* この物語はフィクションであり、登場する人物、企業、
団体、一部政府機関の名称は架空のものです(著者)。




第九話




 
 引っ掻き傷の痒みに耐え兼ねて、島崎は目を醒ました。そこはステファニーの寝室だった。目覚まし時計は雑然とした床でひしゃげている。乱れたシーツの上に、女の姿は見当たらない。
 手早く服を身につけると、ゆうべの暴漢は、割れた花瓶の破片や万年筆の零れたインクを踏まないように、用心深くベッドを降りた。コーヒーの香りに吸い寄せられて、ダイニング兼用の居間に出ると、クリスタルテーブルに朝食の支度がしてあった。
 バスローブ姿のステファニーが、英字新聞を読みながらトーストを口に運んでいる。
 昨日はあまりにも忙しい一日だったので、有佳はまだ眠っているらしい。島崎が領有権を主張する部屋のドアは閉じられていた。
 「クルンテープに雪が降るかもな」
 電子レンジを使うレトルト食品以外、料理ができない女にスクランブルエッグが作れたのは、その夫にとって、新鮮な驚きだった。とは言い条、返事はない。トーストを口に挟み、島崎は地元の新聞を摘み上げると、ざっと一面の見出しを拾い読みして、同じページにカラー印刷されている血まみれの死体写真をしげしげと眺めた。興味本位で字面を追うと、よくある“阿部定物”だった。若い妾の存在がばれて、妻に陰茎を切取られた初老男は、破損著しい腹部から黄色っぽい脂肪の粒を大量にはみ出させていた。スクランブルエッグにたっぷりケチャップをかけながら、島崎は言った、
 「おっかないねぇ。背の君に引導をわたした女、チュラロンコーン大学を出た公認会計士なんだって。こんなのインテリ女がやらかす殺生じゃないよな、まったく」
 「コウ、気をつけなさい。ヌンだって、タイの女なんだから」
 頬に青い痣を刻むチュラロンコーン大学出身の弁護士は、ひんやりと落ち着き払った口調で、宿六の牽制をぴしゃりと撥ねつけた。朝食を平らげて、コーヒーをカップに注ぐ、
 「ヌンさん、やればできるじゃないか。なかなか旨かった」
 「ヌンじゃないわよ」
 すると褒められた女は無表情に鼻梁でキッチンをさし指す。仕切りカウンターの向こう側で、あかるい陽光をあびながら、二匹の動物をはべらす有佳が、一年くらい前の日本の週刊誌を読んでいた。にわかに声を潜めて、島崎はステファニーに囁いた、
 「この朝飯、ユウカがつくったのか?」
 「ふうん。ユウカっていうの?あの子」
 如何に家庭における炊事が一般的でない都会ではあっても、キッチンの仕切りは、やっぱりその家の女主人の役目である。
 「後悔しているんでしょう?こんな家事もまともにこなせない女と所帯をもってしまったことを」
 台所を持て余し、挙句、うら若い居候にお株を掠め取られてしまったステファニーは、女としての面目を失ったようなものだ。
 「つまらんことを気にするな。それから、それを言ったら協定違反じゃないのか」
 島崎は、遠くを見るような眼差しで念を押した。

 ・・・・

 平成五年。日本列島は、ついに梅雨明け宣言が立ち消えになるほどの、観測史上類例がない冷夏に見舞われた。農村では、秋に収穫が予定されていた水稲が壊滅的な打撃を受けた。
 農家も大変な年だったが、長年与党に君臨していた政党にとっても、五五体制の崩壊、すなわち政権交代という事態に直面した屈辱的な年である。その引き金となったのが、東北地方の都会を舞台に巻き起こった世に言うゼネコン疑獄である。

 こんな曖昧模糊とした季節に全財産の数万円を携えて祖国をあとにした島崎は、ドンムアンの飛行場に降り立っていた。彼はこの政界事件の当事者だった。党の方針にそぐわない該地の市長を引き摺り下ろせ。年頭、高次の意志は島崎にそんな指令を下していた。早速、工作員は東北地方へ潜り込んだ。市長の背景を洗ううち、大手建設会社から、帳簿に記されない性質の献金が役人経由で流れているのを突き止めた。いわゆる、賄賂である。もとより、官僚が悪すぎて暴力団が失業する、と言われている街である。この地を地盤とする、島崎にとって、公私いずれにおいても、潰してはならない政治家たちからして、県政、国政の違いを問わず、みんな同じようなルートで醇風美俗にかなわない献金を受けていた。それは、政治の要諦であろう。
