* この物語はフィクションであり、登場する人物、企業、
団体、一部政府機関の名称は架空のものです(著者)。




第二十一話




 午前九時。東京は薄曇りだった __ 
 日曜日なので、赤坂界隈の道は空いていた。
 友永は、大手新聞社の記者である。
 「帰朝報告に参りました」
 机に向かっていた男が、ペンを持つ手を休めて面を上げた。
 「お疲れさまです」
 労いながらソファに手を差し伸べて、
 「いつ、成田へ?」
 「いま着いたばかりですよ。空港から真っ直ぐ参上しました」
 機中でぐっすり眠れる性質なのだろう。着衣がすこし乱れている以外、友永に旅疲れの様子は認められなかった。
 「して、按配はどうでした?」
 「なるほど、へんてこな男でした」
 旅先で接触した男について新聞記者は総括した。机の男は興味深げに眼鏡を押し上げた、
 「どんな風に?」
 「ふたつばかりイタズラを仕組んでみましたが、どちらもすんなり切り抜けましたよ。門外漢の私が見る限り、“及第点以上の奇人”です」
 「及第点以上の奇人とは?」
 友永は自分のパスポートを懐から取り出した、
 「まず、これをあの街のブラックマーケットに泳がせてみたんです。専門のバイヤーに売りつけてね。すると彼はきちんと掬い取ってくれましたよ。彼にはそちらの筋でも名うての友達がおりましたよ」
 「ははは、そりゃ碌な交友関係じゃないな」
 「お察しの通りです」
 「それで、ふたつめのイタズラとは?」
 やや真顔になって、友永は声のトーンを下げた、
 「生命を狙ってみました」
 「それは穏やかなリトマス紙じゃない」
 そんな相槌を打つ男だが、かくべつ怯んだ様子はない。
 「現地入りして下調べにはいると、うまい具合に彼を殺したがっているヘロイン中毒の坊やに行き当たりましてね。現場に手引きしてやったのです。私も巻き添えをくらいかねない囮になりましたが、案の定、坊やには大した仕事ができませんでしたよ」
 「くわばら、くわばら。ところが彼氏はその関門も難なく切り抜けたわけだ」
 記者は頷く代わりに照れ笑いを浮かべた、
 「いずれにしても、偶然、以前から誼を通じていた知人が、彼と比較的親しい間柄だったのが幸いでした」
 「流石に、友永さんの正体までは見破れなかった、ってわけか」
 机の男は懐かしそうに口元を緩め、
 「正念場になると、人がいい。それが、あの男の、あの男たる所以なんだろうけれど」
 友永の頬から、弛緩が消えた、
 「しかし、まったく計算外だったのは、私が帰国する数日前に、彼の親族、つまり義理の祖父が急死しまして、ある男がその葬儀の式場に駆けつけたことです」
 今度は机の男が自分の悪戯を告白する番だった、
 「前もって“ある男”に彼の存在を教えたのは、じつはこのボクです」
 友永は、あらためて苦笑いするより他になかった。 


 午前七時。バンコクは晴れていた ___
 「お疲れさまです」
 稲嶺庄之助は、ベンチで居眠りする島崎に声を掛けた。
 「ああよかった。計算は正しかった」
 腕時計の針はちょうど七時を指していた。
 三つの四桁数字を法則に乗っ取って計算し、男性週刊誌をひも解くと、『日曜日』、『七時』、『七一』、『バスの操車場』という文字が浮上した。バンコク市内で[七一にあるバスの操車場]と言えば、スクムビット七十一ソーイのそれ以外に考えられない。
 ステファニーをチャトチャクで降ろし、トラックを指定された市場の駐車場で乗り捨てると、島崎はタクシーに乗り換え、スクムビット七十一小路、プラカノン通りの操車場に駆けつけていたのである。ペッブリ通りを西へ向かうノンエアコンのバスが、のっそりとやって来た。日曜日の早朝は、渋滞もなく、バスに乗る客も少ない。
 外から車内にいる人間の顔を確認することは難しいし、またこの時間帯のノンエアコンバスに乗るのは低学歴のブルーカラーが主流を占めているから、日本語の会話を盗み聞きされる心配もなかった。
 「事情はおおよそ聞いておりますが、そろそろ”原隊”に復帰なさっても宜い時機ではありませんか」
