャーの取り澄ました顔が、沢村は気にいらない。棒読み調子の報告は続いた、
 「萌草会ですよ。島崎康士の虫食いだらけの経歴を埋め合わせるのは。街金の主人は、萌草会の大口スポンサーでした。あの陸軍中野学校と満鉄の残党が立ち上げたグループの常識は、世間一般とずいぶん異なります。どんな事情があったか知らないが、おそらく老人は自分を誘拐した高校生に相応の素質を認め、スカウトしたのでしょう。また、誘われた若者も、明確な目的意識と臨機応変に戦術を切り替えるセンスを備えていた・・・そう想像すれば、すべての辻褄が合います」
 「まさか」
 およそ日本の官界で、広汎な外郭団体、あるいは保守系圧力団体としての萌草会の名を知らない者はいない。実体が定かでなく、まま闇の奥底から顔を覗かせては国策を左右する一党は、いずれにしても扱いにくい勢力である。いつも冷静な警察官僚の表情が強張った。
 「“政策立案推進部・班付け広報調査員”でした、島崎は。そのまどろっこしい肩書の持つ意味は、外事公安にいたこともあるあなたなら、もうおわかりですね?」
 漠然と、血糊の匂いが沢村の知覚にせめぎ寄り、脳裏をアレックスの言葉が横切った。
  ・・・大人しく引き下がった警官たちは賢明でした。妻や子どもたちが待つわが家に五体満足で帰宅できたわけですから・・・
 森山は、嗜虐的な含み笑いをしのばせた。 
 「ご心配には及びますまい。島崎は平成五年に重要な工作で取り返しのつかない失態をおかしています。いまの彼には組織的な力の背景などありません。まあ、何しろ頭の切り替えの早い男ですから、抛っておけばそのうち新しい興味の対象ができて、例の案件からあっさり身を引きますよ」 
 そしてつけ加えた、
 「楽観は許されませんが、状況から判断すると、鈴木が島崎と呼応して仕掛けて来るとは考えにくいでしょう」
 森山は二正面作戦は禁物、まずは自身にとって実害のある相手を片付けたい、としきりに誘導しているようだ。沢村が物思いに耽っていると、やがて雨は上がり、薄日が海上を差した。
 「ああ、言いそびれました」
 沢村は硬く唇を閉ざしていた。
 「高校生の島崎が誘拐した高利貸しの氏名は、保田孫一といいます」
 むかし、そんな氏名の陸軍機付き長が整備する隼戦闘機が、この空を我が物顔で駆け巡っていた歴史を沢村は知らなかった。遠く奇岩が林立する海は、一幅の神秘的な絵画のように静まり返っていた。


 日中の最高気温は摂氏三十八度。日が翳っても、ルンピニの歩道はなかなか激しい放射熱がおさまらない。
 「暑いわね」
 運転席の窓から化粧気のないステファニーの顔が現れ、天空を見上げて眦を下げた。有佳はふしぎだった。南国で生まれ育った人でも暑い時は暑いらしい。フォレスターの助手席に潜り込み、シートベルトを装着しながら相槌を打った、
 「タイの人でも、暑いんですか?」
 不機嫌な面差しで、気まぐれな女は続けた。
 「今夜は船で夕涼みなんてどう?料理はおいしいし、ライトアップされた暁の寺もきれいよ」
 外食があたりまえの夫婦だが、有佳にしてみれば、康士に連れられている時よりも、ステファニーと一緒にいたほうが贅沢できる。
 「すてきですね。ユウカも行ってみたいです」
 金持ちに遠慮するのは却って失礼だと康士も言っていた。 
 聞けば、チャオプラヤー川には川岸に並ぶ一流ホテルがそれぞれ船上レストランを直営しているという。有佳の返事を待つまでもなく、ステファニーはいつもと逆の方向へ車を走らせていた。
 波止場に、丸っこい穀物運搬船を小奇麗に改造した屋形船が繋留されていた。有名なオリエント・ホテルの船だった。
 桟橋を渡ると眼鏡をかけた年配の給仕が優雅な合掌でふたりを出迎えて、トンブリ側の席に案内してくれた。吹きそよぐ風は生温かったが、澄んだ川面は凪いでいる。赤い夕日が下町のビルの谷間に沈むと、船はゆっくりと川を遡行しはじめた。
 「コウはいまごろ、何やってんのかしら」