 果たして計略は波に乗り、すべて目論見通りに市長を追い詰めていく二十代の政治浪人には、自分の手足となって働くテレビ局や大新聞の支局をすっかり侮るという、誤算が生じはじめていた。市長潰しに成功したジャーナリストたちは、返す刀で、島崎の思惑を振り切り、政権にとって温存しておかなければならない勢力、すなわち県知事と複数の県議、地元選出の次期総裁候補と目されていた大物代議士にまで、次々と追求のメスを入れ始めたのだ。こうなると、マスコミは怪物だった。燃え広がる汚職告発の炎は、ついに政界全体を揺るがす疑獄事件へと発展した。野党の内閣不信任案は可決され、国会は解散、総選挙で惨敗を喫した旧来の保守陣営は下野して、政策なき烏合の連立政権の時代がはじまったのであった。
 何もかも失った島崎は身を寄せたプラカノンの下宿屋で、暇にあかせて「ゼネコン疑獄始末記」という怪文書を認めた。もっとも、文末にはきちんと署名を添えているから、「手記」と呼んでも差し支えあるまい。ふざけ半分でコピーを取り、バンコクで知り合った同国人に配ってみた。すると、どういうわけか、その一枚がサイアム新報に渡っていた。マダムと呼ばれる実質的な経営者が、独断で島崎の文書を紙面に掲載した。文句を言いにシロム通りへ乗り込んだところ、自ら対応に出たマダムから、専属でなくてもいいから記者になりなさい、と持ちかけられ、結局、ミイラ取りがミイラになったのだ。

 そして、年の瀬。島崎は、バンコク暮らしをはじめて間もない頃、奇妙な場所で一度だけ顔を合わせたことがある地元の大学生から、サイアム・スクエアの喫茶店に呼び出しを受けた。決然たる意志をこめ、電話口で流暢な英語をあやつる学生は、女だった。サイアム・スクエアは、バンコクのほぼ中心に位置する若者向けの繁華街である。土地の所有者は、隣接するこの国の最高学府、チュラロンコーン大学だ。仮に竹下通りが本郷にあるとして、東京大学がその地代を徴収している、と言ったような間柄である。
 白い開襟のブラウスに、黒のタイトスカートといういでたちのステファニー・スントーンは五分遅れて現れた日本人に、開口一番、こんな言葉を叩きつけた、
 「礼節の国民、と言われているみたいですけれど、日本人というのは、ずいぶん身勝手で思いやりに欠けた人たちなんですね」
 あっけにとられて、在タイ半年あまりの島崎は、
 「ちょっとまってくださいよ」
 と、意気軒昂な娘を制した、
 「会っていきなり、相手の国やその同胞を罵倒するとは、あまり感心できませんよ。...遅刻の無礼なら謝りますがね」
 強張っていたステファニーの頬から、気負いが抜けた、
 「ごめんなさい。でも、わたしたちの国のおコメが、お国であんなあしらわれ方をしているんです。くやしいんです」
 島崎はただちに合点した。
 初夏、本国で発足した連立政権は、ガットウルグアイラウンドの取り決めを渡りに船とし、不足するコメをアメリカ、中国、オーストラリア、そしてタイから緊急輸入する方針を打ち出した。時を移さずクロントイの港には、夥しいコメが集積され、貨物船は次々とチャオプラヤー川をくだり、シャム湾に出ると、針路北北東、四千キロ先の霞み棚引く海上に浮かぶ島国をめざしたのである。
 ところが、こうしてタイからやって来たコメに対する日本人の反応はきわめて冷淡だった。異質なタイ米に不味いという悪評が巷間に立ち、マスコミに扇動されて、大ブーイングの嵐が日本全土で沸き起こった。タイのコメが日本のドブ川に捨てられていた、などというニュースは、一方の首都・バンコクでも新聞やテレビでセンセーショナルに報じられるようになった。脳天気な民衆は自嘲し、知識階級からは釈然としない怨嗟が日本人に向けられた。
