* この物語はフィクションであり、登場する人物、企業、
団体、一部政府機関の名称は架空のものです(著者)。




第八話




 異常事態はしかし、有佳の豹変だけに留まらなかった。
 にわかに、廊下から新たな殺気が感じられた。
 「ホンニィナカァ...?」
 「カ、カッポン」
 この部屋ね?まず落ち着き払った女の声が尋ね、さ、さようでございます、と大家のうろたえきった声が答えた。部屋のドアに、鍵はかかっていなかった。おもむろにノブが回り、扉がひらいた。プラセットが案内して来たのは、島崎がよく知っている女だった。
 「お邪魔だったかしら?」
 冷たい面持で、明るいグレーのスーツを着こなす闖入者が言った。
 有佳のバスタオル姿は取り繕いようがなかった。スーツ姿の女の髪はこげ茶色、貌立ちはあからさまに欧米系である。イングランド系アメリカ人を父にもつ彼女は、名前をステファニー、あだ名はヌンという。ルンピ二法律事務所で、民事訴訟法を専門としている二十七歳の弁護士だった。ステファニーは、有佳には一目もくれず、立ちつくす島崎に事務的な調子で告げた、
 「チョンブリ県のキョクトウ化成の重役から被害届が出ていますよ。シマザキコウジから恐喝された挙句、殴る蹴るの暴行を受け、全治三ヶ月の重症を負わされたみたい」
 「ちょっと待てよ、ヌンさん」
 込み入りすぎた状況を払いのけて、島崎は、久しく口にしていなかったニックネームで妻を呼ばわった、
 「冗談じゃないぞ。おれはあの工場長の首根っこつかまえて硫化水素が混じった海の水を飲ませてやっただけだ。工業排水をシャム湾に垂れ流している張本人はあいつらなんだから」
 実際の暴行内容は訴状に記されていない。企業側が臨海の水質に後ろめたい証拠である。
 「ヌンさん。汚されているのは、あんたの国の海なんだぞ。頭に来ないのかよ?」
 「そうね、非常に不愉快だわ。わたしたちの海を汚しているのは、コウと同じ腹黒い日本人ですものね」
 しかし、米タイ混血の女弁護士は、冷め切った面持でくすくす笑う。その仕草が、どこか“もうひとりの有佳”と相通じているような気がした。
 「でも、“太平洋とインド洋を運河で繋ごう”なんて息巻いていた人が、いまさら環境破壊云々などとよくも言えたものね」
 会話はもっぱらタイ語なので、ステファニーの言葉は有佳に伝わっていない。しかし、あきらかに島崎にとって不利な場面であることだけは察したらしく、十一歳の心細い面持で、成行きを見守っていた。だが、ステファニーが放った揶揄は、島崎から瞬刻、正常な視界を奪っていた、
 「もういっぺん言ってみろよ、このクソ阿魔・・・」
 「...アライナ(なによ)?」
 ステファニーは視界を真っ赤にした夫のつぶやく日本語がわからない。
 「あの運河はよ、おれの聖域なんだ」
 前置きすると、島崎は激昂して母語でさけんだ、
 「おまえみたいな澄ましきった能書き屋に何がわかるんだっ!いつも強い外国の尻馬に乗って体裁を取り繕ってばかりいる国の分際で、・・・真剣に汗と血をながしている日本人にいちいち差し出がましいことを抜かすんじゃねえ!」
 「ババボボ(きちがい)」
 弁護士の大きな瞳にもまた、暴発寸前の憎念が燻っていた、
 「午前六時になったら、外の連中があなたを身柄拘束しに来るわ」
 窓を覗くと、小豆色と白のツートンが停まっていた。
 「おあいにくさま」
 片方のハイヒールのつま先を廊下に向けながら、島崎の妻は残忍に微笑んだ、
 「かわいい恋人にまで辛い思いをさせて、コウの面目は丸つぶれね」
 「ジャストアミニッツ、プリーズ」
 悲鳴に近い英語をはなったのは有佳だった、
