* この物語はフィクションであり、登場する人物、企業、
団体、一部政府機関の名称は架空のものです(著者)。




第七話




 濃厚な排気ガスから逃れようともせず、往来する車を見詰めたまま有佳は訊いた、
 「ふだんの暮らしにもどれないひとはどうすればいいの?」
 島崎には、適当な回答の用意がなかった。
 「これからどこへ行くの?」
 にわかに押し黙る男に、少女は優渥な調子で尋ねた。
 「予定していなかったけれど、もういっぺんシロム方面へ戻ることにする」
 シルクセアタは、ジャズ専門のライブハウスだった。常緑広葉樹が多い茂るラチャダムリ通りにあって、出演するバンドの水準が高いと欧米系の外国人にはすこぶる評判がよい。幼稚なクリスマスの装飾がほどこされているけれど、未成年者にとっては、やや敷居が高い店構えだった。
 「保護者同伴だから問題ない。気分転換に寄っていこう」
 入店に有佳は躊躇をしめさなかった。まるでフルーツパーラーをのぞくように薄暗い店内を一瞥して、
 「ジャズのお店?」
 いとも簡単に見分けてしまった。
 「シンフォニーもいいが、おれはどちらかと言うとこっちのほうが性分に合っていてね。退屈かも知れないけれど、付き合いな」
 意想外にも、有佳は相好を崩して頷いた、
 「お父さんもジャズが好きなの。レコードもたくさん持っているよ」
 「ふうん。うちの水漬く屍となった海カモメは演歌ばかり聴いていたが、おたくの父上の趣味はずいぶん垢抜けているね。まあ、娘をわざわざ銭のかかる私立中学に入れようとする心がけの持ち主だ。さては一般大衆をバカにしきった大企業の重役だろう?」
 「公務員よ」
 淡白な答えが返ってきた。それ以上の詮索はやめることにした。有佳を連れてこんな店に寄るからには、島崎にも真面目な理由がある。開演前だったが、マホガニー材をふんだんに使用したシックな店内に客は六分方はいっていた。適当な席を占めると、島崎はコーヒーとレモンジュースを注文して切り出した、
 「ここは、台湾マフィアが経営している店だ」
 「たいわんマフィアって?」
 「やくざ。日本の暴力団なんか足元にも及ばないようなえげつない連中だよ」
 そわそわして、有佳が声を潜めて急きたてた、
 「ね、康くん。このお店出たほうがいいんじゃない」
 「その台湾マフィアに用事があるから来たんだよ」
 島崎は運ばれてきたジュースを啜り、コーヒーを有佳に押しやりながらあたりを見回した、
 「ひょっとすると支配人はいま、どこかの刑務所で箱詰めになっているかも知れないけれど、もし娑婆にいるようだったらネギを紹介しておきたいのだ」
 有佳の顔から血の気がひき、不安が紙のように白く染めた。
 「心配するなって。謎の中国人は陳さんといってな、満月みたいな顔をした普通のオッチャンだよ。府中刑務所で同じ釜の飯を食った仲間。法は冒すが、悪い人間ではない」
 「康くんも刑務所にはいっていたの?」
  またしても口が滑った。
 「大した事はしてないよ。たまたまその時期、まとまったカネが入用になってな、つまらない土地の不正売買に手を染めた。一方の陳さんだが、彼氏は大麻の持込みで挙げられていてさ、空港の税関でパクられたらしいが、ともあれおれにしてみりゃ同房の先輩だよ」
 脈絡なく、有佳との間に横たわる曖昧模糊とした壁を感じた。しかし、これはかくべつ今に始まった感触ではない。少年時代の島崎が、ことさら有佳を避けようとした原因のひとつに、きわめて幼稚で身勝手な猜疑心があった。つまり、上辺では自分に親しく接しようと振舞う少女の裏側に見え隠れするひとりの少年の存在が、果たして幼い島崎の漠然とした独占欲を著しく阻害していたのである。思い込みが塑像した間男は、いつも有佳の蔭にいて、おどおどしながら“寝取られ男”の視線を逸らしていた。視聴覚教室で女子にまじって弦楽器を抱える病弱な秀才の姿を思い浮かべ、前科者は自嘲の念にしばしむせいだ。
