* この物語はフィクションであり、登場する人物、企業、
団体、一部政府機関の名称は架空のものです(著者)。




第一話



  【プロローグ】


 しばしば説明のつきにくい事件が起こるのは、この街の日常だった。

 仏暦二五四0年(平成九年)十一月下旬。
 バンコクは来年の豊饒を祈願する灯篭流し(ローイクラトン)の宵を迎えていた。
 長い雨季が終わろうとしている南国の王都は、はげしい夕立に見舞われた。オフィスでの勤めを終えた人々は面食らい狭い歩道に雨宿りができそうな軒先を求めて右往左往する。その一方で、これから仕事にかかろうという露店の売り子たちは、雨などお構いなしに屋台骨を組み立てていた。
 アメリカの機関投資家グループが仕組んだ金融攻撃によって国家経済が破綻したばかりの折も折、周章狼狽する人とそうでない人が、そっくりそのまま色分けされている。すっぴん顔で沿道につらなる淫蕩な仕事場に向かう女たちの足取りもふてぶてしい。普段着のTシャツをずぶ濡れにしながら出勤していく。ローイクラトンは彼女達にとって、店が貸衣装屋から調達したきらびやかな民族衣装・チュッタイで着飾るハレの日ではあるけれど、営業前の憮然とした面構えはいつもと何ら変わらない。暮れなずむビルの谷間で、ぼちぼち点灯をはじめる土産物屋の裸電球の黄色いあかりが投げやりな女達を索然と出迎えていた。
 パッポン通りは、東西に併行してはしる南側のシロム通りと、北側のスリウォン通りを縦に結ぶ、全長百メートルほどの短い道路である。道幅は、一坪の露店が狭い通路を保って八軒ほど横に並べられるくらいある。日中は堅気のオフィス街、ところがこれから夜更けにかけて、いぎたない欲望と駆引きが渦巻く東洋一の花町へと趣を一変させる摩訶不思議なストリートだった。
 日本人が経営するサリカ茶房は、パッポン通りと丁字路で結ばれるスリウォン通りに面して建っていた。水滴がしたたれ落ちるガラスに眠気を誘うような二重瞼が映っていた。
 島崎康士は、この王都に住み着いて五年になる。
 日焼けした三十男の横顔はげんなりと痩せこけ、床屋嫌いをうかがわせる散切り頭と相まって、厭世的な酷薄さが色濃く刻み付けられていた。風貌は、右の眦にはしる古い切り傷が肉食動物系の人相を引き締めているけれど、ほかは特徴らしい特徴に欠けていた。この街に住み着き、どんな生業で糊口をしのいでいるのか傍目によくわからない人種にありがちな顔つきと言っていい。不景気の上に居直り切った面差しで街の二重人格ぶりをまざまざと映し出すトワイライトタイムを見詰めていた島崎は、我に返ってざんばらに刈られた頭を掻いた。黒皮のサンダル履きに善良な趣の白いポロシャツと褐色のコットンパンツの取り合わせが見るからによそよそしい。テーブルの上には冷めた珈琲といっしょに食べかけのチョコレートパフェと、二百字詰めの原稿用紙が数枚、白紙のまま置かれていた。書き出しの文節がなかなか決まらない。真面目な顔で甘いクリームをひと匙口へ運ぶと、島崎は思い出したように胸ポケットから一枚の小切手を取り出し、しみじみと眺めた。在留邦人に読まれている「サイアム新報」の契約記者、それが彼にとっての唯一社会に通用する肩書だった。たったいま会社から小切手で受け取って来たばかりの原稿料は文字通りの雀の涙。せいぜい、ないよりマシ、と言った程度であったけれど、仕事はこなしていかなければならない。難しい顔で推敲を再開すると、隣のテーブルで地元の女と男が痴話喧嘩をはじめた。かしましいばかりでまるで無価値な会話は言語の周波数を調整しないで聞き流していると、まるでネコとヒツジがデュエットしているようにも聴こえる。気が散って仕方がない。おもむろに、賞味期限を過ぎたマシュマロのような人影を路上にみとめると、三流記者はペンを止め、原稿用紙をそそくさとディパックへ引っ込めた。