 稲嶺は、バスに乗り込むやいなや、自分が指定した日時と場所を正確に割り出した島崎に、いの一番で切り出した、
 「お察しの通り、一部には”自分の前任者”を永久追放しようという意見もありますが、どんな工作にも失敗は付き物だし、またそのために友軍にダメージを与えてしまうケースも、戦争なればこそ、ある程度は止むを得ない事故と弁える寛恕が大事だと思います」
 モントリーの亡霊は、あたかもゼネコン疑獄の悪夢をふたたび島崎に突きつけたかのようであった。ナコンサワンの寺院で邂逅した青年は、単刀直入に話を進めた、 「島崎さんが国内の活動で掴んだ黒星についてあれこれ触れまわっているのは、自身じゃ何も出来ない本部付けのおべんちゃら使いたちです。事務局長はじめ、幹部は全員、内心では島崎さんの復帰を望んでいるはずです」
 そして稲嶺は付け加えた、
 「もちろん、“先生”もですよ」
 先生とは、萌草会の代表幹事を指していた。陸軍中野学校二俣分校でゲリラ戦を修めたこの人物は、沖縄が陥落した昭和二十年初夏、九州で予想される本土決戦の準備をはじめたものの、まもなく終戦を迎え、以後、占領軍から戦犯として追われる日々を、靴磨きをしながらの浮浪者暮らしで切り抜けつつ、引揚者や傷痍軍人の建設的な互助会を興している。旧中野学校出身者や、満鉄の元社員など、敗戦によって才能と知識、技能を持て余していた顔ぶれが中核に集まった。この活動を発端に、獣同然に町を徘徊していた戦災孤児の救援団体が立ち上がり、『国益に役立つ人材育成』という大義のもと、大資本や裏社会の住人を分け隔てなく仲間に加えていった結果、いつしかグループは、日本の民間団体としては政府や官庁を凌駕する非凡な情報機関へと発展していった。
 「おれはね、稲嶺さん」
 じっと話を聞いていた島崎は、普段の軽薄な調子を締め出して言った、
 「もう、疲れたんです。とてもじゃないが、あれっぽっちの少人数で国家を護りきれるとは到底思えなくなってきた」
 「これは異なことをおおせになる」
 肩透かしを食らった青年は身を乗り出した、
 「明治維新の時の日本の人口は三千万人でしたが、実際に国事に奔走した草莽の士はせいぜい数万人だったんです。文明開化の銀座を散歩していた大部分の日本人は、それこそ”気がついたら明治にいた”だけなんです。建前論ばかりでお茶を濁している戦後の民主主義では何も解決できない。だから我々が影に潜んで日本という国の生存圏を切り開いているんじゃありませんか。ポイントさえ抑えれば、大戦争をやらなくったって、たった数千人で国は守れるものなんじゃありませんか」
 挑発に乗ってみるのもわるくない。島崎は話題をはぐらかすことにした、
 「政策を転換したければ、総理の首をすげ換えれば済むことだ。適当な操り人形なら掃いて捨てるほどいるじゃないか。”先生”はどうしてそれをしない?」
 それが先生こと、萌草会代表幹事の実力だった。索然と頷いて、稲嶺は低い声で言った、
 「自分は沖縄の生まれです」
 「うん。それらしい苗字だ」
 「それがいま、こうしてチャモロ族の仲間と分類されることなく、日本国民として生きていられるのは先生をはじめ、諸先輩の御蔭だと思っていますし、事実、その通りでしょう」
 佐藤内閣の時代に実現をみた沖縄返還が、萌草会を立ち上げた情報戦、謀略戦のプロ集団によって仕組まれた対米、対ソ工作活動の賜物であったことは、日本の巷間でほとんど知られていない。稲嶺の話は続いていた、
 「ここ数年のあいだで永田町の力学はずいぶん変わっているんですよ。議員バッヂをつけている連中に子供が増殖しましてね。感情本意にキャアキャア騒ぎ立てるもんだから、操り人形より始末がわるい。先生にも出る幕がありません。そんなわけで自分も萌草会最後のインドシナ要員になるでしょう」
 稲嶺の言葉には屈託がなかった、
 「決してネガティブな店じまいではありませんよ。組織だって生命体である以上、天命があります。焦土に経済大国を築き上げる日本を守り続けてきた草は、ここで一旦その使命を終えたのです。これから土に還り、新たな草の肥やしになればよい。我々の役目は、温存する草の種を次の時代に運び込み、再生させることです」
