* この物語はフィクションであり、登場する人物、企業、
団体、一部政府機関の名称は架空のものです(著者)。




第六話




  ドンムアンの町で、タウンハウスを店舗に家内工房の仕立屋が営業していた。不況のさなかではあるけれど、商売はそれなりに流行っている。とりわけて、太陽が西の空に傾く刻限になると、女の客がのべつまくなしに訪れて店はいちだんと華やいだ。
 客の中には勤め帰りのOLも少なくない。しかし厚化粧の一団がひときわかしましい。タイの若い女たちは、たとえ上流階級に属する者であっても、外出時の定番はすっぴん顔だから、見るからにわけありな連中である。彼女たちにとって、遅い午後は、出勤前の憩いのひと時だった。だから、こうして洋服屋にたむろしているのは、決して珍しい情景ではない。白いシャツをこざっぱりと着こなし仕立て屋を切り盛りする女は、常連の客達からノックと呼ばれていた。彼女にはあくどい化粧っ気がない。年のころは三十歳。ややきつめのキツネ顔だが色白の瓜実顔で、背が高く、一見
して華僑の血が色濃い美人だった。
 「ピー(お姉さん)ノック」
 お客が引き揚げると、ガレージの隅で暇を持て余していた人懐こい顔立ちの若者が女経営者を呼ばわった。そしてにこやかに掌をひろげ、夥しいタバコの吸殻をみせた。
 「そこの角に落ちていたんだ。ちょうど二十本ある」
 女は愛想笑いをやめ、長い髪を掻き揚げると無言で若者が指す角を一瞥し、あらためて吸殻を見詰めながら落ち着き払った声色でいった、
 「与太者たちが立ち話でもしてたんじゃないの?」
 「あまいな、姉さんは」
 褐色の肌をした若者は、あからさまに女の実弟ではなかったけれど、この国の社会では一般に、年少者は親しい年長者を、「兄・姉」を意味する“ピー”という敬称で呼ぶ。
 「吸い方を、よく見てごらん」
 吸殻はどれも同じ銘柄で、フィルターから一センチくらい残して捨てられているのが特徴的だった。若者は屈託がない調子で解説する。
 「日本人だ。ひとりだったよ」
 日本人と聞いてノックの額にうれいがさした。
 「そいつは夜中にそこへ来て、明け方までここを見張っていたんだ」
 「あんたも、ずっとここにいたの?」
 若者は苦笑いをうかべた、
 「ああ、このガレージにいた。しんどかった。なにしろ一晩中気配を消していなけりゃならなかったんだから」
 「ングーキヨウが、知っている顔かい?」
 女ははじめて弟分を渾名で呼んだ。
 「ああ。スズキの友達だ」
 「スズキの?」
 ふたりとも噂の主とは接触がない。しかし女はスズキという名前に漠然と不快感を覚えたらしい。柳眉がかすかにふるえた。妖しい眼光を湛えて、ングーキヨウは淀みなく付け加えた、
 「スズキはあいつのことをシマチャンって呼んでいた。調べてみたら札付きの企業ゴロで、シマザキ・コウジって名前だった。棲家はこれから割り出す」
 「そいつの居所、見当がついているの?」
 フルフェイスのヘルメットを手にして、ングーキヨウは余裕たっぷりに答えた、 「スクムビットの“食いの国”という日本居酒屋によくメシを食いに現れるらしい」
 「どこに住んでいるのか、洗い出せないの?」
 すると若者は嘲るように言った、
 「初めて見たときは、もっと凄腕かと思ったけれど、敵地に挑戦状にもならないタバコの吸殻を残して行くようじゃプロとして失格だ。いずれにしても、シマザキは無用心な男である可能性が高い。三日も張り込んでいりゃ、必ず網にかかるさ」
 この若者自身には、故意に遺留品を相手に与えて反応を伺う愉快犯的な気質が備わっていた。たとえば、飲み物のグラス。薄暮の空を背に、若者は腕まくりして、オートバイに跨った。その筋肉質な腕には、インドシナの密林に生息する獰猛な毒蛇、グリーンスネーク(ングーキヨウ)の刺青が彫られていた。


 しばらく日本食を口にしていなかった。有佳に生姜焼き定食でも食わせてやろうか、と思った。ウィバパディの日から半月近く、ほとんど外出することのなかった有佳は、いつも階下の食堂から出前をとったり、島崎が仕入れてくるパンで胃袋を満たしていた。本人が外出を望まなかったのだから味気ない食生活は致仕方ないが、考えようによっては、ずいぶん非道な扱い方をしている。一度くらい、無理矢理に街中へ連れ出してみるべきかも知れない。しかし、行きつけの店は都合が悪い。知り合いと鉢合わせしそうな店もダメだ。この街に住んでいる同国人は軒並みおおらかだが、デリカシーに欠けるという欠点もある。たちまち、有佳の見ている前で“島ちゃん”と呼ばれてしまう。だが、誰とも遭遇しないで済ませるとなると不味い店に行かざるを得ない。
 結局、あくまでも同級生に留守を任せ、ひとりでスクムビットへ出掛けたほうが無難だった。有佳には、店で折り詰めを作ってもらえば義理が通るだろう。
 サイアム新報の入稿を翌日に控え、島崎は書き終わったばかりの「ランサーン王朝の遺跡探訪・その四」と銘打ったまことしやかな紀行文をひとくさり読み返した。遺跡が点在する北東地方へわざわざ取材に行ったわけではないから、でっち上げのレポートだった。男が観光案内文をそっくり拝借したばかりのタイ航空の機内誌をベッドに腰掛けて眺める有佳が訊いた。
 「なにを書いているの?」
 「嘘っぱち」
 翻訳、と答えたほうが正鵠を得ていたかも知れない。