 「おう。島ちゃん、しばらく連絡がつかなかったけど、どこへ行っていたのや?」
 黒っぽい長袖シャツを着た丸刈りの男が人好きのする笑顔を浮かべながら店に入ってきた。恵比寿顔というやつだ。島崎とほぼ同年輩の男の名前は鈴木隆央という。彫りかけて挫折した櫻吹雪の刺青を人目から避けるため、こんな暑い国でも年がら年中長袖の服を着ていなければならない不自由な身の上である。
 「ペナン」
 ぶっきらぼうな口調で島崎は答えた。
 「ふうん。査証の更新か」
 ペナンにはタイの領事館がある。この国に住む日本人がアンダマン海に浮かぶマレーシアの観光地へ赴く用向きといえば、たいがい査証の更新だ。
 「なにか、面白い話し、あったか?」
 この男の言う面白い話しとは、取りも直さず金儲けである。
 「ぜんぜん。南バスターミナルから長距離バスを乗り継いで行ったから、くたびれた」
 「せこく切り詰めて、いちばん安上がりな旅行やな。おれみたいなハイソにはとても真似のできん芸当や」
 「べつに倹約しているわけじゃない。文筆家は常にイマジネーションの涵養を怠ってはならんのだ。つまり、霊的な啓示を求めて旅をしたというわけ。わかるか、野暮天」
 霊的という言葉に鈴木は耳をそばだてた、
 「おまえ、どこかの拝み屋に嵌っとるのとちゃうか?」
 車窓で移ろう熱帯雨林と湿原の風景が見たかった。単調な景色の色彩は、ささくれ立った現実から逃れようとする者に、好ましい安寧をもたらした。だから、島崎は陸路の国境越えを選ぶ。しかし、鈴木のような拝金主義者に哲学的な回答を試みても時間の無駄である。
 「冗談だよ。おれもこの街の住人だからな。神も仏も信じちゃいない」
 島崎の利いた風なニヒリズムを受け流し、鈴木はテーブルの食器を無遠慮にのぞきこみ、人差し指で掬い取ったクリームを口に運んだ。
 「ずいぶん気色の悪いもの、食っているな。ところでおまえ、いま、おれの姿を見つけて原稿用紙をこそこそ隠していたやろ。ええ?」
 「いちいち、うるせえな。前から忠告しているだろう。そういうねちっこい性格は、決まっていい死に方をしないものだ」
 まるで気にする風でもなく、鈴木は身を乗り出して揶揄した、
 「読んだで。先週のサイアム新報に出ていたつまらん記事。何が"子どもたちに希望あふれる未来を"や。偽善者め。本当はもう一本の手で掲載無用の告発記事を書いては企業筋に因縁をつけとるのとちゃうか?どや、図星やろ。そのほうがケチくさい原稿代より遥かに実入りがええさかい」
 この街で、おれの所得明細をいちばん正確に把握しているのは、この男かも知れん、と島崎は内心苦笑いした。
 「大きなお世話だ。おまえにとやかく言われる筋合いはないよ」
 「おのれが渡世で恥をかかんよう、親切で言うてやってるのに」
 鈴木は、パッポン通りと併行して日系飲食店が蝟集しているタニヤ通りの雑居ビルで、あやしげな商事会社を経営していた。およそ品位と知性に縁遠い男に違いはなかったけれど、それでも時々、荒っぽい金儲けの才覚を発揮してみせる怪人物だ。近ごろの羽振りは、決してわるくはなかった。過去を問わない仲間うちの仕来りゆえ島崎も確かめたことはないけれど、鈴木が以前、関西系の広域暴力団でチンピラをやっていたのは確からしい。いずれにしても、付き合って損するより得することのほうが多ければ、殊、異国の地では立派な友達たりうるものである。気を取り直して、島崎はようやく今日の会合について訊いた、
 「ところでアルバイトがある、って聞いたけれど、内容は?」
 鈴木は飲み物の注文をすませて言った。
 「いつも通りの、追い込みや」
 日本で返すあての無い借金を背負い込み、計画的にタイへ逃げて来る手合いは、どういうわけか、少なくない。そんな債務者を捕まえて債権者に引き渡す仕事はけっこう商売になっていた。