 しかし、ステファニーには、熱烈な愛国者としての立場のほかに、もうひとつ、日本人に噛みつかなければならない、私的な事情があった。彼女の祖父は、北部タイの玄関口、ナコンサワンという町で最大の精米工場を経営している。いうなれば、タイの米業界の重鎮だった。
 「東洋史の本で、日本の飢饉の記事を読みました。世が世なら、いまごろあなたの国では飢え死にしている人が大勢出ているはずなのに、よくも”まずいコメは要らない”なんて言えたものですね」
 「わははは」
 笑い声をあげて膝を打つ日本人を、その真意を汲み取ろうとする余裕がない知識階級の予備軍は反感も露に睨んだ。島崎は言った、
 「まったくその通りなんですよ、ステファニーさん。おれもちょうど同じことを思っていたんです。いやはや、こいつは愉快だ」
 それは包み隠さぬ本心だった。自身の考え方が、著しく一般論から乖離していることを自覚している男は、よもやタイの女学生から同じ思考回路を披露されるなどとは夢想だにしていなかったのである。だが、痛快な同志は、まだ横柄な国民のはしくれに心を閉ざしていた、
 「なにが愉快です。タイの庶民は、備蓄米を日本へ輸出した御蔭で、価格が暴騰したおコメを買う憂き目を見ているのよ。一日八十バーツの日当で働いている人たちにとって、キロ十バーツだったおコメが十八バーツになる....それがどんな意味だか、わかる?」
 島崎は意図的に、重箱の隅を突っつく姑息な戦術に出た、
 「十八バーツ?それは先週サイアムエコノミー紙が発表していた数字でしょう。あなたは実際に、ご自分の足で市場を歩いているんですか?昨日見たかぎり、ここ数日間の実勢価格は二十一バーツになっていますよ」
 タイ・エリートには、日本の与太者という侮りがあったのかも知れない。自分が把握しているより、さらに深刻な数字を聞かされて、女学生は口を閉ざした。
 「あははは。じつに弱りましたな」
 「笑ってないで、それを記事に書いてよ!」
 ステファニーはさけんだ、
 「シマザキさんはジャーナリストなんでしょう?タイが失ったものは名誉ばかりじゃないんです。どうか、日本のメディアで事実を公表してください」
 「ご期待には添えかねます。自分は、まがいものなんですよ。ジャーナリストとは言っても、ピンキリの、キリのほうでしてね」
ステファニーは、いつもの他人を見下すような面持ちに戻った、
 「そうよ。自分に都合がわるい話になると、日本人はいつもそうやって逃げようとするんだわ」
 「日和見主義をタイの人からご批判戴けるとは光栄ですね。まあ、自分は無駄な努力は御免こうむる、と申し上げているのです」
 暴力的な本性を島崎は慇懃無礼にちらつかせた、
 「なにしろ我が親愛なる同胞ときたら、長粒種のタイ米を短粒種のカリフォルニア米、オーストラリア米、それと中国米と平気で混ぜ合わせちまうんだ。もちろんインディカ米とジャポニカ米は炊き方が違う、ってことも知らない。それでもって“タイ米は不味い”と言い切ってしまう。こんな勘違いも反省しないで、何がグルメブームだ。コメがなければしのごの言ってないで、次の収穫まで蕎麦でもパンでも食ってしのげ...これがおれの言い分です」
 面持を改めると、島崎は意味深長に切り出した、
 「電話ではっきり、コメの件で話しがある、と言ってくれたらよかった。じつは、あなたのような誠実なタイ人に是非お見せしたいものがあるのです」
 島崎の住まいは、サイアム・スクエアからほど近いアパートだった。部屋にはいるやいなや、住人は建て付けの衣装棚からスポーツバッグを取り出して、眉目秀麗な来訪者の前に、大小の塊になったポリ袋をならべた。
 「見てください」
 ステファニーは、日本の文字が印刷されたひとつを開いた。
 「あら、おコメじゃない」
 と油断して、やおら眉間をせばめた、