 「どうしてウソなんか、書くの?」
 「真実を書いたって、平成じゃ、カネにならないの」
 インチキ記事を書くのも、暮らしのためだった。島崎の両肩に小さな掌がしな垂れかかった。有佳の呼吸が頭のてっぺんに伝わってくる。大人の常識から言えば、恋人の間合いだった。たまりかねて島崎は言った、
 「そうやってさ、あまり得体の知れない男にベタベタしないほうがいいと思うよ、冴木さん」
 有佳はすぐに手を離したものの、今度は正面に回りこんで、得体の知れない男の顔をじっと伺いながら訊いた、
 「あたしのこと、きらい?」
 有佳は、よくもわるくも清楚な娘である。言い方を変えれば、どんくさい。だが、それは島崎の偏見だったかも知れない。よもや彼女にこんな妖し気な性格が備わっているなどとは夢にも思わなかっただけに、島崎のほうがすっかり気おされていた、
 「そういう意味で言ったんじゃない」
 そして精一杯悪びれた、
 「おれなら問題ないけれどさ、世の中にはおれみたいな悪いやつがいっぱいいるんだから、気をつけな」
 「どっちなのよ?」
 「相手次第で、悪いやつにもなれば、お人好しにもなる。どっちも、本当のおれだと思うけど」
 麻薬と人殺しと人身売買だけはやらない主義だ、と啖呵を切るのは止めにした。こと有佳に対しては後ろめたい科白であるような気がしたからだ。
 「清水さんって、あたしにとっては、いい人よ」
 「だから言っただろう。相手次第だ、って」
 いちおう納得したらしく、有佳はベッドにもどり、面持をあらためて切り出した、
 「スター・ウォーズの前売り券、お父さんに買ってもらったの。でもロードショー、間に合うかしら?」
 ようするに彼女は話し相手が欲しいのだ、とようやく解った。いまやこの世でただひとりの知人、“清水”にかまってもらおうと、しきりに媚びを含んだ態度に出る。
こんな年頃の娘が、ただひとり、わけもわからず未来の、しかも外国に来てしまったのである。どんな悪党でも、言葉が通じ、自分を庇護してくれる相手なら、地獄で仏と映るはずだ。そんな当たり前の気遣いすら、この無感動な都会の暗黒街を闊歩しているうちに、すっかり出来なくなっていた。しばらく外出を控えよう、と、島崎は思った。
 「残念ながら、そのロードショーはだいぶ前におわったよ」
 有佳が昭和に帰ることはない。残酷な気もしたが、いつまでも時代の孤児で置いておくわけにはいかなかった。
 「スターウォーズは、もうどれがどれだか分からないくらい、続編が何本も作られているんだ。なにしろ、ここは未来だからね」
 「うん。ここは未来なんだよね」
 昭和の世界へ懸命に命綱を渡そうと試みる少女は、すこしほっとした面持で、こちら側の世界を仮想空間めかす、譲歩調の未来人の言い回しを受け入れた。有佳が平成の世界の住人になるには、しばらく時間が必要かも知れなかった。
 「ああ、そうだ。平成観光記念にオモチャをあげようか」
 子供だましを言いながら島崎が手にしたディパックを覗き込み、大人びた娘はくすくす笑った、
 「ドラエモンのポケットみたいね、おじさんのリュック」
 言われてみれば、そこには“未来文明の利器”がいろいろと詰まっていた。ターボライター、B5のノートパソコン、デジカメ・・・せめて底のほうにしのばせてあるベレッタのハンドガンだけが、有佳が知っている時代の遺物だった。CDウォークマンを取り出して、有佳に押し付けた、
 「これを、冴木さんにあげる」
 「なに?これ、UFOの模型?」
 カセットテープの元祖ウォークマンだって、発売されたのは島崎が中学生のときだから、もちろん有佳はその存在を知らない。
 「歩きながら音楽を聴く機械」
 中にCDソースがはいったままだった。
 「あっ!」
 有佳が瞳を輝かせてさけんだ、
 「これ、リンツ。三十六番ね?」
 昭和と平成の共通点は、につくられた交響曲があくまでも“クラシック”と呼ばれていることだった。
 「清水さんは、モーツアルトが好きなの !?」
 小さな音楽通は嬉しそうに言った、
 「あたしも、アマデウス、大好きなの。でもこれ、音がすごくきれい」
 卒然と、島崎にふたたび二十二年前の記憶が蘇った、


 おおかた、他愛のないいたずらが原因であろう。康士は担任の先生から視聴覚教室の掃除を命じられた。モップとバケツに両手を塞がれ、渋々強制労働の現場に赴くと先客がいた。器楽クラブに所属する四人の同級生が、康士には名前も判らないハイカラな楽器を持ち込んで、西洋の、カビが生えたような音楽を練習していた。そもそも、器楽クラブとは、部員のほとんどが女子で、しかも成績が好い連中のサロンである。当然、康士には虫が好かなかった。奏でられる旋律の流麗さにひかれながらも、いきおい、少年は視聴覚教室のドアを乱暴に開けた。
 「やめろっ、非国民ども!」
 小さな貴婦人たちは、白けきって練習を中断した。
 「やばん人が来たわ」
 軽蔑も露に右端が言うと、これを受けて左端がせせら笑う、
 「康士くんは、掃除して、はやく帰りなよ」
 あいだに挟まれる有佳は、困惑顔でだまっていた。
 「だまれ、ここは日本だ。やるんだったら軍歌か、神社の音楽をやれ」
 黄色い嘲笑があがった。少女たちの群れに、ひとりだけ、ほとんど口も利いたことがない男子の秀才が混ざっていた。有佳の横で、青白い顔をした病弱な少年は忌まわしい闖入者からそそくさと顔をそむけた。
