* この物語はフィクションであり、登場する人物、企業、
団体、一部政府機関の名称は架空のものです(著者)。




第十話




  深刻な不況の煽りを受けて、バンナートラッドのゴルフ場は閑古鳥が鳴いていた。
週末だというのに、二百台を収容できる駐車場に停められているのは、掻き集めてもせいぜい一ダースに過ぎない。どうでもいいことだが、日本車が目立った。
 必要以上に大勢のキャディを遠巻きに従えて、ふたりのプレーヤーが最終ホールからクラブハウスへ歩いてくる。近ごろタイのゴルフ場でよく見かけるようになった、失業対策に協力的なゴルファーたちだった。クラブハウスまで、まだ幾らか距離があった。
 「・・・レインコートの男が、島崎だね?」
 何気なく手渡された写真を見て、沢村秀一が言った。盗聴器の設置や関係者以外の者の接近が容易でないゴルフ場は、ある種の人たちにとってスポーツに興じるだけの施設ではない。レイバンのサングラスが苦みばしった褐色の風貌によく似合う連れの男が、説明をつけ加えた、
 「前に立っている女はステファニー・スントーン。ルンピニ合同法律事務所に所属する弁護士です」
 イントネーションにタイ人特有の抑揚癖があるけれど、操る日本語は語彙が豊富で水準もかなり高い。
 「ルンピニ合同法律事務所?それは面妖な名前が出てきたな。あそこはいまの首相が弁護士時代に活動していたという王室肝いりの名門法律事務所だろう?」
 クリーンなイメージを貫く現政権の首班は、伝統的ないかめしい軍人顔ではなく、温厚な文人らしい風貌を備えている。政界に出て来る以前は、休日になるとプラトゥナムの自宅のガレージで、いまでも愛用している優しげな眼鏡をかけ、ゴムホースを片手にポンコツの自家用車を楽し気に洗っているような庶民派の法律家だった。
 「由緒正しい法律事務所の弁護士が、どうしてこんなドブネズミの身柄を匿おうとするのかな?」
 「このふたりは夫婦です」
 意想外の回答に、沢村は鼻白んだ、
 「ふむ。それはまたずいぶん不思議な取り合わせがあったものだ」
 もっとも、話し相手のタイ人も、妻は日本人だった。しかも彼女は日本領事館の現地採用職員として、査証発給の実務を補佐している。カウンセラーと呼ばれる、タイ人査証申請者への窓口応対が主な業務だった。
 「ミスター・アレックス」
 領事は部下の夫を固有名詞で呼んだ、
 「チョンブリ県で島崎がやらかしたという極東化成の一件なら聞いている。しかし、如何に日本人同士のあいだで起きた事件であっても、タイの国内である以上、領事館にはこの国の司法当局の刑事判断に介入する筋合いはない」
 さらりと外交上の原則をのべると、慎重な男は、公にできない話題の主導権を、相手に引き渡した。
 「そうでしょう。私にしたって社会正義のために、勤めていた雑誌社がつぶれて食い詰めたカメラマンをアルバイトに雇って、刑事事件の被疑者の張り込みをさせたりしませんよ」
 アレックスは相好を崩した、
 「この島崎という男が我々のビジネスにとって、どの程度不都合な相手であるのか、また、狙いは何なのか、ひと通り調べておきたかったのです」
 「おおかた借金でも拵えて、タイへ逃げて来た手合いだろう」
 面白味はないが、沢村の見当はきわめて常識的である、
 「こちらの動きをちょろちょろ嗅ぎまわった挙句、“仲間にいれてください”でもないだろう。サイアム新報の名刺をちらつかせているが、特ダネ記事は会社にまわさないで、拗ねに傷ある当事者と直接かけあい、稿料の何百倍の現金で売りつける。内容が内容だから強請られたほうも沈黙しているが、仄聞すると島崎というのは、そんな人種だ」
 「ジャーナリスティックな目論見もない、・・・となると、やはり我々を強請る気でしょうか」
