* この物語はフィクションであり、登場する人物、企業、
団体、一部政府機関の名称は架空のものです(著者)。




第二十三話




 三月も、あと数日で終わろうとしている。一年を通して最も暑い季節がはじまっていた。
 バンコク市内のアパートや賃貸マンションには、たいがい日極で貸す部屋がいくつか用意されている。島崎は、そんな人目につきにくい宿泊施設を泊まり歩く放浪生活に入っていた。移動は、攻勢に立つゲリラ戦の基本である。開きっぱなしにしたB5のノートパソコンには、サイアムポストのトイをはじめ、報道の権利を共有する面々から、次々と情報がもたらされて来ていた。アソク通りの日本領事館の周辺には、ジャーナリストとおぼしき連中が、常に幾人か、内部の様子を伺ってうろつくようになっている。外国人が多かったが、タイ語の現地紙にも、記者を派遣しだしているところがあるという。
 いまの段階では、本論にメスを入れた記事を載せたメディアは登場していないが、“日本の公務員は、昼食代のツケを国民の税金に回している”などといった、領事館と裏手にある日本料理屋の癒着を嘲る程度のつまらないコラムが、ちらほら紙面に認められるようになっていた。ただ、せんにバンコクを訪れた、賑やかな記者がいる新聞社の紙面には、これといった動きが見られない。大きな会社だけに政治があるし、また、当の記者自身が飽きてしまったことも考えられる。もともと組織立った戦闘ではないので、ゼネコン疑獄の反省から自分のペースで調査を続行する島崎には、相手を詰る理由も、参戦を強要する意思もなかった。
 そうするうちに、見覚えのないアカウントのメールが舞い込んだ。内容は島崎に面会を申し込むもので、送信者はタキとなっている。すぐに誰だか察しがついた。
 「いよいよドクターが出てきたか・・・まさか、蟹の刺身の支払いを押し付けたのがバレたんじゃあるめえな」
 クリスマス・イブの晩、有佳を巻き込んで暴食した贅沢な日本料理屋で隣に座っていた男がいる。
 「ま、あれを払ってくれたのは篠塚の旦那だろうけど」
 開け放った窓から吹き込む熱い風を浴びながら、島崎はにんまりしながら呟き、メールの送信者の人物像を頭の中で反芻した。
現在、タイ政界に最も太い人脈を個人的に確立している在留邦人は、経済学の博士号を持つ旧華族の滝である。島崎に面識はないが、ペッブリ通りの大きなビジネスタワーに夥しい多国籍スタッフを集め、最新設備のオフィスを構えるデベロッパーは、とかく華麗なイメージで知られる有名人だった。だが、ここはバンコクである。この街で羽振りがよい人士である以上、滝にも、ご多分に漏れず裏の顔があった。見栄や粉飾を必要としない華やいだ経歴は、ドクター滝を日本人詐欺師業界の頂点に押し上げていた。滝が率いるシンジケートは、長年スクムビットのペントハウスに陣取り、興信所や代書屋を営みながらバンコクの裏日本人社会に君臨し続けている“事件屋”の篠塚グループに唯一対抗できる勢力だった。
 ホテルの日本料理屋で有佳に詳細を語ることはなかったけれど、それが島崎のみならず、バンコクの裏町でとぐろを巻く日本人が共有している滝の肖像画である。
 ちなみに最近、川本という謎の人物を立てて、しきりに井坂へ接近を図っている福原や武藤の“企業乗っ取り屋軍団”は、篠塚や滝に次ぐ第三勢力と見なしていい。ただ、蛇の道を知悉した島崎の耳には、滝シンジケートの現状も断片的ながら、伝わっている。一時はF1グランプリにプライベートチームを出場させるほどの経済力を備え、伝説にのし上がっていた大物詐欺師も、金融危機に見舞われたタイでは、騙すべき獲物がいない。当座のシノギは、雌鶏、仔豚、それに南西アジアの少年といった、いわば密航者全般に及ぶ運びのブローカー稼業に委ねられていた。
 こうしてメールを寄越してくる以上、滝のほうでも島崎に関する情報を集めている。日本領事館の告発工作を進める島崎を味方と考えているはずはないが、さりとてつまらない罠を仕掛けるほど頭の悪い相手ではない。何かの裏取引の提案と判断し、島崎は日時と場所を問い合わせる返信を出した。ややあって、謝意ではじまるメールが届く待。ち合わせ場所に指定されたのは、中国大使館の裏手にあたるホワイクワンの住宅地だった。
 目標物に乏しい路地裏に、白い麻のスーツをまとう伊達男が現れたのは、それから数日後の午後だった。
 「島崎康士さんですね?はじめまして。わたくし、ドクター滝と申します。お見知りおきのほどを」
 日本人のくせに自分で“ドクター”などと赤毛好みのタイトルをつけて名乗るこの人物、いでたちでも洒落っ気たっぷりだが物腰もやわらかい。ひとまず島崎は会釈した、
 「ご高名は兼ねがね伺っております」
 人好きのする笑顔を湛えて、滝はいった、
 「それは、光栄ですね」
 身のこなしは隅々まで洗練されていた。もしここがバンコクでなかったら、ちょっとした貴公子である。洗いざらしのTシャツに半ズボンとサンダルを引っ掛けた通行人は、全員が物珍しそうにミュージカルの舞台から抜け出して来たような中年男をジロジロ眺めながら通り過ぎていった。
 「しかし、わたくし、生まれは鹿児島でして、名古屋ではありません。それに、道産子の娘もおりませんので。あしからず」
 「あははは」
 笑うことによって、島崎はささやかな良心の呵責をふり払った。
 「如何でしょう、素晴らしいワインを揃えた店があります。よろしかったらお近づきのしるしに奢らせてください」