 「立てっ、貴様!」
 康士の怒りの矛先は、そんな物静かな同性に向けられた、
 「足をひらけ!歯を食いしばれ!」
 言うが早いか、康士は少年を殴り倒していた。


 思わず身震いして、島崎は平成のバンコクの現実に戻った。クローゼットからダンボール箱を引っ張り出すと、 
 「たいして持っていないけどな。いいよ、好きならアマデウスさんのCDソースを全部進呈しよう」
 「うれしい。おみやげにするね」
 未来を旅行している有佳は、進化したレコードを五枚ばかり、大切そうに赤いリュックに仕舞い込む、
 「クラスのみんなに聴かせてあげるわ」
 と、得意な面持でいった。有佳にしてみれば、こんなところで変な男と暮らしているより、友達のもとへ帰ったほうがどんなにか幸せであろう。しかし、その“クラスのみんな”は、この世界にはもうひとりもいないのだ。索然とそれに気がついた有佳は俯いて、しかしあくまでも現在形に固執しながら言った、
 「清水さんと、とてもよく似た男の子がいるんだよ、同じクラスに」
 有佳は、すこし精気を取り戻し、語調を強めていった、
 「コウジくん、っていうの」
 咄嗟に島崎は息を嚥下して身構えた。
 微笑をふくみ、寂然と伏せ目をつくる娘の横顔が切なかった、
 「でも、いつも誰も信じないで、たったひとりで、ぜったい勝てっこない相手とケンカしちゃうの」
 殴られっぱなしだった雪辱の過去が、ほろ苦く、去来した。
 「ようするに馬鹿なんだよ、そいつは」
 有佳は、確言する男を一瞥した、
 「かわいそうな子よ」
 まるで身に覚えがない有佳の“哀れなコウジ”に、島崎は刹那、コウジという名前の同級生を頭の中で引っ張り出した当時の名簿に探していた。
 「コウジくんはね、二年生のとき、タンカーにのっていたお父さんが事故で死んじゃったの」
 やっぱり、島崎康士のことらしい。
 「乗っていた船が火事になったの」
 島崎は、いわゆる母子家庭の子供だった。
 オイルショックたけなわの頃、無理な原油の輸送計画が惹き起こしたタンカー火災が父親、島崎康介の生命を奪っていた。世の主婦という主婦が、挙ってトイレットペーパーの買い漁りに狂奔している世情のなかで、遺体なき退屈な通夜がしめやかにいとなまれたのを島崎は思い出した。参列者は父親の会社関係者ばかりが目立った。身内のことだが、オイルショックの時代に近い感覚にある有佳の口から聞くと、やけに生々しい。
 はっとした面持で、有佳は、あたりを見回した。
 「マラッカ海峡って東南アジアだよね。ここから近いの?」
 「ペナンなら、そこのドンムアン空港から一時間半だよ」
 「そう、ペナン港って言ったわ!」
 この期に及んで、島崎はまたしても口を滑らせていた。が、有佳はそのまま続けた、
 「その海が、コウジくんのお父さんが事故に遭った場所なの」
 因縁くらいはあるかも知れない。しかし、島崎のバンコク暮らしとマラッカ海峡における父親の死には、とりたててドラマチックな因果関係はない。有佳はいつになく涼しい瞳をしていた、
 「それにコウジくんってね、天皇陛下に使う敬語にすごくやかましいのよ」
 「なんだ、右翼みたいなやつだな」
 「いいえ。清水さんみたいな子よ」
 三つ児の魂を暢気に反省している場合ではなかった。子供だと見くびっていたが、有佳の観察力は想像以上に鋭敏だったのだ。推理小説で、探偵に追い詰められる犯人の心理がよくわかった。うら若い探偵の関心は、電撃的に、別のステージへ向けられた。
 「この傷」
 有佳は身を乗り出し、冷たくてやわらかな指を島崎の目じりの古傷に這わせた。
 セピア色の世界で、不良中学生がナイフを抜き放った。
 「あたし、の、せい?」
 浅瀬を踏むような物言いだった。
 「・・・」
 何かの理由で、康士は有佳と吉祥寺の街を歩いていた。まだ仲がぎくしゃくしていない頃だから四年生くらいだったかも知れない。デパートの角で屯していた数人の中学生が有佳に下卑た野次を飛ばした。いまになってみれば、野次の意図がわかる。せいぜい、きれいな女の子に慣習上課せられた通行税みたいなものである。しかし、康士は逆上した。いきおい一番強そうなニキビ面に掴みかかり、あげく、袋叩きにされた。ところが、なおも挑みかかるものだから、本気を出したひとりがポケットのナイフに手をかけた___
 思いつめた面差しで有佳がいった、
 「シミズカズヒコ、なんて名前、ほんとうはウソなんでしょう?」
 申し訳なさそうに、有佳は島崎の名刺入れをそっと差し出した。
 「朝、リュックからはみ出して床に落ちていたの。ごめんなさい。拾って、中を見ちゃったの」
 まっすぐ男をみつめて少女は念を押した。
 「あなたは、康くん・・・。そうでしょう?」
 「まいった」
 あきらめきった安堵の面持で、島崎康士は頷いた。
 「死んだもんだとばかり思っていた」
 普通なら、ここで抱き合って涙のひとつも流さなければならない場面かも知れなかったが、半月も一緒にいて、いまさら再会の喜びでもない。島崎は無遠慮の上に胡座をかくことにした。
 「バレちまったからには仕方がねえ。はっきり言うぞ、ネギ。おまえは二度と昭和に戻れないのだ。つまり、とうとう御殿山小学校には帰って来なかった」
 「それじゃ、あたし、死んでいるの?」
 有佳は理知的な子だった。冷静に現状認識を受け止められるに違いない。