 「...マダム。わたしはタイ語がわかりません。でも、あなたがあなたの夫を誤解しているのはわかります。あなたの夫は、無罪です」
 きちんと文法に則り、発音も正しい英語だった。呆気に取られたのは島崎ばかりではなかった。ステファニーも、降って沸いたような少女の陳述に歩調を停めていた、
 「どうしてあなたにコウのことがわかるの?」
 女弁護士は少女に向き直り、父親譲りの言語に切り替えた、
 「乱暴な男よ。現にこうしてあなたみたいな若い子に、不届きな狼藉をはたらこうとしていたんじゃなくて?」
 「誤解です。あたしは新しい服を着ようとしていたんです」
 「こんな夜中に?男の部屋で?...いずれにしても、異常な話しだわ」
 法律家は再びつま先を廊下に向けた、
 「わかりました。信じてくれないのなら...」
 有佳はベレッタを拾い上げ、銃口を自分の心臓に押し当てながら毅然とした調子で言った、
 「あたしが死にます。あなたの夫は、身寄りのないあたしを助けてくれたんです」
 しきりに感心する島崎を尻目に、血相を変えたステファニーが有佳に飛び掛った、
 「...やめなさいっ!どうしてあなたがあんなろくでなしの潔白を訴えてに死ななきゃいけないの!整合性が認められません」
 女にピストルを奪われまいと背中を丸める少女は、くぐもった叫び声をはなった、
 「あたし、嘘ついていないもん。疑われるくらいなら死んだほうがましよ」
 「間違ってるわ。銃口はあなたを食い物にしようとしたけだものに向けるべきじゃない」
 少女と揉み合いながら女は憤りをきわめた眼差しで亭主を睨んだ、
 「コウ!なにをボサッとしているの!早くこの子からビストルを取り上げなさいよ!さもないと、本当にあなたの心臓に風穴をあけてやるから」
 島崎は肩を窄めて英語で言った、
 「...ソーリー、ノットロードイエット(まだ弾丸を装填していないんです)」
 発せられたカタカナ英語に、有佳とステファニーは格闘を止め、白けた顔と顔を見合わせた。
 「“女房妬くほど亭主もてもせず”って諺が日本にはある」
 「なんですって!一体だれが...」
 食って掛かる妻の手許から難なく拳銃を回収すると島崎は狡猾な口調で言った、
 「乱暴者で変態の配偶者が捕まれば、信用第一の法律屋は仕事がしにくくなるね。これはおれやあんたの主観とは関係なく、世間がご判断なさることだが...お気の毒はお互い様だな」
 「それって、取り引きのつもり?」
 口角を下げる女は、しかし二の句が継げずにいた。咄嗟の判断を迫られると、ステファニーには子どもっぽい仕草で小指の爪を噛みながら思案をめぐらせる性癖があった。猜疑心と虚栄心、復讐と憐憫、そして数々の損得勘定が女の前頭葉を駆け巡り、入り乱れた。ややあって諦めたように小指が唇から離れた。
 「チャトチャクへいらっしゃい」
 チャトチャク地区のコンドミニアムは女弁護士とおとなしい雑種犬と太った猫が住んでいるだけだったが、島崎の本宅でもある。
 「コウが逮捕されたって、ヌンは一向に構わないけれど、ナコンサワンのおじいちゃんに迷惑をかけることになるから仕方ないわ」
 タイ北部の玄関口にあたるナコンサワン県には、島崎の義理の祖父にあたる、モントリー・スントーンという老実業家がいた。査証の身元保証人でもある。
 「...服を着て」
 ステファニーは半裸の有佳に英語で声を掛けた、
 「お友達も一緒に来るといいわ。コウを信じる気にはなれないけれど、被害者になりかけたあなたをここに置き去りにするわけにもいかないわ。いいこと?明日になったらスクムビットのお家に帰るのよ」
 ステファニーもまた、日本人をスクムビット界隈に押し込めようとする先入観にとらわれた現地人のはしくれかも知れない。ショッピングバッグから、さらさらと音がこぼれだした。