 「お言葉はたいへん有り難いのですが、あいにく体質が酒を受け付けないので、コーヒー屋にして戴けませんか?」
 不粋な応答にいやな顔も見せず、紳士は、
 「オーケー。もちろん、けっこうですとも」
 と頷き、しなやかに掲げた指をパチンと弾く。何処からともなく、胴がめっぽう長いリンカーンのリムジンが現れて二人にすり寄って来た。マンハッタンの摩天楼を背景にしていれば絵になるが、バンコクなので、泥臭い周囲の景色からすっかり浮いていた。
 「あの、もしかして、これに乗るんですか?」
 「どうぞ。遠慮なさらずに」
 往年のプレイボーイには庶民の気恥ずかしさなど伝わらない。
 「いや、べつに遠慮しているわけじゃないんですが・・・」
 漫画的要素に溢れた人物だが、それでもドクターはしたたか者だった。たかがコーヒーを飲むために一流のホテルに部屋を取ると、パキスタン人のボディーガードを下がらせて、用件を切り出した、
 「福原さんが動いていらっしゃいますね」
 島崎は井坂の話を思い出した、
 「ええ。どうやらそのようです」
 「何のためでしょう?」
 わざわざ密談のためにこれだけの舞台を用意する相手である。
 島崎は素直に答えた、
 「ご当人は、“日僑社会の再編成”をなさる気でいるようです。どんな大義名分を戴くとか、詳しいことは自分もまったく知りませんが」
 ドクターは納得したらしい。安楽椅子の背もたれに深々と身を沈めた、
 「島崎さんは、ソムチャイ・ポラカン大尉と親しい間柄だったと伺っています」
 ソムチャイ・ポラカンを持ち出されて、島崎は口元を引き締めた、
 「これは珍しい。あの爺さまの名前を、他の邦人から聞かされたのは初めてです」
 滝は平然といった、
 「私にはいろんな情報網がある。当然、福原グループが何を目論見、あなたがこの国の誰と、どんな形で繋がっていたかはおよそ把握しているつもりです」
 「何か、関わりがあるんですか?つまり、福原さんとソムチャイさんに」
 ソムチャイ・ポラカンもタヌキであった。さしあたって、政治絡みの案件は島崎と意志を通じていたけれど、実業方面では、別の日本人と接触があったはずである。
 「“非帰属地区”という、奇妙な仮称をお聞きになったことはありませんか?」
 「まさか」
 滝の問いかけに意表をつかれ、島崎の視点はしばし宙を漂った、
 「各国の有志が新しい民間の国際機関を立ち上げて、タイ国から土地を租借し、パスポートの要らない自由港を造営するという、伝説の絵空事ですね」
 現在の世界の公理に照らし合わせれば、それは狂人の妄想と言ってもいい。しかし、他人事のように論評しているが、萌草会を抜け出した後の島崎は、しばらくそんな見果てぬ夢の可能性を模索するドン・キホーテのひとりだった。だから、いつになく、狼狽した。
 「そうです。政敵の多いソムチャイさんが、あなたもよくご存知の或る計画と併行して練り上げられていた、世界で最初の無国籍地帯設営プロジェクトでした」
 “非帰属地区”の前提となる“或る計画”が連続して飛び出すのは予想できた。平静を取り戻す島崎にドクターは淡々と続けた、
 「ソムチャイさんは亡くなったが、構想そのものは生きています」
 「つまり、福原グループの狙いは、“非帰属地区”への参入ですか。いや、しかし、その計画にしたって、タイ政界の保守派から猛反発をくらって頓挫したはずですよ」
 島崎は付け加えた、
 「あの、幻の計画同様にね」
 滝はポットを手にして、空になったふたつカップにコーヒーを注いだ、
 「タイの政治は、しばしば方針が変わります」
 百戦錬磨のデベロッパーはぴしゃりと釘を刺した、
 「景気が好ければ、何もわざわざ自分の国を切り売りするような計画など認める必要はありません。しかし現状は如何でしょう?」
 これはただの詐欺師ではない、島崎は滝を見つめて思った。
 「ソムチャイさんは七十年代以降の好景気の盲点を見抜いていたのですよ」
 滝の腹は読めた。この男が働く詐欺には、いつも必ず実体が用意されている。これから新しい仕事を仕組むなら、“非帰属地区”は、お誂え向きの素材だった。
 「ドクター」
 島崎は身を乗り出した、
 「すると本日のご用向きは、ソムチャイ氏と自分の関係のご確認だけだったのでしょうか?」
 ジラパン・ポンサネーの影が気になっていた。北東タイ出身の利権亡者が、自分とは縁もゆかりもない南部タイを舞台とした案件のプロジェクト始動に対して、素直によい顔をするものだろうか?滝は回答する代わりに微笑して、茶色いクラフト封筒をテーブルに乗せた、
 「さしあたって、日本円で百万ほど入れておきました」
 「・・・」
 「福原グループに接近して、付かず離れず情報を掻き集め、逐次この私に報せてください。これは“ソムチャイ計画”の生き残りである島崎さんにしか頼めないことです」
 そして、言い足した、
 「“川本”という人物に会ったら、私が食事に招待したがっている、とお伝えください」
 ここでいよいよその影を色濃くした川本の存在感も去ることながら、この時節に、鋭い金銭感覚の持ち主が百万円という大金を、あやふやな浪人に投げて寄越す意味は重大だった。だがさしあたって、多少の日本円は確保しておいたほうがいい。真剣に有佳の帰国を段取りしようと考え始めた島崎は、やらずぼったくりと心に決めて、大物詐欺師が差し出すクラフト封筒を懐中におさめた。