 「おそらくはな」
 沢村は、しまり屋の表情を崩すことなく、
 「だが、どんな腹積もりがあるにせよ、まともな知能を備えていれば、やつだって、途中で諦めるさ。世の中には、喧嘩してよい相手と、するべきではない相手がいる。それくらいの力学は島崎もじゅうぶん解っているだろう。何もこちらから行動を起こすことはない」
 自信たっぷりに言い切った。

 一般のタイ人のあいだで、入国するのがいちばん難しいと言われている外国は、日本である。金融危機が起きるはるか以前から、就労目的で日本への渡航を希望するタイ人は後を絶たない。とは言うものの、労働市場の開放に細心の注意を払い続けている日本政府にとって、発展途上国から流れ込もうとする労働者は、扱い難い存在だった。
 にもかかわらず、本国にあっては一ヶ月分にあたる収入を、わずか一日二日の日当で稼げる国は、タイの中堅階層以下の者にとって、魅力以外のなにものでもない。出稼ぎ希望者は、職業的な渡航エージェントを通じて、日本入国の手懸りを得ようとする。九十日の有効期限を定めた観光ビザが手に入ればめっけものだ。堂々と日本に入国し、あとは滞在期限など無視して働けばよい。ちなみに、合法非合法と、あの手この手を駆使してお客の便宜をはかるエージェントという稼業は、もちろんまともなビジネスではない。表向き、旅行会社の看板を掲げているような者もいるが、取り持ち人は、多かれ少なかれ渡世人の顔を持ち合わせていた。
 イギリスの或る百科事典で、「世界で最も売春婦が多い国」と不名誉な紹介をされているタイである。母系社会の根強い伝統も手伝って、遠征を厭わない稼ぎ手には、圧倒的に春をひさぐ女が多かった。アソク通りの日本領事館には、査証申請の整理券をもらうため、渡航希望者たちが炎天下の下に長蛇の列をつくる。必然的に厳重な手荷物検査やボディーチェックを入館者に課した公館の奥で、査証の発給業務に携わる官吏は、まさしく、絶大な権力者なのだ。

 立ち止まり、アレックスは権力者に尋ねた、
 「ところで沢村さんは、武術について、詳しいですか」
 「一応これでも警察の人間だよ。通りいっぺんの護身術なら心得ている」
 「それでは、写真に写っている島崎の足の向きをよくご覧ください」
 爪先がわずかに左右へ向けられ、正常な歩行の姿勢になっていない。いわゆる、自然体だった。武術というキーワードを与えられているので、沢村は腕の位置も観察してみた。横に立っていては、肩に引っ掛けたレインコートが目隠しになって見えないだろうが、島崎の上半身は脇を引き締め、いつでも傍らでくだを巻く二名の警官を襲撃できる態勢を整えていた。とぼけた面持の男が選んだのは、防御ではなく、攻撃の構えだった。
 「大人しく引き下がった警官たちは賢明でした。妻や子どもたちが待つわが家に五体満足で帰宅できたわけですから」
 領事の眼元から、弛緩が消えた、
 「空手だろうか?」
 自らも尋常ではない格闘術を備える趣のタイ人は、疑わしげにかぶりを振った、
 「いえ、即断は禁物ですが、これはアメリカ海兵隊が採用しているマーシャルアーツの基本姿勢に近い気がします」
 沢村は冷静に耳を傾けてた。
 「たまたまそんな格好になっただけじゃないのか?」
 しかし、アレックスの表情には或る種の緊張がとどまっていた。
 「武術の腕前はさておき、私は島崎と話しをしたことがあります」
やぶから棒に言いながら、アレックスは西の空を見た、
 「いまから十年くらい前のことです・・・」

 ・・・・

 中部タイの西端、ビルマとの国境にサンカブリという町がある。