 「なんだよ、そりゃ?」
 島崎は声を裏返していた。有佳が着込んだのは、旗袍を模したような、クリーム色の絹でつくられた袖なしの服だった。不謹慎な照れ笑いをうかべて、
 「こんな服、いっぺん着てみたかったの」
 と、打ち明けた。この女はちょっとセンスがおかしいぞ、とは思ったが、似合わないと言えば嘘になる。むしろ支那仕立ての有佳は、戦前の上海の風景にもすんなり溶け込めそうなくらい、様になっていた。なるほど、彼女を東京郊外の市立小学校に通う学力優秀な女の子、と通り一遍の枠に嵌めてしまうのは考えものだった。
 床でつぶれたレインコートを摘まみ上げて肩にかけ、島崎はベランダの扉をみた、
 「トマトの実、もう赤くなっていたよな」
 「食べちゃったよ、あたし」
 プランターへの水遣りは、いつしか有佳の役目になっていた、
 「鉢を持っていくわ。まだ、実がなるチャンスがあるかもしれないから」
 大切そうに茎が健在なプランターを抱えると、有佳は、何やら重大な欠陥を誤魔化し合って生きている雰囲気の男女を追いかけた。


 一階の食堂で、ふたりの制服警官がメコンウイスキーの水割りを呷っていた。駐車場に停まっているツートンのピックアップトラックの連中である。食堂の営業時間は午前零時までだが、島崎を事実上逮捕しに来た連中は、一応、現行犯を除く未起訴の被疑者を拘束してよい時間帯を定めたタイ国の刑事訴訟法に則って、朝の六時までここで待機する腹積もりでいたようだ。女手だけで店を切り盛りしている北東人の母娘は、御用の筋を口実に、毎度決して飲み代を払わない無法者たちのために、看板を仕舞うこともできず、困惑した愛想笑いをうかべて厨房に佇んでいた。
 ところが、よれよれのレインコートを羽織る待ち人は、身だしなみの良い女に連れられて、飄々と通路を通り過ぎる。男前の警官が色めきだって立ち上がり、サツマイモみたいな顔の相棒を肘で小突いた。大柄なサツマイモは、緩慢な身のこなしで肩を怒らせた。天下の往来で通行人に因縁をつけるならず者の仕草でステファニーを呼ばわった、
 「おい、こら、女!その男をどこに連れて行く気だ?」
 呂律が回らない物言いに、女は立ち止まり、
 「あなたは刑事訴訟法をご存知かしら?」
 醒めた眼差しで高圧的な大男を一瞥した。
 「裁判所から令状の事前呈示がなされるまでのあいだ、被疑者の身柄はこちらで保護します」
 「あう...」
 切り出された非凡な語彙に、世俗の芥にまみれた巡査は一瞬たじろいだが、今度は二枚目が身を乗り出した、
 「やい、勝手な真似をするな。そいつは重要参考人なんだぞ」
 「どうして?よしいかに本件の蓋然性が高かろうと、裁判所には手続の明確性と公正さを担保しながら被処分者の不服申立ての手段を確保して、しかるべき利益を図る必要があるはずよ。現時点なら、わたしの判断は適法だと思うけれど。いかが?」
 所轄の警察署は、やぶから棒に法律用語を用いはじめた女と、問題ある異邦人の関係をまったく把握していなかった。
 「もっとも、あなたがたが直接被疑者に任意同行を求めるのなら、わたしはあなたがた捜査機関の職務を妨げたりしませんわ。しかし、現段階では、被疑者には同行を拒否する権利が認められているの。それをお忘れなく...」
 警官に言い置いて、ステファニーは島崎を省みた、
 「ミスターシマザキ。警察の任意同行要請に応じますか?」
 しばらく真顔で考え込み、厳かに不良外人は答弁した、
 「おまわりは私にとって世界中で二番目に嫌いな人種です。法律家の次に気に食わない生命体なのでございます」