 「誰もいじめなかったでしょうね?」
 「はあ?」
 射るような視線で有佳は訊いた。彼女が時折見せるこの眼差しが、島崎少年にとっては癪の種であり、言いがかりに等しい妬みの理由でもあった。
 「康くんがその土地に悪いことをして、誰も泣かなかったの?」
 判事に追求されるより、居心地がわるい。いくら自分を憎からず思っていてくれようと、有佳には島崎が苦手とする種類の女に共通したにおいがあった。
 「バブル、という時代があった。日本人全員が有りもしないカネをめぐって乱痴気騒ぎを繰り広げていたのだ。一億総狂人の時代だった。おれは地上げ屋って呼ばれていたんだぜ」
 「そんなの、答えになっていないよ」
 はぐらかしは徒労に終わったようだ。島崎は誠実な凄みを利かせて有佳に向き直った、
 「泣いたのは軽薄才子の業突張りだけ。慎ましく暮らしている女子供や年寄りはひとりだって泣かせちゃいない。おれは笑いながらワッパを嵌められたんだ。是非は問うな」
 しかし、言い分は伝えておこうと思った、
 「いまの日本社会では、自分を裏切らず、真っ直ぐに生きようとしたら、とどのつまりヤクザになるしかないんだよ。あんな世の中で、いけしゃあしゃあと堅気面していられるやつは、自分の卑屈な変節に気がつかない大馬鹿者か、油断のならない偽善者かの、どちらかだ」
 うまく通じたかどうか、わからない。おそらくは理解されていないだろう。だが、そのほうがいい、と島崎は思った。ピアニストがステージに現れ、落ち着いたソロナンバーを弾きはじめた。ヴィンス・ガラルディのコピーである。
 「あたし、チャーリー・ブラウンが好きなの」
 曲を聴いて、有佳がぽつりともらした。ガラルディという名前は知らなくても、昭和の子どもが、奏でられる旋律をアニメのスヌーピーに結びつけるのは造作もなかったようだ。
 「なにをやってもうまくいかないんだけど、それでも一所懸命で、ちゃんと他のひとのことを優しく考えてあげられるなんて、すてきでしょう」
 シュガーもミルクも加えず、有佳はこの日三杯目のコーヒーを一口啜った。
 「わるうございやしたね。いつも下手を打っているのは同じかも知れないけれど、それ以外はまるでチャーリーさんの逆をやってますよ、私は」
 「そうかしら?」
 十一歳と三十三歳のふたつの年齢を使い分ける有佳は、シルクセアタのテーブルに肘を立て、琥珀色の灯火が似合う後者の顔をのぞかせていた、
 「乱暴だけど、康くんって、とてもチャーリー・ブラウンに似ているところがあるな、って思っていたの」
 有佳なりの、コケットリーだったらしい。
 「こんなところでそんな話しをするのはやめろ」
 「そんな話しをする場所じゃないの?こういうお店って」
 「健全にジャズを鑑賞する場だ」
 スヌーピーのスタンダートが終わり、バンドの連中ががやがやとステージに上がり始めた。メンバーはいずれも褐色の肌をしているが、タイ人ではない。この街で赤毛系のエンターテイメントを担っているのはフィリピン人である。このジャズメンも例外ではなかった。完全なジャズにアレンジされて、ジョージ・ガ−シュインの”ラプソディ・イン・ブルー”がはじまった、
 「オイルショックのときも、日本人全員が狂っていたのかしら?」
 「さてね」