 「トバシ屋の内輪もめ。新宿の売りセンから長野のほうに飛ばした女の代金を若いやつが持ち逃げしてな。同じグループのオッサンたちが血眼になって探していたのや」
 ___こいつの会社って、普段はいったい何を商っているんだろう?
 今更ながらに、島崎は怪訝に思った。
 "じゃぱゆき"と総称される商売女を、彼氏などと偽って、タイから日本へ連れて行く非合法な稼業がある。隠語で「馬」と呼ばれる運び屋だ。
 しかし馬の中にはかくべつ悪辣なのがいる。分け前を餌に一旦然るべき顧客のもとに"納品"した女と、あらかじめ示し合わせて脱走を手引きし、他の店に転売して、二重の利益を貪ろうとする。そんな、裏社会の人間をも平気でたばかる際どい連中を「トバシ屋」と言う。合法と非合法の狭間で生きる島崎は、この程度の知識の持ち合わせに事欠かなかった。説明は続いた、
 「それで、坊やには女がいる。パッポンのゴーゴーバーで働いているんやけど、ずべ公のやつ、五百バーツ握らせたら、唄ったわ。色男は今夜店へ会いに来るらしい」
 金を持ち逃げしている若者は、おそらく数万バーツ単位の金を女に貢ぐため、訪ねて来る気でいるのだろう。単細胞な日本男児の心理など、島崎にも、鈴木にも、自身が同類だけに手に取るようにわかる。ようするに、獲物は少なからず現金を持っている。こうなると、目先の五百バーツで、本来受け取るはずだった数万バーツの権利を債鬼に売り渡してしまった田舎娘こそよい面の皮であろう。
 「今夜の仕事は何人で仕切るんだ?」
 おろかな商売女に同情する義理はない。数万バーツの分け前を皮算用しながら島崎は訊いた。
 「クライアントはもう店で待ち構えておる。したがって我が方は店の前と、シロム側、スリウォン側にそれぞれひとり。都合三人だな。あとのひとりはもうじき来るやろ」
 首実検に備えて、青年の写真が一葉テーブルに置かれた。旅客機のキャビンで撮られたもので、本人はやがて訪れる運命の暗転を皮肉るように屈託無く笑っていた。
 「名前は戸川建二。年齢は当年とって二十二歳」
 そしてインチキ商事会社の経営者はおもむろに切り出した、
 「島ちゃんには大学の空手部出身という噂がある」
 「そんな噂、おれは聞いたことがないね」
 「火のない所に煙は立たん、と昔の奴らも言うておる。それでな、持ち場は店の軒先を頼むわ」
 揉み合い確実な役どころを割り振る鈴木の抜け目のなさに、島崎は間延びした調子で切り返した、
 「特別手当をもらうぞ。出し惜しみすれば、おれの鉄拳は迷わずおまえの肝臓にのめりこむ」
 元空手部員の噂は別にしても、島崎には武芸者らしい古風な直観力が備わっていた。背後に人の気配を察知したのは、鈴木に静かな恫喝を与えた直後だった。
 「心強いね。島ちゃんがいるなら千人力じゃん」
 鈴木に語りかける横浜訛りに、振り向く島崎はげんなりした声色で横槍を入れた、
 「あらま。第三の男は武藤さんか」
 定刻よりだいぶ遅れてあらわれた三匹目の猟犬は、武藤という、鈴木と同じ雑居ビルの一階テナントでゴルフ用品店を営んでいる中年男だった。タイ・バブル全盛の頃はサイアム新報に毎週広告を出すほどの事業家だったけれど、時節柄、こんないかがわしいアルバイトで食いつながなければならなくなったのだろう。島崎は陰険な口調で挨拶を締め括った、
 「この前の仕事のギャラ、どうなったの?まだもらっていないよ」
 武藤の垂れかけた眦に気まずい狼狽がさした、
 「ああ、島ちゃんが売り捌いてくれたゴルフ場の会員権な。あれ、買ってくれた会社がその直後に不渡り出してさ、残念ながらついにカネに化けなかったのよ。すまん、すまん」