 軽蔑をふくんだ眠たそうな面持で、法律家はさらりと詭弁をくり出した、
 「では、一番きらいな人種についていらっしゃいな。虞犯少年には、量刑が重いに越したことはないんだから」
 法廷では、あべこべの判事の言い分である。ぐうの音も出ない地回りの岡引に、弁護士は事務的に申し渡した、
 「この被疑者にご用があれば、裁判所の書類一式を揃えて、ルンピニ合同事務所のステファニー・スントーンにお問い合わせくださいましね。捜査には協力を惜しみませんから」
 プランターを抱えて成行きを見守っていた有佳が、被疑者に耳打ちした、
 「よくわからないけど、かっこいいんじゃない?あのひと」
 なるほど、こういう女は島崎も愛読していた法律劇画のヒロインにいたかも知れない。しかし、夫婦となると話は別である。
 「それなら、おれは離婚するから、ネギが彼女の女房になってやれ」
 島崎が倒錯的な科白を口走った矢先、正面でフラッシュが数回焚かれた。
 「おいこら。なんだ、おまえは」
 誰何したのはサツマイモ警官である。野次馬のあいだから、ひょっこり浅黒い顔の若者がカメラを手にしてまろび出た。つい数日前、このアパートに入居したばかりの男だった。
 「何かの捕り物かと思いまして。違うんですか?私は雑誌のフリー記者でございます」
 ふっくらした頬が人の好さを物語っている。タイ男特有のやわらかな笑顔を湛える新しい住人は、それでも、島崎の同業者だったようだ。
 「ええ、かんべんならぬ。おっちょこちょいめ!」
 魚を釣り逃がした腹いせに警官たちは若い記者にあれこれ理不尽な難癖をつけはじめた。彼らにしてみれば、自分たちが女弁護士に惨敗する状況写真である。肖像権の侵害だ、モデル料をよこせ、と公務中の連中に詰め寄られ、哀れな記者は早とちりの代償として、さんざんに油と財布の中身を絞られていた。
 ソーイの歩道からだいぶ間隔を空けて、黒っぽいフォレスターが横付けされていた。後部ガラスには、日の丸のステッカーが貼られている。島崎にとっては懐かしい愛車だが、ちなみに、こうした車の停め方はタイの道路交通法でも違法駐車に該当する。深夜なのにソーイは渋滞し、クラクションが錯綜していた。原因がフォレスターであることは疑うべくもなかった。
 「これでまた、日本の評判が落っこちるよ」
 「ぶつぶつ言っていないで早く乗りなさい。他の車に迷惑でしょう」 
 自己反省が介在しない社会だから、タイでは優れた文学が生まれないのだ、と島崎はよっぽど言いたかったが、やめておいた。運転席のステファニーはふたりを後部シートに押し込めると、無言でフォレスターを急発進させた。
 「あの」
 車窓を流れるオレンジの街灯をながめる男に、少女は控えめに言った、
 「ごめんなさい」
 「いいよ。べつに食べるつもりで育てていたわけじゃないから」
 しかし、持ち出されたのは、トマトのことではなかった。
 「あれ、冗談だったの」
 密室で娼婦めいた含み笑いをもらしていた有佳の姿は、そこにはなかった。
 「だって、康くんだけが大人になっちゃったから」
 多次元ワームホールの彼岸から見れば、二十二年前の姿をした女より、一夜にして三十路の坂を徘徊するようになった少年のほうが、よほど驚異であるに違いない。
 「あたしだけ、置いてけぼりになるの、いやだったから」
 通俗的なエロティシズムを否定する気はみじんもない。ただ、島崎は考えざるを得なかった。人格の成熟より、淫蕩が大人の証とされる風潮は、アダルトビデオが事新しくもたらしたものではない。安っぽい大人の増産は、もっと以前から始まっている。塾帰りの有佳が通りかかる吉祥寺の街でも、そんな事例は、すでにたくさん見受けられたはずだ。
