* この物語はフィクションであり、登場する人物、企業、
団体、一部政府機関の名称は架空のものです(著者)。




第十九話




 空港にほど近いタウンハウスの一室だった。
 「そうか、わかった」
 電話を切ると沢村は、ベースボールキャップを脱ぎ功名顔でお褒めの言葉を待つ戸川に告げた、
 「現場には死者はおろか、ひとりの怪我人もいなかったそうだ。被害はベンツが一台、スクラップ工場に行ったきりだよ」
 戸川の顔がみるみると曇った、
 「しかし、ぼくは確かにこの目でやつの死体を確認したんです。顔が半分潰れて、脳味噌がそこらじゅうに飛び散っていたんですよ」
 うつろな眼差しで、さらにまくしたてるように言った、
 「わかった。きっと誰か、警察が来る前に島崎の死体を片付けたんです。血も脳味噌もきれいに洗い流して。そうだ、きっとそれがやつらの組織力なんだ!」
 分厚いファイルが机に叩きつけられた。興奮から我に帰って戸川が沈黙する。乾いた音が天井に弾けた。
 「軽はずみな目撃談はかえって疑念を招く。君も”痛くもない腹”を探られたくなかったら、未確認情報の確言は慎むことだ。いいね?」
 しょんぼりして、戸川はむなしく立ち去った。
 「カーオダイマイ(はいっていい)?」
 言いながら、髪の長い長身の女が、もうひとりの来客を案内して来た。
 「だいぶ難航なさっているようですね」
 「おお。あなたか」
 戸川に対するのと、打って変わった懇ろな調子で、沢村は紺色の背広を着た中年の日本人に言った、
 「いつ、プーケットから?」
 「今日の夕方です。明日の朝にはまた南に戻りますが」
 能面みたいな顔をした来訪者は、南部のビーチリゾート地でホテルのマネージャーをしている男だった。
 「お問合せの件、わかったことだけご報告に参りました」
 マネージャーはポケットから一枚の紙切れ取り出して、読み上げた、
 「島崎康士。昭和四十年五月二十五日東京都江東区生まれ。父親は康介、三光郵船に航海士として勤務、昭和四十八年にマラッカ海峡で発生した祥羽丸火災事故で死亡。母親は自営業となっています」
 安楽椅子に腰掛け、沢村は押し黙った、
 「出生後間もなく都下武蔵野市へ転居。市立の小中学校を経て、都立高校の普通科へ進学するも、一年生の二学期で退学。ここからしばらく消息が絶えています。昭和六十年、大学検定試験に合格。帝東大学法学部に入学して、四年後に卒業。ところが在籍中に二回ばかり一年単位の休学を繰り返しておりまして、どうしてそれほど不真面目な学生が四年で卒業できたのかに就いては、人事異動あって大学の教務課も把握していないそうです。島崎は卒業後しばらく無職でおりましたが、平成三年に宮城県仙台市国分町で喫茶店を開業。この喫茶店というのはあくまでも登記上の名目でして、実体はポーカー賭博屋でした。島崎はここで一度逮捕されています。その後、同じ年に今度は栃木県宇都宮市で違法な土地転がしに手を染めています。前歴があるので府中刑務所に服役しました。平成五年の正月に府中を出所すると、またしても仙台に移り住み、マンションを借りています」
 沢村の表情は苛立っていた。
 「その年の七月、バンコクへやって来て、以来帰国歴は一度も有りませんね」
 「本庁が送って寄越したデータとたいして変わらないな」
 安楽椅子の男は立ち上がり、マネージャーが手渡す報告書に火を点けた、
 「私が知りたいのは、こんな枝葉末節ではない」
 今日の日本で、際立って優秀な情報収集能力を備える集団はふたつある。ひとつは警察組織内の公安、そしてもうひとつの集団は広域暴力団と呼ばれている。特徴らしい特徴に欠ける顔つきのマネージャーは、薄い唇をやんわりと閉ざして、官吏の不満を聞いていた。
 「肝心かなめの部分がまるで空白じゃないか」
