* この物語はフィクションであり、登場する人物、企業、
団体、一部政府機関の名称は架空のものです(著者)。




第二十二話




 タクシーを降りると、頭上に覆い被さる街路樹がさわさわと揺れていた。枝葉の下をくぐり抜ける風も心地よい。街の中心部の一角だが、この界隈は目につく色彩もほとんどが緑で、煤けた他の市街地とはだいぶ趣が違っている。その昔、イギリス人の商人が建てたと思われる、植民地スタイルの古めかしいビルがあった。黄ばんだ漆喰の壁には、無数の青い罅がはしっている。築後八十年くらいは経っているかも知れない。茶色いペンキが塗りたくられた木製の手すりを伝わって二階へ上がると、踊り場に曇りガラスの扉がついている。曇りガラスにはタイ語と英語で小さく[ルンピニ合同法律事務所]と書かれていた。
 「ごきげんよう、でございます」
 島崎は元気よく言った。閑散とした事務所では、名前は知らないが、白黒ツートンの学生服を着た顔見知りの娘がひとり、コンピューターと向き合っていた。
 「ナコンサワン、たいへんでしたね」
 かつてのステファニーのように、事務所の雑務を手伝っている女学生は、まずお悔やみを言った、
 「先生ならもうじき戻って来ますよ。週明けの調停の打ち合わせで、近くのホテルのロビーへ行っているだけですから」
 所長まで日曜出勤している様子には見えなかったが、来訪の目的はステファニーに会うことだった。
 「いえ、じつは家内に用がありまして」
 「だからヌン先生でしょう?」
 先生という呼び名がしっくり来なかった。水とコーヒーを島崎の前にならべると、女学生は無邪気に言った、
 「今度のソンクラーン(タイ正月)に友達と日本へ遊びに行こう、って話し合っているの。シマザキさんってトウキョウの人でしょう?ディズニーランドとか、化粧品のお店のこと教えてください」
 ズボンのポケットに丸めて差し込んであるサイアムポストが煩わしく感じられた。女学生は続けた、
 「今週中にビザをもらいに行こうと思ってるの。一週間あれば発給してくれますよね?」
 日本の学生がタイ大使館へ行くのと同じ感覚でいる。彼女が良家の娘であることは間違いないだろう。純粋培養の可愛らしさがあふれている。だから世間でいま何が起きているのか、そして眼前にいる“先生の夫”が、どんな世界に足を踏み入れているのか、まったく知らないし、想像もできずにいる。この国の若者が自分の生まれ育った国を見たがってくれているのは素朴に嬉しかったけれど、立ちはだかる現実は厳しかった。
 「よしといたほうがいいんじゃないの?」
 虚しい気分で島崎は言った、
 「あまり面白い国じゃないよ」
 「あら、どうして?」
 まさか、“賄賂を払う或る種の女なら行けるけど、ふつうの若い娘には絶対に観光ビザなんておりないよ”などとは、事実だけに、言いにくい。
 「日本じゃね、英語で道を尋ねてもみんな逃げちゃって返事しないよ」
 「それはタイも同じですわ」
 「カオパッはクルンテープなら一皿二十バーツだけど、トウキョウだと二百バーツもするんだよ」
 「それなら、お小遣いをいつもの十倍持っていくから心配ないわ」
 仕方がないので、はっきり言った、
 「日本人は助平だから、ヤラシイことをさせない女の子を歓迎したりしないよ。せめて日本の男を喜ばせる卑猥な言葉をいくつか覚えておいたほうがいい」
 「まあっ!」
 生まれてこの方、男友達と手を握ったこともないような娘は、真剣に怒り出した、
 「あんまりです。失礼すぎます。日本に行くのはよそう、って友達に言います...そんな下品な国だとは思ってもみませんでした」
 見ず知らずの日本人からいきなり屈辱的な言葉を浴びせ掛けられるより、初心な娘にとって傷は浅いはずだった。ぷっと膨れて、女学生は軽蔑すべき国民から遠ざかり、データ整理の作業に戻った。
 上手に淹れたコーヒーの味が切なかった。
 気まずい沈黙の中、ステファニーが戻って来た。
 「あら、ユウカは一緒じゃなかったの?」