 いつものように賑やかな放課後だった。タイ人というのは日本人にとって、概して油断のならない国民ではあるけれど、一旦気心が知れてしまうと打って変わって極端に面倒見のよい気質をのぞかせる。
 「はい、ユウカ。どうぞ、これを飲んで」
 新しい友達のひとりが、売店で買い求めた緑色の炭酸飲料を差し出した。
 「ありがとうございます」
 トイレの芳香剤を味合わされるような気分にはだいぶ免疫力ができたけれど、学校の友達が奢ってくれた飲み物は、今日一日だけでも、これで五本目になる。蜂蜜を回し飲みするような過剰なホスピタリティだった。それでも有佳はアジア人の端くれだった。断ったり、残すのは気が引けるので、つとめて嬉しそうに炭酸責めの拷問を甘受した。
 「ユウカは日本人なのに、どうして日本人学校へ行かないの?」
 ストローから口をはなすと新しい友達は聴講生に矢継ぎ早に質問を浴びせかけた、
 「タイ人の学校に行ったら頭がわるくなる、ってお父さんやお母さんは心配しないの?日本の学校の友達は反対しなかったの?どんな事情があるの?家で何か困っている問題があるの?」
 親しくなると或る程度のプライバシーを犠牲にしなければならなくなるのも、タイ人と付き合う日本人には最初の関門と言えよう。
 「日本の学校の友達がユウカにタイの学校へ行くように勧めました」
 女の一人称は年齢を問わず、本名なりニックネームによる固有名詞が一般的だ。私服姿の有佳は痛々しいほど正確な文法にのっとったタイ語で答えた、
 「でも、わたくしはいまクルンテープにいます。だから、タイのことをたくさん知りたいです」
 赤レンガの塀の外側では、今日も大勢の父兄が車を止めて、我が子の姿を探している。この国では、中産階級以上になると、自家用車で子供を学校へ送迎する親が多い。これには過保護という側面もあるが、金銭的に豊かな家庭の子女は、とかく誘拐犯人の標的になり易いので自衛策の意味合いが大きかった。とりあえず気持ちは通じたらしい。校門の人垣に母親の姿をみつけると、友達はほっとして微笑み、
 「じゃあね、幸運を」
 と言い残して、駈け去った。
 「“日本の学校の友達”か。あたし、嘘は言っていないよね・・・」
 溜息をついて、ふたつの康士の顔を思い描く有佳は、独り言を漏らした。
 ルンピニの私立学校に抛り込まれた聴講生は、はじめのころ、学校を経営する隣人夫婦に連れられて登下校していたが、いつしか近くの法律事務所に通勤する家主の車に便乗するようになっていた。有佳に足並みを揃えているというわけでもないらしいが、フレックス勤務の弁護士は、これまでの昼過ぎに出勤し、深夜に帰宅するライフスタイルを見直して、世間並みに朝から夕方まで働くシフトを取り入れている。そんなわけで、授業が終わると、法律事務所のスタッフが徒歩で有佳を迎えに来るのが日課になっていた。
 ところが今日に限ってスタッフの姿が見当たらない。有佳はひとり、日陰になった石のベンチに腰を下ろした。上水遊歩道の木製ベンチに座った瞬間の感触をしばし思い出したが、頭上で揺れる孔雀樹の尖った枝葉が桜の若葉に化けることはなく、目の前の景色はあくまでも黄ばんだ陽光にさらされる異国の都会のオアシスだった。
 「なんで、こんなことになっちゃったんだろう」
 平成の日本も未知なる異国だった。いまの有佳には、安心して破目をはずせる本国がない。ルンピニ公園の池を渡ってくるそよ風が、ぽっかり開いた心の空洞に吹き込んで、小さな胸をしめつけた。
 誰も知らない世界へ飛んでいきたい、というのは、毎日のように電車に乗って学習塾に通う有佳が、道すがら、いつもぼんやり考えていた夢想に過ぎなかった。なのに、それが実現してしまった。果たして、窮屈な塾通いの優等生というしがらみから解放されたものの、本国の喪失という重大な代償を支払わされていたことに、今更ながらに気がついた。
 まともに話しが出来るのは大きくなった康士ひとりきりである。
 御殿山の康士は有佳にとって自由の権化だった。だから羨望に似た憧憬を温め、性差を意識する年頃になると、友達以上の感情をいだくようになっていた。ところがその頼みの綱ときたら、ここ数週間、有佳の手がまったく届かない深夜の海を回遊している。音信も途絶えたままだ。本物の自由は、ありとあらゆる庇護と決別してはじめて獲得できる。成長した康士が、いまだにその目的のために、我武者羅になって暴れ回っているのはよくわかっているつもりだった。しかしそれと同時に、有佳は自分が避けられていることも薄々察していた。
 「ごめんね、遅くなっちゃって」
 出し抜けに背後から声をかけたのは、法律事務所の事務員ではなく弁護士本人だった、
 「泣いているの?心配させちゃったわね」
 涙の理由を誤解しながらも、ステファニーは高価なハンカチで有佳の頬をさらりと拭う。ふしぎな安堵感が、有佳にさらなる落涙をもたらした。フォレスターのイグニッションキーを回しながら、ステファニーは言った、
 「ねえ、ユウカ。ちょっと買いたい物があるの。美容院にも行きたいし。プルンチット通りの中央デパートでタイスキでも食べて帰りましょうか」
 「はい、賛成です!」
 ほんの一分前に泣いていた娘は、思わず元気良く返事をしていた。
 有佳もデパート廻りは好きだったが、康士にしろ、井坂にしろ、身近な男連中はウインドショッピングなどまるで興味がなく、まず能動的に連れて行ってくれようとはしない。よしんば一緒にショッピングモールへ出かけても、彼らは自分が買いたい品物を手に入れると、窒息しかけた魚のような面持で足早に外へ出ようとする。最近になって、それが店内全面禁煙のせいだとわかったけれど、いずれにしても、同性のステファニーなら、のんびり商品を見ていても急かされる気がかりもなかった。
 デパートまでは僅かな距離だったが、夕方なので渋滞がはげしかった。十分間停まって、三メートルばかり進み、また停まる。排気ガスの海の底で空費される時間を持て余し、有佳はおもむろに赤い小さな財布を出すと遠慮がちに言った、
 「ユウカ、タイのお金を持っていないのです。日本のお金がすこしあります。バーツに交換してくれませんか」
 「造作もないわ」
 両替も気晴らしの種だった。ステファニーは自分の財布を出して訊いた、
 「いくら替えたいの?」
 「五千円のお札が一枚ですけれど」
 言いながら有佳は日本の紙幣を差し出した。
 「あなた、好い時期にタイへ来たわね。ちょっと前なら一、二五〇バーツだったのに、今日は一、八七〇バーツになっている」
 五千円札を受け取ると、にわか両替商は二千バーツを手渡した。