 羽振りのよい観光客は一目で判る。しかし裏通りに位置しているわけでもないのに、サリカ茶房に集う日本人客はどれも不景気な在留者ばかりだった。吝嗇の神に見初められ、冴えない口調で腹芸を交し合う三人の猫背姿は、虚しく賑わう店内の風景に自然に溶け込んでいた。内心で舌打ちし、軽はずみな取り合わせを悔む仕切り役は、島崎と武藤の間に割って入った、
 「まあまあ、そちらの話は余所でしてくれなはれ。今日は別のお仕事や。楽しいスポーツのお時間だっせ」
 「何を言いやがる。追い込みはスポーツか?」
 「ごもっとも。島ちゃんのおっしゃるとおりや」
 不自然なくらい、しきりに島崎の機嫌を取り結ぼうとする武藤は、落ち着きなく目配りして鈴木の積極的な発言を促した。
 「島ちゃんと武藤さんの取り合わせは今夜が初めてですがの、ふたりとも、私とはこれまで何度もいっしょに仕事させてもろうたこの道のベテランやから、細かな作戦は省いてしまっても宜しいな。あんじょう頼みます」
 「こら、鈴やん。戸川ってやつを追い込むのは今日が初めてじゃないか」
 「そうだ、そうだ。手を抜くな。戸川ってのは、どんな奴だ?」
 武藤はあくまでも島崎の尻馬に乗っていた。
 「これやから関東の者はまどろっこしくてかなわんのや・・・」
 毒づきながらも仕方なく、鈴木は分かっている範囲で戸川建二の性癖や服装の趣味を話した。そして作戦の簡単なおさらいを済ませると、配置が最も遠い武藤から順番に持ち場へ赴いた。武藤の後姿を見送りながら、鈴木は島崎の二の腕を掴み、小声で訊いた。
 「なあ、島ちゃん。おまえ、武藤のオッチャンにコミッションをちょろまかされたんか?」
 面白いわけもなかったが、さして未練がましさを匂わせることもなく、島崎は薄ら笑いをしのばせた、
 「あの様子じゃおれの取り分、すっかり使い込まれているね」
 淡白な答えに、鈴木は喫茶店の事務室の扉を見ながら商人口調でいった、
 「福原さんに事実関係をたしかめてみますか?」
 バンコク郊外に問題のゴルフ場を経営しているのは、福原という、このサリカ茶房のオーナーだった。つまり、在バンコクの日本人渡世人のあいだでは相当の実力者に位置付けられている人物だ。
 「無駄だよ。こちらの大親分にとっちゃ、武藤は荒っぽい裏稼業の右腕だぞ。それにひきかえ、おれは店の売上にしか協力していない。どっちが可愛いって訊かれたら天秤にかけなくったって答えはすぐに出る」
 利害関係は複雑だった。福原や武藤と同じタニヤの住人である鈴木は、割り切った提案を持ちかけた、
 「それじゃ明日にでも武藤を追い込むか?いくら可愛くても、武藤の私闘に首を突っ込むほどここの社長はオツムの弱いジジイやあらへん」
 寝技が通じなければ、実力行使すればいい。福原に限ったことではないが、鈴木が言う通り、この街の日本人社会には、正面攻撃を受けている配下を庇い通そうとするボスなどいなかった。
 「今日の味方は明日の敵か。まあ、いそがなくてもいい。肝は小さいけれど、武藤サンにはまだ利用価値がありそうだ」
 島崎は余裕を見せて深追いを差し控えた。
 「しかし、ものオヤジに店を畳む気配があったら教えてくれ」
 「おれもそれまで待ったほうが得な気がするわ」
 「・・・じゃあ、おれは行くぜ。社長」
 スリウォン通りに陣取る鈴木にチョコレートパフェの文字が躍る伝票を押し付けて、島崎は足早にサリカ茶房をあとにした。雨はあがっていた。歩道を行き交う人々の中にラフないでたちの白人観光客の姿が目立ち始めている。すこし風もあり、いくぶんかさわやかな気分になれた。脂ぎった魔都をだしぬけに襲った驟雨は、あるいは腐臭とむかつくような瀝青のにおいを束の間封じ込める、一服の清涼剤だったのかも知れない。喧騒と享楽の巷を泳ぎながら島崎は、ふと、そんなことを考えたりした。