 何も知らない女はひとりでソファに座る夫に訊いた、
 「うん。いましばらく、イサカさんのところで預かってもらうことになった」
 「そう...」
 ステファニーは島崎の妻である。たとえ愛するに値しない宿六であっても、その男がどこの馬の骨とも知れない娘を自宅に住まわせるのは、いくらタイであっても異常な話しであり、妻は不愉快以上の反応を示すのが正常だった。ところがこの女弁護士は、小さな居候を歓迎していた。がっかりしたような溜息に、島崎は妻との間合いを
計りかねた。
 「先生」
 下品な男に当てこするかのように、突然女学生が割り込み、
 「DHLのオフィスへ行ってきます」
 と言い捨てて事務所を飛び出していった。
 「どうしたの、あの子?DHLなら日曜日でも呼べば集荷に来るのに」
 怪訝な面持で弁護士は独り言をいう。島崎にとっては女学生が席を外してくれたのは都合がよかった。
 「ちょっと、ヌンさん。信じなくてもいいから、聞いてくれ。ユウカのことなんだけれど...」
 誠実な表情をのぞかせるステファニーに、島崎は先年十一月下旬のウィバパディ通りで遭遇した出来事から、先刻の井坂との一件まで、真実をひとくさり話してみた。
 「いくらなんでも」
 “神隠し”という現象は、タイでも日本以上の報告事例がある。しかし、白けた面持の現実主義者は、すっかりあきれ返っていた、
 「ユウカをお化け扱いするのは感心しないわね」
 「いっそお化けでいてくれたほうが話はすっきりするんだよ」
 自分が発狂した、と説明できればもっとラクだと思った、 
 「こんな嘘で女房を騙せると考えているとしたらおれはよっぽどの白痴だぞ。ヌンさんを煙に巻こうという腹があったら、もっと説得力があるストーリーを考え出すし、一級品の証拠だってたくさん捏造してくるよ」
 夫の二枚舌の性癖を認めないわけにはいかない妻は、あくまでも仮説として、有佳の素性をわきまえた。
 「どうしてそんなことが起きるのよ?すると、コウの友達だからユウカは忍者かしら?」
 いくら有佳が英語をしゃべれ、タイ語もマスターしはじめているとは言え、ステファニーの理解を得るには言語の壁より大きな文化の壁がある。昭和の記憶を共有していない異民族の現実主義者に、一級品の証拠である有佳のアナクロニズムを納得させるのは、ほとんど不可能だった。
 「それがわかれば苦労はない。とにかく、ユウカはおれと一緒に小学校に入学した同級生なんだ」
 「ユウカはユウカよ」
 ステファニーはきっぱり言った、
 「なぜかわからないけれど、ヌンはあの子が好きなの。いつも、思い及んでいるわ」
 半信半疑の承諾より、はるかに力強い言葉だった。自分が試みた小賢しい説明を哀れみながら、島崎は面持をあらためた、
 「おれ、またしばらく外で暮らす。ユウカのことを頼むよ。イサカさんだって所詮は外国人だ。とどのつまり、あんたのところがユウカにとって一番安全だ」
 ステファニーは黙っていた。
 「たまにはチャトチャクにも戻るよ。じゃあね、ヌンさん」
 一旦外に飛び出し、ふたたび事務所に駆け戻ると、島崎はポケットの新聞を引っ張り出して、ステファニーに投げ渡した、
 「DHLに行った彼女、たぶん男運の悪い先生を心底哀れんでいると思う。不本意なら折を見て、あんたの友達のトイさんがでっち上げた投書を見せてあげるといい。バイバイ」

 鮮烈な木漏れ日が小径にさしていた。気温は朝から三十度を越えている。検査の結果は、すぐに出ると告げられた。有佳はタイ赤十字病院の中庭を井坂と散策しながら時間をつぶしていた。
 「やっぱり、井坂さんに打ち明けてよかった」
 「神隠しかぁ。まあ、生れつきそういう不思議な現象には興味があったからな」
 井坂と有佳には、傍目に比較的年の近い祖父と孫娘といった風情があった。
 「バンコクに来てそろそろ二ヶ月になるけれど、やっといま、足が土に着いたような気がするの。あたしは、えっと、仏暦二五四一年のタイにいるのよね」
 島崎に対する時と違って、有佳は饒舌だった、