 船べりを洗う水飛沫が心地よい波音に変わると、食前の赤ワインが運ばれてきた。有佳の前には、蘭の花を添えたパイナップルシェイクが置かれた。
 「やっぱり、心配なんですか?」
 ストローに唇をあてたまま、くすくす笑って、有佳はいった、
 「ソンクラーン以来、ずっと連絡がありません。でも、クラに運河を掘るんだって、はりきってるみたい」
 康士がチャトチャクに戻ったのは一週間前だった。そして祭りが終わると、また忽然といなくなった。
 「またその話しに浮かれはじめたの?」
 子供に与えておく玩具は危険な物より、たとえ他愛なくても安全な物のほうがいい。しかめっ面で、うんざりと言わんばかりにステファニーは小さな舌を突き出した、
 「クラ地峡に運河を通そう、って大風呂敷なら、前にも耳にタコができるほど聴かされたわ...」
 いつしかあたりは夜の帳につつまれていた。
 バンコクの夜景を眺めながら味わうディナーはフランス料理のフルコースだった。
まんざらミスマッチでもないのが、有佳には意外だった。
 「コウはね、ソムチャイ・ポラカンと、いつもそんな絵空事をめぐって喧嘩していたのよ。まるで日本とタイの運命を自分たちが握っているような意気込みようでね。見ていて、ほんとうに滑稽だったわ」
 「でも、...」
 口篭もって有佳は身を乗り出した、
 「日本で国会議員をやってる友達が手紙で言って来たんです。本当に運河を掘るんですって」
 「早まらないほうがいいと思うわ」
 ステファニーの眼差しは淡白だった。
 「たしかにタイ側政界でも一部ではクラ運河プロジェクトの推進が持ち上がっているけれど、それは世間的にまだ噂の段階なの。これだけ不況が続くと、政治家はつい無謀な冒険に手を出したくなるもの。でもそれは国家にとってギャンブルにも等しい危険な試みなのよ。この国にはずる賢い日本人の口車に乗せられて利権漁りにうつつを抜かす愚かな政治家が大勢いるから、そっちのほうが心配じゃなくて?」
 「ごめんなさい」
 「ユウカが謝ることじゃないでしょう」
 言ってから、はたと気付いて、ステファニーは決まり悪そうに吹き出した。
 「タイ語が上手すぎるのよ、ユウカは。あなたが日本人だってこと、つい忘れていたわ。失礼」
 タイの小学生の格好をした少女もロッキード事件の顛末を思い出しながら、寂しげに笑った。
 「ヌンさんって、日本がきらいなの?」
 「ミソの匂いに馴染もうとは思わないし、生のお魚もできれば一生食べたくないわね。でも、それがあなたやコウの祖国が嫌いという意味にはならないでしょう?外国人から過剰な期待や好意を寄せられることを歓迎する日本人は大勢いるけれど、ヌンはその範疇にはいっていないだけよ」
 弁護士はやおら面差しを引き締めた、
 「いいこと?タイは日本より国内事情が複雑なの。政治家の汚職よりもっと深刻な問題があるわ。いまのところ国民が王さまの下で纏まっているけれど、この国にはいろんな立場の人がいるの。コウはよく知っているけれど、クラ地峡に住んでいるのは仏教徒ではなくて、イスラム教を信仰する人たち。昔ながらの習慣を大切にしているから、あからさまに自分たちの生活圏を脅かす運河の建設など決して快くは思わないでしょうね。よしんばタイ政府が重い腰を上げても、反対派地権者との交渉はかならず難航するわ」
 ここで言葉を区切り、
 「問題は山積みだわ。ヌンだって運河を掘るのが正しいのか間違っているのか、正直言ってよくわかっていないの」
 と、結論した。
 「反対する人がいるのを知っているのに、康くんたちは強引に運河を掘ろうとしているんですか?」
「やるでしょうね。五十一パーセント正しいと判断したらどんな犠牲を払っても、たとえ一世紀の未来に亙って悪逆非道の汚名を着せられようとも」
 化粧っ気のないステファニーの唇がやわらかく結ばれた。葛藤を告白したばかりの女は、それでも運河建設支持へ傾きつつあるらしい。学級委員をたびたび経験している有佳の心は、康士への恤みと素朴な正義感の狭間で小刻みに揺れ動いた。