 「あははは。そう。いまのネギは足がついた幽霊だな」
 陽気に答える島崎は買いかぶっていたようだ。びっくりしたような面持で有佳はしばらく目を白黒させていたが、ややあって瞳が潤みだし、堰を切ったように大きな声で泣き出した。
 「ばか。泣くな」
 無駄だと気づきつつも島崎はわめいた、
 「だって、おまえ、本当なんだよ。頼むから泣くのは止めてくれ。アホ揃いの住民どもがへんな勘違いをしてゆうべの大家の二の舞になるじゃないか」
 間引きするかのように、胸元で華奢な身体を抱きしめた。
 「悲しいことだがクラスの連中はみんな、オッサンとオバハンになっている。それでもネギは現代、この平成十年、仏暦二五四一年。この時点から生きていかなければならない。好き嫌いの問題ではないのだから、諦めて腹をくくれ」
 しゃくりあげながら有佳は陶然とした涙顔で未来の同級生を見上げていった、
 「康くんで、よかった」
 「は?」
 「康くんが、いつもかならず、こうしてあたしを助けてくれるの」
 過剰な買いかぶりに怖気づくことはあっても、無邪気に照れる年代はとうに過ぎている。お茶を濁すより他になかった、
 「あのさ、実はソ連が崩壊しちゃったんだ。つまり、タイムマシンの開発は棚上げされちゃったんだよね。すまぬが、おれにはネギを昭和に帰す力はないぞ」
 「いいの。このまま、ヘイセイのタイで暮らすから」
 狂気の色はなかったけれど、有佳は薄気味悪い微笑をうかべていた。小学生の康士には、一度も見せたことのない顔だった。
 「もう、私立の中学校、だれも受験しろ、なんて言わないよね?」
 昭和の優等生には、知られざる苦労があったらしい。
 「そこまでは知らないよ」
 携帯電話が鳴った。この際誰だっていい。泳ぐように島崎は外界との繋がりを手繰り寄せた、
 『こら、島ちゃん』
 このだみ声がいとおしく感じられるのは、おそらくこれが最初で最後だろう、
 『ちょっと事務所に来てみい。えらいこっちゃ』
 架電者は井坂保というラマ九世通りで商社を営む五十男だった。井坂が経営している備中興産タイランドは、一口では説明できないが、島崎の遊び場とも取引先ともつかない会社である。島崎は意気込んで大声をあげた、
 「えっ!そりゃたいへんだっ!いますぐ参りやしょう」
 『まだ、なにも用件を言うてへんがな』
 「はい。ごもっとも。ただちに推参つかまつります」
 『お前、どうしたん?』 
 だみ声が、強張った、
 『熱でもあるんかいな?いつもならあれこれへ理屈くっつけて十日経ってもよう来やせんのに。今日はええ。そやけど明日来れるか?』 
 「はいっ。じゃあ、たったいまから、行きますから」
 『明日でええ、言うとるがな。それにもう、六時をまわっとる』
 「あ、そうなの。それじゃ社長、十日以内に行くから」
 『こら、待て。おのれっ!・・・』
 電源を切って、島崎は有佳が纏う、だいぶくたびれたギンガムチェックのシャツを眺めながらいった、
 「明日、朝一番でサイアム新報に原稿抛り込んで、先月分の稿料を貰うんだ。服を買ってやるから、いっしょにおいで」
 有佳が持っている着替えは、二泊三日の移動教室に対応する分量しかない。
 「新聞社ってケチなんでしょ?嬉しいけど、だいじょうぶなの?」
 「つまらん遠慮はするな」
 こんな時、素直に喜ばないあたりが、有佳の性格を暗く見せていた。
 「そのかわり、井坂のオッチャンのところで、おれのために働いてもう」
 早朝なのでマダムの姿は見当たらなかった。サイアム新報の編集室で鳥越に原稿を手渡し、経理で小切手を受け取ると、エレベーターホールに待たせた有佳の手を引っ張って歩調を速める島崎は雑居ビルを飛び出した。折りしも見覚えのあるセダンが駐車場でブレーキランプを点滅させているところだった。マダムの愛車だった。
 「やばかった。間一髪だよ」
 シロム通りに出て、ようやく島崎は口をきいた。
 「康くんの顔、まるでプールで潜水しているみたいだったわ。社長の女のひとって、そんなにこわいの?」
 「生理的に苦手なんだよ、ああいう淫売は」
 「インバイ?」
 有佳の問いかけを無視して、言葉の配慮に欠ける男は手近なホリディインの玄関をかいくぐり、ヴュッフェで賑わうコーヒーショップにさっさと座を占めた。
 「たまにはまともな朝飯を食おう」
 「大丈夫なの?こんな高そうなところ」
 シロム通りには、名の通ったデパートがいくつも集まっている。しかし時間帯のせいで、まだどこも閉まっていた。
 「カネのことなら気にしなくていい。なんでも好きなものを召し上がれ」
 腹ごしらえがあらかた済んだ頃、ウエイターがやって来て、洗練された英語で話し掛けられた、
 「おはようございます」
 「やあ、おはよう」
 島崎も偉そうな英語で答えた。
 「クーポン券を回収させて戴いてもよろしいでしょうか?」
 「もちろんだとも」
 言い置いて、まず胸ポケットをまさぐり、首を傾げてズボンをあらため、絶妙のタイミングでバツの悪い笑みをうかべた、
 「ごめん。忘れてきたみたいだ。女房がまだ部屋にいるから、彼女が気づいて持ってくるだろう。それともキミ、いますぐ部屋に電話してくれる?ええっと、ルームナンバーは...」
 同行者が部屋にいる以上、鍵を確認するわけにもいかない。