 折りしも、物情騒然としたビルマとその首都ラングーンは、名称を、成立したばかりの政権によって、ミャンマーならびにヤンゴンに改められた時期であった。小さなサンカブリの町には、戒厳令下の隣国から自由をもとめる多くの難民が押し寄せていた。キャンプ外への自由な移動が認められていない難民に、タイ国の居住権取得を世話するのは、渡世人の仕事である。のちのち家族ぐるみで莫大な借金を抱え込むことになるのも知らず、藁にもすがる思いの難民は、挙って前倒しの手数料を要求しない慈善活動家を拝み、先を争って契約書に署名した。
 「アレックスさん」
 スパキット一家の若い衆が、困惑した面持で就職斡旋ブローカーの元締めに近寄ってきた、
 「葬式を段取りしてほしい、なんて抜かしているやつがいるんです」
 ビルマ軍の反体制勢力に対する弾圧は激烈だった。過酷な逃避行の末、せっかくタイまで辿り着いていながら力尽きてしまう者も少なくない。
 「...ばかげたことを。こっちは生きている人間の対応でてんてこ舞いしているというのに。死体など、ジャングルに捨ててしまえばいいではないか」
 アレックスは、傍らに佇む、両親とはぐれてひとりタイに逃げ延びて来たという垢にまみれた十歳くらいの少年を見て、あてつけがましく言った。しかし、チンピラは、興味深いことを言い出した、
 「ロンジーをはいてビルマ人に成りすましていますが、どうやらその男、日本人のようです」
 コンクリート舗装された路上で胡座をかく贋ビルマ人は、大学生くらいの年恰好だった。丸めた背中越しに、仰向けに横たわる、泥まみれになった赤い女物のロンジーが認められた。若者は、やつれ果てた面持で、背中から鮮血を流すビルマ娘の死に顔を眺めていた。死者は、天女のような寝顔だった。アレックスが近寄ると、若者は眦の古い傷跡をひくつかせ、しかしあくまでも感情を抑えこんだ英語で言った、
 「タイの国旗が見えるところまで来て、後ろから撃たれたんだよ」
 「ビルマ軍か」
 否定の返事はなかった。
 「君の恋人か」
 「ちがう」
 自身の戸惑いを振り払うかのような、強い語調で否定の返事があった。どんな事情があるにせよ、胡乱な若者が憎からず想っていた娘の死に立ち会ったという事実だけは、世の裏側を知悉する男には容易に看破できた。
 「どんなにささやかな回向でもいい。坊さんを呼んで、彼女を人間として弔ってほしい」
 「君は?」
 と言いかけたその矢先、タイ陸軍のジープがやって来て、
 「チマサキはいるか!」
 と、スピーカーの声が群衆に向かって呼びかけた。
 「女の名前はミーミョー。よろしく頼む」
 アレックスに、くしゃくしゃになったUSドルの高額紙幣をありったけ握らすと、若者は幽鬼のように立ち上がり、女の死体を省みもせず、舞い上がる砂埃によろめきながらジープに近づいていった。

 ・・・・

 「現像された写真を見て、すぐに島崎があの時の若者だと判りました。八十八年のビルマ騒擾のとき、彼はラングーンにいたのです」
 最後に現れたタイ陸軍のジープというのが気に食わない。今まで扱って来た不良日本人とは些か毛並みが違うようだ。陰鬱な面持で、沢村は独り言を呟いた、
 「この男の前身について、それとなく、本庁に照会しておく必要があるかも知れないな」
 アレックスは無関心にクラブハウスを見つめていた。
 「ところで」
 ふたたび歩き出して、沢村の視線は、写真の隅に注がれた、
 「後ろでプランターを抱えている娘は誰だ?彼らと無関係なアパートの住人には見えないが」
 チーパオ風の服を纏う少女が異質な存在だった。
 「さあ。一頻り調べてみましたが、この娘の素性ばかりは判りません。ここ半月あまり、ゴールデンゲート・アパートメントで島崎といっしょに暮らしていたようです」
 領事は、薄い唇をへの字に曲げた、