 「ひどいにおい」
 「他のもどうぞ」
 果たして、精米業者の孫娘から及第点をもらった袋は半分程度に留まった。
 「こんな屑米、どこのお店でつかまされたの?チョーク(屑米で作る粥)にもならないでしょうに」
 手毬歌を唄うように島崎は地名を並べた。
 「オオサカ、ハカタ、タカマツ、ナゴヤ、センダイ、それにヨコハマとトウキョウ」
 すべて日本の都市だった、
 「これらはすべて“逆輸入品”。つまり、タイのコメですよ」
 「これが、日本で?」
 米屋の孫娘にとって、細長い炭水化物の素性と品質を判定するのは、大して時間を必要とする作業ではない。ひとしきり鑑定が済むと、ステファニーは床にへたりこんだ、
 「養豚所で処分するような古米だわ、どれも」
 これを受けて、島崎は説明した、
 「我々在タイの日本人は、毎日あたりまえのようにタイ米を口にしています。確かに日本の米とは違うけれど、かくべつドブに捨てたくなるほど不味いとは思わない...腑に落ちなかったんです。自分たちと同じ味覚を持っているはずの本国の連中が、どうしてそこまでタイのコメを毛嫌いするのか。そこで、一時帰国する邦人仲間に手当たり次第頼んで、国許の米屋の店先で売られているタイ米を集めてみたんです」
 そして、結論付けた、
 「バンコクの貧乏人が買い出しに行くクロントイ市場だって、きょうび、こんな粗悪品を扱ってはいませんよ」
女学生は低い声でさけんだ、
 「日本へわざわざ粗悪品を送ったの?タイの評判を落としてまで?そんなの、国民に対する裏切りだわ!」
 だが、島崎には、健康な郷土愛に満ちた娘にとって、この上なく残酷なゲームの結末を見通していた。ステファニーは、小指を唇にはさんんで考え込んだ、
 「いったい誰?屑米を調達できて、コメ市場で価格の操作ができて、そんな力がある人間は自ずと限られてくる...」
 そこまで言いかけて、血の気がさっと退いた、
 「まさか...!」

 新米を隠匿し不当な米価吊り上げを行った容疑で、モントリー・スントーンが逮捕されたのは、それからほぼ一週間後のことだった。

 ミミズがのたうつようなタイの文字を読みこなせない島崎は、地元の英字新聞でモントリー逮捕の顛末を知った。可愛らしい仕草で小指を噛む気丈な娘が不憫に思えた。他人に同情する心理と縁のなかった男にとって、それは不可解な感触だった。
 と、その矢先、電話が鳴った、
 『ヌンが大学に出て来ないの』
 若い女の声は、チュラロンコーン大学法律学部の学生を名乗り、手短に用件を伝える、
 『最後に会った時、チマサキって日本人に謝りたい、って言っていたから、あなたの電話番号を調べました』
 電話向こうの相手は、警察局幹部の娘らしい。
 『ヌンのこと、何かご存知じゃありません?』
 心当たりならあった。憑き物にいざなわれるかのように、島崎は街へ飛び出した。
そしてほんの数ヶ月前、屑米が旅立っていったクロントイ港に程近いスラム市場の安食堂で、昼間からウイスキーをあおっている茶色い髪の女学生を見つけた。近寄って、島崎はほとんど空になった壜を取り上げた。
 「もうやめとけって、ヌンさん。プアーな諸君がいっぱい、物珍しそうにあんたを観ているじゃないか」
 「マイペンライ...へっちゃらよ。ここは外国人が来るところじゃないんだから、あなたこそ帰りなさい」
 グラスを肘で転がす女の眼は、完全に据わっていた、
 「ヌンのおじいちゃんね、警察に捕まったのよ。犯罪者の身内に、恥なんてありゃしないのよ」
 白痴めいた笑顔に涙をたたえ、女は男の手から、琥珀色の液体が残るガラス瓶を奪い返そうとする。
 「おやじ、姐ちゃんの飲み代は幾らだ?」
 酔っ払いを適当にあしらい、島崎は言いながら店の主人の黒ずんだ掌に白い千バーツ紙幣を握らせた、
 「今日はこれくらいにまけといて」
 勘定はせいぜい数百バーツだったと見えて、初老の男はさかんに慇懃な礼を述べた。
 「おぶってやろうか?」