 「公判記録なら、もっと詳しいものが手に入りますよ」
 冷ややかな調子で能面男は言った。裏社会の連中からより詳しい調査報告が寄せられては、警察機構の沽券にかかわる。皮肉な笑みを浮かべると、気を取り直して沢村は訊いた、
 「渡航歴は?」
 「法務省の内通者に照会したところ、平成五年にタイへ出国したのが島崎康士にとって初めての洋行です。出生日の昭和四十年五月二十五日まで遡ってみても、それ以前に彼が日本を出たことは一度もありません」
 「そんなばかな話しがあるものか」
 沢村は嘆息した。アレックスは、八十八年の夏に島崎とサンカブリで言葉を交わしている。他のタイ人ならいざ知らず、ヤクザにしておくのが惜しまれるほどの知性を備えるスパキット一家の知恵者がその場しのぎのいい加減な証言をするとは考えにくい。島崎康士ははるか以前から東南アジア世界で暗躍しているのだ。だが、支配人は平然と言った、
 「平成五年は、島崎康士にとって、身分を本人に戻さなければならない何らかの“事故”が発生した年、と見るべきでしょうな」
 パスポートは必ずしもその携帯人の身元保証書であるとは限らない。沢村は頷いた、
 「そう推断しておくのがいちばん妥当だろう。出国停止処分を受けているわけでもない巷の不良に、わざわざ身分をでっち上げる必要があるとは思えない」
 そして報告者の顔を見た、
 「どうして背後関係が掴めない?」
 「踏み込んでみますか?」
 「もちろんだ」
 すると思わせぶりに、マネージャーは言った、
 「失礼ですが、日本におけるあなたは一介の警察官僚に過ぎない。つまり、公務員です。世の中には本来、役人や政治家がみだりに立ち入ってはならない領域があります」
 その上で、念を押した、
 「・・・島崎の背後関係を、洗い出してみますか?」

 隣の夫婦に連れられて、わけもわからず有佳が登校すると、ややあって、鳥越から電話があり、島崎はサイアム新報の近くの喫茶店に呼び出された。
 「朝っぱらから、すみませんね。島崎くん、まだ寝てたんでしょう?」
 「珍しく起きていましたから、お気になさらず。それより、いったいどうしたんです?ふたりとも不景気な顔を並べちゃって」
 鳥越の隣に座る新聞記者は、浮かない顔をしていた。
 「こちらの本誌記者さんは、“取材”のしすぎですかな?」
 冷ややかな笑みを押し殺し、鳥越は声をひそめた、
 「ところがね、”取材”する前に、パスポートを盗まれたそうです」
 沈痛なしのび笑いを漏らして、被害者は言った、
 「冒険し過ぎたよ、島崎さん。ゆうべ、ホテルのコーヒーショップで拾った女にやられた。睡眠薬入りのビールを飲まされたらしい。目を醒ましたら朝になっていて、女ばかりか、財布の現金と一緒にパスポートも消えていたんだ」
 「あっちゃぁ。睡眠薬なんて、インドでもよく使われる方法じゃないスか。どうしたんです、センパイ」
 「面目ない」
 これでパニックに陥るような相手だったら、如何なる言い分があろうとも情け容赦なく見放すところだが、こうも落ち着いていられると、島崎も案内した手前、多少の負い目を感じざるを得ない。
 「大丈夫。日本のパスポートならすぐに出てくる。必ず・・・いや、九割方出てきます。探しましょうか?」
 鳥越が言った、
 「そう言ってくれると思って、島崎くんにご足労願ったんです」
 まあまあ、と制して、島崎は続けた、
 「方法は”買い戻し”になります。ま、インドにいた方だから理不尽には慣れているでしょう。三万バーツほど、用意しておいてくださいな」
 新聞記者は、意外そうな顔を、鳥越と見合わせた、
 「三万バーツ?そりゃ思ったより安いぞ」
 「うん。てっきり、五万くらい取られると覚悟してたのにね」
 こういう連中が相手なら、話ははやい。