 「どんないわくがあるのか知らないが、着ている物の古めかしい趣味といい、顔立ちといい、どこかの華僑の娘かも知れないな。家はそれほどわるくない」
 人畜無害な小娘など、アレックスには興味がない、
 「お家騒動か何かで自宅にいることができず、島崎がボディーガードを任されていたんでしょう。このご時世、破産していく華人も多いと聞きますし、それに島崎は、よろず屋ですから」
 クラブハウスに着くと、アレックスはキャディたちにチップを弾んで厄介払いすると沢村に向き直り、島崎の顔の部分のみ引き伸ばしたキャビネ版を手渡した、
 「沢村さんをパタヤの自宅にご招待できずにいることを、ボスはたいそう残念がっています」
 仕事の打ち合わせは済んでいる。
 レストランに足を向けながら、沢村はいった、
 「スパキットさんによろしく」
 人目を憚るように、スパキット一家の若頭は、駐車場へ去った。
 ご多分に漏れず、レストランも閑散としていた。奥のテーブルに、ゴルフ場には不似合いなベースボールキャップを深く被った人影をみとめ、沢村はゆっくり近づいた。無精髭が疎らな顎はまだ若い。アレックスから受け取ったばかりの写真を、沢村は無言で若者の前に置いた。
 「こいつだ・・・」
 上擦った声は、ネイティブな日本語だった。椅子に座ろうともせず、給仕のような姿勢でテーブルわきに佇みながら、冷淡な調子で領事は言った、
 「この男だな、鈴木隆央と組んで君を破滅に追い遣ったというのは?」
 「まちがいありません」
 怨念めいた調子を含み、若者は確言した、
 「この男です」
 沢村は何も答えない。
 「おれに、やらせてください」
 沢村は、労わるように若者の貧弱な肩に掌をかけた、
 「無理をする必要はない。事故はどこにでも転がっているよ」
 はたとした面で自分を見上げる若者に、温厚な声色で呼びかけた、
 「戸川くん」


 裁判所の沙汰があるまでコンドミニアムから出ないように、と釘を刺し、何故か英語でもういっぺん同じ内容を繰り返し、ステファニーはカーディガンジャケットを鷲掴んで部屋を出た。猫の置時計の針が、てっぺんよりやや右側に傾いていた。
 「やれやれ、やっとご出勤あそばされたか」
 ファイルをテーブルに置き、島崎はソファから身を起こした、
 「ちょいと出かけてくらぁ」
 「だめよ」
 英語がわかる小学生は真面目にいった、
 「また刑務所に入れられちゃうよ」
 ステファニーが英語を喋ったのは、有佳に事情を伝えるためだった、と解釈していい。ゆうべは、スクムビットの自宅へ帰れ、と言っておきながら、一夜あけると見解が変わっている。うやむやと居候はタイ人のお家芸。有佳に帰宅を急かさないかわりに、凧の糸をしっかり握っておくよう因果をふくめるのがステファニーの方針になったようだ。
 「べつに悪さをしに行くわけじゃないよ」
 宥めるように大人は言った、
 「昨日井坂さんから頼まれた粗大ゴミを不法投棄しに行くだけだ」
 「あたしも行く。心配だから」
 半地下の駐車場に降りると愛車のフォレスターは見当たらず、代わりにステファニーの青いBMWが置いてあった。
 「あの吝嗇女、いつもおれの愛機を下駄代わりに使っている」
 もっとも、島崎の愛車とて、厳密に言えば、妻の名義になっている。一見、異民族に寛大に見えるタイだが、引き締めるところは厳格だった。つまり、外国人には、原則として自分名義の乗用車を所有する資格が認められていないのだ。あるいはタイ人の場合でも、外国人と結婚して相手の苗字になると、公民権を放棄したものと見なされて、不動産が買えなくなり、選挙権も失う。被選挙権などもってのほかだ。そして、車やオートバイも、自分の名義で買えなくなるのである。