 「はあ、先回りですか・・・」
 「水は、予め掘られてある溝へ自動的に流れ込むものです」
 腕時計を見て、稲嶺は結論を急いだ、
 「手土産のこと、そろそろ考えてください。つまり、しかるべき事業です」
 思わず、島崎は噴き出した、
 「つまり利権か。ははは、冗談じゃない。のこのこ事務局に出向いて“先生、うまい儲け話を見つけましたよ〜”なんて言ってみろ。首を締められるぞ」
 稲嶺はただ苦笑いを浮かべただけで、何もコメントを挟もうとはしなかった。
 突然、バスの車内で異変が起こった。茶色い顔をした縮れ毛の男が立ち上がり、包丁らしき刃物を振りかざすと、北東訛りで乗客に有り金をすべて出すよう、怒鳴り声をあげた。運転手は引き攣った顔でブレーキを踏めずにいる。
 「やや。バス強盗だ」
 島崎が目を丸くして言うと、稲嶺も、
 「最近、流行っているみたいですね。とくにこんな早朝のバスで多いとか」
 と合点し、疎らな乗客を恫喝して現金を次々と巻き上げる男に向き直り、肘鉄で包丁を突き飛ばしながら手刀で仕留めた。島崎が観察した限り、稲嶺の技は如何にも沖縄県人らしく、琉球上原流空手を基礎に置いていた。仰向けに倒れて目を白黒させる強盗を抱え起こすと、稲嶺はそのポケットから乗客の財産を取り出して、代わりに自分の五百バーツ紙幣を一枚握らせた。
 「次の停留場で降りて温かいものでも食べな。早く新しい仕事が見つかるといいね、兄さん」
 先刻の狼狽は、感動のどよめきにとってかわった。こうなるとタイなので、事新しく犯人を警察に突き出せなどと不粋なこと言い出す者はひとりいない。乗客たちに回収したバーツ紙幣を手渡すと英雄は座席に戻り、
 「ええっと、どこまで話しましたっけ?」
 と、終始何もしなかった男に訊いた。
 几帳面に降車ベルを押す強盗は、拾った包丁を持ちながら、涙顔で器用な合掌をしている。稲嶺の代わりに片手を上げて返礼しながら島崎は白けた面持でいった、
 「稲嶺くん。あんた子供の時分、同じクラスの男たちか嫌われていたでしょう?おれにはわかる」
 強盗は、包丁を握る腕で涙を拭きながら、いつまでも歩道に佇み、遠ざかるバスを見送っていた。
 「どうでもいいけど、あの男、職務質問で捕まらなきゃいいけどな」
 男の姿が見えなくなるまで後ろを向いていた島崎は姿勢を戻し、
 「まあ、どの道“原隊復帰”は見送らせてもらうよ。こういう自堕落な暮らしに慣れてしまうとね、高邁な理念の実践は窮屈以外の何物でもない」
 稲嶺の表情は変わらなかった、
 「さて。自分はそうは思いません。島崎さんは必ず同志として復活してくれると信じていますよ」
 「困るんだよな。そう買い被られても」
 埃を被った心の隅では“高邁な任務”への愛着と情熱が確かに燻っていた。有佳のことがなければ、あるいは尻尾を振って稲嶺の誘いに乗って、危地だろうが、死地だろうが、勇躍飛び込んで行くところだったかも知れない、と、島崎は思った。
 「昭和三十七年から続いた対アジア政策立案推進部会・インドシナ班付け広報調査員は、歴代で六人います」
 稲嶺の声のトーンが明るくなった、
 「五代目が島崎さん。そして六代目が自分ですけれど、うち、三名はこの国とカンボジア、それに本国で死亡していますね」
 「そうだ!」
 大事なことを思い出した。
 「班付け広報調査員というのは、死体にならなきゃ前任者も後任者も事務局は本名を明かさないのが慣例だよな?」
 「お互いを知らないことによって“皇軍相撃”の痛みもずいぶん和らぐからでしょう」
 島崎は身を捻り込むように訊いた、
 「どうして稲嶺くんはおれの名前を知ったんだ?」
 “抜け忍狩り”は、妄想ではなかった。ひとりがまるで専門領域の異なる業務をいくつも抱え込む萌草会の班付け広報調査員には、自ずと現代日本人のスタンダートからはみ出した規格の人材が集められることになる。ここでは島崎のひねくれぶりも、特筆すべき性格とは言い難い。こんな手合いばかりだから、時々組織の意向を無視して暴走を始める者が現れる。すると幹事会は前任者の処分を決め、ただちに後任者を現場に補充するわけだが、場合によっては他の指令とごちゃ混ぜにして、反乱者を“抹消”させることもある。