 「五万なんて今昔物語。最近、ドイツ製の高性能バーコードリーダーが世界中の主要先進国の空港に配備されはじめていましてね。手始めに、日本の変造パスポートが集中的に見破られているんです。なにしろ最も信用ある国籍で、流通しているブツも多いから、真っ先にマークされたんでしょうな。そんなわけで、いまバンコクのブラックマーケットでは日本旅券の値崩れが起きているんです。逆に、まだ睨まれていない台湾やシンガポールのパスポートは価格が暴騰していますがね」
 新聞記者は訊いた、
 「警察と、それに例の領事館には、届けておいたほうがいいかな」
 「扱下ろす気はないが、パスポート紛失の届け出を受けた彼らが現物を発見したためしはありません。それに非合法手段で買い戻すわけだから、紛失届けの撤回手続きがややこしい。そうだな、とりあえず明後日の朝まで、とぼけておいたほうがいいでしょう」
 「明後日の朝、とは何を基準にした期限でしょう?」
 「まあ、せいぜい十パーセント程度の確率ですが、それまでに見つからなかったら、もう金輪際出て来ないものと諦めましょう。それがブラックマーケットの法則なのです」
 「世の中には、いろんな秩序があるんだなあ」
 鳥越は妙に嬉しそうに感嘆した。
 「とは言い条、競りが始まるのは明日の午前零時だが、小生も最近はブラックマーケットから遠ざかっているので、これから某所へ最新の業界情報を仕入れに参ります」
 島崎は、じらすように言った、
 「一緒に来ますか?」
 新聞記者はいきおい瞳を輝かせ、立ち上がった、
 「そりゃ願ってもない。最高のバンコク観光になりそうだ」
 「やっぱり、転んでもタダじゃ起きない人だな」
 シロム通りでタクシーも拾わず、島崎はルンピニ公園のほうに向かって歩き出した。
 いまごろ、有佳は公園の向こう側にある女子学校で、異国の少女たちと、どのように接したらいいのか、悩んでいることだろう。しかしそれでも、いきなり日本の小学校へ通うよりかは精神的に楽なはずだった。
 島崎は、朝から営業している一軒の古式按摩の店の前で立ち止まった。軒先の立て看板には、足裏のツボを色分けした図が描かれている。
 「これは、一体?」
 「タイ式マッサージの店です」
 神妙な面持で、案内人は呟いた、
 「普通の按摩は二時間。足裏が四十五分間。併せて約三時間だな」
 「なるほど、こんなところにブラックマーケットの秘密を握る人物が潜んでいるとは」
 きょとんとした顔で記者を省みて、不思議そうに島崎は言った、
 「何を言っとるんです?聞き込み先は昼前にならないと接触できないんです。ここは時間を潰すだけですよ」
 一旦はずっこけたものの記者の立ち直りは早かった。柔軟体操みたいなマッサージに悲鳴を連発しながら、
 「僕がこの一件を記事にしたら、島崎さんのそっちの世界における面目は丸つぶれでしょう?」
 と、質した。
 「かまいませんよ。どうせ有りのままを記事になさっても普通の日本人は信じない」
 「どうして?」
 「見ればわかります」
 午前も終わりに近づいて、ふたりは開店前のシルクセアタを訪れた。
 「こらっ、陳さん。いるのはわかってんだ、開けろ」
 島崎がドアを叩くと、仏頂面の従業員がぬっと現れた。中に入ると陳の姿は見当たらず、代わりにすらりとした容姿の中年女が、陶然とした面持で年代物のレコードを聴いていた。曲目は世界恐慌の時代にブロードウエイで使われた明るいナンバーである。出口が見えない通貨危機に苛まれるタイにはぴったりの選曲であるけれど、なにはともあれ白昼から女が纏う黒いレースにスパンコールをふんだんにあしらったドレスは、常識を忘れかけた日本人の目にも異様だった。
 「なんで台湾マフィアの店に香港女がいるんだろう?」
 独り言を呟いてから、島崎は女に声をかけた、
 「劉大姐、有没有小陳?」