 「ヌンはイスラム教の教義や考え方をコウから教わったのよ。本人はあの通りの無神論者だけど、どんな宗教にもエモーショナルな尺度で対応できるのはコウの数少ない長所かも知れない。そんな人が大きなトラブルが起きることを承知で開発推進派の先頭に立とうとしているんだから、覚悟はずいぶん悲愴なものでしょうよ」
 善悪という基準を康士は持ち合わせていない。それは有佳にもおぼろげながら察することができる。いずれにしても、康士が生命を賭けてプロジェクトに取り組もうとしていることだけは確かだった。
 「いまごろ天国でおじいちゃん、まだ旅装も解いていないのに早速あの人に呼びつけられているんだろうな...“リンさん。あんたはどう思う?”って、いつもの調子で意見を求められて」
 少女のような口調で女は寂然と独り言をつぶやいた。
 ガチャ子の贈り主ソムチャイ・ポラカンはステファニーの大伯父にあたる。年長の義弟、モントリー・スントーンは、経済観念に著しく欠けるソムチャイに、面と向かって意見が言える数少ないブレインだった。このふたりの葛藤をつぶさに見て育った女にも、運河建設の是非をめぐる迷いがないわけではない。タイ語による政治の話しをかろうじて咀嚼した有佳は、しばし沈黙する女の胸中を間近に垣間見たような気がした。
 プラ・ブッダ・ヨートファー橋をくぐると間もなく、夜陰に白々と伽藍の尖塔が浮かび上がる。暁の寺だった。船べりに肘をつき、夜風に髪をあらわれながら有佳も呟いた、
 「ソムチャイさんが亡くなって、康くん、ものすごく寂しかったでしょうね。ヌンさんのおじいさんの時も、ずいぶんつらそうに見えたわ」
 「どんな時もコウは感情を顔に出したりしないでしょう。ソムチャイさんの葬式の後だって、むしろ、手柄の独り占めと言わんばかりに、日本企業やタイ政府関係筋に運河の建設を働きかけたの。あの頃、コウが眠っている姿はほとんど目にしなかったわね。でも、はじめは一所懸命だったけれど、誰も耳を貸してくれないものだから、だんだんいじけていったんじゃないかしら」
 「けっこうナイーブなんだね」
 くだけた調子で呟きながらも、学級委員になることさえ厭がっていた康士がふたつの国のあいだに立って積極的な運動を繰り広げていたという証言は、有佳にとって新鮮な驚きだった。
 「ねえ、ユウカ。子供時代のコウって、どんな男の子だったの?」
 ステファニーは有佳の神隠しをまだ完全に信用しているわけではなかった。それでも、巧妙に誂えられた筋書きとトリックを、個人的な娯楽として楽しむようになっていた。
 「よかったら、お話して」
 半分からかわれていると承知しながら、有佳はエピソードを“数年前”に探し当てた。
 「いつもクラスで一番小さな男の子でした。あたしは反対にクラスの女の子で一番背が高いから、学校の外でいっしょにいると、よく知らない人から弟と姉に間違われました。ある日、キチジョウジという地元の街を歩いていると、年上の男の子たちから、“お姉ちゃん。チビの弟のお守りなんか切り上げて、おれたちと遊ぼうよ”って声をかけられたんです。そうしたら、コウさん、気が狂ったように怒って、たったひとりで大勢にケンカを挑んで、...顔をナイフで切られちゃった」
 有佳は声を詰まらせていた。神妙な面持ちでステファニーは夫の顔に残る傷跡の物語を聴いていた。
 「ヌンも一度だけ、どうして怪我をしたのか訊いてみたけれど、コウは“忘れた”とか言って教えてくれなかった」
 「本当に忘れていたのかも知れません。でも、あたしのせいでコウさんは、その後の人生でヤクザに間違われるような怪我をしたの」
 有佳はその事件以降、自分を邪険にあしらうようになった康士の心理が、顔の傷より根深い自尊心の放擲にあったことを察知していた。高学年に進級した康士は相変わらず背が低く、つねに厭世的で、協調性に欠ける超現実主義者だった。ステファニーにありのままを伝えるのが、有佳には、陰湿な仕打ちであるように思われた。