 「おれだからよかった。よそであんな真似をしたら冗談じゃ済まされないぞ」
 憂国の志士は腕組みして黙りこんだ。
 ___あれは本当に演技だったのだろうか?
 俗物は、ようやくアパートで起きた自分の体質の変化を、正直に認めていた。有佳がたたえる女の匂いを嗅ぎ取って、男としての本能が確かに疼いた。バンコクは誘惑の多い街である。色仕掛けの類いをいちいち取り上げていたら切りがないし身がもたない。こんな剣呑な巷にあって、かじかんだ色欲は、結果的に島崎を破局から守っていた。にもかかわらず、その安全保障が打ち砕かれたのだ。だからこそ、ことさら有佳を恐怖した。
 ___もし、あのときヌンが踏み込んで来なかったら・・・
 午前二時すこし過ぎ。あと四時間に迫った別件逮捕を知らず、いまごろ有佳を用いてどんな所業に惑溺しているか、想像するのは難くない。島崎は、傍らで所在無く俯く、まともな有佳、を横目で一瞥し、溜息をついた。危ないところだった。だが、不完全燃焼の情欲は、理性とは別の次元で火種となり、燻り続けている。おのずと、視線は正面でハンドルを握る女の後姿にそそがれた。ナトリウム灯は、しっとりしたうなじを撫でていく。ポニーテールの後れ毛が、否応なしに、艶っぽくみえてきた。


 チャトチャクのコンドミニアムは、二十四階建てだった。傍目に毛並みがちぐはぐな三人連れは、無言で韓国製のエレベーターに乗り込み、最上階へ上がった。屋上が吸収する熱のせいで、二十四階はけっこう暑いけれど、深夜の廊下は、まずまず常識的な温みかたをしている。奥まった一角で、ステファニーは立ち止まり、スーツのポケットに鍵を探し、おもむろに呟いた、
 「ハンドバッグ、事務所に忘れちゃったわ。お願い」
 「仕方がない」
 嘆息して、島崎は従順な姿勢をとる妻の髪に手をかけ、ヘアピンを一本引き抜くと、ノブの鍵穴へ挿し込み、ものの数秒で開錠した。有佳はぽかんと口をあけて一部始終を傍観していた。
 居間に直結した玄関には、明治天皇とラマ五世チュラロンコーン大王の肖像が並んでいる。同じ時代に、アジアにおいて、それぞれ適切な手段を講じながら、自国を植民地化の危機から護り抜いた名君たちだ。帰国すれば島崎は自身が生まれ育った社会から右翼という烙印を捺されかねないが、一方、混血の弁護士はこの国の平凡な国民である。ともに独立を維持した父祖をもつ国民だが、現代の日本人とタイ人のあいだには、そんなカルチャーギャップも生まれている。
 ステファニー名義のコンドミニアムは、奇妙な構造になっていた。
 まず、よく見ると廊下に通じるドアが二枚ある。居間に付帯したキッチンやベランダもそれぞれふたつ。バスルーム付きの寝室も二つある。玄関脇に用意された女中部屋ないし納戸用の小部屋までもが、几帳面に一対揃っていた。ようするに、隣り合った同じ間取りの物件をまとめ買いして、壁を穿って使用しているのである。勤皇の玄関をくぐり、有佳がはじめて足を踏み入れた部屋は、ふたつの寝室に挟まれた居間だった。そして建物全体の角部屋にあたる、もうひとつの居間は、弁護士の書斎になっている。
 「どこへ行く気?」
 さっさと端の寝室にはいろうとする夫を見咎めて、妻が言った。
 「自分の部屋だよ」
 「おあいにくさま。そちらはゲストルームよ。ここにはコウの部屋なんかないわ。居間の長椅子を使わせてあげるから、そこで寝なさい」
 「ご親切に、ありがとう」
 言いながら、有佳をともなって、自室のドアをひらいた。
 「命令に従いなさい!」
 とうとうヒステリックな金切り声が弾けとんだ、
 「誰の御蔭で助かったと思っているの」
 どす黒い憎念が、睨みあうふたりのあいだで、めらめら揺らいだ。