 ただ、ミイラ取りがミイラになるケースもあるため、幹事会は当事者に、討ち取るべき相手の素性を知らせないのである。稲嶺の答えは意外なものだった、
 「この前一時帰国した折りに、“ドメスティック・プログラム”の先輩から、こっそり聞かされたんですよ。子供時代の島崎さんを知っている人物です」
 「・・・なるほど、あいつか」
 思い当たる人間は、ひとりしかいなかった。
 しばし沈黙が流れ、稲嶺はおもむろに立ち上がった。
 「こちらからお呼び立てしておいて申し訳有りませんが、これから大使館の隣に立ち寄ります」
 日本大使館は、領事館からアソク通りを少し北上し、ペッブリ通りと運河に挟まれた一画にある。また、大使館と敷地を同じくして、青年海外協力団の上部団体JAICOのバンコク事務所が置かれていた。それだけ言い置いて、稲嶺はバスを降りた。


 島崎も、井坂のマンションへ有佳を引き取りに行かなければならなかった。アソクと交差する陸橋を渡り、ほんの数百メートルも走ると、ペッブリ通りは、スクムビット三小路の裏口とぶつかる。
 「武藤が出てきよったで」
 ランニングシャツ姿の初老男は、玄関先で島崎の顔を認めると、出し抜けに言った、
 「なんでまた?」
 「福原の名代とか抜かしての、大勢のボデーガードに取り囲まれて会社まで来よった。あれじゃまるで地上げ屋やで、けったくそわるい」
 先日の話は、まだ落着しいなかった。
 「あのオヤジ、まだ福原の腰巾着をやっているのか」
 パッポン通りで戸川という青年を追い込んだ夜以来、武藤とは一度も顔を合わせていなかった。
 ふと来訪の用向きを思い出し、島崎は部屋をぐるりと見回した。有佳は井坂夫人とソーイの入り口にある二十四時間スーパーへ買い物に行っているという。牛乳と生野菜が切れている、と井坂は説明し、面持を元に戻した、
 「そいで、仕方ないからゴルフ用品店と話しおうてみたんや。福原の腹もいちおうは把握しておきたいからの」

 ・・・

 本人はポーズのつもりなのだろう。いまひとつ様にならない仕草で顎をしゃくり、武藤はシニカルな口調で切り出した、
 「今日は色よい返事がもらえるかな、井坂さんよ」
 得体の知れない子分たちは、社長室の壁に寄りかかり、斜に構えた姿勢で、それぞれ頬の筋肉をひくつかせ、井坂を威嚇していた。
 「売れない田舎芝居を見物する趣味はないで。用件も言わんで何が返事や、どあほ」
 睨みつけられ、武藤は猫なで声に切り替えた、
 「まあまあ。そう頭から邪険にすることはないよ、おれたちは敵じゃないんだからよ」
 「それやったら、後ろのチンピラどもを外で待たさんかい。こんなところに出来損ないの案山子を並べられたら、気色悪いわ」
 「おっ。そ、それもそうだな」
 精一杯威厳をととのえ、武藤は部下に命じた、
 「おうっ!おまえら、この部屋から出ろ」
 「この部屋やない。外の駐車場に立たせとけばええ」
 「そうだっ!外の、駐車場で待ってろ!」
 紺色のサファリを着たタロが慇懃無礼にドアをあけると、一党は口々に不平を呟きながら、ぞろぞろ退出していった。
 「金魚の糞やな、どいつもこいつも」
 井坂が毒舌で追い討ちをかけると、武藤は愛想よく言った、
 「ひとつ訊きたい。井坂さん、あんたは篠塚たちをどう思う?」
 「篠塚?あの強請り目的で興信所を経営してる事件屋か?」
 表情をあらためず、井坂はうそぶいた、
 「乗っ取り屋と同じヤクザ者や」
 「誤解してもらっちゃ困る。おれや福原は平和共存の道を模索しているんだ。その努力をいつもぶち壊すのが、篠塚たちなんだ」
 ガラクタ市場を逍遥するような面持で、井坂は口を閉ざした。
 「福原が絵を描いているのは日僑社会の再編成なんだよ」
 「けっ。笑わすな、なにが”日僑”じゃ?」
 せせら笑い、井坂は訊いた、