 「それ、なんとなく、わかる。だから、また無茶な真似をしなければいいけれど」
 「やさしいんですね、なんだかんだ言ってもヌンさんって」
 釈然としない安堵感を有佳は作り笑いで受け止めた。
 「コウさん、バチがあたりますよね」
 声色は、鼻に引っ掛かっていた、
 「ユウカ、あなた何か勘違いしていない?ヌンはエゴイストなのよ」
 湿っぽい少女の問いかけを訝しむようにステファニーは弁明した、
 「この次コウがタイで何か問題を起こしたら永久国外退去処分になるの。それはそれで仕方のないことだけど、“ヤクザの連れ合い”という理由でヌンも弁護士免許を剥奪されかねないの。保釈の手続きをするたびに司法庁から脅されているんだから」
 船は僅かに傾き、しばらく横揺れが続いた。海軍省の前でかりそめの船旅は半分終わり、反転をはじめたのだ。二人の傍らに王宮と、ややあってバンコク中心街の賑やかなネオンが広がった。
 「まるでギャンブルですね。康くんが馬で...」
 ませた口調で有佳は言い、臙脂色の液体が注がれたグラスを注視した。
 「それ、一口もらっても、いいですか?」
 きょとんとした面持で問い掛けられた女はグラスを押しやった、
 「いいわよ。だって、あなたのほうが年上だもの。ユウカ姉さん」
 にんまりして、有佳はグラスに口をつけた。ちょっと咳き込んで、一気に呷る。さすがにステファニーも面食らった。
 「だいじょうぶ?それって、一口じゃないわよ」
 空になったグラスを逆さにして返すと、照れ笑いを浮かべて、少女はことさら不良ぶってみせた、
 「へっちゃらです。よく勉強の合間に、こっそりお父さんのブランデーを味見していたから...ああ、美味しかった」
 涼しげな眼差しでボーイを呼びつけ、ステファニーは新しいグラスを取り寄せた。
 「それじゃコウと一緒にいてもつまらなかったでしょう。ぜんぜんお酒にありつけないから」
 頬をほのかに赤らめて、有佳は苦い顔をした、
 「その代わり、タバコの煙でさんざん燻されました。でも、お酒を飲めないのが康くんのブレーキになっているんじゃないかしら」
 「あの性格で飲兵衛だったら、もうこの世にいないわよ」
 ステファニーは口を窄めた真顔で暗い水面を指した、
 「いまごろそこいらへんに浮かんでいるわ」
 「へんな死体の雑誌が特集組んでくれるかしら」
 その実まったく冗談にならない戯言だったが、ステファニーと有佳には現下の康士が置かれている状況など知る由もない。その場にいない男を肴に、あばずれ調子で二人は笑い転げ、上品さが支配する船上でかなり目立つ存在になってしまった。おもむろに、気障な足取りで歩み寄ってくる身だしなみのよい男の姿があった。やさしげな眼差しだったが、その奥底には鋭い光が潜んでいる。
 「失礼」
 精悍な褐色の顔から、白い歯が覗いた。
 「明るく笑っているから人違いかと思ったけれど、やっぱり、ヌン...いや、クン・ステファニー」
 「あら、アンポンさん。お久しぶりですわね」
 如才なく、ステファニーはこたえた、
 「忙しなさっているみたいね」
 「なあに、田舎暮らしだから、毎日やることがなくて退屈しているよ。しかし久しぶりに出てきたクルンテープで、まさかこうして君とばったり会えるんだから、私は幸運だ」
 なにやら懇ろな調子である。康士の関係者として見てはならぬものを見てしまったような気がして、有佳は視線を夜景へ逃した。だが、ステファニーは平然としていた。
 「いいの?あんなきれいなひと、ひとりぼっちにしておいても」
 横目で盗み見すると、上品な粉飾が施された柱の蔭のテーブルから、やわらかな銀色の光沢をはなつドレスを身に纏う女がひとり、挑発的な微笑を投げかけている。よくテレビで観る顔だった。
 「彼女、ニュースキャスターじゃない?」
 旧知の女の問いかけに、アンポンは屈託なく答えた、
 「気にすることはない。友達だよ。仕事の話をしていたんだ」
 女にって、すこぶる信用が置けないアンポンの話しっぷりだった。