 「よし。今日はBMWでドライブだぜ」
 合鍵を出して、島崎は陽気に言った。
 「バスにしようよ」
 「バンコク市内だけど、少し離れているんだ。バスじゃ乗り継ぎがたいへんだよ。さあ、かまわないから乗ってやれ」
 言いながら島崎はさっさと妻の車に乗り込んだ。シートにはまだ納車時のビニールが貼られてあった。
 「ひどいもんだろう。見ろ、買ってもう二年になるのに走行距離は、たったの一千キロ。平気なんだよね、こういう真似が。自分の物は露骨に出し惜しみする。あいつも所詮はタイ人だ」
 カーステレオにはプリンセスプリンセスのCDソースが入れっぱなしになっていたようだ。不平を言う男がイグニッション・キーをまわすと、いっしょに軽妙なイントロが流れはじめた。
 「なんだ?このCD、見当たらないと思ったらヌンが持っていたのか」
 歌詞が解らなくても、日本のポップスを聴きたがる若いタイ人は少なくない。お高くとまったステファニーのしかめっ面にも、そんな茶目っ気の容喙する余地があるらしい。
 「これ、いまの日本の歌?」
 助手席から、ほくほくした声がとんだ。たしかに有佳は、“いまの”と、言った。彼女の内面でも、昭和がすこしずつ遠ざかりはじめているのだろう。
 「だいぶ昔の歌だよ」
 表通りに通じるスロープをゆっくり上がりながら、島崎も、頭を平成二桁モードに切り替えて答えた。
 「誰が唄っているの?」
 「冴木さんがわけのわからない世界を旅行しているあいだにデビューして、解散したグループです」
 打ちっぱなしのコンクリートの壁が途切れ、自然光がぱっと車内にさした。
 「首都高速に乗るよ」
 ボンネットをウィバパディ通りに向けると島崎は一方的に告げた。ビニール貼りのシートに深く身を沈めて有佳が呟いた、
 「ヌンさんと出逢う前、康くんは、どんな女の人を好きになったの?」
 太陽のかがやきは健康的だった。有佳は背が高くて容姿も大人びている。そんな小学六年生が普通の思春期にさしかかっていたとしても、かくべつ怪しむにはあたらない。ゆうべの蒸し返し、といった警戒心は起らなかった。
 「冴木有佳」
 漠然と好意を抱いた異性は幾人かいる。しかし、いつも本格的な情熱にはなり得なかった。そうなる前にかならず幕引きが訪れた。島崎は履歴書を書いたことがない。書こうにも書けない人生遍歴だったが、記憶の升目を埋めている字面にはすべてこの少女の名前が影を落としているのに気が付いた。返答には一抹の復讐心がこめられていた。
 「心理学用語でいうトラウマってやつだろうね。社会に迷惑をかけた馬鹿な大人が、裁判所で言い訳に重宝する言葉だよ」
 冗談めかせてはいるが本心だった。十代の自分を思い起こそうとすると必ず序曲のように硝煙の匂いが漂ってくる。当時の自意識や感情の起伏はすべて模糊とした霧の彼方に封印されていた。ところが有佳と再会してこのかた、島崎はまるで興味がなかった自身について、ずいぶん分析を試みるようになっていた。
 「言っておくが、おれに色気のない青春を送らせた原因はネギなんだぜ」
 帰宅に踏み切れない家出娘の面持で、有佳は適切な相槌の組み立てに窮していた。
 「まあ、他にもいろいろあった。それで気がついてみると素直に女が好きになれないへんてこな男になっていた。幻影が見えないんだな」
 この二十年余り、島崎が歩いて来た回廊は都会に被覆された獣道ばかりでもない。不意に醒めた面持になり、低く乾いた声でいった、
 「どんなにきれいな女でも、所詮は蛋白質の塊なんだよ」
 虚無的な言葉にこめられた陰惨な響きに有佳は息をのんでいた。
 「ネギがあの日、普段となんの変わりもなく臨海学校に行っていれば、おれの人生は、また趣が違ったものになっていたと思うぞ」