 「それには及びません。奥様がお見えになってからで結構でございます」
 「そう。済まないね、キミ」
 ウエイターは柔和に笑い、そそっかしい父娘に目礼して去った。島崎は把握していた。このホテルの勤務シフトは、朝の十時で切り替わる。新手のホール係が厨房付近に目立ち始めたのを見て取って、小声でさけんだ、
 「いまだ!出るぞ」
 シロム通りのデパートはどこも開店していた。三光銀行で小切手の換金を済ませると、歩道を歩きながら有佳が囁いた、
 「ホテルの人と何を話したの?」
 島崎は平然とうそぶいた、
 「十四階に泊まっているフランス人の飼い猫がかわいい子猫を生んだらしい。一匹もらってくれないか、と頼まれたのだが、断った。頭がどうかしているよ、そんなものを貰うやつは」
 「ふうん」
 疑わしげに有佳は言った、
 「子猫だったら、あたし、飼ってみたい。家じゃ飼わせてくれなかったの」
 仏頂面して、無銭飲食の常習犯はデパートの物色をはじめた。
 有佳は慎重な口調でいった、
 「あたし、三鷹の英語教室に幼稚園のときからかよっているんだけれど、あまり身についていないみたい。ぜんぜん違う話しに聞こえちゃった。・・・ちゃんと、ホテルでおカネ払ったんでしょ?」
 中学校にはいるまでローマ字で自分の氏名が書けなかった男はいよいよ白け、滑り込んできたバスへさっさと乗り込みながら毒づいた、
 「やっぱり、おまえは私立の中学へ行きな」
 ディンデン通りは、ラチャダピセク通りとの交差点を過ぎると、ラマ九世通りと名称をあらためる。新開地なので視界に映るビルは疎らだった。道路の景観は湿原に突如出現した近代的な一本道を思わせる。それでも近年は沿道にいくつもの商業地区が進出しはじめている。備中興産タイランドはシンプルな五階建てのビルを一棟借りて営業していた。
 バスを降りると島崎は、大きな買い物袋を抱え込んだ有佳に因果をふくめた、
 「忘れるなよ。おまえは横浜に住む、おれの姉貴の娘だからね」
 はたと立ち止まって、姪役の同級生は問い返した、
 「あの中学生のお姉さん、いま横浜にいるの?」
 「もう中学生じゃないよ。ふたりの悪ガキの母親だ」
 「そっか・・・」
 「でも、どうしてネギが姉貴のこと、知っているんだ?」
 「だって、お父さんのお通夜のとき、康くんのお姉さんは中学校の制服を着ていたでしょう」
 きょとんとした面持で島崎は歩調を停めた、
 「親父の葬儀に、おまえ、来ていたのか?」
 「町会はちがうけれど、お父さんとお母さんといっしょに、お焼香しにいったよ」
 島崎にとって、有佳とその両親は、知られざる参列者だった。
 「それはどうもご丁寧に・・・こら、話をそらすな」
 「わかったわよ。叔父さん」
 あくまでも気乗りしない調子で有佳は返事して、
 「働け、って言ったけれど、あたしなにをするの?」
 恩着せがましく、島崎は有佳のショッピングバッグに目線をおとしながら言った、
 「井坂社長はえげつない商売人だが、けっこう情に脆いところがある。けな気な姪がいる前でオッチャンを惨たらしく遣り上げるような真似はせえへんやろ。つまりネギはおれの用心棒って寸法だ」
 井坂に倣い、インチキな関西弁で軽口を叩いてから島崎は真顔になった、
 「ま、ボデーガードと言うのはあながち嘘じゃないが・・・おまえさん自身のためにも、そろそろ色んな平成人と接しておいたほうがいい。井坂さんを紹介しておくから、あとはうまく立ち回ってネギ自身のコネクションに育てていくんだぞ」
 自分の稼業の中身を意識すれば、万が一に備えて、有佳にはいくつかの手堅い橋をわたしておきたい。それが島崎なりに導き出した大人としての本音だった、
 「コネも実力のうち。最後まで信用できるのは自分だけだ。おれもあまり信用するんじゃない。おれにおまえを裏切る気がなくても、明日もこうしてお天道さまを拝める保障はどこにもない。ネギはネギなりに、自力で生き延びる方法を考えておきなさい」   
 かりそめの姪は、あっけにとられた。
 備中興産タイランドに足を踏み入れるやいなや、過剰冷房の寒気を裂いて、あかるい女の声が弾けた、
 「娘さんですか?」 
 ティウと呼ばれる受付嬢は物見高い。とうに二十歳を過ぎて何年もなるけれど、子どもじみた笑顔をのぞかせた。
 「姪でございますよ」
 早速方便を用いながら、島崎は純日本製の口紅を取り出した、
 「ティウは半年くらい前に経理部を辞めたコイって女の子と仲がよかったよね。彼女から頼まれていたんだ。この前、ずっとトボケていた担ぎ屋がやっと持ってきてくれてさ、アパートは大体わかるけど一応コイの本名を知りたいんだ」
 屈託がない笑顔をうかべたまま、受付嬢は、
 「ティウも知らないんです」 
 と、あっさり答えた。タイはニックネームが本名以上にまかり通っている社会である。この国の人間の名前はおしなべて長くてややこしいし、めったに用いられない苗字になると、土地の人間同士であっても舌を噛みかねない発音を強いられる代物が少なくない。何年も同じオフィスで仲良く仕事している同僚同士が、お互いに本名を知らない、などという話はザラにある。
 「それじゃ、この口紅はティウにあげる」
 「コイの部屋なら知っているから届けてあげましょうか」
 ここで素直に礼を言わないのは、ティウがこの国の厳格なヒエラルキー社会で、中間よりやや上の階層の出身者であることを意味しているかも知れない。さしあたって彼女は“一旦ためらって見せる見栄”をえらんだ。