 「ところでどちらのお嬢さん?妹さんかな?」
 話題が自分に向けられた有佳は、上目遣いで男を見つめ、ぎこちなく合掌した。
 「娘よ」
 ステファニーはアンポンを歓迎していなかった。咄嗟についた嘘が邪険である。
 「ふうん。すると彼女は半分日本人だね。君が大学にはいる前からシマザキと付き合っていたとは知らなかった」
 でまかせを鵜呑みにしている様子はなかったが、康士の存在を知っているプレーボーイは、すこし興醒めしたように微笑んだ。
 「ヌンは子どものころから、明日の夢を昨日の出来事のように話してくれる男の子の友達が欲しかったの。今度はそういう御伽噺を聴かせてくださいましね」
 あくまでも強気な微笑でアンポンは暇乞いして席へ戻った。男が去るとステファニーはぶっきらぼうに説明した。
 「大学の先輩。いま入国管理局の中佐。ハジャイという南部の町の飛行場でチーフをしているのよ」
 入国管理局と聞いて、パスポートがない有佳は、今更ながらに身を硬くした。 
 「いい人なんだけど、あの通りの女好き。ソムチャイ・ポラカンもそういう人だったけれど、タイの切れ者は軒並みその口ね。奥さんが何人もいたりして...コウと知り合う前、アンポンさんには何度も言い寄られたけど、ベタベタされるの好きじゃないから逃げていたの。ヌンって、可愛くない女でしょ?」
 「でも」
 有佳は索然と頬杖をついた、
 「男の人に頼らないヌンさんの生き方って、格好いいと思います。康くんも、ヌンさんのそういうところが好きなんじゃないかな。それなのにユウカ、康くんにいつも甘えていました。だから、きらわれたんだと思う」
 「本当のことを言うとね、ユウカ」
 ステファニーの瞳は、天使の都を映していた、
 「ごめんなさい。ヌンはまだあなたが過去の日本からやって来た、ってこと、信じきっているわけじゃないの。でも、ユウカが来てから、コウが生き返ったのはたしかよ。あなたはコウを救ったの。...いえ、コウばかりじゃないわ。ヌンだって、自分に欠けていたものをたくさん教わった。あのままだったら、ヌンもただ高慢ちきな、厭な女になる一方だったでしょうね。人にはそれぞれ天から与えられた役割があると思う。コウは言わずもがなだけれど、ヌンにしたって自分が信じる道をひた走るような人間でしょう?だけどユウカはちがう。あなたには、もっと高い次元の、よく言えないけど、疲れきった人や自分が厭で仕方ないような人の魂を救う役目があるんじゃないかしら?」
 船はオリエントホテルのはしけに着岸していた。アンポン中佐は、ふたりに目礼を送ってアナウンサーと一緒に下船した。
 「このドロドロした都会に、可愛い天使がふわりと舞い降りた、って伝説は、信じてみる値打ちがあるわね」
 伝票にチップの百バーツ紙幣を数枚乗せ、クレジットカードで支払いを済ますと、宣告された天命に戸惑う有佳を促してステファニーは席を立った。
 「あの、訊いてもいいですか」
 天使にされてしまった有佳は、あわてて現実の世界へ逃げ込んだ、
 「モントリーさんの火葬、月末でしたよね?」
 柳田征四郎の訪タイ日程との兼ね合いが気がかりだった。
 「さっき話した日本の国会議員の友達、四月二十八日にバンコクへ来るらしいんです」
 「あら、そう」
 “国会議員の友達”がいる小学生に、弁護士は誠実に応対した、
 「だいじょうぶ。おじいちゃんの荼毘は二十一日だから、二十八日は間違いなくクルンテープへ帰っているわよ」
 二十一日を月末に計上してしまうステファニーの性格もずいぶん大雑把だった。
 「だいぶ涼しくなったし、そこのインターナショナル・マーケットで明日の朝食仕入れて行かない?」
 しかし、有佳はおそるおそる訊いた、
 「きょう、二十日なんですけど...いいんですか、こんなところでのんびりしていて?」
 ほろ酔い気分の女は、蒼褪め、駐車場めがけて走り出した。






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