 明るい調子を取り戻し、島崎はことさら饒舌になった、
 「御殿山中学に通うおれは、私立の中学校に通っている、いまや高嶺の花になってしまったネギに、どうやって偶然を装って近づき、話し掛けたらいいのか、悶々と思い悩む夜を重ねるんだ。それで、やっぱり小学生のとき親切にしておけばよかった、って、後悔するわけだ。やがてネギには、おれなんかが逆立ちしたって敵わない超エリートの色男ができてしまって、哀れな失恋少年は陳腐にも、盗んだバイクで走り出す。それでもって、エピローグはおれひとり明け方の海岸線を走る、って寸法だ。これが“青春編”」
 キナくさい科白から一転して、島崎が並べ立てる得べかりし昭和の青春物語をちらつかされた有佳は、ぎこちなく微笑んだ、
 「私立中学校に行ったって、あたしはずっと康くんのオンナよ」
 彼女独特の早まった語彙に対する免疫はできていた。即興の愛情表現を真に受けたふりをして、
 「わかっちゃいないね。縦割りの世の中じゃ、とどのつまりそんな事例はないの。タイばかりじゃありませんよ。日本にだって、ちゃんとヒエラルキーが存在するんだから」
 対向車線に見覚えがあるバス停をみとめながらも素通りして、BMWは、間口が広い首都高速の料金所へ吸いせられた。
 「深谷組、って知っているか?」
 藪から棒な問いかけに有佳は戸惑ったが、
 「ビルとか作っている会社のこと?」
 と、問い返した。複雑な笑みを横顔にうかべて島崎は頷いた、
 「六本木のカフェでアルバイトしている平成の女子大生に話したら、暴力団と間違われた。ここのところ、内地じゃ女子学生の就職難が続いているそうだが、あれじゃ無理もない。それにひきかえ、あんたはじつに頼りになる小学生だ」
 空々しいお世辞を聞き流して有佳はいった、
 「その会社がどうかしたの?」
 「この高速道路をつくった。それだけだ」
 事務的に言うと島崎は話題をパラレルワールドの人生シュミレーションへ戻した、
 「今日は土曜日だ」
 バンコクの首都高速は空いていた。
 「土曜日だから、さしずめ新宿の風鈴会館で御殿山小学校のクラス会が開かれる。地元吉祥寺の飲み屋を使わないところが、可愛くない。しがないサラリーマンのおれは無能な上司の悪口と、無体にもボーナスをカットした会社のやり方を愚痴るため、意気ごんで出席する。傷を舐めあえる甲斐性無しは、掃いて捨てるほどいるはずだからな。したがって、男連中の出席率は高いぞ。みんな、おれと似たり寄ったりの境涯なんだから。ところが乾杯してすぐ”俺が俺が”の大合唱、誰も心行くまで自分の話を聞いてもらえず、結局会合は欲求不満の怨念を残してお開きになる」
 しゃべりながら、島崎は暗澹とした気分になってきた。主役を置き替えた、
 「一方、めったに小学校の同窓会などという泥臭い集まりに顔を出さないナントカ
有佳というマダムは」
 マダムという呼び名に、島崎は後天的に、いやな印象をもっている。
 「ミセス有佳は」
 と、言い改めて続けた、
 「すごいぞ、きみは社長夫人だ。愛用する香水は、イヴ・サンローランの限定品、イン・ラブ・アゲイン。ところが哀れにも旦那の経営するアパレル企業の業績は芳しくない。いま思うにバブルの時、本業そっちのけでウナギの養殖なんかに出資したのがまずかった。これからは性根を入れ替え洋服屋として頑張るから、と頭を下げる亭主にホロリとかつがれて、虚しい努力と知りつつも、内助の功、有佳さんは日ごろ見下しきっている公立中学出身者の市場を開拓するため、欺瞞に満ちた愛想笑いを振り撒きにやって来るのだ。気の毒だね」
 いよいよ救いがなくなるシュミレーションを島崎は早々に切り上げた、
 「以上が“泥沼編”だ」