 「勘違いされちゃ困る。おれは自分の保証人であるモントリー会長につまらない累が及ぶのが遺憾だから、ポリ公の任意同行を拒否したんですよ、奥さん。あんたのご命令に服従する義理はないね」
 もとより今夜は有佳と同じ部屋で寝る気にならなかった。居間のソファに寝転がって目を通しておきたい書類を取るため、自分の机が置かれた寝室に立ち入ろうとしただけだ。だが、厳格な妻は、ふらちな夫がなおも幼い恋人との逢瀬を続けようとしているふうに受け取ったらしい。
 「あさましいひと」
 悪態をつくと、ステファニーは乱暴にドアを閉めて自分の寝室に閉じこもった。
 「おやすみ、可愛い人」
 勝ち誇った面持で島崎は閉じられたドアに投げキスを贈り、はらはらする有佳を省みた、
 「いちいち気にするな。いつものことなんだから」
 ライティングデスクの下で、雑種犬とデブ猫がじっとしていた。
 「なんだ、おまえらここにいたのか」
 目は開いているが、二匹とも石のように床から動こうとしない。
 「メシ食ってないのか?幸せなことだ。なにしろ諸君はキ印女に飼われた御蔭で、畜生道から餓鬼道へ精進なすったんだから」
 キッチンの棚からドッグフードとキャットフードの缶詰を持ってくると、島崎は自ら一口ずつ毒見して、難解な書墨が焼き付けられた絵皿を壁から外して盛り付けた。いずれも茶色い二匹が飛び出して餌を平らげ、皿をペロペロ舐めまわし、瞬く間にそこに書かれた有佳が知らない総理大臣の署名を露にした。
 「名前はなんて言うの?」
 「大曽根康元」
 「それはお皿の防衛長官でしょう。このワンちゃんとにゃんこの名前よ」
 「“大曽根”と“康元”でもいいし、ポチとタマでもいい。名前なんかないんだよ、こいつらには。・・・しかしこの皿の簾満月オヤジが国防大臣を勤めていたの
は、おれが中学の時だぞ。どうしておまえが知っている?」
 「そんな気がしただけ。でも、もしかすると、あたし、魔女かも知れないよ」
 絵皿を舐める二匹を優しく見守りながら、有佳がいった、
 「ぜったいかないっこない願いごとが、かなったんだもん」
 地獄道の放浪者は索然と相槌をうった、
 「どんな願いごと?」
 もし、あのままゴールデンゲートにいたら、有佳からこんな屈託のない話題を切り出される機会は永劫失われていたかも知れない。貪婪な二匹に永田町時代の自身の姿を重ねながら、書類を探しはじめた男は、有佳の物語を後ろの耳で聞いた。
 「あたしね、本当は学校に行くのがいやだったの。クラスのみんなが嫌いだったんじゃなくて、学校に行くと、いい子でいなきゃいけないから、イヤでたまらなかったの」
 「やれやれ。そいつは劣等生の理解を超える高等な苦悩だね」
 担任の教師は悪童たちを叱るとき、冴木みたいにきちんとしろ、とかならず言う。ずっと有佳とクラスが一緒だった康士にとって、担任の顔はたびたび変わったけれど、そんな引き合いを聞かされたのは、一度や二度のことではない。羽を伸ばしたい本人にしてみれば、これは抑圧以外の何物でもなかろう。島崎の、清楚で慎ましい有佳という認識は、あるいはそんな大人たちによって植え付けられた偏見だったのかも知れない。
 「いつもひとりで考えていたんだよ。できることなら、誰も知らないどこか遠くの世界に逃げてしまいたい、って」
 机の引出しを引っ掻き回す手を止めて、結論が読めた島崎は、有佳本人の締め括りを待った。
 「そうしたら、本当にそうなっちゃった」
 つまり、有佳は自分の神隠し体験を、自らの思念が招来した願望の精華である、と言い出したのである。量子力学でいう、事象の地平面が褶曲して生じた「多次元ワームホール」の方程式が一挙に解明できたような錯覚をおぼえたが、しょせん一介の企業ゴロの頭脳では、何もわからなかった。