 ステージで演奏される曲のテーマに合わせて話題を切り替えていく有佳のふしぎな才能に呆れながら、島崎は二杯目のレモンジュースを注文した。冷めたブラックコーヒーを飲み干して、有佳はいう、
 「お父さんが言っていたわ、もう少し日本人が頭を冷やしていれば、康くんのお父さんが犠牲になることはなかったんだ、って」

 オイルショックの時代__。
 日本の石油会社は、その多くが中近東で原油を買えるだけ買い占めて、手持のタンカーをろくすっぽ整備せず、フル稼働させていた。島崎康介が一等航海士として乗り込んでいた二十三万トン級のタンカー祥羽丸は、過剰な航海が災いしてマラッカ海峡で浅瀬に乗り上げ、座礁した。生き残った人の証言によると、計器盤の狂いが直接的な原因だったらしい。水深が浅いマラッカ海峡は、かてて加えて澪が狭く、世界屈指の難所とされている海域である。老朽化した機材は、最も慎重を要する海域で、正確な計測結果を船員たちに伝えることができなかったのだ。
 祥羽丸の機関室では、空回りするコンプレッサーが漏電を起こして可燃物に引火した。劣化した塩化ビニールの配線を伝わり、炎は忽ち石油を満載したタンカーを呑み込んだ。一等航海士は、鎮火活動に努めたものの、ついに多くの同僚とともに火炎地獄へ姿を消していったのである。
 しかし、失われた船員の生命より、燃えた石油を惜しむのが、世間の本音だったかも知れない。そんな世知辛い雰囲気は、遺体なき通夜に列席した弔問客たちのあいだから漏れる雑談で、ひしひしと伝わってきた。美容院を経営する母親と中学生の姉が不憫だったけれど、幼い康士には、あたかも高度経済成長が生んだ歪みを嘲るような父親の死にざまが、そこはかとなく、誇らしく思えた。
 
 「言っておくが、親父は犠牲者じゃないよ」
 島崎は有佳を介して、冴木という人物のめぐみ深い幻影に語り掛けていた、
 「世間もオイルショックも関係ない。親父は自分を曲げずに、やりたいことをやって、天命をまっとうしただけだ。それが天邪鬼の生き様であり、死に様だ」
 父親の享年に自身もだいぶ近づいていることに気が付き、島崎は十一歳の有佳をみた。有佳の顔が、刹那、子どもの時分の姉と重なった。
 「しかしまあ、こんな天邪鬼の血筋も、おれの代で絶えるけれどさ」
 天邪鬼のDNAを自分が受け継いでいる以上、島崎康介はじめ、似たような生き方を貫いた島崎家の父祖はいまなお健在だった。ところが、末裔の康士には、子がいない。人類滅亡に手向ける哀惜などは持ち合わせていないけれど、世人がしかめっ面して見守る黙示録を徹頭徹尾からかい抜く精神が途絶えるのは無念である。島崎には、断崖に佇むような、うそ寒い気がしないでもなかった。
 が、次の瞬間、出し抜けに場違いな現実が視界へ飛び込んできた。
 思い思いに歓談する白人の客にまじって、切れ者ふうのメガネをかけた北東アジア人の中年男が、ひとり、慈しみあふれる眼差しでステージを見つめていた。スマートな身体に、白っぽいポロシャツをすっきり着こなしている。男の風貌は、バンコク界隈じゃごくありふれた、日本人エリートの面構えだった。
 「ありゃ?沢村サンじゃないか」
 外の世界へ逃げた島崎を追うように、有佳も内なる山小屋から這い出した、
 「知ってるひと?」
 「うん。在留邦人として・・・いちおうな」
 「あいさつしなくていいの?」
 「そういう麗しい間柄ではない」
 「どこかの会社の偉いひと?」
 「公務員だよ」
 ドンムアンの住宅街に謎めいた妾宅を営む男の官姓名は、在タイ日本領事館の二等書記官、沢村秀一といった。外交官に違いはないが、沢村秀一は、外務省のキャリア組ではない。主だった業務として邦人保護を担当し、ビザ発給をも手掛けるこの領事の出向元官庁は警察庁だった。いろいろと、黒い噂がある人物である。