 「ねえ、井坂さん。ひとつ訊いていいですか?」
 「どうぞ、いくつでも」 
 「井坂さんはどうして康くんと知り合ったんですか?」
 肥えた男の顔に複雑な緊張がさした。
 「だって、井坂さんはきちんと働いている人なのに、康くんは一週間に一回二三枚の原稿用紙に記事を書くだけで、あとはいつもぶらぶらしているでしょう?ちゃんとした大人じゃないよね。それなのに井坂さんは康くんに優しいから、どんな出会い方をしたのか、すごく興味があるんです」
 しばらく口篭もり、しかし神隠しの告白に比べれば大したことではない、と井坂は判断して語り始めた、
 「くだらないケンカや。あんたにはまだちょっと難しい話しかも知れん」
 考え直して、一旦回想を打ち切った。
 「難しくてもいいです。あとで勉強するから、どんなことがあったのか、教えて」
 「しゃあないなぁ。そやけど島ちゃんの悪口を言うてるみたいに思われても切ないしな」
 「康くんがいたずらばかりしてると言うのなら、わかっているから、あたしは平気よ」
 「うん。それなら話してみよか。あれは五年くらい前やったかな。いずれにしても、まだあいつがタイに住み始めてほんの数ヶ月しか経っていない時期の話や」


 その頃、備中興産タイランドには、井坂の他にもうひとりの日本人社員がいた。本国の得意先回りが、その社員の主な職務だった。さて、この顧客管理マネージャーだが、後になって、相当の食わせ者であったことが明るみになっている。男は手先がおそろしく器用だった。自宅マンションを改装した秘密工房では、ローレックスやルイヴィトンなど、およそ時計からバッグ類まで、プロでも鑑定に手間取るほど精巧なブランド品の贋物をこつこつ製造し、免税品目当てにやって来タイする日本人観光客に売り捌いていた。
 しかし、島崎康士を呼び寄せたのは、彼の第二の裏技だった。
 男は日本へ出張する度に、“嘘研修”を段取りして、無断で持ち出した備中興産タイランドのレターヘッドで契約した雌鶏の身元保証書や招聘理由書を作成しては、何食わぬ顔で査証を取り付け、やはり出張の度に自ら“馬”となって、輸出を繰り返していたのだ。当時の領事館は、表の窓口も、現在ほど審査が厳しくなかったのだ。
 ところが井坂は、その日が来るまで、事の次第について何も知らなかった。つい数日前、受付嬢として雇い入れたばかりのティウという娘が、泣き出しそうな顔で、井坂の部屋に駆け込んできた、
 「イサカさま。ティウを辞めさせてください!」
 「どうしたのかね?この会社は好きになれないかな?」
 入社直後の社員にありがちな泣き言だと思った。ところが若い娘はかぶりを振って報告した、
 「頭のへんな日本人が玄関の前で怒鳴るんです。ちゃんとネクタイをつけているのに、メガホンで、チキンファームって、同じ言葉ばかり繰り返して...こわいです」
 「そら、右翼の手口や。何か言い掛かりをつつけてゼニをせびりに来たのやろう」
 日本語で呟き、井坂はティウを庇いつつ、階下へ降りた。
 「社長さんですか」
 眦に傷跡がある男はメガホンから手を離し、慇懃無礼に言った。
 「自分はこういう者です」
 銀で箔押しされた菊紋と、書墨の字体が威圧的な名刺には、
 [在泰王国日本企業問題研究所 所長 島崎康士]
 と、記されてあった。社長室に通されると、掌を絡める来訪者は切り出した、
 「お宅がね、会社ぐるみで女を日本に送っているのは周知の事実なんだよ」
 「わしは知らんで」
 査証申請書類のコピーが机に叩きつけられた、
 「じゃあ、説明してよ。この署名、どこのどいつが書いたって言うんだよ?ええ?」
 井坂は目を丸くした。レターヘッドもさることながら、署名の筆跡はまぎれもなく、自分のものだったからだ。だが、口から発せられた言葉はあくまでも真実だった、
 「わしは知らん」
 鼻で笑って康士ははき捨てるように言った、
 「どうあってもシラを切る気ですか」
 井坂も問い返した、
 「島崎さん。あんた、確証があってモノを言っとるんやろな?」