 すえた体臭とやかましいロックがひしめく露店の間に錯綜し、パッポンはいつも通りの賑わいを見せていた。金融危機もここでは無関係である。むしろ法外なバーツ安を当て込んで遊びに来た外国人の姿がひときわ目立つ。タイ人はしたたかな国民である。彼らにしてみれば、まさに鴨の大群だった。
 戸川は女と約束している八時になっても現れず、腕時計の針はそろそろ九時になろうとしていた。
 「オンナ、キレイ」
 ゴーゴーバーの軒先に長々と佇む島崎の傍らに、初老のポン引きの姿があった。雌鶏(女)は要らない、と答えると、ポン引きは頷いて退き、間もなく一見してニューハーフと解る厚化粧の若衆を連れてきた。男色家と思われたらしい。
 「取り込み中だ、って言ってるんだよ。あっちへ行け、不潔なやつらめ」
 ひとしきりタイ語でわめいた刹那だった。ふとシロム通りの方角に目を遣ると、人ごみの奥から、何も知らない面持の待ち人がふらりと現れた。
 「戸川クン、ですね?」
 きょとんとした面持で、若者は、
 「いえ。た、タナカですけど」
 と、うそぶいた。かくべつ物怖じした様子はない。
 「とぼけるんじゃないよ」
 島崎が腕を掴みかけると、何を思ったか、戸川は突然ナイフを抜いて体当たりを食らわせてきた。おっとりした見かけとは裏腹に、ずいぶん直情的な凶暴ぶりだった。
 こんな相手と向き合うと、島崎にもどす黒い官能が五感に充溢する。突き出された腕を素早く小脇で挟みこみ、相手の鳩尾に拳骨をのめり込ませ、身を翻して横っ面へ回し蹴りを加えた。ゴム鞠のように若者は、濡れそぼつアスファルトの路面に叩きつけられた。勝負はあっけなかった。野次馬に余裕を示し、役目を済ませた加虐者はタバコに火を点けてシロム通りのほうから漸近して来る手筈になっている武藤の到着を待った。分け前を受け取り易いよう、捕縛の仕事を残しておいてやるのが島崎流の仁義だった。
 だが、やおらどよめきが上がった。
 戸川は完全にグロッキーしたわけではなかった。恐慌状態に陥ったまま尻餅をつく若者の手には、38口径のリボルバーが炯っていた。震えながらも銃口は島崎へ向けられていた。相手が興奮している以上、本当に撃たれかねない。島崎は横目に半ズボン姿のビール腹をみとめ、咄嗟にフライドチキン屋の人形とよく似た老いさばらえた白人男に腕を絡げ、楯にとった。
 「オウッ、へイブンっ!」
 悲痛な叫びが、濁りきった夜空に吸い上げられていく。じたばたする巨体を、中肉中背の外観に似つかわしくない力で抱きかかえ、島崎は真正面からゆっくりと、戸川ににじり寄り、激烈な怒声をはなった。
 「オモチャを捨てろ、坊主!38口径がこの胴体を貫通すると思うかっ!」
 「ノウっ!セット・フリーミーっ、ユー、プリーズ!」
 窮鼠猫を噛む、という。戸川は絶叫した、
 「来るんじゃねぇっ!ほんとうに撃つぞぉっ」 
 間合いを詰める四足獣の耳に撃鉄の引かれるかすかな音が届いた。
 「チェックアウトや、坊や」
 戸川の後頭部に、ぴたりとピストルの銃口を押し当てながら、鈴木が言う。いつの間に現場に駆け着けていたのやら、つくづくこの男はキツネだ、と呆れながらも島崎は鈴木に揶揄をこめて言った、
 「それを言うならチェックメイトだろうが」
 抵抗を諦めて、若い男は力無くリボルバーを手放した。
 「こんなところでインテリ風ふかすな」
 悪びれもせず、鈴木はいった、
 「おまえ、本当に血も涙も無い男やな。無関係な通行人を弾除けに使うな。見てみい、毛唐のオッサン、可哀想に失禁してるがな」
 思い出したように島崎は、
 「サンクス、フォーヨアコーポレーション・サー」
 と慇懃に礼を述べて、ぐったりする観光客を解放した。 
 興奮から一転して放心状態になった若者はそのまま店の中で女を人質にとっていた二人の男に引き渡された。オレンジ色のチュッタイにクリーム色のサバイを巻きつけた娘は、胡乱な異国の男達に囲まれ、うつろな眼差しで涙ぐむばかりだった。