 「これだけ”優秀な”日本人がおるのに本当に成功したやつは一人も居らん。それがどういうことか、考えたことがあるか?」
 「なあ、井坂さんよう」
 げんなりした顔で、武藤はニヒルに手を振った、
 「理屈を言ったらいかんぜよ、理屈を」
 「やかましい。己れの頭で理解できない哲理をそうやって煙たがるのは日本人の悪い癖や。ええか、満足な理屈も言えないやつに、理屈を否定する資格はない。いいから黙って聞け」
 井坂は武藤のへつらい笑いを封じ込めた、
 「おまえらが意識しているのは華僑やろ?なるほど、やつらの専横にやっかみを言うのは容易いことや。対抗意識も大いに持ったらええ。しかしあの連中は、それこそ何百年という下働きを続けて、着実にこの国に根を張ってきた事実を見落としてはいかん。ここは外国や。余所の国では自分の国にいる時以上に苦しい思いをするのが、万古普遍の移住者に課せられた鉄則や。なのに、土地の人間と同じか、より楽な暮らしをしといて、あわよくば成功しようなんて、料簡違いにもほどがある・・・華僑という連中はそれを身体で知っているのや。怠け者揃いのタイ人たちを尻目に、朝から晩までガリガリ亡者みたいに働いて、ゼニをしこたま貯めてきた。同郷人同士がきちんと助け合う知恵だって長年かけて編み出した。だから財閥だって生まれてくる。自分に不利益をおよぼさない他人に大しては無関心を貫き、嫉妬による足の引っ張り合いとも無縁や。・・・わしはそれこそ教訓やと思う」
 前口上を切り上げ、井坂は核心に踏み込んだ、
 「ところが日本人はみんな始めから小金持ちとしてやって来る。優雅なもんや。しかもタイの人間がみんなで、”ネハーン(旦那)”などと呼んで持ち上げてくれるもんやから、本国じゃ大した事のない奴でも気分が浮わついてくるのや。さながらビジネスごっこに来た長期の観光客やで、在留邦人の大部分は。土台、この世には、お客にゼニを払おうという商売人はいてへん。タイへ来たはいいが、社会に食らいつく方法を実践しようとしない日本人は、とどのつまり儲けさせてもらえない。思い通りにゼニが入らなくなると、腹いせに同じ味噌汁を飲んで育った人間に八つ当たりするアホもぎょうさん出て来よる。成行き、共食いがはじまる。見てみい、街中の日系デパートを。タイ国民の実勢購買力を真面目に計算していなかったもんやから、今時分どこもかしこも店じまいしてるがな。武藤さん。おまえの店だって、客のほとんどは日本人やろ。やってることは、子供のおままごとや」
 「くっ・・・」
 武藤は口惜しそうに下唇を噛んだが、反発する語彙が見つからなかった。相手に発言を促して、何も出ないと見て取ると、井坂は締め括った、
 「結局、全員が素寒貧になって本国に逃げ帰るしかない。それがおまえや福原さんが言う、”日僑社会”のうそ寒い実力とちゃうか?わしはな、単に視野狭窄で根性なしのアホとは心中したくないだけや」 
 「だけどよ、川本さんって人はな、もっとダイナミックなプロジェクトでもって、これまで情け無い目に遭ってきた日本人の誇りを回復する気でいるらしいぜ。あんたの会社だって、そのプロジェクトに必要だから、こうして再三誘いをかけているんだ」
 「また川本さんか」
 そのあたりの筋書きが、いまひとつ井坂にはよく見えなかったけれど、どのみち武藤から詳しい計画を聞き出せるとは思えなかった、
 「それやったら”川本さん”が出てくるのが筋やろが。おまえみたいな三下を使いに寄越すのは、わしに対して失礼や。何をビクビクしているかは知らんがの、よう顔も見せん男の尻馬に乗れるか」
 自尊心を踏みにじられ、武藤は大いにいきり立った、
 「なめんじゃねえぞ。おれたちだって、腹をくくってるんだ」
 「日僑社会の再編成か?」
 「おうよ。いざともなったら、華僑なんかに負けねえくらい、馬車馬みたいに働くぜ」
 井坂はこれを受けて、感心したように言った、
 「だったらちょうどええ。労働の基本は、額に汗を流すことや。これから外に並んでいる建機な、点検整備せなならん。日当ならきちんと払うさけ、武藤さんたちも手伝ってくれ」
 炎天下のもと、武藤一派は総出で建設車両の整備に狩り出された。