 「こまかいのがないの。おまけしておくわ」
 余裕をのぞかせておきながら、ステファニーはおもむろに大きな瞳をさらに大きく見開かせた。後ろの車にクラクションを鳴らされて、慌てて二メートルばかり前進すると、
 「この人、誰?メガネをかけていないけれど」
 新渡戸稲造という名前は知らなくても、ベトナム戦争の後に生まれた華僑の孫娘が記憶している五千円札の顔は別人のものだった。有佳は大判の紙幣に描かれている飛鳥時代の政治家の名前を言った、
 「ショウトクタイシ、という人だけど・・・何か?」
 有佳の誠実な素振りには、偽札を掴ませようとする後ろめたさがない。
 「これが第一級品の証拠というわけ?」
 まず女は夫のまわりくどい捏造を疑った。だがそれでも、“ピー(姉さん)”と呼ばれてしまったからには、どのみち持ち合わせがなく困っている相手に対して援助の手を差し伸べないわけにはいかない。ステファニーは、過去の日本から持ち込まれた古銭をハンドバッグへ仕舞い込んだ。
 渋滞は、取り留めのないインタビューを試みるのに都合が好かった。有佳にはステファニーに訊いてみたい事が山ほどあった。
 「コウさん、どこで何をしているのかしら?」
 助手席の少女が切り出すと、ハンドルを握る女は当たり前のように、
 「お互いのプライベートには干渉し合わない主義なの」
 と、答えた。
 「心配じゃないんですか?コウさんのこと、愛していないんですか?」
 タイ人化してきたのか、有佳は他人の内面へ土足で踏み入るような質問をまくしたてた。
 「愛していないわ」
 有佳は仰天した。ステファニーという女は、少女マンガや恋愛小説に描かれているヒロインたちとまるで次元の異なる科白を平然と言ってのける。
 「そもそも『愛』と訳されているサンスクリット語は、『執着』や『未練』を指すネガティブな言葉なの。お互いに重荷になるだけだから、そういう感覚で付き合うのはよそう、って結婚する前から協定を結んでいるのよ」
 刹那、康士本人と話しをしているような錯覚をいだいた。亭主が亭主なら、女房も女房である。毛並みは違っていても、康士とステファニーからは、兄妹みたいな性格の符合が読み取れた。
 「それよりユウカは、どうしてコウみたいな小父さんと付き合うのかしら?」
 質問者が入れ替わった、
 「日本の同級生に素敵な男の子がたくさんいるでしょう?」
 「康くんが、同級生なんです」
 あきれ果てた面持で、ステファニーは溜息をついた、
 「あなたたち、ふたりしてわたしをからかっているの?」
 「そんなつもりじゃなくて、本当なんです。信じてくれないかも知れないけれど」
 五千円紙幣を思い出しながら、薄い瞼も重たげに、ステファニーは有佳を観た、
 「するとユウカはヌンよりピーなのね。いいわ、それならそれでも」
 そして表情を変えずに付け加えた、
 「でも、いいこと?コウという男は、たとえ本人にその気がなくったって、危険な人物なのよ。彼自身は何があっても簡単に負けたりする男じゃないけれど、問題は周囲の人たちだわ。コウと同じくらいのサバイバル能力があればいいけれど、たいがいの人間はとてもついて行けない。するとどんなことが起きると思う?コウは高台に駆け上がることができても、足の遅い人は決壊した川から流れて来る洪水に呑み込まれてしまうんじゃないかしら?幸い、いままではそんなことがなかったけれど、明日はわからない。ユウカはくれぐれも巻き込まれないよう用心することね」
 それは、御殿山小学校で有佳が漠然と感じていた康士観に近いものだった。
 「ヌンさんはどうして大丈夫なの?」
 反発心からではなく、康士に置き去りにされずにすむ知恵が欲しかった。
 「ヌンは法律家よ。コマンドの隊員じゃないわ。自分の職域をはっきりさせておけば、さしあたって自ら墓穴を掘るようなことはないと思ってるの」
 つまり、康士のことは野放しにしておこう、という提案らしい。
 「誤解しないでね。ヌンはべつにユウカをダーリンから遠ざけようとしているんじゃないの。あなたを見ていると、心配になってくるのよ、なんだか、目に見えない運命の力に翻弄されているお人形さんみたいで、よくわからないけれど、同情したくなるのよ」
 ステファニーが異常なまでに自分によくしてくれていることを有佳は痛いほど解っていた。うやむやは避けたい。おもむろにピンク色の定期入れを取り出して、名門学習塾が発行する身分証明書を払いのけると有佳は一葉の写真を引き抜いた。
 「この写真を見てください」
 それは日本の小学校の校庭で撮影された、十人ほどの子供たちが横一列に並んでいるスナップだった。一団の背後には校舎と水道の蛇口が並ぶ四角いコンクリートが横たわっている。逆光気味のアングルだったが、左端に佇む白いブラウスを身につけている背の高い少女が有佳であることはすぐに判った。大人びた面持で、静かに微笑んでいる。
 「右端のいちばん小さな男の子。ヌンさんなら誰だか解るでしょう?」
 黒い無地のトレーナーを纏う小柄な少年が、ひとり斜に構え、陰気な仏頂面でカメラを睨んでいる。眦には、くっきりと真新しい傷跡が刻みつけられていた。眉間に皺を寄せて、ステファニーはおもむろに唇をひらいた。
 「これも第一級の証拠品と言うわけ?日本の技術力は何もかも高いから...でも、偽物作りやコラージュなら、タイには日本人に負けない技術者も大勢いるし...」
 急に前方の車団がずるずる動き出した。もうしばらく考える時間をちょうだい、と言いたげな面差しで、ステファニーは謎めいた写真を持ち主に返し、話題を切り替えた、
 「ヌンの祖父の火葬の日取りね、今月の終わりに決まったの。ユウカも一緒にナコンサワンへ行ってみる?」
 有佳は昭和の時代から一度も髪を切っていなかった。カチューシャを几帳面につける習慣もなくなり、狼少女になりかけていた。ステファニーに便乗して立ち寄ったデパートの美容院で、前髪をおろし、おかっぱにしてもらった。タイの少女の標準的な髪型である。顔つきが、一気に幼くなった。一方、折角カットした髪をあまり変わり映えのしないポニーテールに結った女弁護士は、有佳の変身ぶりを受けて、美容院を出るとまっすぐ予定外の学生服コーナーに向かった。デパートなので、公立学校の標準服ばかりでなく、バンコク市内にある私立校の制服もおおむね揃っている。聴講生だからと言って、何も私服で通す必要はない。含み笑いを浮かべてステファニーが手にとったのは、有佳にとって見慣れた丸い襟の長袖ブラウスと、青いスカートの取り合わせだった。