 「でも、ぜんぜん知らないこの街に来て、びっくりして、それからやっとわかったの。あたし、ひとりじゃ何もできない。それで、康くんのことを考えたわ。康くんなら、こんな時どうするんだろう、って。でも、康くんの声が聞こえないの。バス停のベンチで、心の中でなんべんもさけんだわ、“康くん、おねがい、あたしを助けに来て!”って」
 「おいおい」
 たまりかねて島崎は手にした書類の束で遮った、
 「どうしていきなりそこであの馬鹿野郎の名前が出て来るんだよ?」
 「だって好きなんだもん、康くんのことが」
 平然と言ってのけてから、有佳は、大いにうろたえた。同じ空の下に、もうひとりの島崎康士がいるような錯覚は、ふたりに共通したブラックボックスかも知れない。
 有佳が失踪して、半月になる。
 もちろん、あちら側の世界での話しである。五月下旬に迎えた十二歳の誕生日。喪に服すかのように、暴力沙汰を手控える康士は、それまでまるで縁がなかった読書という習慣を日常生活に取り込んでいる。もっとも、手に取る本は、もっぱら失踪事件のトリックを扱った推理小説と、対テロリスト特殊部隊の軍事教本の類いばかりだ。冴木有佳は誘拐された。それが、ついにひとりの少女の行方を突き止めきれなかった頼りない大人たちの見解だった。
 ___いま、おまえが鉄面皮の内側を涙でびしょ濡れにしながら名前を呼ばわり続けている女は、おまえが知らない化性をのぞかせながら、中途半端な修羅に変わり果てたおまえの分身といっしょに、異国の空の下にいるよ・・・
 悪魔に魂を売ってもいい。憎からず想っている同級生の救出を自ら志す悪童に、時空の彼岸から三十路の不良少年は、そんな風に語りかけていた。すべては古ぼけたかさぶただった。白けた面持で、島崎はつぶやいた、
 「あいつはもう過去の世界の住人だな」
 いずれにしても、あの昼下がり、予定外のコースへ迂回するバスの車内でにわかにおぼえた悪寒は、ようするに、魔法の杖を誤って用いてしまった無邪気な魔女が発信するSOSのテレパシーだったようだ。不条理な旅路の終着駅がメルヘンに落ち着くのも一興である。
 「だから、バス停にあらわれたひとが康くんだってこと、本当は、あの時、すぐにわかったんだよ」
 「こんなおっさんになっているのに?」
 「だって、しゃべり方が、康くんと同じだもん」
 異常事態に遭遇しながら、有佳はしっかり出現した男の素性を看破していたのだ。頭隠して尻隠さず。いまさらながら、島崎は立つ瀬がなかった。
 「抛っておいていいの?」
 「なにを?」
 有佳の関心は、もうひとつの寝室に向けられていた、
 「あのひと、いまごろ泣いているはずよ」
 「ヌンが?」
 法律家などと威張ってみたところで、ステファニーは幼い外見の有佳より子どもかも知れない。それでも島崎は面目を取り繕った。
 「愚妻はそんなヤワなたまじゃありませんよ」
 「本当はとても信じているのよね、ヌンさんのことを」
 言われて、かえって有佳を慕おうとする自分がもどかしい。島崎は悟った。たとえ三倍の人生経験を積んでみたところで、人間は三つ子の魂で定められた序列を崩すことは不可能なのだ、と。冴木有佳の目線は、あくまでも、島崎康士の頭の高さを超えたところに置かれていた。
 「行ってあげて」
 天の声をつたえるように、魔女は言った、
 「だいじょうぶ。あたしなら、もう消えたりしないから」
 世俗の用事は明日でもいい。一旦取り出した極秘ファイルを机上に置き、島崎は言った、
 「二十二年抜け駆けしてみたところで、とうとうおれは結局ネギに追いつくことができなかった」
 それは、晴れがましい敗北宣言だったかも知れない。
 「かいかぶりよ」
 部屋を出て行く男に、おやすみ、と言わなかった。
 シロム通りのサイアム新報社で幕を開けた有佳の、長くて、賑やかな一日が終わった。清潔なシーツに身を横たえると、ややあって、居間越しにすさまじい物音と怒声の応酬が伝わって来たけれど、少女は気にせず、深い眠りについた。