 劉と呼ばれた女は、香気をたっぷり含んだ長い黒髪を掻き上げて、来訪者と同じ普通話(北京官語)を操った、
 「他去美国。但是、明天回来曼谷」
 島崎の脳内で、周波数が久しぶりに用いる言語に調整されていく。
 「・・・陳さんはアメリカへ飛んだよ。明日の朝には帰ってくるけどさ」
 「なんでまた、アメリカくんだりへ?」
 「最近、あっちこっちの空港で、馬が大勢捕まっていてさ。仔豚の流れが滞っているんだよ。動きがなければ陳さんの商売はあがったり、それであの人は自分から馬になって、ウチの仔豚を二十頭ばかり、ニューヨークへ運んでくれたのさ」
 「本屋が馬を兼ねるようじゃ、世も末だね。まあ、それでも本が悪くて捕まっても、自分の落ち度なんだから諦めもつく」
 腕組しながら納得する島崎に、劉は余裕たっぷりに言った、
 「でもね、チマ。考えてもご覧よ。陳がこしらえた本は二十冊、ぜんぶがJFKのイミグレーションに配備された例のドイツ製の機械を潜りぬけたんだよ。ひきかえ、あんたと同じ日本人のハッタがつくった本じゃ、たくさんの仔豚と馬が檻の中へ追い込まれているじゃないか」
 「何を言う。八田の組織がこしらえているのは日本物だけど、陳さんが細工したのは台湾の本だろう?難易度が違うぜ」
 「彼が仕事したのも日本の本だよ」
 中華思想の信奉者は誇らしげに言った。普通なら島崎はここで、“日本人の信用に便乗しているくせに威張るな!”と悪態をつくところだが、今日に限っては、教えを乞う身の上である。喉まで出かかった下世話な愛国心を辛うじて飲み下し、
 「そいつは困った。日本民族の名折れだ。八田さんは切腹ものだな」
 と、大人しく、矛を納めた。
 シルクセアタの支配人は、腕利きの変造パスポート職人として、バンコクの密航業界に名高い。そして、陳のライバルと目されているのは、日本の歌謡界では作詞家の肩書を持つ男・八田英一郎だった。バンコク東部のシーナカリンに豪邸を構える作詞家が、こんな稼業で名を馳せているのも、この街ならではの突拍子のなさだった。
 「ところで、小陳は不在だが、私では役に立たない用向きか?」
 「いや、こんな案件で蛇面の老板娘(ボス夫人)のお手を煩わせるのは忍びないんでね」
 「シャーミェン?」
 新聞記者は卒然と聞き耳を立てた。中国語にも多少の心得があるらしい。会話に割り込み、声を潜めて訊いた、
 「それって・・・あの、密航組織?」
 「そうですよ」
 日本では密航組織として有名なジャメンだが組織全体の営業内容はすこぶる広汎だった。麻薬、売春、臓器売買、人殺し、ついでに堅気の事業と、とにかくカネになることならどんな稼業にも手を染める。
 「この女人は、所謂“社長夫人”にしてバンコク支店の総代理なのです」
 「本当にいろんな危険人物が生息しているんだなあ。この街はまるで底なし沼だ。
バンコクに比べたら、ショーケースのようなシンガポールは金魚鉢だね」
 双眸をほそめ感慨深げに唸る新聞記者を尻目に、島崎は言語を中国語へ戻した、
 「こちらの先生が護照(パスポート)を紛失したので、願わくはブラックマーケットで買い戻したい。それで尋ねるが、最近の事情はどうなっている?」
 劉は表情に乏しい眼差しでふたりの日本人を眺め、無関心な調子で言った、
 「バンコクには”本”市場が全部で七箇所あるけれど、日本物を扱っているのはそのうちの三箇所。パワラット、スリンクルン、そしてシロム。しかしパワラットは専らカオサン通りのバックパッカーから集めた品物だし、スリンクルンになると殆ど使いまわしの再販売だから...やっぱり新しいワンオーナー物を探すとなると、シロムがいちばん手堅いね」
 「市場の所在は、昔と変わっていないかな?」
 さしあたって利用価値がある日本人に、蛇面の女は誠実に答えた、
 「是的。全部島崎知道了」