 ・・・

 洒落た服を油まみれにする男達の姿を思い浮かべて、島崎は同情するように言った、
 「きつかったね、武藤さん」
 井坂はもちろん、島崎も昨年末から鈴木隆央がどのような立ち回りを演じ、そして、つい今し方間で一緒にいた好青年が、どんな人格を露にして鈴木の背後で暗躍しているのかも知らなかった。
 「夕方になると武藤のやつ、“もう勘弁してくれ”って、泣きべそかきおった。半日分の日当なら、きちんと最低賃金法を遵守して一人頭八十バーツを払うてやった」
 「そのうちオカマ連中に仕返しされますよ、社長」
 多重人格者の武藤は、男色家としても有名だった。しかし少年を射止める時はいざ知らず、武藤は極道の割に肝が小さい。だからこそ、策士の才覚が発達している。
 「オカマは苦手やけど、報復は覚悟の上や」
 井坂は不敵に薄い頭を掻く、
 「バンコクで一匹狼を気取って五年以上も生き残っている者なら、どんなに堅気面さらしていても、叩いて埃が出ないようなやつはおらんもんや。殺されることが怖かったら、わしだってとうの昔に日本へ逃げ帰っている」
 物音がして、有佳が夫人と買い物袋を抱えて戻って来た。島崎の顔を見ても、有佳はすこし微笑んだだけで、どこか態度がよそよそしい。
  「やくたいもない連中の話はここまでや」
 いつになく、厳しい顔つきで、井坂は言った、
 「今日は少し話したいことがある」
 「へえ。なんでございやしょう?」
 井坂は島崎から視線をそむけた、
 「わしはな、子供の時分、幽霊や空飛ぶ円盤をよう見たもんや」
 部屋の本棚を見て島崎は茶化した、
 「どうしたんです、社長。いきなり眉唾ですな」
 「嘘やないで。ほんとうの話や。ところが家に帰って興奮しながら話すとな、親父に拳骨でぶん殴られた。なにせ家業が家業やろう。“あそこの病院の倅にはキツネがついとる”なんて風評が立ったら、それこそおまんまの食い上げになるよって」
 「そりゃそうだ。別の種類の危ない病院と思われる」
 「人間は自分たちの理解が及ばない科学の外側を、ひとまずインチキと片付けて納得しようとする、視野の狭い、じつに哀れな生き物や」
 島崎の背筋に冷たいものが伝わった。案の定、井坂は有佳をちらりと見た、
 「精神医学の視点からみると、えらく珍しい症例や。なにせ最近の日本のことはよう知らんのに、二三十年前の話しになると急に詳しくなるさけ。博識なこと大人顔負けやで。まるで自分が見てきたみたいに話す」
 有佳は知らんふりを決め込んでベランダで揺れるプランターの草花を眺めている。
 彼女が井坂に昭和の土産話をしたのは間違いない。
 いったい何を考えているのか?_____ 舌を鳴らしつつも、島崎は明るく取り繕った。
 「やっぱりお医者さんに預かってもらってよかった。いやね、おれは素人だから“自閉症”だなんて決め付けていたけれど、つまり、その“神さまから直接送り込まれる電波”がうちの娘の登校拒否の理由でして。はい」
 「きちがいはおまえひとりでたくさんや」
 腕組みする井坂は、目を閉じた。
 「康くん」
 思いつめた眼差しで有佳がいった、
 「もう、やめようよ。井坂さんに嘘をついたりするのは」
 井坂は聞かないふりをしていた。
 「怒らないでね。もう、あたしが昭和から来たことを話しちゃったの、井坂さんに」
 安っぽい作り話が成立する余地はすでになくなっていた。
 「おまえたちが昭和の東京の小学校で同級生だったというのなら、矛盾の辻褄がすべて合う」
 井坂が薄目を開けた、
 「世間は信じないかも知れんがの、わしは神隠しという現象が時々起きている現実を否定したりせん。メカニズムが未解明な自然現象を目の当たりにすると、自分たちの狭隘な知識を振りかざしてこれを滑稽視したがるのが人類の哀れな習性や」
 「・・・」
 「ところで島ちゃん。有佳ちゃんはおまえが初めて好きになった子やろ」
 開き直るしかなかった、
 「気がついたのはずいぶんあとになっての話しですが・・・どうも、そのようです」
 井坂はにべもなく言った、
 「だから脳味噌が曇るのや」