 「こら。クソガキ、女を売った銭、どこへやったんや」
 情婦の前で戸川建二は情け容赦なく詰問された。ニューヨークやロンドンはいざ知らず、バンコクの日本人社会はめっきり関西人の世界である。東京生まれの島崎は、上方生まれの同国人が発する言葉のイントネーションに接して、時々異邦人の自覚を思い出した。
 「使ってしもうたんなら承知せんで。おのれのハラワタ売ってでも工面したるわ」
 先刻までの凶暴さは何処へ行ったのやら、ボックスシートで涙を流して俯く若者は、父親くらいの年配者から受ける無情な恫喝に成す術もない。手持の現金、換金価値がある携帯電話と貴金属、パスポートまで取り上げられて、一方的に小突き回されていた。タイやチャイナの組織じゃなし、よもや本当に戸川が内蔵を抜き取られるようなことはあるまい。おそらくは、内地の肉親がわけもわからず弁済させられる運びとなって、この一件は落着するはずだった。言葉の調子からして戸川は関東地方の人間だった。島崎は思慮の浅い倅を持ってしまった戸川の親が不憫に思えなくもなかった。しかし安易な同情は滑稽以外の何物でもない。今日は罠を仕掛ける側でも、明日は仕掛けられる側に回っているかも知れない。猟犬役と獲物役。役者がめまぐるしく交代するのも、この裏町では決して珍しいキャスティングではないのだ。
 鈴木は依頼人から約束通り没収した現金のうち、半分を回収して来た。
 「案の定ぎょうさん持っていたわ、小僧のやつ。片岡のおっさんからしめて五万五千バーツ貰うた。今日は島ちゃんが大手柄を立てたさけ、二万やっても異存ありませんな」
 トバシ屋のボスは片岡というらしい。島崎にとっては初めて聞く名前だったが、それ以上の関心もなかった。鈴木は言いながら天下の往来で二十枚の千バーツ紙幣を島崎に押し付け、残った紙幣を出番のなかった武藤と均等に山分けすると、
 「それでは、おふた方、コミッションを二割ずつくれなはれ」
 したたかにグループの仕来りを持ち出した。通行人が手向ける奇異な視線をまるで意に介さず、あけっぴろげな清算が続けられた。
 「まいど、おおきに」
 結局一番稼いだのは元締めの鈴木だったけれど、島崎は弾除けに用いた白人男のポケットから、どさくさに紛れて分厚い財布を掏り取っていたので不服はなかった。
 「なんの。また何かあったら、声をかけてね」
 丸儲けの武藤はさわやかに言うと、島崎がゴルフの会員権について蒸し返すのを警戒してか、辺りの人間に肩を当てながら足早に立ち去った。
 「・・・疾風のように現れて」
 「・・・負けそうになったら去って行く」
 哀れむような笑顔を見合わせ、腕まくりした客引きが寄り集まる街路の縁をそぞろ歩きはじめると、鈴木がいった。
 「なあ、島ちゃん。こんどの土曜日、時間あるか」
 ローイクラトンの宵である。チャオプラヤへ向かう人波が混ざりこみ、シロム通りはいつも以上の賑わいを見せていた。そんな巷を、暖かい湿ったビル風が複雑な生活臭を乗せて吹き抜けた。バナナの葉で編んだ船体に蝋燭を立てた灯篭を抱えてよろめく子供に道を譲り、島崎は酷薄な眼差しで鈴木を省みた。
 「どんなアルバイトだ?」
 出荷された鶏の屠体に涙するブロイラー業者はいない。戸川の運命は、すでにふたりの関心事から除外されていた。
 「ちゃうちゃう。ペッブリ通りに新しいソープランドが出来たのや。冷やかしがてら行ってみるか」
 臨時収入があるとすぐにこれである。
 「享楽主義者め。少しは利口なやつだと思っていたが、所詮は貴様もこの街でとぐろを巻く低俗な日本人の一匹よ。貯蓄という思想をからきし持ち合わせていない」
 「その低脳爬虫類が持ち込んでくるアルバイトを生計の足しにしているおのれはいったい何様や?」