 「謝謝」

 福建省周辺の臨海地方からオンボロ船を仕立てて繰り出して来る大陸系密航者の存在は、日本の巷間でもだいぶ以前から知られているけれど、彼らが選ぶルートは海路に限られているわけではない。
 バンコクは飛行機で欧米の国々を目指す中国人にとって、世界最大の密航振り出し地点に位置付けられている。空路を使う場合、中国から直接欧米先進国を目指すことはできない。世界中を最恵国国民待遇で旅行できる日本人にはちょっと想像がつきにくいかも知れないが、発展途上国とよばれる国々では入国するより出国するほうが難しいといったような事情もある。とくに中国のような社会主義国は、外交交渉上国家に不利益を齎しかねない『政治避難者』の流出にはいたく神経を尖らせており、空港に常時夥しい数の公安要員を配置して監視を続けているのだ。
 そんな事情から密航者予備軍は最初の出国先に亡命するだけの意義がなさそうな途上国を選び、観光客の身分で前進する。とは言え、中国人の“ハンデキャップ”は尋常でない。同じようにこの街を止まり木にしているバングラデシュやパキスタンの男たちと比較した場合、中国人は自分の国のパスポートが使えない、というゆゆしきハードルに直面する。本国政府からして国際社会での信用に著しく欠けるため、中国人密航者はバンコクに着くと、まず自前の不便なパスポートを放棄して、他の国の人間に成り済まし密航を計らなければならないのである。
 言語能力の問題もある。先天的に語学適正にめぐまれた南西アジア人には滞在地の言葉を積極的に取り込もうとする姿勢があるけれど、華僑や少数のエリートを除く中国人は、その大部分が他国者と接する術を知らないし、文化を知ろうとする誠意もない。中華思想の盲信者たちはどこへ行っても我流の俗習で押し通す。当然ながら、渡航に必要な最低限度の英語力とも無縁である。自力による密航などとてもできない相談だ。だからこそ、ここにタイの人送りエージェントたちのビジネスチャンスがうまれたわけである。近ごろ、日本やオーストラリアへ”雌鶏”を送るのが困難になってきたタイ人エージェントは、その多くが、大陸本土にいる密航組織の元締め“ポームウ(父豚)”の孫請けとなって、主業務を中国人へ切り替えつつある。タイの組織は、大陸から送られてきた密航希望者を元受ブローカー(仲買業者)から預かり、待機期間のタイ滞在から目的地到着までの行程を、成功報酬で請け負うのである。日本物のパスポートを扱うブラックマーケットにとって、中国人は土地のエージェントを媒介にした大口の顧客といってよい。
 その筋の業者とイミグレーションポリスから、中国人密航者は“ルークムウ(仔豚)”という隠語で呼ばれていた。

 シルクセアタを出て、開口一番に新聞記者が訊いた、
 「ずいぶん親しい感じだったけど、どうして島崎さんは蛇面と関わりがあるの?」
 ゆうべの風俗記者は、芸能レポーターの面持になっていた。
 べつに隠し立てしなければならない必要はない。
 「たまに『共闘』することがあるんですよ。同床異夢。目論見は違っていても、共通する難問を切り抜けようって時には、お互いに便利だから手を組むんです」
 平然とした口調で島崎は続けた、
 「ここは日本じゃありませんからね。堅気の会社を興すにしたって、ああいう連中と繋っていればいろんな局面で融通が利きます。企業関係者も、下っ端駐在員はともかく、幹部連中なら、みんななにがしかの胡散臭いコネクションを持っていますよ」
 島崎が歩調を停めたのは、階段の踊り場で住人の子供たちが金切り声をあげて遊んでいる、何の変哲もない五階建てのアパートだった。
 「ここの四階です」
 明るく子供たちに挨拶しながら、記者を先導して島崎は広い階段をあがった。四階の角部屋のドアをノックすると、チェーンロックをかけたまま、ハリネズミみたいな頭をした用心棒が誰何する。