 本性を剥き出しにして企業ゴロは恫喝した、
 「ふざけるんじゃねえ。もしこれがあんたのサインじゃなかったら、おれは腹を切ってやるよ」

 数日後、康士がふたたび、今度は日本刀持参で現れた。社長室に入ると、恐喝男はいきなり土下座して啖呵を切った、
 「思い違いでした。無礼の儀、陳謝します。お約束通り席を汚させてもらいます」
 しかし、井坂のほうも事実関係を調べ上げていた、
 「こらまて、野蛮人。何を熱くなっているか知らんがの、わしは“腹を切れ”などとアホな要求をしたおぼえはないで。おまえが勝手に言い出したことや。まあ、社員の監督が行き届かなかったわしも大いに悪い。ここはひとまず仲直りせえへんか」
 死にたがっている、と、会社経営者は男の自暴自棄をはじめから看破していた。
 「いや。悪いのは全面的にこのわしやな。あの男の才能をもっと早く知っていれば、芸術の勉強だって勧めてやれたのに」
 「妙なことをおっしゃいますね」
 抜き身の日本刀を手にしたまま、拍子抜けして康士は首を傾げた、
 「あの男は、サインまで捏造して、社長や会社の社会的信用を著しく傷つけたんですよ。縊り殺してやりたいとは思わないんですか」
 「会社は辞めてもらう。しかし許す。島崎さん、あんたはこの街に来て日が浅いやろ?バンコクにはいろんな人間がいろんな事情を抱えてのべつ流れて来よるのや。日本にいたら何があるのかわからないけれど、とりあえず“何か”を求めてやって来る。ところがな、”何かあるだろう”というのは、その実、“何もない”の裏返しだ、ってことに、みんなはなかなか気がつこうとしない。それで、何をやってもうまくいかないもんやから、だんだん人間が荒んでいくのや」
 井坂はここで言葉を区切った、
 「この街に限った話しではないがの、世の中には他人を許すことができずに苦しんでいる人が大勢いる。わしもまだまだ修業が足りんがな、最強の人間はあらゆる人間をゆるせる力を持っているはずや。はじめは見栄でええ。島崎さんも“許す”ことを心掛けなはれ」


 まるで自身が叱られているような面持で有佳は俯いていたが、
 「井坂さんて、象みたいなふわふわしたおじさんだと思っていた。でも、なんだか健さんの映画に出てくるヤクザの親分みたいね」
 と、笑顔に敬意をこめて揶揄した。
 「ヤクザか、わしは」
 井坂は乾いた笑い声をはじかせた。
 「可愛い顔してきついこと言うな、この子は」
 「ごめんなさい。でも、善玉の親分よ」
 初老男は満更でもない忍び笑いを残し、物語を補足した。
 「他人を許すことが出来ない人間はな、しばしば自分が許せなくなって破局に突っ走ってしまうものなんや。あの時の『酔いどれ天使』を見ていてわしはまずそれが心配になった・・・それだけの話しや」
 「ありがとう」
 有佳にしんみり礼を言われると、型破りな医者は大いに戸惑った。
 「わしも知りたい。よくもあんたみたいな真面目な子が島ちゃんみたいな不良を好きになったもんやな」
 「康くんは悪い子じゃないよ」
 「そやけど、いまでもあの調子やろ?昔は想像を絶する大たわけだったんとちゃうか?」
 「そんなことないよ。今と同じくらい頭がよかったよ」
 「なるほどな、小学六年生の時からまったくオツムが成長しとらんわけか。それなら納得できる」
 茶々を受け流すと、有佳は表情を引き締めた、
 「入学式の日に教室で席が隣になったの」
 「なるほどな。冴木のサ、島崎のシ。名簿の順に席を決めれば、あいつと近くなるのが道理や」
 些細な推理に合点しながら、井坂は話の展開を促した。
 「はじめて、“こんにちわ”って声をかけたとき、康くんのむすっとした顔を見て、会ったらいけない子と会っちゃったような気がして・・・教室から逃げ出したくなったの。それから毎日、康くんに睨まれると怖くなって、だから思い切って仲良くしようとがんばったの。よくいじめられたけど、それでも、あたしがピンチになると、必ず最後には康くんが助けてくれるようになったの」