 「いらない。自分であるく」
 うしろに一本のスリットが入った黒のタイトスカートは彼女が通う大学の正規の制服だった。 
 「ちゅら、なあらっく!」
 囃し立てるように島崎は、チュラロンコーン大学応援団のエールを放った。無視された。千鳥足のステファニーは、せめぎ合うバラックを切り裂いた獣道のような路地を、漂いながら歩いた。生活排水でぬらぬら光る灰色の路面に繊細なサンダルを引っ掛けた白い踵がいたましかった。乾季の夕空に、時ならぬ雷鳴が轟いた。バスと人間がごった返す表通りに出ると、黄ばんだ大気が喧騒の巷をすっぽり包み込んでいる。
 ややあって、詩情もへったくれもない大粒の雨雫がふたりの頭上へボタボタ落ちてきた。正確にカウントダウンできるくらいの呼吸を置いて、バケツをひっくり返したような驟雨が街路樹をざわめかせ、アスファルトを席捲した。人智はすでに無力であった。右往左往する人びとを尻目に、そぞろ歩く男と女は、本格的な土砂降りの中で、たちまちずぶ濡れになっていく。
 頬にへばりついた髪をのけて、法律家のタマゴは普段の理知的な声色でいった、
 「タイじゃ商品価値のない、つまり原価0バーツのおコメでも、日本人はきちんと正規の代金を支払ったのね...」
 雨宿りをする気はなかった。あたかも滝と化した軒先を素通りして、島崎は答えた、
 「屑米でもコメはコメ。商取引上は何の違法性もないよ」
 「結局、おじいちゃんは丸儲けしたんだ」
 「ところが、儲けたのはあんたの爺さんばかりじゃないんだ」
 いたずらに引き篭もろうとする女を、男は引き止めた、
 「あれだけ品質管理にやかましい日本人が、まるで半端じゃない分量の不良品をみすみす掴まされると思うか?検品ミスでもない。屑米は、これを扱った日本人も承知の上で、船積みされたんだよ」
 稲妻が大木を直撃して真っ二つに打ち砕いた。女の唇が、かすかにひらいた、
 「わざと屑米を買い付けた日本人の目的は、マージン?」
 「うん。俗に言う、山分けだ。間違いなく、あんたの爺さんから、おれの国の誰かに、莫大なキックバックが渡っているよ」
 これが、平成五年、併せて一億九千万人の日本国民とタイ国民を翻弄したコメ騒動の、知られざる骨格だった。日本政府の委託を受けて、タイのコメを買い付けたのは、現地に法人事務所を営む、複数の商社である。とは言え、買い付けを行ったのは、いずれも世界屈指の資金力を誇る大商社ばかり。あまつさえ、ライバル企業をいくつも糾合し、不正行為の秘密を共有させておくのは、尋常な統率力のなせる技ではない。商社群の背後で、政界なり、官界なりの、非凡な権力が作用しているのは明白だった。
 だが、亡命者も同然の島崎は、ここへ来て、日本側の黒幕を洗い出す手段をすっかり欠いていた。仮に、ゼネコン疑獄など惹起させたりせず、いまも夜の永田町で暗躍する暮らしを送っていれば、島崎は容易にコメ騒動のからくりを把握しているだろう。ただ、知り得た情報は一切合財封印し、まかり間違っても、人前でコメの話題を持ち出すこともなかったはずだ。
 「わたしの顔をみてコウはどう思う?」
 やぶから棒な質問だと、島崎は思った。
 「美人だと思う」
 「お世辞なんか要求していないわ」
 ステファニーは真剣だった、
 「アジア人?ファラン(白人)?それともイソップの物語に出て来る蝙蝠の顔かしら?」
 「アイユン(日本人の蔑称)には見えないね。おめでとう」
 不謹慎な男の自虐めいた茶々を聞き流し、女は続けた、
 「子どもの時からずっとわからなかったの。自分がタイ人なのか、ファランなのか、って。...でも、タイのおコメが日本でひどい扱いを受けていると聞いて、悔しくて、涙が出て来たの。それでようやくわかったわ。ヌンは、タイ人よ」
 会話は終始タイ語だった。それなのに、島崎の耳には、ステファニーの口から発せられる言葉が淀みのない日本語となってはいってくる。ふしぎな気がした。