 一例を挙げれば、「ピケ破りの報酬横領」という逸話がある。
 某日系企業が、現地社員のストライキを止めさせようとして、沢村に工作資金を手渡し、タイ国陸軍のさる将軍に介入を求めた。タイの軍部の力は絶大である。ストライキは、間もなく終結した。ところが、取り持ち人は、工作資金が内密であったのをよいことに、将軍には一バーツたりとも、謝礼を渡していなかったのである。労働争議が頻発するようでは、経済不況も追い風となって、日本企業の多くはタイを離れ、ベトナムや中国へのシフトが加速するに違いない。沢村は、おそらく自国の国益を重視する愛国者の将軍をそんな調子で説いたのだろう。
 企業から託された工作資金は日本円で五百万円だった。
 沢村はこれをすっかり着服し、本来の副業の経費に流用している。
 それが、ほかでもなくドンムアンのタウンハウス購入資金だった。
 島崎にとって、賄賂の横領などといった些細なスキャンダルは、もとより興味の対象ではない。狙いは沢村が手掛ける“本来の副業”の告発だった。海外で恙無く生活していくためには自分の国の公館関係者に噛み付くわけにはいかない。日系企業はもとより、事情通の在留邦人は、かなり悪質な手合いですら我が世の春を謳歌する官吏を黙認していた。
 「あれ。へんなひとが来てるなあ」
 肥えた満月顔が、ひょっこり顔を覗かせた。シルクセアタ支配人のお出ましである。
 「おう。陳さん」
 「まだ生きていたか?島崎サン」
 お互いさまだよ、という平和な挨拶は抜きにして、
 「本当に、変な人が来ている」
 と、離れたテーブルの同国人を顎でしゃくった。
 「いつものお客さんだ」
 低い声で島崎が訊いた、
 「おい。あんたは、まさか?」
 「まさか、何よ?」
 「沢村と仕事しているのか?」
 きょとんとした面持で台湾人は言う、
 「あの人はこの店のお客さんだ」
 陳にしてみれば、裏稼業筋の客ではないらしい。
 「なんだ、すると我らが悪代官もジャズがお好きなのか」
 言いながら、島崎は能動的に有佳を陳に紹介した、
 「わけあって、細かな事情は言えんが、友達だ」
 あまりにもうら若い友達を見て、台湾人は陰険に唇をむすんだ。
 「なんでこんな小妹が、島崎さんみたいなわるいやつの友達なのよ?」
 勘繰りの材料集めに疑わしげな面持ちの支配人は手間取っている様子だった。
 「つまりだな、この子は頭のいかれた麻薬捜査官に父親と腹違いの姉と弟、それに継母を大屠殺されてしまったのだ。たまたまひとりで買い物に出かけていた彼女はおれのところに逃げ込んで来た。これから復讐の戦いに手を貸さにゃならん」
 「どこかで聞いたような話しだね」
 陳は幼いヒロインに向き直り、あやすように自己紹介した、
 「陳です。台湾人です」
 言いながらポケットから取り出した台湾旅券と小型のブラックライトを有佳の前に
ならべると、これ見よがしに最初のページを照射した、
 「ほら。ちゃんと赤い総統府の絵が浮き出しているでしょう。私、本物よ」
 「そんなものを初対面の人間に見せびらかすんじゃない」
 茶々を入れると島崎はやおら真顔になり、有佳を一瞥しながら陳にいった、 
 「ところが、この彼女はパスポートを持っていない」
 にわかに眼光鋭く有佳を観察し、陳は島崎に次の言葉を促した。
 「この先、あんたに頼む仕事が出て来るような気がする」
 「“仔豚”か?」
 あらためて有佳を品定めしながら陳は業界スラングを口にした。これを受けて島崎も奇妙な節回しで答える、
 「いや、“一番の日本人”だよ」
 「どうして“本”がないの?」