 「縁があれば、またコイのために日本から取り寄せるよ」
 ニックネームと同じくらい、賄賂もまた、タイ社会になくてはならない潤滑油だった。恭しく合掌して、ティウは口紅をハンドバックに仕舞いこみ、業務の顔に戻った、
 「イサカさんですね」
 言いながら、内線電話をかけはじめた。井坂はめったに社長室にはいない。いつも探し出すのに骨が折れる相手だった。意味不明の言語でかわされる叔父と地元娘の会話に立ち入らず、長椅子に座ってオフィスの様子を観察していた有佳が囁いた、
 「生地は同じなんだけど、みんなデザインがちがうね」
 備中興産タイランドでは、基本的にどの女子社員も、ミントグリーンの化繊生地で仕立てた服を着ている。しかし、形は人それぞれだった。
 「この会社だけじゃないよ。どこの会社でも布地だけ支給して、あとは彼女らが行きつけの仕立て屋で好きなものを作るんだ。姐ちゃんたちにお揃いのユニフォームを着させているのは航空会社くらいのもんだろうな」
 「家族がみんな好きなご飯を買って帰るのと、なんだか似ている」
 「そう。だからこれも、タイ式個人主義の一例」
 有佳は、いちいち子ども向けの語彙を用いなくてもきちんと話が通じるので、すこぶる気楽な話し相手だった。だが、それはさておき島崎はぼんやりと思った、
 日本のように山がちな狭い国土で過密な人口を擁する社会では、一年に一度の田植えや稲刈りを村人総出で行わなければ、直接飢餓の危機に見舞われる。個人より、組織を優先しようとする集団主義が育まれる下地は、いわば必然だった。省みて、常に温暖なタイは、広い沖積平野に恵まれ、人口はさして多くない。二毛作や地域によっては三毛作が可能だから、田植えをしている隣の田圃で稲刈りが行われていても不思議はない。情報化の時代になるまで、タイ語には”餓死”にあたる言葉がなかったと言われている。ひとりひとりが好き勝手にやっていても気ままに暮らしていける社会は、成行き、個人主義を生み出した。
 自分に言い聞かせるように島崎は締めくくった、
 「タイ人は、日本人とは根本的に考え方が違うんだ。同じ物を観ていたって、見え方がまるっきり違うんだよな」
 受話器を置いて異民族の女が面をあげた、
 「イサカさんは裏のガレージにいます」
 トラフグを思わせるがっしりした体格の初老男が、汗まみれになってトラクターショベルのエレメントを交換していた。肥満が災いして、ワイシャツがびしょ濡れだった。
 「エア抜きやるんだったらおれも手伝おうか、社長」
 備中興産タイランドは、建設機械のリース業務も手掛けている。
 「なんや、島ちゃん、もうちっと早く来ればこき使ってやったのに。もう終わってしもうたわ」
 メガネが汗と埃ですっかり曇っている。にもかかわらず、井坂は辱知の来訪者が連れている見慣れない小さな人影に目を止めた、
 「だれや?」
 「島崎の姪の有佳です。いつも叔父がお世話になっています」
 さらりと本人が名乗り、しおらしく頭を下げた。
 「そら、女房がする挨拶やで、お嬢ちゃん」
 と井坂は言い、声を潜めて島崎に訊く、
 「なんでおまえの姪が今時分バンコクにおるのや?もう三学期はじまっているのとちゃうか?」
 「あ、・・・登校拒否。今流行りの引き篭もりってやつです」
 「とてもそんな風には見えんが。べっぴんやないの」
 大阪風の、しかしどこか不自然な上方言葉を話す岡山県人は、ふしぎそうな顔をしながら手招きして、ふたりの来訪者を通用口からオフィスへ誘った。
 「で、“えらいこっちゃ”って、何?」
 開口一番、昨日の電話に思い当たる節がないわけではない島崎は、潔く、単刀直入に切り出した、
 「あのトラブルの原因はおれだから、素直に謝ります。それとも、あっちの件かな?」
 「おまえ、わしが知らん間にずいぶんウチに損害を与えてくれてるみたいやな」
 「じゃ、何よ?」
 居直る島崎はタバコをくわえて足を組み、顎をしゃくった、
 「また、カブトガニを養殖して水族館に売ろう、なんて話しだったら乗らないよ」
 「いや、あの時は迷惑をかけた。本日の用件はそれほど大したことじゃない」
 が鳴り立てるエアコンも不足らしく、扇子を手にとり井坂はいう、
 「リースしていた建機が現場で転げてもうた。もうじき廻送されて来よるがシリンダーがごっつう歪んでいてな、型式も古いし、どないしょう?」
 社名にわざわざ「タイランド」などと銘打ってあるものだから、知らない人はこの会社が“日本に本社がある備中興産”の現地法人と勝手に勘違いする。ところが、実際はこのオフィスを本体とするローカルカンパニーだった。思わせぶりな社名は、もちろん信用を得るためのトリックである。そんなわけで、日本人スタッフは井坂ひとりきり、禁煙要求も相まって、現地人スタッフとの軋轢は日常茶飯事だ。社内にあっては孤立無援の井坂から、島崎はしばしば仕事上の相談を持ちかけられた。
 「どないしょう、って言われてもなぁ。モノは何?」
 「クローラ式のバックホウ。寸法は220。おしゃかになったシリンダーはバケットとアームの部分」
 言いながら、井坂は有佳に解説した、
 「強請屋の分際で、あんたのおっちゃんは妙に土方仕事の段取りに詳しいさけ」