 ふざけ半分とは言え、島崎は互いが惨めになるだけ詰り合いを早々に切り上げた、
 「土曜日は忙しい。チョンブリ県へ出張せにゃならん」
 誘いを断られた男は白けた眼差しを投げ返した、
 「チョンブリ言うたら、例の脱硫装置をつけていないナントカ化学って工場か?」
 鈴木には所得明細ばかりでなく、本業の流れまで把握されていた。しかし案件は、まだここで詳細を語らうべきものではなかった。島崎はただにんまりと相好をくずして、それとなく肯定した。
 「そしてまた、サイアム新報の名刺ちらつかせるって寸法か。いい死に方せんで、そういうえげつない性格はよ」
 深追いを差し控えるタイミングは、鈴木も心得ていた。
 「いつものことやけどな。島ちゃんが酒や女の誘いに乗ってきたためしはあらへんな」
 「おれは下戸なんだよ。美味い生クリームのケーキ屋を見つけたっていうなら付き合うぜ」
 「気色悪いやつじゃの。それじゃ何か、女にも興味がないってか?」
 「そういう性格だ。まあ心配するな。モーホというわけではない」
 「つまらんやつじゃの。人生の楽しみ、三分の二は損しているのとちゃうか」
 ストイシズムを気取っているつもりはないけれど、島崎のライフスタイルは傍目にそんな風に映っているらしい。
 「謎めいた私生活でおまえらを煙に巻く。酒と女を代償に支払っても、じゅうぶん間尺の合う人生の楽しみだと思っているね」
 眉間に寄せた皺を解くと、島崎は面持をあらためて妥協案を持ち出した、 
 「日曜ならあいてるぜ」
 すると今度は鈴木がかぶりを振った。
 「日曜は無理だ。然るお方のお供でゴルフに行かなあかん」
 口上には泥臭い媚びが含まれていた。
 「ふん。何がサルオカタだ。お前にそんな呼ばれ方をするやつなら、どうせ大した黒幕野郎じゃあるめえ」
 とは言い条、虎の威を借るキツネは、数年前までの島崎とて似たり寄ったりだったかも知れない。いまのところ鈴木は名前を明かしていないけれど、"然るお方"と呼ぶ人物を島崎は把握していた。身分は大したことないものの、タニヤ界隈のやくざ者が、軽々しく与太話に名前を添えるような人種でもない。強いて言えば、島崎には、然るお方の詳らかな情報を得たいがために、鈴木を卑近な友人として歓迎しているような節があったが、コネのお裾分けに預かりたい、といった謙虚な目論見があるわけではない。それゆえに、とぼけて見せた。
 「で、今夜はこれからどこへいくの?」
 「そうだな。チャオプラヤ川で灯篭流しの見物と洒落込むか」
 それならいっそ今夜付き合おう、という提案を期待していたのかも知れない。鈴木は、まるで反りの合わない島崎の意向に頬骨を引き攣らせた、
 「悪党にあるまじき優雅な心がけや。わし、帰るな。ほな、お疲れさん」
 ひとりで遊びに行くことにしたらしい。鈴木は気ぜわしく路肩で身構えると、ちょうど客を降ろしたばかりのタクシーへ乗り込んだ。
 何となく別行動を取りたいがためのでまかせだったが、本当に灯篭流しを見物しに行くのもわるくない気がした。繁華街のネオンをあびて、鈴木を乗せたタクシーが走り去るのを見届けると、タバコをくわえる島崎は、衣料品を商う露天がひしめく狭い路上をのんびり擦り抜けながら、一キロ先の川岸を目指した。先ほどのよりか弱い風が路面を駈けぬける。台風前夜の大気の感触と、どこかが似ている。それは遠い昔の島崎が、心の底で愛してやまなかった気象現象だった。粘りきった涼風は、何時の間にかごろつき暮らしの安逸にどっぷり浸かった男にささやかな気まぐれを実行させる気力を与えていたのかも知れない。






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