 「それは時期が来てから話したほうがいいかも知れない。今日は顔つなぎだ」
 しゃべりながらも周囲への警戒を怠らないのは、島崎の職業的習性だった。向こうのテーブルで沢村が突然不機嫌な顔になり、片方の耳を塞ぎながら携帯電話を取り出した。着信らしい。目線はステージに向けたまま、二言三言口を動かす。
 「びょ、う、い、ん・・・ど、こ、の、・・・わ、かっ、た、す、ぐ・・・いく」
 邦人保護の担当官の唇を、島崎は意味の通る日本語で読み取った、
 「陳さん。あちらのお客さんはお帰りになるよ」
 予告通り、沢村は右腕を掲げ、給仕が目線を差し向けると、人差し指をテーブルに向けてぐるぐる回した。会計の合図である。有佳のことは本来であれば井坂や陳にではなく、沢村に頼むのが善良な日本国民の常識だった。
 「ネギはあの小父さんを、どう思う?」
 「ハンサムな人ね。タイプじゃないけど」
かぶりをふって、島崎は言葉を選んだ、
 「つまりだな、井坂さんや陳さん、それにおれと比べて、信用できそうか?」
 いずれ日本に帰らなければならないのは有佳である。自分の思い込みや桎梏に巻き込んで彼女の運命を翻弄するのは不本意だった。本人の気持ちを優先して、今後の対応を決めようと島崎は思った、
 「余計なことは考えなくていい。沢村さんはれっきとした外交官だ。権限もある。何の罪もない小国民のおまえを没義道に扱ったりはしないはずだ。信頼できると思ったら、迷わず領事館へ出頭してくれ」
 祈るような眼差しで、有佳はじっと島崎を見つめていた、
 「そんなこと、わからないよ」
 困惑しきった声色で意思決定を求められた当事者はいった、
 「でも、康くんがあいさつしない人じゃ、いや」
 有佳は子どもである。これは無理なからぬ話しだった。
 「いますぐ返事しなくていい。しばらく冷静に考えるんだ。だけど言っておくが、悩んでいる時間はあまりないぞ」
 日本人というのは、病的なくらい細かいところに気がつく民族である。ましてや、警察官僚ともなれば、その嗅覚は並外れている。情報の滞りから、顔までは把握していないとしても、沢村はだいぶ以前から島崎という野良犬が、自分の裏稼業について執拗に嗅ぎ回っていることを察知しているはずだった。いまのところ、水面下の前哨戦は、一方的な島崎の攻勢で進展しているが、いずれ沢村だって牙を剥いて防戦に臨むであろう。そうなってからでは、有佳はいよいよ選択の余地を失う。しばらく島崎たちのテーブルから離れていた陳が、いつになく緊張した面持で近づいて来て、低い声で報告した、
 「あなた、ングーキヨウ、って知っているか?」
 「緑のヘビだな。細い紐みたいで、色が綺麗だ」
 「そうじゃない。チョンブリのスパキット一家に雇われている“銃の手”だ」
 “銃の手”とは、殺し屋を意味する普遍的なタイ語である。
 「チョンブリのスパキットとはずいぶん物騒な名前だな」
 パタヤビーチで知られるチョンブリ県は、同時にタイ・マフィアの本拠地として知られていた。スパキットというボスは、そんなタイ極道の中でも、際立って荒っぽい遣り口で、バンコクの裏社会にも隠然たる影響力をもっている。
 「いま、うちのボーイが外で見かけたらしい」
 「その、緑ヘビを?」
 陳は陰気に頷いた、
 「沢村さんの車を運転していた」
 島崎はにんまりした、
 「スパキットの若い衆がドライバー?とうとう馬脚を現したな、沢村さん」
 ところが台湾マフィアは笑わなかった、
 「相手がわるい。気をつけてよ、島崎サン」


 ゴールデンゲートアパートメントに戻ってみると、かれこれ日付が変わっていた。シャワーの音が止まり、バスタオルを胸元に巻きつける有佳が姿を見せた。