 親族の前で強請屋呼ばわりしても、まったく辱めに感じさせないのが井坂の愛嬌だった。だが、島崎は刹那、絶えて久しい胃液の苦味を嚥下して、辛うじて脳天気を取り繕った、
 「まともに修理したら却って高くつくね。220なら、ざっと三百万円は見ておかないと」
 やくざ者が土木関連の知識に通じているのは、土建業界に何らかの攻撃目標を置く伏線ではなかった。いまや錆びついたひとつの情熱の結果である。井坂はそんな島崎の背景を知っているのだ、
 「“社長”は直せ、と言うておるがの」
 たとえ資本を百%負担していても、外国人は社長に就任できないのがタイの法律である。事実上の経営者ではあるけれど、厳密に言うと井坂は社長でなく、マネ−ジングデレクターという肩書だった。したがって、井坂が言う社長とは、ビジネスパートナーのタイ人を指している。人生の中盤を大阪で送った井坂の言葉に、すこし山陽道の調子がのぞきはじめた。相手から否定的な意見を引き出したいとき、この実業家は決まって子供時代の口調になる。
 「廃車にしちゃおうよ。新車を買ったほうが結果的には安く上がる」
 満足げに井坂は頷いた、
 「長期的なコストをとるか、目先の出資を低く押さえるか。そこいらへんの損得勘定が日本人とタイ人ではずいぶん違ってくる」
 業務上の決定権は、タイ人の名義社長でなく、井坂にあった。
 「解体するのもしんどいわ。なにしろ戦車みたいな鋼鉄の塊さけ」
 嘆息をおさえて井坂は言った、
 「島ちゃん。おまえが捨てて来てくれ」
 「あ?なんでおれが?いやだよ、寝覚めがわるい」
 「子犬や子猫を捨てるわけじゃない。おまえも廃車にしたほうがええ、って言ったろ?これはビジネスや。処分料なら払うよって」
 「おれは産廃業者じゃないんだけどな。ま、他ならぬ社長の頼みじゃ断るわけにもいかん。お引き受けしやしょう」
 「恩に着る。ほな、手数料はいつものように小切手で月末までに用意しとくわ」
 日本で言えばこれは不法投棄の類いである。厄介な役どころを島崎に押し付けて、井坂にとって最大の案件は片付いた。
 運ばれてきたコーヒーで一息ついて、井坂は島崎の隣に座る有佳をみた、
 「ユウカ、言うたら、タイの女の言葉で“居ます!”って意味や。この国じゃ、ごっつう存在感のある名前ですな」
 在留邦人ならではのオヤジギャグをまじえた世辞に、島崎は妙に感心した。とは言え、煙のように昭和から消えた有佳がバンコクに現れた理由を、こんな駄洒落で解明できるなどとは到底思えなかった。
 「じつはね、社長」
 身を乗り出して、島崎は言った、
 「この有佳のことなんですが、知ってのとおり、おれ、こんな稼業でしょう。いまのところ自分のアパートに泊めているけど、この先、何日も部屋をあけなければならない状況が出てこないとも限らない。そんな時、まことにすまんのですが、姪をご自宅で預かって戴けないでしょうか」
 ここまでけじめをつけるのは島崎の義務であろう。井坂も誠実に面持をあらためた、
 「そんなに忙しかったら、横浜の姉ちゃんにええ格好したりせんで、日本に帰すことを考えるが筋やろが」
 「それが出来たら苦労はない。いろいろ込み入った訳があって、しばらくこの子をバンコクに置いておかないといけないのです」
 「ふうん」
 黒いベタ印刷に癌の警句がストレートに書かれたタイ仕様のマイルドセブンを取り出して、井坂は紫煙をくゆらせた、
 「そらウチのマンションなら、高校進学でついこの前帰国した娘が使っていた部屋が空いているよって、島ちゃんの姪やったら女房も歓迎するやろ。こちらはかまわへんけどな」
 井坂は念を押した、
 「でも、嫁はんには相談したの?」
 「・・・嫁はん?」
 有佳が鸚鵡返しして、島崎を見上げた。
 この機微に関しては、まったく申し合わせができていなかったけれど、即興の二枚舌は冴えていた、
 「じつは隠し子なんです!」
 島崎はおいおい泣きはじめた、
 「学生の時、行きつけのスナックのママとのあいだに出来た娘なんです。だから、とてもかみさんには頼めませんや。殺されちまう」
 「酒も飲まんのに何がスナックや。そやけど、東京じゃハゲタカがカナリヤを生むんかいの?」
 涙を流すことなく、おいおい泣いてみせる企業ゴロの私的な告解には、それなりの説得力が伴っていたらしい。めまぐるしく変わる自分の境涯に呆然とする娘を哀れみながら、井坂は新しい提案を持ち出した、
 「それじゃこうしよう。有佳ちゃんを貸してくれ」
 「はあ」
 「子供服のモデルを探しとった。秋に日本のマーケットで売り出すプレステージシリーズ。ところが今の時代、可愛らしい子は大勢いるんやけど、こういう品の佳い子となるとなかなか見つからんのや」
 「あははは。なるほど。やっぱりこいつ、“現代モード”ではありませんか」
 合いの手に含蓄された深い意味など露知らず、井坂は有佳に直接スカウトをかけた、
 「どや、有佳ちゃん?再来年にオリンピックがひらかれるオーストラリアのシドニー、知ってるやろ?」
 「え?あ、はい・・・」
 モントリオールオリンピックの興奮を引き摺る少女は、ぎこちなく頷くよりほかになかった。
 「撮影地はシドニーや」
 重大なことを思い出し、島崎は初老男と少女のあいだに割り込んだ、
 「いや、それはならん!」
 「なんや、島ちゃんには訊いてへんで。そういう科白は将来有佳ちゃんを貰いに来る若造に言わんかい」