 そして、すかさず切り込んだ、
 「おまえはこの子を偏愛するばかりで肝心なことにまるで目が向きよらん」
 「どういう意味ですか」
 反発の大前提は相手の優位を認めることだ。島崎には反抗期の記憶がない。生まれつき人を人と思わないような天邪鬼は、事新しく反逆を自意識の形成に盛り込む必要などないのである。他人に対して青臭い反抗心を抱いたのは、この瞬間が初めてだったかも知れない。人を見下すことに慣れきっていた島崎は、いま井坂を下側から睨み上げていた。
 「では訊くがの、ウィバパディ通りでこの子を見つけた。それで島ちゃんはまずどうした?健康診断をさせに病院へ連れて行ったか?もちろん異次元世界にはどんな物質があるのか見当もつかんけれど、精一杯、この三次元空間で出来る限りの努力を払って有佳ちゃんの体調を気遣うのが、大人としてのおまえの責任じゃろが。たとえば発癌性の放射性物質を浴びていたらどうなる?処置が一日遅れるだけで取り返しのつかない事態になることだってあるのやで」
 反論の余地はなかった。
 「考えが及びませんでした」
 「あほんだらっ!考えが及ばんかった、で済む話かっ!」
 「すいませんでした」
 「わしに謝ることやない。有佳ちゃんの身に何かあってみい。今度は止めんさけ、遠慮せんで腹を切れ」
 備中興産タイランドの社長は、眼前の企業ゴロと出会った時の顛末を思い出しているらしい。
 「井坂さん」
 有佳が泣き声で割り込んだ、
 「いいの。康くんは忙しいのに、あたしのために一所懸命やってくれました。だから、もう怒らないで」
 「有佳ちゃんもわるい。おまえがそうやって甘やかすから、このクソちんぴらは赤ん坊に戻ってしまったのや。わしはもうすこし島ちゃんは利口な男だと思っていた。残念やな、ほんま」
 井坂は気を取り直すと、タバコを勧めながら父親のような眼差しで島崎を見た、
 「タイ赤十字病院に昔一緒に大学で勉強した元留学生の医者がいる。放射線治療の専門家や。明日、有佳ちゃんを連れて行ってくる。検査が一頻り終わるまで、この子は当分、うちに住まわせるからな」
 そして深々と煙を吐き出しながら、付け加えた、
 「神隠しの一件は、わしの口からは誰にもしゃべらん。おまえら二人でよく相談して、必要最低限の相手にだけ打ち明けたらええ」
 偏愛は、生存に必要不可欠なバランス感覚と正常な視界をまま人間から奪い去る。小手先の順応策を有佳に授けて喜んでいるうちに、島崎自身が己の進むべき方向を見失い、その結果、ふたりして破滅に突き進んでいたという可能性は否定できない。それでも井坂に有佳を没収された島崎の本心は、秘密を共有する第三者の介入によって、ずいぶん息苦しさから解放されたと言っていい。もちろん有佳本人に罪などあろうはずもないが、か弱い同級生の存在は、行動半径に制限を与えるしこりそのものだった。
 井坂がここへ来て彼女の保護者としての責任を実質的に分担してくれたからといって、島崎に以前のような無謀な行動が許されたわけではないけれど、私事にとらわれず、三次元の社会における自分の座標を確認するゆとりが生まれはじめたのは幸いだった。島崎はこれからのことを考えながら、軽い足取りで五小路から表通りに出た。

 スクムビット通りの振り出し地点にあたる界隈には、朝から土産物を商う露店が犇めいている。
 ここいらへんの売り子には言語障害者が多い。しかし電卓を武器に、彼らは堂々と道往く外国人観光客と渡り合う。あからさまにまがいものと判る”ブランドTシャツ”ばかりを並べた露店で足を止めると、島崎は、有名なロゴを七色の糸で刺繍した一着を買い求め、ナコンサワンから身につけていたものと、その場で取り替えた。道端で半裸になる男など、売り子も歩行者もまるで気に止めなかった。
 気分一新して、ふたたび歩く。ふと、萬屋の軒先のラックにサイアムポストを見つけ、トイのことを思い出しながら抜き取った。英字新聞だから地元紙ほど見出しを拾うのに手間取らなかった。
 何ページ目かで、島崎は目を止めた。
  “タイ政府はどうして日本政府に抗議しないのか?”