 「あいつには義賊みたいな血が流れている」
 バンコクから遠く離れた土地の記憶を掘り起こし、井坂はぼんやりとつぶやいた。しかし有佳の少年・康士に関する報告は続いていた、
 「でも、康くんはね、誰とも仲良くしないの。いつもひとりでふらふらしているの。無理にみんなから嫌われようとしているみたいで。あたし、康くんは寂しいんじゃないかな、って思うようになったの」
 「そらまた、意想外にセンチな所見やな」
 「康くんはね、二年生のとき、お父さんが死んじゃったの」
 にわかに、聞き手の目が炯った。井坂のつぶやきが有佳を誘導したのかも知れない、
 「祥羽丸火災事故や。あれは日本中が一滴でも多くの油を求めて浅ましく右往左往している最中に“おまえら、いい加減に目を醒ませ!”って調子で打ち上げられたどでかい花火やった。よう覚えとる」
 双眸を細め、懐かしそうに井坂はいった、
 「まさしく、あの人の魂魄の雄叫びやったわ」
 はたとした面持で有佳は井坂を見上げた。
 「これはな、島ちゃん本人には話したことがない。しかし有佳ちゃんには話しとく。内緒やで。実は、わし、島崎康介という人に会うたことがある」
 「康くんのお父さんを知ってるんですか?」
 「うん。わしはまだ駆け出しの商社マンだった。トランジスタラジオをアラブのベドウィン相手に売り歩かされていた頃、いっぺん会うとる。あれはバーレーンって沙漠の街の港やった」
 いつしか井坂は青年の声色になっていた。
 「わしは波止場で威張りくさったアラビア人にインネンをつけられての。自分たちが取扱いを間違えて壊したラジオを見せつけて、不良品やと難癖をつけて来たのや。こっちに落ち度はないけれど、いちおう商売人の作法だと思って頭を下げた。ところが調子に乗ったやつら、わしの手から商品が入ったトランクを引っ手繰って、海に投げ込んでしもうたのや」
 「ひどい」
 「それをどこかで見ていたんやな、島ちゃんのマドロス親父。いきなり月光仮面みたいにすっ飛んできて、“おまえらだっておれたちに油を売ってるだろうが!一方的にお客面するな!おれも油を撃ってやるぞ!”って、わけのわからない御託を並べながら三倍くらい大きな体格のアラブ人を片っ端からポンポン海へ投げ込んでの、溺れて助けを求めているいるやつらに“今の荷物、潜って拾って来い”って号令するのや。実に荒っぽかった。岸壁に這い上がってくるやつがいると、詫びをいれているのに無体に蹴り落としてな。仕舞には、しゃがみこんで野次を飛ばしながら、プカプカ浮いてるオバQ頭に石つぶてを当てておった」
 「ひどい」
 「ところが、そいつらの中に、あすこらへんの政治家のドラ息子が混ざっていたもんやから、さあ大変や。えらい国際問題に発展して、もう後始末が難儀したわ。ところがその頃になるとだな、島ちゃんの親父はスマトラの沖合いをのんびり航海してるんだから、鮮やかな逃げっぷりと言うか、ま、とにかく要領がええわな、あの人は。そやけど、正直なところ、胸がスカッとしたわ」
 有佳は呆然と、口を半開きにしていた。
 「そんなわけで、はじめて島ちゃんがうちにかち込んで来た時、顔はあまり似とらんがの、島崎康・・・と書かれた 名刺を見てすぐにあの人の倅だって判った」
 「似ている」
 有佳がこぼした、
 「ソムチャイさんもイギリスの戦闘機に襲われたとき、いきなり雲の上から現れた康くんのお爺さんの隼に助けられたんですって」
 それは鮮やか過ぎる符合だった。康吉と康介は、あたかも自分たちの死後を見越して、孫であり息子である康士のために人脈を仕込んで逝ったかのようだった。
 「やることがとことんバサラなのや、あの家は三代ぜんぶ」
 康士と井坂の出会いは五年前。その頃はソムチャイも生きている。井坂が直接ソムチャイから島崎康吉の話を聞かされる機会があったとしても不思議はない。
 「とても善人とは呼べないが、根っからの悪党というわけでもない。だから義賊の血というわけや」