 あくる日、有佳のイメージチェンジはクラスメイトの好評を博した。
 「カメラある?」
 昨日の帰り際、炭酸飲料を奢ってくれた子が言った。有佳は以前、ステファニーがくれたカメラをいつも持ち歩いていた。
 「ありますよ」
 「じゃあ撮ろう、撮ろう!」
 するとそこへ、受け持ちの男の先生が読みかけの新聞を持ってあらわれた。有佳の知る日本の学校だったら、カメラなど没収されてしまう。ところが流石はイベント好きなタイ人、先生は自らカメラマンの役を買って出てた。
 「ユウカ、きみもとうとうタイ人になっちゃったね。この新聞も読めるかな?」
 軽口を飛ばしながら、先生は手にした新聞を有佳にあたえ、読み耽っているポーズを勧めた。ところが、他の子が津波のように主役を取り囲み、先生の目論見はあえなく潰え去った。有佳はクラス中の子に押しこくられて、前髪の下からファインダーを覗き込んで無邪気に笑った。
 しかし、いかにタイ語の日常会話に支障を来たさなくなったとはいえ、手にした現地紙に踊る、“某ゴシップ雑誌の記者が市内東部の運河で水死体になって発見された”という見出しを、有佳はまだ読み取ることができなかった。



 四月も中旬に差し掛かっていた__。
 照りつける太陽のせいで、電話ボックスの中は蒸し風呂同然だった。
 「そっちの動きはどうだい?」
 街角の公衆電話から、シャツのボタンを掻き毟りながら、島崎は同じテーマを追い駆けている同業者と話していた、
 「取材する時にはあたりに充分気を配ってくれ。反対に見られている場合だってある。特に最近は、だいぶキナ臭くなっているぞ。先週もドイツ人のエロ本屋とつるんで領事館を見張っていたタイ人のゴシップ屋がプラカノンの運河に浮いたばかりだからな」
 あまりにも暑いものだから、ついに足を支え棒にしてドアをこじ開け、いくらかでも涼しい外気を誘い込みながら喋り続けた。すると、通りすがりの子供たちが、いきなり島崎に水鉄砲を向け、狙撃した。慌ててドアを閉める、
 「・・・日本の大手ジャーナリズムは軒並み洞ヶ峠を決め込んでいる。そう、いつも通りだよ。おそらくソンクラーン休暇が明けるころには、タイ側からも落伍者が続出するはずだ。それくらいスパキットの妨害工作は凄まじい」
 暑さが頂点に達する正月に、盛大な水掛祭りが行われるのは広くインドシナ一帯に共通した行事である。タイでは、”ソンクラ−ン祭り”という。ブルーカラーや飲食店の店員の大部分を占める地方出身者は、その多くが故郷へ帰省するので、この時期は日本料理屋ですら、ほとんどが三日四日のあいだ閉店する。
 「ここが正念場だ。とどのつまり、日本人が起こした騒ぎは、日本人がカタをつけるしかないんだ。ソンクラーン明けに生きていたらまた会おう」
 ソンクラーン休戦、とでも呼ぶべきだろうか、領事館の査証不正発給を廻って鬩ぎ合っていた両陣営の動きが、ぴたりと止んだ。
 すでに祭りが始まっていた。街路という街路は何処もかしこも、のべつまくなしに水しぶきや景気付けの小麦粉が飛び交う戦場に変貌している。バスに乗っていようが、トゥクトゥクやオートバイに乗っていようが、天下の往来に肌身を晒している以上、どんなに取り澄ました外国人もお目溢しには預かれない。のべつまくなしに歓声や悲鳴が方々から聴こえてくる。道路は空いていた。こんな時期にタクシーを選り好みするわけにはいかない。道端に二三分も立っていようものなら、確実に頭からずぶ濡れにされてしまう。島崎は辻待ちのタクシーを捕まえると、にやけながら“マッサージ?”と囁き、しきりにソープランドのリフレットを見せようとする運転手を、
 「ちゃとちゃっくっ!」
 平仮名タイ語で誘惑を制して腕組みした。
 ほぼ四週間ぶりの帰宅だった。高額所得の入居者が多いためか、チャトチャクのコンドミニアムは、いまのところ市街戦の圏外に置かれている。エレベーターホールに、白いブラウスと青いスカートの制服を着たおかっぱの少女がいた。よく見るまでもなく、それが有佳であることは判ったけれど、ちょっと別人みたいだった。
 「ずいぶんガキっぽくなったな」
 「だってガキだもん」
 それが約一ヶ月ぶりの挨拶だった。
 「今日もヌンさんはお仕事よ。夕方までルンピニの事務所だって」
 法律家の秘書みたいな口調で有佳は言った。
 「あいつは単にソンクラーンが嫌いなだけなんだよ。だから毎年この時期になると無理矢理仕事をつくって事務所に避難するんだ」
 「この部屋にいると康くんが水をかけるんでしょう?」
 聞き流し、島崎は有佳の着ている物に目を向けた、
 「学校は休みじゃないのか?」
 「やすみだよ。クラスの友達のお婆さんにお水をあげに行って来たところなの。タイのいろんなことを経験したいから、その家の人たちに混ぜてもらって儀式に参加したの。すごく楽しかったよ」
 「うそつけ。あんな眠ったような儀式のどこが楽しいんだよ?」
 気まずそうに、有佳は笑った。