 「そうじゃない。井坂さんのお言葉はまことにかたじけないが・・・実は有佳はお眼鏡に適った通り、もともと東京のオスカル・プロモーションのモデル部に所属しているのです。事務所を通さず、勝手に仕事をとったとなると慰謝料も渡していないスナックのママさんの家にべらぼうなペナルティの請求書が送られてくる。おれは男の面目を失ってしまう」
 「おまえには面目なんか始めからありゃせんで」
 日本並みのギャラを払っていたら、ローカルベースでやりくりしている井坂の会社は経費倒れになる。諦めるよりほかになかった。
 でまかせは効を奏したが、島崎の脳裏では、まったく別の憂慮が駆け巡っていた、
 ___オーストラリアって言ったら、外国じゃないか・・・
 冴木有佳は、パスポートを持っていなかった。紆余曲折をまじえながらも、ひとまず井坂は有佳にいつでも安住の地を提供すると約束してくれた。アルバイトのおまけがついて、当初の目的は達成された。オフィスを出て駐車場へ回ると、島崎は言った、
 「あの社長は以前、バンコク某所のフードセンターで“桃太郎のきび団子”を発売して、さっぱり売れなかったことがある。おれも売り子に借り出されたが、十日間で客が四、五人しか来なかった。しかも、お客は全員、名前がわかっているやつばかりと来たもんだ」
 「ふうん」
 気もそぞろに有佳は相槌をうつ。
 「まともなビジネスマンなら、あんなものをこの街で売ろうなんて思いつかないぜ。ようするに常識がないんだな、あのオッサンには」
 「そうなの?でも、康くんだって一緒に売ろうと頑張ったんでしょう?」
 「しまいには押し売りだよ。日本企業を一軒々々まわってな。おれも馬鹿だった」
 気を取り直して島崎は教員風にいった、
 「きび団子が売れなかった原因というのは、犬だった」
 「イヌ?どうして?」
 「うん。桃太郎の家来のイヌ。そいつが商品のイメージダウンに一役買っていたんだ。タイじゃ犬の社会的地位が低いんでね」
 歩道の上で、野良犬が眠っていた。ブタの丸焼きみたいな格好で道端に寝そべっている姿は見るからに情け無い。
 「犬が食べるようなきび団子を人間様が食えるか、ってのがタイ人の言い分だった」
 「じゃあ、康くんが大好きなのらくろも可哀想ね」
 すくなくとも、タイのコミック界ではのらくろが活躍する猛犬連隊など通用すまい。
 「ある小学校で日本の昔話を題材に劇をやることになってな。ひとつのクラスでは、出し物が桃太郎になった。ところが配役を決める段階になって問題が浮上した。面白いぞ。まず猿が決まったんだ。猿はタイの守護神だから人気があるんだ。それから主役の桃太郎、キジ、お爺さんとお婆さん、それから悪玉の鬼まで決まったのに犬だけはなり手がいなかったんだ。自尊心から、みんな厭がるんだ。それで担任の先生は悩みぬいた挙句、犬の代わりに象を桃太郎の若い衆に加えたんだ。ふざけやがって、だいたい岡山県に象なんかいるのか」
 「ナウマン象は?」
 「いたかも知れない」
 壊れた建設機械が運ばれて来た。状態を確認して運転手を呼び、スクムビット通り101/1ソーイへ廻送の手配を済ませると、島崎は同行者をともなって備中興産タイランドを後にした。バス停に向かう道すがら、冷めた声色で有佳がきいた、
 「康くんは結婚しているの?」
 そこはかとなく気まずさをおぼえて、島崎はぶっきらぼうに返事した、
 「別居中」
 「それはなんとなくわかるけれど、どんなひと?」
 「優しい女だよ。犬と猫に対してだけど」
 「この国のひと?」
 「うん」
 「それじゃ珍しいひとなんだね、犬をかわいがるなんて」
 「頭がおかしいんだよ。泊まっていたホテルで、他の宿泊客から生まれたばかりの子猫を後生大事に引き取ったこともある」
 「ほかの宿泊客って、十四階のフランス人のこと?」
 「うん」
 「どうしてべっきょしているの?」
 「一緒にいたら、いつか、どっちかがどっちかを殺すだろう」
 根本的に考え方が違う。同じ物を観ていても、見え方がまるで違う。意見の食い違いによる軋轢は日常茶飯事だ。鬱積した苛立ちがもたらしかねない殺意への危惧は、島崎にとって、粉飾のない本音だった。
 「そのひとのこと、愛していないの?」
 「よくわからない」
 有佳の視線は遠くの路面に注がれていた、
 「ここは、未来なんだよね」
 索然とした調子の独り言がこぼれた。
 自分に連れ合いがいると知って、有佳の態度がよそよそしくなったのは、如何に思春期の記憶がぽっかり空洞になっているような島崎といえども百も承知だった。
 「“山小屋効果”って、心理学用語がある」
 大学生を諭すように、色恋沙汰に疎い男はいった、
 「日常の生活から切り離された場面で出会った相手にさ、突拍子もない好感情をいだく、つまり“錯乱”を指す言葉らしい。部案内な旅先や危険に見舞われた時なんかにも、まま同じ現象が起きるそうだ。ところが、いざ普段の暮らしに戻ってみると、金輪際顔も見たくない相手だった、なんて笑い話もざらにある」
 数台のバスに群がる人々は、神妙な面持で佇む男と少女がかかえる葛藤など知る由もない。日本語もまた、この社会から隔絶された空間を生み出す不安定要因だった。






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