 「日本から来ている友達がゆうべスクムビットで拾ったコドモに”本”を盗まれた。買い戻したいから中へ入れておくれ」
 ハリネズミの応対はぶっきらぼうだった、
 「それならモノが動くのは今夜だ。まだここへは来ていない」
 「いいから入れろ。おれを誰だと思っているんだ?おれはな、日本じゃちょいとは知られた大物ギャングなんだぞ」
 受売りのはったりは無視された。しかしハリネズミは冷ややかな鼻笑いをもらしてチェーンロックを外してくれる。入室は認められたようだ。用心棒は念を押すように、後ろの男を顎でしゃくった、
 「この客の職業は?」
 「新聞記者だ」
 ハリネズミは相変わらずニヤニヤ笑っていた。
 「よくジャーナリストを通したなあ。彼らにしてみれば世の中で一等鬱陶しい人種だろうに」
 「信用していませんよ。本物とバレた暁には、ふたりともただちにチャオプラヤ川の土左衛門だ」
 人間の生命が安い国では、ギャングの行動もすこぶる迅速である。
 「ついでに言うと、見え透いた虚言癖は、最近業界入りしている日系の新米馬に共通した特徴なのです」
 人手不足の折も折り、どこのエージェントも質より量とばかりに、仔豚の運びを請け負う先進国のダメ人間を掻き集めている。筋金入りのプロ馬は後方の安全地帯に温存し、いくら消耗しても惜しくない素人馬を直援部隊に編入する。さなきだに、つまらない手合いに限って自意識の完成は早いから、素人馬は一度や二度の成功を以って慢心し、自らを殊更大きな存在に見せようとする。ようするにハリネズミは、二人を出来損ないの運び屋と判断したのだろう。
 奥の部屋に入ると、記者は目を見張った。
 壁際に、日本の新書本が収納できるくらいの小さな本棚が三つ四つ並んでいる。スカスカの段もあれば、ぎっしりの段もある棚に収納されているのは、国別に仕分けされた数百冊のパスポートだった。赤と青がごちゃ混ぜになった日本物の段は百冊近くあり、よその国に比べて圧倒的に多かった。
 「喜んでいいのか、悲しんでいいのか、複雑な気分」
 友永は泣き出しそうな顔で笑った、
 「日本人というのはよっぽど杜撰なんだな。パスポートの管理が・・・反省します」
 これを受けて、島崎は言った、
 「ドンムアン空港の入国ロビーと出国ロビーにはいつも日本人のパスポートを狙う専門の掏りが六人以上うろついています。タイに来たら、帰りの飛行機の座席につくまで片時も油断しちゃいけない、ってことですな」
 「なるほど。他にはどんな面白い仕入れルートがあるのでしょう?」
 「バックパッカーの中には自分からパスポートを売ってしまう者が少なからずいます。彼らの多くは料金が安くなるタイ発券の往復チケットで日本へ帰り、期限の前にまたタイへ戻ってきます。片道航空券で来た連中の中には、ここで有り金を使い果たすとパスポートを換金して、帰国の切符を買うやつがいるんですな。カオサン通りには日本人専門のバイヤーがいて、懇切丁寧に帰国までの段取りをアドバイスしてくれるそうです」
 「運転免許証を持って領事館に出頭すれば、帰国証明書は三日か四日で発給してもらえるんだ。これがイスラエルみたいな国だったらそうはいかない。考えてみると日本もずいぶんお気楽な国ですなあ」
 「沢村領事に頼んで帰国証明書をもらいますか?」
 「いやだ。せっかくここまで来たんだもん。明後日の朝に見つからなかったらあらためて考えます」
 ようするに新聞記者は、いましばらくブラックマーケットの見聞を続けておきたいらしい。 
 「日本のパスポートはまだまだ高級品ですからそれだけ大切に扱われています。流通の過程で紛失するようなことは、まずありません」