 島崎はふと、十年前の情景を思い出した。


 水かけ祭がはじまると、インドシナ半島は、どこもかしこも無礼講であるかのように見受けられるが、上流社会や素封家の家庭ではまるで趣の違う催しが挙行される。親族一同集まって、花びらを浮かべた水で長老の手を洗い清め功徳を積む、いわば厳粛な儀式だった。ところが、たまたまソンクラーンの季節にタイに居合わせた日本人の青年は、そんな仕来りをまるで知らなかった。背負い式のタンクがついた大型の水鉄砲を携えて、スクムビットの五三小路へ赴くと、いつものテラスで、盛装したソムチャイ老人は椅子に身を沈め、退屈そうにうたた寝していた。しめたっ!島崎は裏手から屋敷に侵入し、水鉄砲を構えて接近すると、いきなり老人に水を放った。ところが様子がおかしかった。外からは死角になって見えない屋内には白い礼服を纏ったポラカン家の人々が勢揃いしており、闖入者は刺すような冷たい視線を浴びせられていた。立つ瀬がなかった。目をぱちくりさせて、やおら憤りを露にすると、ソムチャイは固く口を閉ざしたまま、島崎を手招きした。
 「たいへん遺憾に思っています」
 すっかり恐縮して頭を下げると、何を思ったのか、ソムチャイは藪から棒に銀の碗にはいっていた水をすべて狼藉者の顔に浴びせかけた。
 「隙だらけだ、未熟者め」
 と尊大に言って、破顔一笑、磊落な笑い声を響かせた。長老自身の戯れのため、由緒正しいお寺からもらって来た聖水はすべて台無しになり、その年の儀式はぶち壊しになってしまったが、島崎の面目はからくも保たれたのだった。


 そそくさと有佳は鞄から学校で撮影した四五枚の写真を出して、ひとりの少女を指した、
 「ほう。こいつは美人だ」
 現実に立ち返って島崎は有佳の説明を促した。
 「この子の家へ行ってきたの。中国風の豪邸で、庭にはたくさんロココ調の石像が並んでいるのよ」
 「中華風とロココ調か。平和な分だけ悪趣味なんだよな、この国の華僑は」
 写真をよく見ると華人系の子が多く、有佳の白さもそれほど目立たない。むしろ御殿山小学校にいた時よりも、自然に溶け込んでいるような印象を受けた。
 「金持ちの友達と仲良くしておくのはいい心掛けだね。今度この彼女、おれに紹介しなさい」
 有佳は舌を出した、
 「いやだよ」
 ウィバパディ通りに現れた頃に比べて、有佳は確実に下品になっている。しかし、慎ましい優等生でいられるよりかは、本性を剥き出しにしつつあるいまの有佳のほうが、島崎にとっては格段に話し易い相手だった。
 「そうだっ!」
 黒いストラップシューズを気ぜわしく脱ぎ捨てると、有佳はいまや自分の部屋と化したかつての島崎の寝室に駆け込み、両手で封筒を抱えながら戻って来た。
 「柳田くんから手紙が来ているよ」
 頬を膨らませたタイ人風の少女は、御殿山小学校のクラスメイトから届いた一通の封書を差し出した。刹那、島崎の背中には冷たい感触が走ったが、日本の小学校を離れて”数ヶ月”の有佳は、そんな男の狼狽など露知らず、後ろめたそうに口元を緩めていった、
 「男の子の世界って、意外よね。康くんと征ちゃんが手紙を送ったりするくらい仲が良かったなんて、あたしぜんぜん知らなかった」
 Mr.SHIMAZAKI Kojiで、はじまる宛先は、きちんとチャトチャクの住所になっている。Nippon (Japan)と、だけ英語で付記された、差出人の住所氏名は漢字である。御殿山小学校に程近い吉祥寺のマンションだった。沈黙ののち、島崎は仏頂面で答えた、
 「柳田との付き合いは大学の時分にはじまったんだ。小学校とは何の関係もないよ」
 「でも、平成では友達になっているんでしょう?」
 「奴から連絡が来るのは六年ぶりだよ」
 「それにしては康くん、ちっとも驚いていないわ」
 白ける有佳は封筒の裏面を見つめ直した。
 「予兆はあった」
 言いながら、島崎は稲嶺庄之助の顔を思い出した。沖縄県出身の萌草会工作員に前任者の氏名を教えたのは、他でもなくこの書簡の差出人である。封筒をひらくと、