 「どうしたの、康くん」
 床のコートで仰向けになり、ベレッタのハンドガンを掌でもてあそびながら瞬きもせず天井の一点を見据える男に、少女はまるで警戒心を払わない。
 「康くんが買ってくれた新しい服、着てみてもいい?」
 「ああ、好きにしな。あんたの服なんだから」
 気乗りしない声色だった。ようやく首を傾げて、有佳は島崎の傍らに膝をつく、
 「体のぐあいでも悪いの?」
 「べつに」
 服の試着など、島崎からすれれば、どうでもいいことだった。ベレッタの弾倉はいつも空にしてある。しかし、場合によっては近いうちに弾丸を装填しなければならない雲行きだ。天井を見つめながら、島崎はそんなことを考えていた。
 「さっき言ったことだけど、もう手遅れかも知れない」
 「領事館のこと?」
 否定のない沈黙が、島崎の答えだった。
 なまめかしい人差し指が、出し抜けに眦の傷跡をなぞった。
 「おぼえている?」
 またしても、妖しい含み笑いである。
 「何を?」
 ほの暗い蛍光灯のあかりを背に有佳は、女の顔になっていた。
 「吉祥寺図書館にナウマン象の化石を見に行った日のこと」
 昼間の会話なら覚えていたが、そんな化石見物のことは忘れていた。
 「その帰り道で、あの中学生たちに、康くんが言ったセリフ」
 その日、吉祥寺の街を歩いていた理由がわかり、眦が疼いた。
 有佳は精一杯ドスを利かせて、囁いた、
 「ユウカはオレの女だっ!」
 頭に血がのぼっていたから、自暴自棄な少年が何を叫んだって不思議はない。
 「・・・ケンカはこわかったけど、うれしかったな」
 なにが言いたいのか、島崎にはいまひとつよく解らない。
 「ちょっと待てよ、ネギ。なにもいま、そんな大昔の話を持ち出さなくたっていいだろう」
 きょとんとした面持で、二三年前の出来事に触れる語りべはうそぶいた、
 「あたしにとっては昔話じゃないわ。未来の康くん」
 そして脈絡なく、くすくす笑う。
 「沢村って人、康くんの敵でしょう?だったら、どんなに偉いひとでも、あたし、助けて貰おうなんて思わないよ。だって、あたし康くんのオンナだから」
 紫がかった光沢をたっぷりふくんだ象牙色の膝には毛細血管が網状に浮かんでいた。ゆっくりと、にじりよる。有佳はバスタオル以外に何も身につけていない。そこには脳裏に焼き付けられて中学二年生の島崎をさんざん煩悩の淵へ追い立てた肢体がおさまっている。その気になれば、あの身体はいますぐ自分の手に落ちる。あからさまに誘惑されているような気がして、総毛立つ島崎は、朦朧とする自我を振り払うかのようにさけんだ。
 「おまえ、本当に冴木有佳か!」
 跳ね起きると、身軽に壁際へ飛びのいた、
 「ふざけるな。ネギは小学生なんだぞ。そういったことを、ちゃんと自覚しろ」
 忍び笑いがもれた。
 「往生際がわるいわね。康くんはもう大人でしょう?」
 上目遣いに媚を含む少女は、童貞をからかう娼婦の口調で言った、
 「まわりのひと次第で真面目な子にもなれば、悪い子にもなるの。どっちも、本当のあたしだと思うの。康くんと同じでしょう?同類なのよ、あたしたち」
 二重人格、と解釈するしかなかった。嫣然と微笑む有佳は、すくなくとも小学生の康士が知っている鬱陶しいくらいに慎ましい同級生のものではなかった。
 「ごめんね、康くん。あたしにはね、インバイの血が流れているの」
 ___これは悪夢にちがいない・・・
 蒼ざめる島崎は、コンクリートの壁にぴたりと背中を押し付け、身構えた。






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