 日本語で二人が話していると、ドアがノックされて、小豆色の制服を着た警官がはいって来た。現場に居合わせた部外者は肝を冷やしたが、摘発ではなかった。ありきたりの与太を飛ばしながら警官は椅子に腰掛け、にこやかに店主の前に数冊のパスポートを並べていく。赤地に白十字のスイス物と茶色い表紙の英国物が認められた。店主はそれらをいちいち手にとり、しばらく無言で鑑定すると、十枚ずつ折り畳んだ白い千バーツ紙幣の束を机の上にポンポンと積み重ねた。警官は拘留中の外国人容疑者から預かっているパスポートを売りに来ただけだった。現金収入を得たほくほく顔の警官が去り、あきれ果てた笑顔で記者が唸った。
 「これはひどい」
 「ははあ。噂には聞いていたが、こんないわくつきの商品もあるようですな」
 記者のパスポートを盗んだ女が、今の警官みたいに直接持ち込んで来ないとも限らない。念のため、棚の日本旅券を二人がかりであらためた。白いタイルの床に胡座をかいて、夥しいパスポートを黙々と物色する男達の姿は、どう贔屓目に見ても、健全な日本の社会人のものとは言い難かった。
 「ないなぁ」
 「やっぱり、夜だろうか」
 すべて調べてみたが、該当するものは見つからなかった。記者は真顔で言った、
 「出てこなかったら、ここで一冊仕入れてシルクセアタの支配人に変造してもらうのも面白いよね。明日アメリカから帰って来るんでしょう?領事館で頭を下げるのもばかみたいだし、一回くらい、変造パスポートで帰国してみよう」
 すっかり危機を、遊んでいた。
 「日本旅券に隠された数々の先端技術を侮ってはいけません」
 特殊ツアーガイドは諌めるように言った、
 「ドンムアンの旧式バーコードリーダーで引っ掛かりますよ。入国した時に読み取ったデータが違うんだから。まあ、それでも先刻の小母さんに裏からイミグレに手を回してもらう方法もあるし、きちんとチェックインしたあと、入国ロビーに詰めている知り合いのポリ公に鼻薬を嗅がせて”特別出迎え”でターミナルに入れてもらって、そのまま飛行機に乗っちゃう方法もありますね。よしんば空港警察に尋問されても、なにしろ本人なんだからいくらでも誤魔化しがきく」
 「それは安心した」
 「しかし、それでは向こう六年間、タイ入管のブラックリストに載ってしまう。しばらくまともに来られなくなりますよ。この国の入国管理局のコンピューターから悪名を抹消したいと思ったら、八万バーツの裏金が要ります」
 「何でもカネ次第か・・・」
 島崎は念を押した、
 「盗まれた現場がバンコク市内だから、出てくるとしたら八割方、今夜です」
 記者は頷いた。
 「手口から判断して、莫連者はこの道のセミプロ級かそれ以上です。仲買人への売却に手間取るとは思えない。よしんば仲買人のほうで今日、何らかの事故があったとしても、明後日の未明までには、九割方競売にかけられます」
 「“バンコク市内”と言うのは、どんな意味があるの?」
 淀みなく、島崎は答えた、
 「たとえば盗難に遭った場所がチェンマイやプーケットといった地方都市の場合、デリバリーの都合でお披露目が丸一日遅れます」
 競りが深夜に始まる習慣には、わかりやすい理由がある。チェンマイ、プーケット、それにパタヤなどといった観光地で消えたパスポートは、田舎ヤクザの能率のわるさも手伝って、一日がかりで仲買人の手許に集積される。たとえば、今日の明け方に盗まれたものは、翌日の昼近くになって、ようやく仲買人のブリーフケースに納まる。パタヤのような近場だと締め切りは六時頃まで持ち越されるが、集積作業は軒並み正午になると一旦打ち切られ、午後にはいってから専門の運び人がブリーフケースを受け取り、その街の長距離バスターミナルへと向かう。こうした過程を経てタイ全土で集められた商品は、午後十一時台、時をほぼ同じくしてバンコク市内各所のバスターミナルに到着する。バスを降りた運び人たちはタクシーに乗り換えて、所定の市場に駆けつけるのであった。