   前略 島崎康士 兄
       5543-7841-9052-0
   5486-3321-7693-0
       6749-5531-8401-1
                      草々
                         柳田征四郎

 素っ気無い数字が並んでいた。
 「なあにこれ?電話番号のメモ?“お元気ですか?”の一言もないね」
 がっかりした面持で、開封の瞬間を待ち望んでいた有佳は唇を尖らせた。島崎はナコンサワンで稲嶺から受け取った週刊誌を取り出し、併せて古い英和辞典を用意すると、鼻歌を唄いながら暗算し、まずは週刊誌のページをめくった。
 「ふん。柳田が今月の二十八日にバンコクに来るよ。この前、ヌンの友達の兄貴の知り合いのパーティーで行ったホテルがあるだろう?あそこに泊まるらしい」
 「暗号なの?その数字」
 「おどろくほど簡単な数合わせだよ。数字を規則通りに暗算して、順番に雑誌のページと行から文字を拾っていくと文章になる。こんなやり方、いまじゃ何処の国のスパイだって採用していないし、おれたちにも、もっと高度な連絡手段があるけれど、まあ、単に遊んでいるわけですね、柳田クンは」
 島崎の声色は明るかった。いまさら有佳を日本の小学校へ通わせたいとは思わなかったが、彼女にいつまでもパスポートもないような生活を続けさせるわけにはいかない。日本領事館を宛てに出来ない立場にある男は、ここで登場した同級生に有佳のエスコート役を押し付けてしまう考えを温め始めていた。
 「有佳ちゃんも会うよね?柳田の征ちゃんにさ」
 ところが、有佳の態度は煮え切らない、
 「月末は用事がはいっているの」
 ステファニーとナコンサワンへ行く約束をしていた。
 「キャンセルしなさい。いまのきみには何が一番大事かよく考えるのです」
 用事の内容も聞かず島崎は命令調に言い、本文につづく追伸を解読するため、英和辞典を手に取った。ややあって、解き明かされた追伸の一行に、島崎は頭を打ちのめされ、眩暈をおぼえた。