 奇抜な形の高層ビルが林立するプラトゥナム地区で、ジャンクションをゆるやかに駆け抜け、BMWは南東方向のバンナ−トラッド線へ突入した。有佳はそれほど退屈もせず、パラレルワールドの悲喜劇を聞いていた、
 「それでサラリーマンの康くんはあたしを可哀想に思ってくれて、あたしは、“やっぱり康くんと結婚していればよかった”って反省して、ふたりで何もかも捨て去って、タイに逃げて来るんだよね?」
 「それは“失楽編”」
 あきれ果てた面持で島崎は反問した、
 「おまえっておれが思っていたより単細胞だったんだな。どうしてわざわざタイなんかへ逃げて来ないといけないのよ?せっかく会うなら、クリミア半島はヤルタのハイカラな保養地がいいだろう?」
 「それって、あたしが仔犬を飼ってもいい、という意味?」
 ロシア文学の素養を備える小学六年生の反応に、ハンドルを握る男の半開きになった唇から幼稚な気力がずるずると抜けていった。すこし渋滞が始まっている。先のインターチェンジで混みあっている様子だった。のろのろ運転に身をゆだね、あたりの景色を眺めると、テレビアンテナが稠密するスラムを手前にはべらせて、クロントイ港の大型クレーン機材が見えた。BMWの周囲も、ここを先途にコンテナを積んだ貨物車が目立った。
 「タイへ逃げて来ようと思ったのは・・・」
 しばらく考えあぐねて、有佳は唐突に溌剌と自答した、
 「この国が気にいったの」
 「殊勝な心掛けだ。サイアムの神さまが泣いてお喜びになるぞ」
 インドシナの空を無感動に見上げる島崎はいった、
 「深谷組という建設会社はね、総会屋の世界じゃ“ゲテモノ食い”で知られている」
さすがの有佳も、やくざな業界のことは小学生なみに疎い。きょとんとした顔で島崎の無機質に光るサングラスをみつめていた。
 「たとえば、まったくひどい条件の公共工事の話しが持ち上がる。するとその筋の業界人は笑って囁きあうんだ、“オイオイ兄弟。あんな無茶な仕事、畢竟どこの指名業者も嫌がって入札に応じたりするものか”ってな。ところが間もなくどこかの会社が落札した、と耳を疑うようなニュースが流れて来る」
 「フタをあけてみると深谷組なの?」
 「正解。それにつけてもネギ、おれとコンビを組むか?その年齢で、しかも女のくせに、この手の胡散くさい話題について来るとは並み大抵の才能じゃないぞ」
 「あたしはいやよ。なんだか怖いから」
 釘を刺して有佳は質問した、
 「康くんの本当の仕事って、いったい何なの?」
 「いまの提案は冗談だ。本気にするな。・・・さて、そんなゲテモノ食いがつくったこの道路だが、結局最後はどうなったと思う?深谷組は度重なるバンコク首都高速整備公団の背信行為にいよいよ耐えられなくなって日本へ撤退しているんだ」
 「・・・」
 「タイを好きになろうとするネギの気持ちに水を挿す気はない。でも、この国が日本一の曲者企業をして尻尾を巻いて逃げ出させるほど灰汁がつよい国であることも忘れちゃいけない。ここは日本の総会屋でさえ子供同然にあしらわれる、恐ろしい国なんだよ。おれが言いたかったのは、そのことだ」
 スラムが途切れて高級住宅街がちらほらするようになった。クロントイのインターチェンジを過ぎると視界がふたたび大きく開けた。重苦しい話題から身を反らすように、有佳は平成のヒット曲を早くも暗譜して口ずさみはじめた。相棒に迎えるにはやっぱり幼すぎる。すっきりと正しいメロディを刻む鼻歌を聴きながら、島崎はシフトを五速に叩き込んでアクセルを踏み込んだ。BMWは、はるか前方を漂っていた車団へ一息に距離を縮めた。







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