 「しかしね、ヌンさん。他のタイ人はコメ騒動なんか何処吹く風、みたいな顔をしているよ。精米業者の身内という点を割り引いたって、おれはあんたほど深刻に悩んでいるタイ人を他に知らないぜ。あんたは、やっぱり、おかしなタイ人だ」
 雨はあがっていた。
 「コウ。あなたには日本に恋人がいるの?」
 チャオプラヤー川の岸辺でしゃがみこむステファニーは、晴れ晴れとした顔で品定めするように島崎を省みた、
 「いないよ。ぜんぜん、もてない」
 「ふうん。ヌンも同じ。こんな性格だから、敬遠されちゃうの」
 「悲嘆には聞こえないな。あんたはそんな自分を誇りに思っているはずだ」
 「やせ我慢かも知れないわよ。でも、それを言ったら、あなただって女の子にもてない自分をずいぶん楽しんでいるんじゃないのかしら?」
 デンバーの絵の具をとき流したような川の水が、しばし金色に煌めいた。落日の瞬間である。
 「日本側の黒幕を炙り出してやろうか」
 夜の帳が島崎に心機一転をもたらしていた。どこか理解できそうな娘に、遠い昔おぼえたことのある義侠心を引きずり出して言った、
 「いつになるかわからないけれど、あんたの爺さんひとりに泥を被らせたくはない。タイ人に日本人への憤りを植え付けた責任は、もちろん、モントリーさんにとってもらう。しかし、日本人にタイ米を誤解するよう仕向けた連中にも、落とし前をつけてもらわないとな」
 「ずいぶん、勇ましいわね」
 今度は、男が女の皮肉をネグる番だった、
 「タイに住んでいるとね、腹立たしいことがたくさんある。今日この国が好きであっても、明日は嫌いになる...そんな気分の繰り返しだよ。しかし、何も知らない同国人が、頭ごなしにタイを軽んじたりすると、それはそれで面白くないんです。身勝手だけれど、それがおればかりじゃなく、クルンテープに住んでいる大方の日本人の、けっこうありふれた心理じゃないかな」
 しばらく黙っていたステファニーは、鮮やかな真紅に染まったトワイライトの空を見上げた、
 「この街に住むたくさんの日本人が、どうしてあなたに協力しておコメを持ち帰って来てくれたのか、なんとなくわかったような気がする」
 そして、付け加えた、
 「ヌンに手伝えることがあれば、なんでも言って」
 「だったら、同盟を結ぼう」
 あるいは、これが事実上のプロポーズだったかも知れない。だが、すくなくともこの時点では、揃いも揃って子供の作り方も知らないような男女の目に映るメナムの残照は、日本の男とタイの女のロマンスを映す鏡になってはいなかった。昼の世界と夜の世界の狭間を厳かに暗示する、お誂え向きな風景でしかなかった。
 「どんな同盟かしら?」
 ステファニーも無邪気だった。いくら島崎が日本の男であっても、彼が海軍士官でないことくらい、第一次産業を家庭の経済基盤にしているタイの女子大生は弁えている。しかし基本的に、この一見まるで正反対の方角をめざして歩いているかのようなふたりは、人間がよく似ていた。どちらも他人の話を真面目に聴こうとしない性質であり、楽観主義者だった。
 「まず、おれは実行犯になる。なるべく手荒な真似は避けようと思うけれど、必要があれば、際どい手段も用いなければならない。だから、ヌンさんは法律家として、こちらの管制塔になってほしい」
 「コウが捕まったときの救出ね。あとは?」
 「そうだな・・・」
 いったん打ち解けてしまうと、話はとんとん拍子に進む。
 「いずれにしても、ヌンさんは頭を使う役割に専念してくれたらいい。手を使う仕事はすべておれに任せておくんだ」
 「ちょうどよかった。ヌンってね、自分でも信じられないくらいそそっかしくて、おまけに不器用なのよ」
 ステファニーは了解し、しかしひとつの条項を最後に提示した、
 「麻薬と人殺しと人身売買だけはやらない、って、約束してくれる?」






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