   追伸:クラ運河計画、年内に始動の見込み。

 ソムチャイのことを思い出したのは、偶然ではなかったらしい。
 ___ いよいよ、動くのか!
 クラ運河計画と呼ばれる構想こそ、『非帰属地区計画』の根幹を成す、二世紀越しの巨大プロジェクトだった。卒然と、稲嶺庄之助が匂わせていた「事業」の意味を悟り、島崎の内部で、健康な少年の心がときめき、弾けた。
 大航海時代、その穏やかな表情とは裏腹に、水深が浅く、岩礁の多いマラッカ海峡は、船乗りたちから魔の海として怖れられていた。もちろん航海機器の発達によって安全面は改善されたものの、自然が作り出した海底地形は近代になっても変わることがなく、狭い澪は、大型化した船舶の円滑な航行を著しく阻んでいるのが実情である。
 化石資源を全面的に輸入に委ねている日本にとって、マラッカ海峡は、いわば喉元に突きつけられた短剣のような海域と言って差し支えあるまい。マレー半島をユーラシア大陸から切り離し、太平洋(タイランド湾)とインド洋(アンダマン海)を直結する幻の巨大運河建設計画の歴史は、いまから約二百年前にはじまっている。現王朝の始祖チャクリ王の弟君スラセ皇子がビルマとの戦争に備えて、水上の兵員輸送路、すなわち運河を掘ろうと言い出したのが発端だった。だが、皮肉なことに、軍事施設として着想されたこのプロジェクトは、その後もしばしば時の理想家たちの食指を鼓舞したにもかかわらず、建設計画が浮上するたびに、折り悪く勃発する戦争によって頓挫する歴史を繰り返してきたのだ。
 半島が最も縊れたチュンポン・ラノン間のクラ地峡以外にも、十余りのルートが検討されているが、慣習的に「クラ運河」と呼ばれている。総工費は二兆六千億円と試算されていた。
 晩年のソムチャイ・ポラカンが、若い島崎康士に引き渡したのが、つまりはこの幻のプロジェクトの推進事業だった。初めて有佳と顔を合わせた時、井坂は平成の島崎を昭和の少女に、法学部出のヤクザ者だが土木に精通している、と紹介した。また、その日の深夜には、ステファニーが“太平洋とインド洋を運河で繋ごうと騒いでいたくせに”と、いかがわしい道をひた走る夫を揶揄し、逆上させていた。一時は確かに砂上の楼閣と諦めきっていた。ところが、ここへ来て、幻の大運河計画がにわかに動き出したらしい。
 「ドクター滝は、知ってやがったんだ!畜生めっ!」
 万歳を三唱する代わりに、島崎は満面の笑みを湛えて叫んでいた、
 「そればかりじゃないぞ。福原も、そして川本ってやつも、みんなこれのために動き出したんだ!」
 眼光炯々とする島崎は、あっけに取られる有佳を力いっぱい抱きしめた、
 「気の流れはネギが現れてから好転しはじめたんだ。ありがとう、わが可愛らしい女神さま!」
 「痛いっ!ちょっと、苦しいよ、康くん!」
 「おっといけねえ。きみが制服なんか着ているもんだから、おじさんはついフラフラしてしまったじゃないか。わははは」
 大人びた少女は、少年めいた男の晴れがましい恐慌の理由などまるで知らない。
 「康くんと柳田くんって、同じ大学に通っていたの?」
 「まさか。偏差値が違う」
 視聴覚教室で女子にまじって弦楽器を抱える病弱な秀才の姿を思い浮かべ、かつて永田町を徘徊していた南洋浪人は、運命の皮肉を痛感して笑った、
 「こっちは暇な日にだけ中央高速を単車で飛ばしたもんだけど、やっこさんは、毎日几帳面に井の頭線で駒場に通っていたよ。三年目以降は本郷だったけれど」
 有佳や他の少女たちが見守る中、視聴覚教室の床にうち捨てられた柳田少年は、仁王立ちする康士に名誉挽回の戦いを挑むこともなく、ただ苦渋に満ちた面持で、嵐が過ぎ去るのをまっていた。
 「征ちゃんも大人になっているんだよね?」
 「なっているよ。なにしろ平成だからね」
 「どんなお仕事しているの?やっぱり、小学校の先生とか?」
 もったいぶらずに島崎は答えた、
 「衆議院議員」
 しばし有佳はぽっかり口をあけた、
 「去年・・・五年生の時に社会科見学で国会議事堂へ行ったよね?もしかして平成の征ちゃん、あそこで働いているの?」
 「うん。宮城県を地盤にして、赤絨毯を踏んでいる」
 島崎の興奮もようやく納まりつつあった、
 「保守政界じゃ武闘派代議士の第一人者って言われている。まだ一年生だけど態度がでかくて陣笠らしさがまるでない。長老にハッパを掛け捲って党を乗っ取らんばかりの暴れ方をしているらしいぜ。潰されなければ遠からず総理になりますよ、柳田クンは」
 「うそよ、そんなの・・・」
 水戸黄門の印籠に平伏す善玉の町娘のような面持で、有佳は虚弱体質の秀才が遂げた変貌に目を白黒させていた。ただ、島崎はもうひとつの視点を忘れるわけにはいかなかった。
 タイは日本の保守政界にとって、利権分配の緩衝地帯になっている。解り易く言うと、東南アジア各国の政界と結びつく“議員連盟”は、必ず有力議員がその会長に納まり、もろもろの権益やバックマージンを傘下に群がる議員連中に配分する仕来りになっているのだが、タイ政界と直接結びつく日本側の代議士はいないのである。これは、タイが絡む利権があまりにも莫大であるため、一派閥に委ねてしまうと、派閥間の資金力のバランスが崩れ、党の内戦、ひいては解党という事態を惹起させかねない危険性を孕んでいるからである。そんな事情から、戦後の長いあいだ、三光財閥の大番頭と渾名される財界の長老が、政治家になり代わって、タイ利権の公平な分配を続けてきたのだが、柳田征四郎という政治家は、あからさまに、タブーを無視してクラ運河を媒介に、タイ・ロビイになろうと野心を燃やしはじめている。
 「こいつはたいへんなバクチだぜ、征ちゃん。四方八方すべてがあんたの敵になる・・・」
 ベランダから下界で繰り広げられる一大市街戦を見下ろしながら、戦力分析を先走らせる島崎は醒めきった面持でつぶやいた。
 「いい天気ね」
 何時の間に着替えたのか、派手な絞り染め風のTシャツにカーキ色のキュロットスカートをまとう有佳が傍らに身を乗り出した、
 「・・・とは言わないんだってね、タイじゃこんな晴れた日のことを」
 「“暑いね”と言えばいい」
 へそ曲がりな答えが返ってきた。
 「小雨が降っているような涼しい日が“いい天気”なんでしょう?」
 ふたりの頭上には、まばゆいばかりの青空が広がっていた。
 「だから、この都会には」
 ひとり合点して微笑むと、雲ひとつない熱帯の天空を仰ぎ見る有佳は呟いた。
 「ときどき・・・」
 野暮な横槍が割り込んだ、
 「熱射病で幻覚症状に陥る悪党があらわれる」
 それがウィバパディ通りで自分を見つけた男の照れ隠しであることを察知したのか、有佳は穏やかな眼差しで島崎を見上げて可笑しそうに口篭もった。いちばん暑い季節だった。
 「水浴びしに行こうか」
 「うん!」
 大きな水タンクを背中にしょって、有佳は街に飛び出した。こぎれいないで立ちの参戦者は、真っ先に無慈悲な集中砲火の的になる。有佳はしょっぱなから歩道橋で陣取っていた若い連中に頭からバケツの水を浴びせかけられ、次いで背後の子どもたちから小さな水鉄砲で狙い撃ちにされた。金盥に張ったピンクの色水を茶碗ですくって、小母さんたちがだめ押しの一撃を加えて囃し立てた。泣き出しそうな笑顔で水をかけられていた有佳は居直った。怒ったような泣き顔で水鉄砲を構えて走り出し、四方八方へ乱射しはじめた。
 「あまりはしゃぐんじゃないぞ、ネギ!」
 こちらもずぶ濡れになった島崎が追いすがって叫ぶと、
 「康くんっ、ちゃんと掩護してよっ!」
 と、思いがけない叱咤が投げ返された。小麦色にかがやく素足にサンダルを引っ掛けた有佳は、陽炎ゆらめく大通りへ駆け出してゆく。ウィバパディ通りに現れた頃と比べて、見違えるほど、逞しくなっていた。
 「ネギっ!風下にまわるな!・・・ちっ、これだから女は頭が悪い」
 風上に立っていたはずなのに、ピックアップの荷台から撒かれる石灰の粉が、まともに舌を打ち鳴らす島崎の顔に躍りかかってきた。
 「どうして優秀な男がこんな目に遭うのよ?」
 口に入った粉を吐き出しながら島崎はうめいた。そして気がついた。貿易風の流れが変わっている。真っ白の顔が、晴れ渡る空をあおいだ。雨季の到来を暗示する雲の破片が浮かんでいた。飴色のぶ厚い雨雲と雷鳴をともなう熱帯モンスーンはゆっくりと、しかし着実に、インドシナの天穹へ近づいていた。






第二十四話へ進む

クルンテープ物語目次へ戻る










女の子お絵かき掲示板ナスカiPhone修理