 そうするうちに、井坂と同年輩のタイ人医師が明るい面持で歩いてきた。小脇に抱えていたカルテを差し出し、放射線外科は甲高い声でいった、
 「イサカ。血液を調べてみたが白血球に異常は認められない。他も健康そのものだ。君があまりにも被爆を気にしているからはじめは一体何事かと思ったが、なにも心配することはない」
 「そうか。よかった。これで安心した。どうもありがとう」
 「オオキニ」
 冗談めかせて元留学生は、かつて道頓堀をいっしょに飲み歩いた男に鸚鵡返しすると、被験者の少女にも微笑みかけて研究棟へ去った。決まり悪そうな安堵の笑顔をうかべて、井坂は言った、
 「心配し過ぎたようやな。年甲斐もなく島ちゃんに悪いこと言うてしもうた。あんたが放射能でも浴びていたら、って思うと、ここしばらく夜も眠れなかった」
 「ごめんなさい」
 謝りながらも人心地ついた有佳は労わるように、汗を拭う五十男を見た、
 「井坂さんは、放射能で、何かいやな思い出があるんじゃありませんか?」
 眼鏡の中の小さな目が丸くなった、
 「あんたは、よっぽど大人やなぁ」
 「聞かせてくれますか」
 「この際や、話しておきましょ」
 観念したように頷くと、井坂は有佳を近くのベンチへ手招きした、
 「わしが島ちゃんだとすると、ちょうど有佳ちゃんみたいな子だったかも知れん。小学校時代、クラスに隣の県からひとりの女の子が転入して来ての。有佳ちゃんみたいな美人だったかどうかはよく覚えていないけれど、なんとなく、抛っておけない感じの子やった。めったにしゃべらん子やったし、わしは学校じゃ一度も口を利いたことがなかったが、ある日突然その子は登校して来なくなった。どうしのかな、って気にしていると、灯台下暗し、二三日してうちの病院に入院してるのが解ったのや。その子は原爆症でな」
 「岡山県ですよね、井坂さんの田舎は」
 しみじみと問いかけながら、有佳は「隣県」と「原爆症」の因果関係を結びつけた。
 「その子が教壇に立たされた時からいっぺん話しをしてみたい、って気持ちが働いていたのやな。病室ならクラスの悪童連中に冷やかされることもないさけ、わしは院長の倅やから仕方なしに”お客さん”の機嫌をとるような顔をして、彼女を病室に見舞い始めたのや。とってつけたような口実がなければ、女の子に近づくこともできん。情け無いガキやった、ほんま。それでもその日学校であったこと、本で知ったこと、よもやま話しているうちにだいぶ仲良くなったもんや」
 教室で、しきりに自分を遠ざけようとしていた康士の微妙な心理が、静かに有佳に浸透していった。
 「そうするうちに、町に移動動物園がやって来た。・・・そう、この前、あんたが話していた象、例のちっちゃな象さんが一座の花形でな」
 「あっ。移動動物園の話し、お母さんから聞いたことがあるよ。ガチャ子は日本に来てから何年間か全国を旅したんだって。それが終わると上野動物園に住んで、そのあと御殿山へ引っ越して来たんだよね」
 「そうそう」
 歴史の語りべは御殿山の少女に頷いた、
 「それまでいつも大人しかった女の子が、急にせがむのや。『ウチも象が観たいわ!』とな。わしはやるせなかった。可哀想での。それで、こっそり、病棟から彼女を連れ出して・・・」
 いつしか井坂は、さっきまで額の汗を拭いていたハンカチを、眼鏡を除けた顔に押しあてていた、
 「あの子、ほんとうに嬉しそうな顔をしてくれての」
 洟をすすると、井坂は苦渋に満ちた面持になった、
 「悪いことをしたという自覚はなかった。ところが家に帰ると親父に半殺しにされた。わしらが象を観に行ってた時間は、彼女の血液を定期的に交換する大事な治療に当てられていたのや。『おまえは人殺しじゃ』。親父、医者のくせに鬼みたいな形相で怒り狂っての、一週間、土蔵に押し込められた。それでもわしはどうして反省せなならんのか、よく解らなかったもんやけど、何年かして、女の子は本当に死んでしもうた」
 康士を叱り飛ばした男の杞憂が、有佳から涙を誘った。