  バンコクが不夜城というのは一昔前の風説で、タニヤ通りも一時を過ぎるとほとんどの店が営業を切り上げる。
 そんな中で、雑居ビルの四階にテナントを構える一軒のカクテルラウンジが、ネオンこそ消したものの、異様な空気に包まれ、店を閉めることができずにいた。
 グレーのカーペットの上には割れたビール瓶が転がり、殴り倒されたマネージャー以下、男の従業員が三人、血まみれになって意識を失っていた。彼らを介抱することもできず、女たちが不安げに覗き込む鏡の壁で囲われたボックスシートでは、長い髪を一本に結んだ無精髭の男が、女のひとりを膝に載せ、犯していた。夜更けのカクテルラウンジでサングラスをかける横顔もふてぶてしい。連れ出し料金を払っていようが、こうした行為はもちろん、掟破りである。
 「どうした!社長はまだ着かんのか」
 褐色の肌と、彫りの深い顔立ちで、タイ人にも見えなくもない無頼漢は、あたりで佇む女たちに日本語でいった。
 「警察を呼んでも無駄だぞ。おれは社長に用事がある」
 最近、この店は嫌がらせに晒され、客足がすっかり遠のいていた。従業員の或る者は勤め先を変え、一部は残って毎晩お茶をひいていた。午前零時少し前、人相風体は胡乱だが、珍しくお客がひとり、やって来た。男はいきなり十万バーツの札ビラを切り、高い酒から持ってくるよう、流暢なタイ語で注文した。久しぶりに景気の好い客が来た、と店の者たちは喜んだ。ところが、この男は福の神ではなかった。秩序を無視しきった、疫病神だった。突然、社長に会わせろ、と言い出し、傍らにいた女から下着を剥ぎ取った。自らも下半身を露出させながら、おどろいて制止しようとした用心棒兼業の男たちを、非凡な腕力と俊敏さで、血祭りに上げていた。
 従業員たちは、これを新手の嫌がらせと思い込んでいた。
 午前二時を少し回った頃、急を聞いた経営者の鈴木隆央が駆けつけた。シーナカリン界隈で見繕った、ムエタイの選手崩れを幾人か連れていた。
 「お客さん」
 慇懃無礼な口調で鈴木は性行為に耽る客に、にじり寄った。
 「もう、閉店の時間なんですがね。女の子とお楽しみになりたかったら、ホテルのほうでお願いしますよ」
 「社長に用がある、と言ったつもりだ。ちょっと待ってくれや。今、終わらせるから」
 「なら、早よ、終わらせ」
 いちおうは渡世人である。如何に相手が凄腕の無法者であろうと、鈴木の腹は座っていた。マルボロを咥えて女を弄ぶ男は、計画的に首尾すると、客は身繕いを整え、ぐったりする相方の胸に、千バーツ紙幣を四、五枚投げおいた。
 「で、何の用や?」
 身構える鈴木に、男は店内を見回しながら、
 「しょぼくれた店だ。かつては二十歳そこそこで大阪胞友会の経済顧問として鳴らしたあんたにしちゃ、たいした落ちぶれ方じゃないか。ええ、鈴木さん?」
 奢りきった調子で嘲笑い、おもむろに理性的な声色に切り替え、言い改めた。
 「・・・いや、金鐘午さん」
 鈴木のえびす顔が、にわかに硬直した。傍若無人な不心得者は、この街の裏社会に生きる日本人の、誰もが知らないはずの、鈴木の素性を正確に把握していたのである。
 「相談がある。あんたにとっても悪い話じゃない」
 ばさらな風情の無頼漢は、若かった。サングラスに隠された顔には、まだ三十前の艶がある。世間の常識を逸脱した悪党には違いないが、鈴木は本能的に利害の共有を直感した。
 「事務所はこの近くにある。そやけど、タクシーに乗りながら、話を聞こうか」
 鈴木は、盗聴器を仕込みようのない空間へ、見ず知らずの男をいざなった。






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