 「いずれにしても、タイ国内で盗まれたパスポートは、必ずバンコクに集まるシステムになっているんですよ」
 遠くを見るような眼差しで記者は感慨深くコメントした、
 「合理的だ。この国を“弛緩した社会”なんて、いったい誰が言い出したんだろう?」
 「堅気のタイ人しか知らない人でしょう」
 「堅気の社会は弛緩しているわけですか」
 「弛緩しています」
 午前零時まで、まだだいぶ時間がある。ハリネズミの用心棒に島崎は言った、
 「日が暮れたらたらまた出直して来るよ」
 アパートを出ると、島崎は携帯電話を取り出した、
 「念のため、パワラットとスリンクルンにも網を張っておいたほうがいい」
 言いながら、井坂がタロに与えた携帯電話の番号をなぞった。
 「よう、蟹くん。まじめに働いているそうじゃないか。くれぐれもボロを出すんじゃないよ」
 『よしてくれ、兄貴。私はもう真人間になったのでございます』
 落ち着き払った声色である。井坂がそばにいるのかも知れない。
 「そうか、感心だな。ところで今夜、九時か十時になったら、スリウォンのサリカ茶房に、ブラックマーケットに睨みが利く強面の仲間をふたりばかり連れて来てくれないか?」
 にわかにタロの声が弾んだ、
 『なんだ?シンジケートと戦争でも始めるのか!二、三十人連れて行こうか?』
 「ばか。トロール漁船だよ」
 夜になると、タロが手下をふたり連れて来た。説明を聞いて分担を決めると、若い衆はそれぞれパワラットとスリンクルンへ向かい、島崎はタロや記者と連れ立って、昼間訪れたアパートに戻った。壁時計の針が天辺を指すすこし前になると、何処からともなく大勢のエージェントが集まって来た。昨日、島崎がプラトゥナムの地下で遣り上げた男は”雌鶏”が専門なので、タイのパスポートを扱っていないシロムの市場とは無関係である。顔を合わす危険性はなかった。
 「さあ、皆の衆。はじめるよ」
 昼間、商品を持ち込んだ警官と取引した店主が、間延びした調子で二十人ばかりのエージェントに呼びかけた。一斉に全員が小さな事務机に積まれた新着パスポートに群がった。足の踏み場もない混雑ぶりである。三人揃って入り込む隙もない。蟹青年が言った、
 「兄貴たちはここで待ってろ。おれが見つけてくるから」
 こんな時は素直にタイ人にすべてを任せておいたほうがよい。壁にもたれて島崎と新聞記者が駄弁りはじめ、それから十分もすると、タロが青い表紙の五年ものを摘み上げた、
 「...あったよ」
 「オーケー、ご苦労さん」
 島崎はまず自分があらためると、流れ作業で所持人に手渡した、
 「すごい。たしかに僕のだ。どうもありがとう。ええっと、三万バーツでしたっけ」
 「いや、二万で手を打ちます。でも、今夜協力してくれたボンクラどもに千バーツづつ、夕飯代をやってくださいな」
 「了解了解。それでもって、島崎さんにはチキンファームの雌鶏を一羽進呈しましょう。どうです、これから?」
 まるで懲りていない。店主に代金を支払うと新聞記者はしかし、索然と言った、
 「なるほど、これじゃ読者は信用しないや。と言うより、受けないね」
 「何故でしょう?」
 「緊張感がまるでないからです。ブラックマーケットと聞かされて、日本の読者が期待するのは、もっとおどろおどろしい悪徳の風景描写でしょう。こんなにあっけらかんとしていては納得してもらえない。なにしろ商業紙だし、事実よりエンターテイメント性が重視されている社会では、これを記事にしても売れませんな」
 サイアム新報のアルバイト記者は重々しく頷いた、
 「わかってくれましたか。その通りなんですよ」






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