 「もしかすると、あの子を死なせたのは、あの時移動動物園に連れ出した自分かも知れん、・・・それを思うと、大阪の大学に行っても、医者になるのが怖くて怖くてたまらかった。とてもわしには人様の生命など預かることはできない。外国で商人になろうと思ったのは、ただ、実家のおそろしい病院から逃げ出したかっただけなのかも知れん。つくずくだらしない男やな、わしも」
 「それは」
 有佳が大胆に意見をはさんだ、
 「それは、ちがうと思う。その女の子、きっと井坂さんのことが好きだったと思う。絶対に恨んだりしないよ。去年の夏休み・・・昭和のことだけど、康くんが図書室でキョウサン党が書いた本だから捨てろ、とかさけんで破ろうとした本をあとでこっそり借りて読んだの。原爆症って、みんな最後は死んじゃうんでしょう?それだったら暗い病院に一日長くいるより、好きな男の子と一緒にガチャ子に会いに行ったほうがいっそ幸せでしょう?あたしがその原爆症の子だったら、“井坂くん、ありがとう”って言いながら天国にいくと思うな。井坂さんは、治療より、もっと大切なプレゼントをその子にあげたんだと思う」
 井坂は涙を拭うと、困惑しきった笑みをたたえていった、
 「ようわかったわ。島ちゃんのこと、もう偉そうに扱下ろしたりはせん。有佳ちゃんに付き合うてもろうていると、なんだかこっちまで赤ん坊に戻ってしまいそうや」
 象のような巨体がのそりと立ち上がった、
 「話は変わるが、あんたの“神隠し”、ひとつだけどうにも腑に落ちないところがある」
 「あたしの神隠し、普通じゃないの?」
 「神隠しに普通も異常もありゃせんがな。わしが驚いているのは、未来の外国へ飛んできて、どうしてまた、寄りによって小学校の同級生、しかもお互い好き合うていた片割れの手許に転がり込んだのか、という確率の問題や。・・・つらつら思うに、これはすでに無機質で外的な超自然現象では片付かない。あんた自身の力が惹き起こした、超能力の領域と受け止めるべきやろな」
 「やっぱり、あたしは魔女なの?」
 「真顔で訊かれると何とも答えに困るがの、中世のイベリア半島に飛び込んでいたら、非常に危険な目に遭うたのは確かやで。有佳ちゃんには、あんた自身も気がついていないような、途方もなく大きな“気”の力が備わっていた、ということや」
 自分の手を、有佳はじっと見つめていた。
 「島ちゃんの目から見れば、二十二年前に行方不明になったガールフレンドが忽然と昔の姿のまま現れたわけだが、あんたの視点だと、昨日教室で顔を合わせた悪ガキが一夜明けたら大人のワルになっていた、ことになる。これについて、何か思い当たる節はないか?・・・つまり、“好きなんだけど、康くんのこういうところが不満”みたいな」
 井坂の少女口調は気色が悪い。有佳はもじもじして、上目遣いにいった、
 「康くんに、あたしより背が高くなってほしかったの」
 「それだけか?」
 言いながら、井坂は身震いした。木陰にもうだるような暑さが流れ込んで来るような昼下がりではあったけれど、初老男は、全身に鳥肌が立つ感触を認知していた。
 自分を見上げる有佳の人相が、嫣然とした趣をたたえている。
 「一日も早く、あたしを女としてあつかってくれる、男の人になってほしかったの」
 あからさまに淫靡な科白が飛び出した。ところが井坂の見せた反応は、そこいらへんの助平親父とは大幅に異なっていた。うろたえて、二三歩くらい後ずさりしたかも知れない。少年時代の井坂には、敏感すぎるほどの第六感が備わっていた。眼前にいる少女が、有佳であって、有佳ではなくなっていることを、半世紀ぶりの感覚を取り戻した男は、慄然と悟っていた。明るい緑の中庭は、蝉時雨に包まれている。
 「神隠しと超能力だけで済まされる代物ではないみたいやな。あんたの秘密は」
 茫然自失としながらも、辛うじて言葉を搾り出した大きな人影は、ベンチに腰掛ける小さな影の傍らにいつまでも佇み続けた。






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