 一読者による投書、タイ政府に矛先を向ける格好で、興味深い題名が踊っていた。

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   タイ政府はどうして日本政府に抗議しないのか?

 私は食料品会社の輸出部門でマネージャーをしております。
 先日、商用のため日本領事館へ査証の申請をしましたが、
何の説明もなく、書類を却下されてしまいました。おかげで
私は四十万$の仕事を諦めざるを得ませんでした。
 ところが一方で、身体を売りに行く女性には簡単にビザが
おりています。
 日本領事館の前で出入りする人の顔ぶれを見れば、
現実は誰の目にもあきらかでしょう。
 正直なビジネスマが不条理にあしらわれています。
 どうしてタイ政府は日本政府に抗議を申し入れないのでしょうか?
 こんな状態がいつまでも続くようであれば、とても
まともなビジネスはできません。
 そればかりか、健全なタイ日関係も築けません。
 両国民のあいだに、不幸で、いかがわしい誤解と不信感の
溝が横たわっています。
 どうしてタイ政府は、放置しているのでしょう?
 理解に苦しみます...             by Mr.カラブン

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 取引金額をわざわざ書くところが如何にもタイ人らしい。投稿者の名前はMr.カラブンとある。日本人のコウジやシュウイチよりもずっとありふれたタイ男の名前だった。如何にも仮名くさい。ストーリーも決して珍しいものではないので、領事館も申請者の氏名控えから、怒れるカラブン氏の身元を洗い出すような徒労を冒すほど酔狂ではないだろう。
 店の親父が大股開きで丸椅子に腰掛け、藪睨みの目で厚かましい立ち読み男を監視していた。
 「買うのかね?」
 「買わなきゃダメ?」
 腕組みしながら親父は重々しく頷いた。
 日本領事館の黒い噂は、これまでにも度々タイのジャーナリストたちの間に浮上したが、日本政府との関係を重視するタイ政府の関係筋は、その都度、さまざまな手を講じて、封じ込めを画策してきた。日本領事館に対する正義のペンの攻撃はタブーだった。
 ところが、カラブン氏はジャーナリストではなく、日本領事館で不当なあしらいを受けた、憤懣やるかたない一体験者である。そして日曜版が娯楽性を重んじる記事構成になっているのは、タイも日本と同じであり、一般読者も書かれている事をそれほど深刻に受け止めようとはしない。緊張感を和らげるカモフラージュには最適である。
 ただ、サイアムポストは英字紙というのがミソだった。“カラブン氏”の嘆きは、すでにタイ人と日本人の間だけで処理される話しではなくなっていた。報道のプロは、日曜版という暗号が示す真実の値打ちを知っているから、すなわちこの投稿は、バンコクに住む、世界各国のジャーナリストに向けて発信された檄文であった。
 トイの名刺を引っ張り出し、島崎は近くのインターネットカフェから、
 ・速攻の儀、謝意を表します / 七色のエレッセTシャツ男より・
 と、メールを送った。まわりくどい署名は、カラブンという男性名を用いたチュラロンコーン大学出身の女ジャーナリストに対する、インチキ愛好者のささやかな面当てだった。







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